「――――ゴルベーザ様」
廊下で呼び止められ、立ち止まった。
青くきらめく瞳が、こちらを見上げている。
「……何だ」
こちらに手を伸ばし、彼は何かを差し出した。
「落し物です」
差し出されたそれは、ピンク色をした小さな瓶だった。見覚えのないものだ。
「……私のものではない」
「え?」
「私のものではない、と言っている」
「……そう、ですか」
銀色の床をじっと見つめてから、カインは瓶に視線を落とした。丸い形をしたその瓶にはラベルもなく、刻印もない。中には黒っぽい液体が半分ほど入っている。
再度歩み始めた私を、カインは止めない。
結局、何か言いたそうにしていた彼の唇が開かれることはなかった。
ピンク色の小瓶を握りしめたまま、ゴルベーザ様の背中を見送った。
ゴルベーザ様が疲れているように思えたのは、俺の思い違いなどではないだろう。
「……私のものではない、か……」
ゴルベーザ様が歩いた後に落ちていたから、てっきりゴルベーザ様が落としたものなのだろうと思っていたのだけれど。
もしかしたら、魔物の持ち物なのかもしれない。ポーションの仲間だと思えば、そう見えないこともなかった。
珍しいものなのかもしれないと考えれば捨てることもできず、とりあえず、懐にしまい込む。
後ろで一つ結びにした髪が、肩にさらりと垂れた。ミストの一件で壊れてしまった兜は、修理に出した。顔を覆うものがないと、心許なくて堪らない。
ただ、ゴルベーザ様の疲れた声音が、どうにも気になって仕方がなかった。
「え? 疲労回復?」
「ああ。疲労回復に良さそうなものを教えて欲しい」
面倒ごとはごめんだという色を顔に貼り付けながら、バルバリシアは小首を傾げた。
バルバリシアに相談を持ちかけようと思ったのは、このゾットの塔に居る魔物の中で、彼女が一番人間に近い感覚をもっていそうな気がしたからだった。
長い髪が、まるで別の生き物のように動いている。その長い毛先を自らの顔の前まで持ってきて指先にぐるぐると巻きつけながら「ポーションでいいんじゃないの」と気怠げに呟いて、彼女は飛び立とうとした。
「ま、待ってくれ」
「何?」
「ポーションではなく、もっと……何というか」
「何よ」
そう、ポーションとは違うのだ。傷を癒すのではなく、もっと根本的なところを癒すもの――――。
どうにかこうにか説明すると、バルバリシアは分かったような分からないような、微妙な表情をした。
「ああ……うん。あんたが言ってるのは、疲労回復というよりは『癒し』ね」
「『癒し』?」
「そう、癒し。こう、何ていうか、ホッとする感じのもののことよね。何、あんた、そんなに疲れてるの?」
「……いや、俺ではなくゴルベーザ様が……」
「ゴルベーザ様?」
ゴルベーザ様の名を聞き、バルバリシアの目が丸く大きくなった。ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返してから、うーんと一つ、伸びをする。
「もう、ゴルベーザ様のことならゴルベーザ様のことだって早く言いなさいよ! 協力してあげるから!」
そうと決まれば行動よ行動! と背中を押され走らされた。ゾットの塔は広く、知らない部屋も数多くあって、どこに向かっているのかも分からない。
途中、他の四天王達に出会った。彼らは走る俺と飛ぶバルバリシアを見て、興味津々といった調子で近づいてきた。
厄介である。面倒である。どうしようもない。
彼らは四天王と名乗って結託しているように見えるけれど、性格も性質もてんでばらばらなのだ。
「あのね、カインと一緒にチョコレートを作るのよ」
バルバリシアが楽しげな声でそう言ったけれど、初耳だ。
「……チョ、チョコレート?」
バルバリシアに尋ねると、バルバリシアはにっこりと笑った。満面の笑みだ。
「甘い物は、疲労回復に効果があるって言うでしょ! チョコレートと一緒に温かい飲み物を出せば、ゴルベーザ様はきっとホッとしてくれるはずよ! で、私もゴルベーザ様に元気になって欲しいと思うし、それなら私とあんたで一緒にチョコレートを作ればいいんじゃないかなって思ったの」
それを聞いた他の四天王達は、顔を見合わせて何事かを相談し始めた。
「俺もそれに混ざりてえ。暇だし」
「私もゴルベーザ様に疲労回復を……ところで私の回復魔法では駄目なのだろうか」
「……私が手伝ってもいいのだろうか……私が触ったら腐ってしまうのではないだろうか……でも手伝いたい」
と、それぞれが好きなことを口々に呟いている。
「じゃあ、皆で作ればいいじゃない!」
それは流石に、と止めようと思ったが、もう遅い。一列に並んだ四天王達は、バルバリシアを先頭にぞろぞろとどこかへ向かっていく。仕方なく、その後に続いた。
四天王達が列を成しているというおかしな姿にふきだしつつ、まあでも、よくよく考えてみれば悪い話ではない、と思い直す。
部下が作った料理であれば、ゴルベーザ様も喜んで食べてくれるのではないだろうか。それに、ここに来てまだ三日目の俺には分からないことだらけなのだから、ここは、彼らに任せておいた方が良いかもしれない。
「カイン! 置いて行くわよ!」
「ああ」
それにしても、どこへ向かっているのだろう。
辿り着いたのは、やけに立派なキッチンだった。使われた形跡のないキッチンは本当にぴかぴかで、新品そのものだ。
そういえば、この塔に来てから料理らしい料理を食べていない。サラダだとか肉を適当に焼いたものだとか果物だとかを、適当に食べていたような気がする。
