気づけば、心も視界も、暗闇の中だった。
暗闇の中、鈍い輝きを誇示していたのは、不気味なほど真っ黒な腕だった。
「お前は誰だ」
差し伸べられたその手は、動かない。
不安になりながら、もう一度問いかけた。
「ここは、どこだ」
「……ここは、心の中だ」
どこからともなく、低い声が聞こえてきた。そのあまりの低さに震え上がる。
「心の中」と復唱し、辺りを見回した。
今の声は、この腕のものなのか。「心の中」とは、俺の心の中なのか。分からない。
「……お前は誰だ」
喉の奥で、低い声が笑う。
「――――私はゴルベーザ。お前の主だ」
擦り切れた手首が痛い。這いつくばって見上げると、牢の壁には小窓があった。小窓の中で、青空が光っている。
ゴルベーザという男に囚われこの牢に入れられてから、もう何日になるだろう。
石を使い後ろ手で壁を引っ掻いて、傷を書く。『時間の感覚を保っていられるように』と、朝目覚める度壁に刻みつけている傷は、もう十を超えていた。
「今日で、十二日目か……」
湿気の溜まった牢の中、出来ることは何もない。足首は鎖に繋がれ、手首は後ろ手に縛られている。腕に巻かれた拘束具は胸元に繋がっていて、少しだけ息が苦しい。兜を失った頭が、落ち着かない。
何故、こんなところに囚われているのか。ミストで気を失った後の記憶は混濁していて、何も分からない。分かるのは、一日に二度この牢を訪れる『ゴルベーザ』と名乗る男が、唯一、自分と外界とを繋ぐ存在ということだけだった。
「ゴルベーザ……」
男の目的は何なのか。何のために、俺を捕え縛りつけているのか。男に問うても、答えは返ってこない。
重い扉を開く音。
続いて、足音が響き始める。
「ゴルベーザ!」
叫ぶと同時に、黒い甲冑の男が現れた。手には食事をのせたトレイを持っている。恨みを込めて睨みつけると、ゴルベーザは小さく笑った。
「食事はいらんのか」
毎食、そう問いかけられる。食事は必要だ。だが、この男に食べさせられるのはご免だった。
体を拘束されているせいで、自分で食器を持つことができない。だから、この男に頼る他ない。
かちゃん、地面に置かれた食器が鳴った。ゴルベーザが、スプーンでスープを掬い上げる。
「口を開けろ」
躊躇う間もなく唇にスプーンを押し当てられ、仕方なくそっと口を開いた。悔しい。男を睨みつけながら、嚥下した。
「その目が気に入らんな」
スプーンを舌で押し出して、「こんな場所に閉じ込められているんだ。睨みつけたくもなる」と吐き捨てるように言った。
「こんな所に閉じ込めてどうするつもり……――――っ」
スプーンを捩じ込まれる。黙っていろということなのだろう。飲み込んだらまたスプーンを押し当てられ、口を開く以外に道はなくなる。何度もそれを繰り返した結果スープ皿は空っぽになり、同時に、ゴルベーザが立ち上がった。
「待て!」
訊きたいことが、山ほどある。
手を伸ばそうとして、手を使えないことに気がついた。使えるものはこれしかない、と、追い縋り、ゴルベーザのマントに歯を立てる。布が、ぴんと突っ張った。
「……面白いことをする奴だ」
犬歯にぎりぎりと力を入れれば、布地に穴が開く。歯茎が痛む。思い切り引っ張った。
「う……っ!」
突然、目の前に火花が散った。マントが千切れ、その唐突な動きに対応することができず、体が壁に叩きつけられた。唇から、マントの切れ端が落ちる。
ゴルベーザが何らかの魔法を使用したのだ、と思った。
唇を舐めると、血の味がした。
「何の真似だ」
重く白々しい声に、男の兜を睨みつけた。
俺は、この男の素顔を知らない。真っ黒な兜の向こうにあるであろう瞳も、動く唇も見たことがない。目的はなんなのか、それが知りたくて堪らなかった。
「目的は何だ!」
ゴルベーザは答えない。
目の前に残されたのは、黒いマントの切れ端だけだった。
◆◆◆
それは、私自身にも分からないことだった。何故、あの男を殺さずにいるのか。
いや、一度は殺そうとしたのだ。ミストで血と埃に塗れていた男の喉に、手をかけたはずだった。縊り殺そうと喉元に触れた途端、混濁した意識の中、男はにっこりと微笑んだ。
私のことを『セシル』と呼び、『無事だったのか』と呟く。男は、私を誰かと間違えているらしかった。『お前が無事で良かった』と泣き出しそうに顔を歪め、それから、ゆっくりと瞼を閉じた。
青い瞳に射抜かれた瞬間、時間が止まったように思われた。ぞくりと背を駆け抜けた、あの感覚の正体が分からない。
男を――カインを――連れ帰ると、四天王達は驚いた顔を見せた。ゴルベーザ様が人間に興味を持つなんてと、皆首を傾げた。腕に抱いた男の体はあたたかくやわらかく、それから、血のにおいがした。
あたたかい、生き物のにおい。頭の中が、ぐらぐら揺れる。
人間など、ただの道具に過ぎない。しかも脆弱な体しか持っていないから、捨て駒だ。なのに何故、カインを放っておくことができずにいるのだろう。魔物に世話させることもできるのに、何故、あの牢屋に自ら足を運んでしまうのか。
「ゴルベーザ様」
ルビカンテが、訝しげな顔をしてこちらを見ていた。
「あの人間を、どうするおつもりです」
魔物の餌にするのか、ルゲイエの実験道具にするのか、操って人形に変えてしまうのか。ルビカンテは、そう問うているのだ。
カインが魔物の餌になっている様を想像して、不快感を覚えた。ルゲイエにやるつもりもない。しばらく考えた後に、「操れば使えるだろう」と答えた。
操るのは簡単だ。頭の奥を少し弄ってやればいい。そうするだけで、人は人形に成り果てる。宝石のような瞳は色を失って硝子玉に変わり、反抗的な態度は奥の奥に押し込められてしまう。洗脳は便利だ。だが私は、洗脳された者の硝子玉のような瞳が嫌いだった。
無機質な瞳。感情が消え去った瞳。「ゴルベーザ様」と呼ぶ声は、機械のようになってしまう。
「……この拘束を、解け……!」
洗脳をかければ、目の前にいる男もそうなってしまうのだろう。何もかもを失った瞳で、こちらを見るのだろう。
牢の小窓から射し込んでいる光が、カインの髪を透かす。青と金の美しさに、目が眩んだ。
スプーンでスープを掬い、カインの唇にあてる。だが、彼は口を開かなかった。鋭い目付きでこちらを睨みつけていた。
色褪せぬ瞳に、言い知れぬ恐怖を感じた。どうして、この男はこんなにも真っ直ぐな瞳を保っていられるのだろう。
「――――俺は、バロンに帰る。セシルの所に戻らなければ」
『セシル』。それは、ミストで聞いたあの名前だった。カインの心を支えているのは、『セシル』なのだと気がついた。ルビカンテに調べさせたから、それが誰なのかは知っている。ミストにボムの指輪を届けるため、カインと行動を共にしていた男の名前だった。
セシルは、召喚士の少女と共にミストを後にした。それを知りながら、意地悪い言葉を口にした。
「『セシル』が生きているという確証はあるのか」
真っ直ぐな瞳が、小さく揺れる。泣き出しそうに歪む。首を横に振るカインの仕草は酷く憐れで、彼にこんな表情をさせる人間がいるという事実に驚いている自分がいた。
胸の奥が、錆びついた機械のような音をたてる。カインを見ていると、嫌な音が大きくなっていくような気がした。
「く……っ」
顎を掴み、目を逸らそうとするカインの瞳を見る。澄んだ青い瞳の奥にある、どす黒い何かが蠢いて見えた。
美しい瞳の奥にある、汚らしいもの。私がよく知っているものだ。直視することも躊躇われる想いだった。
「やめろ……!」
何か嫌なものを感じたのだろう。私の手から逃れようと、カインは身を捩った。壁に押し付け、意識を集中させる。薄紫色の光が瞬く。
ほんの少しだけ、洗脳の術を流し込んだ。
カインの唇が、何か言いたげに震えた。
「……苦しいか?」
意識ははっきりしているはずなのに、カインは答えなかった。瞬きを何度か繰り返してから、蚊の鳴くような声で「どうして」と呟いた。
「……からだ、が、うごかな…………」
ずるり、力を失った体が凭れかかってくる。カインの膝が当たり、スープ皿がひっくり返った。私の鎧とカインの爪とが擦れ、きいきいと鳴る。いや、鳴っているのは私の頭の中なのか。
カインの眼差しは変わらなかった。上目遣いの澄んだ瞳は空のように透き通っていて、この程度の洗脳では瞳は曇らないのだということを知った。今までは使い捨てにするためだけに術をかけてきただけだったから、そんなことすら知らなかったのだ。
「ゴルベーザ……」
暗い響きを持っている声には、恨みにも似た何かが篭められているような気がした。
虫の羽音、油切れの音、様々な音が鳴りだして止まらなくて、これはカインに触れているからだと分かっているから彼を消してしまいたいと思うのに、心のどこかがそれを許してはくれなかった。
カインを、消してしまいたい。
青い瞳を見ていると、思い出してはいけない何かが頭の中に浮かび上がってきそうになる。
無抵抗な男の目を、側に置いてあった布で隠した。
「……な、に…………やめろ……っ!」
これでもう、瞳は見えない。
「いやだ……」
目も、手も、足も何もかもを封じられ、カインは声を震わせた。これから何をされるのかが分からず、恐ろしくて堪らないのだろう。
何故、私はこんなことを? 自問自答を繰り返しながら、目隠しをゆっくりとなぞる。
「――――カイン。これは命令だ」
私が言うより早く、カインは上体を傾け始めた。
「ふ、うぅ……ん、んん……っ」
形の良い唇をペニスの形に歪めながら、カインは顔を前後に揺すっている。彼の体を動かしているのは、私の『術』だった。術を使うことで、彼は私の思い通りに動く人形になる。心を殺さぬよう、体だけを支配する。こんなにも丁寧に術をかけたのは、初めてのことだった。
唯一、体の中で声だけは自由にさせているのだけれど、それも、口に含んだペニスのせいで自由になってはいなかった。
「んん、ん、ん……う、う……ぅ……」
頭を動かす度、唇の端から唾液が零れ落ちる。
『見てみろ、この男はただの人間なのだ』。そんな声が、頭の中で響いたような気がした。
人間は、脆くて弱くて役立たずでどうしようもない生き物だから、使い捨てにすべきなのだ。この牢屋の中で優しく飼ってやる価値など、この男にはない。
