はらわたを喰われている。
足元を伝って這い上がってくる黒い何かが、俺の中の全てを喰らい尽していく。
爪の先から滑り込み、体の全てを犯す何か。それは嗤いながら俺を縛りつけて、離さないぞ、と囁きかけてくる。
「ゴルベーザ」
手を伸ばして、愛しい者の名を呼ぶ。
けれど、意識を失ってしまったあの人には届かなかった。
***
俺とゴルベーザ様を結びつけたものは、“孤独”だった。
俺を操る彼の心は、寂しさに満ちていた。
ミストで倒れていた俺に手を差し伸べた彼は、俺と同じ表情を持っていた。
銀の髪が揺れていた。傷の痛みに呻きながら、彼の顔から目を逸らすことができなかった。
そう、あの時のゴルベーザ様は、兜を外していた。
「カイン」
形の良い唇が、名前を刻んだ。
風が吹く。黒いマントが揺れた。
「この手を取れ」
何故、この人は俺の名前を知っていたのか。
何故、この人の手を取ってしまったのか。
それは分からなかった。
ゴルベーザ様は、何かにつけて俺の瞳を見たがった。
青い瞳が好きだ、と言っては、俺の兜を外した。自分は外さないくせに、俺が兜を被っていることを嫌った。
バロンにいるときは兜を被っていることの方が多く、それが当たり前だったから、兜を外されるということは新鮮だった。
バロン――セシルは、ローザは、彼らと敵対することになった俺をどう思うんだろう。思う度、胸が痛んだ。
「……また、幼馴染のことか?」
俺の兜を外しながら、ゴルベーザ様が言った。部屋は真っ暗だ。蝋燭の火は、いつの間にか消えていた。
セシルとローザに思いを馳せていると、ゴルベーザ様は決まって不機嫌になった。
勝手な人だ、と思ったが、ゴルベーザ様には思いを馳せる相手すらいないのかもしれないと思うと、何だか悲しい心持になった。
月に照らされて光る漆黒の鎧が、ゴルベーザ様の心を守る箱のように見える。
背後にある机に押し倒される。冷たい兜を、抱き寄せた。
「ゴルベーザ様、貴方は兜を外されないのですか」
兜の内で、彼が微笑む気配がした。外す気はない、ということか。
どうしても、兜と鎧を外して欲しかった。
身を起こし、兜にそっと口づける。不意をつかれたのだろう、ゴルベーザ様の動きが止まった。
鎧の胸元に舌を這わせ、無機質なそれに歯をたてた。
「……何の、つもりだ?」
彼の声が情欲に濡れているのが分かった。
後ずさりした彼の足元に跪く。鉄靴の先に唇を落とし、「ゴルベーザ様」と顔を上げた。
きっと、俺の瞳も情欲に濡れているのだろう。
「俺には、貴方だけです。貴方がいればそれでいい」
心の中に存在する幼馴染の姿を必死で掻き消しながら、彼に向かって手を伸ばす。
漆黒の兜を外し、ゴルベーザ様が俺の手を掴んだ。
揺す振られ、突き上げられ、ぼんやりとした視界の中で思う。
この人は、同類を探しているんだ。だから、俺の中から――現実の世界でも――セシルとローザを消そうとする。
そうか、この人は俺を独りにしたいのか。その気持ちは痛いほど分かる、と俺は心の奥底で笑った。
彼の舌が俺の顎を愛撫する。首筋に噛みつかれる。まるで獣のように。
こうして毎夜毎夜、鎧の下の見えぬ場所に証しを刻みつけられる。独占欲の強い人だ、と俺はまた笑う。ゴルベーザ様が、幼い子どものように思えて。
『俺を洗脳するだけでは物足りないのですか』
俺は心の中で思う。俺の心の中を読んでいる彼は、躊躇うように一瞬だけ視線を逸らし、俺の頭の中に甘い電流を送り込んでくる。
『洗脳することでしか返事することができないなんて、憐れな人だ』
シーツを掴み、自らの唇を舐め、挑発する。ゴルベーザ様は怒り、俺を乱暴に犯し始めた。
心と体を同時に犯されて、俺の中はぐちゃぐちゃになる。それが堪らなく気持ちいい。
脳を締め付けられながら、俺が達しても、彼は動きを止めなかった。
黒い兜を着けている時には分からない表情が、今はよく見える。薄紫の瞳が俺を睨みつける様も。
これを見たいが為に、俺は彼に兜を外させようと躍起になってしまうんだ。
ゴルベーザ様が自棄気味な声で言う。
「……お前は、下手なモンスターより質が悪い」
***
ゴルベーザの傍にいたあの日々は、小さな痛みがあったものの、酷く甘美だった。
飾るものは何もない、飾る必要もない。彼は、俺の奥底を見抜き、体の全てを知り、余すところなく全てを見つめた。