もしかして、ゴルベーザ様はそんな生活をずっと続けているのだろうか。
これはいけない、と思う。
俺達は相談した。レシピを探すのは真面目なルビカンテ、俺と一緒に料理をするのはバルバリシア、その手伝いをするのがカイナッツォ、スカルミリョーネはレシピを読み上げる役目を負うこととなった。
スカルミリョーネは、食材に触りたくても触れないらしい。近づいたらにおいがついてしまうのではないか、と己の体のことをしきりに気にしていた。
買い出しに行くのは、人間である俺だった。他の者では目立ち過ぎるし、そもそも物を売ってもらえない可能性もあるから、当然と言えば当然だった。
ルビカンテから買い出しのメモを受け取り、街へ向かった。
***
青い瞳に心揺さぶられている自分自身がいた。
兜を取った青年の顔は整っていてどこか冷たくて、それなのに、瞳の奥は青い炎が宿っているかのように暗い色をして揺れていた。
最初は、彼を連れ帰る気などなかった。ミストに放置しておけばいい、そう思っていた。だが、黒竜がそれを許さなかった。黒竜は、カインのことを気に入ったようだった。
竜のにおいがする男に惹かれることは当然のように思え、咎める気にもなれず、黒竜の望むまま、私はカインをこの塔に連れ帰った。
カインは、酷い怪我をしていた。垂れた血が床を汚すほどだった。
バルバリシアは、「満身創痍の人間を、どうするおつもりなんです」と顔を顰めた。
私にも分からなかった。腕の中で死にかけている竜騎士の重さにその存在に一番戸惑っているのは、私なのかもしれなかった。
カインは、ルビカンテの力で一命を取り留めた。
ベッドに横たわったその姿を、黒竜と共に、目が覚めるまでずっと見つめ続けていた。
人間が近くにいるということが不思議でならなかった。
一番身近な人間である筈のルゲイエは、彼自身の手で機械じみた体に改造され、既に人間ではなくなってしまっていたからだった。
私にとって、人間は遠い存在でしかなかったのだ。
時折ぴくりと動く瞼、微かな寝息をたてているその薄い唇でさえ、私の目には珍しいもののように映った。
この人間が目覚めたら、どうすれば良いのだろう?
この男は、私に攻撃をしかけてくるだろうか。諸悪の根源である私を、この男はどう思うのだろう?
金色の髪を梳く。血がへばりついていた長い髪はルビカンテの手で綺麗に拭われ、梳かしつけられていた。さらさらのように見えていた髪は触れてみれば少し傷んでいて、カインはあまり髪に頓着しない人間なのだろうと思った。
閉じた瞼の裏で、眼球がぐるぐると動いているのが見える。
当たり前のように、私はカインに術をかけた。
カインの意志など関係なかった。
私の心にあったのは、クリスタルと月のことだった。カインを操ろうと思ったのも『バロンの人間を傍に置いておけば手駒として使うことができるのではないか』。そう考えての行動だった。
それだけだった筈なのに、目覚めたカインに『ゴルベーザ様』と呼ばれた瞬間、息ができなくなってしまった。
『ゴルベーザ様』
頭の奥が痺れるのを感じた。胸の疼きの正体が分からなかった。他の者に呼ばれてもこうはならない。名前は私を表す記号に過ぎないのに。
身を起こした彼の顎をすくい上げ、青い瞳を覗き込んだ。こうすることで、操った人間の心や過去をも覗き垣間見ることができる。
カインの瞳には驚きの色が滲んだけれど、主のすることを咎めるつもりはないらしく、ただ薄く笑んだまま、私の方を見つめ返していた。
彼の心の中にあるのは、幼馴染のことばかりだった。
金色の髪をした少女が、こちらに向かって微笑みかけてくる。その傍にいる銀色の髪をした少年は、彼と共にミストで倒れていたあの暗黒騎士だった。少女と少年は、泣いているカインを慰めているようだ。
『泣かないでカイン、カインのお父さんとお母さんにはなれないけど』
言いながら、二人はカインの体に抱きつき、きつくきつく抱きしめた。
場面は変わり少女と少年は大人になっていく。鮮やかだったカインの心の色が、どす黒く変色していくのを感じた。甘く優しい、幼馴染との『変わらぬ時』は続かない。そっと抱き合うセシルとローザを見るカインの心の奥には、焼けつくような苦い嫉妬心が芽生え始めていた。
『俺は一人きりなのだ』という想いが、カインの奥底に徐々に刻み込まれていく。
嫉妬することは醜いと思っているのに、彼は嫉妬に溺れていく自分自身を止められないでいるらしかった。
暗闇に包まれている部屋の中、物思いに耽り始めてどれ位の時間が経ったのか。月明りをカーテンで遮断し、書類や物が散乱した部屋の中、椅子に腰掛け――――考え続けているのは、あの男のことばかりだった。
何故、心揺さぶられてしまうのだろう。
あの男が、自分によく似ているからなのだろうか。
カインの心の奥底にある汚く醜い感情は、私のそれとよく似た色をしていた。
***
「これでよし……と」
メモにチェックを入れ、購入した材料を確認し、四天王達の元へ戻った。
「待ちくたびれた」と言いながら、カイナッツォが紙袋の中を覗き込んでくる。
「何か、すっげえ甘いにおいがする……」
顔を歪ませながら呟いたので、思わず笑ってしまった。甘いものは、あまり得意な方ではないらしい。
「当たり前だ。菓子の材料なんだから」
「俺好みじゃあねえなあ……って、いてて!」
紙袋をぐしゃりとやろうとしたカイナッツォの手を、バルバリシアがぱんと叩いた。
「もう馬鹿! あんたが食べるんじゃないんだからいいのよ!」
