彼が纏っている空気は、いつだって、鮮やかな赤色をしていた。
それは幼い頃から変わらず同じで、貫くような瞳もまた、同じだった。
私は、彼を知っている。
ゴルベーザ様に「あの男を殺せ」と命じられるよりも以前から、私は彼を見つめていた。
彼は、私の姿を知らない。けれど、私は彼を知っている。
睨み付けてくる彼の瞳は憎しみと熱を孕み、磔にされた両手首は、甘く芳しい血を流す。
「――ひでえ面」
これほど最悪な状況であるというのに、彼は唇に笑みを浮かべていた。
「俺を捕らえることができて満足じゃねえのか?……何で、そんな面してやがるんだ」
彼を穢したいわけではなかった。殺したいわけでもなければ、全てを奪い取りたいわけでもなかった。
彼の輝きが好きだった。モンスターとなってしまった私には決して得ることができない輝きが、私の胸を鷲掴んで離さなかった。
今はただ、胸が痛い。
***
モンスターになってすぐの私は、魔法一つ使うこともできない、単なる獣だった。
言葉を話すことも歩くこともままならない。思考すら、思うままに操ることができない。
歯痒さを覚えてばかりの日々の中、モンスターの体に慣れる為に、私は毎夜外を歩くことにしていた。
一歩足を進めるたび、きり、きり、と骨が軋んで悲鳴をあげる。
悔しくて堪らなくて、けれど自分が生き延びた理由は、きっとどこかにあるはずだと自問自答を繰り返しながら、草原の上を歩いていた。
そうやって歩き始めてから、三月ほどが経過した頃、私は彼に出会った。
幼い彼は小さな声で泣いていて、私の気配には気づいていないようだった。大きな木に背を預け、体を丸めて膝を抱えている。無数の魔物が彼を狙って、その瞳を輝かせていた。
彼が凭れているのとは正反対の場所へ背を預け、彼を狙うモンスター達に視線をやる。目が合ったモンスター達は逃げ出し、その後を追うように他のモンスター達も逃げ出していった。
この三月の間に、私は少しばかりの成長を遂げていた。以前とは違い、自らの体を自由に動かすことができるようになっていた。
まだまだ未熟だが、魔法を使うこともできる。
「どうした」
と声をかけると、しゃくりあげる声が止んだ。
「……誰?」
立ち上がろうとしたのだろう、かさ、と草の音がした。「振り向くな」と告げ、訊く。
「どうして泣いているんだ」
今思えば、私は人恋しかったのだろう。きっと、誰かと言葉を交わしたいと思っていたのだ。だから、彼に声をかけてしまった。
愚かな行為だと、自覚していたのだけれど。
拙い言葉で、彼は『忍術が上手く使えない、手裏剣が上手く投げられない』と口にした。
ニンジュツとシュリケン、あまり耳慣れない言葉に、私は首を傾げた。
無言になった私に何かを察したのだろう。
「忍術は魔法みたいなもん。手裏剣は武器だ」
と説明してくれた。
「……お前のような幼子に、そのような武器が使いこなせるのか」
「俺を子ども扱いするなっ」
「どう見ても子どもだろう」
「子ども子どもって……俺は大人になりてえんだ。もっと、力が欲しいんだよ。早く、親父みたいに立派な忍者になりてえ」
彼の言葉に、既視感を覚える。
私は、パラディンになりたくて力を求めていた、人間だった頃の自分のことを思い出していた。
「……焦っても、良いことはないぞ」
力を求め、求め過ぎて、私はこのような姿になってしまった。確かに力を得ることはできたけれど、このような姿になることを望んでいたわけではなかったのに。
「お前はまだ若い。焦るな」
「焦ってねえよ……」
「焦っているだろう。焦っているからこそ、自らの無力さに涙するのだ」
修行に明け暮れていた、過去の自分を思い出す。泣き腫らした目蓋もそのままに、魔法の練習をし続けていたあの頃。
そうして得た自らの力を過信し、力に溺れ、試練の山に登り――私は、人間としての人生を失った。
今なら分かる。あの頃の私には、パラディンに必要な“光”が足りなかったのだ、と。そして“光”を得るには、私はまだまだ未熟過ぎた。
「……焦らないでいたら……立派な忍者になれるのか?」
彼の実力を見ていない私にそれが分かるはずもなかったが、
「なれるかもしれんな」
期待を込めてそう口にし、私はその場を後にした。
それから毎日のように、私は彼の元を訪れた。
毎夜、彼はあの木の下で何がしかの鍛錬を行っていて、その頑張りようには目を瞠るものがあった。
気配を殺しながら、木の陰から、または木の上から見る彼は、私の存在に気づいていない。
だが幼かった彼の顔つきが大人びて少年から青年へと変わる頃、ついに彼は口を開いた。
「……そこにいんのは、誰だ?」
すっかり声変わりした声は、警戒を含んでいた。刀を構えている。
ついに、私の気配を感じられるまでになったか。
喜びを隠せぬまま、私は答えた。
「…………私は、ルビカンテだ」
生い茂る木の葉の間から、彼を見つめる。木の上を見上げている彼の瞳が美しい。緑の瞳を揺らしながら、彼は小さく呟いた。