彼の視線の先で、俺は裸だった。けれど、ゴルベーザはそうではなかった。
彼は真っ黒い何かに身を包んでいて、俺の視線をはね除け、決して自らの心の奥底を見せようとはしなかった。
兜を脱ぎ、俺をシーツに押さえつけ、悲痛な眼差しでこちらを見ている時以外は。
「カイン、どうしたの」
「……セシル」
洞窟の天井から、ぽたりと雫が落ちてくる。それは槍を握る指先を伝い、籠手の中に滑り込んだ。
「疲れた?少し休もうか」
「いや……構わん。大丈夫だ」
「そう?」
「ああ。闇のクリスタルは目前だ。休んでいる暇などないだろう?」
「……うん、そうだね」
と言い、大きな目を細め、唇の端を上げ、セシルは微笑む。
胸が痛む――と共に、脚がずきりと痛む。本当は、先ほどの戦闘で足に怪我を負っていたのだが、言い出せなかった。これ位なら問題ないと踏んだのだが、考えが甘かったようだ。回復薬で癒そうにも、飲んでいるところを見られるのも憚られる。
自分でも、愚かだとは思う。言おうか言うまいか悩んでいるうちに、闇のクリスタルは近づき、そうして脚の傷はより一層疼き出す。
どうして言い出せないのだろう。
今回だけではない。以前は平気だった些細な物事が、口から出てこない。セシルとローザを目の前にすると、何だか恐ろしくなってしまう。
更に奥へと足を進める皆の一番後ろにつきながら、頭を小さく横に振った。
途端。
――浮かない顔をしているな。
低い男の声が、頭の中に大きく響いた。
皆は気が付いていない。そのことから、これが思念波なのだと分かる。けれど、地から湧くようなその声は、ゴルベーザのものではなかった。
『お前は誰だ』
問いかけると、目の前に黒い靄がかかった。徐々に、人の顔の形を作っていく。息を飲んだ。漆黒に凝り固まった靄が、にたあっと嗤った。同時に感じる、微かな死臭。
「――カイン、早く早く!置いてっちゃうよ!」
鈴のような可愛らしい声でリディアが言うと、闇は、しゅうっと霧散した。やや離れた場所で、皆が、「こっちだよ」と手を振っている。
曖昧に頷いて後ろを振り向くが、既にその場所には何もなかった。
ほうっと息をつく。ではあれは幻か何かだったのか、と。
改めて皆の方を見る。
途端、視界が遮断された。
声も、手も足も息も心すらも、自由に動かせなくなる。
もがくこともできず、戦闘の際にいつも嗅ぐあの臭いに包まれながら、意識を手放す。
お前は誰なんだ。
モンスターなのか、それとも。
気付いた時には、闇のクリスタルを握りしめ、どこだか分からない部屋の床に蹲っていた。手のひらに嫌な汗をかいている。
ゴルベーザの術で操られている時は、はっきりとした意識があった。
これは、あの人の術ではない。
セシルたちはどうしたろう。再度こんなことをしでかした俺を、見限っただろうか。
クリスタルは一光りもせず、冷たさを伝えてくる。微かな空調の音が、耳を撫でていった。
胸の鼓動が止まるかと思うほどの衝撃に見舞われる。脳内で割れていた硝子の破片がぴったりと組み合わさり、答えを形作った。
「……バブイルの、塔……」
では、この部屋は。
立ち上がると、鉄靴の硬い音が部屋を支配した。歩く。暗くて何も見えない。でも、俺の考えが正しければ、きっと。
思い当たる場所に近付き、クリスタルを置き、手探りでマッチを探す。蝋燭がそこに存在していることに安堵しながら、先端に火をつけた。
あの日と同じ橙色の灯りが、淡く淡く部屋を照らす。
見覚えのある人物が部屋の端にいることに気がつき、息を飲んだ。そしてすぐに、彼の様子がおかしい事にも気付いた。
「…………ゴルベーザ」
彼は、兜を装着していなかった。名を呼ぶが、薄紫の瞳はちらりともこちらを見ない。椅子に腰かけ、項垂れている。
もしかして、死んでいるのか。
恐る恐る近づいて頬を撫でると、温かさを指先に感じた。ではゴルベーザもまた、意識を奪われているのだ。
先程俺を操った者と、ゴルベーザの意識に干渉している者は同じだろう。そんな直感があった。
「ゴルベーザ。俺だ、分からないか」
一瞬、彼の瞳が動いた気がした。けれどそれは蝋燭の火が見せた幻で、実際は全く動いていない。
俺は自らの兜を外して棚に置き、両頬を包み込んで顔を持ち上げ、死んだ瞳を覗き込んだ。
あんなに熱っぽい瞳で俺のことを見ていただろう?魔物のような冷たい横顔をしていながら、その視線は俺を求めて彷徨っていただろう?
