あの人だ、と思った。
 バロン城で出会ったときは平静を装っていたみたいだったけれど、彼――カインさんは、ゴルベーザさんを見つめて立ち尽くしていることが多かった。
 ゴルベーザさんが振り返ると、すっと目を逸らす。
 ゴルベーザさんも気づいている風だったけれど、それ以上、何か行動を起こすことはなかった。

“離れてから気がつくだなんて、本当に馬鹿だ。
 どうして、お前なんかを好きになってしまったんだろう。”

 手紙でだけ素直になることができた、カインさん。
 聖竜騎士になった彼は、少しは自分の気持ちに素直になれるのだろうか。
 普段「子どもだ、餓鬼だ」とカインさん自身に言われている僕にだって、分かる。カインさんは、ゴルベーザさんのことを忘れられてはいないのだ。
「カインさん」
 彼は、また、カプセルの中に入らずに目を閉じていた。毛布も掛けずに、魔導船の壁に背を預けている。
 彼が眠っていないことを、僕は知っていた。
 長く節ばった指が、槍を強く握りしめていた。
「……どうして、横になろうとしないんですか」
 カインさんは答えなかった。
 膝を抱えている彼の姿は、まるで行き場をなくした子どもみたいだ。
「カインさん……」
 カインさんの長い睫毛が、ぴくりと動く。
 彼を見つめたまま、僕は長いことそこに立ち尽くしていた。


***


 カインさんの心を子どもに変えてしまう“彼”と二人きりになれる時を、ずっとずっと待っていた。
 なかなかその時はやってこなかったけれど、僕は辛抱強く待ち続けた。
 ゴルベーザさんに、この手紙を渡さなければならない。彼に宛てられた、この手紙を。
 本当は、渡しても良いものかどうか迷っていた。でも、そんな迷いは初めのうちだけで、『どうしても渡さなければ』という想いは日に日に強くなっていった。
 ゴルベーザさんの紫色の瞳は、いつだってカインさんを追っていた。けれどその瞳はすぐに逸らされてしまうから、カインさんが気づく筈もなくて。
 ただ、歯痒かった。二人とも、素直に見詰め合えばよいのにと思った。
 カインさんは、ゴルベーザさんの焦がれるような瞳を。
 ゴルベーザさんは、カインさんの切なげな瞳を。
 お互いに目を逸らさずにいれば、きっと、絶対、幸せになれると思うのに。



 チャンスは突然訪れた。
 皆が寝静まった後、ゴルベーザさんは寝所を一人抜け出したのだ。僕も慌てて、後を追った。
 真っ暗な世界で、彼はただ遠くを見遣っていた。
「……ゴルベーザ、さん」
 思い切って声を掛けた。今しかない、と思った。
 ゴルベーザさんが振り返る。少し驚いた顔をして、「何だ」と無愛想な声で口にした。
 不器用そうなところが、何だかカインさんに似ているなと思った。
「貴方に、渡したい物があるんです」
「……渡したい物?」
 駆け寄って、彼を見上げた。その背は父さんよりもぐんと高くて、でも、髪の色は父さんにそっくりだった。
 僕は大切にしていた手紙を懐から取り出して、ゴルベーザさんの手を取った。
「カインさんからです」
 分厚い手のひらに、小さな手紙をそっとのせる。
「……少し前に書かれたものだと思いますが……カインさんの気持ちは、この手紙を書いた頃と変わっていないと思います」
 震える声で、言った。
 ゴルベーザさんは、小さな手紙をしばらくの間見つめていた。彼の指先がぴくりと動く。開かれる――と思われたが、手紙が開かれることはなかった。彼の手の上で、ぼう、と小さな火がつき、鳴った。
 彼は、無言だった。
「…………どう……して……」
 目を細めたら、視界がぼんやりと歪んだ。
「……どうしてっ!!」
 無我夢中で、ゴルベーザさんの腰にしがみついた。
 どうして、どうしてどうして。どうして、こんなことをするんだ。
「…………もう、良いのだ」
「ゴルベーザ……さん……?」
 大きな手が、僕の頭を撫でた。
「カインも、捨てることを望んでいるだろう」
「で、でも!この手紙には……っ」
「私と共に過ごした時の記憶など、消してしまいたいに違いない。カインは今、前に進もうとしている」
 どこからか吹いてきた風が、ゴルベーザさんの手のひらから黒い煤を奪っていった。
 その手をぐっと握りしめて、ゴルベーザさんは遠くを見る。
「近づけば近づくほどに、私達は互いを傷つけてしまう。古傷を抉り合って、その上に新しい傷を重ねてしまう。……私とカインは、そういう関係を築くことしかできんのだ」
「……ゴルベーザさん……」
 胸がずきずきと痛んだ。抽象的な言葉の裏に隠された何かを汲み取ろうとするのだけれど、その想いは、悲しげな瞳に掻き消されてしまう。
 ゴルベーザさんが、膝をつく。強く抱きしめられて、思わずきつく目を閉じた。
「私は、カインだけではなく、セシル――お前の父親や母親、そして多くの人々を傷つけた。私に、人を想う資格はない」
 父さんは、ゴルベーザさんのことを恨んでなんかいない。母さんも、同じだ。
 僕の星の人々は、ゴルベーザさんを恨んでいるかもしれない。だけど、ゴルベーザさんだって、傷つけられた人間のうちの一人なのだ。
 人を想う資格がないだなんて、そんなこと、ない。
「ゴルベーザさん」
 体を離し、じっと薄紫色の瞳を見つめる。
 煤が少しついた手のひらを両手で包んで、僕は必死に言葉を紡いだ。
「『離れてから気がつくだなんて、本当に馬鹿だ。どうして、お前なんかを好きになってしまったんだろう』」
 カインさんの手紙に書かれていた言葉。
 何度も何度も読み返していたから、僕はその全てを覚えていた。
 同時に、燃やす前に一度だけ読んだ、あの一文を思い出す。
「『お前に伝えたいことがあるのに、何一つ伝えられない』」
“僕の言葉”ではないと、ゴルベーザさんは気づいたようだった。
「……セオドア」
 僕の髪をもう一度撫で、「カインを呼んできてくれ」と少しだけ唇の端を上げる。
「あの時――カインと別れた時、お前と同じくらいの年齢であれば、私ももう少し素直でいられたのかもしれないな」