こうして、少し不安になる菓子作りが始まった。
魔物達の目は、まるで無邪気な子どものようだった。きらきらと金色の瞳を輝かせながら、俺が手を動かすのをじっと見つめていた。
「人間ってのは、よく分かんねえもんを食うもんなんだなあ! 人間の方が美味しいのに……おっと」
飛んできたバルバリシアの手を避けて、カイナッツォはにたりと笑った。カイナッツォは、動きやすいようにと俺の姿に身を変えていた。
正直、少し心臓に悪い。他の者に化けてくれた方が有り難いのだけれど、カイナッツォは俺の姿を気に入ったようだ。
「どうして、俺の姿に化けたんだ?」
「んあ? だって、バルバリシアに化けるより体が軽……うわっ!」
長い爪で引っ掛かれ、カイナッツォの頬に血が滲んだ。
「やめろ、バルバリシア、カイナッツォ。喧嘩をするために集まったわけではないだろう?」
ルビカンテの強い声音に二人はしゅんと項垂れてしまった。
一時はどうなることかと思ったけれど、想像していたよりも、すんなりことは進んでいった。真面目なルビカンテが指揮をすることで、彼らはどうにかまとまることができるらしかった。
レシピに視線を遣りながら、スカルミリョーネが小さな声で呟くように言う。
「……次は、そこにある瓶の中身を、数滴垂らしてくれ」
「あ? 瓶?」
カイナッツォが、面倒くさそうに瓶をむんずと掴んだ。
「これか?」
「ああそれだ。中身は酒らしい」
チョコレートが入った器の中に、カイナッツォが瓶の中身を垂らす。その姿を横目に、俺の頭の中では大きな疑問がぐるぐると渦巻き始めていた。
確かめずにはいられなくなり、ラッピングを並べてうんうん唸っているバルバリシアに問いかける。
「なあ、バルバリシア。ゴルベーザ様は、甘い物を食べられる方なのか?」
リボンを持つバルバリシアの手が、ふるふると震えた。リボンが床に落下する。
「忘れてたわ……そうか、好き嫌い……」
「確かめていないのか」
慌てて尋ねると、バルバリシアは首を小さく横に振った。
「……ゴルベーザ様がまともなものを食べている所を、私も、他の四天王の誰も、見たことがないのよ」
バルバリシアは、しょんぼりと肩を落としながら言った。
出会った時にはもう、まともなものを食べなくなっていたこと。ゴルベーザ様が甲冑を脱ぐところですら、最近は見られなくなっていること。それから。
「あんたはゴルベーザ様の『中身』を見たことがないから、あの方を魔物か化物か何かだと思っているかもしれないけど……あの方は、正真正銘、ただの人間なのよ。少し魔力が強いだけの人間なの」
驚いて、息を飲んだ。四天王達の上に立つ者なのだから、当然のようにゴルベーザ様は魔物か、魔物と同等の者だと思い込んでしまっていたのだ。
「そうか、ゴルベーザ様は人間なのか……」
人間が、魔物だらけのこの塔に、どうして。
ずきずきと、頭が痛み始めた。
「……カイン? どうしたの?」
バルバリシアの声が、どこか遠くで響いているような気がした。
考え出したら、止まらなくなってしまう。
ゴルベーザ様は、どうしてこの塔に一人で住むことになったのだろう。家族はどこに? 何故、彼の周りには人間がいないのだろう。
俺は何故、ゴルベーザ様の足元に傅いているのだろう。
考えてはいけない気がする。考えたら、何かが終わってしまう気がする。
頭が痛い。頭が痛い。割れるように痛い。まるで、頭の奥を鋭い爪に握り潰されているような感覚だった。
力を抜いて息を吐く。
ゴルベーザ様にチョコレートを届けよう、彼のすること言うことに忠実であろう、とそれだけを考えると、頭痛はすぐにおさまった。
「おいカイン! ここまでできたぞ。次はお前とバルバリシアの番だろ!」
額に、嫌な汗が浮いていた。カイナッツォの声に、曖昧に頷く。そうだ、これを作り終えなければ。
ゴルベーザ様の疲れた声を思い出した。
俺は、あの方の疲れを消したいだけなのだ。
掌の上にぽんと置かれたピンク色の箱を、落とさぬようにそっと掴んだ。「上手にラッピングできて良かった」と笑うバルバリシアに、「皆で一緒に届けに行こう」と提案する。
「私達はいいわよ」
四天王達が首を横に振ったので、俺は首を傾げた。
カイナッツォが、そっぽを向いて照れたように言う。
「……だって、恥ずかしいだろ。何年も一緒にいて、今更こんなことをするなんてよお……」
カイナッツォは、自分が真っ赤な顔をしているという自覚がないのだろう。俺の姿のままで、そんなことを言わないで欲しい。何だか、こちらが恥ずかしくなってしまう。
「そうか。では、俺が届けに行こう。ルビカンテもスカルミリョーネも、それでいいのか?」
「ああ、構わない」
ルビカンテの声に合わせるようにして、スカルミリョーネはゆっくりと頷いた。
バルバリシアが俯いて、ぼそぼそと何事かを呟く。
「あの……チョコレートのことなんだけど。私達と一緒に作ったんじゃなくて、あんた一人で作ったってことにして欲しいのよ。カイナッツォが言うように、今更過ぎて恥ずかしいし、一体どんな顔をすればいいのかも分からないんだもの」
「……分かった。俺が一人で作ったことにしておこう」
キッチンを出て、ゴルベーザ様の部屋に向かう。真っ直ぐに伸びた廊下に、俺の足音だけが響いた。
チョコレートが入っている箱を、ちらと見る。
主の体調を心配するのは当然のことだ。そう、ゴルベーザ様は、大切な主なのだ。それなのに俺は、ゴルベーザ様とどうやって出会ったのかを思い出せずにいる。