ゴルベーザ、一体どうしたっていうんだ。
唇同士が触れ合いそうなほど近づいたその時、突然、ゴルベーザの唇が何事かを紡ぎ出した。何を言っているかは分からなかった。
「お前、気付いたのか」――――言おうとした俺の声を、彼は遮る。
「……逃げろ、カイン……」
暗さの中に気迫の残った声に押され一旦は頷きかけたが、思い直し、「駄目だ」と首を横に振った。
「……お前をここに置いては行けない」
「カイン……!」
「二人で逃げるぞ。以前も言っただろう、…………俺には、お前しかいないと」
ゴルベーザが目を見開く。
「…………私と共に地獄へ落ちようと言うのか」
「俺の全部を見ておきながら、今更そういうことを?俺が戻れる場所なんてないと知っているだろう」
「……そうだな」
躊躇いつつも唇を重ねると、ゴルベーザが笑った。
「本当は、お前を殺す気でいた。クリスタルを持って帰ってきたお前を、この手で」
「ゴルベーザ……」
片手に槍、もう片方の手にはゴルベーザの手。二人で廊下を速足で歩く。バブイルの塔内は暗く、明かりがほとんど点いていなかった。
「……私の頭の中に巣食う虫が、嗤っていた。『お前はまた一人になるんだ』と、闇のような声で私を嘲笑っていた」
自分のことが許せない。そう言いたげな調子で、彼は悲しげに口にする。
「でも……俺はこうして生きている。お前が、その『頭の中の声』に勝つことができたからだ」
ゴルベーザは確かめるように頷き、俺の手を強く握りしめる。
そうして、ゆっくりと足を止めた。
「……この部屋だ。巨人を復活させぬよう、この部屋にある次元エレベーターの装置を破壊する」
「次元エレベーター?」
「私は、『頭の中の声』に従って巨人を復活させるつもりだった。巨人はこの星を焼き尽くし、全てを破壊する予定だった……」
恐ろしい告白に、何も言うことができなかった。
扉が開くと、緑色の光が溢れ出した。
キィ、キィィ、耳鳴りに似た高い音が辺りに響き渡る。ゴルベーザの手に一筋の光が注がれ、彼の手の中にあるクリスタルが微かに震え始めた。
「カイン」
ゴルベーザが、俺の手をそっと離した。クリスタルを両手で握りしめる。光が強くなった。
彼にとっても予想外の事態が起こったのだろう、手の中のものを手放さぬように力を籠めながら、彼は言った。
「カイン……その装置を、壊せ」
「ゴルベーザ!」
ゴルベーザがよろめく。壁に背をつき、肩で息をしている。駆け寄ろうとした俺を、彼は首の動きだけで制した。
振り向くと、眩く輝くクリスタル達の中心に、一つの装置があるのが見えた。
あれを壊せというのか。
思った瞬間、ゴルベーザは頷いた。俺の心を読んでいるのか。彼はもう一度頷いた。
びりびりとしたおかしな空気が、部屋中を包み込んでいる。クリスタルの美しい光の中にある得体の知れない暗いものが、黒く凝り固まってけらけらと嗤っている気がした。
槍を握りなおす。一歩一歩足を進める。装置の傍に立った。槍を振り翳した。
途端。
――やめろ。
手首に何かが巻き付いた。蛇に似た、真黒い何かだ。息を飲んだ。
「……カイン……!」
ゴルベーザの声が聞こえ、力の抜けた手から槍が落下する。ほぼ同時に、俺の体も床に叩きつけられていた。ぞわぞわ、と黒いものが体を這いまわる。緩く首を絞められて、俺は喘いだ。
間違いない、これは洞窟で感じたものと同じ闇だ。
本能で悟る。
これは危険だ。
大きな金属音が辺りに響き渡った。それはゴルベーザが倒れた音で、兜は脱げて床に転がり、クリスタルは手から離れてしまっていた。
背に、嫌な汗が滲んだ。黒いものを振りほどこうともがくのだが、身動きがとれない。
「ゴルベーザ……ッ!!」
思考が闇に染まる。苦しいのか、何なのか分からない。必死で床を掻き這いずろうとするも、彼に近付くことは許されなかった。
指先に血が滲む。指先の傷口から、闇が沁み込んでいくのを感じる。闇は体に侵入し、信じられない感覚をもたらした。
「……ひ、ぃ…………っ」