醜い欲望が膨れ上がる。支配欲なのか、肉欲なのか、そのどちらともなのかは分からない。
『セシル』
唐突に蘇った声に、息を飲んだ。
優しく甘く、慈しむような声。
決して私に向けられることのない、やわらかな声。愛情に満ちた声は、未知の領域にあった。
胸の中に渦巻く黒い影。それは、嫉妬心だった。
「んん! ん…………っ!」
全てを口に含ませたまま、喉の奥に流し込んだ。ひゅう、と風に似た音がする。目隠しに滲む涙が、じわじわと広がっていく。
きっと、限界まで開かされた口が苦しいのだろう。悔し涙なのかもしれなかった。
引き抜くと、白濁が舌の上にあるのが見えた。
「飲め」
差し出された舌の先端から、唾液と精液が混じり合った液体が糸となって垂れていく。舌なめずりをする調子で嚥下すると、いやらしい色をして唇が光った。
「……これ、が……」
喉に精液が絡まっているのか、その声は掠れていた。咳を数回繰り返してから、再度口を開く。
「これが、お前の答えなのか……」
『目的は何だ』とカインは言っていた。何の目的で、この場所に繋がれているのかを知りたがっていた。彼は、自分が性欲処理目的で飼われていると考えたようだ。
「こんな目的で生かされるくらいなら、死んだ方がましだ!」
「……お前の意志など関係ない。お前はただの人形だ」
「俺は人形じゃない! 俺はお前のものじゃない! 俺がお仕えするのは、お前ではなくて―」
「―バロン王は、死んだ。今バロン城にいる『バロン王』は、偽者だ」
◆◆◆
最初は、ゴルベーザが何を言っているのか、理解することができなかった。
陛下が死んだ? どういうことなんだ。
「死んだ……?」
「正確には『殺した』のだ。私の部下が」
足元から崩れていくような気がした。では、俺は何に仕えていたのだろう。心の奥に大きな穴が開いたように思われた。 いつから? いつから、バロン王はバロン王ではなかったのだろう。様子がおかしいとは思っていたけれど、あの方が偽者にすり替わっていたなんて。
「そんな……」
瞬間、動かなかったはずの体が動いた。ゴルベーザが術を解いたのだろう。地面に崩れた俺の髪を掴んで、ゴルベーザは言った。
「『セシル』は、お前を置いて旅立った。お前も自由にすれば良い」
「セシルは生きているんだな!? そうか、セシルは……」
「……そんなに、『セシル』が大事か」
目隠しが邪魔だった。男の声は静かで暗くていつも通りで、そこからは、何の感情も読み取れない。
セシルは今どこにいるんだろう、あいつは、陛下が偽者であることを知っているんだろうか。
「『セシル』は、お前を探さなかった」
掴まれた髪が抜ける。ぶちぶちと音をたてる。
この男は嘘をついているんだ。この男の声を聞いてはいけない。この男の言うようにセシルが俺を探さなかったのだとしても、セシルが俺を探さなかったのには何か理由があるはずだ。
セシルは、俺の親友なのだから。
何か、理由が――――そう、何か理由があるに違いない。
心の隙間に、黒い虫が入り込む。今まではありもしなかったものが、胸の中で根をはり始める。
――――いや、これは元からあったものなのかもしれない。
汚らしい嫉妬心。『親友』であるはずのセシルとローザへの、どうにもならない想い。
「あ……っ」
真っ黒い感情が胸を這い、撫で、全てを染め上げていく。
――――セシル、ローザ。
目隠しが涙で濡れている。嗚咽が溢れて止まらない。
「嫌だ、いや、だ……」
真っ黒になっていく、俺の心。止める者はいない。ひたすら黒くなっていく心が、光を失っていく。
「ゴルベーザ、やめろ…………っ」
この男が、何らかの術を使っていることは明らかだった。
首を横に振って堪えようとする。目隠しがずれる。霞がかった視界が開け、誰かの顔が見えた。
「……ゴルベーザ……?」
それは、兜を外した男の素顔だった。
銀の髪、薄紫色の瞳。
悲しげに口元を歪ませ、男は笑った。
「お前も、私を拒むのか」
低い、低い声だった。
世界が――視界が――何もかもが――暗転していく。
夢の中へと、沈んでいく。
◆◆◆
「ゴルベーザ様」
カインは従順な下僕となった。
心を殺さぬように、と術をかけたつもりだったのに、結局、カインの心を封じ込めることになってしまった。術がきつすぎたからなのか。カインの心が弱かったからなのか。
触れた顎はなめらかで、その感触に心奪われ、頬に指先を滑らせる。跪いたその姿は見慣れたものとなり、硝子玉のような瞳の先にあるものといえば、空虚な心だけだった。
封じ込められてしまった心は、何もうつさない。
薄暗い乱れた部屋の中、ちろちろと覗く赤い舌が、ペニスの先端を舐め上げる。目隠しも手枷も足枷も必要ない。脳を縛ってしまえば、人間は抗えなくなる。
カインの舌がペニスを撫でる度、快楽が全身を走り抜けていく。それなのに、何故か満たされることのない自分自身が居た。
「気持ち、いいですか……? ゴルベーザ様……っあ……!」
無防備な、一枚の布。鎧の中にある布は頼りなさを感じさせるほど薄く、乳首を探り当てれば、痛いくらいに尖っていることが分かった。
「んん、ふ、ぁ……っう、うぅ……」
布越しに乳首を撫でるだけで、甘い喘ぎが溢れ出た。くぐもった声をあげながらも、カインは舌を止めようとしない。唾液を絡め、私の快楽を搾り取ろうと顔を動かしていた。
「……そんなに、ここがいいのか」
「う、う…………っ!」
尖った場所を捻り、擦る。彼の下半身に目をやれば、いやらしく勃ち上がったカインのペニスは、先走りを滲ませて服を汚していた。
喉の柔らかいところに先端が当たる。
潤んだ瞳が揺れている。紅潮した頬は時折ゆるく膨らみ、唇の端からは唾液が滴った。
「カイン」
頭を掴み、物のように使う。金の髪に指を絡ませながら、自らの快楽だけを追う。
快楽に溺れてしまえばいい。そうすれば、何も考えずにいられる。
「う、あ……っ!」
思わず口を離してしまったのだろう。きつく目を閉じた彼の顔に、白い液体が飛び散った。
薄目を開けた瞼。上睫毛と下睫毛の間に、白く粘ついた糸が引く。
勿論、カインは達していない。火照った体を持て余し、唇を震わせていた。憐れな姿だ、と思った。
「あとは自分で処理しろ」
そう命じると、カインは声もなく頷いた。先日呼び出した時にもそう命じたから、予想していたのだろう。
床に座り込んでいるカインの姿を眺めた。
カインは私の視線を受け止め、躊躇いながら、その場所に手を伸ばす。
プライドを殺された男の姿は、まるで人形のようだった。
カインは、私によく似た心を持っていた。得体の知れない嫉妬に駆られながら、その嫉妬に迷いを持ちながら、日々を生き続けていた。私は、彼の薄暗い部分を操りの術に使った。彼の心はほんの少しの抗いを見せたものの、あっという間に従順になった。
だが、私とカインには、決定的な違いがあった。
カインには、壊すことのできない大切な何かがあった。
私には、ない。
彼の心の奥底にはあたたかい何かが沈殿していて、そのあたたかい何かが見え隠れする度、私の心は醜く歪んだ。
よく似ているのに、私とカインはまるで違う。それが嫌で堪らなかった。同じものになってしまえば楽になれるのではないかと思った。けれど、カインの瞳の輝きを取り戻したい、と思う気持ちがどこかにあるのも事実だった。
私は、カインに対して恐怖を覚えていた。閉じ込めていたはずの感情を蘇らせた男を、恐ろしく思った。それでも手放すことができなかったのは、カインがいない生活を想像することが難しくなっていたからだった。
人形に成り果てた姿でも、硝子のような瞳をしていても、その存在は本物だった。
目覚めた瞬間、彼に口づけたくなる時がある。隣で眠る金色の髪に目を奪われ、思わず触れたくなってしまう時が。私はその衝動を必死に抑え、寝室をそっと後にするのだった。
これ以上、踏み込んではならない。踏み込んだところで、得るものは何もない。性欲処理のために使うのは構わないけれど、感情を持って接するのは危険だった。
彼の性器に触れたことはない。勿論、交わったこともない。口に咥えさせるだけの関係は、これは単なる性欲処理なのだ、と思い込むのにぴったりだった。
『目的は何だ』
『これが、お前の答えなのか……』
カインの言葉が蘇る。
『こんな目的で生かされるくらいなら、死んだ方がましだ!』
カインを操り始めたあの日から、何度も何度も脳内で再生している言葉達。
『俺は人形じゃない! 俺はお前のものじゃない! 俺がお仕えするのは、お前ではなくて――――』
カインは、私のものではない。
その言葉がちくちくと刺のように突き刺さり、いつまでも取れなかった。
◆◆◆
ゴルベーザが俺に命じている姿を、どこか遠くで見つめていた。俺ではなく、他の誰かが命じられているのではないのか、と。
ゴルベーザにとって、俺はただの人形でしかなかった。セシル達の弱点を吐き、都合の良いように動く。どんな命令にも必ず従う人形は、意思を持つことを禁じられていた。
以前の俺は、常に悩んでいた。セシルとローザを眺めては悩み、自分自身に問いかけ続けていた。
だが、今の俺に悩みはなかった。ぼんやりとした頭の中にあるのは「ゴルベーザ様に従わなければ」という思いだけで、心を縛るものは、何もなかった。
ある意味、今の俺は、今まで生きてきた中で一番幸せなのかもしれない。男の姿を見遣りながら、思った。
普段兜に覆われている、ゴルベーザの顔を見上げる。
俺がゴルベーザの素顔を見ることができるのは、この時だけだった。
舌を伸ばし、大きなものを口に咥える。情けない声をあげながら、ゴルベーザが遂情するまで咥え続ける。俺に与えられる快楽といえば胸への愛撫だけで、そんな些細な刺激にも感じるようになってしまったこの体は、とっくの昔におかしくなってしまっているのだろう。
ゴルベーザは、俺を抱こうとしない。ゴルベーザ自身が達した後は、「自分で処理しろ」と命じるだけだった。
間抜けな俺の姿を嘲笑いたいのだろう。男の性器を舐めて勃起している俺を。
「……ゴルベーザ様……」
ああ、情けない声。なんて情けないんだろう。
薄紫色の男の瞳。
眺めているだけで、脳の奥が痺れだす。男の命令に抗えなくなっていく。男の声が、頭の中で響いて離れない。
これも、洗脳の術のせいなのか?
