一度だけ、あの男に抱かれたことがある。
 男の手は熱く、まるで炎の塊のようだった。


***


「――――いい加減何とかしなきゃなあ」
 埃まみれで物だらけ、散らかり放題になってしまっている自室を見て、エッジは思わず溜め息をついた。
『自分のことは自分でやるから、二日ほど放っておいてくれないか』と爺に頼んだのが、確か二日前のことで。
 ここ一月程は、忙しすぎて一人で本を読むことすらできなかった。ようやくできた時間の隙間、この二日間だけでも一人になりたくて、エッジは爺に頼み込んだのだった。
 その結果が、これだ。
 忍術の本、丸薬の本、建築に関する本が、辺りに散乱している。「手当たり次第に引っ掻き回しちまったからな」と独りごちて、エッジは近くにあった本を手に取った。
「……あ」
 寝間着に使っている浴衣のまま、頭もぐしゃぐしゃで寝ぐせだらけ。これはないなと立ち上がり、洗面所へ向かう。
 鏡を覗きこんで、「う」と間抜けな声をあげた。
「また腫れてやがる」
 瞼の傷をするりと撫で上げて、ばしゃばしゃと顔を洗った。犬のように頭をぶるりと振り、歯を磨き、髪を櫛で梳かす。
 傷が腫れるのはいつものことだった。定期的に腫れるこの傷は、勝手に熱を持って勝手に落ち着いてしまう。どんな薬を使ってもどんな魔法を使っても、この傷は治らない。
 呪われているのだ、とミシディアの長老に言われた。
(呪い、ねえ)
 この傷が呪いからくるものであるならば、あの衝動も呪いからくるものなのだろう。
 剃刀を取り出して、ちくちくと生えた髭を剃った。ぬるりとした泡の感触とかたい髭の感触が、対になっているもののように感じられた。
 鏡を、見つめる。
 瞼の傷の奥で、眼球が疼く。刳り出してしまいたい、と思った。
 瞼の傷は治らない。だから、瞳についた傷も癒えない。右目の視力は、落ちていくばかりだ。
 ぼやけた視界の向こうに、あの男の残像を感じた。
「つ……っ」
 他に気を遣りすぎていたのだろう。剃刀の先端が、唇を掠めていった。小さな痛みに呻き、口周りを洗って拭う。
 唇を舐めると、血の味がした。
 見知った感覚が下半身に集まってくる。ゆっくりと息を吐いてみるのだけれど、それはどうやってもおさまりそうになくて。
 思わず、ちっと舌打ちした。洗面所を出て、ベッドに向かう。視界の隅に見えた赤いものを引っ掴み、身をシーツの上に投げた。
 浴衣の裾を、たくし上げる。褌を解くと、それはもう浅ましいほど屹立していた。
 自分は、多分おかしいんだろう。イカレている。シドやルカ風に言うと、ネジがどっかに飛んでいってしまっているんだろう。
 舐め取った血の味。赤い、赤い――――あの男が遺した、マフラーのにおい。
 嗅いだ瞬間、掌の中で、それがびくんと脈打った。我慢することもできず、マフラーを咥え、己の欲望を愛撫する。
「ん……ふっ、んぅ、う……ん……っ」
 瞼の傷が疼きをもたらし、その疼きが、快感をより確かなものへと押し上げていく。
 いやらしく湿った音、血の味、疼く傷、あの男のにおい。くぐもった己の声も、あの日と同じだった。
(……おかしいって、分かってんのに……)
 どんな女を抱いても、この快感は得られない。
 ルビカンテに抱かれたのはあの一度きりで、しかも、あれからもう十数年も経っているのに。それなのに、エッジはあの日感じた以上の快感を得られないでいる。
 今思えば、あれはあの男の――――ルビカンテの、発情期か何かだったのだろう。ぎらついた瞳は普段のルビカンテとまるで違っていた。
 意味も分からぬうちに服を引き裂かれ、そこを丹念に舐め回され、それから。
「ん、うぅ……っ!」
 エッジは、己の指を窄まりに挿入した。
 指などでは到底足りない。足りるわけがない。
(ルビ、カンテ……ッ)
 内臓を引き摺り出すような勢いで犯されたあの時のことを思い出しながら、エッジは一心不乱に己のものと後腔を弄った。
 いやらしく湿った音は、互いの粘液が擦れ合う時の音だった。
 血の味は、きつく噛み締めた唇に滲んだ錆の味だった。
 疼く傷は、ルビカンテに押し倒された時にできた傷だった。
 炎のにおいは、あの男のにおいだった。
「あ……、あぁ、あ、ルビ、カンテ、いっち、まう……、あっ、あ……!」
 開いた唇から、マフラーが落ちた。
 後腔が指を締めつける。男のものを搾り取る動きで、淫らに蠢いた。性器を擦り上げる手が、速さを増していく。
 一瞬、目の前が真っ白になった。
 荒い息を吐き、シーツに頭を預ける。白い糸を引く手をじっと眺め、
「……どこからどこまでが、呪いなんだよ……」
 と呟いた。



 End