見知った感覚だ。背筋が、脳が痺れる。息を吸おうと開いた口から、黒いものが入り込んだ。舌が痛い。
――ゴルベーザにかけていた術を破るとは……面白い男だ。
闇が、ぼんやりと人の形をとった。俺の顎を掴み、持ち上げる。体に力が入らない。口を閉じることもできない。唇の端から唾液が垂れた。
――こんな下等生物に惑わされるなど――――。
――しかし、面白いかもしれんな――――。
口の中の闇が急に凝り固まり始める。乳首を撫でられ、掠れた喘ぎが漏れた。
俺で遊ぶつもりなのか。
口腔を犯しているのは間違いなく何者かのペニスなのだが、黒い靄が見えるばかりで、正体が分からない。
「ん、うぅ……うっ!」
痛いほどに乳首を摘まれ、押しつぶされる。
――舐めろ。
何を馬鹿な事を。
お前のものを舐めるなんて御免だ。
――舐めるんだ。
闇が嗤いながら言った。
――これでも、その気にならないか?
真っ黒の闇が、先ほどと同じように凝り固まる。それは更に濃くなり、長い指先で俺の髪を優しく撫でた。
薄紫の瞳、銀の髪。
俺の思考は静止した。
ぞわぞわぞわ、脳を這いずりまわる快感が、何もかもを曖昧にし、感覚を甘く蕩けさせる。
ぎりぎりまで引き抜かれたと思えば、喉まで届くほど深く深く押し入れられ――けれど驚いたことに、それすら気持ち良く感じるようになっていた。
「んっ、う……、ん、ん」
先走りの液が、舌を撫でていく。
これはゴルベーザではない。分かっている。ゴルベーザがこんな酷いことをするわけがない。
なのに、体はいうことをきかずに口淫に没頭していく。溢れる唾液が、床を汚していった。
舐めているだけなのに、自分の下半身が解放を望んで震えているのが分かる。
体が、別の何かに取って代わられてしまったかのような錯覚を覚えた。
この星は、どうなってしまうんだ。巨人とやらの力で破壊されてしまうのか。セシルもローザもエッジもリディアも、そしてゴルベーザも殺されてしまうのか。
そんな。
どうすればいい。どうすれば、最悪の事態を避けられる。
抽迭の速さが増し、ペニスの質量も増す。ごりごりとした硬いものが、頬の内側に擦りつけられる。
――出すぞ。飲め。
鈴口から、生温い液体が溢れてきた。
「んん!んっ!!」
ペニスに蓋をされて、精液を吐き出すことはできない。仕方なく飲み込むと、あまりの悔しさに涙が滲んだ。
唇を離すと、唾液に混じった白い液体が床を汚した。口の中がざらついて、気持ちが悪かった。
「……ゴルベー、ザ…………!」
倒れている彼に手を伸ばす。
闇のクリスタルは淡い輝きを放ち、ゆっくりと、だが確実に、次元エレベーターの方へと近づきつつあった。ふと、その動きが止まる。
――やはり、私の力では無理か。
闇が、苛立ちを隠そうともせずに呟いた。黒いものが霧散する。偽物のゴルベーザが姿を消した。
――ゴルベーザ。次元エレベーターを、クリスタルを――――。
途端、ぴくりともしなかったはずのゴルベーザの体が動いた。
「ゴルベーザ!!」
反対に、俺の体は動かない。
ゴルベーザは闇のクリスタルを手に取り、人形じみた動きで歩き始めた。
瞳には色がなく、操られていると一目で分かる状態だった。
装置をぐるりと囲っているクリスタル達が、光る。闇のクリスタルのために残されていた台座の傍で、ゴルベーザが立ち止った。
闇のクリスタルが光る。台座に向けて転がり、その場所に収まった。
キィィ。あの音が大きく鳴り響き、塔全体がぐらりと揺れた。
男の笑い声。
と、ゴルベーザの体が跡形もなく消え去る。
同時に、意識が暗くなっていくのを感じた。
***
最初に見えたのは、金色の光だった。手のひらに力を籠める。柔らかく、滑らかな何かに触れていることに気づいた。
意識がはっきりし始める。なのに、体は自由にならない。
目の前に見える光景――青の双眸がこちらを仰ぎ見た。
カイン。呼ぼうとするも、声が出ない。
白く長い足を大きく開かせて、私はカインを犯していた。
