夢の中に出てくる彼は泣いていて、その涙を拭ってやりたいと思うのに、私は彼の頬に触れる術さえ持っていなかった。
これは夢なのだと分かっていても、心乱され、息ができなくなってしまう。
『罪は償わなければならない。俺とお前は、同じ罪を背負っている。二人で、やり直すんだ』
そう、思い出があれば――――セシルの言葉とカインの微笑みを思い出すことができれば、生きていけるのだと思っていた。「二人でやり直そう」と微笑んだカインの表情。それから、セシルが「兄さん」と呼んでくれた喜び。それらを胸に抱いて、気が遠くなるような眠りの時を過ごすつもりだった。
だが、眠りは唐突に打ち砕かれてしまった。
魔導船の窓から見える無数の星々を眺めながら、彼らの無事を祈り続けていた。
悪夢――悪夢――悪夢。
眠る度、私は悪夢を見た。それは世界を滅ぼす夢であったり、大切な誰かを殺す夢であったり、私が過去に行ってきた過ちを見せつけられる、そんな夢であったりした。
ゼムスの呪縛から解き放たれても、私は悪夢を見続けた。
月で長い眠りにつくということは、長い悪夢を見続けるということだった。終わりの見えない悪夢。これが、私が背負うべき罪の重さなのかもしれないと思った。
「…………っ!」
息を飲み、飛び起きた。「夢か」と小さく呟き、辺りを見回す。暗いテントの中、起きている者は誰もいなかった。
視界の果て、遠く、隅の方に、金色の髪が光っているのが見えた。
『カイン』、と。唇だけで、囁くように口にする。
以前よりも遠い存在になってしまったような気がした。聖竜騎士になった彼の姿は眩く、本能的に『触れてはならない』と思う。
仲間達と共に居るカインを間近で見られる日が来るなんて、思ってもみなかった。兜で顔を隠さず青い瞳をさらけ出し、何もかもを受け入れた姿。それはあまりにも遠く、彼が私と同じ闇を持っていたとは信じられぬほどだった。
触れてはならない、目で追うことも躊躇われる。胸の奥に宿り続けていた想いを隠しながら、私は彼と行動を共にしていた。
本当は触れたくて堪らなかったけれど――――もう、彼を闇に引きずり込むわけにはいかなかった。
ごろりと横になり、瞼を閉じ、さっき見た悪夢はどんな悪夢だったろう、と考えた。だが夢は曖昧で、思い出せず、蕩けるように少しずつ微睡んでいく。
浅い眠りが体を支配し、結局、深い眠りを得ることができぬまま、朝を迎えた。
「ゴルベーザさん!」
「兄さん!」
二つの声が重なった。驚いて瞼を開くと、よく似た顔が二つ、私の顔を覗き込んでいた。
「もうそろそろ、準備しないと」
「皆、もう、朝食をとり終えてしまいました」
私の顔を覗き込んでいたのは、セシルとセオドアだった。こうして見てみると、二人は本当によく似ている。だとしたら、少年時代のセシルはこんな顔をしていたのだろうか。途端、感傷に襲われ暗い気持ちに引きずり込まれそうになり、慌てて振り払った。
「すまない」
そう言って、起き上がる。
セシルとセオドアの向こう側、やや遠くの方で、食事のトレイを持って佇んでいる男と目が合った。
「……カイン」
思わず名を呼ぶと、カインの肩は微かに揺れたようだった。
「あ、カイン。朝食を持ってきてくれたのか」
セシルが明るい声で言うと、カインは何も言わずにこくりと一つ頷いた。
カインの青い瞳と目が合う。
唇の端を上げてみる。笑顔を見せねばならない、と思った。
「ゴルベーザ……」
カインの表情が曇った。ほんの一瞬目を見開いてから、何かに気づいたらしい彼は無表情を作り直し、こちらにトレイを差し出した。
「……すまない。気を遣わせたな」
「…………いや……」
ようやっと搾り出したとでもいうような、低く小さな返事だった。顔の前に垂らされた長い金の髪が、ランプの灯りを反射してきらきらと揺れていた。
見惚れて静止してしまっていた私に、「兄さん」とセシルが微笑む。はっとして朝食を受け取ってから、もう一度「ありがとう」とセシル、カイン、セオドアの三人に礼を言った。
慌てて朝食を済まそうとする私に、
「……ゆっくりでいい。皆、各自、鍛錬をしているようだ。慌てる必要はない」
言って、カインは私に背を向けた。その後を、セオドアが追う。
「今日こそ……今日こそ、カインさんに勝ってみせます! だから、手合わせをお願いします、カインさん!」
「俺に勝つだなんて、十年早いぞセオドア」
セオドアの頭をぐりぐりと掻き回して、カインはテントを後にした。「待ってください!」と剣を持ち、セオドアは駆けていく。その二人の様子を眺めながら、セシルは嬉しそうに笑っていた。
テントに居るのは私とセシル二人だけになった。しん、とした静寂が、周囲を包み込む。その静寂を破ったのは、セシルだった。
