ただ、彼のぬくもりに触れていたかった。






 風が強く吹いている。木の葉が擦れ、心地良い音をたてていた。
「……雨か」
 一人呟き、目的のものを見つけて早く帰ろうと足を動かす。雨が降る、と本能が告げていた。
 ゴルベーザ様に「マグマの石を探して来い」と命じられてから、どれくらいの時が経ったのだろう。古書を読み漁って『マグマの石はエブラーナ周辺にある』という一文を発見することはできたけれど、それ以上の手がかりは見つからなかった。となれば、手当たり次第に探すしかない。だが部下達を総動員しても手がかりが見つかることはなく、何も先に進まなかった。
 ぽつり、水滴が降ってきた。風が吹く。嵐が来たことを知ると同時に、それは、今日の作業の中止を意味していた。
 帰ろう、と踵を返す。
 うろうろと探し回るより、古書を再度読み直す方が良いのかもしれない。
 足に潰された草が、青いにおいを放っている。雨が降れば、そのにおいが一層濃くなった。魔物の鼻は敏感なのだと再認識せざるを得ない。
 ふと覚える、異質な感覚。人間のそれとは違う、動物的本能に近い何かが頭の中を焼いていた。この異質な感覚には、いつまで経っても慣れることが出来ない。
 それは、血のにおいだった。しかも、人間の血のにおいだ。
 芳しい――――そう思うこと自体おかしなことなのだろうが――――血のにおいが、風に乗って鼻を擽っていた。
 溜め息をつき、踵を返すのをやめる。においを嗅いでしまった後では、放っておく気にはなれなかった。


 雨が、体を濡らす。雨脚は、どんどん強くなってくる。雨に掻き消されることなく漂う血のにおいは、濃さを増すばかりだ。
 森の中を進み、やや拓けた場所にあったのは、小さな洞窟だった。血のにおいは、そこから放たれていた。耳を澄ませば、乱れた呼吸が聞こえてくる。何かぬるついたものを踏んだ、と足元を見れば、それは赤黒く広がった血溜まりだった。
「――――…………いてぇ……」
 啜り泣くような男の声が、洞窟内に響いた。私が洞窟の奥を覗き込んで様子を探ろうとすると、男はちいっと舌打ちを一つした。立ち上がる気配と、よろめく気配。慌てて洞窟内に入ると、壁に背を預けた男が涙目でこちらを見た。
「……んだよ、おめぇ……さっきの奴らじゃねえのかよ……っ!」
 血が滴り、音をたてる。紫色のマントが真っ赤に染まっている。虚ろな瞳、震える指先。胸元を守るはずの防具は割れ、ぼろぼろになっていた。
 男の手から、二本の刀が落ちる。
「……う、ぅ……っ」
 頬を地面に預けて倒れた男は、それでも、私を睨むことを止めようとはしなかった。刀を手繰り寄せようとしては失敗を繰り返す。意思の強い眼差しは彼の無鉄砲さをよく顕していて、射抜かれていると心の中まで見透かされてしまいそうな気がして、どきりと胸が鳴った。
 ふと、脇腹に突き刺さっている乳白色の『何か』が目に入った。さっきまで、腕の陰に隠れていて見えなかったものだ。突き刺さっているそれはどう見ても爪で、胸当てを壊したのもこの爪であるだろうと考えた。
「その傷は、ドラゴンにつけられたものか?」
 口をきける魔物が珍しかったのだろう。彼は目を見開き、「喋った」と掠れた声で言った。直後に噎せ、軽く血を吐く。口元を覆っている布が、真っ赤に染まる。
 一刻も早く回復してやらなければ。
 洞窟内に充満している甘い血のにおいが、頭の芯を揺さ振る。
「そう、だ…………おれ、は、ドラゴンに――――」
 指先が地面を掻き、ひゅっと喉が鳴ったかと思うと、彼はそのまま動かなくなった。
 慌てて抱き上げ、蒼白になった頬に触れる。酷く冷たい。熱を分け合うかのように胸元に抱き寄せ、回復魔法を唱えた。
 この男は、何者なのだろう。
 意識を失う前に見せた、意思の強い緑の瞳。死に直面している者の瞳とは思えぬ強さが、そこにはあった。
 突き刺さった爪を握り、引く。血が噴き出る前に素早く押さえ、回復魔法を唱え続ける。息がしやすいようにと口元の布をずらし、血を拭った。
「ドラゴン……か」
 男は、「俺は、ドラゴンに」と言っていた。刺さっていた爪もドラゴンのものだった。彼は、ドラゴンに襲われたのだ。エブラーナ周辺にドラゴンは生息していない筈なのにどうして、と思った次の瞬間、あることに気がついた。私の部下達の中にはドラゴンもいるではないか、と。
 では、この男は、私の部下に襲われたのだ。
 人間を襲うよう指示した覚えはないのに、何故そのようなことを。
「……う……っ、く……」
 男の手が彷徨う。弱々しい力で私の手首を掴み、「殺されて、たまるか」と、血を喉に絡みつかせたまま呟いた。
「……安心しろ。お前を傷つけるつもりはない」
「嘘、だ……」
 地面に降り立とうとして、失敗する。まだ痛みが残っているのだろう。眦に涙を溜め、額に汗を滲ませていた。
「どこが痛むんだ? 言ってみろ」
 男は首を横に振り、暴れ、足で私の胸を蹴り、よろめいて地面に落ちた。驚いて再度抱き上げようとした私の手を振り払い、あの真っ直ぐな目でこちらを見上げてくる。
「あ、あぁ……っう……」
 脇腹を押さえ、呻いた。
「傷口が開いたのか……暴れるからだ。回復魔法はかけたけれど、まだ完治には程遠いぞ」
 何か言いたげにぱくぱくと口を動かしてから、また倒れ込もうとする。その体をそっと受け止めると、観念したらしく胸元に縋りついてきた。
「腹と…………背中が、いてぇ……」
 背中には、爪痕はなかった筈だ。そう思い服をたくし上げると、背は暗い色に腫れてしまっていた。手のひらを、打撲痕にあてる。
「……見たこともないようなドラゴンが、いきなり襲いかかってきて……逃げようとしたけど間に合わなくて、でかい爪が刺さって」
 どうにか応戦しようとしたのだろう。血のにおいの中には魔物の血のにおいも混じっていた。だが細い体躯とこの軽装では、どうすることもできなかったに違いない。
 「爪と腕を切り落としてやった」と呟く声は、徐々に掠れて小さくなっていく。誰に話しているつもりなのか、それすら分かっていないようだ。
「あったけえ……」
 しがみつき、恍惚を滲ませた声で彼は言う。回復魔法は暖かい。それが心地良いのだろう。それとも、私の体温のことを言っているのだろうか。火を扱う魔物だから、私の体は常に熱を帯びているのだ。
 瞼を閉じた男は、小さく寝息をたてはじめた。
 小さな体だ。年齢は幾つくらいなのだろう。銀色の髪がやわらかい。時間も忘れ、ゆっくりと上下する彼の胸元に見入っていた。
 叩きつけるような雨の音が、絶え間なく響いてくる。この激しさでは、血溜まりも洗い流されてしまうことだろう。