意識を失っている間にどれほどの凌辱を重ねたのか、カインの秘部からは、だらだらと白濁が溢れていた。唇の端にも、精液がこびりついている。頬にあるのは、透明な液体だ。
「あ、あ、あぁ、あっ!!」
カインが泣いている、その事実に驚く。彼の涙を見たのは、これが初めてだった。
胸が締めつけられる。
快楽を与えたいわけではない。私は、彼を抱きしめたいと思っているのに。
「……ゴルベーザ……、やめ、て……くれ…………抜いて……っ」
息も絶え絶えに言う彼の言葉を無視し、浅く、深く、彼の中を抉る。
肩に彼の両足をかけ、床に両手をつき、激しい抽迭を繰り返す。
荒い息を吐きながら、彼は私の名を呼び続けていた。子どものようにしゃくりあげながら、声を嗄らして。
彼の心の中を覗き込む。
『ゴルベーザ』
そこでも、彼は私の名を呼んでいた。
『俺には、お前しかいない』
カインの体が強張った。内壁がぎゅっと締まる。申し訳程度の精液が、彼のペニスから溢れ出た。
きつい締めつけに、私も精を放っていた。
快楽と共に、酷く切ない気分が襲い来る。
『……何もかもが、終わったら――』
彼は静かに目蓋を閉じる。金色の睫毛が影を作った。
『――お前と一緒に暮らしたい。お前と、生きていきたい』
引き抜いて、自らの着衣を整える。何事もなかったかのように、闇のような兜を装着した。
その言葉に答えたい。私もだ、と頷きたいのに。
ここはどこなのかと思うより早く、頭の中に響く声が『ここは巨人の中だ』と笑った。
――このまま放っておけば、機械竜辺りがこの男を始末するだろう。我々が始末するまでもない。
青白い顔で意識を失ったまま、カインは目を覚まさない。
必死で、頭の中の声に抵抗する。声は笑うだけだ。
意識とは正反対に、私は廊下を歩き始める。
振り向くことも許されず、心臓を抉り取られたような胸の痛みに喘ぎながら、歩み続けた。
***
俺は、見知らぬ部屋の、見知らぬソファに腰かけていた。柔らかいソファだ。白く長い毛足の上掛けがかけられているそれは、とても座り心地がよかった。
目の前には、暖炉がある。赤い炎が揺らめいていた。
ぱち、ぱち、ぱち。
薪のはぜる音。どこか懐かしい匂い。部屋の隅には本棚があって、そこには様々な本が並べられていた。どれも、見覚えのあるものばかりだ。
小さな頃に読んだ絵本。冒険ものの本。槍について書かれた本。竜騎士の心得について書かれた本。
読んだことのあるものばかり。
心惹かれて立ち上がる。赤い絨毯が、素足に触れた。その時初めて気づいた。俺は大きめの夜着に身を包んでいた。下着も下衣も穿いていない。
覚えのある感触にどきりとし、あの人の名を口にする。俺が着ている夜着は、ゴルベーザのものだった。
ぐるりと辺りを見回す。ソファと暖炉と本棚と一つの扉。それが、この部屋の全てだった。
本棚に近付き、一冊の絵本を手に取った。ぱらぱらと捲る。セシルもこの絵本を気に入っていたな。そんな思いが脳裏を駆け抜けた。
次は、冒険ものの本。
そうだ、この本の真似をしてセシルとローザと森に出かけて、皆を心配させたこともあった。
それから、槍について書かれた本。
父から貰った槍は、今も大切に自室に飾ってある。まさか、あれが形見の品になるなんて思いもしなかったけれど。
そして、竜騎士の心得について書かれた本。
常に誇り高くあれ、と書かれた本だ。父のような竜騎士になりたくて、小さい子から一心不乱に読みふけった。
「あ」
背後から伸びてきた腕が、本を取り上げた。振り向く。ゴルベーザだった。
ゴルベーザは微笑んでいた。それは幸せそうな笑みだった。
本を棚に戻し、彼は俺を抱きしめた。
「カイン」
彼の匂いがした。目眩を覚える。幸せの匂いだった。
堪らずに、彼の背に手を回した。
「……もう、どこへも行くな」
何を言っているんだゴルベーザ。お前の傍以外に、俺のいる場所なんてどこにもない。
「永遠に、私の傍にいるんだ」
永遠に?
