ゴルベーザの記憶は、憎しみから始まっている。
それ以前の記憶は、ない。
目蓋の裏に焼きついているのは、赤く焼けつく憎しみの炎だ。
ぱちり、木が弾ける音。
悲鳴、悲鳴、悲鳴。
銀の髪をした赤ん坊を抱きながら、ゴルベーザは前を見やっていた。
崩れ落ちていく家々は、やがて塵に変わる。
悲鳴も、聞こえなくなった。
生まれ故郷に背を向け、ゴルベーザは走り出す。
赤ん坊は、弱々しい声で泣き続けていた。
***
――ぱん。乾いた音がした。
空をくり抜いたような青が、ゴルベーザを睨みつけている。
その瞳は、あの日目覚めてからずっと、強い光を失わずにいた。
「……私に従え、カイン」
「断る」
頬を張られたが為に、カインの唇の端は切れている。手首には縄が巻きつけられ、服装はといえば、簡素な白いローブ一枚という有様だった。
「どうしても、従わぬというか」
じめじめとしたバロンの地下牢の中、カインの顎をすくい上げ、ゴルベーザは呟いた。
洗脳の術をかけているというのに、カインの心はなかなか従おうとしなかった。
「お前の大切な友人とやらは、お前のことなど忘れて旅を続けている。お前を心配することもなく、二人で仲良くやっているようだ」
カインが唇を噛み締め、ゴルベーザは嗤った。
「親友だと思っていたのは、お前だけだったのかもしれんな」
「……そんなはずはない!」
そう吠えた青年の頬を、ゴルベーザは撫でた。
指の先から、青年の感情が流れ込んでくる。
それは、とてつもない量の、負の感情だった。
「あの女のことが好きなのか?」
真っ黒な渦の中に、蜂蜜色の髪を持つ女の姿が見えた。
「それとも、あの男を愛しているのか?」
同じく、渦の中に銀の髪の男がいるのが分かった。
カインの頬に朱が走る。
「違う! ……そうじゃ、ない」
「では何故、お前の心の中は、どす黒い嫉妬に塗れているのだ」
「……それは……」
「あの二人が愛し合って、自分の居場所がなくなることが、そんなに怖いか」
「俺は……っ」
カインの頬から手を離し、踵を返す。
もう少しだ。もう少しで、この男は陥落する。
久しぶりに触れた人間の感触は、とても温かいものだった。
自室に戻ったゴルベーザは、甲冑を脱ぎ、床に寝転がっていた。天井に開いた穴から覗く月を、ぼんやりと眺めている。
何も無い部屋だった。ただ、ベッドと幾つかの書類が無造作に落ちているだけの部屋だ。
この穴は幼い頃に自分が開けたものだったな、などと考えながら、同時に、金髪の青年のことを考えた。
彼は、ミストの端で、瀕死の状態で倒れていた。
兜を着けていても、土埃に塗れてしまっていても、青年は美しかった。そしてゴルベーザは、『美しい』と思った、そんな自分に驚いた。自分の中にそういった感情が残っていたなんて、思ってもみなかったからだ。
興味深かったのは、外見だけではなかった。少し触れれば分かるほど、カインの中は真っ黒でぐちゃぐちゃだった。
何を混ぜ合わせたらこんな色になるのだろうと思わされるほど、酷く荒れて乱れていた。
どこかで見たような色。
どこで見たのだろう、としばらく考えた後、ゴルベーザは目を細めた。
見覚えのある色は、自分の心の中に在った。
いつも、夢に見る。炎に埋没していく村と、掠れた悲鳴をあげ続ける赤ん坊の夢。
あの後、自分はどうしたのだったか。幾ら考えても、思い出すことが出来ない。
ごろりと寝返りをうち、シーツを手繰り寄せる。
どうせ、今夜も眠ることはできないだろう。ぱちぱちと爆ぜる木の音と赤子の悲鳴に、眠りを奪われてしまうのだ。
頭上にある穴を見る。この穴は、この塔に来たばかりで荒れていた頃に、自分で開けたものだった。
テレポを使うことはできないのに、ゴルベーザは遥か上空にあるこの塔と地上を自由に行き来することができた。ゴルベーザはこの『ゾットの塔』の主であり、中に巣食っている魔物を自由に操ることもできた。幼いゴルベーザは何が起こったのか理解できぬまま、この塔の中で一人、佇んでいた。燃える村と赤ん坊の声以外の記憶は無く、正真正銘の独りきりと言えた。
頭を侵す痛み、胸の底から湧き上がる醜い感覚、そして孤独。
最初はそれらのものと対峙し戦っていたが、無駄なことだと分かると、ゴルベーザの感情は死んで、徐々に灰になっていった。
沢山の人を殺した。笑いながら、殺した。
ただただ、人間が憎らしかった。
ただひたすら、人間という存在を消してしまいたいと、そう思った。
ゴルベーザが殺してきた何人もの人間達は、皆、命乞いというものをした。どんな大男であってもだ。
なのに、カインはそれをしなかった。騎士としての誇りが、それを許さなかったのだろう。
青く、強い光。
それは、反吐が出るほど美しかった。
***
「お前に従うくらいなら、舌を噛んで死んでやる」
次の日、再度訪れたバロンの地下牢で、カインはそう言い放った。
「お前の素性は分からない。……だが、良いものとは到底思えない。お前の配下に下れば、俺は……陛下やベイガンと同じ、モノに……」
言葉の最後は小さかった。かつての同僚――今は怪物に成り果てている――と、とうの昔に殺されていた王のことを想っているようだった。
「ベイガンは、自ら望んであの体を手に入れたのだ。『強くなることができるなら、何でも良い』。そう言っていた」
「ベイガン……どうして……」
鼻で嗤い、ゴルベーザは金色の髪に触れた。見た目とは違い、ぱさついている。ここでの生活を思えば、当然といえた。
「人とは愚かなものだな。欲望で、我を見失う。お前も例外ではなかろう? 自分の居場所を取り戻せるなら、どんなことでもするのではないか?」
「……俺にだって、自分の居場所くらいはあるさ」
ぶる、と首を振って、ゴルベーザの手を除けようとする。髪を引っ掴むことで、ゴルベーザはそれに耐えた。
例によって、強い瞳が睨みつけてくる。薄暗い心の中が、カインの髪を伝って流れ込んできた。
相変わらず暗いそれは、やはり、ゴルベーザの心の中とよく似ていた。
カインは、帰る場所を見失っている。カイン本人もそれを自覚しているであろうと思うのだが、カインは決して認めようとはしない。
光を失わない瞳が、ゴルベーザを苛立たせる。
先程から少しずつ術をかけているのに、カインの心は落ちない。むしろ、抵抗は酷くなるばかりで。
「俺は、お前のものにはならない」
月光のように真っ直ぐで、嫌になる程美しい心。
自分のものとは似ても似つかないはずのその心は、けれどやはり、自分の濁った心と瓜二つなのだ。
同じ想いを抱いているのに、お前は何故、そんな綺麗な瞳をしているんだ。
(何故、私だけが酷く汚いなりをしている?)
胸の内を支配する闇が、があがあと喚きたてる。
ぴちゃん。苔むした天井から、冷たい雫が滴り落ちる。
ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。
それは鼓動と同調して、不協和音に成り果てる。
「人殺しめ」
響き渡る声は、殺意に満ちていた。
蝋燭の灯が、カインの瞳を揺らす。橙色に侵されて、空色が朝焼けの色に変わった。
朝焼けは、始まりの色だ。希望の色だ。
両手で頭を引っ掴むと、カインは目を見開いた。
額を合わせて目を覗き込む。こうすれば苛立ちが治まるのではないかと思い、洗脳の術を目いっぱい注ぎ込んだ。
悲鳴もなかった。
噛みあわない歯の鳴る音と、冷や汗。魔力を限界まで詰め込まれた脳が、ぎち、ぎち、と音をたてている。
ああ、危険だ、殺してしまう。
唾液が唇の端を伝い落ちる。
「……う、あ……あ……っ」
情事を思わせる喘ぎと、潤んだ瞳。だが、肌は紅潮せずに青白くなっている。
殺せば終わりだ、ゴルベーザ。頭の中で、そんな声がする。殺してしまえば、苛立ちに襲われることもない。独りでいれば、何も感じないでいられる。
――そう、今までと何も変わらぬままで。
瞬間、ゴルベーザはカインから手を放していた。
カインは崩れ落ち、ゴルベーザも床に膝をつく。
兜を投げ捨て、彫刻じみた顔で意識を失っているカインの顔を再度覗き込んだ。
(何故、殺さなかった)
理由は分からなかった。ただ、殺したくなかったのだ。この青年を殺したら、唯一開かれている扉が閉じてしまうような、そんな気がした。
自分は、孤独を恐れているのか。
そんな、まさか。
カインの唇からは、血混じりの唾液が流れ出している。舌先を伸ばし、舐めとった。錆のにおいがした。殺意と共に、強烈な衝動がやってきた。
やがて、正体不明の衝動が、ゴルベーザの理性の破片を喰らい尽くし始め――。
***
青年は死にこそしなかったが、目覚めたとき、心の均衡を失っていた。そこら中のものに当り散らし、怒鳴り散らし、泣き喚いた。駄々っ子のようなその姿にゴルベーザは羨ましさを覚えたが、その思いがどこから来たものなのか、本人にすら分からなかった。
カインは、
「どうして俺を棄てた」
と言った。ゴルベーザにではなく、幼馴染にだ。
「分かっている。お前達を祝福しなければいけないことは分かっている。でも、駄目なんだ。荒地のようになっていく心を止められない……」
ゴルベーザの目を見、
「俺達はいつも一緒だった、なのに、いつの間にかすれ違ってしまった。進む道は別れ、俺だけが独りになり、セシルの笑顔はローザだけのものに、ローザの笑顔はセシルだけのものになる。そんなのは嫌なんだ。今まで通りがいい。俺はお前達を守りたい。そうだ、兄のような存在でありたかった。けれど二人は行ってしまう。俺を置いて行ってしまう」
涙が溢れ、
「俺は、何のために生きていけばいい」
壊れてしまった機械仕掛けの人形のように、
「どうすればいい、教えてくれ」
瞳をすり硝子色に曇らせ、