***



 気づいたら、何か馬鹿でかい生き物の腕の中にいた。もがいてももがいてもぶっとい腕が取れなくて、どう見てもそれは魔物で、しかも寝ていて、もしかして俺食われちまうんじゃねえのと焦っていたら、奴は唐突に目を覚ました。
「ひっ!」
 黄色の瞳と目が合った。どういうことだと混乱する。よくよく見てみれば服は雨と血で汚れていて――――ああ、恐ろしい記憶が蘇ってきた。そうだ、俺は昨日、ドラゴンに。
「目を覚ましたのか」
 それはこっちの台詞だ。
「気分はどうだ?」
「……手を、放せ」
 洞窟の隅に落ちている刀の位置を確認しながら、頬に触れてくる手を振り払う。魔物の顔が切なく歪んだ気がしてどきりとしたけれど、そんなの、気のせいに決まっていた。
「触るんじゃねえ……っ」
 脇腹を切り裂かれた感覚が、まだ残っている。ふらつく足を叱咤しながら地面に下り、魔物との距離を取った。
「…………死にかかっていたお前を助けたのは、私だ。回復魔法をかけ、お前の傷を塞いだ」
「何で、んなこと」
「怪我人を放っておくことが出来なかっただけだ」
「……変な奴」
 確かに、体の傷は塞がっていた。死を覚悟したことが、まるで嘘のようだ。頭の芯がぼんやりしていて、記憶ははっきりしない。けれど、何かあたたかいものに包まれていたということだけは覚えていた。
「言っておくが、私がお前を放さなかったのではない。お前が私から離れようとしなかっただけだ」
「う、嘘だ」
「嘘ではない」
 そんなの嘘だ。再度叫ぼうとしたけれど、一つの事実を発見し何も言えなくなってしまった。
 魔物のマントの胸元が、皺くちゃになっている。それは、俺があの魔物に長時間しがみついていたという事実を教えていた。
「う……」
 目眩がする。血が足りていない。思わず膝をつき、背を丸めてしまう。動けなくなった俺を見て、魔物は小さく笑った。
「あの出血の量で、立ち上がれるわけがなかろう」
「うるせ……」
 優しい手つきで触れてくる手を振り払う元気もなく項垂れていると、「すまなかった」と、魔物が謝ってきた。
「え?」
 どういうことだ、と首を傾げて見上げる。魔物の手にはドラゴンの爪が握られていて、昨日の痛みを思い出してしまった俺は、慌てて目を逸らした。
「……これは、私の部下の爪だ。お前を襲ったドラゴンは、私の配下だった者なのだ。腕を切り落とされては、もう生きてはいないだろうが……」
「どう、いうことだよ……っ」
「お前を殺そうとしたのは、私の仲間なのだ……すまなかった」
 ぞく、と怒りが湧き出て溢れた。この野郎が、あのドラゴンの仲間?
「どうして、俺を殺そうとしたんだ。襲うように、おめぇが指示したのか」
 声が震えているのが自分でも分かった。爆発しそうになっている怒りを懸命に抑えつけながら、魔物に掴みかかった。魔物は返事をしない。何も、言わない。
「何とか言ったらどうなんだ!」
 相手が静かに佇んでいるのが気まずくて、けれど後にも引けず、声を荒げる。
「……分からんのだ」
 図体のでかい魔物は、途方に暮れたような顔をして遠くを見た。
「ドラゴンは頭が良い。だから、無益な殺戮をすることはない。だがお前は『見たこともないようなドラゴンが、いきなり襲いかかってきて』と言った」
「……ああ」
「魔物全てが凶暴というわけではない。この世には、大人しい魔物も多くいる。だが、近頃その『大人しい魔物』達に変化が現れ始めた。小さなことで吠え合い、争い合うようになった。……何故かは、分からぬ」
 魔物のマントを掴んでいた手から、力が抜けた。殴る気だったのに、そんな気持ちはどこかへ吹っ飛んでいってしまった。この魔物が、あまりにも切ない顔をするから。
「ああ……うん、そういえば」
 俺に襲いかかってきたドラゴンは、どこかおかしな目付きをしていたように思う。箍が外れたような、そんな目をしていた。あのドラゴンも、苦しんでいたのだろうか。もしかしたら、病気か何かだったのかもしれない。――――凶暴になる病気? それは、本当に存在するものなのだろうか。思考が堂々巡りをし始めたところで、俺は考えることをやめた。
「なあ」
 本当に、大きい魔物だった。首が痛くなるほど見上げて手を伸ばして、触れる。太い腕。眦が光っているように見えて、泣いているのかと思い、触れてしまった。
 殺そうと思っていたわけではない。だが結果的に、俺はこの魔物の部下を殺してしまったのだ。その事実に、間違いはなかった。
「お、俺……」
 魔物には、感情らしい感情がないのだと思っていた。けれど俺が知らなかっただけで、仲間を殺されて悲しむ魔物が、この世には存在するのだ。
 何か声をかけようとして、でも何を言えばいいのかわからなくて戸惑っていると、目を丸くして魔物は笑った。
「何故、お前が泣きそうな顔をするんだ」
「してねえよ」
「いや、している」
 涙目になっているのがバレたらしい。恥ずかしい気持ちでいっぱいになりながら、魔物に背を向けた。
「ドラゴンに殺されそうになった男が、ドラゴンのために涙を流すのか」
「ち、違う! ドラゴンのためじゃなくて、俺はおめぇの…………っ」
 『おめぇのために』と口にしてしまいそうになって、咄嗟に口元を押さえた。恥ずかしい。頭の中がぐるぐる廻る。「ううう」と呻いて地面にへたり込む。目眩がする。血が足りない。
「おい」
 腕を引かれ振り向くと、更に視界がぐにゃぐにゃになった。あたたかい腕にきつく抱かれて脳が揺れて、頬を軽く叩かれたけれど瞼が下りて開かなくて耳元で心臓の音がして、それがだんだん大きくなっていって――――。