『お前も、私を拒むのか』
悲しげな笑みが、瞼の裏に焼きついている。
自らのものに手を伸ばす。ゴルベーザは無表情だ。
勃ち上がったものを服越しに慰めながら、喘ぎ、首を横に振った。
「ゴルベーザ様」と、男の名を何度も呼んだ。壊れてしまった人形のように、何度も何度も、呼んだ。
気持ちが良かった。頭が真っ白になった。もう、じきに果ててしまいそうだった。
ゴルベーザが立ち上がる。しゃがみ、俺の顎を撫でるように掴んだ。
「カイン」
そっと囁かれる。悲しい声だった。ぞくりとするほど、恐ろしくなってしまうほど、切ない響きを持っている声だった。既に開いている足を、更に開かれる。心臓が、やかましく鳴っていた。同時に鳴っているのは、先走りの濡れた音だった。
「……あ、あぁ……っ!? い……っ」
唐突に先端を舐められ、何が起こっているのか理解できぬうちに、俺は達してしまっていた。
どうして、こんなことを? 単なる気まぐれなのだろうか。
さっき聞いた切ない声は、なんだったのだろう。
意識が遠のいて、何も考えられなくなっていく。
考えなければならないのに、頭はぼんやりと霞がかっていくばかりだった。
ファブールでの一件は、俺の心を孤独へと導いていった。
「カイン、どうして貴方が」と嘆き悲しむローザを見張りながら、俺の居場所はもうどこにもないのだと思った。
俺は、セシルを殺そうとしたのだ。もう親友に戻ることはできない。ローザの首にギロチンを取り付けたのも、俺だった。恨まれていない筈がない。
「カイン、目を覚まして」
違う、違うんだローザ。俺の意識ははっきりしている。確かに霞がかってはいるけれど、自分が何をしているのかということぐらいは分かるようになっていた。
ローザの大きな目が、潤んでいる。
「カイン……」
大きな目から、涙がぽろぽろと零れた。頭と胸がきりきりと傷んで、俺も泣きだしたくなった。
俺は、何をしているのだろう。
確かに、俺は操られている。でも、本気になれば術を振りほどけるような、そんな気がしていた。
でも、俺は振りほどかない。例え振りほどけたとしても、振りほどいた先に何があるのか、見当もつかなかった。
手を伸ばし、ローザの涙を拭った。目を見開いていた彼女は、綻ぶように微笑んだ。
切ない感情が、胸を締めつける。
温い涙が、手の甲を伝い、手首に垂れ、地面にぽたりと落ちた。拘束を解いてくれるのではないかと期待したのだろう。瞳の奥に宿って見える希望が、酷く痛々しかった。
セシルは今、試練の山を登っている。スカルミリョーネがセシルを倒しに向かったけれど、スカルミリョーネの実力では、セシルを倒すことはできないだろう。セシルは生きる。生きて、聖騎士となる。真っ黒な暗黒騎士の鎧よりも、聖騎士の白い鎧の方が、セシルに似合っているような、そんな気がした。
俺は、聖騎士となったセシルを殺すことができるのだろうか。ローザを殺してセシルを殺して――――この星の全てを壊そうとしている男の足元に跪いて、俺は、これから先どうするつもりなのか。
眼球の奥が、じわりじわりと痛み出す。
目を閉じると、真の闇が襲いかかってくる。
瞼の裏。心の中、真っ暗な闇の中、振り返った世界は遠く、青く美しいバロンでの日々は遠く、懐かしいにおいのする町並みは遠く、帰り道すら見つからない。
ゴルベーザに本能を暴かれた俺は、親友達を裏切った。帰ることを諦めて、前に進むしかなかった。前方には、暗闇以外何も見つからない。
――――いや、何かいる。暗闇に溶け込んでいる、黒い腕が見えた。
「お前は誰だ」
差し延べられたその手は、動かない。
不安になりながら、もう一度問いかけた。
「ここは、どこだ」
「……ここは、心の中だ」
どこからともなく、低い声が聞こえてきた。そのあまりの低さに震え上がる。「心の中」と復唱し、辺りを見回した。
今の声は、この腕のものなのか。「心の中」とは、俺の心の中なのか。分からない。
「……お前は誰だ」
喉の奥で、低い声が笑う。
「――――私はゴルベーザ。お前の主だ」
落下音が響き、驚いて瞼を上げた。
どれくらいの時間が流れたのか。ローザは、泣き疲れて眠っていた。
俺も、眠ってしまっていたのだろうか。ゴルベーザに操られるようになってから、よく白昼夢を見るようになった。これも、あの男の手管なのか。
先程響いた落下音のことを思い出し、音の正体を探した。
閉まっていたはずの扉が、微かに開いている。
「……誰だ」
夢の中でも、同じような言葉を口にしていた気がする。槍を構え、扉に近づいていった。
少しずつ、少しずつ、慎重に。
扉を開こうとした途端、足首に、何かが絡みついた。心臓が、大きく跳ねる。
「……っ!」
絡みついたのは黒い腕。夢の中で見た、あの腕だった。
「……ゴルベーザ様……?」
腕は、小刻みに震えている。俺の足首をしっかりと掴み、離さない。ゴルベーザに当たらぬようにと、そっと、扉を開くスイッチを押した。
ゴルベーザは、銀の髪を散らばらせて倒れていた。額には汗が滲んでいる。意識はあるのだろうか。瞼を閉じたまま、動かない。
背後で、扉が閉まった。
「ゴルベーザ様?」
問いかけは、彼の耳に届いているのだろうか。反応がないことに焦りを覚え、汗の滲んだ額に触れた。
「……カイ、ン……」
うっすらと開いた瞼の向こうに、薄紫の瞳が見えた。鮮やかな光彩に目を奪われ、こんなにも近く、こんなにも明るい場所で彼の瞳を見るのは初めてなのだと気がついた。
「今、ルビカンテを呼んできます」
そう言って動こうとしたけれど、ゴルベーザの手は足首に絡みついたままだ。これでは動けない。
「ここにいろ……」
消え入りそうな声だった。
「しかし、俺は白魔法が使えません」
「……これが初めてではない。焦る必要はない。だから、お前はここにいろ」
体調の悪さは明らかだった。だが、どこにそんな力が残っているのかというほど強い力で掴まれ、どうしようもない。
諦めて、「ゴルベーザ様」と声をかけた。
威圧感のある瞳で見下ろされるのが常なのに、今だけは違っていた。
「ゴルベーザ様」
こんなにも頼り無い彼を、見たことがあっただろうか。
立ち竦んでいるのもおかしい気がして、床に座り込む。これは長くなりそうだと思い、兜も外した。
髪に指を滑らせると、やはり彼はひどく汗をかいているのだということが分かった。熱があるようだ。
床に寝そべったままの頭が辛そうに見え、思わず、腿の上に乗せた。余計なことをしてしまっただろうかと思ったが、ゴルベーザは何も言わない。
「どこにも行きません。だから、手を離して下さい。本当に、どこにも行きませんから」
ようやっと、足首から手が離れた。
「お前の手は……冷たいな」
「俺の手が? ……そう、でしょうか? 自分では、よく分かりませんが……」
空いている方の手を頬に当ててみたけれど、やはり、自分では分からなかった。
よくよく考えてみれば、鎧の上も床の上も大差ない気がする。ごつごつしている分、鎧の方が痛いのではないか。慌てて彼の頭を下ろそうとしたけれど、今度は手首を掴まれて動けなかった。
これでいい、ということなのだろう。
「――――夢を見た」
気持ち良さそうに瞼を閉じて、彼は言った。
「闇の中で、独り……ずっと独りでいる夢だ」
さっき見た、あの白昼夢のことを思い出した。白昼夢の中のゴルベーザは、『ここは心の中だ』と言っていた。とすれば、ゴルベーザの心の中も、俺のものと同じように真っ暗なのだろうか。
「闇の中、何かが欲しくて手を伸ばした。……何も存在しないと思っていたのに、暗闇の中には、お前がいた」
誰も存在しない筈の闇の中、息をするのも躊躇われるほど真っ黒に染まりきった世界の中。
「カイン、お前だけが」
――――ゴルベーザ、お前だけが。
何故だろう。涙が溢れて、止まらない。男の瞳が悲しくて堪らない。胸の中に流れ込んできたのは、男の、孤独で悲しい心だった。
どうして、ゴルベーザはこの塔に居るんだろう。魔物に囲まれながら、独りで暮らしているんだろう。一体いつから? 何歳の時から?