 カインさんを揺すり起こして、外に連れ出した。
 責められることも覚悟していたのに、カインさんは少し驚いた顔をしただけで、何にも言わなかった。
「……セオドア、あっちへ行っていてくれるか……?明日は早い。もう寝ろ」
 ゴルベーザさんと対峙した彼は、震える声でそう言った。
 僕は、大きく頷いた。踵を返す。最初から、そのつもりだった。
 ああ、でも。
 僕は振り返って、ゴルベーザさんを見上げた。
「ゴルベーザさんっ」
 何だ、と、ゴルベーザさんは瞳だけで返事をした。
「カインさんを泣かせないでくださいね!約束ですよ!」
「……ああ」
 カインさんの焦ったような声が聞こえたけれど、もう何も聞こえないと言う風を装って、寝所に向かって駆け出した。


***


 二人きりで会話をする。それが、こんなにも難しいことだなんて。
 搾り出すみたいにして言葉を紡ぐのだけれど、強張ってしまう体を止められない。
 幾らか会話を交わした後、やっと、目的の言葉を口にすることができた。
「……セオドアが言っていたことは気にしないでくれ」
 言うだけで、胸が喧しく鳴ってどうにかなりそうだった。
「カイン、私の目を見て話せ」
 肩を強く掴まれた。見上げるのが何故だか恐ろしくて、俺は首を横に振る。触れられた場所が熱くて堪らなくて、「やめろ」と一言吐き出した。
 どうして、今更。
 今更、俺に触れたりするんだ。
「カイン……お前の瞳が見たい」
 俺の心を、揺り動かさないでくれ。無理矢理に殺したあの感情を、目覚めさせないでくれ。
 言葉が優しければ優しいほど、それらは凶器となって、俺の胸に襲いかかってくる。
 顎を掬い上げる指先。振り解こうとするも、絡めとられてしまう。息苦しさを覚えるほどの口づけに、頭が真っ白になった。
「……ふ、う……っんん……っ」
 押し退けようと胸を叩くのに、上手く力が入らない。ゴルベーザに触れられているという事実だけで、俺の体は抵抗を放棄してしまう。
 体が、憶えているのだ。ずっと昔に与えられた感覚を、この体は忘れていない。
 忘れてしまいたい。忘れることができないから、俺は前に進むことができない。
 過去の自分の全てを赦し抱きしめ、聖竜騎士となって、それでもなお、忘れることのできない感情の一部。ゴルベーザに対する想いは、溶けない氷のように、俺の中で生き続けていた。
 会えなくなってから、遠く離れてしまってから、自覚した感情。
「……ゴル、ベーザ……ッ……」
 胸元を弄る指先は、性急に事を進めようとしてくる。眦に与えられる口づけは、ひどく優しかった。
「カイン……」
 地面に横たえられる。見上げた先にある薄紫の瞳が懐かしくて、嗚咽が漏れてしまいそうになった。
 ゴルベーザは微笑み、以前と何ら変わらぬ、寂しげな表情を浮かべ、言う。
「……眠っている間も、お前の夢ばかり見ていた」
 言わないでくれ、お願いだ。捨てようとしていた想いを、蘇らせないでくれ。
「私の言葉と存在が、お前を傷つけてしまうということは知っている。……それでも……」
 涙が溢れ出して、止まらなくなった。ゴルベーザが、俺の胸元に顔を埋める。胸が締めつけられ、その頭を強く抱いた。
「それでも……私は……」
 音にならずに消えたゴルベーザの心の声を、俺は知っている。
 何故なら俺も、ゴルベーザと同じ気持ちだったからだ。