「――――こんな日が来るなんて、思ってもみませんでした。カインや兄さんと過ごせる日が来るなんて……」
一国の王であり一児の父である彼の姿が、急に小さく見えた。まるで少年のようだと思った。
「カインが心配していましたよ。兄さんは、恐ろしい夢を見ているんじゃないかって」
「カインが?」
「はい」
カインが、私のことを心配している? それは、うなされている姿を見られたということなのだろうか。夜中に飛び起きたときは、皆眠っていたような気がしたけれど。
先程、私と目が合った瞬間、カインは表情を曇らせた。驚いた顔をした後切なげに瞼を伏せ、私との会話を拒否するように低い声を搾り出した。私は、避けられているのだ。当然といえば当然だった。私は、彼に酷い行いをしてしまった。笑いかけてもらえるはずがない。
「僕は、兄さんのことをここで待っていますね」
それきり、セシルは何も言わなかった。食事をとる私を横目で気にしながら、白魔法の本に目を通していた。
月を止めるため、私達は先へ進んでいく。どのような敵がいるのか検討もつかない道を進み、この世のものとは思えぬような魔物を倒し、最奥を目指す。
緊張しているのか皆はただ無口で、床を踏む足音が、重なって響くばかりだった。
前を歩いているカインのしゃんとした背中を、視線で追ってしまう。
そういえば、カインに話したことがあった。恐ろしい悪夢を見るのだと。
暗闇の中、独りきりで手を伸ばし、光を求める夢。手を伸ばした先には、カインがいた。けれどそれも過去のことで、今見る夢の中に、カインが姿を現すことはなかった。
今のカインは、光の中にいる。私とは別の場所にいる人間だった。
「ゴルベーザ、さん」
ひそひそ、と小さな声が、下の方から聞こえてきた。セオドアだった。その隣にいるのは、レオノーラだ。
「ゴ、ゴルベーザさんの元気が無いとセオドアさんから聞いて、来ました」
トロイアの神官見習い――――だったか。長いローブの裾を持ち、ロッドを胸に抱き、上目遣いで、
「私でよかったら、悩み事をお訊きします……!」
セオドアが、うんうんと頷いた。
「僕、ゴルベーザさんのことが気になってたんです。悩み事があるように見えて……。でも、僕にはどうすることもできないんじゃないかって悩んでいたら、レオノーラさんが僕の話を聞いてくれて……」
――――それで、二人でゴルベーザさんの悩みを聞くことにしたんです。二人は詰め寄るように近づいて、私の顔を真っ直ぐなまなざしで見上げた。
この二人に話して何になる、という考えと同時に、この二人なら私の悩みを解決してくれるのではないか、という考えが浮かんだ。私とは全く違うこの二人なら、何か客観的な意見をくれるのではないかと思ったのだった。
私の悩み。
「私の、悩みは……」
「悩みは……!?」
二人の声が揃った。
私の悩み。それは、彼の笑顔を曇らせる私の存在だった。けれどそんなことを言い出すわけにもいかず、「ある人の笑顔が見たい」と返答した。
「笑顔……ですか?」
セオドアとレオノーラは顔を見合わせた。
そう、私は彼の笑顔を見たかった。カインとは何度か目が合うことがあったけれど、私と目が合った後の彼は、いつだって悲しげで切なげだった。私が笑顔で対応すれば彼も笑うのではないかと思い必死で笑ってみせるのだけれど、彼は硬い表情をこちらに向けるばかりだった。
そうして私は、私の存在が彼の心を痛めつけていることを知った。それでも私は、彼の笑顔が見たいと思っていた。
「どうすれば良いと思う?」
問うと、レオノーラはにっこりと微笑んだ。白く小さな花のような、見ている者をほっとさせる笑みだった。
***
――――どうして、そんな顔をする?
訊きたくて訊きたくて、けれどどうしても聞けずにいる言葉を飲み込んだ。
再会した時。トレイを手渡した時。ふと目が合った時。ゴルベーザは『見てはいけないものを見てしまった』とでも言うように硬く暗い表情を宿し、その目を逸らしたのだった。
ゴルベーザにとって、俺は汚点でしかないのだろうか。
人々を操り、世界を破滅に導こうとした。それは、変えようのない事実だ。ゴルベーザは罪を償うために月で眠りにつくことを決めた。俺達は遠く離れ離れになってしまったけれど、心の底のどこかで繋がっているのだと、俺は勝手に思い込んでしまっていた。
だが、それは本当に単なる思い込みだったようだ。
『どうすれば、お前の心を手に入れることができる? ……いや、心を手に入れることができなくても構わない、私は、お前の笑顔を……私は、お前に笑って欲しくて』
ゴルベーザの言葉が蘇り、背中に、得体の知れない感覚が走った。あの時、俺はどう返答した?