ゴルベーザの心は、捻れて歪んでしまっている。それには、きっと、何か理由がある。俺の知らない、誰も知らない理由があるに違いない。
もっとお前のことを知りたい、と思う。
瞬間、俺は気づいてしまった。思考も視界も、嫌というほど鮮明になっていた。
洗脳の術が、跡形も無く解けてしまっている。
◆◆◆
泣いているカインの姿を、飽きもせず、いつまでも眺めていた。水面のように揺れる青い瞳が、何度も何度も、温い雫をこぼす。
唐突に起こる頭痛と意識の混濁には慣れていたけれど、この男の傍にいると、頭が軽くなっていくような、そんな気がした。
額に置かれた手は冷たくて、カインの体温が低めなのだということを知った。
心臓が、煩く響いていた。それは、耳の中を犯すほどに早かった。
「泣くな、カイン」
この男は、人形ではなかったのか。
性欲処理に利用するだけでは満足できなかったのか。
「カイン……」
額に添えられた指の先、爪の長さを、幾度も撫で、『これがこの男なのだ』と確認する。
この男は、私とよく似ていた。だから、惹かれた。だから、触れたいと思った。
この男なら、私のことを理解してくれると思った。
「……ゴルベーザ、術が……解けている……」
「…………ああ、そうだな」
「そうだな、って……!」
目元を何度も拭ってから、カインは私の顔を覗き込んだ。眦が、真っ赤だ。
術が解けていることには、瞳の色で気づいていた。硝子玉と宝石とでは、あまりにも違いすぎる。
「俺がお前を殺そうとするだとか、そういう風には考えないのか」
私の頭を膝に乗せておきながら、それはないだろう。
術が解けたのは、私の心がカインの方へ傾いているからだ。この男に、何か特別な感情を抱き始めているからだ。
感じたこともないくらい優しくあたたかな気持ちが、胸の中に満ちた。
「カイン。お前は何故逃げぬ」
唇をぱくぱくさせて、カインは目を伏せてしまった。
「俺は……」
「あんなにも、逃げたがっていただろう?」
そうだ、逃げたがっていた。当然だ。偽りの主従に、何の意味がある?
「ゴルベーザ。お前も、俺と一緒に――――」
耳を澄ませていたはずなのに、カインの声は途中から聞こえなくなってしまった。
いつものそれよりも酷い耳鳴りに、思わず耳を塞ぐ。塞いでも無駄だということは分かっているのだけれど、塞がずにはいられない。
脳を抉るような音が、頭の中でわあんわあんと喚いた。
これは、駄目だ。本能が、警鐘を鳴らす。
這いつくばって、カインから離れようとした。このままでは、カインを傷つけてしまう。視界の端で、カインが何か叫んでいるのが見えた。
『何を、怖れることがある』
頭の中で、声がした。いつもの声だった。低くて、怖くて、私の心を揺さぶる声だ。
『何故、あの男を殺さない』
カインは、特別だった。この塔の中、独りで生きてきた私には、何もなかった。過去の記憶ですら存在しないこの私を、カインなら、理解してくれるのではないかと思った。孤独を抱えているこの男なら、きっと、ぬくもりを与えてくれる。そう思っていた。
『汚らしい毒虫の分際で、愚かなことを』
――――『ゴルベーザ』という名には、『毒虫』という意味があると聞いた。そう、私は毒虫だった。周りにいる者達を不幸にするだけの存在だった。
人々を不幸にし続けるだけの私が、ぬくもりを分け与えて貰おうだなんて、おこがましいにも程がある。
『もう、どれだけの人間を殺した?』
数えきれない。覚えていない。分からない。
『クリスタルを手に入れるために、その手を血で汚しただろう? ほら、お前の手は、真っ赤だ』
定まらない瞳をどうにかしてカインの方へ向ける。彼は、私を抱き起こして何かを叫び続けていた。
カインを逃がしてやらねばならないと思うのに、体が動かない。声も、自由にならない。幼い頃から、ずっとそうだ。この塔に住みつき始めた時から、何も変わらない。私の体は、ゼムスに支配されている。ゼムスは、空の向こう、月の中から、私を操って離さずにいる。
ゼムスの言うとおり、私の手は真っ赤に染まっていた。
『お前の傍に居るものは、皆、不幸になる。お前の母親も父親も、弟も…………そうだろう? ゴルベーザ』
頭が、真っ白になる。
カインが私の手を握るその感覚だけが、真っ白な中にぽつりと残っていた。
泣き叫ぶ弟を捨てたのは、私の傍にいると不幸になると考えたからだった。腕の中で大きく泣く弟を、これ以上不幸にしたくなかった。「ごめん」と囁いて叢の上に寝かせると、弟は更に大きく泣き出した。でも、再度抱き上げることは許されなかった。頭の中で、ゼムスがわらっていた。
ゼムスは、私を独りきりにしようとしていた。実際、私は独りきりになった。
独りになった私は、空の上にある塔の中で住み始めた。これも、ゼムスが『ここに住め』と言い出したからだった。
私は、ゼムスの意思に従って生きた。ゼムスはいつも私のことを見ていて、私に囁き続けていた。ゼムスは、クリスタルを欲していた。クリスタルを手に入れることが出来れば、ゼムスの夢が叶うらしかった。
ゼムスの意思は、私の意思だった。私の心は支配されきってしまい、塔に住み始めて何年か経つ頃には、自分の意志がどれなのか、それすら分からなくなっていた。
幼い弟の温もりも、自分に弟がいたことも、忘れてしまっていた。
世界は白黒でできていて、光など、どこにもなかった。
そんな私にぬくもりを思い出させたのは、あの男だった。カインの微笑みが、私の心と意識を揺り動かしたのだ。例え、その微笑みが私に向けられたものでなかったとしても。
◆◆◆
「ゴルベーザ!」
ゴルベーザは目を覚まさない。何度名を呼んでも、ぴくりとも動かない。抱き上げてルビカンテの所まで連れていこうかとも考えたのだけれど、鎧が重くて持ち上がらない。ならば鎧を脱がしてしまおうかとも思ったけれど、よく分からない作りになっていて、どうしても脱がせることができなかった。
「……待っていろ。ルビカンテを呼んでくる」
置いていくのは不安だったけれど、仕方がない。ゴルベーザをここに寝かせておいて、誰かを呼んでくるしかない。
立ち上がってその場を離れようとした瞬間、きゅう、と何かが鳴いた。聞こえるはずのない声だった。
「竜……?」
ゴルベーザの胸元から立ち上った黒い霧が、竜の形を成し始めた。夜の闇のような色をした竜だった。
黒い竜――――黒竜は、もう一度、切なく鳴いた。
「……お前が、ゴルベーザを見ていてくれるのか」
黒竜は、真っ赤な瞳を持っていた。主の体を守るように、悲しげな表情をしたままで、ゴルベーザにそっと寄り添う。頬をぺろりと舐め、俺の顔を見上げた。
「すぐに戻る」
言いながら、黒竜の背を撫でる。その体はこの世のものとは思えぬほど冷たくて、この竜は普通の生き物ではないのだ、と思わずにはいられなかった。
兜を身につけるのももどかしく、槍を掴み、走り、部屋を出た。走り始めてから気づく。ゾットの塔からバブイルの塔へ行くには、テレポを使うしかない。
俺は、白魔法を使えない。
俺が白魔法を使えたら、こんなに焦る必要もなかったのに。自分の無力さが恨めしい。
せめて回復薬を、と自室へ足を向けた途端、「カイン!」と呼び止められた。
「バルバリシア!」
「ゴルベーザ様に何かあったの!? さっきから姿が見えないのよ!」
彼女の傍らには、ドグがいた。そうだ。ドグは、白魔法が使える。
「早く、こっちへ!」
ドグの白魔法で熱は下がったものの、ベッドで眠るゴルベーザを見ていると、嫌な胸騒ぎがおさまらなかった。
ベッドに腰掛け、白い顔を覗き込む。頬にかかっている髪を払い、呼吸音を確かめ、ゴルベーザが生きていることに安堵した。
俺は、何故安堵しているんだろう。何故、逃げない? 暗闇で独りで生きてきたこの男に、何を望む?