***



 何故、人間が私のベッドで眠っているのか。
 おかしな気持ちになりながら、意外に長い睫毛を眺めていた。
「……んー……」
 身動ぎして、男がシーツを蹴飛ばす。寝相の悪い男だ。昨夜は、腕の中であんなに大人しくしていたのに。そういえば昨夜も、飽くことなく彼をじっと眺めていたような気がする。
 不思議な男だった。何故か、目が離せない。惹きつけられてしまう。
 私のために涙を流す男を見たのは、あれが初めてだった。格好から察するに(居た場所から考えても)彼はエブラーナの人間なのだろう。エブラーナの人間というものは、こうも純粋なものなのか。それとも、彼が特別なのか。そもそも、人間とはどういうものだった? 考えて考えて、分からなくなってしまった。人間のことを考えようにも、私はあまりにも人間と離れすぎてしまっている。人間だった頃の過去は、あまりにも遠かった。
 細い腕。細い首。無防備に晒された、白い喉元。カイナッツォが見たら、「どうして喰わないんだ?」と首を傾げそうな光景だ。理性のない魔物になるのはごめんだと溜め息をつき、再度蹴飛ばされたシーツを元に戻した。
 カイナッツォは、理性がないわけではなく自分がやりたいことをやっているだけだ。だがカイナッツォとは違い、この男を襲ったドラゴンは大人しく聞き分けの良い魔物だったはずだ。
 何かがおかしい。どこかが、狂い始めている。
 私も、あの者達のように狂い始めてしまうのではないか。
 嫌な考えにとり憑かれ、また溜め息をついた。
「………………幸せが逃げるぞ」
「な……っ」
 いつの間にか目を覚ましていたらしい。身を起こした男が、私の顔を覗き込んでいた。
「溜め息ばっかりついてたら幸せが逃げるって、爺が言ってた。そんなことより――――なあ、何で俺は裸なんだ」
 身につけていた服はぼろぼろで、使い物になりそうになかった。この塔には、人間が着られそうな物はない。となれば、道は裸しかない。そう告げると、男は頭を掻いて恥ずかしそうに俯いた。
「と、とにかくサンキューな。俺、また倒れちまった」
「あの出血の量では無理もない」
 シーツを体に巻いて、男は床に下りた。
「まだ本調子ではないだろう? 寝ていた方が」
「大丈夫、こんくらい平気だ」
「シーツでは歩きづらいだろう」
「フルチンで歩けってのか」
 細くのびた足が、ぺたぺたと音をたてる。「床、冷てえな」と物珍しそうに辺りを見渡し、何か言いたげな目をして振り向き、唇を噛んで、鼻を啜った。
「……確かに、あのドラゴンが先に手を出してきたんだけどよ……あのドラゴンは、おめぇの部下だったんだよな。殺しちまって、悪かった」
「それは……仕方のないことだろう。お前が謝ることなど、何も」
「でも、おめぇの大事な部下だったんだろ?」
「……そうだな」
 壁に立てかけてあった刀を手にし、彼は薄く笑った。鞘から抜いて光に透かす。美しい銀が、きらきらと乱反射した。
 その切っ先を、私に向ける。挑発的な眼差しだった。
「おめぇは、変な魔物だな。大人しい魔物がいるってのは分かるけど、人助けをする魔物なんてなかなかいねえよ。普通、刀を向けられたら攻撃してくるものだろ」
 挑発的な彼の瞳の中には小さな怯えがあって、そんな人間に反撃する気にはなれない。彼が本気でないことを知っていたから咎める気にもなれず、笑い返した。
「助けた者を殺すわけがなかろう。……気分はどうだ?」
「いい感じだ。目眩もしない。おめぇのお陰だ。こりゃ、礼をしなくちゃならねえな」
 刀を下げ、鞘に収める。
「構わん。こちらが先に手を出したのだから」
「それじゃあ、俺の気がすまねえよ――――ん? これって」
 テーブルの上に置いてあった本を見てしばらく考えた後、彼は「そうそう、マグマの石のことが載ってる本だ!」とやや大きめな声で口にした。
「うちにも、同じ本があるぞ。確か、上下巻になってるんだよな。うちにあるのは上巻だから、こいつは下巻か。こんなところにあったなんて」
「マグマの石を、知っているのか」
「ああ。上巻を読まされたばっかりだからな。知ってるさ」
 読ま『された』という言葉が少し気になったが、そこは置いておくことにして、問うた。
「マグマの石がある場所は分かるか?」
「んー、そこまではなあ。何かもの凄い力を持った石だとかそういうことは書いてあったけど、場所までは書いてなかったな。……ああ、エブラーナ周辺にあるってことは、書いてあったかもしれねえ」
「そうか……」
「おめぇ、マグマの石を探してんのか」
「ああ」
 探しても探しても見つからない、幻の石。手がかりは、あまりにも少なすぎた。新たな手がかりが見つかったと思ったのに、やはり、何も進みそうにない。
「なら、俺も一緒に探してやろうか。助けてくれた礼がしたい」
 男は、何かとんでもないことを言い出した。
「構わぬと言っているのに」
「……礼をさせてくれ。じゃなけりゃ気がすまねえ」
 曇りのない瞳で言われてしまえば、抗う術も見つからなくて。
「仕方がないな。だが、体を治すのが先だ。いいな?」
 腕を引き、無理矢理ベッドの上に転がす。彼は頷き、シーツですっぽりと頭を覆った。


 それから、二日が経過した。
 エブラーナの服をどうにか調達し、彼に手渡し、マグマの石を全裸で探しに行くことだけは避けることができた。「ようやく外に出られる」と伸びをして、彼は嬉しそうに服を着始めた。体調は良好で、彼の機嫌も良かった。彼が以前着ていた服の中に入っていた武器やよく分からない道具達を手渡すと、にっこりと口を三日月型にして彼は頷いた。
「早速、探しに行こうぜ」
 刀を手にし口元にぐるりと布を巻き、扉を開こうとする。首を横に振って「やめろ」と言うと、彼は不服そうな顔をした。
「何で、出ちゃ駄目なんだよ?」
「扉の外は魔物だらけだ。出れば死ぬだろうな」
 「いっ」と面白い声を出し、頬を膨らませる。
「じゃ、じゃあどうすりゃいいんだよ。このままじゃ、外に行けねえぞ。それとも、どこかに隠し扉があるのか? びっくりするようなからくりがあるとか?」
「……お前が言っていることはよく分からんが……移動なら、テレポを使えば良かろう。ほら、掴まれ」
「テレポ……? 白魔法ってやつか。この前の回復魔法も、白魔法ってやつなのか?」
「そうだ」
 テレポは初めてなのだろう。どこにどう掴まっていれば良いのか分からない、と彼は辺りを見回している。「怖いものでなければ、痛いものでもない。じっとしていればすぐ終わる」と教えてやっても、不安は消えないようだった。
 腋下に手を差し入れ、抱き上げる。顔を真っ赤にして、ぎゃあぎゃあと暴れだした。
「何しやがる、おい、下ろせって!!」
「不安なのだろう? 大人しく抱かれていろ」
「う……、それは……」
「大丈夫だ、直ぐに済む。痛みもない」
 小動物のように大人しくなり、がっくりと項垂れた。
「は、早く済ませてくれよな……」
 耳まで真っ赤だと告げる。「うるさい」と叫んだ彼は、私の胸元に顔を埋めてしまった。


 やってきたのは、彼と出会った洞窟がある、あの森の中だ。
「ほら、怖くなかっただ……ろ……う……? って、一体どうしたんだ」
「……ちょっと怖かった。ほんのちょっとだけな!」
 見れば、真っ赤だった顔は真っ青である。どこがほんのちょっとなのだろうと噴き出しそうになってしまった。
 ミシディアで生まれた私からすれば白魔法、ましてや初歩のテレポなど珍しさの欠片もないものであるのだが、彼はそうではないらしい。
 魔法に初めて触れた子どものような顔を見せる彼が、新鮮で面白くて堪らない。
 地面に下ろしてやると、ややよろよろとした足取りで、彼はどこかに向かおうとし始めた。
「おい、どこへ行く」
「家。一旦帰って、しばらく帰れねえって言ってくる。今夜はおめぇの部屋に泊まる」
 足音がしない。彼の歩みは、無音だった。
「しばらく帰れない、とはどういうことだ? 毎日帰れば良いだろう」
「それじゃあ、だらけちまうだろ。ちょっと待っててくれ! すぐ戻ってくるから!」
 小さな背中が、風の様に消え去った。なんという足の速さだ。彼は、あの足の速さで攻撃力の無さや頼りない防御力をカバーしているのだろう。
 彼が向かった方向は、やはり、エブラーナだった。彼は、エブラーナの民なのだ。
「……忘れていたな」
 そういえば、彼の名を訊くのを忘れていた。彼の年齢は? 私は、何も知らない。
 彼のことを知りたい。そう思う。なんて事だ、私らしくもない。
 唇に、自嘲の笑みが浮いた。