「永遠に、この場所で」
耳鳴りが始まった。これは警鐘だ。本能が叫んでいる。
なのに、彼を突き放すことができない。
暖かい部屋、大好きな本、何の不安も恐怖もない場所、そして――――大切な人がいる場所。
「ここにいれば、もう悩まなくて済む。痛みも苦しみもない」
頷こうとして、ふと思う。
痛みも苦しみもない場所。そんな場所が、本当に存在するのだろうか。
これは現実か。まやかしではないのか。
「……カイン、ずっとここにいよう」
優しい口づけが降ってきて、思わず目を閉じた。背にしがみつく。
ぱち、ぱち、ぱち。
薪がはぜる音だけが、部屋を支配する。
夢だ。これは夢だ。
だから、早く目覚めなければならないと分かっていた。でも、目覚めたくなかった。
目覚めたら、現実が待っている。その現実は、きっと酷く辛いものだ。
だから、目覚めたくなかった。
けれど。
『私は、『頭の中の声』に従って巨人を復活させるつもりだった。巨人はこの星を焼き尽くし、全てを破壊する予定だった……』
『でも……俺はこうして生きている。お前が、その『頭の中の声』に勝つことができたからだ』
ゴルベーザと交わした会話を思い出す。
ゴルベーザが生かしてくれた体。彼は“声”に打ち勝ち、俺を助けてくれたんだ。
俺も、勝たなくてはならない。誘惑に背を向けなくてはならない。
「ゴルベーザ……俺はここにはいられない。行かなければならないんだ。俺は、現実と向き合わなければならない」
彼の背を強く抱きながら言った。彼の匂いが愛おしくて、離し難くて堪らなかった。
「だから、俺は――――」
「……現実…………と……?」
どろり。
突然、ゴルベーザの体が粘液のようになって崩れ始めた。
意識が、現実へと引き戻されていく。恐る恐る、目蓋を開いた。
うっすらと視界に映る床。銀色のそれには、自らの涙が散っていた。
「……ゴル、ベーザ…………」
引き裂かれるような痛みに、後孔が傷ついているのが分かった。
息をつめながら身を起こす。壁に背をつき、自分の体の状態を見て首を横に振った。
あのまやかしの部屋にいれば、俺は幸せでいられたのかもしれない。
『お前と一緒に暮らしたい。お前と、生きていきたい』
俺の“声”は、お前に届いていたのだろうか。
服の一部を破き、垂れた白濁を拭う。内臓を傷つけられた痛みは酷いが、ポーションの一つもない今、回復の手立てはない。
最後に見た彼の、冷たく凍えた瞳が俺の胸を抉る。
彼が操られていると知っていても、悲しくて、涙を我慢することが出来なかった。
何度呼びかけても彼は返事をせず、心のない人形みたいな瞳で俺を見つめているだけで。
鎧と兜を着、痛みを堪えながら、進み始める。
途方もなく広いここは、一体どこなのだろう。どこへ行けばいのか、見当もつかない。
突然、キィィ、という音と緑色の光と共に、モンスターが三体、目の前に現れた。どれも、バブイルの塔にいたモンスターばかりだ。
転送。――――そうか。ここは、巨人の中なのか。
槍を構えようとして、自分が丸腰でいることに気づいた。視線を巡らせ、一体めがけて跳躍する。
痛みなど関係ない。立ち止まるわけにはいかない。
敵の頭を踏みつける。
「お前の槍を使わせてもらう」
倒れた敵の手のひらから落ちた槍を拾い上げ、深く息を吸い込む。
射抜くように、前を見据えた。
***
カインは無事だろうか。あの後、目を覚ましただろうか。
涙に濡れた頬が、頭にこびりついて離れない。
確かに彼は強い。だが、槍を持たない状態で生きのびられるとは到底思えなかった。
――今はもう、虫の息かもしれんな。
うるさい。
頭の中で、声が大笑いをする。頭が痛い。笑い声が頭の中に反響して、気が狂いそうだ。
――実に愉快だ!もうすぐ、願いが叶う!!