「あんた、洗脳されてないのね」
ふわりと浮かびながら、バルバリシアは言った。
「何で逃げないの? ゴルベーザ様に、あんなに酷い事されてたのに」
足を組み替えながら、
「セシルのところへ戻るんじゃないの? シンユウなんでしょ? ……シンユウって、私にはよく分からないけど」
親友。その言葉に頭を抱え、床を見た。
「もう、俺は戻れない……セシルに槍を向けてしまった。ローザにも……」
「謝ればいいじゃない。ローザのギロチンも外してやればいいわ。私は、あんたとローザがここにいようといなくなろうと、どうでもいいの。ゴルベーザ様があんたを必要としていたから、だから私はあんたがここに住むことを許したのよ。あんたもローザも、私には必要ない。あんた達がいなくなっても、私がクリスタルを集めてみせる。ゴルベーザ様の為に、ね」
「どうしてそこまで……?」
「さあね。私にもよく分からないわ。もしかしたら、単なる情からくるものなのかもしれない。ゴルベーザ様が幼い頃から、ずっとあの人の傍にいたから」
「ゴルベーザは、いつからこの塔に?」
バルバリシアはこの話を避けるようにして、部屋を出て行こうとした。
「十歳よ。もう、ここに来た頃のことは全く覚えていないようだけれど……出会った頃、ゴルベーザ様自身が十歳だと教えてくれたわ。ゴルベーザ様は寝かせておけば大丈夫よ。あんたも、出て行くならさっさと出て行きなさい。私の部下に頼めば、地上まで運んでくれるから」
そう言って、バルバリシアは部屋を出た。
ゴルベーザは、静かに寝息をたてている。
「ゴルベーザ……すまない、俺は、お前の傍にはいられない」
ローザと共に、この塔を出ていこう。ギロチンを外してやらなければ。セシルとローザには、謝るしかない。
彼女の泣き顔を思い出し、慌ててこの部屋を出ようとした。けれど、後ろ髪を引かれてしまう。このまま去ってしまってはいけないような、そんな気がして。
そうだ、書置きを残していこう、と思った。
隣にある机からペンと紙を取り、ペンを走らせる。
『また会おう、ゴルベーザ』
確かに、この世界を破壊しているのはゴルベーザだ。けれど、ゴルベーザは破壊することに快楽を覚えるような男ではなかった。ゴルベーザがクリスタルを欲するのには、彼しか知らない理由がある。俺は、その理由が知りたかった。また会いたい、この男の悲しい心を変えてやりたい、そう思った。
最後に名前を書こうと、ペン先をインクに近づけた。途端。
「ひ……っ!」
誰かが、俺の喉を締めた。
「……う、ぐ……っ……」
空気が吸えない、吐けない、息ができない、目の前が霞む。苦しくて苦しくて、もがく。机の上を引っ掻き回せば、インクの瓶がごろんと転がった。ひゅう、ひゅう、風の音。喉を出ようとする息の音だった。
「……ゴ、ル……ベー、ザ……ッ」
暗い紫色をしたインクが、机の上に広がっていく。真っ白な紙を染め上げ床にまで滴っていくさまが、目に焼きついた。
汗ばんだ指先が、喉をぐいぐいと締め上げる。
「……あ……っ!」
酸素がなくなり意識を失いそうになった瞬間、ゴルベーザの手が離れた。空っぽの肺に空気が滑り込み、その速度についていくことができず、噎せ、その場に崩れ落ちる。
「ど……し、て……ゴルベーザ……」
喉が熱い。焼けついたその場所に、再度、ゴルベーザの手が触れてくる。また、首を絞められるかもしれない。頭では分かっているのだけれど、ぼんやりして動けない。机に凭れかかり、頭を預ける。垂れたインクが滴り、床だけでなく俺の顔をも染めていった。
瞼に垂れた紫色のインクが、目に沁みていく。痛みで左目を開けていられなくなった。残された右目で捕らえたゴルベーザの表情は、無表情に近かった。
「……や……め……」
喉仏を親指で撫でられる。「絞めるぞ」と、行動で脅されているような気がした。力が入らない。何もかも、自由にならない。瞬きですら。
唇だけで、「ゴルベーザ」と呟いた。もう、声も出ない。目の奥が、じわりと熱くなる。悲しくて堪らなくなる。切ない。胸が痛い。苦しい。ゴルベーザ、どうしてこんな――――。
「カイン」
無表情なのに、ゴルベーザの声は悲しい響きを持っていた。
お前がしていることなのに、どうして、そんな声で俺を呼ぶんだ。お前が望んだことなのに。
「カイン……」
自分の意志とは別の場所で瞬きさせられ呼吸させられ、洗脳の術を流し込まれているのを感じる。名を呼ばれる度、心がびくりと反応してしまう。
ゴルベーザの薄紫の瞳が、こちらを見ている。硝子玉のような質感を持っているそれは、まるで、洗脳されている者の瞳のようだった。
――――洗脳されている者の、瞳?
自らの頭の中に思い浮かんだその言葉に、とてつもない衝撃を受けた。
そうだ、ゴルベーザの瞳は俺のものと同じではないか。ゴルベーザに洗脳されていた俺が、鏡の中で見せていたものと同じ。ゴルベーザは、俺と同じ。俺と、同じ。
首筋に口づけられ、背に電流が走ったような気がした。鎧を剥がれ下衣を脱がされているのを感じたけれど、俺にはどうすることもできなかった。
ゴルベーザは、何をするつもりなんだろう。俺を、人形に戻すつもりなのだろうか。
「…………っ!」
口づけられた場所に噛みつかれ、思考や視界がぐるぐると回った。血のにおい。鉄くささが、鼻の奥に迫ってくる。
ゴルベーザ。お前は今、何を考えている? お前の瞳が、操られているものの瞳なのだとしたら――――本当のお前は、人形でないお前はどこにいるんだ。
本当のお前は、何を望んでいる?
胸を撫でられ、舐められ、絶え間なく与えられる快楽と流し込まれる洗脳の術に、わけが分からなくなってくる。
「カイン」
優しい声、悲しい声。そんな声で呼ぶのはやめてくれ。余計に、息ができなくなってしまう。
足を割り開かれ、羞恥で胸がいっぱいになった。俺の意志とは違うところで、体はびくびくと反応してしまう。至る所に刻まれていく鬱血の痕が、視界の端で淫猥に映った。
何度も何度も、ゴルベーザは俺の名前を呼ぶ。まるで呪文のように、唱え続ける。
指を挿し込まれる頃には、思考もこんがらがるようになってしまっていた。
指が中を行き来する度、おかしな声が口を衝いて出てしまう。唾液を飲み込めなくなって、指先だけに意識が集まる。
ゴルベーザの顔が、俺の顔に近づいてくる。口づけられるのかと思ったけれど、瞼に唇が触れてきた。目玉を、ぺろりと舐められる。舌先から、何かがびりびりと流れ込んでくるような気がした。視野が狭まっている。紫のインクが、ゴルベーザの舌に色を残した。
脳を犯している洗脳の術が許容範囲を超え、弾け、俺の意識はそこまでだった。
◆◆◆
頭痛に襲われることには慣れていた。だから、あの時も大丈夫だと思ったのだ。だが実際は違っていて、私の体はカインの体を支配しようとした。
ゼムスは、クリスタルを手に入れるためにカインを利用しようと考えたようだった。目論みは成功し、カインを利用することでセシルの心を煽り土のクリスタルを手に入れることができた。
だが、テラのメテオを受けた瞬間、カインの術は解けてしまった。ゼムスは私の心を乱すカインを煙たがっていたから、カインを引き止めなかった。クリスタルを手に入れてしまえば、カインは必要ない。ゼムスからすれば、彼は用済みだった。以前よりもずっと強い力で支配されていた私は、彼を引き止めることができなかった。
もっと、カインを感じていたかった。彼の冷たい手に触れられたかった。
世界は闇に包まれていた。クリスタルを手に入れても、私の心は空虚だった。白黒で構成されている世界に滴った青が、私の心を掻き乱す。
私の意識は、以前よりもはっきりしなくなっていた。私が意識を失っている間にも、クリスタルは増えていく。突然襲い来る暗闇にも、いつの間にか慣れてしまった。私が私自身の意識を保っていられる時間は、とても短い。
考えなければ良い。ゼムスに心を預けてしまえば楽なのだということは、今までの経験から分かっていた。抵抗するだけ無駄なのだ。クリスタルを集め、空に浮かぶ月へ行く。この星の何もかもを破壊する。それが、私が生きている意味の全てだった。
――――全て? それが、私の全てなのか。
「ゴルベーザ!」
否応無しに意識を引き戻され、前を見た。
目の前にはセシルが立っている。邪悪な魂を吹き込まれて動いていたカルコブリーナ達の抜け殻が、足元にあった。
セシルの周りには、セシルのことを信じて行動する仲間達がいる。その中には、カインの姿もある。彼は、私に槍を向けていた。私は何故、槍を握るその手が震えていることに気づいてしまったのか。
カインの姿を目にしているだけで、世界が彩られていくようだった。
呪縛の冷気を放てば、彼らは動かなくなっていく。蹲り震える彼らは、笑いだしたくなるほど無力だった。黒竜を呼び出して黒い牙をくらう仲間を見ても、彼らは身動き一つとることができないでいる。
地面に倒れ槍を握り締めている竜騎士を、殺したくなかった。いや、竜騎士だけではない。もう誰も殺したくなかった。本当は、誰のことも傷つけたくない。
『そんなに、あの竜騎士が欲しいのか』
暗転と共に、ゼムスが、甘い声で囁いた。
◆◆◆
用事を済ませる為、バロンで一泊することとなった。
バロンにある、俺の自室。陛下に――――いや、カイナッツォに命じられてミストに向かってからそう時間は経っていないはずなのに、この部屋がとても懐かしいもののように思えた。
この部屋を出る時の俺は、何を考えていたのだろう。
セシルの事、ローザの事を考えて行動していたはずだった。それが、ゴルベーザに出会ってから変わってしまった。
幼馴染達の姿に混じって頭の中に浮かび上がる、男の姿。
今の俺は、あの時の俺とはまるで違う。気がつけば、ゴルベーザの事が頭を過るようになってしまっていた。振り払っても振り払っても、あの男の嘆き悲しむ様な表情が消えない。
四角い窓枠の中から覗く銀色の月は、あの男を思い起こさせる。男の髪は、月の色によく似ていた。
月とクリスタルを望む男。銀色の髪を持つ、悲しい男。
「ゴルベーザ」
俺を人形として扱った男を、仲間や俺を殺そうとした男を想うだなんて、俺はおかしい。あの男の指の感触や表情が消えないだなんて。
握り締めている布切れを見つめた。この布切れは、ゴルベーザのマントの一部だった。俺が歯で食い千切ろうとし、ゴルベーザが魔法で裂いたものだ。本来ごみであるはずの布切れは、何故かマグマの石と共に懐にしまわれたままだった。
ゴルベーザと違って、俺の傍にはセシル達がいる。でも、俺は満たされない。心の中にある入れ物には穴が開いていて、決して満たされることはない。セシルにはローザがいる。ローザにはセシルがいる。……俺には? セシル達は俺を愛してくれている。でも、それは俺だけじゃない。彼らの微笑みは、周りにいる人々全てに与えられるものだった。
俺は、愛されたかったのかもしれない。「お前だけだ」と囁かれたかったのかもしれない。俺の心はどこかいびつだ。歪んでいるから、穴が塞がらない。セシル達が笑いかけてくれる度、俺の心は歪んでいく。いつから、こうなってしまったんだろう。セシルとローザに笑いかけてもらえる資格なんて、俺にはこれっぽっちもありはしないのだ。
それでも、愛されることを望んでしまう。夢見てしまう。決して手の届かない夢。俺だけを愛してくれる誰かを。俺だけに向けられる、優しい微笑みを。
どうして。どうして、ゴルベーザを思い浮かべてしまうんだ。どうして。
醜く歪んだ俺を、誰が愛してくれる?
