ゴルベーザとは、二度別れた。
一度目は、ゴルベーザが「月で眠る」と決めた時。
二度目は、ゴルベーザが「月に戻る」と決めた時だ。
全て、ゴルベーザ自身が決めたことだった。彼が望んだことなのだから、彼の望むように生きていって欲しいと思っていた。彼に操られ悪事を働いたことは後悔としては残っておらず、長い時間が過ぎ去った今では、美しい思い出となったような気さえしていた。
過去は、もうずっとずっと遠くにある。
だから、本当に今更だと自分でも思う。何故、今になって思い出してしまったのか。あのチョコレートを食べた日の夜のことを――――彼の悲しい瞳と心の中を。
終わったことを掘り起こしたところで、誰も幸せになんてなれやしないのに。
優しい色をした灯りが、部屋の中で揺れている。
セシル、ローザ、セオドア。この家族と共に夕飯をとることは珍しくない。だが、出されたデザートを口にする気にはなれなかった。
「カインさん、食べないんですか?」
綺麗な箱に入っているチョコレートの粒を摘みながら、セオドアが不思議そうに訊ねてきた。
「……ああ、すまない。嫌いというわけではないんだが」
甘いにおいのする、チョコレートだ。
一粒また一粒、嬉しそうに摘んでは食べるさまを眺める。そんな俺の姿を見て、セシルは首を傾げた。
「あれ? カイン、チョコレート大好きじゃなかった?」
セシルの言葉に、胸が痛くなった。
「昔はよく一緒に食べていたのに……」
言って、彼はローザの方をちらと見た。そんなセシルに、ローザはうんうんと頷いてみせる。
「ええ。カインとセシル二人で、おやつのチョコレートを取り合うこともあったのに」
「そ、そんな昔のことは忘れたよ」
少し恥ずかしそうな顔をして視線を逸らし、セシルはチョコレートをぱくりと食べる。ローザは、優しく微笑みながらその姿を見つめていた。
「やっぱり、大人になると味覚が変わっちゃうものなのかしら。チョコレートはやめて、フルーツでも食べる?」
「いや、俺は……」
ローザの気遣いに首を横に振り、立ち上がる。
「ごちそうさま。ありがとう、美味しかった」
「カインさん!」
「何だ、セオドア」
「もう部屋に戻ってしまうんですか? 良かったら紅茶を……そうだ! 僕が淹れますから!」
俺の傍まで慌てて駆けてきて、セオドアは俺の服の裾をぐいと掴んだ。少し幼いその様に、思わず微笑んでしまう。出会った頃よりもずっとぐっと大人になったように思うのに、セオドアは時たま子どもっぽい仕草や表情を俺に見せることがあった。
「カインさん?」
彼の唇の端には少しだけチョコレートがついている。指で拭ってやると、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「あ、ありがとう……ございます……」
「迷惑でなければ、また明日淹れてくれないか? お前が淹れた紅茶を飲んでみたいんだ。……だが、今夜は無理だ。すまない」
彼のやわらかい髪をかきまぜながら謝ると、セオドアは首を大きく縦に振った。
「じゃあ、明日淹れます! 僕が淹れた紅茶はすごく美味しいんですよ! 明日も、父さんも母さんと僕で、一緒に晩御飯を……!」
嬉しそうに話すセオドアの言葉に頷きながら、ローザは俺の目を真っ直ぐ見た。
「そうよ、カイン。明日も是非来て」
「待ってるからね」
それに、セシルの声も加わった。
「……ありがとう。楽しみにしている」
言い、手を振った。
「僕も楽しみにしています!」
本当に嬉しそうに、満面の笑みで微笑むセオドアに癒されながら、城の外へ向かった。
風が強い。白い花が、足元で揺れていた。
空を見上げれば、一面の星空が眩しい。その輝きに感傷を刺激され、去って行ってしまった月に、想いを馳せる。
ゴルベーザは、フースーヤや他の月の民達と再会することができたのだろうか。
ゾットの塔での出来事を――――ゴルベーザとあのチョコレートとのことを思い出したのは、つい先日のことだった。その日まで、俺はあの夜に起こった出来事を欠片も覚えてはいなかったのだ。
