おやすみなさい。

 労る調子でそう言って、ローザが階段を下りていく。
 さっきまであった吐き気は消え、彼女の励ましが少しだけ自分の心を軽くしてくれたと知る。
 しかし軽くなったのは一時のことで、一人になるとまた色々な考えが頭の中で蠢き始め、僕はベッドに腰掛けたまま頭を抱え込んだ。

 陛下の命令とはいえ、ミシディアの人々を殺めてしまった。
 白魔道師という綺麗な肩書きを持つローザに、今更触れることなど出来ないと思う。
 暗黒剣を持つこの手は、随分前から血にまみれているのだ。
 何故だろう。月は幼い頃から変わらずこちらを照らしているのに、自分だけが酷く変わってしまったような気がする。
 部屋の中は耳鳴りがする程静かで、こんな夜は決まって色々な思い出達が脳裏をぐるぐると過り、一睡もできない。

 自分が孤児なのだと自覚した時のことだとか、ローザと出会った時のことだとか、シドに頼みこんで飛空艇に乗せてもらったときのことだとか。
 様々な記憶が、浮かんでは消えていく。
 ああ、それから、彼がこちらに初めて笑いかけてくれた時のこと―――。

「…やっぱり、まだ起きていたのか」

 声に驚いて顔を上げると、唇の端を軽く上げて微笑んでいるカインと、視線がぶつかった。
 見たこともない位に優しげな瞳で、こちらをじっと見つめている。
「脱げる部分は脱いでおけよ。そんなだから眠れないんだ」
「え?」
「鎧だよ、鎧」
 言いながら、兜を脱がしにかかってくる。がしゃりという音がしたかと思うと、兜を脱がされていた。気付いたらもう、胸元の金具を弄られ、胸当ても外されていて。
「背中の金具は取れないんだろう?」
「…うん。背中のやつは肌に直接打ち付けてあるから、取れないよ」
 金属音だけが部屋に響き、しばらくすると鎧の殆んどはすっかり脱がされてしまっていた。
「カイン、ありがとう。…何だか懐かしいね。昔はこうやってお互い、鎧を着せ合ったり脱がせ合ったりしてたっけ」
「着慣れないうちは、背中の辺りなんかがややこしいからな。ほら、これ」
 カインは頷きながら、チェストから取り出した部屋着を、こちらに投げて寄越す。
 それを受け止めて、僕はもう一度、ありがとう、と呟いて着替え始めた。

 カインは時々、何かを察知したかのように突然この部屋にやって来る。
 それは決まって僕が悶々と落ち込んでいる日の夜で、今まで何度彼に救われたか分からない程だ。

 月の光を浴びて、カインの金髪が輝いている。
 肩幅や節ばった指は確かに男のものなのに、美しい鼻梁に、白いシャツから覗く鎖骨に目を奪われ、頬が熱くなるのを感じ、慌てて瞼を伏せる。
 カインが隣に腰を下ろすと、ぎし、とベッドが軋んだ。
「で、何を悩んでいたんだ。やはり、陛下のことか?」
「それもあるけど…」
 呟きながら手のひらを見る。当然のように、見た目には全く汚れていない。けれど。
「この手はもう戻れないところまで汚れてしまったんだなと思うと、どうしても悩んでしまって」
「汚れてなんかいないだろう。傷も少ないし、騎士にしては綺麗な位だ」
「…綺麗なんかじゃない!」
 知らず知らずのうちに叫んでいた。
 カインが目を見開いて固まっている。
「僕の手は人の血で汚れてる!悪人の血じゃない、善良な一般人の血だ。ミシディアの人達を、僕はこの手で」
 震えが止まらなくなって頭を抱えた僕の手を、カインは奪うように掴む。
 瞬間、彼の手まで赤くなってしまうのではないかという妄想が、頭の中を駆け抜けた。
「触らないでくれ」
「…どうして」
 青く、空のように澄んだ瞳が僕を射抜く。その青に捕らえられ二の句が継げなくなってしまった僕の手に、彼はそっと頬を寄せる。
 ぞくり、と背に痺れが走った。
「俺が血で汚れる……とでも思ったか?」
 いたたまれない気持ちのまま頷く。
「…汚せばいいさ。俺は、お前になら汚されても構わない」
 まるで物騒な睦言のようだと思い、必死でその考えを掻き消した。
 僕はどうしてそんなことを。
 途端、強く手を引かれ、そのままカインを押し倒す格好になる。
 狼狽えて身を起こそうとした僕の肩を抱き、カインは僕の手を見つめ、笑った。
「お前の手は綺麗だよ」
「……カイン」
 親指を手のひらにゆっくりと這わせながら、
「本当に汚れている人間は、こんな風に悩んだりしやしないさ。俺はそう思う」
 肩をシーツに押さえつけられ、二人ともベッドに転がった。
「…明日は早い。睡眠をとっておかないときついぞ」
「……うん」
「お前が眠るまで、手を握っていてやるから」
「…うん」
 温もりが欲しくて、カインの体をきつく抱く。びくりと跳ねた体は、しかし、逃げようとはしなかった。
「カイン、いつもごめん…」
「俺が好きでやっていることだ。気にするな」

 彼を抱きしめたまま、とろとろと眠りの淵へ落ちていく。

 君の傍にいれば、僕は心まで闇に侵されずに済むんだろうか?

 意識が霧散する直前に、淡く光る金糸に唇を寄せる。
 冷たい。
 思うと同時に、僕は今度こそ意識を手放していた。



End




Story

セシカイ