思い出した。そうだ、俺はこう言ったんだ。
「……お前が笑えば、俺も笑う。それだけだ」
誰もいない広場に、声が響いた。
皆は、疲れて眠っている。俺も疲れているはずなのに、ここ最近、どうやっても眠れない。眠れないから、見張りを名乗り出た。どうせなら、他の者の役に立つ方が良いと思ったのだ。
「俺が、笑えば……」
俺が笑えば、彼も笑う? 言葉を、口の中で何度も繰り返した。では、俺はあんなにも切ない表情を彼に向けているのだろうか。俺が笑わないから、ゴルベーザも笑わずにいるのだろうか。
いや、俺は笑顔を彼に向けているつもりだった。ゴルベーザと話をする機会を持ちたくて、歩み寄っているつもりだったのに。どうしても、自然に触れ合い微笑み合うことができずにいる。
少しだけでいい。俺は、ゴルベーザに笑って欲しかった。複雑だけれど、危機的状況ではあるけれど、再会することができたのだから。
頭を振って、立ち上がった。何かが聞こえたような気がした。一体何が? 辺りを見回した。テントの中から聞こえてきたように思う。
テントの入り口を微かに開いた。
誰かの声が聞こえた。起きている者はいないはずなのに。寝言だろうか。
「……カイン……」
誰かが、俺の名を呼んだ。
「カイン」
微かな声で、けれどそれは確かに俺の名で。
「ゴル……ベーザ……?」
テントの中を覗き込んだ。ゴルベーザは眠っていて、俺を呼んだその声が寝言であったことを知った。周りを起こさぬように、彼の側へそっと近づいていく。彼は、苦悶の表情を浮かべていた。
「ゴルベーザ……」
ゴルベーザは、毎晩のようにうなされている。昨日の夜もそうだった。うなされている彼を見て、どんな夢を見ているのだろうと考えていた。以前と同じように、暗闇の中で独りきりでいる夢を見ているのかもしれない、と思っていた。
だが彼は、俺の夢を見てうなされているらしい。胸が痛くて堪らなかった。俺という存在が、彼を苦しめているのだ。
ゴルベーザの額には、汗が浮いていた。それをそっと拭い、髪を手で梳き、額に口づけを落とした。彼は眠っている。それで良かった。気がつかなければいい。
彼の唇をそっと食み、短い口づけをした。我ながら酷いことをしている、と思った。眠っている相手の唇を奪うなんて。
頭を撫でていると、彼の表情が穏やかになり始めた。
「ゴルベーザ」
彼は、変わらず眠り続けている。静かな寝息をたてだしたことに安堵し、見張りに戻ろうとした。
「……カイン……」
目覚めたのかと驚いて顔を覗く。彼は眠っていた。ただ、俺の手首を掴んでいた。指を一本一本剥がして手首を自由にした後、毛布をかけ直し、彼の頭をそっと撫でてその場を後にした。
薄暗いテントを出て、空を見上げようとする。けれど、何もない。そうだ、ここには月も星も存在しなかった。古い遺跡のようなこの場所にあるのは、朽ちて捨てられ忘れ去られた廃墟じみた光景だけなのだ。
試練の山で独りで居た頃とは、何もかもが違う。それなのに、あの頃胸に抱いていた感傷とよく似た感覚に胸を支配されてしまうのは、何故なのか。
先程まで腰掛けていた場所に再度腰掛けた途端、獣の唸り声が聞こえてきた。前を見据えて、薄暗い場所を見ようと目を凝らす。柱の陰から、何者かが姿を現した。
モルボルだ。
「く……っ!」
唐突に伸びてきた触手の巻きつきを避け、転がり、走り、テントから離れようする。応援を呼ぶことも考えたけれど、皆の眠りを妨げることは避けたかった。
「こっちだ!」
誘えば、モルボルは口を大きく開けながら俺の後を追ってきた。普通のモルボルとは色や大きさが異なっているようだ。
テントから少し離れた場所、十分な広さと高さがある所まで敵を導き、地面を蹴る。槍を振り上げ、背中に突き刺した。
獣が低い悲鳴をあげる。あと数回これを繰り返せば、勝つことができるだろう。
植物とも動物ともとれる奇妙な筋肉から槍を引き抜きながら、モルボルの背中を蹴り、もう一度跳躍した。
瞬間。ふ、と目の前が白くなった。
「な……っ」
何が起こったのか分からなかった。着地点を見失った俺は、崩れるように地面に落ちた。ああこれは立ち眩みなのだと思ったときには遅かった。寝不足が祟ったらしい。
地面に這い蹲り、けれどこのままではいけないと手をつき立ち上がろうとする。
ぐらぐらと揺れる頭を振り払うために瞬きを幾度も繰り返し、視線を前にやった。
魔物が吠える。
太い触手が伸びてきて、俺の体を捕らえた。
