「……お前がスカルミリョーネか。よろしくな」
言葉と共に差し出された手を、私はおずおずと握った。彼の指先はじめっとしていて、彼の体からは潮の匂いがした。
「俺の名前は、カイナッツォだ。四天王で、主に水を扱う」
聞かなくても、それくらい分かる。曖昧に頷いてから、私は踵を返した。
廊下はあまり好きではない。というか、外はあまり好きではない。早く自室のシーツに包まってぼんやりしたい、と思った。
何もかもが面倒で、誰と話すのも億劫で。
それが、私達の出会いだった。
彼は不思議な存在だった。
いつの間にか傍にいる。振り払っても振り払っても、笑顔で、私の傍にいた。
星を眺めていても、本を読んでいても、眠っている時でさえ、飽くことなく私の傍で笑っていた。
彼という存在に、どれだけ救われたろう。
酷いことを沢山言われたし、沢山された。だがそれ以上に、楽しいことも沢山あった。
体を始めて繋いだ時も――私は最初、性欲の吐き出し口にされただけかと絶望したが――彼の言葉の底にある優しさに、胸が熱くなったことを覚えている。
あの日から零れ出すようになった私の涙は、止まることを知らない。
バルバリシアとルビカンテの死が、追い討ちをかけるかのように心をどす黒く染め上げていった。
「――スカルミリョーネ。聞いているのか」
ゴルベーザ様が、こちらを見下ろしていた。私は慌て、こくりと頷いた。
そうだ、私はゴルベーザ様に呼び出されて、ここに来たのだった。ぼやけた頭をぶるりと振って、もう一度ゴルベーザ様の顔を見上げた。
「……まあいい。見れば分かるだろう」
と、ゴルベーザ様が何かを唱え始める。聞いたこともないその呪文は、目の前に暗い靄を形作っていった。
「ゴルベーザ様……?」
ゴルベーザ様が何をしているのか。私には皆目見当もつかない。
ゆったりと腰掛けたまま、彼は黒い籠手に包まれた手を前に伸ばした。靄が凝っていき、見覚えのある形をとり始めた。
「ゴ、ゴルベーザ、様」
私は後ずさった。無意識のうちに、それらから離れようとしていた。凝った靄は、今や、黒い塊となっていた。塊は何やら嫌な音をたて、膨らんだり縮んだりを繰り返している。
三つの黒い塊を眺めながら、ゴルベーザ様は嗤った。
「何だ、怖いのか?恐れることはなかろう。これはお前の仲間だぞ?」
塊のうちの一つが、人間の形になり、私の方に歩み寄ってきた。
長い金色の髪をかき上げ、笑う。見間違える筈がない。それはバルバリシアに他ならなかった。
そんな、と口にしようとする。声が出なかった。
「どうしたの?スカルミリョーネ」
けらけらと笑う彼女の瞳は、曇った色をしている。まるで曇天だった。
「私達はね、蘇ったの。あの方の力で蘇ったのよ。もっとモンスターらしく、強く、完全なカタチで蘇ったの」
「そうだ。私達は完全なものとなった。迷いもない。これで、あの者達を殺すことができる」
あの方?
ずるり。粘った音が床を這っている。それはルビカンテらしき者の足元から放たれていて、彼の足はまだ“蘇りきれていない”らしかった。
腰が抜ける。床に尻もちをついた。この二人が蘇ったとなれば、あとは一人しかいなかった。
涙を流せない筈の私に、涙を流させた者。私の心の虚無を取り払い、同時に虚無を残していった者。
緩慢な動作で、彼はこちらにやってきた。
「……よう。どうしたよ、変な顔しやがって」
彼の瞳に光はない。どこかで見たような瞳だった。
そうだ、カイン。あの男が、同じような瞳をしていた。
「俺が怖いか」
唇の端を持ち上げて、尖った歯を見せる。
がたがたと震えながら、私は彼を見つめ続けた。
彼が私の腕を掴む。醜い腕を隠すローブを捲り、口を大きく開き、
「そうかそうか、怖いか!」
私の腕に噛みついた。ぎゃあっと悲鳴をあげる。彼は離さず、かぶりついたままだ。そのまま、首をぶるりと横に振った。
「や、やめろ……っ!!」
獣の動作だった。腐肉を漁る彼の動作は私の腕を喰い千切り、私は後ろに倒れ込んだ。彼はひたすら笑っていた。ひたすら楽しんでいた。
以前のカイナッツォではないということを、身をもって知らされた。
「カイナッツォ……」
身体的な痛みはなくても、胸は痛む。
『けど、喰っちまったらそこで終わりだからな。だから、思うだけだ。喰わねえよ』
あの時の彼の言葉は本物だった。だとしたら、これは誰なんだ。彼によく似たこれは一体。
「スカルミリョーネ、仲間に会えて嬉しいだろう」
ゴルベーザ様が部屋を出て行きざま言う。扉から出て行く彼にルビカンテとバルバリシアはつき従い、しかし、カイナッツォは彼らの後ろには続かなかった。
カイナッツォが口を開くと、私の左腕がぼたりと落ちた。
「俺はこいつに用がある。だから、あとで行きます」
静かに扉が閉まった。見上げれば、彼の虚ろな瞳がある。
現実味のない光景が目に焼きつき、私は首を横に振った。無駄な抵抗だと知りつつ、振らずにはいられなかった。
End