ミストで途切れてしまった俺の記憶。取り戻そうとする度に、頭の中がぎちぎちと歪んでどこかが軋んでしまう。
ゴルベーザ様の部屋の前、扉の目の前に立ったけれど、足が竦んで入れない。
俺は、何か取り返しの付かないことをしようとしているのではないだろうか。
踵を返した途端、こめかみに痺れるような痛みが走った。
「ぐ……っ」
よろめいて、扉に背を預ける。考えるなという声がする。
誘うように響く甘い声。真綿のように優しくそっとけれど確実に、俺の胸を、首を絞めつけていく。苦しくて堪らないのに、甘美な毒のように俺はその甘さの中に沈んでいく。
「う、あっ!」
唐突に、扉が開いた。尻餅をついて部屋の中に倒れ込む。
顔を上げた先には、闇が広がるばかりだった。
扉が、背後で閉まる。
「…………ゴルベーザ、様……?」
吸い込まれそうなほど、暗い部屋だった。
チョコレートが入っている箱を、胸元に引き寄せる。落とさずに済んで良かったと安堵している暇もない。この真っ暗な部屋に、目が慣れてくれない。
何かが、微かに光った。
「ゴルベーザ様、なのですか……?」
見上げた先で光っていたのは、ゴルベーザ様の――――瞳だった。
薄紫色をした瞳が、俺を見下ろしている。ゴルベーザ様は、甲冑を身に着けていなかった。大柄ではあるけれど、その姿は人間そのもので。
この方は、普通の人間なのだ。バルバリシア達が話していたことを思い出した。
「――――何の用だ」
低い声だった。聞いた途端、また頭が痛み出した。
「私の寝首を掻きに来たのか」
俺は、この人にからかわれているのだろうか。ゴルベーザ様の言っていることが分からない。
立ち上がり、からからに乾いた喉に唾液を送り込んでから、俺は首を横に振った。
「……ゴルベーザ様に、これを届けに来たのです」
はっきりとは見えぬ主の顔に目を凝らし、搾り出すように口にする。
「私に、これを?」
「はい。お疲れのご様子でしたので、チョコレートを、作って……」
一瞬、言葉を失った。
目が慣れてきて視界がひらけてきた。瞳の奥に焼き付く、長めの銀の髪。ゴルベーザ様は、唇の端を上げて笑っている。
部屋の中は、書類や本でいっぱいだった。尋常な量ではない。びりびりに破れているものもある。窓には、大きな木の板が打ち付けられていた。
「……甘いものは疲労回復に効果がある、と聞いて、ゴルベーザ様に元気になって頂きたくて――――」
初めて見る主の顔とその部屋の状態に動揺しつつ、それを気取られぬようにと祈りながら箱を差し出す。ゴルベーザ様は無表情のままそれを受け取った。
だが次の瞬間、チョコレートはベッドの上にぽんと放られてしまう。
「私には必要ない」
「甘い物は、お嫌いですか?」
「……チョコレートなど、食べたこともない。必要ない」
ゴルベーザ様の言葉に、記憶の中にあるバルバリシアの声が重なった。
『……ゴルベーザ様がまともなものを食べている所を、私も、他の四天王の誰も、見たことがないのよ』
ゴルベーザ様の目が、俺に『出て行け』と命令していた。だがここで出て行ってはいけないようなそんな気がして、チョコレートの入った箱に手を伸ばした。
そういえば、バルバリシアが味見してくれてはいたけれど、俺は味見をしていない。用意していた材料が思っていたよりも少なくて、全員が味見できる程の量を用意することができなかったからだった。
「……開けてもかまいませんか?」
尋ねるけれど、返事はない。仕方なく、綺麗に結ばれている赤いリボンを解いた。このまま置いておいても、手を付けられることはないだろうと思ったのだ。
箱を開け、数粒あるうちの一粒を指先で摘み、口に含む。
僅かな苦味ととろけるような甘味、それから酒の香りが広がる。素直に美味しいと思えるものだった。
「一粒だけでも食べてみませんか?」
返事はないと知りながら問いかけて、予想通り返事がないその事実に項垂れる。行き場のないよく分からない感情に振り回されているような気がした。
部屋に沈黙が流れ、それを打ち破る勇気すら持てぬまま部屋を出ようとした、その時だった。
ぞくり、何かが背中を走り抜けた。
「あ……っ!」
おかしな声が漏れ出て、体がかあっと熱くなる。
「……カイン?」
ばく、ばく、と心臓が大きな音を鳴らす。
「どうした、カイン」
問われたけれど、自分でも何が起こっているのか理解できなかった。
ただ、体が熱くて堪らない。全身に汗が滲むのを感じた。
「あつ、い……」
何を口にしているのかすら分からなかった。下半身に力が入らなくなってくる。指先の力が抜けていく。疼痛にも似た感覚が、下腹部を刺激する。
立っていられなくなり、床に倒れ込んでしまった。
「何のつもりだ」
問われても、分からない。
「カイン」
分からないから、頭が回らないから、返事もできない。
ゴルベーザ様が、手を伸ばしてくる。
大きな手に腕を掴まれた瞬間、頭の中をぐちゃぐちゃに引っ掻き回されたような感覚に陥った。全身を得体の知れないものがぞわぞわと駆け巡り、触れられた場所から痺れに似た何かが沸き上がってくる。
「……ん……っ」
切ない疼きに支配されて、身を捩った。ゴルベーザ様が俺の顔を覗き込んでいた。
彼は微笑んでいる。だが、その笑みは恐ろしくなってしまう位に暗い色を滲ませていた。
「……薬のにおいがするな」
「くす、り……?」
何かを確かめるかのように、耳朶や顎を撫でられる。彼の指先の動きに全ての意識が集まって、歯を食いしばっていないと変な声が止まらなくなってしまいそうだった。