「おめぇ、もしかして……ずっと昔にここで会った……!」
瞬間、彼は満面の笑みを浮かべ、
「おめぇに会いたくて、ずっとここに来てたんだ」
声を弾ませ、警戒を解いた。
「降りてきてくれよ。おめぇと、話がしたい」
優しく甘い、彼の声。降りるわけにはいかないと分かってはいるが、思わず誘われてしまいそうになった。
「……姿を現すわけにはいかんのだ。お前を驚かせたくはない」
言うと、彼は首を傾げた。そうしてしばらく考えたそぶりを見せた後、「おどろかねえって!」と予想通りの言葉を返してきた。
確かに、好奇心旺盛な彼ならば驚かないかもしれない。けれど、私はこの体を見せることが恐ろしかった。何年も眺めてきた天真爛漫で真っ直ぐな彼に拒否されることは、避けたい。傷つくことを恐れている自分を嘲笑いながら、
「……すまぬ、無理だ」
正直に告げた。
月明かりに照らされた緑色の瞳が、星のように輝いている。ちらちらと瞬くそれは恐ろしいほど真っ直ぐで、風に揺れている短い銀髪はとても柔らかそうだった。
「――じゃあ、このままでもいいから何か話をしようぜ!」
口元の布を下げて、にっ、と笑い、地面に腰を下ろした。
彼が私を“見て”いる。それだけで、報われるような気がした。会話することができる日がくるだなんて、思ってもみなかったことだった。
「おめぇの名前は……ルビカンテって言ったな。俺の名前はエッジだ。よろしくな」
初めて知った、彼の名前。唇は忙しく動き、目は嬉しそうに細められる。
“エッジ”は、フルネームではないだろう。知りたいという気持ちはあったがこれ以上深入りしては危険だと思い――もっとも、既に深入りしてしまっているとは思うのだが――訊くのはやめた。
「……おめぇに『焦るな』って言われてから、焦るのはやめたんだ。前に行きたいって気持ちだけが空回りしてても仕方がねえって気づいたから。今は、自分のやりたいようにしてる」
確かに彼は、楽しそうに修行していた。舞うように刀を操る彼は、見ている方の心を弾ませるような表情と動きで私を魅了した。
弧を描く月とよく似た刀が、まるで、彼の一部のように思えた。
「どんなことでも、楽しくやるのが一番だ。お前が刀を操っている姿を見ていると、余計にそう思わされる」
「見て、たのか?」
「……ああ」
彼の顔が、微かに赤くなる。
からかってやりたい衝動に駆られ、
「お前が刀を振るう姿が好きだ」
と口にしてみた。
案の定、彼の顔は更に赤くなった。
「ば、馬鹿なこと言ってんじゃねえっ!」
「本当のことだ」
調子が狂う、と言って、彼は俯いてしまう。
その顎を掬い上げてこちらを向かせたいという思いが一瞬湧き上がってきたが、それは叶わぬ願いだった。
近いようで、互いの距離は遠い。
もどかしさを胸に抱えながら、私は笑う。
顔を上げた彼は、やわらかく微笑んでいた。
逢瀬は毎夜続いた。
流石に嵐の夜は帰るよう促したが、彼は飽くことなく木の下にやってきた。
他愛無い会話の一つ一つがとても嬉しくて、私自身も彼に会えることを楽しみにしていた。
「ルビカンテ!」
彼が、満面の笑みを浮かべたまま私の名を呼ぶ。こちらに手を振り、駆けてくる。“今日あった面白い出来事”を身振り手振りを交えて話してから、刀を握る。
彼から目を離すことができない。
煌めく刀の切っ先が、私の視界を切り裂く。二本の刀を器用に操りながら、彼は跳ねる。
彼の背後にあるのは、鮮やかな赤色をした空気だ。額に汗を滲ませながら、彼はひたすら舞った。
『お前が刀を振るう姿が好きだ』。あの言葉は、決して嘘などではなかった。
日ごと上達していく彼の刀術は、見ていてとても楽しい。
ずっと、こんな日が続けば良い――。
そう思っていたある日、突然、彼は木の下に来なくなった。
私は、彼の住処も、フルネームも知らない。
絶望の淵に佇んだまま、毎日を過ごした。
彼と話すことを、何よりも楽しみにしていた。この頃の私はゴルベーザ様の命令で人を殺すようになっていて、どこかに安らぎを求めていたようだった。
どうして、彼は来なくなってしまったのだろう。考えても考えても理由は分からず、途方に暮れることしかできない。
そんな私を見て、ゴルベーザ様は笑った。人間嫌いのゴルベーザ様は、私が人間に執着していることを最初から快く思っていなかったのだろう。
小さな村を消し、様々な人々を殺し、いつしか、私の心は血の色に染まっていった。
死んでいく心と、埋めることのできない大きな穴。
考えてはいけない、と思った。考えたら最後、心だけではなく体も死んでしまうだろうと思った。
自分が生き延びた理由は、きっとこれだったのだ――ゴルベーザ様のために尽くすことこそが、私の生きる道なのだろう。
「ルビカンテ。次は、エブラーナだ」
暗闇のように深い黒を滲ませている、ゴルベーザ様の瞳。薄紫色をしているはずなのに、彼の瞳は闇の色をしていた。
「皆殺しにするのだ、ルビカンテ。できぬなら、王族だけでも殺せ」
「……では、王族を始末します」
