金色の瞳が、こちらを見上げている。
本能にまかせて壊してしまうことを、初めて恐ろしいと思った。
興味本位と暇潰し。それから、体に満ちた本能。それだけが、俺の原動力だった。
俺の毎日は酷く怠惰で、ゴルベーザ様の下についてもそれは変わりなく、つまり、俺はいつも時間を持て余していた。
ゴルベーザ様のところへ来て、どれくらい経ったころだったろう。ある日突然、あの男は現れた。
腐った体、この世のものではない形をした体。歩く度に肉が剥がれ落ちて面倒だ、と言って、ゴルベーザ様は男に術をかけた。
少し小さくなった男の体はそれでも醜く、俺の胸を抉るような肉のにおいを放っていた。爛々と光る金の瞳。それだけが、生を宿す証にも見えた。
『生に執着し過ぎた動物たちの死骸が、試練の山の魔力を吸って、一つの生き物になったらしい』
面白いものを見つけた、という表情で、ゴルベーザ様は笑っていた。
何に怯えているのか、金色の瞳をした男は震えている。
『体全体は、混ざり過ぎていてもう何の動物だったか判別できぬが、瞳だけは、人間のものだと分かるな』
ゴルベーザ様の言うとおり、確かに、男の金の瞳は人間のもののように見えた。
縋りつくような、それでいて何もかもを諦めたかのように見える瞳。美しく煌めく瞳は醜い体とは酷く不釣合いだ。
男は、自らの醜い体を恥じているのかもしれない。だから、全身を震わせているのだろう。
ゴルベーザ様が、この男――よくよく考えてみれば、この時点では性別の区別などつかなかったのだが――を拾ってきた理由は分からなかったが、このまま放っておいたらこの男は衰弱していくだろう、ということは理解していた。
拾ってきたものの面倒をみようとしないのが、ゴルベーザ様の癖だったからだ。大方、“面白そうだ”という理由だけで、こいつを拾ってきたのだろう。
手に持っていた荷物の袋の中身を出し、袋の紐を取り去り、びりびりと破く。
俺は、何をしているんだろう。こんなやつ、ほうっておけばよいのに。
胸が、ばくばくと鳴り始めた。
「これでも掛けとけ」
破いた袋を一枚の布にし、男の体を、頭からすっぽりと覆う。こちらを見上げた金の瞳が驚愕に見開かれ、真っ黒い骨のような手が、拳を作った。
綺麗な金色の瞳。生に執着した人間の、成れの果てだ。
「……すま……ない……」
しわがれた声が廊下に響く。
「ゴルベーザ様。こいつを、俺に下さい」
男の頭を鷲掴みながら言うと、ゴルベーザ様は興味なさげにその場を立ち去った。
生きていたいのか、死にたいのか、それすらも分からない。
自室に連れ帰ると、男の体は、ただ、恐怖を訴えて震えていた。
「寒いのか」
男の目は、怯える人間のそれだった。見た目はアンデッドだが心はモンスターではない、ということなのだろう。
どうして俺は、こんな面倒なものを引き取ってきちまったんだろう。
自分の気持ちが分からぬまま、男の頭を覆う布を取り去った。
「……あっ」
緩慢な動作で、男が抵抗する。小さな体――それでも、そこら辺の人間よりかは遥かに大きかったけれど――を押さえつけるのは造作もないことで、少し腕を 捻り上げれば、男の体は陥落していた。ただそれは、想像もしない形での陥落だったのだが。
男の腕が、根元から外れてしまったのだ。
「げっ」
男の喉がひゅう、と鳴った。やばい。アンデッドの体が脆いということを、すっかり忘れてしまっていた。
腕がなくなってしまったという事実に驚き、男は声も出せないでいる。
俺は慌て、男の腕の付け根を探った。
「今、くっつける」
外れた腕を根元に埋めるようにして押し付けると、ごりごり、と骨の鳴る音がした。人間を喰っている時にも、これとよく似た音が鳴る。耳を擽る甘美な音に、俺の胸は疼いた。
男の体からは死臭が漂っている。近づいてみて初めて知ったことだが、その体臭には毒が含まれているらしかった。
