「…………悲しいから、泣いてるんだろ? おめぇが……おめぇが泣かないから、俺が……代わりに……っ」
 緑の双眸が揺れていた。まっすぐに私を見つめる瞳は、雨に濡れた金緑石のようだった。
 瞳に吸い込まれそうになりながら、彼が言ったその言葉を頭の中で繰り返す。
――――私の代わりに、泣いている?
 泣いているのは彼だった。私ではない。私の瞳は濡れておらず、それどころか乾いているような気さえしていた。
 魔物になってからは、一度も泣いたことがない。
「……何故、お前が私の代わりに……?」
 やっとのことでそう言った。涙を零す目元を拭いたかったけれど、残念ながら、私はその術を持っていなかった。



『眠れねえ』。
 そう言って彼が身を起こしてきたのは、午前二時頃のことだった。
 水を煽り、窓を開き、老眼鏡をかけ、悪戯っ子そのものの笑顔で、「なあ、眠れねえんだけど」と私の顔を覗き込む。
「丸薬か何かでどうにかしてもらえば良い」と返せば、「丸薬で寝たら目覚めが悪くなるだろ」という言葉が返ってきた。
「子守唄を歌えばいいのか?」
「……いや、うん、それは遠慮させてくれ」
「じゃあ、本を読めばいいのか」
「え、いや、うーん、それも……あっ!」
 エッジの目が、ぱあっと輝いた。
「どうせなら、おめぇのことを教えてくれよ」
 言いつつ、立ち上がり床を蹴った。しなやかな体が宙に浮き、くるりと回って窓辺に着地する。窓枠に腰掛け、エッジは嬉しそうにけらけらと笑った。
 いつの間に手に持っていたのか、炎のマフラーを肩にかけている。
 私の視線に気づいたのか、彼は「だってこれ、あったけえから」と照れくさそうにぽつりと言った。
 いつもこうなのだ。いつだって、彼は私の心を簡単にさらっていく。
「ルビカンテ?」
 マフラーの端を握って、己の体を軽く抱きしめている。寒いなら窓を閉めてベッドに戻れば良いだろう、そもそも夜風に当たっていたら余計に目が覚めてしまうのではないか、と思うのだが、エッジは私の話を聞き終えるまで眠る気はないらしい。
 ならば早く話を終わらせる方が良いだろうと判断し、彼の目の前、ベッドの上に腰掛けた。
「……私の、何が知りたい?」
「んー、そうだなあ」
 彼の背後で、星が輝いていた。
「……何で、ゴルベーザに従っていたのか、とか。おめぇは操られてたわけじゃねえんだろ?」
 言葉に詰まった私を見て、エッジは視線をうろうろと彷徨わせた。
「訊いちゃ、駄目なことだったか……?」
「……いや」
 私の過去を話す上では、避けて通れぬ話なのかもしれない。
「だが、何から話せば良いのか……」
「おめぇが話せそうなとこまででいい」
 ぶるりと体を震わせて、彼は身を縮めた。その姿が寒そうで、見ていられなくて、包み込むようにそっと抱きしめる。
「あ……っ!」
 切羽詰まった声にどきりとした。
 触れられないと分かっているのに、何故触れようとしてしまうのだろう。
「は、はな……せよ……!」
 私は彼に触れることができない。だから、逃れようと思えば簡単に逃れられるだろう。だが、エッジはその場を動かなかった。
「――――ゴルベーザ様は、私の命の恩人なのだ」
 銀色の頭が動き、彼は弾かれたように私の顔を見上げた。
「ゴルベーザ様と初めて出会った時、私は瀕死の状態で……。そんな私を救ったのが、ゴルベーザ様だった」
 エッジはこくりと頷いた。
「瀕死の私を拾い、ゴルベーザ様は私の体をルゲイエに託したのだ」
「たく、し……?」
「……当時の私は、人間だった」
 老眼鏡の向こう側で、エッジの細い目が大きく見開かれる。
「ルゲイエに改造され、私は魔物の体で生きることとなったのだ」
 エッジが、ごくりと唾を飲み込んだ。何かを言おうとしたであろう薄めの唇が、微かに開き、そのまま閉じる。
 そう。私は、エッジの両親と同じ存在だった。
 つまり、エッジの両親の言葉を借りると――――。
「『生きていてはいけない存在』だった」
 ――――生きていてはいけない存在。それは、ルゲイエの手で魔物に変えられてしまったエッジの両親が、自分達を指して言った言葉だった。
 嗚咽を噛み殺すように、エッジは己の唇にこぶしをきつく当てている。
「……大丈夫か?」
 訊ねると、無言で小さく頷く。丸まった背を撫で、私は話を続けた。
「魔物の体という形ではあったが……命を救われた私は、ゴルベーザ様のために生きていくと決めた。あの方に救われた命なのだから、と」
「ああ、うん……その気持ちは、ちょっと理解できる」
「あの方の考えがおかしいことは分かっていた。この世を終わりへ導く計画だということも、勿論理解していた。私の全ては、あの方のためにあった」
 だが、エッジの姿を目にしたその瞬間から、私の世界は変わってしまった。
「……生きている間は、ゴルベーザ様に従っていようと決めていた」
 エッジの瞳が潤んでいる。月明りに照らされた緑が、宝石のように光った。
「けれど、死んでからはお前のためにこの魂を使おうと思った」
「俺の、ために?」
「ああ」
「命の恩人でもねえのに……?」
「……ああ」
「なんで、んなこと……!」
「私がそうしたかったからだ。……無鉄砲なお前が心配になったからかもしれない」
「……触れることも、できねえのに?」
「ああ」
「俺がこの老眼鏡をかけるまで……俺と話すことも、俺の目にとまることもなかったのに……?」
「そうだ」
 エッジの顔が、切なく歪んだ。
 胸を刺されたような心持ちになり、「どうした?」と小さく訊く。
 堰を切ったように、エッジの眦から涙が溢れ出した。
「エッジ」
 慌ててその名を呼ぶ。
 エッジは、声もなく泣いていた。
「……何故泣く? どこか痛むのか?」
「胸、が……いてえんだよ……!」
「エッジ……」
「…………悲しいから、泣いてるんだろ? おめぇが……おめぇが泣かないから、俺が……代わりに……っ」
 私をまっすぐに見つめながら、頬に手を伸ばしてくる。
「……何故、お前が私の代わりに……?」
 頬に当てられた手を掌で包み込み、優しく問う。これ以外にどんな言葉をかければよいのかも分からぬまま、ただ、その金緑石のような瞳を見つめ返し続ける。
「わ……分かんねえよ……」
 小さく呟いて、エッジは私の胸に顔を埋めた。


 End


Story

ルビエジ