月を見に行きませんか。
言い出したのは彼だった。
「月なら、この部屋の窓からでも見えるだろう」
金の髪を撫でながら言うと、シーツに包まったままで彼は悪戯っぽく笑った。
「たまには草をや土を踏んでみたいんですよ」
身を起こし、カインはベッドサイドに置いてある紐を取る。
「俺は一人でも行くつもりですが……どうされますか?」
長い髪を纏め、慣れた手つきで紐を結ぶ。
私も行くというと、彼は、今度は照れくさそうに笑った。
飛竜に乗ったことは、今まで一度もなかった。
「しっかり掴まっていて下さい!」
前を見据え、カインが叫ぶ。宝石箱をひっくり返したかのように、空は煌き、瞬いていた。
びゅう、と風が吹く。カインの髪が顔にかかったので、払い、そのまま彼を抱きしめた。カインの肩が震えたのが分かる。掴まっていろと言った癖にやけに驚くんだな、と、愉快な気分になった。
「……それで、どこに行くんだ」
「試練の山の麓に」
「試練の山の?」
「この前偶然見つけた場所なんですが……良い場所があるんです」
そう言って、彼は何事かを呟いた。人間の言葉ではない何かを聞いたその瞬間、飛竜が大きな声で啼き、翼を羽ばたかせる。
身体が浮き、途端、視界が広がった。一直線に雲を抜ける。冷たい風が頬を撫でた。カインが「兜をつけないで欲しい」と言った理由が分かったような気がした。
雲を抜けると、次にあるのは広大な大地だった。一面の緑が目に映る。痺れるような冷たさの中に、カインの温もりがある。言い表すことのできない感覚が、私の胸を襲った。
凍てつく寒さの中に存在する、唯一つの温もり。愛おしいという気持ちが、溢れ、広がっていく。
「良い夜ですね!」
ごうごうと風が鳴る中、カインが大声で言う。
夜に良いも悪いもあるものか――そう返そうとして、やめた。
一人で過ごす夜と比べてみれば、一目瞭然だった。
「ああ、良い夜だな」
カインは肩を揺らして笑い、
「ですよね。……お前も、そう思うだろう?」
優しい手つきで飛竜の背を撫でた。
降り立った場所は、何の変哲もないだだっ広い野原だった。変わったところと言えば、一本の大木が立っていることくらいだ。右手には森が見える。びゅうびゅうと風が吹いていた。ここに何があるというのだろう。
飛竜から降りると、カインに触れていられなくなる。胸の不快感を堪えながら、彼の体を離し、飛竜から降りた。
カインは飛竜の頬に自分の頬を擦り合わせ、また、何事かを囁いた。飛竜が啼く。彼は驚きの表情を湛え、私の顔を窺うように見た。飛竜がカインの頬を舐める。
「……それは、飛竜の言葉なのか?」
「ええ、そうです」
くすぐったそうな表情で、
「……ゴルベーザ様が、寂しがっている、と……飛竜が言っているのですが、そんな筈、ありませんよね」
どきりとした。見透かされている、と思った。飛竜の顔を見る。零れ落ちそうに大きな瞳は、カインと同じ青色をしていた。飛竜が目を細める、小さく啼く。
「寂しい、か」
「……おかしなことを言って、申し訳ありません」
「いや、私も人間だ。寂しいと思うことも……ある」
そういえば、自分は人間だったな。そんな当たり前のことを、突然思い出した。
感情を持ってはいけないような、胸を痛めてはいけないような、そんな気がしていた。誰かを想ってはいけないと、心を封じ込めていた。
きっと、今の私は酷い顔をしている。カインも、泣き出しそうな顔をしていた。
肩を引き寄せる。カインも、こちらに手を伸ばしてきた。私が彼の背に手を回すと、頭を強く抱き寄せられた。
温かい腕が、全てが、愛おしくて堪らない。
「ゴルベーザ様……」
こんなに傍にいて、抱きしめ合って、なのに何故、こんなにも胸が痛くなるのか。
金の髪を撫で、空を見上げる。大木に茂っている葉の隙間から、淡い光が漏れていた。星と、月の光だ。
そうか、カインはこれを見せたがっていたのか。
葉の間をすり抜けて溢れている光は青く、そして儚い。
「……美しいな」
言えば、カインが顔を持ち上げこちらを見、夢見るように微笑む。
風が葉を撫でる音だけが、静かに囁き続けていた。
End