骨同士がきっちりと填まった瞬間、笛の音のような声で男は啼いた。
「……痛いか?」
アンデッドには、痛覚がないはずだった。この男も例外ではないらしく、ゆっくりと首を横に振る。
胸の疼きが止まなかった。
こんな感覚を覚えるのは久しぶりのことで、戸惑いが先に立った。
どんなモンスターよりもモンスターらしい体を持っている癖に、金の瞳は人間を怯えて震え、揺れている。
不安定なその様に、鼓動が早くなっていくのを感じた。
「お前、過去の記憶はあるのか」
言えば、「ない」という言葉が返ってくる。名前すら持ってはいないのだ、と。
名前、名前――俺は、机の上に放置された本の一冊をちらと見た。
残酷な、モンスターとしての本能が鎌首をもたげ始める。
「ふうん」
金色の瞳に吸い込まれそうになりながら、俺は笑う。素晴らしい玩具を見つけた、と思った。
何て素敵な暇潰しの道具なんだろう。
鋭い牙を剥き、男の怯える様を愉しむ。彼の心に杭を打つ、禁じられた言葉を口にした。
「そんな姿になってまで、生きていたいと思うものなのか」
返ってきたのは、絶句だった。
「死にたいなら、俺が殺してやるぞ。……なあ、スカルミリョーネ。お前は、そんな醜い姿になってまで、生きていたいと思うのか?」
――『毒を持つ者』。
机に積まれていた本の題名が、そのまま、男の名前となった。
人間を殺すこと、犯すこと、嬲ること。それらはもう、俺の心を満たしてはくれなかった。
どんなに美味しい食べ物でも、毎日食べていれば飽きがくる。タイミングよく現れた獲物は、俺の心を満たすのにぴったりだと思われた。
人間は、壊れやすい。人間に化けて抱くこともあったけれど、奴らはすぐに死んでしまった。
それに比べて、アンデッドはどうだ。腕が取れたって死なない。瞳だけになったって、奴は生きていることだろう。
流石に、燃やして粉々にしてしまったら消えてしまうのだろうけれど。
「スカルミリョーネ」
部屋の隅に蹲り、頭を抱え、スカルミリョーネは震えていた。
「スカルミリョーネ」
怯えた瞳をこちらに向ける。大好物の眼差しが、俺を射抜いた。腐臭に混じって、強い魔力の匂いがすることに今更ながら気がついた。
もしかしたら、こいつは魔法が使えるのかもしれない。
考えながら視線を逸らさずにいると、スカルミリョーネが口を開いた。
「……ころし、て……くれ……」
「こんなカタチになってまで、生き延びたいと望んだくせに」
「わたし、は……っ」
「望んだくせに、俺に『殺して』とせがむのか。言っておくが、目ん玉一つになっても、お前は生きていられるんだぞ。その目ん玉を燃やして灰にしたところで、 初めて死が訪れる」
びくん、とスカルミリョーネの体が震えた。分かりやすい奴だ。
「お前は、その恐怖に耐えられるのか?」
スカルミリョーネは黙ってしまった。
「耐えられねえなら、やめとくんだな。覚悟が決まってから言え」
死のにおいと毒のにおいが、俺の頭の中にある何かをぱちぱちと焼いていく。
「お前の体を粉々にした後、目ん玉を焚き火の中に放り込んでやるからよ」
低く低く笑うたびに、スカルミリョーネは震える。
そうか。俺のことが、怖いか。あまりの面白さに、笑った。
体が熱い。脳みそが、興奮させる物体をどばどばと吐き出している。
どうして、こんな奴に興奮してるんだ。
再度俺に背を向けて頭を抱えたスカルミリョーネに、そっと近づいた。背に生えた二本の骨。そこをべろりと舐めた。スカルミリョーネは気づかない。
当然だ。骨には、痛覚も何もないのだから。
この骨を齧ったら、美味いだろうか。良い音が鳴るだろうか。こいつに突っ込んだら?こいつはぎゃあぎゃあ泣き喚くだろうか。
俺のものは、嫌になっちまうくらい勃起していた。
臀部であろう場所を手で辿って初めて、スカルミリョーネがこちらを向いた。
「ひ……っ!」
期待を裏切らない反応だ。
「入れさせろ」