「う、ぐ……っ!」
地面に叩きつけられる。むせながら、必死で息を吸った。槍を振って触手を振り払おうとするのだけれど、その手も絡め取られてしまい、身動きが全く取れなくなってしまった。エスナを唱えようにも、全身をきつく締め上げられてしまって声が出ない。視界が霞む。汗が滲んだ。大きな口を開けたモルボルの口元が、にたあ、と嘲笑っているように見えた。細かく並んだ歯の隙間から、粘液がぽたりぽたりと滴って落ちる。粘液を垂らされた地面が微かに溶けていた。
普通のモルボルの体液も、ものを溶かす力を持っているけれど――――あれに噛みつかれたら、普通のモルボルとは比べ物にならない程のダメージを受けてしまうだろう。
身を捩りたい。でも、できない。痺れて使い物にならなくなった手から、槍が滑り落ちた。
モルボルの方に、体を引き寄せられる。思考が曖昧になってきた。酸素が足りなかった。
首に、やけつくような痛みが走った。
「…………っ!!」
「カイン!」
男の声に、はっとした。消えかかっていた意識が戻っていくのを感じた。モルボルの体が燃えている。立ち昇る炎の強さと熱さ。誰かが、ファイガを放ったのだ。
触手が力を失った、今しかなかった。槍を拾い、投げた。魔物の体が焼けて朽ちていく。煤になっていく様を呆然と見ながら、浅い息を何度も繰り返した。
「……カイン、無事か」
「ゴルベーザ……」
俺が投げた槍を拾い、ゴルベーザはこちらを見た。
立ち上がることができなかった。ずるり、気が抜け力を失ってしまった俺を抱き上げて、ゴルベーザは肩を貸してくれた。触れられた場所から感情が溢れてしまいそうな気がして、平静を装うため、薄紫色の瞳から目を逸らす。
「ありがとう、ゴルベーザ……」
「全く、無茶なことを……怪我はないか?」
「ああ、少しやられてしまったが大丈夫だ。これ位なら、自分で治せる」
柱に背中を預け、回復魔法を唱えた。傷痕が消えていく。立ち上がり、テントの方へ戻ろうとする。ゴルベーザは俺に背を向け、先にテントへ戻ろうとしていた。
「久しいな」と彼が言った。他愛も無い会話の中、聖竜騎士になった理由を話す。振り向いた彼の瞳を見ないように、目を逸らし続けた。
俺は、恐ろしかったのだ。深く立ち入って拒否されることを、ただただ恐れていた。
「……俺は見張りを続ける。起こしてすまなかった。お前は、もう一度体を休めてくれ」
「私よりも、お前の方が疲れているように見える。見張りを代わろう。……数日前から、お前の顔色が気になっていた。どうも、体調がすぐれぬように見えてな」
そう言われてしまえば、もう断れなかった。「ありがとう」と頷いて胸元を押さえ、心臓に『静まれ』と命令する。どく、どく、どく、と鳴っていて、酷くやかましい。ゴルベーザが俺を見ていてくれたという事実に、心が震えた。見張りをしていて寒くなったときに使おうと用意してあった毛布をゴルベーザに手渡し、槍を握り締め、足早にテントへ入る。
「おやすみ、カイン」
ゴルベーザの声が、背後で響いた。顔が熱い。防具を外し、毛布に潜り込んだ。瞼を閉じる。相変わらずうるさい心臓の音に、耳を傾けた。
過去を受け入れ、俺は聖竜騎士となった。何もかもが片付いたはずだった。それなのに、ゴルベーザへの想いだけがまとまらない。上手く振る舞えないでいる。
毛布に顔を埋めた。
忘れなければ、眠らなければ。
この想いを、捨てなければ。
でなければ、彼に迷惑をかけてしまう。
***
先程よりも冷えてきたような気がした。
毛布を肩にかけ、焚き火をすることにする。夜はまだ長い。岩に腰掛け、ゆらゆら揺らめく炎を見つめていた。
カインを助ける事ができて良かった。あのままでは、モルボルに溶かされてしまっていただろう。
一見沈着冷静に見えるけれど、カインには無鉄砲なところがある。ああいう姿を見てしまうと、余計に心配になってしまう。
私は、単なる『仲間』として上手く振舞えていただろうか。
己の姿を振り返り、自分が見ていた夢の内容を思い出そうとする。
カインが夢の中に姿を現したのは、久しぶりのことだった。彼は何故、私の夢の中に姿を現したのか。私を抱きしめて泣く彼の姿は酷く現実的で、唇に触れてくる感触も、現実じみていた。だが、所詮夢は夢なのだ。夢の中の彼は、本物とは比べ物にならなかった。
けれど、さっき抱き上げた、あの体は本物だった。悲しげに目を逸らされてしまったけれど、自分が過去に行ってきた悪事のことを思えば仕方の無いことだった。