「――――カイン」
声に驚き振り向くと、男が立っていた。淡い月光が、男の体に注がれている。差し伸べられた、手。こちらに来いと言っている。俺は幻を見ているのか。
「ゴルベーザ……」
口の中が、からからに乾く。俺を誘う手は闇にとても近いのに、光に吸い寄せられる虫のように視線を外せないでいる。
この手に触れてしまったら、きっと、二度と戻れない。俺は、この男と二人で闇に堕ちるつもりなのか。
闇ににおいなどある筈もないのに、ゴルベーザの傍にいると、闇の幻臭を感じるような気がした。
ゴルベーザが、歩み寄ってくる。俺は怖くて後退る。あの腕に縋ってはいけない。
「私が怖いのか」
違う、俺が怖いのはお前じゃない。俺が怖いのは、お前を求めている俺自身だ。
背中が、壁に触れた。逃れられない。
「カイン……」
首を絞められるのだと思っていたのに、手は、胸元に触れてきた。シャツをたくし上げられ、息を呑む。ゴルベーザの耳に届いてしまうのではないかと思うくらいに心臓は高鳴り、胸に口づけられた瞬間、それは一層酷くなった。
「……あ、あぁ……っ」
ゴルベーザの髪を、くしゃりと掴んだ。やわらかい癖っ毛だった。胸に何度も舌を這わされ、思考が途切れていくのを感じた。
「は、離し…………ゴルベーザ……」
力の抜けた体を抱きしめられ、涙が溢れてくる。ベッドの上に横たわるようにとそっと押し倒されて、もう、抵抗できなかった。
ゴルベーザの瞳は、俺だけを見つめている。それは、俺が焦がれ続けていた視線だった。
「俺に、触るな……やめてくれ……!」
泣きじゃくる俺を、ゴルベーザは見下ろしている。怖い。戻れなくなることが怖い。これならば、洗脳されている方がまだましだ。洗脳されていない状態では、自分自身に言い訳することもできない。
「んん……ん、ぅ……っ」
初めて与えられる唇への口づけは、ただただ甘く優しくて。頭の芯が、蕩けてしまう。
「ゴルベーザ……ぁ……っ」
何度も、何度も、男の名を呼ぶ。何度でもお前の名を呼ぶから、だから、お前も俺の名を呼んで欲しい。
何もかもが執拗だった。全身を愛撫され抱きしめられ口づけられ、堕ちていく自分を感じていた。帰れないと思った。
これは、愛なのだろうか。
それとも、恋なのだろうか。
男の瞳を見つめる。薄紫の奥の奥、心の奥底を見ようとした。彼の真意が知りたかった。
これは、愛でも恋でもない。愛にしては痛すぎて、恋にしては苦すぎた。
俺から口づけると、ゴルベーザは淋しげに笑った。頭の芯が、痺れるように熱くなる。
「…………お前がセシル達の元に戻ってから、お前のことばかり考えていた。お前を手に入れたい、お前の手に触れられたいと」
「ゴルベーザ……」
触れ合っている肌が心地良かった。かたく冷たく凍りついた心が、蕩けていくようだった。
心がこんがらがってくる。真実が見えない。正義が見えない。俺はどうしたいのか、それすら見えてこない。
この男は悪人だ。それは理解していた筈だった。けれど、男の瞳を見つめているとその理解がぶれてしまう。正しいものが分からなくなってしまう。
「あ……っ」
俺の膝裏を押さえつけ足を開かせて、ゴルベーザは俺の顔を覗き込んだ。不安を感じさせないように――――ということなのだろうか。俺のものに滲んでいる先走りを指先に絡めると、その場所に指を挿しこんだ。
圧迫感に、肌が粟立つ。ゴルベーザの首に、腕を絡めた。
「……ん……っ!」
仰け反った首筋に唇を押しつけられ、荒く短い息を吐く。銀の髪が肌に触れ、くすぐったい。
前も、こうして指を挿れられた。でも以前とはまるで違う。
俺は、幸せだった。操られていた時も「幸せだ」と思っていたけれど、あの時の幸せは、何も考えずにいられることからくる幸せだった。今の俺は、ゴルベーザのぬくもりに慰められている。
虚勢を張る必要もない、醜い部分全てを見せても構わない。ゴルベーザは俺を拒まない。
ずっと、こうしていたい。お前と抱き合っていたい。
「あ……っ」
両手の親指で開かれたその部分に、ゴルベーザのものが沈み込んでくる。俺は、その場所から目を離せない。
彼も限界なのだろう。ゆっくりとした挿入だったけれど、彼の焦りが見えるような気がした。軋むような痛みに、ぼろぼろと涙が零れる。眦に浮く涙を唇で掬いながら、ゴルベーザは耳元で俺の名を囁き続けていた。
彼の背に手を回す。動悸がひどい。全ておさまる頃には、何がどうなってしまっているのか分からぬほどだった。
「ああ、あぁ……っ、あ!」
ひっくり返ったような声が、止まらない。俺が俺でないような感覚に陥って、喘ぎを抑える術も見つからない。内壁を擦られ抱きしめられ、この男の掌中に堕ちていく。
いや、俺達は、共に暗闇の中に堕ちていっているのかもしれなかった。
「こわ……い……っ」
洗脳よりも、もっと手酷く恐ろしいもの。俺は、俺自らゴルベーザに縛られたくて、彼の体を抱きしめていた。
「カイン……」
優しい声。戻れなくなる。ゴルベーザは、俺の心の汚いところを知っている。彼は「お前は私と同じだ」と囁く。
「私は……お前に拒まれることが怖い」
引き抜かれ叩きつけられ、数えきれぬほどの衝撃に見舞われ、死んでしまう、と思う。
「や、だめ……あ、あぁ……っ」
ペニスを扱かれる。同時に中を犯されて、息もできなくなって、この男のことしか考えられなくなって、「俺はお前を拒んだりしないのに」と思う。
ゴルベーザに訊きたいことが、山ほどあった。十歳の頃からあの塔に独り、魔物に囲まれて生きてきたゴルベーザの心の声を聞きたかった。それなのに今は、彼の体温を追うことしかできない。体温だけでも感じていたい。
背中に回した指先が、じんじんと痺れるように熱い。繋がった場所から、ぐずぐずと溶けていってしまいそうだ。
溶けて、溶けて、溶けて――――溶けて一つのものになりたいと思った。一つになれたら、ゴルベーザの心の全てが分かるのに。俺の気持ち全てを、一粒も零すことなく伝えることができるのに。
背中に爪を立て、悲鳴をあげて喘ぎをあげて、足を絡めて。
視界の端に映るのは、冷たく輝く二つの月だった。
「ゴルベーザ……ッ!」
気が狂う。涙で滲んだ月が眩しい。その月に、手を伸ばす。届かぬ光が懐かしくて、痛くて堪らない。
俺達は、闇に堕ちていくしかないのだろうか。
「ひ、あぁ……っ!」
二度、三度、熱いものが中に放たれた。その熱さにすら感じてしまい、引き摺られるように射精する。きつすぎる快楽に、目眩がした。
荒い息も落ち着かぬ中、彼は言った。
「カイン……私の元へ帰ってこい」
彼の言葉が、頭の中で響いて回る。
訊きたいことがあるのに。瞼が、開かない。
目覚めると、既にゴルベーザの姿はなかった。朝陽が昇ろうとしているのを見てあれは夢だったのかとも考えたけれど、体に残る気怠さや指先の感触は本物だった。
体は綺麗にされていて、彼のことを残しているものは何もなかった。
「ゴルベーザ」
声が掠れていた。
ゴルベーザの名を呼び続けた証拠が、喉の奥に残っていた。
シーツに包まりながら、ぼんやりとしてしまう。いつの間にか太陽は昇りきり、青空が輝きだした。
「カイン!」
コンコン、と、ノックと共に声をかけられる。
「カイン、もう行くよ! 用意はできた? 皆と一緒に朝食をとるって約束だっただろう?」
「セシル……」
扉越しに会話をするなんて、久しぶりだ。そういえば約束をしていたと思い出しながら起き上がり、服を手に取った。
「すまない、先に行っていてくれ。すぐに行く」
「……あれ? カイン、風邪かい? 喉の調子がおかしいみたいだ」
びくり、と体が震えた。昨夜の熱が蘇る。気取られぬようにしなければと思いつつ、静かな声でセシルに応えた。
「ああ、少し喉が痛いが、大丈夫だ」
「大丈夫ならいいんだ。じゃあ、先に行ってるよ。ゆっくりでいいからね!」
足音が小さくなっていく。
服を握りしめたまま、溜息をついてベッドに突っ伏した。
◆◆◆
ルビカンテは敗北し、四天王達はいなくなってしまった。彼らがいなくなってから、私は彼らの存在の大きさを知った。四天王は魔物でありながら、私を慕ってくれていた。彼らの気遣いを失って、私の心と生活は更に荒んでいった。
私の手元に残ったのは、冷たいクリスタルだけだ。未だ手に入れられていないクリスタルはただ一つ、闇のクリスタルだけだった。
自らの意志で体を動かすこともできぬまま、私は、セシル達の行動を監視し続けていた。頭に巣食っているゼムスは、最後のクリスタルを求めている。
『そんなに、あの竜騎士が欲しいのか』
甘い声は、途切れることなく響いていた。私がカインを求める度、ゼムスは嘲笑った。
『お前は世界を滅ぼす者なのに』、『そんなお前を求める者が、どこにいる?』と。
それでも、私は堪えることができなかった。どうしてもカインに触れたくて、彼の声が聞きたくて、意識を取り戻すことができた時、真っ先に彼の元へ向かってしまっていた。
私は、カインを殺そうとした人間だ。無理矢理に、心と体を支配しようと考えたこともあった人間だ。だから、拒まれるものだと思い込んでいた。
カインの青い瞳を見た瞬間、どうすれば良いのか分からなくなった。ただただカインが欲しくてカインを手に入れたくて、近づいていった。彼は怯えていた。恐怖を感じさせたいわけではないのにと思いながら、それでも近づかずにはいられなかった。
抱きしめたかった。口づけたかった。泣いている彼が愛おしかった。子どものように泣きじゃくる彼を見ていると、心を許してくれているような気すらした。抱きしめ返してくる腕、その爪が作る引掻き傷ですら、愛おしかった。
青き星を焼き尽くすということは、あのぬくもりを、カインを失うということだった。私はカインを失いたくない一心で、『私の元へ帰ってこい』と口にしていた。
何と身勝手な考えなのだろう。私の存在は、彼を苦しめるだけなのに。
『そんなに、あの竜騎士が欲しいのか』
もう一度、否応無しに頭の奥に注がれる声が響く。心の中を暴かれる。カインが欲しくて堪らなくなる。