そんな俺の状態を知ってか知らずか、彼は俺の体に触れ続ける。
「何のつもりで、こんな真似を?」
首筋を這う指の動きに耐えようと、必死で歯を合わせた。口を開いても、まともなことは話せそうにない。俺は、無我夢中で首を横に振った。
「ゴルベーザ様……っ」
手を引かれ、抱えられるようにして立たされ、部屋の奥へと連れていかれる。とん、と胸を押して突き飛ばされ、襲いかかってくる眩暈に耐え切れず瞼を閉じた。心臓の音は耳元でずっと鳴り続けていて、やかましい響きが血管の中でうごめいているような気がした。
体が、熱い。
ぎしりという音が鳴り、自分が突き飛ばされた場所がベッドの上なのだということに気がついた。どうして、と思い薄目を開ける。そっと開いた視線の先には、ゴルベーザ様の顔があった。俺の体に覆い被さるような体勢で、こちらを見下ろしている。
唇を噛むと、先程食べたチョコレートの味がした。
あのチョコレートを食べてから、俺の体は変になった。体温が上昇しているだけではなく、血がぐつぐつと煮え滾るように熱くなっている。
でも、あのチョコレートは俺と四天王が作ったものなのだ。薬なんて入っていない――――筈だ。レシピもちゃんと確認したし、何より、味見をしたバルバリシアは何ともない様子だった。それに、俺が食べた時には酒のにおいしかしなかったではないか。薬のにおいなんて。
「服を脱げ、カイン」
息が苦しかった。ゴルベーザ様の声がどこか遠くで響いているように思えた。チョコレートのにおいが、部屋に充満している気がする。このにおいが俺の体を狂わせているのは確実だった。
首元や胸を締め付けている服の感触が辛く苦しくて、ゴルベーザ様が命じるまま、俺は鎧を脱ぎ始めた。
鎧を脱いでいる時はまだ体を自由に動かすこともできていたけれど、中の服を脱ごうとする頃には、下腹部を触ることしか考えられなくなっていた。
胸元を寛げるだけで精一杯だ。本当は下半身に手を伸ばしたいのだけれど、ゴルベーザ様の前でそんなことをするわけにはいかない。
視界が潤んでいる。
ゴルベーザ様が何をするつもりなのかすら分からず、けれどこの状況は明らかにおかしいと分かっていながら、俺はここから逃げる術を持っていなかった。
ゴルベーザ様の手が、俺の胸を撫でる。粟立つ肌を止められない。荒い息を吐き、声を殺した。
「ひ……っ!」
爪で引っ掻くように乳首を撫でられる。
「駄目、です……! 手を、やめ……」
小さく言うけれど、ゴルベーザ様は手を止めてくれない。服の上からでも分かる位に勃ち上がってしまっている胸の突起を執拗に撫でられ、それだけで、俺のものは爆ぜてしまいそうだった。
「媚薬入りのチョコレートを自ら食べておきながら……」
「お、俺は、媚薬なんて」
「……材料を間違えてしまった、という可能性もあるだろう?もしかしたら、誰かに何かを混ぜられたのかもしれない」
「間違えて……? 誰かに、何かを……?」
ふと思い出したある光景に、俺は目を見開いた。
カイナッツォがチョコレートに混ぜていた酒。あの酒が入っている瓶の大きさや色、形は、俺が廊下で拾った瓶にそっくりだったような気がする。
そんな、まさか。
落ちていたあのピンクの瓶には媚薬が入っていたのだろうか。拾った瓶と買ってきた瓶とがどこかで入れ替わって、チョコレートの中に誤って入ってしまったのか。
そうだ。そういえば俺は、拾ったあの瓶をどこへやってしまったのだろう。懐へ仕舞った筈なのに、鎧を脱いでも見当たらない。ということは、やはり――――。
「図星のようだな」
言いながら、ゴルベーザ様は俺の胸に顔を近づけてきた。
何をされるのかも分からない。ただただ怖くて、体を強張らせ、きつく目を閉じる。
「けれど……あのチョコレートはバルバリシアも食べ、て……んっ!」
布越しにべろりと乳首を舐められ、声をつめた。
「人間に効き魔物に効かぬ性質の薬など、挙げ始めたらきりがない。……お前はこれからどうするつもりだ? 動いて部屋に戻れるのか?」
熱を持った体は、ずっと火照ったままだ。だから、少しでも早く部屋に戻って自らを慰めてしまいたかった。このままでは頭がどうにかなってしまう。
けれど、俺は歩けない。腰が抜けたようになってしまっていて、足はがくがく震えるだけだ。
そんな俺の様子を見て、彼は満足気に笑った。
ゴルベーザ様の手が、はだけた服の中に侵入してくる。臍や脇腹を撫でられ下半身を守っていた防具も外され、俺の体を覆っているのは薄い一枚の服のみとなってしまった。ゴルベーザ様が何をしようとしているのか、なんてことはここまでくれば分かりきっていて、それでも信じたくなかった俺は、「俺は男です」と馬鹿らしい言葉を口にしていた。
「……だから、俺ではなく他の者を……!」
「見れば分かる。どこからどう見ても、お前は男だ」
当然のように返されてしまい、何も言えなくなってしまう。
ゴルベーザ様は人間離れした生活を送っているせいなのか、性別にこだわりがないらしかった。
ゴルベーザ様を止める言葉が、どうしても浮かんでこない。
俯せになって体を捩って、ゴルベーザ様の手から逃れようとする。無駄な抵抗を繰り返す俺に、ゴルベーザ様がそっと囁きかけてくる。
「お前が誘ったんだろう?」
「ち、ちが……っ」
誘うつもりなどなかった。でも、体は心に反するように、どんどん熱くなっていく。
囁きかけてくるその声の吐息にすら感じてしまい、どうすれば良いのか分からなくなる。
