昨晩、私は小さな嘘をついた。
 彼は泣き出しそうな顔をしていたけれど、それは仕方のないことだと思った。


 私とエッジが出会ってから、もう半年近くが経つ。彼がモンスターに襲われているところに出くわし、彼を救ったのが、そもそもの出会いだった。
 まだ十六そこそこの青年である彼は、モンスターに興味を持ち、私の話を聞きたがった。「もう帰れ」と諭す私の腕にしがみついては、「ちょっとくらいいいだろ!」とむくれてみせたりもした。
 王子という身分からくるものなのか、元来そういう性分なのかは分からないが、とにかく彼は無邪気だった。
 そして私は、彼の無邪気さと可愛らしさに怯えていた。
 毒のない笑顔を私に見せ、小動物のような動作で美しく跳ねる。無駄な動き一つない軌跡を描きながら、彼の体は太陽の光を反射する。
 そんな彼が飛び込むのは、私の腕の中なのだ。
 ――――血にまみれ、穢れた私の腕の中。
 私の腕の中で白い首筋をさらしながら、彼は、にっ、と嬉しそうに笑う。
 昨晩も、そうだった。

 昨晩、私はいつもと同じように待ち合わせ場所の湖へ向かった。その泉の傍には小さな森があり、木々には果物がなっていて、エッジはその場所を気に入っていた。
 森に近づくと、しゃく、という微かな音が聞こえた。
 しゃく、しゃく。
 何だろうと覗いてみれば、エッジは林檎に似た桃色の果物を齧っている最中だった。果物から滴った液体が肘まで垂れ、彼を濡らしている。
「……べたべたになるぞ」
 びくん、と肩を揺らし、エッジはこちらを見た。
「ルビカンテ」
 残りの果物を口に無理矢理押し込んで、もぐもぐごくんとやってから、一直線に駆けてくる。地面を蹴った。私の腕の中に収まり、「へへっ」と笑う。
「相変わらず、あったけえ」
 甘えた声と共に、私の胸に頬を擦り寄せた。
「エッジ、泉で手を洗ったらどうだ」
 頭を撫でながら言うと、エッジは頷き、素直に従った。
 私は、彼に言わなければいけないことがあった。それは“今日こそは”と心に決めてきたことで、とても勇気のいる一言だった。
 私は、彼に別れを告げるつもりでいた。
 魔物の傍にいることが、彼のためになるとは思えない。本当は、もっと早くに別れを告げるつもりだった。
 ちらりと彼に目をやると、泉のほとりに寝転がって、泉をじっと見つめていた。
「……何を見ている?」
「魚」
 なるほど、数匹の小魚が水中を泳いでいるのが見えた。
 エッジの腋に手を差し込み、ひょいと抱き上げる。地面に腰を下ろし、膝に座らせた。
「…………なんだよ。いつもなら、『甘えるんじゃない』って言ってくっつかれるのを嫌がるくせに」
 そう言いながらも、彼は腕から逃れようとしない。
 やわらかくて、小さな体。私は、最後に彼の体温を感じておきたかった。
 強く抱きしめると、彼が息を詰めるのが分かった。私の首に手を回し、小さく何かを呟く。
「ん?」
 耳を澄ます。俯いていた顔を上げて、エッジはもう一度呟いた。
「す、好きだ」
 彼の顔は真っ赤だった。緑の瞳は、涙に濡れている。
 あまりの衝撃に、胸が早鐘を打ち始める。
 伝わっていないとでも思ったのか、エッジはまた、泣き出しそうな顔で言った。
「……俺、おめぇのことが好きなんだ。ずっと、一緒にいたいと思ってる」
 胸が苦しい。何も言うことができない。
「駄目……か?」
 首を横に振るのが精一杯だった。彼を地面に下ろし、立ち上がる。
「ルビカンテ!!」
 振り返らずに、テレポを唱える。
 悲鳴だけが、私の耳にこびりついていた。


***


 エッジは、あれからどうしたのだろう。どうしても気になってしまう。
 悩み続けているうちに、気がつけば、エブラーナ城にある彼の部屋のバルコニーに来てしまっていた。
 座り込み、隠れながら様子を窺う。誰かの声が聞こえてきて、息を殺した。
「若!部屋に入れてくださいっ!!」
「嫌だ、誰にも会いたくねえ……」
「若!!」
「頼む、爺。……あと一日でもいい、俺は一人でいたいんだ」
「若……。分かりました。あと一日だけなら……」
 エッジと話していた男が、そっと部屋の前から去っていくのを感じた。
 覇気のない彼の声に、心が掻き乱される。カーテンの隙間から部屋の中を覗き見ると、エッジはベッドに突っ伏して泣いていた。
 声もなく、肩を震わせて泣いている。
 ――――私も、お前が好きだ。そう伝えればよかったのか。
 彼を悲しませたかったわけではない。彼の未来を守る為の行動だった。これ以上彼を穢すわけにはいかなかった。
 それなのに。
「エッジ」
 思わず声をかけてしまう。泣き腫らした目がこちらを見た瞬間、私はテレポを唱えていた。
 我慢などできる筈がない。テレポで部屋に入った私は、エッジを強く抱きしめていた。
「……ルビカンテ……どう、して……」
 胸を抉られる。こんなに哀しげな彼の声を、私は知らない。
 抱く腕に、力を篭める。
「ごめ……ん……好きになって、ごめんな……」
 きっと、彼は分かっているのだ。魔物と人間の恋が許されるものではないと分かっていて、私に思いを告げている。
 それでも、謝るのは私の方だ。最初に惹かれたのは、私の方なのだから。
「私も、お前のことが好きだ……」
 震える唇に口づけを落とす。いつまでも、彼の体温を感じていた。



End


Story

ルビエジ