セオドアとレオノーラが言っていたことを思い出す。
あの時、私が『どうすれば良いと思う?』と問うと、レオノーラは、『簡単ですよ、ゴルベーザさん!』と微笑んだ。『こうすれば、相手は笑ってくれるはずです』と言って教えてくれた方法は、私には思いもよらない方法で、だから、どうやってそれを実行すれば良いのかが分からずにいた。
カインは、眠ることができたのだろうか。
奇妙な魔物達がひしめくこの場所では、この先に何が待ち受けているのか、それすらも分からない。そのせいで、彼は眠れずにいるのだろうか。
彼が手渡してくれた毛布からは、彼のにおいがした。手繰り寄せて俯き、焚き火の音に耳を澄ませる。
「……ゴルベーザさん、この前の、上手くいきましたか?」
セオドアが、私の顔を見上げて言った。私が首を横に振ると、彼は細い肩を落とした。
「そう、ですか……」
心底残念そうだった。教えてもらった方法を、私はまだ試せないでいる。新しいことをするのには大きな勇気が必要で、『機会を伺っているのだ』と言い訳しながら過ごす私の姿は、酷く滑稽だった。
「まだ、試すことすらできていない。相手を傷つけてしまいそうで……それが、とても怖い」
昼食の皿に視線を落とし、セオドアは恐る恐る、という風にこちらに問いかけてきた。
「あ、あの……その相手って」
「カインさんですか?」と。「間違っていたらすみません」と言う彼はとても慌てていて、何故分かったのかと問う間もなく、「カインさんとゴルベーザさんが、お互いをそっと見ていたような気がして」と言った。
セオドアに気取られてしまうほどの視線を、彼に送ってしまっていたということか。それでは、カインが私を避けるようになっても無理はない。そこまで考えて、はっと気づいた。セオドアの言葉には、『カインも私の方を見ている』という意味も含まれてはいなかっただろうか。
「……セオドア」
「はい、何でしょう?」
「カインも、私の方を見ているということか」
「……はい。カインさんも、ゴルベーザさんのことを見ています。寂しそうな顔をして、ずっと」
周囲の者が昼食を食べ終え始めているのに気づき、セオドアは昼食をかきこんだ。
思わず、カインの姿を探してしまう。彼は、セシルと食事を共にしていた。セシルに向けられていた青い瞳がゆっくりとしたはやさで動き、こちらを見た。視線がかち合い、互いに息をひそめてしまう。咄嗟に逸らすのだけれど、もう遅い。気まずそうにしている彼の顔を見てしまった。
どうして、私の方を見る? 大きな疑問が、頭の中で膨れあがる。
「ご馳走さまでした」
言って、セオドアは口元を布で拭った。それから、とても小さな声で言った。
「僕、思うんです。カインさんも、ゴルベーザさんと仲良くなりたいから、だから、ゴルベーザさんの方を見ているんだろうなって。一度、レオノーラさんが教えてくれた方法を試してみてはどうでしょうか」
***
思い出すのは――――じっと、俺を見つめる瞳だった。
盗み見るような真似をしなければ良かった、という後悔だけが、俺の心を支配していた。
ゴルベーザは、俺が彼を見つめていることに気づいてしまったに違いない。俺がおかしな視線を送っていると、怪しみ始めただろう。
何故、目で追わずにはいられなくなってしまうのか。堪え性のない自分自身に溜め息をついて、項垂れた。
今日テントを設置しているこの場所は、見張りの必要がない場所だった。巨大な結界が地面に描かれているから、魔物は近づくことすらできないだろう。
それでも、外に出たかった。眠ることができなかった。テントからやや離れた場所に座り込み、俯いて膝を抱える。
今抱いている感情と感傷は試練の山に篭っていた頃に抱いていたものとそっくりで、心を落ち着けるために月を眺めたいと思うのに、よく分からない素材でできた天井が広がっているだけで、小さな星一つ見ることはできなかった。
ただ、切なかった。胸を焼く想いは、酷くなるばかりだ。
これは、愛なのだろうか。
それとも、恋なのだろうか。
昔何度も問いかけたその言葉を、再度、自分の胸に問いかけてみる。
答えは見えない。
痛くて苦くて切なくて、息もできぬほど苦しくて、彼を見ていると胸が詰まって、彼の言葉を聞きたくて聞きたくて、もっと話していたくて、涙が出そうになる。
ゴルベーザ。俺は、お前を――――。
「……っ!」
急に、目の前が真っ暗になった。
視界を何かに遮られたのだ。一体何に? 誰に?