耳の中に何かが侵入してきて、濡れた感触に、それがゴルベーザ様の舌なのだと知った。
後ろから抱きしめられる。胸元にまわされた手が、乳首をきつく摘んだ。気持ちが良いのか痛いのかそれすら分からぬほど、俺の乳首は敏感になっていた。
「あっ! ん……っ」
耳朶を甘く食まれ、思わず、自らのものをシーツに擦りつけた。尻に固い何かが当たり、息を呑む。
ゴルベーザ様は、俺に欲情しているのか。
「ゴルベーザさ、ま……っ」
胸を触られているだけなのに、性器に触れられているわけではないのに、体の震えが止まらない。気持ちいい。揺れる腰を、何度もシーツに擦りつけた。
駄目だ、このままではシーツを汚してしまう。
「……お、お許し下さい……っん! ……あ……っ!」
一瞬、頭が真っ白になった。瞼の裏で星がちかちか瞬いて、何も考えられなくなってしまう。足が突っ張って、出してはいけないと思っても止められる筈もなく、呆然としたままシーツの上に突っ伏した。
ゴルベーザ様が、俺のもので濡れたそこに触れてくる。達したばかりのその場所に指先を這わされて、言いようのない感覚が腰を駆け抜けていった。
「や、やめて下さい、やめ」
ぱくぱくと口を動かしながら、何度も何度も同じ言葉ばかりを繰り返してしまう。俺が何を言っても、ゴルベーザ様がその手を止めてくれることはないだろう。分かっていても、声が漏れてしまう。
やめて欲しくて、力の入らない手でゴルベーザ様の腕を掴み、ゆるゆると首を横に振った。
「邪魔な手だ」
何かを探る音がした。両手を引かれ、驚き振り向く。目に入ってきたのは、俺の両手首にリボンが巻きつけられている光景だった。
それは、ラッピングに使われていたリボンだった。
後ろ手に縛られ、どうにか這って逃げようとする。そんな俺を更に追い詰めるかのように、張りつめたリボンの感触が、今度は太腿に触れてきた。
「ゴ、ゴルベーザ様……っ」
ラッピングに遣われていたリボンは二本ある。嫌な予感しかしなかった。
ねだるような格好で尻を持ち上げさせられ、太腿同士をぴったりと合わせられる。その合わせた太腿を、リボンで拘束された。
「ひっ!」
尻たぶをゆっくりとした調子で揉まれ変な声が漏れ、慌てて手で口を塞ごうとするも、両手は縛られていてどうしようもない。
布の裂ける音が耳を犯し始めて、服が破かれていることを知った。
「あ、あ」
逃れられない。
俺が放った精液を、後腔に塗りつけられている。見なくたって分かる。粘着質な音と青くさい精液のにおいがする。
普段晒されることのない場所を執拗に弄くり回され、わけが分からなくなってくる。
『用意されている』という感覚。
ゴルベーザ様は、この場所に挿れる気でいるのだ。
指が入ってくる。長い指が、俺の中を行き来している。涙が滲む。怖い。ぞくぞくと走り抜ける甘い快楽が怖い。
思考を白に染め上げる激しすぎる快楽に、陥落してしまいそうだった。
指が引き抜かれる、その感触にすら感じた。
「……挿れるぞ」
「い、あぁ……っ」
激しく、首を横に振った。
太い先端が、狭い所をこじ開けようとのしかかってきた。
快楽が怖いと思う自分がいると同時に、快楽を際限なく欲している自分がいた。
「いやだ、いや、だ……抜いて下さい、ぃ……っ」
支配されていく。
体を、心を、何もかもを塗り替えられてしまう。
道具のように扱われることを嫌だと感じていないなんて、こんなのはおかしい。俺はおかしい。
「う、う……ぁっ!」
浅い場所を先端でぐりぐりと抉られるように擦られると、切ない吐息が溢れた。
「あ……!」
ゴルベーザ様の動きが止まった。耳を澄ませてみれば、彼の息も荒い。ゴルベーザ様の吐息に胸が高鳴る。
彼のものが体の中におさまっているだなんて、信じられない。慣らされたためなのか、痛みは殆ど無かった。
抜き差しが始まった。全身が性感帯になってしまったようだった。快楽は寒気にも似ていて、声を抑えることすらできずに俺はゴルベーザ様に貫かれ続ける。
手首を掴まれ、仰け反り、気づいた時には、俺のものは痛いくらいに勃ち上がってしまっていた。
シーツは唾液でべちゃべちゃだ。
「あああ、あっ、あ!」
腰を叩きつけられるその度、針のように鋭い感覚が脳の奥の奥をちくちくと貫いて侵す。
「んん……っ!」
悦い場所を抉るみたいに突かれて、いつの間にか俺は達してしまっていた。
声が掠れてくる。
ゴルベーザ様の動きが、はやくなってくる。自分の体が、ゴルベーザ様のものを締めつけ放さないでいるのを感じた。
「……ゴルベーザ様、ゆる、し……! ひ……っ!」
熱い液体が、中に流れ込んでくる。どくどく、と腹の中を満たされて、俺は意味不明な喘ぎ声を漏らすばかりだった。
開放してももう抵抗しないだろう――――と考えたのだろう。二本のリボンが解かれた。
挿入したまま俺の体を仰向けにし、ゴルベーザ様が、俺の顔を覗き込んでくる。
「ゴルベーザ様……」
潤む視界。どこかで見たような視界だ。「ゴルベーザ様」と呼び、力の入らない手を彼の頬に向かって伸ばす。
ああ、俺はこの光景を知っている。
途端、あの頭痛が始まった。
血塗れの俺は、ゴルベーザ様に――――違う、ゴルベーザに拾われたのだ。
俺は、ミストで、この男に手を伸ばしたのだ。
少し考えてみれば分かることだ。どうして、今まで気づかなかったのだろう。
『魔物達と暮らしている』というゴルベーザの異常性。俺が魔物達と戯れる不自然さ。
この男は、魔物を操って一体何をしようとしている?