「仕えるべき主人すら、もう、いないなんて……」
冷たい地面に崩れて俯いた。
膝をつき、背を丸めている。幼い嗚咽だった。
誰かを見ているような心持になり、ゴルベーザはカインの頭を撫でた。それは前回とは違う、ひたすら優しい手つきだった。
「生きる理由が欲しいか」
カインが頭を上げる。泣き腫らした目蓋が現れた。
目蓋を撫でる。
ふと、以前唇の血を舐めとったときの鉄の味を思い出した。薄めの唇は震えている。
「……ほし、い……」
背を丸め泣いている、これはカインなのか、それとも、
「お願い、だ……俺の生きる意味を……」
これは、自分自身なのか。
ゴルベーザは金髪の青年を見つめ、幼い頃の自分を思い出していた。
生きる意味が見つからず、途方に暮れていた自分。当時の自分は、何を欲しがっていただろう。
きっと、生きる理由を与えられるだけでは足りなかった筈だ。
「私の為に生きろ、カイン」
言えば、カインは素直に頷いた。
「お前の主人は私だ。逆らわず、全てに従え」
赤く腫れた目を細め、カインは唇の端を上げる。笑顔だと気づくのに数秒かかってしまうほど、それは悲しい表情だった。
思わず、胸元に抱き寄せる。
ふと、鎧を身に着けていることが惜しくなった。
これでは、彼の体温を感じることが出来ない。
こんな感情が、自分の中に存在していただなんて。
「……ゴルベーザ……様……」
「……何だ?」
躊躇いがちに『様』をつけて名を呼んだカインを、強く抱きしめる。
「ゴルベーザ様、俺……は…………」
カインは静かに意識を失い、ゴルベーザはしばらくの間、その体を放せずにいた。
***
どうして、あの男のことばかり考えてしまうのだろう。なるべく考えないでおこうと思うのに、次の瞬間には、カインのことを考えている。
ダムシアンは、赤い翼の爆撃で落ちた。クリスタルを手に入れ、また、目標へと一歩近づくことが出来た。
そう、何の問題もない筈なのに。
一度だけ触れたカインの唇は、命の味がした。
そういえば人の体には血が流れていたな。そんなことを、今頃になって思い出す。
幼い頃は人を殺すことに恐怖を覚えていたのに、今では欠片も感じなくなってしまった。目の前で真っ赤に染まる人間を見ても、頭が反応しないのだ。
洗脳が成功してから、カインはクリスタルを集めるために精力的に行動している。それは水を得た魚そのもので、彼の顔は晴れやかだった。
『ゴルベーザ様、ありがとうございます』
目覚めてしばらくしてから、そう言ってカインは笑った。
バロン王を殺したのはカイナッツォだが、殺すよう命じたのはゴルベーザだ。そんなゴルベーザに、カインは笑顔で礼を言う。罵声を浴びせられるよりも、ゴルベーザの胸はざわついた。
きっと、カインの心は死んでいくだろう。何人もの人間を殺していくうちに、笑顔は勿論のこと、表情全てが姿を消していく。バブイルの塔にいる無機質な機械と同じ硝子の瞳で、ゴルベーザのことを見るようになるのだろう。
あの空色の瞳が、曇ってしまう。
嫌になるほど美しい、青い瞳が。
「――――ゴルベーザ様」
声に振り向くと、ルビカンテが苦笑しながら立っていた。「何故そんな顔をしているんだ」と問いかけると、「血が」と大男は指をさした。
「……血がついています」
風が吹いて、マントがはためいた。星が、ちらちらと瞬いている。自らの胸元を撫でると、鎧にべったりと血がついているのが分かった。
だが、誰の血なのか分からない。
「貴方は昔からそうですね。モンスターである私達よりも、人間を嫌っておいでのようだ」
ルビカンテの言い方から察するに、これは人間の血なのだろう。
記憶が飛ぶこと自体は珍しくも何ともなかったが、人間を、しかも魔法以外のかたちで殺すのは、本当に久しぶりだった。
私は人間を嫌っているのか、と、ゴルベーザは自問した。
「……報告書をお渡ししようと思って来たのですが、その手では無理ですね。紙が真っ赤に染まってしまう」
この血だらけの手のひらが、答えなのだろうか。
***
美しい肢体だ。くるりと舞いながら、カインはゴルベーザをちらと見る。
地面に着地した彼を見て思う。人間とは、こんなにも美しいものだったろうか、と。
「何か、おかしいところでも……?」
「……いや」
まじまじと見つめられて、カインはどうしたものかと思ったのだろう。その困り果てた顔――兜に隠れていたけれど、ゴルベーザには分かった――を見て、ゴルベーザは苦笑した。
「……お前が跳躍する姿は、本物の飛竜のようだ、と思ってな」
そう素直に述べると、今度は恥ずかしそうな顔をする。
「ありがとう、ございます……」
「もう一度、跳んでみろ」
「はい」
竜のかたちをした兜が、日光を反射した。
人間は、脆い。頭を侵食しようと抉じ開けると、すぐに死んでしまう。
ゴルベーザが抱いただけで死んでしまう女も、決して少なくはなかった。
脆くて、感情に左右される愚かな生き物。それが、ゴルベーザが人間に抱いている印象だった。
なら、どうしてカインは死んでいないのだろう。
いつの間にか、ゴルベーザの傍にはカインがいることが当たり前になっていた。食事も一緒で、時間を持て余している時などは二人でチェスに耽ったりもする。そういった時間を楽しみにしている自分に呆然としながら、ゴルベーザは月を仰ぎ見た。
美しい月。恐ろしい月。頭の中に話しかけてくる月。真っ暗闇の中にぽっかりと、それは吸い込まれそうなほど綺麗で。
幼い頃から、嫌というほど見てきた。見つめれば見つめるほど、心が虚無に覆われていくような気がしていた。
あの場所に、一体何があるというのだろう。何故、自分は月を望んでしまうのだろう。
「ゴルベーザ様」
背後から声がする。ゴルベーザは振り向かない。
いや、振り向くことができないのだ。
頭の芯が痺れる。目蓋を閉じる。目蓋の裏は血の色に染まっている。
人間は、汚い。汚いものは、排除してしまわなければならない。汚い。汚いごみ。ごみはいらない。
カインは美しく跳ぶのに、それでも排除してしまわなければならないのだろうか。
殺してしまったら、もう、あの跳躍を見ることはできなくなってしまうというのに。
――お前の父親を殺したのは、誰だった?
月がわらっている。嘲笑っている。
――お前の背後にいるものは、何だ?
振り向くと、金色の髪が夜風に靡いていた。
「……ゴルベーザ様、まだ、チェスの勝負はついていませんよ」
月のような微笑み。
「…………ゴルベーザ様?」
カインの目が、驚愕に見開かれる。その手から、黒いナイトの駒が滑り落ちた。青い瞳に、紫色の光が反射する。
「死ね」
無意識のうちに、ゴルベーザは呟いていた。
「お前など、いらぬ」
カインが地面を蹴るのと、ゴルベーザが魔法を放つのはほぼ同時だった。
じゅっ、と焦げ臭いにおいが漂う。それは、カインの服の裾が焼ける臭いだった。
呻きながら、カインは地面に転がる。足から、血が流れ出していた。
「い……っ!」
カインは喉を鳴らし、首を横に振った。途端、黒竜が現れて、カインを護るように、ゴルベーザに威嚇をし始めた。
「……情がわいたか、黒竜」
黒竜の赤い瞳が、ゴルベーザを睨む。
自らに従うはずの黒竜が、主人に刃向う。それは、竜騎士という最も竜に近い存在に黒竜が惹かれているからかもしれなかった。
「黒竜……」
黒竜をそっと抱きしめて、カインは呆然とした面持ちで呟いた。どうしてこんなことをするんだ、という顔で、小さく唾を飲み込んでいる。
足から流れ出している血は鮮やかで、宝石のように赤かった。
「ゴルベーザ様」
最初から、足を狙った。
足を狙えば、カインは跳べなくなる。自分から、逃げられなくなる。
殺意と共に襲い来る、強烈な劣情。
そうだ、以前もそうだった。カインの血を舐め取ったとき、同じような感覚を覚えた。
殺したい、と思った。殺したくない、とも思った。
自分の気持ちが分からない。そもそも、自分に感情などというものがあったのだろうか。
カインの両肩を鷲掴み、床に押し倒した。黒竜がぎゃあと喚き、ゴルベーザはそれを片手で薙ぎ払う。
甲高い悲鳴をあげながら、黒竜は黒い光と共に消えていった。
「ゴルベーザさ――」
「喋るな」
カインは口をぱくつかせた。喋らぬよう、術で縛る。ひゅう、という音がして、彼が何かを伝えようとしていることが伝わってきた。
否定の言葉を聞くことが、ただただ恐ろしくてならなかった。
白い首に、指先を這わせる。はだけたシャツの胸元に、目を奪われた。
美しい色合い。青と白と金。
窓から射し込む月光が、カインの肌を透過する。
青白い血管、生きている証、この首を絞めれば、元の生活に戻れることは分かっていた。
カインの存在しない、無機質な日常へと。
汗の滲んだ額が、彼の緊張を物語っている。
そっと、胸元に口づけた。
「……私が、恐ろしいか?」
答えられぬということを知りながら、
「恐ろしいか? カイン」
下衣を剥ぐ。
ぐにゃりと力を失った体の中で、瞳だけが、「何故、どうして!」とこちらに訴えかけ続けている。
視線を逸らし、足を開かせた。もう、何をされるかは分かっているはずだ。
残酷な気持ちになり、ゴルベーザは笑った。
「……全てに従え、そう言っただろう?」
カインの秘部を指でなぞる。狭い場所だ。だが、慣らす気も濡らす気も、全くなかった。
ただ、壊さなければならないと思った。このままでは、この竜騎士に全てを飲み込まれてしまうと思った。
主と僕、操るものと操られるもの。その境界線をこれ以上曖昧にしてはならないと思った。
なぜなら、この男は、人間なのだから。
「…………っ!」
カインが、声にならない悲鳴をあげる。
人間は、殺さなければならない。