***



 爺に叱られた。分かっていたことだったが、親父とお袋にも絞られた。部屋に軟禁されそうになったけれど、「恩を返しに行くんだ」と言うと、三人は諦めたようだった。皆、俺の性格を知っているのだ。一度決めたことは、曲げたくない。
「無理は禁物ですぞ、若! 全く、若は昔から……」
「ああもう、分かってるって!」
 追いかけてくる爺の声を振り払いながら、そういえばあいつの名前はなんて言ったっけ? などと考える。大きな魔物、炎のにおいがする魔物。優しくてあたたかくて、よくある『魔物』のイメージとは全く違っている男は、驚くほど人間によく似ていた。
 あいつに会ったら、一番に訊きたいことがある。
 あいつの名前が、知りたい。
 歩を進め、森へ向かう。待っているだろうか。結構、時間がかかってしまった。
 呼吸が乱れるほど焦って森の入り口に辿り着いたけれど、赤い魔物の姿は見つからなかった。
 もしかして、帰ってしまったのか。名前を叫ぼうとしたけれど、それすら分からない。見捨てられたような心持ちになって、俯いた。
 そりゃあそうだ。俺は人間で、あいつは魔物だ。避けられてもおかしくない。どうして、そんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
 頭上に、影がかかる。間もなく、顎を掬い上げられた。
「――――酷い顔をしているな。何かあったのか」
 魔物の手は、あたたかかった。心臓が大きく跳ね、直後にどくんどくんと大きな音で鳴り出した。動揺を悟られぬよう、息を潜めた。
「あ……俺……」
「傷が痛むのか?」
 傷は、とっくに癒えている。分かっているくせに、魔物は優しい声で問うた。
「どこが痛むのか、言ってみろ」
 どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。マントにしがみついて顔を埋めれば火の香りがして、更に鼓動が高鳴った。でも、胸が痛いだなんて言えるわけがない。そんな恥ずかしいことが言えるものか。
 本当はしがみついている事自体恥ずかしいことのような気がするのだけれど、もう何度も抱きしめられているからか、耐性が付いてしまったようだ。
 そうだ、訊きたいことがあったんだった。顔を上げ、口を開く。
「あの」
「お前の」
 見事に声が重なった。気まずい。
「先に言えよ」
「いや、お前から言えばいい」
 そう言って、魔物は待ちの体勢に入ってしまった。
「……あの、おめぇの名前……教えて欲しいんだけど」
 おそるおそる口にすると、魔物は破顔した。布越しに俺の唇に親指を這わせ、「私も、今訊こうとしていたところだ」と俺の体を抱きしめる。
「や、やめろよ馬鹿! ……恥ずかしいだろ」
 俺の言葉を聞かず、魔物は嬉しそうに俺の頭を撫でた。
「私の名は、ルビカンテだ。お前の名は?」
 ルビカンテ。頭の中で、何度も繰り返す。胸が高鳴る。これまでに感じたこともなかったような感覚が、頭の中を走り抜けていった。
「俺の名前は――――エッジだ」
 フルネームを言おうとしてやめた。どんなに優しくたって、この男は魔物なのだ。あのドラゴンのように、突然暴れださないとも限らない。全てをさらけ出すわけにはいかなかった。この男は魔物だぞ、と、自らに念を押す。
 それは、自分を見失わないようにと作り出した壁だった。
「エッジ」
 触れられた場所が熱く感じられるのは、この男――――ルビカンテ――――の高い体温のせいなのか、それとも。
 自分の胸に生まれ始めている感情が、怖かった。


 ルビカンテが探したという場所は避け、まだ探していないという場所を探す。狭い場所に入ることはできんと言う彼が何だか可笑しくて、「なら、俺がその狭い場所に潜り込んでやるよ」と返事をした。狭い物陰や洞窟の奥、大樹にぽっかりと開いた穴に入ったり、高い場所に登ったりもした。けれど、マグマの石は見つからない。
 そうして、数日が過ぎ去った。どうにか慣れることができたテレポでルビカンテの部屋に戻り、遅めの夕食にする。ルビカンテが作ってくれる異国の料理は美味しくて、毎日の楽しみでもあった。最初は俺が作るつもりでいたのだけれど、この部屋にある設備の仕組みが分からなくて、ルビカンテに任せることにしたのだった。
 ルビカンテは料理が上手だ。なのに、ルビカンテ自身はその料理を食べない。「おめぇは、どこで飯を食ってるんだ? 俺と一緒に食えばいいのに」と言うと、「誰かとテーブルを共にするような食事は、私にはできぬ。所詮、私は獣だからな」と彼は答えた。人間向けに味付けされた料理は口に合わないと言う。
「なら、どうして料理を作ることができるんだ? 味見しても、おめぇには不味いだけなんだろ?」
「レシピ通りに作っているだけだ」
 確かに、料理を作るとき、ルビカンテは何か古びた紙を見ていることが多かった。黄ばんで古ぼけたその紙に書かれた字には癖があってまるで手紙のようで、彼がその紙を大切にしていることが分かった。
 あれは、誰が書いたものなのだろう。そんな考えが顔に出てしまっていたのか、ルビカンテは小さな声で言った。
「あれは、私の父が書いたものだ。……ずっと、昔に」
「……お前の、親父さんが?」
 これ以上踏み込んではならない話なのではないか。そう考え、何と答えれば良いか悩んだ俺は、ルビカンテの言葉を繰り返した。
 スープを口に運び、静寂を誤魔化そうとする。美味しい、どこか懐かしいかおりのする、異国の料理。この料理はきっと、家庭料理なのだろう。ただ漠然と、そう思った。
 ルビカンテは深夜に一時間ほど出掛け、血のにおいをさせながら部屋に帰ってくる。あれは、食事をしに行っているんだろうか。俺に気付かれたくなくて、あんな夜更けに出かけているのだろうか。
 夜毎行われる『食事』。その正体を、俺は知らない。
 浴室で血を洗い流し、ルビカンテは眠りにつく。俺が寝ているベッドに潜り込んでくる。俺は、寝たふりをする。知らぬふりをする。でも、何も知らないのは嫌だった。俺は、ルビカンテのことを何も知らない。
 本当は、もっと知りたいと思っているのに。
「お前の親父さんって……」
 黄色い瞳に射抜かれて、息を飲む。スープを飲み干し、ごちそうさまと席を立った。
「言いたくねえなら、無理をしなくてもいい。変なこと訊いちまったな」
 洗い物をして間を持たせようかと考えたけれど、そういえば、ここには勝手に洗い物をしてくれる装置があるんだった。よく分からない箱の中に食器を入れて蓋を閉じれば、あっという間にぴかぴかになって出てくる。どういう構造になっているんだろうと首を傾げ、ルビカンテの方に向き直った。
「ルビカンテ……ほんと、変なこと訊いてごめ――――……」
「私の父は、人間だった」
 綺麗になった食器を、思わず落としそうになった。からかわれたのかと思ったが、そうではないとルビカンテの眼差しが告げていた。
「母も、人間だった。……私も、人間だった」
 ルビカンテが、元人間?
 混乱して何も言えずにいると、ルビカンテは壁にあるスイッチを押した。明かりが消えて壁の一部が透け、向こうが丸見えになる。四角く切り取られた夜空が美しく映し出され、月の白い眩しさに溜め息が出そうになった。まるで、空の上に浮かんでいるみたいだ。
「私は、一度死んだのだ」
 ルビカンテは言い、空を見上げた。
「私は、朽ちて消えゆく運命だった。あの方はその運命をねじ曲げて、私の命を救った。……おそらく、ただの気まぐれだったのだろう。それでも、私はその気まぐれに救われた」
 もしかして、ルビカンテは誰かに話したかったんだろうか。ぽつりぽつりと話す内容には時々意味の分からない単語が混じっていた。それでも、ルビカンテが人間だったということは分かる。悲しい顔をする男の過去は、聞いているだけで痛かった。
 父を超えたくて修行をして、自らの力に溺れて死にかかった男。
 ルビカンテは、父に振り向いて欲しかったのではないだろか。「よくやったな」と言われたかったのではないだろうか。
 認められないことは辛い。親父が頷いてくれるから、お袋がにっこり笑ってくれるから、俺は前に進むことができるのだ。今のルビカンテは『ある方』が認めてくれるから、前に進むことができるのだろう。
「魔物になったことを後悔したことはなかった。元々、朽ちていくはずだった命だ。あの方の為に生きていけば良いと、そう思っていた。姿形が変わってしまっても、心が獣にならなければそれで良い、と。だが、近頃……」
 言葉が途切れた。
「近頃、月を見ていると意識が混濁するように思われるのだ。理性にひびが入っていくような、嫌な感覚がおさまらない。理性が隅に追いやられて、息ができなくなってしまう。自分の体が無意識のうちに動いてしまうことが、怖い」
 いつも落ち着き払っている男の黄色い瞳が、一瞬ぎらついたように見えた。
「……ルビカンテ?」
 暗い部屋の中を照らすのは、月と星の光だけだ。淡い輝きに透かされながら、男は遙か遠くを見ていた。
「お前を襲ったドラゴンも、凶暴になってしまったその他の魔物達も、皆、あの月に狂わされているのかもしれぬ」
「お月さんに……? あのお月さんに、一体何が」
 揺れる瞳。何かの狭間で彷徨っている瞳。それは、あの時のドラゴンと同じ色をしていた。
 思い出すのは、ルビカンテが以前口にしていた言葉だ。