一夜きりだった。俺とゴルベーザが体を重ねたことはあれ以来なく、ゴルベーザが俺に本音を過去を語る日は、あの日以降も来ることはなかった。
ゴルベーザは寂しい目をしていた。嫌になるくらいに、俺と同じ目をしていた。甲冑で表情と人間らしさを隠し、その甲冑を脱ぎ去った後もゴルベーザは俺に本音を語ろうとはしなかった。
あの夜俺を求めたのは何故だ、と問いたかった。
何故チョコレートを食べたんだ、と。俺の記憶を消した理由は何だ、と問いたかった。訊きたいことは、数えきれないほどたくさんあった。
『私の寝首を掻きに来たのか』
『……私の心に在るのは、月とクリスタルのことだけだ。それ以外は必要ない。おかしな気遣いも温もりも、私には不必要なものだ』
彼の言葉が蘇ってくる。
そんな言葉を簡単に口にしてしまう彼の人生を思うと、ひどく悲しい気持ちに襲われてしまう。
彼にだって、きっと、幸せな時代があっただろう。母や父に愛されていた時代があった筈なのだ。そう、俺が幼い頃に焦がれ夢見ていたように、彼にも――――。
考え込むうちにいつしか俺は、ゴルベーザの中に俺自身の姿を見るようになっていた。ゴルベーザは過去に帰りたかったのではないか、自分自身を理解してくれる『誰か』を探していたのではないかと考えるようになっていた。
昔の俺は、過去に帰りたがっていた。セシルとローザに裏切られてしまったような気がして悲しくて、行き場のない嫉妬と戦い続けていた。そんな自分の姿が、切なく笑うゴルベーザの姿と重なってしまうのだった。
「――――ゴルベーザ」
強い風に煽られ、髪留めが弾けるようにして飛んでいった。追いかけようとするけれど、闇の中に紛れて消えてしまう。仕方なく、乱れる髪を押さえてもう一度夜空を見上げた。星空の中に、星ではない何かを見つけた。
何かが光っている。
「何だ……?」
見覚えがある光だった。光は、少しずつこちらへ近づいて来る。
大きな船。そう、あれは。
驚き、その場に座り込んでしまった。そうこうしている間にも、船はどんどんこちらへやってくる。きらきらと光る外観と微かに鳴っている飛行音が懐かしくて、首が痛くなってしまう位にただただ船の方を見上げていた。
船が着陸する。それは、紛れも無く魔導船だった。見間違える筈がない。
息を殺して、船を見ていた。幻を見ているような気がした。大きな声を出したら消えてしまうのではないか、瞬きをしたら夢から目覚めてしまうのではないかと思った。
喧しい速度で、心臓が鳴っている。魔導船の扉を見つめ、誰が出て来るのだろうとそればかりを考え続けている自分がいた。
扉が開いた。
その場所に立っていたのは、懐かしい男の姿だった。
「…………カイン?」
何年ぶりだろう。その低く響く声を耳にするのは。
「……ゴルベーザ……」
「カイン、どうしてここに」
「お前こそ、どうして」
立ち上がろうと思うのに、立ち上がることができない。
驚きの表情を隠さぬまま、ゴルベーザが俺の方へ歩み寄ってきた。数年ぶりに目にした姿は変わりなく、切なさがこみ上げるばかりで言葉にならない。
「ほら、立て」
差し伸べられた手に既視感を覚え、呆然としてしまう。
「どうした?」
大きな手だった。震える手で握り返せば、ぬくもりが返ってくる。
ああ、本物のゴルベーザだ。本物の彼が、この星に帰ってきたのだ。幻覚などではない。
驚きすぎたのか、体に力が入らない。
「……腰が抜けた」
素直に言うと、ゴルベーザは小さく吹き出した。彼の笑顔に、こちらもつられて微笑んでしまう。
少し悩んでから、ゴルベーザは俺の傍に腰を下ろした。夢を見ているようだった。
「星が綺麗だな」
手は、繋がれたままだった。
確かに、星は美しかった。だから、何も言わずに頷いた。星の瞬きに同調するように、魔導船の船体が薄ぼんやりと光っているように見えた。
ゴルベーザの横顔を盗み見て、その横顔が少しだけセシルに似ていることに気がついた。