「な、なに言って……私は、男で……っ」
「穴がありゃあ何でもいいんだよ」
「やめて、くれ……っ、やめ」
抵抗する体を転がして、足を開く。歪な体だ。
怯える瞳が堪らなくて、昂ぶっていく心と体を抑えられなかった。
この男の、体のつくりが分からない。やわらかい肌を撫でさすり、入れるところを探す。
それらしき場所を見つけたので、何も考えず突っ込んだ。
「ひ、あああああ……っ!!」
仰け反る体を押さえつける。思っていたより、締りが良かった。
「ああ、あ……あぁ……!」
がちがちがち。スカルミリョーネの歯が鳴った。掠れた声に重なるように、何度も何度も硬い音をたてる。
わけの分からない体をしていても、やっぱりこいつは雄なんだな。立ち上がりかけているものを見て、そう思った。
「気持ちいいんだろ?……勃ってるぞ」
腰を振ると、湿った音が響いた。スカルミリョーネのペニスは蜜を垂らし始めている。金色の目ん玉を舐めると、舌先が微かに痺れた。
こんなところにも、毒があるのか。
「あっ、ああっ、ん……っ」
頑是無い仕草で首を振る姿に煽られる。どうしてこんな奴に――と思うのに、どうしようもない。
「はらが、……やぶ、れ、る……っ、ああ、あっ!!」
「破ってやろうか。ま、破っても死なねえだろうけど」
「へん、へんに、な、る……っ」
「変になっちまえばいい。ほら、腰が揺れてるぞ」
ねだるように、スカルミリョーネの腰が揺れている。モンスターという生き物は快楽に弱いから、これは当たり前の反応なのだ。
知っていながら、呟いた。
「変態」
涙の溜まった目を隠すためなのか、目元を両手で覆い隠し、歯を食い縛って嗚咽を押し殺している。
ああ、こいつの中に出したい。こいつが欲しい。
――――何だ、この感情は。
手首を掴み、金色の瞳をじっと見る。絶望の浮いたそれを見つめながら、欲望を吐き出した。
「ああ……ああぁ、あ……っ!」
何て、心地良い悲鳴なんだろう。
「……ころし、て……っ……ころしてくれ……っ」
いっそのこと殺してくれ、と。
細められた目から、涙が流れ落ちていく。背筋に電流が走った。
「……殺してやるよ。俺が、殺してやる」
こいつは死の淵で、どんな顔をするんだろう。
笑いながら、また、痺れる味のする瞳を舐めた。
●
カイナッツォに揺さぶられているこのときだけ、生を感じることができる。
あられもない声をあげながら、目の前の壁にしがみついた。背に、カイナッツォの滑った肌を感じる。
目を閉じると、様々な情景が目蓋の裏に浮かんでは消えていった。
多分、この情景は私の体が持っている過去の記憶なのだ。
青い空、緑の葉、見知らぬ者の微笑み。
脚、手、頭と胸と骨と心。それぞれが、別々の過去を持っている。それらが一つになり、私ができた。
どうして、私は生きている。
私の過去はどれなのか。
分からないことばかりで、ただ分かるのは背後にいる男の肌の感触だけで、気が狂いそうな感覚に襲われながら、何度も何度も自問する。
どうして私は生きている。
こんな体になってまで、生きたいと望んだのか。
眩暈を覚え、大きく息を吸った。
「……殺してくれ…………」
自分で死ぬ勇気もない。だから、そう呟いた。
セックスに耽溺する日々が続く中、飽き性の――飽き性なのは傍にいればすぐ分かった――彼は、こう口にした。
『お前に魔法を教えてやるよ』
利口なのか馬鹿なのか、優しいのか何なのか。
茶色いローブを持ってきて、『これでも着とけ』と言った彼はひたすら無表情だった。
カイナッツォはひどく気まぐれで、子どものような性質を持っている。あの無表情は照れ隠しから来たものだったのかもしれないと、だいぶ後になって気がついた。
私は、彼に魔法を教わった。教わりながら、本を読むことも覚えた。
暇な時は、書庫に篭って色々な本を読んだ。邪魔しに来るカイナッツォはつまらなそうな顔をしていて、思わず私が吹き出すと、ところかまわず私に襲いかかろうとした。