目元を覆うものに触れてみると、それは誰かの手だった。片手が離れ、片方の視界が自由になる。離れたその手が、俺の体を抱きしめた。伝わるぬくもり。『これは彼だ』という確信があった。
「ゴルベーザ……」
彼は俺の体を両手で抱きしめ、耳元で俺の名前を囁いた。
「カイン」
何故こんなことを、と思うのに、言葉は声にならなかった。振り向くことすらできない。ゴルベーザの真意が分からなくて、ただ恐ろしかった。
ぬくもりが、痛い。ゴルベーザが、ゆっくりと口を開いた。
「……ずっと、こうしたいと思っていた」
「……ゴルベーザ……」
「聖竜騎士になったお前は眩しくて、私が触れると穢れてしまうのではないかと思った。それでも、私はお前を見ていたかった。再会した時からずっと、お前に触れてみたかった」
振り向こうとするのに、胸が詰まって、できない。
「どうすれば触れられるのかが分からなかった。どうすれば良いのかとある者に尋ねて、やっと、こうして」
「ある者……?」
「セオドアとレオノーラだ。笑って欲しい相手に後ろから目隠しをすれば、笑ってくれるだろうと……二人は、そう言っていた」
もしかしてそれは、「だーれだ?」と問いかけるあの遊びのことを言っているのだろうか。体を抱きしめるのは、何かが違うような気がする。
ゴルベーザの勘違いに、思わずふき出した。
不思議と、優しい気持ちになることができた。心が通じ合ったような気がした。俺達は、互いに同じところをぐるぐると回っていたらしい。何度もすれ違っているのに、お互い、その場にいることに全く気づいていなかった。ゴルベーザは俺と同じ想いを俺に抱いている。
俺は、ゴルベーザに笑って欲しかった。ゴルベーザも、俺の笑顔を望んでいる。
それならば、と振り向いた。俺の唐突な動きに対応できず、ゴルベーザは俺を抱いたまま地面に転がった。驚いた顔を見ながら、俺は彼に口づけをした。彼の頬を両掌で挟み、軽い口づけを幾度も繰り返した。
「……俺も、お前に触れてみたかった。ずっと、話をしたいと思っていた。でも、お前を傷つけているのではないかと思ってしまい、近づくことができなかった。俺と目が合うと、お前は悲しそうな顔をする。お前からすれば俺とのことは過去の汚点でしかないのだろうと、そう思っていた。だから、自らの心を消してしまおうと考えて――――でも、できなかった。時間が経てば経つほど、お前の存在が心の中で膨れあがっていく。考えてはいけないと思えば思うほど、お前の存在が深く刻まれていくような気がして」
「……お前が私の夢の中に姿を現した理由が、分かったような気がする」
俺の頭を胸元に抱き寄せて、
「私のことで悩んでいたから、お前は私の夢の中に姿を現したのだな。夢の中で触れる感触が妙に現実的だったのも、そのせいか」
「それは……」
それは、俺がお前に口づけたからだ。とは、恥ずかしくて言えなかった。
「お前は、私のことをどう思っている?」
問われ、ゴルベーザの顔を正面から見た。瞳同士を合わせ、薄紫を覗き込む。
俺は、ゴルベーザのことが好きだった。
どの『好き』なのかと問われても、正体はあやふやで答えに詰まってしまうのだけれど、この男のことが、愛おしくて堪らなかった。
「ゴルベーザ……お前のことが、好きだ」
『好きだ』と口にすることしかできなかった。感情の細部を言葉で表すことは困難だ。だから、彼の頬に触れた。口づけで、ぬくもりで、全てを伝えたかった。
俺は、この恋とも愛ともとれない感情の末路を知っていた。
「カイン」
優しい声に、瞼を閉じる。
ゴルベーザは、フースーヤのお陰で青き星に辿り着くことができた、と言っていた。
ゴルベーザは、無事、青き星に来ることができた。だが、フースーヤが無事かどうかは分からない。ゴルベーザは、フースーヤの所へ戻るだろう。恩人を放っておくような男ではないはずだ。
ゴルベーザがあの月へ戻る。それは、永遠の別れを意味していた。きっともう、俺達の住む世界が交わることはない。
遠回りに遠回りを重ねた結果の、その向こう側。どんなに想い叫んでも、強引に幕は降ろされてしまう。
触れ合った指同士も、重ねた胸も、遠く懐かしい思い出になる。
***
「こんな場所では……」と躊躇うカインの体を抱き柱の陰まで連れて行くと、彼は小さく笑った。首に回された手に拒否されているわけではないのだと安堵し、柱に背を預けさせる。