ぎちぎちとした中に、無理矢理入り込んでいく。
カインの眦から、涙が流れた。
「ひ…………ぃ……あぁ……っ」
微かな声。あまりにも、悲しい。
狭すぎて、ゴルベーザ自身も辛いほどなのだ。カインはどれほどの痛みに苛まれているのだろう。
ずるずる、と引き抜くと、滑った感触がして、錆のにおいがし始めた。
血が、出ている。
「…………ゴル……ベーザ、さ……ま……っ」
「黙れ」
ただの道具だ。ただの人形だ。そう、カインはただの手駒なのだ。
腰を動かせば、濡れた音が響く。快楽からくるものではない。血が煉られて音をたてる。
地面に落ちたナイトの駒。無残に転がった騎士の姿は、まさにカインそのものだった。
足を更に開き、膝を胸元へと押し付ける。足から流れ出した血がシャツを赤く染める。
きっともう、カインがゴルベーザに微笑みかけることはないだろう。一緒に、チェスをすることもない。勿論、共に食事をすることも。
あの穏やかな日々が、戻ってくることはない。
カインの頭を抉じ開けて、快楽を注ぎ込む。瞳の青が、くすんだ青に変わった。
「ああ、ああぁ、あ……!」
死んだ瞳から、涙を溢れさせている。
凶暴な本能に駆られ、シャツの釦を引き千切り、鎖骨に噛みついた。舌を動かす。カインの体が震える。乳首を撫でる。摘み、指で弾いた。
限界が近づいてくる。
「あっ……ん、んん……っ」
「……お前は、私の道具だ……カイン」
自分に言い聞かせるように。
「昼は私を守り、夜はただ、足を開いていれば良い」
「や、嫌だ……っあぁ、あ、あ……!」
強烈な締めつけに、白濁を開放する。
見開かれた青い瞳に、月が映り込んでいた。
***
幼い頃、ゴルベーザは、気に入っていた玩具を壊してしまったことがあった。
青い羽根を持つ、ブリキの飛竜。
「どうして、飛ばないの?」
ぜんまいを巻いて呼びかけても、当たり前のように、答えが返ってくることはない。
綺麗な飛竜。金色の硝子の瞳が印象的だった。
「何で、みんなみんな、壊れちゃうんだろう……」
力の加減が分からない。それは、今も昔も変わらない。
大切なものであればあるほど、いとも簡単に壊れてしまう。強く抱きしめると壊れてしまうのに、ゴルベーザには加減が分からない。
羽根が折れてしまったブリキの飛竜は、じいじいと空しい音をたてるばかりで、二度と飛ぶことはなかった。
そしてそれは、今も捨てられないまま、部屋の隅で錆びついている。
鳥の声が聞こえた。
目蓋を開く。起き上がると、頬に長い指が触れた。
「……お目覚めですか?」
掠れた声。
カインの青い瞳は、本来の色を取り戻していた。
「おはようございます」
身を起こし、寂しげに微笑んでいる。
「…………何故、笑う?」
はっとした顔をして、カインはベッドから飛び降りた。足元が覚束ない。床に落ちている下衣を身につけ、壁に背を預けた。
破れたシャツは、斑に赤くなっていた。
「俺は、貴方に従います。昼は貴方を守り、夜は……」
足の傷が開いてしまったのだろう。下衣に血が滲む。
「……夜は、貴方に抱かれます」
失礼します、と呟いて、カインが去っていく。
悲しい笑顔を浮かべながら。
カインは、自分が命じた通りにしているだけだ。
なのに何故、こんなにも胸が痛む。
床に点々と跡を残しているのは、カインの血だ。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
カインの笑顔は、綺麗で寂しげだった。人間は汚いものだと信じていたゴルベーザの心は、ぐらついて傾いて、どうしようもない位置に立たされている。
本当に汚いもの。それはカインではなく、自分自身なのではないだろうか。
遠くへ行かぬように行けぬように、羽根をもぎ取った。
飛ぶことができなくなった彼は、壊れた玩具になってしまった。
「…………う……んぅ……っ」
ゴルベーザのものを口一杯に頬張りながら、目を閉じている。時折肩を震わせるのは、先端が喉に当たって辛いからだろう。
あの日から毎夜、カインはゴルベーザの部屋を訪れるようになった。俯きながら服を脱ぎ、自分で準備をし、ゴルベーザの上に跨ってくる。
馬鹿真面目とも言えるその工程に、ゴルベーザは空しさを覚えた。
カインがゴルベーザの元を訪れるのはそう命じられたからであって、自ら望んでこの部屋に来ているわけではないのだ。
顔を前後に動かしながらちろちろと舌先を動かし、鼻から抜けるような甘い吐息を漏らす。
ぞくりとするほど淫靡な光景。
赤黒いペニスに巻きつく赤い舌が、ゴルベーザの欲を高めていく。
じゅる、と溢れそうになる唾液を啜り、飲み込み、彼は上目遣いでゴルベーザを見た。
欲望のままに、カインの頭を鷲掴み、ゴルベーザは口腔に射精した。
「んんん、ん、ううぅ……っ!!」
少し腰を引き、舌に先端を擦りつける。
「……飲み込まず、見せてみろ」
僅かな躊躇いが見えた。
目の端に涙を滲ませながら、カインは舌を差し出した。赤い舌の上に、白い粘液が乗っている。
こんな馬鹿馬鹿しい要求にも従うのか。
つう、と唾液が滴る。「飲め」と言うと、呻きながら嚥下した。
カインは傍に置いてあった瓶から潤滑油を取り出す。それを自らの指に塗りつけ、ゆっくりと挿入した。クッションに顔を埋めながら、カインは浅い呼吸を何度も繰り返す。
連日の荒淫で、秘部は赤くなっていた。
「ん、あ……あぁ…………っ」
「気持ちが良いのか? いやらしい奴だ」
「……あぁ、あっ、あ……」
首を横に振りながら、「ゴルベーザ様」とうわごとのように繰り返す。
どんな命令にも従う、従順な人形。
術がよく効いている証拠に、先日、カインは共に育った幼馴染ですらその手にかけようとした。
「……私のものが欲しいか?」
指を引き抜いて言うとカインは躊躇わずに頷き、ゴルベーザの胸元に縋りついた。
抱きしめて、横たわる。カインはゴルベーザの腹の上に跨った。
「う、ぁ……っ」
ゴルベーザの腹に手をついて、カインは自ら挿入した。
滑った内部は、ゴルベーザを拒まない。目を細めて腰を振る。
ゴルベーザのものを毎晩銜え込んでいるカインのそこは、まるでペニスの形を覚えているかのように、淫靡に収縮を繰り返していた。
「ひっ、う、あっ、ああ、あぁ……っ」
カインの体躯は、決して貧弱なものではない。
手も、足も、骨格も顔つきも、女臭いところなどどこにも存在しないはずなのに、何故、こんなに煽られてしまうのか。男を抱く趣味など、なかったはずなのに。
上気した頬。唇についた髪を、そうっとかき上げてやる。
瞬間、悲しげな瞳がゴルベーザを射抜いた。
カインは、こんな瞳をしていただろうか。少なくとも、術をかけてからのカインは、こんな瞳をしていなかったはずだ。
もしかして、術が解けてしまったのだろうか。
「ゴル、ベーザ様……」
しかし、術が解けたあとのカインが、ゴルベーザ様、などと呼ぶはずがない。
カインが体を傾けてくる。触れるだけの口づけが降ってきた。
やはり、術は解けてはいないのだ。
解けていたら、口づけをしようだなんて気にはならないだろう。
***
まるで水に映った月のようだ、と思った。
この男は、自分とよく似ている。そんな確信があった。
術が解けていると知ったら、この男はどんな顔をするのだろう。
ファブールでセシルと対峙したあの時、カインの術は泡が弾けるように解けた。曇った空が晴れるように、全てが鮮明になった。
だが、ゴルベーザの前では解けていないふりをしている。
ゴルベーザの寝首を掻くだとか、そういうつもりではなく、ただただこの関係が終わってしまうことが、恐ろしくて堪らないのだ。
「……ゴルベーザ、様……っ」
男の体に跨り、快楽を追う。腰を振りながら、薄紫の瞳を見つめ続ける。
ゴルベーザはいつも、悲しそうな顔をしている。
その表情を隠す為にあの黒くて厳つい兜を被っているんじゃないかと邪推したくなるほど、人間臭い顔だ。
紛い物の、主と僕。逃れられないのは、何故だろう。伸ばされてきた手を握る。この手を離せないのは、何故だろう。
心に進入しようとするゴルベーザの術を、必死で払い退ける。
知られてはいけない。知られてはいけない。
知られたら、きっと、この時間は終わってしまう。
ゴルベーザは、自分の敵になってしまう。
道具でも構わない。この男の傍にいたい。自分と同じ目をした男の傍を離れることが、こんなにも恐ろしいだなんて。
「カイン……」
寂しくて辛そうな声。ベッドが軋む。頭が真っ白になっていく。
悲しい。この男の声が悲しい。表情が、何もかもが悲しい。
突然、引き寄せられて押し倒される。
モンスターだらけで、人がいない塔。荒れた部屋の中、天井に開いた大穴からは、月が覗いていた。
男の背後にある月は、二人を嘲笑うように輝いている。この人は、たった一人で、毎日この月を見て眠りについていたのだろうか。
(俺がいなくなったら、また、たった一人で眠るんだろうか)
胸が、潰れてしまいそうなほど痛んだ。
同時に、これは愛なのだろうか、と考えた。
それは、何度も何度も自問してきたことだ。ゴルベーザに抱いている感情の正体が、どうしても分からない。
「……ん、う……っ、んん……」
唇を啄ばまれる。舌を出して受け入れて、頭を抱き寄せた。突きたてられたものの出し入れが激しくなり、上手く息ができなくなる。
大きく開かれた自らの足が、視界の端で揺れている。
苦しいのに、辛いのに、気持ちがいい。ゴルベーザと混じりあうことで、全てが曖昧になっていく。体だけでも構わない。この男と、混じり合いたい。
「あ、あぁっ、あ……っ!」
涙が零れ、視界が滲んだ。ゴルベーザの瞳が濡れているように見えるのは、気のせいなのだろうか。
歪んでしまった、視界のせい?
