幸福な時間は一瞬で終わる。
 何年も――――何百年も生きてきた私にとって、それは悲しい事実だった。
 だから、私は与えられた温もりを、素直に受け入れることが出来なかった。


「触るな」
 頭に触れてきた、湿った手を払い除ける。
 硬直した笑顔が、私の瞳に飛び込んできた。
「……んだよ。触るくらいいいだろ」
 再度、カイナッツォがこちらに指を伸ばしてくる。
「やめろ」
と呟いて、私は顔を背けた。その言葉を無視して、カイナッツォは私の頬に触れ、額を合わせようとする。仰け反って身を捩った私の肩を捉え、肩口に頭を寄せてきた。
 仕方なく、私はそれを受け止める。
「お前の匂いが好きだ」
 耳元で囁かれ、背がゾクゾクと震えた。
「離せ、さわ……るな……」
 ああ、駄目だ。背だけではなく、声も震えている。
 震えている私の声を、彼はおかしく思うだろう。気付いていなければいいのだが。
 そんな願いも空しく、私の様子の変化に気が付いたらしいカイナッツォは訝しげな顔をして私の顔を覗き込んだ。
「……何を震えてやがる」
「震えてなど」
「震えてんじゃねえか、ほら」
 ローブに隠されている手を捲くられ、見せつけるようにして瞳の前に突きつけられる。私の指先は、ふるふると揺れていた。かあっと頭に血が上る。ここから消えてしまいたい気分になった。
「う、うるさ…っ」
 振り解き、全速力で走り出す。銀色の廊下の上で、ぺたぺたという足音が鳴った。
「おい!」
 追い縋ってくる手を退けた。私と彼、二つの足音が、微かに木霊し続ける。
「待て!おいっ!」
「来るな!」
 語気を強めて言えば、足音が一つになる。どきりとして振り向くと、カイナッツォは少し離れた場所で、私の姿を眺めていた。彼の目は、悲しげに細められている。
「……カイナッツォ…………」
 卑怯だ。彼があんな表情をするなんて、思ってもみなかった。彼はもごもごと口を動かし、はあ、と溜め息をついている。
「……嫌か?」
 沈んだ声。
 ローブの袖を握り締めて、私は彼の言葉を待った。
「俺に触られんのが、そんなに嫌か」
 真っ直ぐな物言いに胸が鳴った。

 嫌ではない、と思う。もっと触れられたい、とすら思う。
 軽口をたたいている時の彼の瞳が笑っていないということにも、見つめてくる瞳が真剣なことにも、触れてくる手が優しい動きをしていることにも、私はずっと前から気がついていたからだ。
 けれど今は、その真摯な眼差しと優しい手を恐ろしく思う。
 何故なら、この幸福は一瞬のものなのだ。
 彼はいつか死に、私はまた一人きりになる。そうして私は、彼の温かさに想いをはせて生きていかねばならなくなる。
 きっと、惨めで空しい時を過ごすことになるだろう。
 孤独の中で、二度と届かない温もりに手を伸ばして生きていくなんて――――。

 問いには答えず、ローブの裾を引き摺って、ずるずると私は歩みを進めた。歩きながら、そうっと目元に触れてみる。
 目頭がじいんと痺れ、涙が流れたような気がしたけれど、それは気のせいだった。腐りきった私の体は、涙を流すことも出来ない。涙が出そうな感覚だけが、私の体を襲い始めた。
「……答えろ」
 自室に戻って、何もかも忘れてしまいたかった。
 甘い温もりを忘れて、もやもやした気持ちを消し去ってしまいたかった。
「ホールド!」
 高らかに響いた声が、私の行動を遮った。
 指先一つ動かせなくなり、その場に蹲る。しかし、蹲っていることすら辛くなってしまい、床へ倒れ込んだ。
 カイナッツォが、うつ伏せになっている私の体を仰向けにする。熱さを含んだ瞳と目が合った。その眼差しの強さが怖くて堪らなくて、息苦しさが酷くなる。
 彼は私の両肩を床に押さえつけ、言い聞かせるかのように囁き始めた。
「……そんなに嫌なら全力で抵抗すりゃあ良かったんだ。何で、今まで俺の好きにさせてやがったんだ」
「…………あ、ぁ……」
 微かに、私の喉が音を放った。
「何もかも諦めたような、情けない顔……しやがって……」
 涙が溢れて止まらなかった。いや、現実的には涙など流れてはいない。
 心が涙を流しているのだ。滂沱の涙を流しているのだ。
 お前と生き、お前と死ねたらどんなに幸せか。
「わ、わた、わた……しは…………」
 舌先が硬直し、上手く話せない。
 お前の温かさを感じるその度に、私の心は弱くなっていく。更なる温かさを求め、脆くなっていく。
 こんなことには、耐えられない。
「……つら、い…………」
 胸の中が、涙塗れになっているような気がする。
 腐った皮膚を掻き毟って、胸を満たす涙を溢れさせてしまいたかった。
「……さわらな…………で、くれ……おねがい……だか、ら……」
 肩を押さえつけている手の力が緩む。
「…………ひとり……に、してくれ……」
「そんなに、嫌なのか」
 全てを終わりにしたいと思い、緩慢な動作で頷く。
 私の顔を覗き込んでいるカイナッツォの瞳に、絶望が満ちた。
「……悪かった」
 私の体を戒めていたホールドの効力が切れる。カイナッツォは私の顔を一瞥してから立ち上がり、自室へ向かって歩き出した。
 振り返らない背中をじっと見つめたまま、私は暫くそこから動くことが出来ずにいた。




 部屋に戻ってからも、カイナッツォの瞳の強さは私を捉えて離さなかった。
 嫌ではないと告げるべきだっただろうか?
 一人になるのが怖いのだ、と正直に言うべきだっただろうか?

――――温もりなんて、知らなければよかった。知らなければ、傷つくこともなかったのに。

 そこまで考えて、カイナッツォの絶望に満ちた瞳を思い出す。
 私は彼を傷つけてしまったのだ。自分が辛い思いをしたくないからといって、彼を傷つけて逃げたのだ。
 何て自分勝手なんだろう。私は自分の愚かさを呪った。
 扉を開き、廊下に出る。そうして、私は彼の部屋を目指して歩き出した。正直に、自分の気持ちを伝えなければならないと思った。
 途端、脳内に低い声が流れ込んできて、私は歩みを止めた。

『……スカルミョーネ』

 それは、ゴルベーザ様の声だった。

『話がある。すぐに来い』

 有無を言わさぬ強い語気に、ああ、私の出番が来たのだ、と思う。
 私はきっと、セシル達に敗北するだろう。そして、腐り落ちた体を更に醜くさせて、生きていくことになるだろう。もしかしたら体が耐え切れずに、魂だけになってしまうかもしれない。
 姿かたちのない魂になった時、私は何を思うのだろう。何を思い出すのだろう。
 彼の温もりに想いを馳せながら、暗闇を浮遊し続けるのだろうか。
 思いつつ、ゴルベーザ様の部屋へと方向を変える。

 醜いこの体で、彼に再開を果たしたその時は、今度こそ、胸の奥にある素直な気持ちを伝えよう。
 魂だけになってしまったその時は、彼の温もりを思い出し、それだけを頼りに永遠の時を過ごすつもりだ。

 空調が吐き出すカタカタという機械音だけが、私の耳を延々と撫で続けていた。


End


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