前髪をかき上げ瞳を覗き、その澄んだ瞳に、改めて彼が私と同じものではなくなったのだということを知る。
同じでなくなっても、彼の魅力は変わらない。
彼の何もかもが愛おしくて、彼に触れられているということがまるで嘘のように感じられ、信じられないという気持ちで、そっと口づけを交わした。
「…………っ!」
逃げる舌を追いかける。甘い口腔を貪り、彼の全てを知り尽くそうとする。
最終決戦はすぐそこまで来ている。もう二度と、こんな機会は訪れない。カインの中にある何もかもを知りたくて、震える体を抱きしめた。
「…………お前は、月に……」
髪留めを解き、上目遣いのままで、彼は微笑んだ。
「……月に、帰ってしまうんだろう?」
今にも泣き出してしまいそうな、そんな表情だった。彼にこんな表情をさせてしまっている自分を、心の底から恨めしく思う。
「俺は、分かっているんだ。お前は、フースーヤや他の月の民達を見捨てるような男ではない。だから、お前は月へ帰ってしまう」
カインの言うとおり、私は月へ帰るつもりでいた。その気持ちを込めて頷くと、目に涙を溜め、彼は言った。
「そんなお前だからこそ……俺は、お前のことを好きになったんだ。不器用で、真っ直ぐで、優しい。……そんなお前だからこそ」
「カイン……」
「だから、『残ってほしい』だなんて、そんなこと、言えるわけがない……」
しがみついてくる、震える体。
嗚咽を殺しながら、私に顔を見せないようにしながら、カインは鎧を脱ぎ捨てていく。
以前身につけていたものよりもずっと色の薄い下衣を自ら脱いで、彼は柱の方を向いた。
「顔を、見られたくない……きっと、ひどい顔をしている」
日に焼けていない白い背に、長い金糸が垂れていた。鉄靴を脱がずにいるのは、装着に時間がかかるからだろうか。誘われるように、背骨に口づけを落とした。
「ん……っ」
柱にしがみついて、甘い声を漏らす。
テントに聞こえてしまうことを恐れたのか、手を前に回して唇に指を這わせると、カインは私の指を噛んだ。指先に、痺れるような痛みが走った。
首筋に、耳朶に、口づけを落とす度、彼は体を震わせた。
「はや、く……っ」
彼の声は切羽詰って上ずっていた。彼は見られることを拒んでいるけれど、顔を見たいと思った。小さな表情も見逃さず、瞼の裏に灼きつけてしまいたかった。
「あぁ……あ……!」
欲しがっているからと言って、今このまま挿れるわけにもいかない。彼が舐めた指をその場所にゆっくりと挿入していくと、悲鳴のような声をあげてカインは首を横に振った。
指を根元まで埋めれば、中が熱くうねっているのが分かる。乳首を撫でさすって摘むと、きゅうっと締めつけてきた。
「あ……っ、ゴルベー、ザ、ぁ……」
抜き挿しを繰り返す度、いやらしい水音がくちくちと鳴る。やわらかく蕩けるのをじっと待ちながら、首筋に口づけ、獣のような心待ちでその場所を軽く食んだ。
カインの体が強張った。上ずった声が唇から漏れる。彼は、震えながら達していた。
力を失った手が、柱を掴んでいられなくなってしまう。ずるずると座り込みそうになった体をこちらに向けて背中を柱に預けさせ、俯いている彼の表情を覗き見ようとした。
「……見ないでくれ……こんな顔、見られたくない……」
頬がわずかに染まっていた。金色の髪が汗で額にはりついている。上目遣いの青い瞳は涙で潤み、唇は荒く切ない吐息を繰り返すばかりだった。
「もっと、顔をよく見せてくれ」
カインは首を横に振った。けれど私は、どんな姿も余さず見ていたかった。
「……お前の全てを、見たい」
片足を持ち上げると、彼の顔が羞恥に染まった。耳まで真っ赤だ。先端を押し当てると、カインは「あ……」と微かな声を漏らした。
「こん、な、体勢……こんな……っ」
言いながらきつく瞼を閉じて、彼は私の首に両手を回した。
彼の体を落とすようにして、挿入した。
「あ、あぁ――――!」
悲鳴は、途中で聞こえなくなった。唇を奪いながら、抽迭を繰り返す。引きちぎられてしまいそうなくらいにぎゅうぎゅうと締めつけられながら、彼の一番悦い場所を探した。
「ん、うぅ……、う……っ!」
一点を責めれば、喘ぎ声が大きくなる。カインの先走りが私の腹を汚した。
「……ゴル、ベーザ……ッ」