腹の中に熱いものが満ち、それに煽られるように、カインも精を放った。
◆◆◆
僕にとって、夜は一番恐ろしい世界だった。
月が君臨する世界は、ひどく眩しく、そして暗かった。
モンスターに、食べ物を持ってこさせる。でも、僕は食べない。「持ってこい」と言ったものの、胸の辺りがもやもやして、食べられない。とてつもない空腹に耐えかねてそれらを齧る頃には、既に痛みかけている。
微かな腐臭を放つ、甘い果実。触れればぐじゅりと軟らかい。放り投げると、壁に当たって潰れた。
心細くて、飛竜の玩具を持ってシーツの上に転がる。
僕が壊してしまった玩具。
綺麗に綺麗に飛んでいたのに。
果実の赤い汁に濡れた指で撫でると、飛竜は赤黒く汚れてしまった。シーツでごしごしと拭う。取れない。塗装が剥げた部分に、果汁が染みてしまったようだ。
強く抱きしめる。羽根があった部分に触れる。冷たい、無機質な感触だ。
人間っていうのは、どんな感じだったっけ。
ぼんやりと思い浮かべた。よく分からないけれど、とても温かかった気がする。とても怖くて、でも、優しかった気がする。
人間に触れてみたい、と思うと同時に、人間は恐ろしいから嫌だ、と思う。
炎の記憶に、頭の中を焼かれてしまう。頭痛がやまない。痛い。誰か、誰か助けて。
『悪魔!』
蔑む声が聞こえた。誰の声かは分からない。
『魔法なんて、なくなってしまえばいい! お前の父親は死んで当然だったんだ!』
ぞく、と体が震えた。怒りに震えたのか、悲しみに震えたのかは分からない。あるいは、その両方かもしれなかった。
『出て行け! この村から、出て行け!』
どうして。どうして僕を嫌うんだ。
僕はただ、灯りが消えてしまって困っていた男の子にカンテラに明かりを灯したくて。父さんが教えてくれた、あの力を使ってみたくて。
ただ、皆の役に立ちたかっただけなんだ。
――あれ?
ねえ。父さんは、どんな顔をしていたっけ。
『その赤ん坊を連れて、出て行け!』
涙が溢れた。悲しくて悲しくて、僕は泣いた。
世界は暗闇に包まれていた。
頭の中で声がする。
人間なんて殺してしまえば良い、という、悪魔の声がする。
目蓋を閉じると、炎が猛っている光景が浮かんできた。
『出て行け! この村から、出て行け!』
そうだ、そして僕はあの時、あの人の言葉に、「ファイガ」と答えたんだ。
頭に響く、悪魔の声に従って。
***
朝日が、ベッドを照らしている。
今、ゴルベーザの腕の中にいるのは、ブリキの飛竜ではなかった。
端正な顔立ち。目蓋の下で、眼球が動いているのが分かる。手首に、真っ赤な指の痕がついている。昨夜、手首をきつく握りしめて揺さぶっていたことを思い出した。
カインを抱くようになってから、ゴルベーザはよく眠れるようになった。嫌な夢を見ることも多いが、ぐっすりと眠れることも多い。
そういえば近頃は、無意識のうちに人間達を襲うこともなくなったようだ。
ぱち、と、唐突にカインの目蓋が開いた。
「……起きたか」
眩しそうに目を細めながら、カインは頷く。ぼんやりとしている。彼は寝起きが悪いのだ。
彼が纏っている子どもじみた無防備な空気に誘われ、自然に唇を重ねていた。
カインは拒まない。ただ静かに口づけを受け止めている。
それが、ひどく悲しかった。
胸の中の何かを抉り出してしまいたくなるほど、従順な彼を見ていることが辛かった。
これは『悲しい』という感情なのだと、『辛い』という感情なのだと、ゴルベーザは思い出していた。
今のカインは、壊れてしまった玩具だ。
もう、跳ぶことはない。
だが、セシルを、ローザを見るときだけは違った瞳を見せる。切れ長の目に、一瞬だけ光が戻る。
ローザを見張っているときのカインの顔は、とても人間らしかった。その顔を見ていると、喜びを覚える反面、激しい嫉妬心に襲われた。
全てを奪い取ったつもりでいたのに、カインの中には小さな何かが塊となって残っている。輝くそれをもぎ取ってしまったら、カインはどうなってしまうのだろう。
「カイン」
呼ぶと、カインは曖昧な表情をして唇の端を上げる。おそらく笑顔のつもりで作られたであろうその表情は、到底、笑顔などと呼べるものではなかった。
カインは慣れた仕草で腕の中をすり抜け、昨夜身に着けていた夜着を着る。髪を纏めた。少しだけ、目元がきつくなる。
昼の顔になった彼は、ゴルベーザを守るためだけに動き始める。ゴルベーザが命じたとおりに、昼と夜の顔を使い分けているのだ。
「……自室に一旦戻ってから、ローザの見張りにつこうと思っているのですが……それで、よろしいでしょうか?」
伺うような視線。
ゴルベーザに心を粉々にされてもなお彼の中に在る白い微かな輝きは、幼馴染達への想いと、竜騎士としての誇りなのかもしれない。
その輝きを見い出したゴルベーザの中に、暗い感情が凝り始めた。
「今日は、メーガス三姉妹に見張らせる。お前は行かなくとも良い」
カインの瞳が泳いだ。拳を、握りしめている。何かを紡ごうとした唇が、きゅっと結ばれる。
「……私の傍にいろ」
彼の中の輝きを殺すためだけに、口にする。
「足を開け」
カインは後退りし、嫌だ、と首を横に振った。
竜騎士としての誇りを粉々にしてしまうと知っていながら、ゴルベーザは追い討ちをかける。
「聞こえないのか? ここに来て足を開けと言っているんだ」
カインは、唇を噛んでいた。瞳には色があった。洗脳されている者の瞳とは到底思えなかった。
「黒竜」
ゴルベーザは、優しい調子で使いを呼んだ。黒竜は、吸い寄せられるようにカインに近づいていく。
一本の糸で引っ張られているようなその動きにおかしさを感じたのだろう。カインは呆然とした面持ちで口にした。
「……黒、竜……? お前、一体」
「この前私に歯向かっただろう? またああいうことが起こっては困るからな。術をかけておいた」
「……術?」
「……本能のままに動くようになる術だ。……黒竜は、以前からお前のことを欲しがっていたのだ、カイン」
「そ、んな」
「お前を守るような態度をとりながら、本心では、お前の体を汚したいと思っていたのだ」
嘘だ、と、カインが唇だけで呟いた。
黒竜が、ぐるりと彼の腰に巻きつく。引き倒し、首筋に噛み付いた。柔らかな肉が、牙によって傷つけられる。血が、微かに滲み出た。
カインは抵抗しない。彼と黒竜は仲良くじゃれあっていることが多かったから、現実を受け止められずにいるのかもしれない。黒竜の体を抱きしめながら、「やめろ」と一言言っただけだった。
その声を踏み躙り、黒竜は鋭い爪でカインの服を引き裂いた。
ぶるり、カインの体が震える。
首には、牙がつきつけられたままだ。動けば、血が噴き出すだろう。
静止したままのカインの体を、黒竜は愛しむように愛撫する。破れた布の隙間から覗く白い肌を、細い舌先で辿っていく。
舌先が乳首に触れた瞬間、カインは熱い吐息を漏らした。乳首のまわりには、歯型がついている。ゴルベーザが、昨夜つけたものだ。
敏感な傷口を舐められて、カインは首を横に振る。
布の悲鳴が聞こえ、下衣も剥ぎ取られた。黒竜の唸り声が残酷に響き渡り、カインは、
「黒竜……」
と力無い声で口にした。
「抵抗しようと思えばできるだろう? 何故、抵抗しようとしない」
「……黒竜を、傷つけたくありません」
青い瞳は、ゴルベーザを睨みつけていた。
「丸腰で竜に勝てると思っているのか? 大した自信だな」
「身体的にではありません。心を傷つけたくないのです。……交尾を拒否されて喜ぶ生き物は存在しないでしょうか、ら……っ」
カインの声が上擦った。
黒竜が、普段隠されているペニスを露わにする。
粘液に濡れたそれをカインの太腿に擦りつけながら、再度首筋に噛みついた。
「ひ、ああぁ、あ……っ」
いきり立った巨大なペニスが、窄まりにあてがわれる。
「……傷つけたくないから、黒竜と交わるのか。可哀想だから、同情しているから、仕方なく?」
カインの唇が、自嘲に歪んだ。震えている。愛しげに、黒竜の背を撫でた。
「……俺は、利口な方では……ありませんが……、それでも、仕方なくするなんてことは……ありませんよ……。そんな馬鹿げたことはしない……っ」
操られている者が何を言う。
ゴルベーザは嘲笑った。
(操られているから、仕方なく、私に抱かれているというのに)
カインが、歯を食い縛った。先端が埋められていく。
「……い、ひあぁ、あ……っ」
にちゃ、と、湿った音。カインの眦に、涙が滲んだ。黒竜の背を抱きしめている。大きく開かれた足が、震える。
黒竜の荒い息が、とても淫靡なものに聞こえた。
床に、赤い血が滴り落ちる。手加減することなく、黒竜は動き始めた。
「ひっ! あぁ、あ……ぁ……っ!」
カインは悲鳴をあげながら、必死でその背にしがみついている。青い瞳は濡れていて、それなのに、ペニスは蜜を垂らしていた。
悲しげな眼差しで、カインはこちらを仰ぎ見る。
息が苦しくなって、ゴルベーザは目を逸らした。
「……あ、うあっ……ぁああああ……!」
いつしか、カインの声に甘いものが混じり始める。
それは、とても悲しい、生物の性だった。
「……気持ちが良いのだろう?」
「あっ……あぁ……っん……っ」
「お前なら知っているかもしれないが、黒竜の――竜やモンスターの精子には、人を狂わせる作用があるのだ。勿論、射精しなくてもそれは作用する」
カインはそのことを知っていたのだろう。驚いている様子はなかった。
「……竜と人とが交わった話など、聞いた事もない。もしかしたらお前は、気が狂うかもしれんな」
いきすぎた快楽は、人の心と体を壊してしまう。
玩具以下のものに、変えてしまう。
「そ、れ……っ、でも……」
黒竜の滑らかな鱗に擦られて、カインのペニスは蜜をひっきりなしに垂らしている。すでにおかしくなりかかっている瞳をゴルベーザに向けながら、彼は何かを伝えようとしていた。
「それで、も……、俺は、こいつを傷つけたく、ない……」
「……何故だ? 何故そうしてまで――」
カインは、祈るように目蓋を閉じた。
「……傷つけるのも……傷つけられるのも……、もう、沢山なんだ……っ」
ぞく、とゴルベーザの背に何かが走る。
傷つけるのも、傷つけられるのも――。
「ひぅ……っ、あぁっ、う、あっ!」
黒竜が腰を揺らめかせる。カインの白い首に汗が浮き、その白さにゴルベーザの体に熱が篭った。