男が笑う。
ははははは、ははははは。
反響しているせいで、二重になり、三重になり、果てしなく膨れ上がっていく。
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
うるさいうるさいうるさい!!
黙れ黙れ黙れ!!
私の体を返せ!!
――まあ落ち着け。お前に見せたいものがある。
私の意志と関係なく、足が動いた。扉を開き、私は、いる筈のない者達の名を呼ぶ。
「……ルビカンテ。バルバリシア。カイナッツォ。スカルミリョーネ」
死んだはずの部下達が、一斉にこちらを見た。
ルビカンテが、一歩前に出て跪く。
「ゴルベーザ様、ご命令を」
濁った瞳が、こちらを見た。
「あの方が、私たちを蘇らせて下さったのです」
それは、以前のルビカンテの瞳ではなかった。
瞬間、床がぐらりと傾いだ。びりびりと響く爆発音。しばらく続いた後、突然静かになる。
「……セシル達でしょう」
巨人内に乗り込んでくるとは、無謀な奴らだ。
思いつつ、彼らの来訪に安堵している自分がいる。
セシルと出会うことができれば、カインは助かるかもしれない。
私はルビカンテを見つめた。私の体は、私の意思とは別の動きをし続けている。
「セシル達を殺せ」
言えば、ルビカンテが笑う。心底嬉しそうな、彼らしくない獣の表情だった。
――おのれ……!
頭の中の声が、苦しげに呻いた。
――しぶとい奴らだ!!
どうやら、セシル達は四天王を倒したらしい。いや、それだけでなく。
部屋の電気が薄暗くなり、空調が不安定な音をたて始め、巨人が狂い、壊れ始めていることを知った。
“私”が走り出す。脳内で、男が喚き続けている。
扉を開く。
「よくも巨人を!!」
私は叫び、近づいてきた老人を押し退けようとする。
老人が、こちらに手のひらを向けた。目蓋の裏で、虹の色が瞬いた。
頭の奥底に眠っていた何かを引きずり出される感覚がある。
膝をついた。体が自由になることに気づき、顔を持ち上げる。
記憶の中にある母の顔と、呆然とした表情で立ちつくしている聖騎士の顔が、ぴたりと一致した。
「――良かったのか?会話らしい会話も交わさず来てしまったが……」
言いながら、伯父は私の方を見た。
彼が言わんとしていることは分かる。だが、進む足を止めることはできなかった。
セシルには、仲間がいた。
ローザ、エブラーナの王子、ミストの召喚士。
セシルには彼らがいる。私が入り込む余地はない。
セシルは、もう、守ってやらなければならない幼子ではなくなっていた。
寂しいけれど、喜ぶべきことなのだろう。
ならば、カインはどうなのだろう。
カインの傍には誰がいるというのだろう。
涙を流す彼の表情が、脳裏にこびりついている。
彼は、『お前と生きていきたい』と言った。『俺にはお前しかいない』とも。
モンスターに切り裂かれ一人で朽ちていく彼を想像する。頭がおかしくなりそうだった。
歩く速度を速める。遠くに、見慣れた青い影があった。
「……カイン!!」
身を丸めている青年は、ぴくりとも動かない。
ただ、血溜まりが広がり続けていた。
「しっかりしろ、カイン!」
生きているのか、死んでいるのか。それすら分からない。
抱き上げても、彼はぴくりとも動かなかった。
カインを揺り動かそうとしたその時、私の肩に伯父の手が触れた。
「回復魔法をかけよう。……お主の『大切な者』、なのだろう?」
“大切な者”
「お前と生きていきたい」。そう言っていたカインの唇を見つめた。竜の兜を外す。頬に擦り傷ができていて、おもわずそこに指先を滑らせた。
彼をこんな目にあわせたのは、私だ。私が彼を操らなければ、こんなことにはならなかった。
カインが傷ついている姿を見たかったわけではないのに。
ただ、そう、ただ私は。