『魔物全てが凶暴というわけではない。この世には、大人しい魔物も多くいる。だが、近頃その『大人しい魔物』達に変化が現れ始めた。小さなことで吠え合い、争い合うようになった。……何故かは、分からぬ』

 ルビカンテは大人しい。というより、理性的に見える。だが、どんなに理性的に見えても人間に似て見えても、今のルビカンテは魔物なのだ。そう、強大な力を持つ魔物だ。襲われたら、一溜まりもない。戦ったこともなければ戦っているところを見たこともないから分からないけれど、きっと、ルビカンテはドラゴンなんかよりもずっと強いのだろう。
「あ……っ!」
 手首を握られる。血が止まってしまいそうなほど、強く。やめろと叫ぼうとする。声が出ない。いつもの慈しむような優しい瞳はどこにもなくて、見えるのは、本能の色だけだ。
 怖い。息が、できない。
 ルビカンテの顔が近づいてくる。空いている方の手が、俺の顎を掬った。これの意味が分からぬほど、子どもでもない。
 きつく目を閉じ、覚悟した。
「――――すまない。私は何を……」
 離れていく魔物の手は、震えていた。俺の手首には、くっきりと痕が残っている。
「ルビ……カンテ……?」
 痛みを感じることも忘れ、ルビカンテの顔を凝視した。俺の方が痛いはずなのに、ルビカンテの方がもっとずっと痛そうだった。
「……今夜は戻らない。もう何もしない。だから、安心してくれ」
「なに、言って」
 手を恭しく持ち上げられた。淡い光が、切なく輝く。腕を掴まれた時より、回復されている今のほうが痛いなんて、どういうことなんだろう。
 頭をぐしゃぐしゃと撫でられて、涙が出そうになった。ルビカンテの過去の話に感化されたのだろうか。月に狂わされているのは、魔物だけではないようだ。
「……早く寝ろ。明日も早いぞ」
「ま、待ってくれルビカンテ……!」
 マントを掴もうとしたけれど、その姿は溶けるように消えてしまった。
 蹲って、口元を押さえる。さっき、俺は何を思った? 一瞬、『口づけられても構わない』とか思わなかったか。そうだ、ルビカンテになら傷つけられても構わない、とも思ったんだ。
 触れ合う吐息に、瞬間、息が止まってしまうかと思った。
「……ったく、何なんだよ……っ」
 馬鹿野郎、と口にした声が、相手に届くことはない。