手を翳す。
「……っ!」
ぱしん、と空気が鳴った。
「お前……使えるようになったのか」
「ああ」
小さなものではあったが、それは紛れもない、サンダーだった。
カイナッツォが舌打ちをする。
手元にある本から、煙が上がっていた。
「燃えてるぞ」
にっ、と彼は笑う。
気に入っている本が燃えているという事実に驚き、燃えている部分を叩く。
瞬間、じわりと肌が溶けだした。
「……馬鹿野郎っ!!」
呆然としている私の手を握り、その手から水を溢れさせた。真剣な瞳が、こちらを射抜いている。
滴る水は本を濡らし、全ての火を消した。
私は痛みを感じない。だから、体が燃えても何の問題もない。普段酷い扱いをしているくせにこの反応は何なのだろう。
「……私が燃えたところで、お前には何の問題もないだろう?」
出会った頃はカイナッツォのことを恐ろしいと思っていたけれど、今は、ちっとも恐ろしくない。
棘を含んだ声で私が言うと、彼はまた舌打ちした。
「勝手に死なれたら、俺の楽しみが減っちまうだろ」
無骨な腕が、ローブをたくし上げる。
抵抗することを放棄し、ただ、その青い手に身を預けた。
●
金色の瞳が、こちらを見上げている。
本能にまかせて壊してしまうことを、初めて恐ろしいと思った。
腐った首筋に牙をたて、本能のままに突き入れ、揺さぶる日々。
きっと、このままでは殺してしまう。
誰を殺しても動かなかったはずの心が、スカルミリョーネを見ることでぴくりと身動ぎすることに気がついてしまった。
「……カイナッツォ?」
ああ、喋るな。こっちを見るな。見られたらまた、我慢がきかなくなっちまうだろう。
どうしてそんな顔をする。お前を痛めつけるだけの、この俺に。
「どうかしたのか?」
不安げな瞳。揺れる瞳が俺を支配し、ぐらり、惑わされてしまいそうになる。
この目が、いけない。
抱き寄せた体は冷たく、死人のそれだった。生きているのが不思議なほど、この体は朽ちかけている。
ばらばらにして、壊してしまいたいと思う。と同時に、失うことが怖くてならなかった。
傍にいたら、壊してしまう。けれど、この男の傍にいたい。傍にいるだけで満足できれば良いのだけれど。
「……出掛けてくる」
体を離し、呟いた。
「え?」
そうだ。こいつを壊さないように、他のものを壊してしまえばいいのだ。
例えば、人間、とか。
「どこへ行くんだ?カイナッツォ」
やめろ。上擦った声で、俺の名を口にするな。
「……お前には関係ないだろう?さっさと、自分の部屋へ戻れ」
俯いてしまったスカルミリョーネから目を逸らし、部屋を出た。
人間に化けて、女を抱いた。抱いてから、殺した。
それは、酷く作業染みた行為だった。
血のせいで、体中がべちゃべちゃだ。なのに、満たされない。こんなに、血の芳しいにおいが漂っているっていうのに。
他の何かで満たせないということは、心のどこかで分かっていたことだった。
この飢えは、スカルミリョーネにしか満たすことができない。
ぽた、ぽた。血が滴る。歩き出せば、地面に赤黒い色を残す。
ゾットに戻って、また歩く。滴る血は、止まらない。
部屋の扉を開くと、暗闇の中でスカルミリョーネが地面に蹲っていた。
自室に帰らず、俺の帰りを待っていたらしい。
「…………おい」
どうやら、眠っているようだ。
「暢気な奴だな」
寝ている間に、俺が首を絞めに来るかもしれないってのに。
血のにおいと、腐ったにおいが混じりあう。それだけのことで、俺のモノは力を持ち始めてしまった。
うつ伏せで寝ているのをいいことに、ローブを捲り上げ、そのモノを押し当てる。やわらかい場所に先端を潜り込ませると、微かに金の瞳が覗いた。
「……あ……」
蝋燭の灯りのように揺れる瞳を見ているだけで、イッちまいそうな気分になる。