私でない私は、カインの頭の中に言葉を注ぐ。ゼムスが言った言葉を、カインの頭の中に向かって復唱する。彼を支配する、そのために。
「帰ってこい、カイン」
封印の洞窟にいる彼に、囁く。
あの時囁いた言葉と、同じ言葉だ。
カインは、唇を噛んで震えていた。兜に遮られて見えないけれど、彼の瞳は、セシルが握っているクリスタルを見つめているに違いなかった。ゼムスは、カインの心の動かし方をよく知っていた。ゼムスはこうするために、あの時、私の意識を解放したのだ。ただ、カインをより深く操るためだけに。
私の意識を開放すれば、何よりも先にカインのもとへ向かうと、ゼムスは知っていたのだ。だが、今更そのことを理解しても、もうどうしようもない。
「帰ってこい、カイン。そのクリスタルを持ち、私のもとへ」
カイン、聞かないでくれ。私の声を聞いたら、お前は人形になってしまう。今度こそ、戻れなくなってしまう。
祈るように思ったけれど、願いが叶うことはない。
びく、と硬直した体が、勢い良く駆け始める。セシルからクリスタルを奪ったカインは、高らかな声を響かせて笑った。
息を切らせ、クリスタルを持ち、カインはこちらを見下ろしている。私は、絶望に打ちひしがれ床に膝をついていた。カインがここに――――バブイルの塔の一室に――――転送されてきた瞬間、私の意識は自由になったのだった。
「――ゴルベーザ様」
カインは、笑った。満面の笑みだった。彼の心は、壊れてしまっている。それは、悲しい確信だった。
「これで、ゴルベーザ様の願いが叶いますね」
差し出されたクリスタル。私は、首を横に振った。
「……違う…………!」
「ゴルベーザ様?」
「私の願いは……私の、願いは……」
カインの手を振り払った。クリスタルが地面に転がる。「何故、そんなにも悲しい顔をされるのですか」と呟き、カインは兜を取り去った。
色を失った瞳が、そこにあった。
「ゴルベーザ様……」
私の頬を両手でそっと包み、やわらかな口づけを落とす。唇はあたたかかったけれど、それは、私が望んでいる「ぬくもり」ではなかった。
本物のぬくもりが欲しい、と思う私の心に共鳴して、カインは私の体を抱きしめ、首筋に愛撫し、何度も口づけを繰り返し、ぬくもりを与えようとする。だが、それでは満たされない。
これは、私が望んでいるものではない。
私が欲しかったのは――――。
「ゴルベーザ、様……」
欲しかったのは、硝子玉ではなく、慈しむような優しい眼差しだった。牢の小窓から見える空にも似た、鮮やかな色彩を持つ青い光だった。
カインは、私の心を煽るかのように髪留めを解いた。金の髪が流れ、肩に落ちる。
「抱いて下さい……ゴルベーザ様」
自らの下腹部を覆っている防具を外して下衣を裂き、私の体に跨り、「俺と、一つになってください」と。カインは、悲しい声で呟いた。
一つになりたかった、同じものになりたかった。カインは、私の心を反射して話す。彼と一つになりたがっているのは、私自身だった。
自らの指を舐めて唾液を塗りつけると、彼はそれを中に押し挿れた。苦痛に顔を歪めながら引き抜き、左手で尻たぶを親指と人差指で広げる。右手で私のペニスを支えながら、躊躇うことなく腰を沈めた。
「……あぁ……っ!」
愛撫が足りないのは明らかだった。ぎち、ぎち、という音がしてきそうなほど、狭い。それでも、カインはやめようとしなかった。
「カイン、やめろ……っ」
首を横に振り、カインは腰を進めた。痛みを感じていないはずはないのに、彼のペニスは勃起し、下衣を押し上げている。唇を薄く開き、浅い呼吸を何度も繰り返しながら、カインはそっと瞼を閉じた。
「……ぜん、ぶ……入り、ました……」
大きく開かれた脚。鉄靴が、私の腰に触れていた。ひんやりとして、硬質な感触だった。機械と交わっているような、そんな錯覚に陥った。
しばらくの間、慣らすためなのか瞼を閉じ静止していた彼だったが、覚悟を決めたかのように、ゆっくりと腰を浮かせていった。
「あ、あぁ……あ……!」
微かな水音を響かせながら、ペニスを引き抜いていく。その様はひどくいやらしく、私の頭の芯を揺さぶった。
腹に置かれている手を、思わず掴む。両手首を持って唐突に腰を突き上げれば、彼は悲鳴じみた声で啼いた。
「うぅ、あ……っ!」
二度、三度。ゆっくりと、焦れるような速度で出し挿れを繰り返す。腹の内側を擦り上げてやると、彼は、それまでとは違った表情を見せた。小さく震え、快楽を堪えている。
「ここがいいのか」
見つけ出した場所を、もう一度擦った。今度は、叩きつけるように強く。
「あああ、あぁっ! あっ!」
引き千切る勢いで、きつく締めつけてくる。下衣に、染みが広がった。力を失いこちらに倒れてきた彼を強く抱きしめ、同じ場所を何度も突き上げた。
「ひぃ、ああぁっ! ゴ、ルベ……ザ、さま、あぁ……っ!」
耳朶を甘噛みしながら出し挿れしてやると、更に反応が良くなった。
あの夜とは全く違う、羞恥を捨てた姿だった。
「カイン……ッ」
「ひ…………っ!!」
全てを中に注ぎ込む。恍惚の表情を浮かべながら、カインは白濁を受け止めた。精液で濡れている下衣を破ってペニスを解放してやると、彼のものは、蜜を垂らし続けていた。達しっぱなしになってしまっているらしかった。
ペニスを引き抜けば、白い液体がとろとろと零れ出る。
押し倒し、足を開く。カインは、曖昧な表情で微笑んだ。
色を失ってしまった、強く青い瞳。彼の心が戻ることは、もうないだろう。勿論、あの慈しむような声を聞くことも、怒る声を聞くこともできない。
いつの間にか、カインが見せる様々な表情に惹かれている自分がいた。笑顔も、泣き顔も、怒っている顔も、照れている顔も。全てが愛おしく、優しい思い出のようだった。
体を手に入れたところで、何の意味もない。彼の心は空っぽになってしまっているのだから。
思い出になど、したくなかったのに。
「カイン……」
涙が溢れ、感情が零れ、嗚咽が漏れた。
切なくて、口づけを落とす。カインは抗うことなく舌を絡めてくる。でも、それだけだ。そこに、彼の意志はない。
「どうして、泣いておられるのですか……?」
腰を抱き寄せ、挿入した。求めれば求めるほど虚しくなると頭では分かっているのに、求めずにはいられなかった。
◆◆◆
一つになれないことは知っていた。
永遠なんて存在しないということも知っていた。
それでも俺は、ゴルベーザのことが愛おしくて堪らなかった。俺は愚かだった。
地面に転がったクリスタルが、こちらを見つめていた。
「んん……っ!」
何度目の吐精なのかも分からない。ゴルベーザに悦い場所を探られながら、俺は白濁を吐き出した。ゴルベーザの精液を飲み込みきれなくなった後腔は白濁を垂らし、床を濡らしていく。
ゴルベーザは、人形になってしまった俺を手放そうとしない。自由にならない体、意思を宿すこともできない瞳。洗脳の術に支配されたまま、俺はゴルベーザに組み敷かれている。
こんな俺は、もう、人形ですらないのかもしれない。
『帰ってこい、カイン』――――それは、あの夜囁かれた言葉と同じものだった。
ゴルベーザの様子がおかしいことも、今その言葉に従えばどういう結果になってしまうのかも知っていたのに、悲しい声で囁かれ、息もできなくなってしまった。
この星をなくしたくない。でも、この男を見放すこともできない。このぬくもりを失うのが、怖い。
泣いているこの男が、憐れでならなかった。自己憐憫にも似た感情を胸に抱きながら、俺自身もまた、心の中で涙を流し続けていた。
「ゴルベーザ様……っ」
俺達は、どこまで堕ちていってしまうのだろう。
冷たいシーツの上で、静かな寝顔をただただ見つめる。
バブイルの塔には、朝陽が入らない。外の様子すら分からない。だから、どれほどの時が過ぎたのかも分からずにいた。触れ合う肌同士はこんなにも熱いのに、俺達の関係は冷たく凍えたままだ。
どれだけ抱き合っても、口づけを交わしても、俺達は一つになんてなれやしない。駄々っ子のようにぬくもりを求めるゴルベーザを見ていると、切なさが積もるばかりだった。
今度、ゴルベーザが意識を失ってしまったら。おそらく、その時が、この星が終わりを迎える時なのだろう。意識を失ったゴルベーザは操り人形となって、バブイルの巨人を呼び出すに違いない。
どうして、ゴルベーザの声に従ってしまったのだろう。俺が、クリスタルを持ってこの場所に帰って来なければ、こんなことにはならなかったのに。
どうして、どうして、どうして。
ゴルベーザを引き止めたい。眠る彼の横顔を見つめながら、自由にならない体を叱咤する。静かな寝息に耳を傾け、目覚めたゴルベーザがゴルベーザでない何かになってしまっていたらどうすれば良いのだろう、などと考えたりもした。
軽く身動ぎし、ゴルベーザが目を覚ます。瞼がゆっくりと開き、彼の瞳が、硝子玉ではなく、やわらかな薄紫色をしていることに安堵した。
「――――カイン」
俺の髪を撫で、ゴルベーザは微笑む。
「お前に、頼みたいことがある」
いつになく優しい笑顔に、胸がざわついた。
「私を、殺してくれ」
時が止まったように思われた。
心臓の音だけが、耳の中で一際大きく鳴った。
「殺してくれ、カイン」
そんなこと、できるはずがない。
「私が死ねば、お前たちは助かるだろう」
髪を梳き、頬に口づけて、「だから早く」と懇願する。
今の俺は、お前に抗うこともできないのに。
ゴルベーザの手が、俺の手を取った。その手を、喉元へ持っていく。
嫌だ、やめてくれ! そう叫びたいのに、何も言えない。
「……すまない、カイン」
謝るくらいなら、やめてくれ。抱きしめないでくれ、優しい声をかけないでくれ。
俺の心に反して、俺は笑った。ゴルベーザの体に馬乗りになり、両手で喉を覆う。
「……はい、ゴルベーザ様」
太い血管を指先で探り当て、その血流を止めようと渾身の力を込める。ゴルベーザは微笑んでいる。触れている喉元から、彼の感情が流れこんでくる。「お前に殺されるなら本望だ」と、彼の心は喜んでいるようだった。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!