あのしなやかな体を抱きしめたい、と思う。
その感情は、もはや『人形』に対するものではなかった。
速くなっていく黒竜の動きに合わせて、カインの声は悲鳴に近くなっていく。ぶるぶると震え、耐え切れずに幾度も白濁を吐き出し、泣く。
傷つけるのも、傷つけられるのも――ゴルベーザは胸の中で繰り返した。
「……黒、竜……だ、駄目、だめ、あぁ……っ!」
黒竜が唸る。力任せに腰を打ちつけ、突然ぴたりと動きを止めた。
「あ、あ…………っ」
濃灰色の液体が、結合部の隙間から溢れ出てくる。黒竜の精液だった。尋常な量ではない。
床に広がったそれは、水溜りといってもいい位の量だった。
一旦引き抜き、黒竜はカインの背に圧し掛かった。少しも萎えていないものの先端を再度カインの窄まりに擦り付け、白い首に甘噛みを与えながら、挿入した。
「ひあ、あっ、あ……っ」
四つんばいの体勢で、カインは首を横に振った。
太腿を伝うのは、濃灰色の精液と血だ。
途端、カインが精を放った。黒竜の精液の水溜りに混じってしまい、それはすぐに分からなくなってしまう。
金色の長い髪は唾液でカインの口元にはりつき、その唾液もまた、濃灰色と混じって消えてしまった。
「……黒竜」
ゴルベーザが呼ぶと、黒竜は名残惜しげに体を離し、消えた。残されたカインは、両手のひらで顔を覆って荒い息を吐いている。ゴルベーザが近づくと、体を強張らせた。
床に両手をつき、覆い被さる。ゴルベーザの膝が、濃灰色の液体で濡れた。
「……傷つけるのも、傷つけられるのも、もう沢山だ……と言ったな」
顔を覆う手を無理矢理に引き剥がせば、涙に濡れた目が現れる。
「誰を傷つけたんだ? そして、誰に傷つけられた?」
カインは首を横に振った。
「カイン」
駄々っ子をあやすような口調で、ゴルベーザはそれに応える。カインは目を閉じ、口を開いた。
「……俺は、セシルやローザを傷つけ、こうしている今も……傷つけ続けている……」
「セシル達が傷ついていると、何故分かる」
「俺がもしセシルの立場だったら、俺は俺自身を許してやれるかどうか、分からない……親友に裏切られるということは、とても辛いことだから……」
そう言われて、ゴルベーザは気づいた。自分には、親友どころか、友人すら存在しないということに。
自嘲気味に笑い、カインの足を開いた。血混じりの粘着質な液体が、窄まりから流れ出す。
「そうか。では、お前は誰に傷つけられた?」
今現在、彼を傷つけているという自覚はあったから、当然のように『貴方です』という答えが返ってくるものだと思っていた。それなのに。
「……お前ではないことは確かだ」
実際に返ってきたのは、唐突に仮面を脱ぎ捨てた男の言葉だった。見据えてくる瞳に、術が解けていることを知る。
いつだ? いつから?
ゴルベーザは混乱し、自らの体の下にいる男の瞳を見つめた。
「もうずっと前からだ。ファブールでセシルと対峙したあの後から、俺は――俺だった」
カインの眦から、涙が一筋流れていく。
「俺は、俺の意思でお前の傍にいたんだ」
ゴルベーザは言葉を失った。
では、自分の意思で黒竜に犯されていたというのか。自分の意思で、敵である自分に犯されていたというのか。
カインに与えられた触れるだけの口づけを思い出し、ゴルベーザは唇の端を上げた。
おかしな期待をしかかった自分の心を嘲笑い、
「私の寝首を掻くつもりだったのか」
そう問うた。
「寝首を掻く機会を窺うために、私に抱かれていたのか」
カインは「違う」と言い、泣き笑いのような表情を浮かべた。首につけられた黒竜の牙の痕から、汗混じりの血が滲んで流れていく。
「お前は、俺とよく似ていると思った。そう自覚した瞬間から、俺はお前から逃げようとは思えなくなった」
「……私と、お前が?」
何でもないという風を装いながら、内心、ゴルベーザは胸を覗かれたような感覚に襲われていた。
出会った頃から気づいていた。この男は自分に似ている、と。
まるで鏡像のように、自分たちはよく似ているのだ。どこが似ているのかと問われれば、上手くは言えないけれど。
生きる意味を見失った心、嫉妬だらけの感情。
本当に大切なものは、何一つ手に入らない。いくら手を伸ばしても、霞のように消えてしまう。
「……似ている筈がなかろう。私とお前は、似ても似つかん」
尻たぶを開き、自らのペニスをあてがう。窄まりがひくつき、黒竜の精液をだらりと溢れさせる。
「なら、どうしてそんな顔をするんだ。何故、俺と同じ、満たされない瞳で俺を見る……っ」
語尾が掠れた。先端が埋まっていく。
満たされない瞳が、ゴルベーザを見ていた。
ゴルベーザは、カインと共に食事をしていた、あの日々を思い出していた。人間らしい、あの『幸せ』な日々を。
食事について、他愛もない話をする。カインは笑っている。パンを手に、目を細めて「ゴルベーザ様」と優しく呼ぶ。誰かと共に食事をするということは、なんて幸せなことなんだろう。温かい食事、優しい眼差し、カインは、ゴルベーザの口元に手を伸ばしてくる。ゴルベーザの口元にパンくずがついていたのだ、と言い、指で掬い、その指をぺろりと舐めた。
ずっと昔――同じことを、誰かがしていたような気がする。金色の髪をした、優しい印象を持つ女が。
頭が、割れそうだ。
『貴方の名前には、神様の贈り物という意味があるのよ』
『お前は、朽ちた竜の躯より生まれし毒虫だ』
脳内に、花のような声と赤黒い血のような声が、同時に響き渡った。
カインの腰を抱き寄せる。
この温もりだけが、真実のような気がして。
「……ひ、あ、あぁ……っ」
カインは泣いている。同時に、ゴルベーザも泣いていた。想いが感染する。胸が潰れてしまいそうなほど痛くて、ただ痛くて。
「ゴル、ベーザ……ッ!」
快楽に染まって上擦った、熱い声に煽られる。
カインの全てを感じたかった。全てを感じて全てを知って、同じものになりたいと思った。
もう、独りにはなりたくない。
独りで眠る夜は、あまりにも寂しすぎて。
「カイン……」
軋む心に同調して、燃える家々の記憶が蘇る。
心と体が離れないようにと、ゴルベーザはカインを強く抱きしめた。
◆◆◆
僕は、誰かと話をしたかった。
だから、山で出会ったスカルミリョーネに話しかけた。
『……この朽ちた体では、行くあてもない。私に話しかけてくる者がいるだなんて、思ってもみなかった……』
「僕のところにおいでよ」と僕は言った。
自らの体が醜いことを気にしていたようだったが、そんなことは、どうでもよかった。
カイナッツォと出会ったのは、僕が人殺しをして血塗れになった夜のことだった。
僕に襲いかかってきたカイナッツォを返り討ちにしたことで、彼の瞳は輝いた。
『お前について行ったら、退屈しなさそうだな』
単なる暇潰しでも構わなかった。僕は、あの塔に一人でいるのが嫌だった。この、化けることは上手いのに嘘をつくことは下手くそそうな、獣じみた瞳をしているモンスターに、「じゃあ、ついて来て」と話しかけた。
独りきりに耐えられなくて塔のてっぺんで独り言を呟いた夜、突風と共に、バルバリシアは現れた。
『おいしそうな坊や。この塔の屋上を、私にくれる? くれるなら、話し相手になってあげるわ』
綺麗な女の人。彼女の髪は、僕が好きな金色をしていた。赤い唇。まるで林檎の色みたいだった。
こんな塔、幾らでもあげる。だから、僕と話をして。僕の胸にぽっかり開いた、大きな穴を埋めて欲しい。
「僕、話をする人を探してたんだ」と言うと、彼女は綺麗な歯を見せて笑った。『私はモンスターよ。人でなくても構わないと言うなら、坊やの傍にいるわ』と言って笑う彼女の瞳は、確かにモンスターの色をしていた。
何故か心が落ち着くから、と登った試練の山の頂上で、ルビカンテを助けた。
『……今以上の強さを……手に入れられるなら……っ、人間の体などいらぬ……!』
「あげようか」と僕は言った。丁度、数日前に、研究好きのお爺さんと出会ったばかりだった。もしかしたら、あの人ならなんとかしてくれるかもしれない。人間の体を失っても、この男なら、僕の心の何かを埋めてくれるかもしれない。
四天王達は優しかった。僕は独りきりではなくなった。でも、彼らと僕とでは違う部分がたくさんあった。
皆は、人間のような食事をしなかった。スカルミリョーネは腐肉を、カイナッツォは人やモンスターの肉を食べた。バルバリシアは食事を必要としなかったし、ルビカンテも、火の傍にいればそれでいいんだ、と水分以外を口にしようとはしなかった。
僕はやっぱり独りきりなんだ、と思った。
モンスターと人間では、時間の流れが違う。彼らの一瞬が僕の一生で、僕にとっては大切なものが、彼らのがらくたであったりした。
人の中に戻ろうと思ったこともあったけれど、この血塗れの手では、もうここ以外にいる場所なんて、存在しなかった。
記憶が途切れるその時に、僕は人を殺している。
モンスターのように、無意味な殺戮を繰り返している。
僕は、きっともう人間じゃない。でも、モンスターでもない。まるで、どっちつかずの蝙蝠みたいだ。
胸を焼く憎しみが誰に向けられたものなのか、それさえ分からない。
ただただ、憎しみだけが増幅していく。大切な感覚が消え失せて、凝り固まった醜い感情に、全て飲み込まれてしまう。
「母さん」と呼んでみた。でも、それが誰なのかが思い出せない。
「父さん」と呼んでみても、結果は同じだ。
ちっとも思い出せないんだけれど、大切なものだった、そんな気がするんだ。
そう、とても大切な――。
ああ、駄目だ、やっぱり思い出せない。
ただ一つ分かるのは、意識が途切れるこの瞬間、僕が誰かを傷つけているという事実だけだ。
ねえ、次は誰を傷つけてしまうんだろう。
***
硬い、硬い音がした。
足元に視線をやると、胎児のように体を丸めたカインが、肩で息をしていた。血塗れの手で、闇のクリスタルを抱きしめている。
カインと心が通じ合った――そう感じたあの直後から、ゴルベーザの記憶は途切れていた。今まで、自分は何をしていたのだろう。
「…………これ、で……お前の願いが……叶うのか……?」
竜の兜が割れて落ちていた。
金の髪も、血に濡れている。ゴルベーザは、震えている自らの指先を目の前まで持ち上げた。血みどろだった。
これで、自分の願いが叶う?