***



 月が綺麗だった。綺麗だから、惑わされた。
 美味しい美味しいと言って嬉しそうに食事をする姿に、小動物のように素早く動く様に、やわらかな髪の感触に、彼が持つ空気とその何もかもに惹かれていく自分を感じていた。
 けれど、どんなに惹かれ焦がれても、手を出す気などなかったのに。
 傷つけてしまったという事実が、胸を苛む。
 怯えを滲ませて声も出せずに震えていたエッジの姿が、瞼に焼きついて離れない。人間を傷つける趣味も、怖がらせる趣味もなかった。ましてや、相手はエッジなのだ。傷つけたいだなんて、欠片も思っていなかった。
 だが、触れたいとは思っていた。頭の中で、本能が嘲笑う。
「そうか……私は、彼に触れたいと……」
 木が生い茂る森の中で、この場所だけは木々が刳り抜かれたように小さな広場を作っていた。見上げれば、月が眩く輝く。
 ミシディアで暮らしていた時も、あの月を見上げていた。だが、あの時は一人ではなかった。隣には、父と母がいた。厳しかった父、嫌いだった父。父に反発して火の魔法を極めてパラディンになろうとしたけれど、夢が叶うことはなかった。父が時たま作ってくれる料理がとても美味しかったことも、あのレシピの存在も、エッジに出会うまで忘れていた。
 彼の傍にいると、嬉しかったことや悲しかったこと、色々なことを思い出してしまう。
 どれも、魔物には不要な記憶ばかりだ。
 真っ直ぐに育ったエッジの姿が、眩しくて堪らなかった。人間であった時には気付かなかったもの。人間のあたたかさ、やわらかさ。色鮮やかな感情と、思わず笑顔を返したくなるような笑顔。その全てが愛おしい。だから、触れたかった。口づけて、彼の熱を奪いたかった。
 けれどそれに反するかのように、頭の奥で本能が唸るのだ。
 気は進まないが、この本能を抑えつけるには『食事』をするしかなかった。
 深い溜め息が漏れる。きつく閉じた瞼の向こうで、ちらちらと光が揺れたように思えた。頭の中で響く声、低い声。思念波だ。
「ゴルベーザ様」
 声に応えると、主は静かに話し始めた。
――――ルビカンテ。お前に、エブラーナを任せようと思っている。
「私に、エブラーナを……?」
――――エブラーナの民は、バブイルの塔を調査しようと考えているらしい。邪魔者は排除しなければならない。
「ゴルベーザ様……」
 主は、本格的に動き始めるつもりらしい。いよいよ始まってしまうのかと思いつつ、「分かりました、お任せ下さい」と返答した。
――――狙うのは、力を持っている者だけでいい。弱い者は放っておけ。まずは、見せしめとして王族を殺せ。もうじき、お前の所に書類が届くだろう。
 声は、唐突に途切れてしまった。夜の闇の隙間から、黒竜が音もなく現れる。口に書類を咥え、金色の瞳を光らせていた。
 黒竜は、私が書類を手に取ると同時に音もなく消えた。すぐに目を通す気にもなれず、畳んで懐に仕舞い込む。
 どんな命令であっても、主の暗い声に逆らうことはできない。命の恩人であるゴルベーザ様の命令は絶対で、主のために生きるという誓いを破るつもりはなかった。
 だが、人殺しはしたくないと思う。私は、人間を殺めたことがなかった。
 その一線を超えてしまったが最後、微かに残っている理性が消え失せて私は私でなくなってしまうのではないか。その考えが、私を踏み止まらせていた。
 森の奥に行こうとしたその時、何者かの声が聞こえてきた。それは、この場所にいるはずがない者の声で。
「おーい! ルビカンテ! いるなら返事してくれ!」
「エッジ……!?」
 大きな声が追いかけてくる。遠くから見え始める、小さな影。見間違いなどではない。それは、確かにエッジだった。
「エッジ、どうしてここに……!」
 そもそも、どうやってあの部屋を出たんだ。部屋の外には無数の魔物がいたはずだ。こう言っては何だが、エッジの攻撃が通じる魔物はいなかったろうに。
「ルビカンテ!」
 頬を上気させて、にっこりと笑う。
「おめぇを追いかけたくて、恐る恐るあの部屋を出たんだ。そしたら、金髪の姉ちゃんと亀みたいなのと茶色いローブ着た骨がいてさ。何だかよく分かんねえんだけど、この森に送り届けてくれたんだ」
「バルバリシア達か」
 多分、『何か面白そう』という理由だけでエッジをここに飛ばしたのだろう。ここは、バルバリシア達に感謝すべきところなのだろうか。彼女達に会わなければ、エッジは今頃……。
 後で散々からかわれるのだろうなと頭が痛くなった私に構わず、今にも噛み付きそうな剣幕で、彼は叫んだ。
「俺は、平気だからな! どっこも痛くねえからな! だから、んな顔すんなよ。俺の顔を見て、辛そうな顔をするのはやめろ」
「エッジ……」
 彼の行動は、ひたすら真っ直ぐだ。周りを見ず、危険も顧みず、ただ前だけを見て行動する。
 危なっかしくて見ていられないと思うのに、いつの間にか、彼から目を離すことができなくなっていた。
 これ以上、惹かれてはいけない。笑顔を見てはいけない。際限なく惹かれていく自分を、止めなければと思った。
「この辺は一通り探したし、明日はどこを探すんだ?」
 少し離れた場所にある木の側まで駆けていき、エッジはおどけたように言った。
「案外、こういう木の下に埋まってたりしてな。だとしたら、探すのも大変――――」
 何かが空を切る音がした。細い体が、宙を舞う。
「な……っ!」
「エッジッ!!」
 地面に降り立ったエッジの体を、鋭い牙の光る大きな口が追いかける。呪文を唱える暇もないほど、魔物とエッジの距離は近かった。
「ルビカンテ!」
 背に、鋭い痛みが走った。
 小さな体を、きつく抱きしめる。
 エッジは、息を潜めて震えていた。素早く呪文を詠唱する。
 ファイガを放てば、焦げ臭さが鼻を突く。エッジを襲ったのは、一体のキマイラだった。私の部下だったものだ。
 もんどりうって倒れた部下は、もう動かなかった。
「どうして……」
 膝をつきエッジを抱きしめたまま、吐くように言った。一体ずつ、確実に、部下達は歪んでいく。私の言う事を聞こうともしない。では彼らは、誰の言うことを聞いているんだ。
「……油断したな……まさか、いきなり襲いかかってくるなんて」
「彼らは正気を失っている。私の姿を目にしても、何も思わなかったようだ。私のことすら分からなくなってしまっているらしい」
 腕の中で、彼はこくりと頷いた。
「う……」
 何かを気にするかのように、足首を押さえている。
「どこか、怪我をしたのか」
「捻った、んだと思う。ついでに、擦り剥いちまった。そんなことより、おめぇの傷は!?」
「私の傷なら、気にしなくていい。お前の体より、私の体の方が丈夫だからな」
「また、おめぇの部下が……。俺がここに来なけりゃこんなことには……」
「構わん。あの様子では、遅かれ早かれ殺さなければならなかっただろう」
 淡い光を送り込む。赤く腫れた足首と、その上に走る傷痕を癒していく。血の、甘いにおい。胸が焼けつきそうになる。
 どこか粘着質にも感じられる血の感触が、空腹感を煽る。痛みを耐えている彼の顔。思わず、口づけてしまいそうになる。視線が絡み合った。彼は、笑っていた。口元を覆う薄い布の下、形の良い唇が動く。
「――――しても、良かったのに」
 布を下げ、
「ほら、したいならすればいい」
 月ではなく、私は彼に狂わされているのか。
 戸惑っている私を見て、彼は笑う。「知ってたさ」と嬉しそうに、私の首に腕を絡めてくる。
「おめぇ、我慢してるんだろう? 手え出したらやばいとか自分は魔物だからとか、そういうことばっかり考えて、がちがちになっちまってるんだろう?」
 何もかも見透かされていたということか。体を離そうとするも、彼の腕に阻まれて不可能だ。
「魔物とか、人間とか、そういうの抜きにして、俺はおめぇのことが好きだ。優しくて、あったかくて」
「エッジ……」
「さっきは、おめぇのお陰で命拾いした。ありがとな」
 片方の手で、滑らかな頬を撫でた。汚さぬようにと親指の腹で撫でたのに、彼の頬には掠れた血の痕がついた。
 くるおしい赤。本能が、がたがたと騒ぎ出す。
「ルビカンテ」
 上目遣いの瞳が、微かに潤んでいる。
 名を呼ばれるだけで、もう。
「あ……っ、う……んん……っ!」
 耐え切れず唇を奪えば、首に絡みついた腕に更に力が篭った。舌を追いかけ、絡め、彼を味わおうとする。甘えるような彼の声が、途方もなく愛おしかった。
「……あちい……」
 熱に浮かされたような声を出す。唇を舌でなぞると、びく、と彼の体が震えた。
「ルビカンテ、おめぇ怖いのか……?」
 優しく問われた。それは私の台詞だと思ったが、事実、私は怯えていた。
 口づけ以上のことをしたいと思っている自分自身に、恐怖を覚えずにはいられなかった。
「ああ、怖いな」
「何が、怖い?」
「……お前を傷つけることが、怖い」
「俺を?」
「ああ」
「俺は、怖くない。何も」
 そう言って、胸当てを自分で外した。私の手を取り、胸にあてさせる。鼓動の早さに驚いて彼の顔を見ると、その顔は真っ赤だった。
「……俺は男だ。可愛いお姉ちゃんじゃねえ。多分、ごつごつ骨ばってて抱き心地もよくないと思う。い……入れるとこも……ねえし……。それでもいいなら、おめぇが俺のことを欲しいって思ってんなら、我慢しないでくれ」
 好きなだけ触ってほしい、と。服をたくし上げ、肌をあらわにする。月光に透過された肌が酷く不健康なもののように見え、彼に似合うのは、月光ではなく太陽光だと思った。
 けれどきっと、太陽光の下にいる彼は眩しすぎて、私には触れられない。
 草の上に横たえた体は、思った以上に小さかった。
「んん……っ」
 『傷つけぬように』。そう考えながら、胸の突起を摘んだ。
 どく、どく、と耳の奥を血が流れていく。
 出会った事自体が間違いだったのだと思った。決して、出会ってはならなかったのだ。
 胸元に、舌を這わせる。跳ねる彼の仕草その一つ一つが愛おしくて、息を飲む。彼の肌は滑らかで、いつまでも味わっていたくなるほど甘美だ。
「あぁ……、ん、あ……ルビカンテ……ッ」
 『食べてしまいたい』という本能と、『傷つけたくない』という理性がせめぎ合う。何度も甘噛みし、咥え、吸った。エッジの肌に残った赤い痕はそれだけで卑猥で、理性が蕩けていくのを止める術が見つからない。
「……怖いか?」
 聞き返すと、彼は首を横に振った。
「怖くねえって、言ってんだろ……」
 震えている体は、恐怖を訴えている。まるで、獲物を追い詰めているような気分だ。
 頭を撫でれば、気持ち良さそうな顔をする。白い首があまりにも美味しそうで、やわらかな肉を歯で挟み、そっと吸った。
「ん……、あぁ……!」
 彼を食べてしまいたいのか、愛したいのか。目の前に投げ出された体は本当に脆そうで気を抜いたら今にも傷つけてしまいそうで、それが怖かった。
 勃ち上がったものが、下衣の布を押し上げている。どのような力加減で触れれば良いのかも分からぬまま、下衣を下げた。ペニスは透明の雫を垂らして服を汚していて、顔を真っ赤にした彼の表情を堪能しつつ、先端に口づけた。
「や、ルビカンテ、汚い、そこ、きたな……っ……あ!」
 じゅるりと吸い上げると、細い腰がうねった。鈴口を舌先で抉れば、甘い蜜がとろとろと溢れ出してきた。逃げようとする体を引き寄せ両足首を掴んで限界まで開かせ、全てを口に含んではぎりぎりまで引き抜き、を繰り返す。唾液と先走りが混じり合い、銀の恥毛を濡らした。
「い……あぁ、あっ!」
 上ずって艶を含んだ声が、一際大きくなった。
 足首を掴む手に、筋肉の強張りが伝わってくる。直後、舌の上に放出された液体のあまりの甘さに、「もっと飲みたい」という思いが生まれた。か細い声をあげているエッジのものは硬度を失っていない。もう一度舐めようとすると、彼は途切れ途切れの声で「おめぇは、いいのか?」と切なげに言った。
「やったことねえから、上手く出来ねえかもしれねえけど……」
「私はいい。お前が気持ち良くなってくれれば、それで」
「いいから座れって」
「そんなもの、舐めたら汚いだろう」
「……何言ってんだよ。おめぇも、俺の舐めただろ。おめぇのなら……」
 起き上がり、私のものに触れた。焦らすように――――多分そんなつもりはないのだろうが――――優しく握られ、おずおずと擦られる。彼の手と比較して大きすぎるペニスに、彼は戸惑ったようだった。
「片手じゃ、無理か……」
 独り呟いて、両手で包むような形に握り直した。私の手管を真似ているのか、先端を咥えようとしている。そこまでしなくてもいいと首を横に振るのだけれど、「俺にもできる」とおかしな意地を張り始めてしまった。
「ん、……ぅ……」
 咥えきれるはずもなく、先端を舐める形になる。舐めると手が止まり、手を動かすと口が止まった。拙い動きだが、必死さが伝わってきて堪らない気持ちになる。無理はするなと言っても、彼は行為をやめようとはしなかった。
「もういい、やめろ」
「……気持ち良くねえのか?」
「そうではなくて……」
 エッジが手を上下させる度、くちゅ、くちゅ、といやらしい音が鳴る。時々、窺うような瞳と目が合った。
 頭の中が真っ白になる。出してはいけないと思ったけれど、我慢できなかった。
「……く……っ」
「ふ、あぁ……っ!」
 白濁した液体が、エッジの顔を二度、三度と汚していった。ペニスを握ったまま硬直し、小さな悲鳴をあげるものの、彼は避けようとしない。慌てる私の心も知らず、エッジは苦笑した。
「へへ……飲もうと思ってたのに、タイミング誤っちまった」
「何もそこまで……本当に、お前は……」
 マントで拭うと、「んー」と、なんとも言えない声を出した後、今度は「げっ」と色気のない声を出す。
「そ、そういえば……ここ、外じゃねえか……」
 今更何を言っているのだろう。まさか、気付いていなかったなんて。思わず笑い出した私を見て、彼はそっぽを向いてしまった。
 自室へ戻ろう。細い体を抱きしめて、テレポを唱えた。