殺す人数は、少ない方が良い。ただ、そう思った。
***
鮮やかな色をした血が、ぼたぼたと地面に滴り落ちた。どさり、重い音。女に寄り添うようにして倒れた男は、もう動かなかった。
幕切れは呆気ないもので、人間という生き物は何故こんなにも脆いのだろうと思わざるを得ない。
私自身も人間であったはずなのに、そんなことは忘れてしまっていた。
城に、空虚な風が吹く。
部下からの報告で、エブラーナの民達は皆洞窟に逃げ込んだと聞いた。エブラーナの王子は外出中であったようだ、とも。
民にはもう用がない。あとは、王子を殺すのみだ。
形のない何かが、胸の中でちりちりと音をたてる。
既に事切れているエブラーナ王の、血に濡れた銀の髪。
悲鳴をあげることなく死んでいったエブラーナ王妃の、閉じられた目蓋の向こう側にあった緑色の瞳。
どこかで、似たものを見たことがなかっただろうか。
まさか。
確かにあの木はこの城のすぐ近くにあるけれど、エッジがこの国の王子であるはずがない。
『次はエブラーナだ』と言って笑ったゴルベーザ様の声が、蘇ってくる。
殺す人数は少ないほうが良いと思った直後、エブラーナがあの木の傍にある国だということを思い出していた。
彼だけは、殺したくなかった。私の前に姿を現さなくなった理由は分からなかったけれど、彼だけはその命を繋いでいて欲しいと願っていた。
彼は私の心の中で小さな光として存在していて、そこを穢されたが最後、私は本物のモンスターになってしまうだろう、そう思った。
エッジが王子である可能性は限りなく低い。何せ、王子はたった一人しかいないのだ。
銀色の髪、緑の瞳。エブラーナではありきたりのものかもしれないその髪色と瞳の色に、心臓を鷲掴みにされる。
この二人が、エッジの両親だったら――――。
「……馬鹿馬鹿しい」
呟く声が、孤独に響く。
彼は、幾つになったろう?過ぎた年月を数え、エッジが26歳になったことを知る。
触れることすら叶わなかった彼のことを思うだけで、何故こんなにも胸が締めつけられるのだろう。
一刻も早く、王子を捕らえよう。そして、この任務を終わらせよう。
ゴルベーザ様の為に尽くしていれば、こんな感傷など跡形もなく消えることだろう。
相手は忍びだ。長期戦になるだろう。そう思っていた。
だが数日後、“王子を捕らえた”という情報が、私の耳に飛び込んできた。
エブラーナの王子とは、実力を伴わないお飾りの王子だったのか。拍子抜けし、部下に牢屋に入れておくよう命じた。
湿った地下牢で、王子は何を思うのだろう。
父と母を殺した私を、どのような瞳で睨みつけるのだろう。
地下牢へ続く階段は古く、饐えたにおいに包まれていた。水の滴り落ちる音は妙に耳障りで、それと同時に、荒い息遣いが聞こえてきた。
壁に掛けられている蝋燭の灯りに照らされて、薄ぼんやりと王子らしき者の影が見える。
はあ、はあ。
血の香りが漂っていた。手にしたカンテラで足元を照らし、徐々にその灯りの位置を上げていく。
血で汚れた下衣。
素早さを重視した、頼りない防具。
上下している薄い胸。口元からずり落ちたであろう紫色のマント。
そこまできて、思わず叫びだしそうになった。
ただ真っ直ぐに私を睨みつけている、緑色の瞳。
やわらかそうな、銀色の髪。
見間違えるはずがない。目の前にいたのは、焦がれてやまなかったエッジの姿だった。
両手首を拘束され、壁から伸びている鎖に繋がれている。
どうして、だとか、あんなに修行していたお前が簡単に捕まるはずがないだろうだとか、色々な言葉が口をついて出そうになったけれど、結局何一つ口から出てくることはなかった。
声を出せば、私があの木の上にいた『私』でいることに気づかれてしまう。
輝く思い出を守りたくて、口を閉ざした。
あの頃の私と今の私は別人だと、信じたかったのかもしれない。
身長が伸び、細めだが体格も良くなった。昔のように話したいと思うけれど、そんなことが叶うはずもない。
『ルビカンテ!』
幼さを残す彼の笑顔が、蘇ってくる。
私は、彼の両親を殺してしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。
微かに震える手で鍵を開け、牢の中に入る。
顔の近くまでカンテラを近づけると、何故か彼は金貨を唇に銜え、静かに微笑んでいた。
***
彼の、優しい声が好きだった。
『昨日より上手くなったな』、『よく頑張ったな』。
いつだって、彼は俺のことを見守ってくれていた。
茂った葉の中にいる、彼の姿を探したこともある。彼に触れてみたくて、彼の目を見つめてみたくて、それでも、彼の姿を見つけることはできなかった。
今思えば、何らかの魔法を使っていたのかもしれない。いつしか、俺は彼の姿を見つけようとするのをやめた。
皆が寝静まってから、城を抜け出す。彼に会いたくて、あの木へ一目散に向かう。彼は、黙って待っている。
俺は、木を見上げて口を開く。
――ルビカンテ!