ず、ず、ず。ゆっくりと入れていくと、笛の音のような音がスカルミリョーネの喉から漏れた。
中は収縮し、絡みついてくる。
ちろ、とこちらを一瞥し、スカルミリョーネは目を閉じた。荒い呼吸を繰り返しながら、呟く。
「香水の……においが、する……それと、血の……」
「……人間の血だ」
「抱いた、のか……?抱いてから……?」
「ああ、殺した」
お前を殺したくないから、だから、人間を殺した。
赤黒く染まったローブ。スカルミリョーネは抵抗しない。抵抗しないから、思わず壊してしまいそうになる。
そうだ。壊してしまわないように、これからも別の場所で発散しなくては。
「……そうか……他の、誰かを……」
呟いたきり、スカルミリョーネは口を閉ざしてしまった。
●
そんなに殺したいのなら、私を殺せば良いのに。
死にたがっている、この私を殺してほしかった。
あの日から、カイナッツォは様々な者のにおいをさせて私の元へ来るようになった。
男女も、種族さえも関係なく抱いて殺し、返り血を浴びたその足で、私の部屋へやってくるのだ。
皮肉なことに、彼が頻繁に出かけるようになってから、私の魔法の腕はみるみるうちに上達していった。何だかんだ言っても、今までは彼の傍にいることが多かったからなのだろう。
他の誰かのにおいをさせて帰ってくるカイナッツォに会うのが嫌で、私は徐々に自室に戻らなくなっていった。
試練の山で魔法の修行をする。彼と過ごしていた時間全てを、修行の時間に使った。
それが日課となり、気づいたときには、ゴルベーザ様から“四天王”という座を与えられるまでになっていた。
「どうして、俺を避ける?」
久しぶりに会ったカイナッツォの体からは、花のような移り香が漂っていた。あまりにも良過ぎる、自らの嗅覚を呪う。
バロン王の姿に化けているときに誰かを抱いたのだな、と思った。流石にバロン王の姿で殺すのはまずいと思ったのだろう。だから、返り血を浴びていないのだ。
「……避けてなどいない」
「嘘をつくな」
その手で、誰かを抱きしめたんだろう?その口で、胡散臭い睦言を囁いたんだろう?
体ににおいが移るほど、その者の傍にいたんだろう?
「避けているのは、お前の方じゃないのか?カイナッツォ。体から、女のにおいを嫌というほどさせて」
「……何、言ってやがる」
「他で発散しているのなら、私を抱く理由なんて、もうないだろう?」
「……お前……っ」
思わず、といった調子で、カイナッツォがこちらに手を伸ばしてきた。振り払おうとした私の手を捕らえ、喉元を握り潰しそうな勢いで掴む。酸素を失い、全身がぶるぶると震えた。
「俺が、どんな気持ちでいたと思う」
喉の隙間を縫って、微かな空気がひゅうひゅうと漏れ出る。ぼやける視界は、まるで夢の中の情景のようだ。
「俺は、ずっと」
苦しくて、辛くて、眦から涙が溢れ出す。私は、どうして泣いているんだろう。
どこが苦しいのか、それすら分からない。
たどたどしい仕草で、彼の舌先が涙のあとを辿る。首元の締め付けが緩み、掴まる所が欲しくて彼の背中に手を回した。
「……カイ……ナッツォ……ッ」
彼の背後にある壁が、涙でぎらぎらと光っていた。
カイナッツォ。お前が声をかけてくれなければ、私はあの時点で――ゴルベーザ様に拾われた時点で――衰弱し、鳥に突かれ、土に還っていってしまっていたことだろう。
だから、私の命なんて、元々ないも同然なのだ。
――この命は、お前のものなのだ。
「……誰かを抱きたいなら、私を抱けばいい……血を見たいなら、私を傷つけて、殺せばいい……」
耳元に、荒い息遣いを感じる。
「殺してくれ、カイナッツォ」
お前のその手で、この醜い体を切り裂いて欲しい。
その言葉を聞いたカイナッツォは、喉の奥でわらった。
「……殺してやるさ。俺が死ぬ時には、否応なしに道連れにしてやる」
それは、どういう意味だ。
体がかあっと熱くなる。