「お前が帰ってきたということは、フースーヤは……」
「ああ、フースーヤも月の民達も、皆無事だった。月の民達は皆目覚めていて、私の無事を喜んでくれた」
フースーヤ達が無事で良かった。胸を撫で下ろし、ゴルベーザの手をきつく握る。
「……何故、この星に帰ってきたんだ?」
ゴルベーザは、月の民達と共に生きていくつもりなのだろうと思っていた。だから、この星に帰ってくるなんて想像すらしていなかったのだ。
もう、二度と会えないのだと思っていた。
ゴルベーザは、情けなく歪んでいるであろう俺の顔を見て、また笑った。
優しい微笑みだった。ゼムスに洗脳されていた頃には見られなかった笑みだった。
おかしなことを訊ねてしまったかと思い慌てて俯くと、ゴルベーザは空いている方の手で俺の頭を撫でた。
「何故帰ってきたのかは、私にも分からない。ただ……フースーヤ達の無事を確かめて安堵した瞬間、どうしてもこの星に帰って来なければならないような、そんな衝動に襲われたのだ」
「何か、やり残したことがあったのか?」
「……そうかもしれない」
繋いだ手に視線を落とす。あたたかな手だった。ゴルベーザは、俺の手を振り払わない。
沈黙に襲われぱっと顔を上げる。
瞬間、ゴルベーザと目が合った。尋ねるなら今しかない、と思った。
「ゴルベーザ。お前に訊きたいことがある」
「訊きたいこと?」
「……お前が俺を操っていた頃のことを、聞きたい」
ゴルベーザの体が微かに硬直した。震えたような気もする。
やはり、訊いてはならないことだったのだろうか。とてつもない後悔に襲われた。
「それは――――」
言ったきり、彼は口篭ってしまった。
だが暫くの沈黙の後何かを決心したのか、「何だ?」と逆に尋ね返してきた。
「どうして、俺の記憶を消したんだ」
率直に、一番気になっていたことを訊いた。
「確かに、俺の心は操られていた。でも、記憶を消されたのは『あの』一度きりだった……何故だ?」
ゴルベーザは、繋いでいた手を離そうとした。今離してはならないような気がして逃さぬようにぎゅっときつく握ると、彼は戸惑いの表情を見せた。
「……どうして俺を抱いたのかも、聞きたい」
「カイン……」
「それから、どうしてチョコレートを食べたのかも」
薄紫色の瞳は綺麗で、じっと見続けていたら吸い込まれてしまうのではないかと思った。ゴルベーザの瞳をこんなにも近くで見るのは久しぶりのことで、彼の瞳には、泣きだしそうに歪んでいる俺の顔が映っていた。
「私は……」
ゴルベーザが口を開いてくれるのを、根気強く待った。
「私は、お前を手に入れたかったのだ」
思いもよらなかったその言葉に、鼓動が大きく鳴った。
「お前は、私によく似ていた。あの頃は自分の感情の正体すら分からなかったけれど、今なら分かる。私は、お前という存在が愛しくて堪らなかったのだ」
「ゴルベーザ……」
「セシルとローザに対する嫉妬や、幼い頃に帰りたいと思う子どものような想い。そんなお前の心に、私は、自分自身の過去を重ねていた」
***
私の手を握るその手は、微かに汗ばんでいた。
「……幼い頃の私は、セシルを憎んでいた。母がいなくなってしまったのはセシルのせいなのだと考えていた。セシル自身には何の罪もないとは分かっていたけれど、それでも、歪んでいく心を止めることはできなかった」
カインは、私の話を静かに聞いている。どこかで鳥の声がした。風が吹き、草や木々が音をたてた。
「ゼムスに囁かれ、私はセシルを森の中に置き去りにした。セシルは大声で泣いていた。森の中を走りながら、『こんなはずではなかったのに』と私は何度も思った。父と母が生きていてくれたらこんなことにはならなかったのにと、どうにもならない感情をいなくなってしまった両親にぶつけていた。私が望み焦がれていた未来はどこにもなかった。幼かった私は、わけも分からず泣くばかりだった」
カインの瞳が潤んでいる。
「泣いて、泣いて……いつしか、私の心は氷のように硬く冷たくなっていった」