切羽詰った彼の声が、私の心と体を煽る。カインが私の名を呼ぶ度、言い表すことのできない感情が胸の中に溢れて滲み、広がっていった。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。現実にいる私は眠っていて、幸せな夢を見ているだけなのかもしれない。そんな馬鹿なことを考えてしまうほど、私は彼に溺れていた。
夢であるとするならば、目が覚めた瞬間、私は酷く虚しい気持ちに襲われるだろう。静かに眠る月の民達に囲まれながら、独り俯くことだろう。
これは、夢ではない。そんなことは知っていた。けれど、私とカインが向かうその結末は同じだ。
私達が歩んでいるのは、別離の道だった。
「ゴルベーザ……?」
動くことを止めた私を不思議に思ったらしい。
蕩けた瞳に見つめられる。近い場所から見るその瞳は、堪らなく美しかった。
足が辛いかもしれないと思い、地面に横たえた。
「……今起こっていることは全て夢で、現実の俺は試練の山で夢を見ているのではないかと……時々、そんなことを考えることがある」
そう言うと、カインは私の首筋に顔を埋めた。彼も、私と同じようなことを考えていたらしい。
「俺は、バロンに戻ることができた。セシルとローザとシドと……それから、セオドアにも会うことができた。過去と対峙して、自らを認めてやることができた。これで全部が揃ったと思った。でも――――」
ゆっくりとした口調だった。自分自身に言い聞かせているようでもあった。言葉の中に嗚咽が混じり、涙の濡れた感触が肩口に伝わってきた。
何かを堪えるように、カインは私の背中に爪をたてた。
無言の時間はしばらくの間続き、「でも」と再度口にした彼は、微かな声を響かせた。
「――――お前が、いない……」
カインが歩んでいく未来に、私の姿はない。
「……一夜の夢だと思えばいい。お前は、夢を見たのだ。酷く懐かしい夢を」
「夢……? 思えるわけが……!」
声もなく、彼の首が仰け反った。
腰を揺する。彼の中を抉り、思考を奪う。快楽に溺れてしまえばいい。
「んん、あっ! あぁっ、あっ!」
背中に傷がつかぬようにときつく抱きしめながら、彼を追い詰めていく。腰に絡められた鉄靴が、とても冷たかった。
「あ…………っ!」
カインが達する。きつく締め上げられ、私も限界だった。奥の奥に注ぎこむ。目眩がするほどの快感だった。
「おさまら、ない……」
声に驚き引き抜いて見下ろすと、白濁に濡れたカインのものは、まだかたさを失っていなかった。両足を大きく開けば、窄まっている場所から精液が溢れ出す。淫靡な光景に、頭が真っ白になるのを感じた。
膝裏を押さえ彼の胸につくまで折り曲げて、もう一度挿入する。「あっ」と悲鳴をあげたカインの唇の端から、唾液が滴って落ちた。
濡れた音が大きく響き、思考を白く染め上げていく。
「ゴルベーザ、起きろ、ゴルベーザ」
誰かの影が、瞼に影を落としている。揺すぶられ、目を開いた。二揃の青い瞳がこちらを見下ろしていることに驚き、飛び起きて辺りを見回す。
「寝坊です!」とセオドアが言い、「寝坊だ」とカインが続いて言った。
「朝食です」
にっこり、幼さを残した表情で、セオドアが笑った。差し出されたトレイを受け取り、頷く。
そういえば昨夜は、体を清めてテントに戻り、二人ともそのまま寝てしまったように思う。
昨夜の行為などなかったのだというような顔をして、カインはぶっきらぼうな口調で言った。
「早く食べろ。直に、出発の時間になるぞ」
側に居たセシルとローザが、うんうんと頷いた。穏やかな顔をしている。
「兄さん、先に外に出てるから」
言って、セシルとローザはテントを後にした。
「ほら、早く」
カインが、こちらをじっと見た。
「あ、ああ……」
私がパンを口に運び始めると、カインはすっと立ち上がった。無言で出て行ってしまうのかと思ったその瞬間、彼は満面の笑みを浮かべながら、優しい声で私に言った。
「ゴルベーザ、朝食を終えたら手合わせをしよう。セオドアと手合わせするよりも、お前とする方が手応えがありそうだ」
「ひ、ひどいですカインさんっ!」
「冗談だ。……行くぞ、セオドア。悔しかったら、もっと強くなってみせろ」
「はい! 僕、もっと強くなります!」
外に向かう二つの背中が、徐々に遠ざかっていく。
テントを出るその瞬間、カインはこちらを振り向いた。
彼はただ、穏やかな笑みを浮かべている。
End