「……カイ、ン」
カインの命と引き換えに叶う願いとは、一体何なのか。
手も、足も、声も、自分のものではないような気がした。がたがたと震えて、使い物にならない。
途切れた意識のその隙間で、ゴルベーザは人を殺している。
次の犠牲者は、カインだった。
槍が、遠くに落ちていた。その槍には血がついていない。カインは、ゴルベーザに抵抗しようとしなかったのだ。武器を捨てて、ゴルベーザと対峙したのだ。
ゴルベーザは覚えていた。カインの肉を切り裂く感触を。断末魔に近い悲鳴と、彼が自分を呼ぶ、その声を。
歯のエナメル質がかちかちと鳴る。涙が溢れる――と思うも、それが溢れることはなかった。
涙が、出ない。
自分の中の何かが壊れていることに、その時初めて気がついた。感情の動きがおかしい。自分の心が制御できない。その証拠に、自分は笑っている。唇に笑みを浮かべ、闇のクリスタルに手を伸ばす。
割れてずれた竜の兜の隙間から、青い瞳が覗いている。
血のこびりついた目蓋と睫毛が微かに動く。目は、透明な涙を溢れさせていた。
『ゴルベーザ』
カインの唇が、動く。もう、声を出す気力も体力もないのだろう。吐息が漏れるだけの唇を開きながら、視線を彷徨わせる。
『おれと』
血が滲んだ、赤い舌。
『おれと ともに』
とめどなく溢れる涙。
『おれと ともに いきよう』
どうして。どうして、そんなことを言うんだ。
ゴルベーザの頭が痛んだ。カインのそれは、自分を殺そうとしている者にかける言葉とは、到底思えなかった。『いきよう』と口にしている青年は、今、その命を失おうとしていた。
命の灯火が消えていくさまが、目の前に広がる。
血溜まりが大きくなっていく見知ったこの光景に、ゴルベーザはゆるゆると首を横に振った。
「う、あぁあああああぁあ……っ」
両目を見開き、呻き声をあげる。ひゅうひゅうと喉が鳴る。
頭の中で過去と現在が混ざり、目蓋の裏が真っ赤に染まった。
「……と……とう、さ……父さ、ん……っ」
目の前で死んでいった人。助けられなかった人。
「し、しなない、で……お願……っだ、から……!」
僕を置いて、いかないで。
べちゃべちゃに濡れてしまった、カインの頭を抱き寄せた。彼は既に意識を失い、静かに目蓋を閉じている。手袋に遮られて、カインの体が体温を持っているかどうかも分からない。
「嫌だ」と呟いて、ゴルベーザは首を横に振った。
――お前が、殺したんだろう?
消えゆこうとしている命を嘲笑う声が、ゴルベーザの周囲に木霊した。
蝿の羽音がする。
無数の、羽音だ。
振り払っても振り払っても、体中に纏いつき、全てを喰らい尽くそうとやってくる。
――全ては、お前が望んだことだ。あの村も、お前が望んで焼き尽くしたのではないか!
「違う……っ、違う! こんなことは……望んでいない……っ!」
使えなかった白魔法。どんなに必死で修行を積んでも、白魔法だけは使うことが出来なかった。
資質がないわけではない、という自覚はあった。
ただ、ゴルベーザの心には、闇が多過ぎた。
心の闇が多い者に、白魔法を使う資格などない。
「……死なないでくれ……っ」
掠れた悲鳴だった。必死で、記憶の糸を手繰り寄せた。幼い頃に学んだ白魔法の呪文。それを、まるで魔法を覚えたての子どものように、吐き出すように口にした。
一か八かだった。昔よりも、魔力はある。だが、白魔法を使えるかどうかは分からない。
自分の中に在る心の闇を思う。嫌だ、こんなものには負けたくない、心の中で大きく叫んだ。
「う……っ」
紫色の光が、体から立ち昇る。それはぞわりとするほど冷たくて、暗黒のにおいを纏っていた。
「カイ、ン」
やはり、駄目なのかもしれない。彼を救うことはできないのかもしれない。救うだなんて、おこがましい。カインを傷つけているのは、他でもない、自分自身なのだ。
仰け反った首は、酷く青白かった。
***
カインは、森の中に立っていた。見上げれば、月が眩しさを憶えるほどに光り輝いている。手のひらを翳すと、傷一つない自分の指先が見えた。
ここはどこなのだろう。全く見覚えがない。
瞬間――躊躇うことなく自分を殺そうと襲いかかってきた男のことを、カインは思い出した。
「あの時……俺は……ゴルベーザに…………」
ゴルベーザが放った魔法攻撃が直撃し、そのまま意識を失ってしまったはずだった。
カインが最後に見たのは、ゴルベーザの表情を隠す、真っ黒な兜だけだ。
カインは、改めて自らの体を確認した。
痛む場所はどこにもない。手当てをした様子もないし、武具も痛んでいない。ではあれは夢だったのか。闇のクリスタルを持ってゴルベーザと再会したあの出来事は、全て夢だったのだろうか。
ゴルベーザは、「クリスタルが揃えば願いが叶う」と言っていた。その言葉に引き摺られ、カインはゴルベーザの元へ戻ることになった。
ただ、ゴルベーザの願いを叶えてやりたい。そう思った瞬間、無意識のうちに、セシルから闇のクリスタルを奪い取っていた。
「……セシル……ゴルベーザ……」
カインの内に巣食うのは、大きな絶望だ。
自分に再度裏切られたセシルは、今、どのような気持ちでいるのだろう。
ゴルベーザは、一体どうしてしまったんだろう。二人抱き合ったあの時、確かにゴルベーザと心が通じ合ったと思ったのに。
このままでは、きっと、世界は焼き尽くされてしまう。自分は何という愚かなことをしてしまったのか。
よろけてしゃがみこみそうになる体を、無理矢理に動かして歩き始める。何かしていないと、頭がおかしくなりそうだった。とにかく、この場所がどこなのかを確かめなければいけない。確かめて、セシルやゴルベーザの元に行かなければ。
自分は、どちらの元へ行くつもりなのだろう。
考えても考えても答えは出ず、ただひたすら歩き続ける。草が生い茂っている中で少し土が見えている場所、人が通ったであろう場所を、辿る。
しばらくすると、遠くに明かりが見え始めた。
見たこともない村だ。
飛竜に乗り全ての町や村を見てきたつもりだったが、見落としていたのだろうか。
家々の中で、ランプの淡い明かりが揺れていた。
橙色の光が優しい。胸の奥がぎゅっと痛くなった。懐かしい。もうどれくらい、この光を目にしていないだろう。
あの頃に帰りたい、と思った。
目蓋を閉じれば、いつだって思い出すことができる。セシルとローザと共に過ごしたあの場所へ
帰りたい。心からそう思った。
ゴルベーザには、そういった心安らぐ過去や場所は存在しないのだろうか。
突然、肉を叩く乾いた音が聞こえてきて、カインは咄嗟に木の陰に隠れた。誰かの泣き声がする。それは、赤ん坊の泣き声だった。
「悪魔! 悪魔め!!」
様子を窺えば、男が叫ぶ姿が見える。酷い言葉を受け止めているのはまだほんの子どもで、何故あんな少年にあんな言葉をと思いながら、カインは唇を噛み締めた。
少年の腕の中には赤ん坊がいて、泣き声の正体はあの赤ん坊だということを知る。
大声で泣きじゃくる赤ん坊の声を無視しながら、男はもう一度叫んだ。
「魔法なんて、なくなってしまえばいい! お前の父親は死んで当然だったんだ!」
その言葉に、少年が初めて口を開く。
「……ぼ、僕は……ただ、カンテラに火をともそうとして……ファイアを……っ」
「黙れ! 魔法なんていう得体の知れないもの、俺は認めないからなっ! お前の父親も、その魔法とやらを使って何か悪さをしようと企んでいたんじゃないのか!」
「父さんは、そんなことをする人じゃない、父さんは、皆のために魔法を使っていたんだ! 魔法の力で皆に楽になってほしいって、そればかりを考えて父さんは生きていたよ。それなのに……っ」
「うるさいっ!」
男は、後退りをする少年を村の出口の方へと追い詰めていく。
「出て行け! この村から、出て行け!」
赤ん坊の泣き声が、一層大きくなった。少年の肩がびくりと震え、「どうして出て行かなくちゃならないの」と呟く。
「……俺の職業を知っているか? お前の父親が余計なものを広めたせいで、俺んちみたいに小さな薬屋は商売上がったりさ」
「……そ、んな……そんな……っ……じゃあ、父さんを殺したのは……まさか……」
男は笑っていた。狂気を孕んだ瞳は、獲物を追い詰めることができた喜びに震えているように見えた。
男の手の中で、短剣が光る。
「さあ、その赤ん坊を連れて、出て行け!」
少年は後退り、大きめの石に躓いて尻餅をついた。赤ん坊を抱きしめて、静かに嗚咽を漏らしている。
きょろきょろと辺りを見渡して、逃げ場を探す少年。その瞳の色を見て、カインの体は凍りついた。
印象的な、薄紫色の瞳。髪の色や年齢こそ違えど、少年の姿はゴルベーザそのものだった。
彼に抱かれている赤ん坊の髪は、カインの知っているゴルベーザの髪色に瓜二つだ。
まさか、と思った。そんなはずはない、とも。
自分が過去に来ているだなんて、そんなおかしな話があるのだろうか。
「僕は、僕は…………っ!」
少年が立ち上がった。彼の体から、紫色の炎が立ち昇り始める。見覚えのある炎だ。あれは、あの炎は、ゴルベーザが時折見せていた――。
紫色の炎が、彼の背後で人の形を作りだす。舐めるように少年の体を這い、けらけらと紫色の炎は嗤った。
――ファイガだ。ファイガを唱えろ。この村を焼いたのは、お前だ。