瞬間、美しい光が瞬いた。伯父が手を翳し、カインに回復魔法をかけていた。
白魔法を使う時に輝く光は、太陽のそれに似ている。彼には、太陽の光がよく似合っていた。そんな彼を無理矢理闇の中に引きずり込んで、私は彼を闇に染めようとした。
私は、彼の孤独を癒したかった。彼に、私の孤独を癒して欲しかった。
カインがうっすらと目蓋を開き、私はその顔を覗き込んだ。
「カイン……」
かけるべき言葉が見つからなかった。
いや、ただ一つだけ、言わなければならない言葉があった。
ぼんやりと遠くを見ている彼の頭を抱き寄せ、
「……すまなかった」
呻くように呟いた。
カインの目蓋は少しだけ赤く腫れていて、彼の泣き顔を思い出さずにはいられなくなる。
「…………ゴルベーザ、先に行っているぞ」
私を気遣ってか、伯父が先に廊下を歩き始めた。
カインの瞳に、光が戻り始める。彼は嬉しそうに微笑んでいた。
「…………もう、二度と会えないんじゃないかと……思っていた……」
「カイン」
顔をくしゃりと歪めて、子どものように涙を零し、抱きついてくる。
「ゴルベーザ……ッ」
普段、歳よりも大人びて見える彼だから、その子どもっぽい仕草に、心を揺す振られずにはいられなかった。
「カイン、許してくれ。私は、お前を――――」
「何も、言うな……!」
抱きついたまま、カインは静かに首を横に振った。
そして身を捩り、私の腕から逃げて、地面へと降り立った。転がっていた竜騎士の兜を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。俯いているせいで、顔は見えない。
「早く……行ってくれ……」
震える声で、彼は言った。
「俺の決意が鈍る前に、早く」
言いながら、僅かによろめいて、
「俺はセシル達を探しに行くから」
踵を返し、兜を被った。
槍に似た印象を持つすらりとした長身。真っ直ぐに伸ばされた背中が泣いている。振り返らずに、カインは続けた。
「……お前がどこに行こうとしているのかは知らないけれど……なんとなく分かる。お前は、どこか遠くへ行くつもりなんだろう?きっと、お前はこう思っている。『私のせいだ』、『操られていたとはいえ、この星を滅ぼそうとしていたのは私だ』」
頷くしかなかった。
「ああ」と言って、彼の金色の髪を眺めた。
カインは大切なことを忘れている。
「確かに、全て私のせいだと思っている。私は、この星を滅ぼそうとしたことを心から悔やんでいる。それから…………お前を辛い目にあわせたことも」
彼に近づく。肩を揺らしたものの、彼が逃げる様子はない。腰に手を回して、抱き締めた。
彼の匂いがする。指先が痺れた。
「だから――――」
小さく、深く、息を吸った。彼に気づかれぬように、そっと、密やかに。
全身に響き渡る鼓動の早さが、自らの気持ちを代弁している。
本当は、言いたくない。けれど、言わなければならない。
「だから私は、この星を去るつもりだ。お前の願いを叶えてやることは…………できん」
私の手の甲に、液体が滴る。
「『操られていたから』という言葉で済ませるには、あまりにも被害が大きすぎた」
カインの涙で、私の手が濡れていく。
今もう一度顔を合わせたら、きっとカインを手離せなくなる。そう思い、あえて、振り向かせることはしなかった。
本当は、ずっと彼の傍にいたかった。傍で、彼を感じていたかった。だが、行かねばならない。
「……セシル達は――――この場所にいる。見えたか……?」
思念波で場所を送り込んでから、「さよなら」と体を離した。
それぞれが決めた道を、真っ直ぐに前を向いて歩き出す。この道は、二度と交わることはないだろう。
だがそれでも、夢を見ずにはいられない。
彼のあの言葉に、想いを馳せずにはいられなかった。
“何もかもが終わったら、お前と――――”
End