誰かの声が、聞こえた。
暗闇の中、青い瞳が薄ぼんやりと浮かんでいる。目覚めたばかりの頭では、夢か現か分からなかった。
「……俺は…………」
上ずるような調子でそう言った彼は、私の手をそっと撫で、俯いてしまった。
「……どうして、……――――――――……だろう……」
***
再会の瞬間。
胸を襲ったのは、喜びではなく、恐怖だった。
心の中に隠してあった想いが発芽して全身に根を張っていくのを感じ、俺は震えた。
憂いに満ちた薄紫色の瞳は何も変わらず、それでも、ゴルベーザの表情は優しかった。
あの頃とは違う。そう思わざるを得なかった。
彼が青き星から旅立った時、全て捨て去ったつもりだった。思い出を土に埋め、闇に葬り、自らの名前も忘れ――――だがそれは、過去と向き合うことが恐ろしかったからかもしれなかった。
自らの過去と対峙して、初めて知ったことがある。
どす黒い色をしていた『過去』は、振り返って見た時には、優しい色を持ち始めていた。思い出は風化していくものなのだということを知った。
あの人を主だと思い込んでいた『過去』ですら、今は遠い。
ただ、彼の寝顔を見てみたいと思った。
俺達は、いつも誰かと同じテントで眠るのが常だった。だから、ゴルベーザが「今夜は一人で眠りたい」と言った今夜しか、チャンスはなかった。
作り物の関係に溺れていた俺達は、操りの糸を失った今、どういう関係を持てば良いのだろう。
ゴルベーザが眠るテントに向かいながら、考え続けていた。自分は今、どうしたいのか。彼に、何を望んでいるのか。
テントの中に入り、もしかしたら起きているかもしれないと思い、声をかけた。
「……ゴルベーザ」
名を呼ぶだけで、指先が痺れる。この感情に、何と名付ければよいのだろう。
彼は眠っていた。小さな寝息をたて、瞼を閉じている。
跪く。久方ぶりに触れた手は、冷たくて、やわらかい。込み上げる痛みが懐かしくて、唇を噛んだ。
二度と触れられないはずだった。だから、想いを捨てようと思った。それなのに。
「……俺は…………」
目の前が、ぼやけていた。不鮮明な視界は暗闇と相まって、俺の目を塞いでいた。
頬に指を滑らせて、『これは夢なのではないか』と考える。ゴルベーザが目の前にいるだなんて、今でも信じられない。
「……どうして、お前のことを忘れられないんだろう……」
手のひらで顔を覆い、俯く。
再度訪れるであろう別れの時を迎えることが、怖かった。
もう、傷つきたくない。傷つきたくないから、触れたくない。そう思っていたのに触れてしまうのは、衝動を抑えられないからだった。涙を拭い、震える。
冷たくてやわらかい何かが、手の甲に触れてくる。驚き、目の前を見た。
「……お前の泣き顔を見るのも、久しぶりだな」
「あ……っ」
寂しげに微笑む彼は、俺の目元を拭い、ゆっくりと身を起こした。
「何かあったのか?私に出来ることなら――」
首を横に振り、立ち上がろうとする。そんな俺の心の奥底を掻き混ぜるかのように、ゴルベーザは俺の手首を掴んだ。
「何故、私を避ける? 先日話したきりだろう」
確かに、一度だけ話した。触れることも本心を言うこともできず、立ち尽くしているだけに等しかったけれど。
「……以前のように操られているわけでもなく、過去にとらわれているわけでもない。お前は、何を恐れているのだ」
「お、俺は……」
優しい瞳に射抜かれて、声を出すこともできなくなった。
どうせなら、冷たい瞳をしていてくれたら良かったのに。あの頃と同じ黒い闇の色を纏った彼であったなら、こんな気持ちになることもなかったろうに。
どのような態度で彼に接すればいいのか、見当もつかない。
「私が、怖いか?」
頭を抱き寄せられ、抗う理由すら見つからず、されるがままになる。彼の匂いが近くて、逃げ場もなくて。
「カイン」
俺の名を呼ばないでくれと思うと同時に、もっと呼んでくれと思う自分を見つけてしまう。
過去に引き戻されそうになり、後退った。あの頃と同じ夜の闇が、心の暴走を誘う。顎を掬い上げる指先、背を抱く冷たい手。俺は、この手管を知っていた。
唇を啄まれ、もう逃げられない、と思った。
「ん……っ」
「カイン……?」
悲しくなるほど、優しい口づけだった。
「もう二度と触れることは出来ないのだと思っていた。お前の青い瞳を見ることも……ないのだと」
「ゴルベーザ……」
「話してくれ、カイン」
抱き締められ、自分が求めていたのはこの腕なのだと再確認する。『お前のことで悩んでいたのだ』と告げたら、彼は辛くなるのではないだろうか。
「俺は、お前が怖い。お前と再開しなければ、こんな感情に支配されることもなかったのにと思う……」
彼の胸に顔を埋め、震える声に抵抗しながら、
「お前は、またいなくなる。それが怖くて堪らない」
背を抱いた。そのあたたかさは、本物だった。一度抱きしめてしまえば、もう二度と放したくなくなってしまう。俺は、こうなることを恐れていたのだ。
ゴルベーザは、言いづらそうに口を開いた。
「あの時の私が、月にお前を連れて行っていたとしたら――」
言いかけて、口を噤む。
「――いや、そんな『もしも』の話をするよりも、今は」
お前を抱きしめていたい、と。
けれど俺は、抱きしめられるよりももっと深いものが欲しくて。だから、彼の首筋に口づけた。
彼の理性を崩すにはこれが一番なのだと知っていたから、せずにはいられなかった。
大きく開かれた足が、恥ずかしい。
昔の俺はこんな格好を彼にさらしていたのかと悔やみながら、目を閉じる。
「ん……っ!」
耳をそばだてれば彼の吐息が聞こえて、それだけで胸が熱くなるのを感じた。
先端が埋まっていくのが分かる。尻たぶを開かれ、更に奥へと進まれ、理性が徐々に失われていく。
「あ、あぁ、あっ!」
括れの部分が入り込み、良い場所を擦った。
「……お前の顔を、もっと見せてくれ」
などと言われるものだから、堪らない。首を横に振るのだけれど、彼は許してはくれない。
「感じている顔が、見たい」
「や……いや、はずかし、い、あっ、ああぁ、あっ」
浅い場所を掻き混ぜられ、息をつく暇もない。顔を隠したいのに、手首を押さえられてそれすら叶わない。
彼は、遠くに行ってしまう。今はこんなに近くにいるという事実も、いつか、遠い記憶になる。
ゴルベーザを、忘れたくない。
だからもっと深くまで欲しい何度も欲しいと思うのに、彼の匂いを刻みつけられることが、恐ろしくて堪らない。
「カイン……本当は、お前と共に生きたかった」
何故、この人はこんな残酷な言葉を囁くのだろう。
優しいはずの言葉が、俺の胸を引き裂いていく。
本当に、この傷が風化する日は来るのだろうか。
この思い出が優しい色をする日が来るなんて、今は、想像することもできなかった。
End