少年の瞳が死んでいく。曇った硝子のような瞳は洗脳された者特有の色をしていて、カインは木の陰から飛び出し、無我夢中で叫ぶ他なかった。
「逃げろ、ゴルベーザ!!」
紫色の炎が目を瞠るような黒い闇に変わり、その手から焼けつく炎が放たれた。
カインは、必死で少年の元へ駆け寄った。
闇が放った炎は男の体を焼き、地面を舐め、家々を喰らい始める。
それは一瞬の出来事で、まるでミストの村のように真っ赤になってしまった辺り一面を呆然と見遣りながら、少年の体を抱きしめるしかない。
腕の中の存在を抱き上げて、カインは走り始めた。
「逃げるぞ!」
「い、いや、いやだっ! 僕の村が、僕の……っ!僕が、僕が村を焼いたんだ……!僕のせいで、皆が……! 皆を助けなきゃ……っ」
「お前のせいじゃない! それに今戻ったらこの赤ん坊はどうなる。独りきりになってしまうぞ!」
少年は、大声で泣きだした。カインは振り向かない。せめてこの少年だけでもという思いで、草むらの中を駆けていく。
間違いない。この少年は、ゴルベーザだ。
とすれば、これは過去の世界なのか。
村を焼いた炎は森を焼く。森をようやく抜ける頃には、カインの脚は疲労と緊張でがくがくと震えていた。
脚力には自信がある方だが、二人の子どもを抱いて走るには修行が足りなかったのかもしれない。
炎の音と少年の声と赤ん坊の声が、悪夢のように重なった。煤だらけの顔をした少年が、
「お兄さん」
カインの目を真っ直ぐに見た。
「……怪我は、ないか」
少年を地面に下ろし、頭を撫でる。赤ん坊の頭も撫でてやると、少年は「大丈夫だよ」と小さく頷いた。
「さっきも言ったように……これは、お前のせいじゃない。気にするな」
「でも」
「いいから、お前はその……赤ん坊のことだけを考えていろ」
「……うん……」
薄紫色の瞳。赤っぽい茶髪は、ゴルベーザとは似ても似つかない。
けれど、カインには少年がゴルベーザであると信じて疑わなかった。
「お兄さんは、僕を『ゴルベーザ』って呼んだよね。何故、その呼び名を知ってるの?」
慣れた手つきで、少年は懐から哺乳瓶を取り出した。中には、ミルクではない液体が入っている。
赤ん坊が痩せこけていることに、カインは気がついてしまった。
そんなカインの視線で悟ったのだろう、少年は悲しげに呟いた。
「……お金が、なくて。ミルクが買えないんだ。このままじゃ、弟は死んでしまう。これは、ただの砂糖水なんだよ」
「……村の者は? 助けてはくれなかったのか」
「僕は『悪魔』だから。……最初は助けてくれていたけど、最近じゃ、誰も助けてくれなくなった」
「悪魔……?」
「うん。……僕の頭の中で声がして、僕が僕でなくなっちゃうんだ。頭の奥がぼうっとなって、気がついたら手のひらが血塗れになってる。それは動物の血なんだけど、いつ、人に手を出してしまうか分からない」
カインは、砂糖水を飲み終えてうとうとと眠り始める赤ん坊の姿を見つめていた。銀の髪と、青い瞳。既視感を覚えずにはいられない。まるで、幼い頃のセシルのようだ。
一体、ゴルベーザはどれくらいの時間、孤独に過ごしてきたのだろう。自分に見せた執着心の正体がはっきりと分かったような気がして、カインの胸はずきりと痛んだ。
「『ゴルベーザ』っていうのはね、僕の頭の中の声が僕を呼ぶ時の呼び名なんだ。僕は虫なんだって。竜の死体の中から生まれた、毒虫なんだって。僕は、きっと、皆を不幸にしてしまう。村の人達だけじゃない。きっと僕は、お兄さんのことも、不幸にする」
ゴルベーザの名前にそんな意味があったなんて。
少年の幼い瞳には、死の色が宿り始めていた。
「馬鹿なことを言うな……っ」
そう言って、抱きしめる。どうやったらこの少年を――ゴルベーザを――救えるのだろう。カインは知っている。この少年は、この先何十年も孤独に囚われたまま生きていくことになるのだ。
「……お兄さん、体が、透けてる……」
「え?」
自らの手のひらを見る。向こう側の景色が透けて見えていることに気づき、カインは息を飲んだ。
しばらくちらちらと瞬いた後、透けがなくなる。
そうだ、これは過去の世界なのだ。自分がここにいることは、奇跡に近い。突然いつもとの世界に戻ってしまったとしても、不思議ではなかった。
「……この近くに、他の町や村はないのか?」
「あるよ。僕は行ったことがないけど、少し行ったところに、大きな城がある」
「城の名前は分かるか?」
「……バロン。バロン城だよ」
その言葉に、周囲を見渡す。そういえば、耳にしたことがあった。自分が生まれてすぐの頃、近くで森が焼ける大火事があったのだ、と。
あれは、この火事のことだったのだ。それならば、話は早い。バロンに行けば、きっと何かが変わるはずだ。
少年の頭を撫で、カインは薄く微笑んだ。
「行こう。バロンなら、このすぐ近くだ。そこに行けば、弟も助かる」
「……うん」
朝が近かった。空は白くなりだし、モンスター達は大人しくなり始める。
と言っても、モンスター達は殆ど襲ってはこなかった。モンスター達が凶暴になり始めたのはつい最近のことで、少し前までは、モンスターを恐れることなく旅をする人々も少なくなかったのだ。
時折透ける体を気にしながら、カインは歩き続けた。
「もう少しだ」
「う、ん……」
はあはあと息を荒げながら、少年はカインに続く。限界が見え隠れしていたが、止まるわけにはいかなかった。
今止まると、赤ん坊の命が危ない。
少年に自分が持っていた水筒を差し出し、カインは「飲め」と言った。頷き、カインの腕に赤ん坊を預け、少年は水を飲む。
水筒と同様に袋の中に入れてあったものを思い出し、カインはあるものを取り出した。
「お前にやる」
ぽんと放り投げると、少年は慌ててそれを受け取った。
ぜんまい仕掛けの、ブリキの飛竜。
それは、カインの父がカインに残した、いわば形見の品だった。
だが、ゴルベーザの心の支えになるのなら惜しくはない。
「も、貰ってもいいの?」
「ああ。俺より、お前の方が大事にしてくれそうだからな」
「……ありがとう、お兄さん」
微笑んだ少年の顔は、子どもらしさに満ちていた。こんな表情もできるんだな、とカインは少し安心した。
「さあ、行くぞ。もう少しでバロンだ」
「うん!」
「……そういえば、まだ、お前の本当の名前を聞いていなかったな。お前の名は、何というんだ?」
赤ん坊を抱きしめて、カインは問うた。
「僕? 僕の名前はね……――」
瞬間。
どくん、とカインの心臓が鳴った。
「お兄さんっ!」
手のひらを見る。透け方が酷くなっていた。このままでは、消えてしまう。二人をバロンに送り届ける前に、元いた場所へ戻ってしまう。
「お兄さん……!」
空が白み始めていた。少年は立ちすくみ、消えゆくカインの姿を呆然と見ている。
せめてバロンまでの道程を教えてやろうとしたカインの視界に入ってきたのは、凶悪な、紫色の炎だった。
少年は背中を丸め、よろめき、
「おにい……さん……っ」
それだけを口にした。立ち昇る炎は濃さを増し、幼い体を包み込み始める。カインの体は、呪縛の冷気をかけられたかのように動かない。
助けてやりたいのに、どうすることも出来ない。
このままでは、少年はあの赤ん坊を殺してしまうだろう。
「赤ん坊をそこに寝かせろ! 早く!!」
少年の瞳が揺れた。まだ、正気が残っている。このままだと、少年が赤ん坊を殺してしまうことは明白だ。それならば、少しでも生き残る方を選びたい、と思った。
「走れ! 出来るだけ遠くへ走るんだ……弟を殺したくなかったら!」
残酷な言葉を吐いているという自覚はあった。
「ここら一帯は、竜騎士団の巡回地域だ! ここに寝かせておけば、きっと、バロンの者が助けてくれる!」
「……ほん、とう……に……?」
「ああ、本当だ!」
少年の頬を、涙が伝った。透明なはずの涙は煤を含んで黒くなり、紫色の炎の色を吸収して赤っぽく変色している。
まるで、血の涙のようだった。
「おにい、ちゃ……また、あえる……?」
弟に? それとも、カインに? どちらか分からず、カインはその両方に返答した。
「弟は、分からない。でも、お互いに生きていれば、会える可能性はあるだろう。……俺には、会えるさ。絶対に会える。約束する……!」
後退りして名残惜しげに去っていく少年を、カインは痛々しい気持ちで見送っていた。
また会える。必ず、会える。それが何十年も先のことだったとしても、その言葉に嘘はない。
地面に寝かされた赤ん坊が、大きな声で泣き出した。
モンスターに襲われないようにと祈る。いつかゴルベーザと弟が再会し、二人で微笑み合える日が来ますように、と。
ああ、これは夢なのだろうか。それとも、過去の映像なのだろうか。あるいは、ゴルベーザの心の奥底に隠されていた、秘められた記憶なのだろうか。
体が透けて消えていく。
手を伸ばすと、ゴルベーザの泣き顔が見えたような、そんな気がした。
***
「……う……」
頬に触れたのは、冷たい金属の感触だった。
それが兜だと気づくまで、しばらくかかった。
びりびりと痛む両腕を伸ばし、黒い兜を包み込む。ゴルベーザは微かに震え、
「……カイ……ン」
呻くように呟いた。
血の味がする。血がこびりついた目元を拭った。
そうか、戻ってくることができたのだ。
「ただいま、ゴルベーザ……」