「俺が死ぬ時に、お前も死ね。それまでは、殺してなんかやらねえ」
心臓の音が、煩く鳴る。
意味深な笑みを浮かべたまま、カイナッツォは私の瞳を見つめていた。
●
昨晩抱いたあの感触が、今も腕に残っている。
目覚めたとき、スカルミリョーネは腕の中にいなかった。
『殺してくれ、カイナッツォ』
蘇る、声。
誰が殺してなどやるものか。お前は、ずっと俺の傍にいるんだよ。
スカルミリョーネを壊したくなかった。壊したくなかったから、他の奴を抱いて、壊した。
けれどそのせいで、スカルミリョーネとの溝は広がるばかりだった。
俺は、どうすれば良かったんだろう。
しがみついてくる腕の感触が、絡みつくような眼差しが、均衡を失って揺れる声が、俺を放さない。
“好きだ”、“愛している”――そんな言葉より、“殺してくれ”という彼の言葉が、何よりも嬉しかった。
「……スカルミリョーネ?」
部屋中を探しても、彼の姿は見つからない。また、逃げていってしまったのだろう。舌打ちして、部屋を出た。
廊下の床はひんやりとしていて、酷く嫌な感じで、忌々しい気持ちになって、バルバリシアの体に姿を変えてみた。
今度は、靴の感触が気持ち悪い。こんな尖がった靴でよく歩けるものだと思ってから、そういえばあいつは歩くより飛ぶことを専門としていたことを思い出した。
俺がバルバリシアくらいの美女だったら、スカルミリョーネは俺を拒まなかったのだろうか。
かつん、かつん、と靴のかかとが凶器のような音をたてる。
かつん、かつん。
だんだん腹が立ってくる。何だかんだ言ったって、仕方がねえじゃねえか。俺は生まれつきこういう見た目で、こういう性格なんだから。
今更、変えようもない。
「あいつ、本当にどこ行きやがったんだ」
「きゃっ!!」
背後から、甲高い悲鳴が聞こえた。
「なんって格好してんのよ!この馬鹿!」
バルバリシア本人だった。
目を白黒させながら、その場に立ち尽くしている。
「そ、その格好で、変なことしてないでしょうね」
「変なことって何だよ」
「あああ、もうっ、気持ち悪い!」
「ちっ」
仕方なく元の姿に戻ると、バルバリシアはほうっと安堵の溜息をついた。
「……二度と、私の姿にならないで」
「俺の勝手だろ」
「せっかく、スカルミリョーネから伝言を預かってきたっていうのに。……聞かないの?」
“スカルミリョーネ”という名前に、心が反応した。ぴくりと表情を変えた俺に、バルバリシアは微笑みかけた。
「聞くの?聞かないの?」
「……伝言なんていらねえよ。あいつの口から、直接聞く」
廊下の真ん中を陣取っているバルバリシアを押し退け、スカルミリョーネを探しに行こうとする。
甲羅に触れることで、彼女は俺の動きを制した。
「聞けないわ。伝言だけじゃなく、挨拶一つ聞けないと思う」
バルバリシアが、俺の顔を覗き込む。長い髪が、白い肩をさらさらと流れていった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
「……どういう意味だって言ってんだよっ!!」
腕を振り上げ、殴りかかる。ひょいひょいと避けながら、バルバリシアは微笑んでいた。
「スカルミリョーネは、ゴルベーザ様に命じられて、試練の山に向かったのよ!セシルを殺しにね!」
「な……っ」
攻撃することをやめた俺の前で浮きながら、彼女は髪を撫でつけている。
「勝てるはずがないわ。あんたも分かってるんでしょ?」
そうだ。勝てるはずがない。あいつの実力は四天王最弱で、何より、あいつは人を殺すことに罪悪感を持っているのだ。
勝てるはずが、ない。
「……『ありがとう』」
「え……?」
「『ありがとう』よ。スカルミリョーネの、伝言」
バルバリシアの顔は、悲痛な色を纏っていた。
あの馬鹿、何が『ありがとう』だ。わけの分からねえ伝言を残していきやがって。
『ありがとう』
どんな表情で、その言葉を口にした?