***



 男同士がどういうふうにどうやるかなんて、本当に知らなかったのだ。
 だからルビカンテがその場所に触れようとしたとき、どうすれば良いのか、何をするつもりなのか、さっぱり分からなかった。それでも俺は、ルビカンテが優しく触れてきてくれることがただ嬉しくて、彼の胸に縋りついていた。


「ん……っ」
 本当は、首に手を回したい。でも、この体格差じゃ無理だ。
 大きく足を開いて『本当に入るのか?』と凝視してみるも、直後に恥ずかしくなり、ルビカンテのものから目を逸らした。
 先端が、ゆっくりと埋められていく。熱い。異物感が大きくなっていく。はあはあと息をして、心を落ち着けようとする。オイルが垂らされていても、怖いものは怖かった。
「うあ、あ、あっ」
 ぎちぎち、と、括れの部分を挿入されたのが分かった。内臓を圧迫されている。ルビカンテの部屋は防音だと聞いたけれど、この声を誰かに聞かれたらどうしよう、という緊張が拭えなかった。
「……痛くはないか?」
 不思議と、痛みはなかった。その代わりに、焼け付くような感覚が襲いかかってくる。ちらりと腹の方を見ると、ルビカンテのものはまだ半分も入っていなかった。
 痛みはないと知らせるために頷くと、ルビカンテはゆるゆると出し入れをし始めた。これ以上入れるのは無理だと判断したらしい。本当にゆっくりな動きだったけれど、じわじわと迫り来るような快楽があった。
「あぁ、あ……」
 浅い部分を擦られる度、行き場のない喘ぎが漏れてしまう。オイルがぬちぬちと練られ、痺れが全身を駆け巡り、息を潜めた。ベッドの軋む音がリアルだ。
「ルビカンテ」
 呼べば、ルビカンテの存在が更に大きく感じられるような、そんな気がした。
 酷く恥ずかしい格好をしていることは分かっている。それでも、ルビカンテが望んでいることをして欲しかった。
「ひ……っ!」
 その部分を突かれると、何故か声が溢れて止まらなくなってしまった。ルビカンテもそれに気づいたらしく、執拗にその場所を抉られる。
「ひ、う、うぅ、あっ!!」
 腰が浮く。頭の中を掻き混ぜられているみたいだ。上手く息が吸えない。
 もう、出してしまいそうだ。
「ルビ、カンテ……出ちまう……あ、あっ! ひ……っ」
 俺の言葉を聞いたルビカンテは、座り、俺を跨らせ、腋の下に手を差し入れた。激しく揺さぶられ、もっとそっとしてくれと懇願する。
 見上げた先にあったのは、獣の瞳をしたルビカンテの姿だった。
「うあっ、あぁっ! 深、い……っ!」
 腹を突き破られてしまいそうなほど、奥深く挿入された。飲み込めなかった唾液が顎を伝う。肉同士がぶつかり、淫猥な音を響かせている。
 ルビカンテは、正気を失っていた。でも俺には止められない。
 唇を奪われる。唾液を飲まれ、舌を吸われ、奪い尽くされてしまう。唇が離れた瞬間、抽迭の動きが速くなった。
「い、いや、あ、あっ、ひ、死んじまう、あああぁ、ああっ!」
 悦い場所を強く擦られ、達してしまった。白濁が飛び散る。体中の力が抜けてしまう。くたくたになった体をシーツの上に転がされ、尻を高く持ち上げられた。シーツを掴んで顔を埋める。衝撃が来る、と思った。
 背にのしかかられる。心臓が割れそうだ。
「エッジ……」
 俺の名前は、こんなに切ない響きを持っていただろうか。
 捩じ込まれたものの熱さに、意識を引き摺られる。全てがぐちゃぐちゃになる。声にならない悲鳴をあげた。
「く、…………っ!!」
 ルビカンテの精液で滑りが良くなった俺の中は、いとも簡単にルビカンテのものを受け入れた。
 形を覚え込まされるかのように今度はゆっくりと抜き挿しされて、腰がぎしぎしと軋んで、でも気持ちが良くて。
「……ルビ、カンテ……ルビカンテ……ッ!」
 横向きに転がされ、片足を大きく持ち上げられた。下半身が変だ。俺のものは、とろとろと透明の液体を垂らし続けている。
 ずっと達し続けているかのような感覚に襲われ、下腹部に手を伸ばした。自らのものを擦り上げる。
「んっ、んんっ、あっ、あ」
 達しているはずなのに、おさまらない。出したいという欲求が消えない。
 中で、ルビカンテのものが大きくなった。
「うぁ……っ!」
 俺が自分のものを慰めている音と、ルビカンテが俺の中を掻き混ぜている音が卑猥に重なる。
 体が熱い。炎に巻き込まれているような、そんな気がした。
 朝は、まだ遠かった。