心を氷にしてしまえば、何も感じなくなれば、傷つかないで生きていける。私は、感情を殺すことで自分自身を守ろうとしたのだった。
「その氷を溶かしたのが、カイン。お前だった」
「俺が……?」
「私は、お前に人間というものを教えられた。お前の心の中にある風景は見れば見るほど綺麗で――――だから、お前を手に入れたくて堪らなくなった。お前を手に入れられれば幸せを手に入れることができるのではないかと、私はそう考えていた」
「買いかぶりすぎだ。俺の心はそんなに綺麗じゃない。……俺の心は、嫉妬に塗れていたはずだ。俺は、誰かに傍にいて欲しかった。誰かに、俺という存在を認めて欲しかった。誰かの特別になりたかった。『お前だけだ』と言われたくて、けれどセシルとローザは俺だけのものではなくて……俺は……」
カインは、そう言って俯いてしまった。涙声だったようにも思う。
「カイン……」
夜風で冷えてしまった体を、そっと抱きしめた。瞼を閉じ、耳元で囁く。
「私がチョコレートを食べたのは……お前と四天王達が作ったものを、ただ単純に『食べてみたい』と思ったからだ。――――お前の記憶を消したのは、お前に溺れてしまいそうな自分自身が怖かったからだ」
「俺に……?」
「媚薬を飲んでふらふらになった姿をからかってやるつもりだった。最初は、ただそれだけだったのだ。だが、いつの間にかからかいだけでは満足できなくなっていた。口付ける度、頭の芯が真っ白になって」
「も、もういい。もういいから」
瞼を開いて見てみると、カインは耳まで真っ赤になって慌てていた。
「もういい、いいから……よく分かったから。……恥ずかしくて、どうにかなりそうだ」
彼の体温が、少し上昇したような気がした。口づけたくて堪らなくなる。唇を、親指でなぞった。
「ゴルベー、ザ……んぅ……っ!」
何度も啄み、彼の呼吸を奪う。地面に押し倒しそうになった所で、我に返った。
「本当にお前は……!」
「……すまない」
「お前のやることは、いつも唐突過ぎる」
「…………本当にすまない」
本気で怒っているというよりは、本気で恥ずかしがっているという風だった。
私の両肩を掴んでぐいと引き剥がし、彼はよろよろと立ち上がる。抜けていた腰は復活したらしい。
服についた土を払い、私に背を向け、一際大きな声を出す。
「そ、そもそも、俺とこんなことをしている場合じゃないだろう! やり残したことがあるから、この星に帰ってきたんだろう?」
「ああ」
「じゃあ、そのやり残したことを早く――――」
「もう済んだ」
「え?」
「もう、いい」
言いながら立ち上がり、首を横に振った。
「もういいって……お前がこの星に来てしたことといえば、俺と話したことくらいじゃないか」
「……それで十分だ」
「十分なわけがないだろう……!」
「カイン……」
魔導船に戻ろうとした私の手首をきつく掴み、ゆるゆると首を横に振る。
「話すだけで良かったのなら、どうして俺に口づけた? どうして抱きしめた? お前は、俺を手に入れたいって言ったじゃないか。俺を手に入れられたら、幸せになれるんじゃないかって」
「……ああ」
「じゃあ、手に入れればいい。幸せになればいい。この星で暮らせばいいじゃないか」
この星で暮らす? そんなこと、考えたこともなかった。
「ゴルベーザ。……一緒に、この星で暮らそう」
青い瞳が、真っ直ぐに私を射抜いている。
「一緒に暮らして、俺と幸せになろう。俺たちが望んでいた『昔』にはもう二度と戻れないけれど……きっと、新しい幸せを見つけることはできるから」
カインの言葉に、感情が溢れ出してしまいそうになる。
幸せの証を引き寄せて、腕の中に閉じ込める。
「……――――……」
遠くで誰かの声がしたような気がして、カインを抱きしめたまま、声のする方を見た。
セシル、ローザ、セオドア――――懐かしい顔ぶれが、こちらに向かって手を振っていた。
「セ、セシル……!?」
私の腕の中で焦る姿が愛おしくて、ただ、そのぬくもりを手放したくないと思った。
End