振り向くと、彼はそこに立っていた。
笑みというにはあまりにも悲しすぎる表情で、そこに立ち尽くしていた。
「ゴルベーザ様……」
まるで、叱られた子どものようだった。私の名を呼んだだけで、彼は何も言おうとはしなかった。
「何の用だ」
再度、私は窓の外に目をやった。
彼を呼びつけた覚えはなかったから、彼を見る必要もないと判断したのだった。
青い空だ。
眼下に広がる雲は白く、きらきらと輝いているように見えた。
「……ゴルベーザ、様」
背後で響く声は、先程よりもこちらに近づいている。
私は、振り向かなかった。振り向いたら、空のような瞳に吸い込まれてしまうことを知っていたからだ。
操られているはずの彼の瞳は何故か『生き物』そのもので、見つめたが最後、動けなくなってしまうことを私は恐れていた。
洗脳によって支配されている人間の瞳は、磨硝子にも似た色と質感を宿し、人形じみた動きしかしなくなるのが普通だ。
それなのに、カインだけは違っていた。この男は、生き物らしさをなくさず、空の色をした瞳で私の頭の奥を覗くのだ。
「……俺は、もう、必要のない人間なのですか」
声は震えていた。上擦って、がたがたで、どうしようもないくらい形の崩れた声だった。
――必要のない?
意味が分からない。思わず、振り向いた。
「必要がないから、何も命じようとしないのでしょう?」
始めのうちは、一兵士としてしか認識していなかった。だから、細々とした仕事を命じていた。
あの女を捕らえてから数日間は、女の見張りをさせていた。だが、どこかもやもやとした気持ちを拭い去ることが出来ず、すぐに止めさせた。それ以後は、何もさせていない。
カインのことを考えていると、正体不明の感情に襲われ、息ができないかのような錯覚に陥ってしまう。だから、私は考える事を放棄してカインの事を忘れるのに躍起になっていた。
「必要がないなら、そう、仰って下さい……じゃないと、俺は」
捨てられた――そんな想いを滲ませた瞳。孤独に喘ぐ青年の声は、よく知っている声だった。
独りでいるのは辛いだろう。捨てられることは、怖いだろう。
生きる目的と温もりを失うこと。それは、とても恐ろしいことで。
手を伸ばし、薄い唇を指の腹で撫でる。久方ぶりに触れる人間の肌はぞくりとするほど温かく、同時に滑らかだった。
「……お前は、用済みだ」
今にも泣き出しそうに細められた目が、じわりと潤む。首を横に振り、「嫌です」彼は小さな声で呟いた。
「利用価値のないものは、いらぬ」
涙が溢れ、滴り落ちる。宝石のように美しい瞳には醜い私の姿が映り込んでいる。
「――――と言ったら、お前は、どうする?」
顔を近づけた。やわらかな唇が震えていた。言葉を失っている。口づけると、胸元に縋りついてその身を硬くした。
自分の行動が理解できなかった。私は今、何をした?
「……ゴルベーザ、様……」
唇は、涙の味がした。
再度私から口づけるより早く、カインは私の唇に濡れた唇を重ねてくる。
『こうしなければ捨てられる』――そんな想いが、重なりあった場所を伝って流れ込んできた。
「捨てられることが、そんなに怖いのか?」
術にかかっているだけだということは分かっている。奥深くまで侵食されてしまっている心は、抗う術を持たない。
風の匂いのする青年。陽の光がよく似合うと知っているのに、暗い場所に閉じ込めてしまいたくなる。私以外のものを見ないようにと、青い瞳を刳り抜いてしまいたくなる。
セシルを見る時は切なげに睫毛を震わせ、ローザを見る時は自嘲気味な色をその瞳に滲ませる。
だが、私を見る時の彼の眼差しは捨て猫のように見えた。
『独りは、いやだ』
頭の暗く深い場所で、幼い頃の私が泣いている。
独りは嫌だ、独りにしないで。縋りつきたいのに縋るものも見つけられず、ただただ涙を零して泣いている。
「……もう、独りは嫌です……」
いつになく幼い仕草を見せる彼の姿が、幼い頃の私の姿と重なる。
いや、あの頃の私とカインはまるで違う。何故なら、あの頃の私には何もなかったけれど、今のカインの傍には――――。
「お前には、私がいるだろう?」
胸元に添えられている、白い指先。
カインは孤独に怯えている。敵であるはずの私に縋りついてしまうほど、温もりに飢えている。
存在理由を確かめるためだけに、私に縋りついているのだ。私自身が求められているわけではない。
錆びついた胸が、ぎちぎちと嫌な音をたてて軋んだ。
息を吸う。固まった血の色をした錆が、からになっている私の心の底に落下する。
「俺はもう、用済みなんでしょう…………っん……う……」
自嘲気味に歪む唇を、塞いだ。
胸の軋みが酷くなり、錆がぼろぼろと落ちていく。思い出してはいけない感情が、歯車のように動き出す。ゆっくり、ゆっくり、カインの青い瞳の光を餌にして回り、きいきいと油切れの音をたてる。
探り当てた舌の熱さに、眩暈がした。
「……ゴルベーザ、さ、ま……っ」
側にある机の上に俯せて、後首を押さえつける。「暴れるな」と命じれば彼は大人しくなった。それでも何故か信じられず、首にある手を放せない。
青い瞳が侮蔑の色を纏っているような気がして、彼の顔を見ることができなかった。
「……っ!」
うなじに噛み付く。肉の味がした。自らが魔物になったかのような気がして、笑う。自らの背に走るのは、何ともおぞましい感覚だった。
「おやめ、くださ……い…………」
蚊の鳴くような声で、カインが微かな抵抗をする。
――怖い。
瞬間、紫色をした光が瞬いた。
「う、ああああああぁ……っ!!」
抵抗するな。拒むな。どうして私を拒む?
無理強いすれば拒むのは当然だと分かっているのに、服を剥ぐ手を止められない。
カインが首を振る。金の髪が乱れ、薄く汗が滲む。嗚咽に続くのは、悲鳴だ。
探り当てた体の奥の奥、打ち付ける度に机を引っ掻く嫌な音が鳴る。
愛の言葉もない。
労りの欠片もない。
愛と労り、それらがどんな形をしているのか、それすら分からない、知らない。
手を退けると、首の後ろにはくっきりと痕がついていた。そっと舐める。
こちらを向かせて抱きしめると、硝子によく似た青い瞳は見えなくなった。
荒い吐息。掠れた声で、彼は私の名を呼んだ。
「…………ゴルベーザ様、俺は……」
術にかかっている『人形』の体は、痛いほど温かくて、悲しくなるほど従順だ。
私の命令に忠実に動く『人形』は、私の心の内を読み取り、私の望むように動く。
「俺は、ゴルベーザ様の傍を離れたりしません……ずっと、一緒にいます。貴方が死ぬまで、傍にいます。いいえ、貴方が死んでも、俺は、貴方の傍に」
これが、私の望む言葉なのか。
歯車が、痛みを伴いながらぎりぎりと回る。
「貴方を――――誰よりも、貴方を愛しています」
End