どんな言葉でも、お前の口から直接聞かなければ意味がない。
「……行って来たら?試練の山。運がよければ、生きてるかも知れないわよ」
「言われなくたって、そうするつもりだ」
試練の山のてっぺんでは、きつい風が吹いていた。アンデッドモンスター達が、そこら中を歩き回っている。
「スカルミリョーネ!!」
やけに静かだ。風の音しかしない。
「スカルミリョーネ、返事しろ!!」
返事をすることができない状態なのかもしれない。頭を過ぎる考えに、必死で首を横に振った。
転がってくる、小さな岩。風音と共に微かに聞こえてくる、アンデッドモンスターの呻き声。
俺は、お前に何一つ伝えられていない。だからまだ、死なないでくれ。
進むことを拒もうとする足。無理矢理にに両足を動かす。
「……スカルミリョーネ……」
ああ、やっぱり、遅かったか。
地面に茶色い布が落ちているのを見つけてしまった。
その布を手元に手繰り寄せ、口に銜える。せめてこのローブだけでも、と引き摺って歩き出した瞬間、布の中から何かが転がり落ちた。
陽の光に照らされて、“何か”がきらりと光る。
見間違うはずがない。それは、スカルミリョーネの金色の瞳だった。
小さな目ん玉を、用心深く人差し指と親指に挟む。瞳の色は濁っておらず、まだ生きていることが分かった。
唾を飲んでから、話しかける。
「……スカルミリョーネ。俺の声が、聞こえるか」
当たり前のように、返事はなかった。そもそも耳もないのだから、声が聞こえているかどうかも怪しい。
この姿では、ルゲイエも匙を投げることだろう。
反応が返ってくることはないと知りながら、語りかけた。
「こんなになっても死ねないなんて、アンデッドってのは本当、面倒くさい生き物なんだな」
目ん玉は、じいっとこちらを見つめ続けている。
綺麗だなあ、と思いながら、陽の光に透かしてみた。
「……言ったよな?俺が死ぬ時には、否応なしに道連れにしてやる、って」
スカルミリョーネが頷いたような気がして、俺は笑った。
「お前が殺られちまったってことは……今度は、俺がセシルを殺すってことになると思うんだよ。……簡単に殺られてやる気はないけどよお、絶対に死なねえって保障はどこにもねえ。まあ、結構長いこと生きた方だと思うし、世の中には未練もないし、死ぬのは別に構わねえんだけど――」
指先で、滑らかな部分を撫でる。
「――一人で死ぬのは嫌なんだよ。だって、一人きりは寂しいからな」
突然、金色の瞳が水分を纏い、何かの液体を垂らし始めた。
ぽた、ぽた。次から次へと溢れては滴り、地面へと吸い込まれていく。
「…………泣くなよ。何だか、俺まで変な気分になってくる」
ぼやけている視界は、海の底みたいだ。あれ?どうして、視界がぼやけているんだろう。
胸が苦しくて、息ができない。大きく息を吸い込んで、言葉を紡いだ。せめて笑顔を、と思い、唇の端を上げる。
声の震えが、止まらなかった。
「ずっと、俺の傍にいろよ、スカルミリョーネ。そうすれば、俺もお前も寂しくないだろ?」
ぴん、と人差し指を弾く。
勢い良く飛んできた金色の瞳を舌先で受け止め、口に含み、ごくりと飲み込んだ。
End