「ゴルベーザ……!」
「……洗脳が解けたか」
俺の手首をシーツに縫いとめて、男は笑った。ゴルベーザの掌には、汗が滲んでいた。薬の効果が回りきっている俺の体は自由にならず、男の手を跳ね除けることもできない。
「俺の体から退け……!」
「……強気だな」
ゴルベーザが、腰を軽く動かす。そんな小さな動作にも翻弄されてしまう。
「今のお前は丸腰だ。抵抗など、できるわけがなかろう?」
「うぅ……っく………」
「無駄な抵抗はやめて、快楽に身を任せれば良い。何もかもを忘れて快楽だけを追えば、きっと、お前は幸せになれる」
***
自分で口にしておきながら、分からなくなった。
幸せとは、一体どんなものだったのか。
「やっ、ああぁっ!」
深く叩きつけると、カインは悲鳴じみた喘ぎ声をあげた。
青い瞳が、こちらを睨みつけてくる。媚薬で敏感になった体はひどく熱いはずなのに、その視線には冷たさを感じた。
濡れた音がやかましく響く。
半開きになった唇は、誘うように濡れていた。誘われるまま、唇を近づけていく。目を見開いて逃げようとする男の頭を固定し、口づけた。
「んんんっ、んう……っ」
口の中は皮膚よりもずっと熱かった。
唇を離すと同時に、噛みつかれる。口腔内に、血の味が広がる。カインの髪を鷲掴みにし、「無駄な抵抗はやめろと言っているだろう」と囁いた。
ベッドの端に追いやられていた箱から数粒のチョコレートが零れている。そのうちの一粒を手に取り、口に含んだ。甘味が、口の中に広がる。カインは驚いた顔をしてこちらを見上げていた。当たり前だろう。このチョコレートには、媚薬が入っているのだから。
確かに、このチョコレートの中には媚薬が入っている。だがその媚薬は、私には効果がないものだった。
私の体の半分は、この星の人間のものではない『何か』でできている。四天王達が私にそれを教えた。においが違うというのだ。普通の人間とはにおいが違う、と。
『強い魔力のにおいがするのです』とルビカンテは言った。私自身には分からなかったけれど、魔物達はそのにおいを敏感に感じ取ることができるのだという。
カインの顎を指先で持ち上げる。チョコレートの効果を知っている彼は、私の動きにびくりと肩を揺らした。チョコレートを含んだまま、再度、唇を近づける。
「ん……っ」
舌を絡め、唾液を流し込む。逃げようとする舌を追いかけ、熱くなっていくカインの体を押さえこんだ。
唇を離せば、紅潮した顔が目に入る。
「ゴル、ベーザ……ッ」
何の刺激も与えていないのに、カインの後腔がきつく私のものを締めつけてくる。
「抜い、て……抜け……っ! ひぁっ」
先程までよりもずっと敏感になったカインの体に、自らの欲望を叩きつける。
カインの眦から、涙がぼろぼろと零れ落ちる。赤く染まった頬を伝い、シーツに吸い込まれていく。
「お前は、どうして……っ」
何事かを呟こうとしている薄い唇に、目を奪われる。舌っ足らずな口調に、劣情を煽られた。
膝の裏を持ち足を大きく開かせて、膝が胸につくほど折り曲げる。彼の体はやわらかくしなやかで、細い獣にも似ているように思えた。
「……あの、チョコレートを作ったのは……俺だけじゃない、のに……!」
あのチョコレートを作ったのは、カインだけではない?