ゴルベーザの首を絞めている指先が、痛い。
潤んだ瞳を瞼で隠し、彼は体の力を抜いた。
「……………………だ…………っ」
俺は、肺の奥に溜まった空気を吐き出した。
びりびりと痺れる指先。
首を絞めているのは俺の方なのに、俺自身が首を絞められているような、そんな感覚だった。
「い、い…………や、いや、だ…………っ!」
いつの間にか、俺は泣いていた。ぽたり、そのひとしずくがゴルベーザの瞼に落ちる。彼は目を見開き、俺の手を握った。くっきりと残る絞首の痕に、目眩がした。
「いやだ」ともう一度口にすれば、紫色の何かが俺の体から立ちのぼり、ぱちんと弾けるような音がして、俺の体は自由になった。
「カイン……?」
酷く掠れた声だった。
良かった殺さずに済んだと安堵したら、余計に涙が止まらなくなった。
「……ゴル、ベーザ…………」
名前を呼ぶことしかできなかった。それだけで精一杯だった。胸がはち切れてしまいそうなほどの感情の波に心が支配されてしまい、息をするのも苦しくて。
ゴルベーザは、酷い男だ。
その酷い男の肩に顔を埋めながら、俺は泣いた。大声で泣いた。喉が枯れてしまうほど泣いて、泣いて―そうしてようやっと落ち着き始めた頃、信じられない言葉を耳にした。
「……お前は、私を恨んでいるのだろう? 憎んでいるのだろう? なのに何故、泣く?」
耳を疑った。恨んでなどいない、憎んでなどいない。そんな気持ちを込めて、首を横に振った。
そんな俺の気持ちも知らず、ゴルベーザは続ける。
「恨まれても仕方がない。それでも、私はお前を手に入れたいと思ってしまった。お前の心が私に向いていないことは、最初から分かっていたのに」
「ゴルベーザ……」
「どうすれば、お前の心を手に入れることができる? ……いや、心を手に入れることができなくても構わない、私は、お前の笑顔を……私は、お前に笑って欲しくて」
俺の頬を両手で包みこみ、
「私は、お前を泣かせてばかりいる。捕えて閉じ込めて操って、その上お前を殺そうとして、お前を苦しめることばかり行ってきた。私は、どうしたらお前が笑ってくれるのかが分からない。お前の笑顔が見たいとそう思っているのに、考えても考えても分からない。洗脳が解ければお前は笑顔を取り戻すのだと思っていたけれど、お前は、下を向いて悲しい顔をし続ける。……私がいなくなれば、お前は笑顔を取り戻してくれるのではないか。いつしか、そう考えるようになった」
「…………お前は、おかしい。歪んでいる」
「……知っている」
「お前が死んでも、俺は笑わない!」
「では、どうすればいい? もう、お前を悲しませたく―……っ!」
痛々しい表情を浮かべている男の唇に、口づけを落とした。
「お前が笑えば、俺も笑う。それだけだ」
「カイン……」
「ゴルベーザ、クリスタルを返しに行こう。罪は償わなければならない。俺とお前は、同じ罪を背負っている。二人で、やり直すんだ」
◆◆◆
――――二人で。
それは、甘い蜜にも似た言葉だった。誰かと共に生きてゆくことができたなら、どんなに幸せだろう。
カインは心優しく、同時に、酷く脆い部分を持っていた。私は、彼の心が好きだった。だからこそ、これ以上巻き込んではいけないと思った。
彼は、ここにいるべき人間ではなかった。
「早く行こう」
そう言って彼はベッドを下り、側に置いてあった鎧と兜に着替え始めた。白いシャツを脱ぎ捨てた真っ直ぐな背中を、飽きることなく見つめた。
もう、彼の青い瞳は二度と見られないのだと思っていた。ちらりとこちらを見た彼の瞳は海や空のように深く煌めいていて、何故だろう、見れば見るほど胸が痛んだ。
「お前も早く着替えろ。話はそれからだ」
かちり、篭手を着ける音が響く。
彼の言葉に素直に従い、甲冑を身につけ始める。それでも、カインから視線を逸らすことができずにいた。
兜を被れば視界は狭まる。暗く重い兜の向こう側に、彼の姿があった。
「……ゴルベーザ?」
兜を身につける直前だったカインは、私の視線に気づき――――ただ、優しく笑った。
涙が溢れ出てしまいそうになる。
もう十分だ、と思った。
「罪は、私一人のものだ。お前は私に操られていただけなのだ。お前自身には、何の罪もない」
揃ってしまったクリスタル。その現実から逃れたくて、私はこの部屋に閉じ篭り続けていたのだった。ベッドサイドに置かれていた闇のクリスタルを、手に取る。わあんわあんと頭の中で鳴り響く声は止まず、徐々に大きくなっていく。
カインに近づき、そっと抱き締める。躊躇いながらも抱き締め返してくる彼の存在そのものに慰められ、この感触を忘れずにいたいと思った。身を離し、扉に向かう。私を呼ぶ声が、更に大きくなってくる。長く続く廊下の向こう側から、まるで壁を伝うかのように。
扉を開いた。カインが息を飲むのが分かった。
「私はもう、逃れられんのだ。この部屋を出たら、意識を保っていることすら困難になるだろう」
扉の向こうに広がっていた光景は、すでに、バブイルの塔のものではなかった。
ここは、バブイルの巨人の中だった。
最後のクリスタルが私の手元に揃った時点で、バブイルの巨人は復活してしまっていたのだ。
絶句しているカインを横目に、私は部屋を出ようとした。
「ゴルベーザッ!」
私のマントを掴み、しがみついてくる。そういえばマントを齧られたこともあったなと、懐かしい気持ちになった。
「これは私の問題だ。お前には関係ない」
ストップを唱える。声を失って地面に膝をついた彼の頭を撫で、「お前と出逢えて良かった」と呟いた。
お前と出逢えて良かった。お前は、この出会いを不幸なものだと思っているのかもしれないけれど。
歩み、扉を閉じる。脱出経路を、カインの頭の中に流し込んだ。魔法はすぐに解ける。ストップが解ければ、彼はここから逃げ出すことができるだろう。
バブイルの巨人全体が、微かに揺れた。
セシル達が巨人の内部に突入したのだ。頭の中の声が、それを教えていた。意識を奪われそうになる。
計画を台無しにされ、ゼムスは怒り狂っていた。
「おのれ!」
ゼムスに同調し、私は叫んだ。また、巨人が揺れた。セシル達なら、バブイルの巨人を破壊できるかもしれない。それは、微かな希望だった。私の意思を無視して、私の体は走り始めた。セシル達のもとへ向かっているということは明白だった。また、地面が揺れる。
微かな希望が、確信へと変わった。
ゼムスの怒りに支配されながら、大きな扉を開いた。
「お主! 自分が誰か分かっておるのか!」
セシル達と――――それから、老人が立っていた。老人の姿が、記憶の中の誰かと重なる。老人の姿は、「セオドール」と記憶の中で微笑むあの人にそっくりだった。
ああ、そうだ。思い出した。
――――父さん。
眩い光。目眩がする。光に向かって、手を伸ばした。
◆◆◆
最後に見たゴルベーザの背中を、何度も思い返している。戦いが終わっても、俺はあの男に囚われたままだった。
「…………ゴルベーザ」
ゼムスもクリスタルも関係のないところで、俺の心は、あの男に囚われ続けている。時間が経てば経つほど、その強さは増していくようだった。
あの後――――ストップが解けた後。俺は、ゴルベーザの声を聞いた。彼は思念波を使い、『セシル達と脱出しろ、私は行く』と、切ない声で俺に語りかけた。
それが最後だった。その後、どれだけ心の中で呼びかけようとも、彼は俺の声に応えようとはしなかった。
戦いは終わった。世界は平和になった。けれど、俺は祖国に帰ることができなかった。俺は、俺自身を許すことができなかった。
二人の結婚を喜ぶ心の裏側には、微かな嫉妬と切なさがあった。セシルとローザに合わせる顔がない、と思った。
時間が経てば、この切なさも形を変えてくれることだろう。そう思った俺は、試練の山で修行することに決めた。
それなのに。それなのにどうして、ゴルベーザの存在だけが、時間の経過と共に胸の中で大きくなっていくのだろう。
この星に残って欲しかった。月に残ると言った彼を、引き止めたかった。だがその想いを、『これは私の問題だ。お前には関係ない』という彼の言葉が止めた。
俺とゴルベーザは、よく似ていた。俺は、セシルとローザを苦しめた俺自身を許すことができなかった。ゴルベーザもまた、自分自身を許すことができなかったのだと思う。
俺は試練の山に登り、彼は月に残った。彼の気持ちが分かるからこそ、俺は彼を引き止めることができなかった。
空を見上げる。月が綺麗な夜だった。
「ゴルベーザ」
月が、綺麗な夜だった。
「ゴルベーザ」
名を呼んだところで、何も変わりはしないのだけれど。
ゴルベーザは、静かな眠りにつくことができているのだろうか。今、彼は、どんな夢を見ているのだろう。
瞬く音が聞こえてきそうな程美しい星々を、見つめる。
「ゴルベーザ……」
この無数の星のどこかに、お前の眠る月があるのだろうか。
見つかるはずのない月を探しながら、俺は、想いを募らせていく。
これは、愛なのだろうか。
それとも、恋なのだろうか。
星空が、ぼやけて滲んだ。
End