いきなり洗脳を解かれ、
「…どうして」
と、俺は思わず口にした。
 ゴルベーザは『セシルを殺しに行く』と言い、暗い笑みを浮かべて部屋を出て行った筈だった。

『月に連れて行ってやる』

 そう言いながら、俺に口づけてきたのは、つい先刻のことだ。
 彼に何があったのか。
 分からずに、呟く。
「どうして」
 言いつつ、俺はゴルベーザの顔を見遣った。彼は、さっき俺に放った言葉をもう一度繰り返す。
「セシル達のところへ、帰りなさい」
 建物が―――バブイルの巨人が―――小刻みに揺れ始める。そのことに気が付いた俺は、高鳴る鼓動を抑え、ゴルベーザに近づいていった。
 体が自由になるのは久しぶりのことで、激しい頭痛と眩暈に耐えながら足を進めていく。廊下がぐらぐらと揺れているように見えた。
「カイン」
 困惑した声で、ゴルベーザが俺の名を呼ぶ。
「…もう、私の言うことなどきかなくても良いんだ」
 よろめく俺の体を支えながら、兜の奥で彼が言う。
「お前を縛るものは、何もないんだから」

 封印の洞窟でクリスタルを奪い、俺はゴルベーザの元へ帰ってきた。そう、今思えば、その頃からゴルベーザの様子はおかしかった。
 以前は酷く厳しかった物言いが、少し優しくなったり、寂しげな微笑を見せることが多くなっていって、時たま別人じみた話し方をするようになって。

 一つの結論に行き着いて、俺はごくりと喉を鳴らした。
 操られているときの俺はとても無表情だった。言葉遣いも変わり、ただの生き人形と化していた。
 もしかして、ゴルベーザは。

「…お前も、誰かに操られていたのか?」
 膝を折りそうになった俺を、黒い甲冑が抱く。
 つるつるとした感触の胸元に縋りつきながら、俺は訊いた。
「俺と、同じなのか…?」
 眩暈がした。
「……ああ。同じだ」
 髪を撫でる手に意識を持っていかれそうになる。
 眩暈が、止まない。
 頭の中で、彼と出会ってから今までに起こった出来事が、回り、浮かんでは消えていく。

 出会った日…洗脳された日のこと。
 彼の素顔を初めて見た日のこと。
 そして、甘く口づけられ、抱き締められた夜のこと。
 全部、紛い物だったということなのか。
 全て、偽者だったのか。

「……寂しい、と…………俺と共にいたいと言った、あの言葉も嘘だったって言うのか」
 心なしか、彼の腕に力が篭るのを感じた。
「嘘ではない」
 きつく抱き締められる。声は掠れていた。それが嗚咽交じりだったように思え、
「…兜を外して欲しい」
と望みを口にする。彼は無言で兜を外しにかかる。俺も、自らの兜に手をかけた。
 黒い兜の向こうに見えたのは、いつになく優しい眼差しで。
「ゴルベーザ…」
 優しくて穏やかで、でもどこか寂しげな男。ゴルベーザ、これがお前の本当の顔なのか。操られているときも、こういう表情を見せることがあった。その悪に染まりきらない表情に、俺は惹かれていったんだ。
「お前のことが、好きだ」
 彼の決意の揺らぎが透けて、瞳の奥に映し出される。
 お互いに涙を流している姿は、傍から見れば酷く滑稽なものだろうと思う。それでも。
 手を伸ばす。言葉が出ない。息が出来ない。見つめ合い、想いを混ぜ合う。指先で、唇に触れる。
 彼は言わない。決して、胸の奥底にある言葉を口にしない。
 巨人が揺れ、時間が動き出した。
「…もう、行かなくては。……セシル達なら、この廊下の向こうの部屋にいる。お前も早く逃げろ」
 マントを翻す、その手に縋りついた。冷たい手袋に覆われている、骨ばった長い指先が離れていく。
 兜を被り無表情の仮面を着けた、黒い背中が遠ざかる。
 手にした兜を装着し、俺もまた、踵を返した。

 もう二度と、俺達の時間は交わらない。


End