***



「――――もういいから、気にすんな!」
 出掛け先の森で謝ると、彼は苦笑しながらそう言った。何度目の謝罪かも分からぬほど、何度も謝っている。その度、彼は「もういいって」と苦笑した。
 朝起きたとき、あの日を再現するかのように、彼は私の腕の中にいた。すうすうと眠る彼の全身が何かの液体にまみれていることに気づいてどきりとしたのも束の間で、次の瞬間、とてつもない早さで血の気が引いていった。
 そうして、目を覚ました彼は、こう言った。

『……あ、いつものルビカンテだ……良かった……』

 結局、思うまま彼の体を揺すぶった罰として、彼を肩車で運ぶこととなったのだった。早い話、腰に力が入らないらしい。本当に、申し訳ない。
 彼を貪った記憶は鮮明だ。彼の全てを手に入れたくて堪らなかった。このまま時が止まってしまえば良いのにとも思った。エッジに、私の本性を知られてしまった……そう思ったのに、彼は変わらず私の傍にいて笑っていてくれる。それが、とても嬉しかった。
 黒竜から受け取った書類には、まだ目を通せないでいる。早く読まなければと思い「時間ができたときに読もう」と、今朝も懐に入れてきたけれど、やはり読めぬままだった。
 頭を軽く二度叩かれる。何だと思い見上げると、エッジは遠くを指差していた。
「…………ルビカンテ、何か、あっちに小さな泉がある」
「泉?」
「うん、泉」
 エッジの言うとおりに進んで行ってみると、そこには小さな泉があった。湧き水がある。喉が鳴ってしまうほど綺麗な泉だった。
 こんな場所に泉があるなんて知らなかったとはしゃぐ彼を泉のそばに降ろしてやると、水を掬ってごくりと飲んだ。
「旨い!」
「美しく澄んでいるな。何故、この泉に気づかなかったのだろう」
「だよなあ。こんなに近くにあったのに気づかないなんて、変だよな」
 水面を覗き込み、
「鏡みてえだ。顔が映……あ、うわ、あっ!」
 水飛沫がはねた。エッジが、頭から泉に突っ込んだのだ。
 慌てて腕を引っ張って、どうにか顔を出させた。荒い息をついている。濡れた銀の髪が力を失い、くったりとしていた。真ん丸になった目。固まりきってしまっているエッジに、何がどうしたのかと問いかけた。彼の瞳は、きらきらと輝いていた。
「なあ、これって……泉の底に沈んでたんだけど、これって!」
 人差し指と親指に摘まれた石を見る。それは、どう見ても――――。
「マグマの石……!」
 顔を見合わせて大声をあげた。
「やったな、ルビカンテ!」
 すっくと立ち上がったエッジは、バランスを取ることができず、また泉の中に倒れてしまいそうになった。私の腕に必死で掴まりどうにか難を逃れた彼は、笑顔で、私の手にマグマの石を握らせる。
「ほんと、良かったな!」
「ああ、そうだな。エッジ、お前のお陰だ」
「……おめぇのお陰だろ」
「いや。……お前のお陰だ」
 何度言っても言い足りないほどだ。けれどこれ以上言ったら余計に信じてもらえなくなりそうだと思い、口を閉じる。
 不意に訪れる、静寂。小鳥が鳴いた。彼の呼吸と同時に泉に広がる波紋に視線を落とした。
「どうした? ……急に静かになったな」
「あの、ルビカンテ、俺」
 言いたくても言えない、という風に口をもごもごさせているエッジを見つめた。
「俺の名前なんだけど……実はさ、エッジってのは本名じゃねえんだ」
「そうだろうとは思っていた。が……突然どうしたんだ」
 俯き、言い辛そうにエッジは言った。
「実は、出会った時は、ほんのちょっとだけだけど、おめぇのことを信じてなかったんだ。魔物だから、何か仕掛けてくるつもりかもしれねえ。そんな気持ちが、少しだけあった」
「賢明な判断だな。悪事を働く者も、中にはいるだろう」
「ああ。でも、おめぇは違うって分かったから」
 耳を貸してくれ、と。
 言われた通りに耳を貸すと、彼は私の耳をぎゅうっと握って思いきり凭れかかってきた。突然の動きに対応できず、仰向けに倒れてしまう。懐から、書類が零れ出た。
 私を押し倒した彼は、悪戯っぽく笑っていた。
「俺の名前は…………ああもう、改まって言うとなると、何だか恥ずかしいな」
 甘い耳打ち、優しい声。瞼を閉じる。太陽光が、瞼の裏を赤く染めた。
 顔を傾けた。耳を澄ます。紙の音が耳を撫で、ああ拾わなければ、と瞼を上げる。風に撫でられ揺れている書類は今にも吹き飛んでいってしまいそうだ。いけない、と、ばらけている書類の一枚を掴む。目に飛び込んできたのは、強烈な一文だった。
 一瞬、エッジの声が聞こえなくなる。
 調査報告書――――王族の名前――――殺さなければならない人間の名前の羅列。「聞いてんのか、もう一度言うぞ」と、不服そうに響く青年の声。ああ、平静を保てそうにない。
「俺の名前は、エドワード・ジェラルダインだ」
 返事をすることもできず、銀の髪に鼻を埋めた。


End


Story

ルビエジ