再度、兜を抱き寄せる。引き寄せられるように兜の口元に口づけた。
ゴルベーザが、呟く。
「……もう、駄目だと思っていた……」
「……ああ、俺もだ」
「お前も父のように死んでしまうのだと……思っていた」
「ゴルベーザ……」
また会える、そう、あの時約束した。
彼の過去を知り、やっと、本物のゴルベーザに会えたような気がする。
そういえば、どうして傷が癒えているのだろう。
思い、カインはゴルベーザに訊いた。
「……私が、白魔法を使った。回復魔法を成功させることができたのは、これが初めてだ」
兜を外し、ゴルベーザはカインを強く抱きしめた。
懺悔するように、告白し始める。
「……ついさっきまで靄がかっていた頭が、少し晴れてきた。……私のくだらない昔話を、聞いてくれるか?」
カインは頷き、ゴルベーザの口元に耳を近づけ、静かに目蓋を閉じた。
「私は、よく、夢を見た。真っ暗闇の中で、男が私を罵倒している。私はそれに怯え、どうすれば良いのか分からずにいる。私の腕の中には、銀髪を持つ赤ん坊がいる」
ぞくりとして、ゴルベーザの背に爪を立てた。
それは、カインが過去に行って見た、あの光景に違いなかった。
「酷い罵倒の言葉に、私の心は真っ黒になっていく。頭ががんがんと鳴って、何も分からなくなり、自分が誰なのか、どこにいるのか、それすらも分からなくなってしまう。何もかもが憎らしくて、醜く思えて、全て消えてしまえば良いのだと思い、私は、私は――」
ゴルベーザ。
「……私は、生まれ育った村に火を放ったんだ」
「違う!!」
思わず、カインは叫んだ。ゴルベーザが話す内容はカインが見てきたものとはまるで違っていた。
「火を放ったのはお前じゃない」
体を離し、ゴルベーザはカインの瞳を見つめた。
薄紫色の瞳が、困惑に揺れている。
「……何故、そう言い切れる?」
「見てきた、からだ……」
「見て、きた?」
「俺は、お前の過去を見てきたんだ」
少しの空白があった。
「慰めか? ……そんな子ども騙しを誰が信じる」
「本当だ、ゴルベーザ。俺は過去に行って、お前の姿を見た。村を焼いたのは、お前じゃなかった。村を焼いたのは、お前の背後にいる『何か』だ」
ゴルベーザの背後にいる、どす黒い色をした、何か。あの影が、ファイガを放って村を焼き尽くした。ゴルベーザに操られていた自分と同じように、ゴルベーザもまた、黒い何かに操られている。ただ自分とは違い、幼い頃から操られているのだから、根は酷く深いものに違いなかった。
「俺は、お前の背後で闇が嗤うのを見た。幼いお前は赤ん坊を抱え、がたがたと震えていた。お前の背後にいる闇が、ファイガを放つ。お前の瞳は、光を失っている。気がついたときには、村は燃え、もう、どうしようもない状態だった」
額に脂汗を滲ませながら、ゴルベーザは頭を抱えた。
「大丈夫か? ゴルベーザ」
「……いい……続けろ」
指で汗を拭い、髪を梳く。目蓋を閉じて指先を感じている男を、カインは愛おしいと思った。
「俺は、お前と赤ん坊を抱えて走った。森を抜けて、お前と赤ん坊を他の安全な場所まで送り届けようと思ったんだ。……でも、それは叶わなかった。また、お前の背後に闇が現れたんだ。闇は、赤ん坊を殺そうとしていた」
「その赤ん坊は、銀髪か……?」
「……ああ。闇が現れると同時に、俺の体は透けて消え始めた。俺は『赤ん坊を置いて走れ』とお前に言った。……俺が見てきた過去は、これで終わりだ」
ゴルベーザが、カインの体をぐいと引き剥がす。
首を小さく横に振った。
「駄目だ……思い出せない……」
「……思い出せなくても、かまわないんだ。お前は何もしていないんだよ!」
「例えそれが真実だとしても、私の罪が消えることはない。村を燃やしていなくても、私は数え切れない人々を苦しめ、傷つけてきた」
「ゴルベーザ!」
「人殺しの烙印は、消えん。世界を滅ぼそうとした罪は、果てしなく重い」
ゴルベーザの背後に闇が現れ始め、カインは息を飲んだ。ゴルベーザ、捕らわれるな。捕らわれるんじゃない。その闇は、お前の心の闇を喰らって生きているんだ。
「私は、もう、人間ではない。魔物よりももっと酷く醜い何かなのだ……」
違う。違う違う違う違う!
「心のどこかで、お前と共に生きたい、そう思っていた。幸せに暮らしたい、普通の生活がしたいと願っていた。……人の暮らしを脅かしておきながら、私は、自らが幸せになることを望んでいたのだ」
床に転がされていた血塗れのクリスタルが、ふわりと浮き上がる。
「……家族とは、温もりとはどういうものだったか。お前なら教えてくれるかもしれないと、そう思って」
隣室――クリスタルルーム――へと続く扉が開き、クリスタルはゆっくりと台座を目指し始めた。
ゴルベーザは立ち上がり、頭を抱え、壁に背をついた。
「何という浅ましさだろう。これだけのことをしておきながら……っ」
「ゴルベーザ! 考えるな、考えるんじゃない!」
縋りつこうとしたカインの体を、見えない壁が弾いた。
濃さを増す闇に飲まれ、ゴルベーザはゴルベーザでなくなっていく。
「ゴルベーザ……ッ」
もう一度、名を呼んだ。ゴルベーザは返事をしなかった。
この場に不釣り合いなほどの眩い光を放ちながらクリスタルが台座に納まり、ほぼ同時に、ゴルベーザの頬を一筋の涙が滑り落ちた。
「ああ……やっと、この感情の正体を思い出すことができた」
闇の色をした鎧の隙間から入り込む、真の闇。
今にも消え入りそうな声で、彼は呟いた。
「これが、『愛している』という感情なのだな」
カインの胸に、突き刺さるような痛みが走る。
ゴルベーザは闇を全身に纏いながらクリスタルルームの中心に向かい、不意に、光と共にその姿を消した。
***
村を燃やしたのは、自分ではなかった。
けれど、この手が血塗れであることは、変えようのない事実で。
――よくやった、ゴルベーザ。
――もうすぐ、もうすぐ、全てが終わる。
――早く、この星の全てを焼き尽くすのだ。
彼に触れることは、もう、できない。湧き上がる罪悪感が、ゴルベーザの胸を焼いた。
カインは、人を想う気持ちを思い出させてくれた。愛するということがどういうものなのかを、傷だらけになりながら教えてくれた。
頭が痛かった。耳鳴りがやまなかった。抗いたいと思うのに、体が思うように動かない。
ゴルベーザは、自分が巨人の中にいることに気がついた。
――この星を焼き尽くせ。
集まってしまったクリスタルと、動き出した次元エレベーター。無機質な壁に触れる。ひんやりとした感触に、怖気が走った。
この星が、この巨人によって壊されてしまう。
「嫌だ、やめろ……!」
――お前が望んだことだろう?
闇が囁いた。耳を塞いでも聞こえてくる、悪魔の声。幼い頃から続く悪夢。その結末が、これか。
クリスタルが欲しかったわけではない。
月に行きたかったわけでもない。
青き星の全てを憎んでいるわけでもなかった。
求めていたのは――。
「カイン」
少しでいい。一欠けらでも構わない。小さな温もりが欲しかった。独りきりの夜、飢えに喘いだ夜、求めたのは、心を温めてくれるたった一つの存在だった。
どうすればいいのだろう。
もう、何も分からない。
頭がずんと重くて、息が苦しくて、自分が自分でないようで、このままではいけないと思うのに、罪に汚れた足は、歩を進めてはくれない。
この巨人を止めなければ。
止めなければ、いけないのに。
「――ゴルベーザ!」
ふらつく体を、後ろから抱きしめる者がいた。
それは、後を追ってきたカインの姿だった。
「独りきりで、どこへ行くつもりだ……!」
「離せ!」
思い切り突き飛ばすと、カインは呻きながら壁に激突する。歯を食い縛り、こちらを真っ直ぐに見据えながら、彼は怒りを露わにしていた。
彼に触れることが怖かった。きっとまた傷つけてしまう。この腕は、彼を殺そうと動いてしまう。
『捨てる』のが、得策だと思った。
草むらに置き去りにした、銀髪の弟のように。
「俺は……俺は、赤ん坊じゃない!」
心を読まれたように思い、ゴルベーザは息を飲み、静止した。
「俺は、赤ん坊みたいに無力じゃない。お前の悩みを聞いてやることもできるし、お前に守られずに生きていくこともできる。またお前が俺を殺そうとしたら、全力で抵抗してやる」
「……私は、お前を傷つけることに恐怖を覚えているんだ」
「傷つかない」
「お前を殺してしまったら、と思うと」
「俺は死なない」
だから俺を連れて行け、と。身も心も傷だらけになりながら、カインは唇の端を上げた。
「……俺を捨てようと思っているんだろう。そんなこと、できるわけがない。ゾットの時のように……お前が俺を捨てようとしたって……俺はもう、お前の傍を離れるつもりはない。全力で、お前の服の裾に喰らいついてやるさ」
巨人が揺れ始めた。よろめいた、彼の手を握る。
離さない、といった調子で、カインはゴルベーザの手を握り返した。
鏡がひび割れていく音がする。
ゴルベーザは、自分の鏡像のようであったカインの心が、少しずつ変化していくのを感じていた。
ひび割れた鏡は落下し、粉々に砕け散り、月の光を反射して、淡く淡く、煌めき始める。
「……行こう、ゴルベーザ」
一歩、足を踏み出す。
望んだ未来へと続く細く長い道が、ぼんやりと見える。
彼と一緒に生きたい。
ただ、それだけを思った。
End