 誰とも交わっていなかった体は、荒々しい愛撫に悲鳴をあげていた。
 不器用なところは変わらないんだな、と、俺は心の中で呟いた。
「……ん……っ!」
 下げられた下着と体の間で、透明な雫が糸を引く。勃ち上がったものに口づけられて、腰が逃げをうった。
 指先が、先走りの液を掬い取る。
 恥ずかしくて、顔を腕で覆い隠した。
「恥ずかしいのか?」
 彼は、少しだけ笑っていた。昔は平気だったのに、何故、こんなにも恥ずかしいのだろう。
 窄まりに、濡れた指が潜り込んでくる。びくんと震えた俺の体を片手で抱きしめて、ゆっくりと出し入れし始めた。
「ひ、う……っ、う……あぁ……っ」
「痛いか……?」
 首を横に振る。痛くはない、けれど。
 ゴルベーザは、俺の体の全てを知っている。巧みに良い場所を探り当て、執拗にその場所を愛撫する。
 大きな声を出してしまうことを恐れて、俺はゴルベーザの肩を噛んだ。
「んん……っん……!」
 増やされた指が引き抜かれ――代わりに、猛ったものが押し当てられた。
「――――っ!」
 目も眩むほどの衝撃に、背を仰け反らせる。片足を抱え上げられ、挿入が更に深くなった。
 ゴルベーザと抱き合っている。これは、現実なのだろうか。夢ならそれでも構わない。ただ、少しでも良いから、傍にいて欲しかった。
 秘部に、小さく走る痛み。
 ぽたり、ゴルベーザの汗が胸元に落ちてきた。
「……ゴル、ベーザ……ッ……気持ち、いい、か……?」
 内壁を擦り上げられる度、背筋に甘い何かが走る。痺れは痛みを伴い、脳裏に懐かしい光景を映し出した。
 あの塔でも、こうやって抱き合っていた。
 まるで、お互いに抱きしめあっていなければ死んでしまうのだとでもいうように、ずっと、こうして背に手を回していた。
 あの頃の俺たちは、きっと、終わりが来ることを知っていた。明日すら見えない日々に怯えながら、愛欲に堕ちていくことしかできずにいた。
「あっ、あぁ……っ、う……っ!」
 明日がないのは、今も同じだ。
 いつ殺されるのかも分からない日々を、俺達は生きているのだから。
「訊かずとも……分かるだろう?」
 ゴルベーザの荒い息。耳元を擽るのは、甘く低い声だ。
 もっと深く彼を感じたくて、ゆるゆると腰を振った。いやらしい音が耳を犯し、恥ずかしいのに、何も分からなくなってくる。
 抽迭の動きが速くなり、ゴルベーザの肩に爪を立てる。口づけを求めて舌を出し、彼の顎を舐め、唇に齧りついた。
 気持ちいい。離れたくない。この男が好きだ。もう恋なのか愛なのか、それ以上の何かなのか、それすら分からぬほど、好きだ。
 もっと深く犯して欲しい。心の奥深くまで、侵し尽くして欲しい。
「……好き、だ…………好き……っ……」
「カイン……」
「も、う……どこへも、行くな……っ!」
 あの時どうしても言えなかった言葉を、口にする。体の芯がかあっと熱くなり、頭が真っ白になって、俺は欲望を放った。
 きっとまた、この人は行ってしまう。痛いほど、分かっているのに。
 腹の中に注がれる感触に、息を呑みながら目蓋を閉じる。
「……お前を、愛している。だが、その望みを叶えてやることは、できん……」
 この答えが返ってくることを、俺は知っていた。それでも、もしかしたら「傍にいる」と言ってくれるのではないかと、俺は少しだけ期待していたのだ。
 何て、愚かなんだろう。
「……また、手紙を書いてくれないか。たまにで構わない。少しだけで、いい。いつになるかは分からぬが、私が目覚めて青き星に辿り着いたとき、お前の手紙を目にする日が来るかもしれない」
 永い眠りの果てにあるのは、永遠の別れだ。俺とゴルベーザの時間は、もう二度と交わらない。
 そう、時間すら、交わることはないのだ。
 きつく閉じた目蓋の隙間から、温い雫が流れ出す。
「カイン…………本当に、すまない。結局、セオドアとの約束も守れなかったな」
 目蓋を開いて薄紫の瞳を見上げると、彼はいつもの、あの悲しげな顔で微笑んでいた。
 ああ、この微笑みを心に刻みつけておこう。決して、忘れないように。
 指先を彼の頬に添え、
「ゴルベーザ」
 愛しい名前を口にする。
 それから俺は、痛む胸を無視しながら、唇の端を上げて笑った。
 ほら、セオドア。俺は、泣いてなんかいない。
 泣いてなんか、いないだろう?




End




Story

ゴルカイ