「……どういうことだ」
「四天王達、が、俺と一緒に……お前の為に、って……! あいつらはお前のことを、本気で」
あのチョコレートは、四天王達と共に作ったものだったのか。どうして四天王達が。
「魔物のすることなど、信用できぬ」
そう返すと、カインの目に悲しみが滲んだ。
「お前なんかより、四天王達の方が……っん! 余程人間らしい! お前の心は氷のようじゃないか……!」
ずき、と胸のどこかが痛み、思わず顔を歪める。そんな私を見て、カインは軽く目を見開いた。そうして、耐え切れなくなったらしく、きつく瞼を閉じる。
「ひっ、い……っ!」
歯を食い縛って、彼は射精した。何度も達しているせいなのか、出た液体は殆ど透明だった。
「……私の心に在るのは、月とクリスタルのことだけだ。それ以外は必要ない。おかしな気遣いも温もりも、私には不必要なものだ」
「う、嘘、だ……」
揺れる青に惹き込まれる。シーツを掴む指先は白くなっていた。
「……嘘だ、だって、お前は――――」
この男は、何を言おうとしているのだろう。
「――――お前は、俺と同じ目をしているじゃないか……!」
私の目をじっと見上げ、吐き出すように口にする。
「……お前の目は、胸が痛くなる程寂しそうな色をしている」
深い青を見つめれば、カインの心や過去が垣間見える。以前見たものと同じ光景が、私の頭の中に入り込んできた。
幼馴染二人を見つめるカインの瞳は、胸を抉られてしまうほど切なく揺れている。
カインが望んでいるのは、手を伸ばしても届かない過去だ。求めても望んでも、どんなに焦がれても、二度と手に入らないもの。
そして、私が望み焦がれているのも――――。
「ゴルベーザ……」
懐かしい空の色――――澄んだ海の色。
男の瞳を見ていると、奥底に押し込めてあったはずの自らの過去が蘇ってしまう。幼い弟の体温を思い出し、心があの頃に引き戻されてしまいそうになる。
カインは、私の情けない心の中を見抜いている。そんな彼が忌々しくて煩わしくて堪らない。それなのに、『私のことをもっと知ってほしい』と考えてしまう浅ましく愚かで汚らしい自分が居た。
カインなら、私のことを理解してくれるかもしれない。そんな虚しい期待が芽生え始めてしまう。
頭の中で、「何も期待するな」と誰かが嗤う。
そうだ、期待してはいけない。期待しても虚しいだけだ。
期待も、愛情も、未来も、いらない。
「あ……っ!」
荒々しく突く。カインのことを愛おしいなどと思ってしまう甘い心を殺そうと、カインの体をぐちゃぐちゃにしようとする。
あられもない声をあげて快楽を訴えかけてくる男の眼差しはどこか遠くを見ているかのようにぼんやりとしていて、彼の中の快楽に訴えれば訴えるほど、彼の頭の中を占領していた『幼馴染』との思い出は泡のように弾けて霞み、消えていくのだった。
私のことだけを考えていてほしい。そう考える度、胸が激しく痛んだ。
「ゴル、ベーザ……ッ!」
チョコレートの甘い香りが、鼻腔を擽る。快楽で何も分からなくなっているらしい彼は、私の体を抱きしめてきた。
耳元で響くいやらしい声に引き摺られていく。息も出来ぬほど、煽られる。触れた肌のあたたかさに、頭の中が白くなってしまう。濡れた音。眩暈がするほど気持ちが良い。
「うぁ、あ……っ、んっ」
「カイン……」
背中にたてられた爪が、ぎりぎりと私の背を掻いた。
もっと、快楽に溺れてしまえばいい。他のことは忘れてしまえ。過去を忘れて私のことだけを見つめていればいい。
――――今回だけだ。この男を抱くのはこれきりだ。記憶を消そう。洗脳で彼の思考をねじ曲げてしまえばいい。
次に目覚めた時、カインは私に抱かれたことすら忘れてしまっているだろう。それで良かった。そうしなければならなかった。
「い、く、ゴルベーザ、出る……から、だから」
だから抜いて欲しい、と訴えるカインの言葉も聞かず、彼の体を追い詰めていく。それと同時に洗脳の術を深くかけ、彼の心も追い詰めていく。
「ゴルベーザ、ゴルベーザ…………様……っ」
口づけ、震える体をきつく抱きしめる。
搾り取る動きで締めつけられ、彼の中に精液を放つ。カインもまた、掠れた喘ぎをあげながら達していた。
***
朝の日差しが、俺の瞼を照らしていた。その明るさが、瞼を閉じている俺の視界を赤く染め上げている。
「ん……」
ぎしり、ベッドが軋んだ。どこからか、チョコレートのにおいが漂ってきた。その甘いにおいに、頭が目覚め始めるのを感じた。
そういえば、俺はいつ自分のベッドに入ったんだろう。
そう考えてから、飛び起きた。
「……起きたか」
ベッドに腰掛けて、ゴルベーザ様は唇の端を上げていた。
「は、はい……あの、俺……?」
「『チョコレートを食べて欲しい』とこれを渡しに来て、それからすぐ、お前は扉の前で倒れてしまったのだ」
「じゃあ、俺はずっとゴルベーザ様のベッドに……? そういえば、服も……」
自らの身体を見てみれば、綺麗な夜着に着替えさせられていた。申し訳ない気持ちでいっぱいになりベッドから飛びようとした俺を、ゴルベーザ様が制した。
「構わん。そのまま横になっていればいい」
「しかし……」
「構わないと言っている」
強く言われ、折れて頷いた。窓からは朝陽が溢れていて、俺はどれ位の間眠りこけてしまっていたんだろうと考える。窓の周りには何かが取り付けられていた痕跡が残っていて、あの窓は元々閉じられていたものなのではないかと思った。
ふと見てみれば、ゴルベーザ様が何かを口にしている。自分の目を疑った。
視界に飛び込んできたのは、ゴルベーザ様がチョコレートを食べている光景だった。
「ゴルベーザ様、どうして……」
いらない、ときつく断られたと思っていたのに。単に、気が変わっただけなのだろうか。
最後の一粒を食べ終えてから、ゴルベーザ様はこちらを見た。不味いと言われてしまうのだろうかと身構えていると、彼はどこか切ないような悲しいような、複雑な笑顔を俺に見せた。
「悪くない」
『美味しい』ではないのかと一瞬落胆したけれど、彼の中では最上級の褒め言葉なのかもしれないと思い直す。何事かをしばらく考えた後、ゴルベーザ様はこう言った。
「……四天王達にも、そう伝えておいてくれ」
「は、はい。分かりました」
返事をしてから、ふと思う。
俺は、ゴルベーザ様に『これは四天王達と作ったのです』とは一言も言わなかったのに、と。
「カイン」
「はい」
「もう、この部屋には来るな」
「ゴルベーザ様……」
「もう来るな、と言っている」
「……はい」
やはり、迷惑だったのだろう。どうして、こんな軽率なことをしてしまったのか。
頭と胸が微かに痛んで、そうか俺はこの頭痛のせいで倒れてしまったのだろうと考え、俯いた。
End