笑みを浮かべている。きっと彼は、優しい顔をしている。嬉しくて、俺は笑う。
もっと上手に刀を扱えるようになるから、手裏剣も、上手く投げられるようになるから、だから、もっと笑って。もっと、褒めて。もっともっと、もっと。
『お前が刀を振るう姿が好きだ』
心に直接響いてくる、声。
俺は、お前のおかげでここまで来ることができたんだ。
お前に抱いてはいけない新たな感情を見出してからは、怖さで足が竦んで、あの木の下へは行けなくなってしまったけれど。
好きなんだ、ルビカンテ。
声から察するに、お前は男なんだろうけど。姿を見ることも、叶わないけれど。もう会うことも、できないけれど。
『焦っているからこそ、自らの無力さに涙するのだ』
俺は、焦らない。お前のあの一言で、前に進むことができたから。
親父とお袋が殺されて、国は瀕死の状態で――それでも俺は、焦らない。
きっと、逆転の機会は訪れる。その機会を待つんだ。
わざと捕らえられた方が、手っ取り早く仇に会うことができる。拘束を解くのなんて、朝飯前だ。
口に含んだ金貨には細工がされていて、歯を立てると小さな刃が現れる仕掛けになっている。
刃先で鍵穴を穿ると、錠前は呆気なく解けた。
ほぼ同時に、何者かが階段を下りてくる音が聞こえてきた。
目を閉じ、耳を澄ます。精神をぴんと張り詰める。強い魔力の気配を感じ、同時に炎のにおいを感じた。
黄色い瞳と、目が合う。牢の扉が開かれ、俺は笑った。牢の鍵を破る手間が省けた。
かしゃん。
想像していたよりも軽い音をたてて、手錠が落下した。赤いモンスターは、驚いて目を見開いている。チャンスだと思った。
体を少し屈め、素早く駆け出す。
目隠しなどはされずにここまで連れてこられたから、どういう道を行けば家に帰ることができるのかは、ちゃんと分かっていた。
よし。何とかなる。皆のところへ、帰ることができる。
モンスターの脇をすり抜けて、湿った地面を蹴って走る。
「く……っ!」
階段を駆け上がり始めたその途端、炎の壁が目の前を塞いだ。
振り返れば、モンスターは首を横に振っている。
まるで“この炎の向こうに行けば、お前は死ぬことになる”とでも言いたげな悲愴な顔をこちらに向けながら、俺の腕を掴んだ。
「は……放せっ!」
火遁が効かないことは分かっていた。なぜなら、このモンスターは火を扱うモンスターなのだから。
腕を引かれ、大きな体に抱き込まれる。もがく俺を軽々と抱き上げ、牢屋内の鎖の傍へと連れて行く。手錠を施錠する音が、空しく響いた。
舌打ちした俺の口の中に、太い指が入ってくる。口の中にまだ何かを隠しているのではないか、と思っているのだろう。
ぎりぎりと歯を立てても、モンスターは声一つあげなかった。
舌先に感じるのは鉄の味だ。唾液混じりの赤い血が顎を伝う頃になってやっと、指が引き抜かれた。
「……何で、殺さねえんだ?」
両親を殺すことに成功し、王子である俺を捕らえる事ができた今、俺を生かしておく理由はないはずだ。
会話することができないのか、言葉の意味を理解していないのか、それとも、その両方なのか。モンスターは、一言も口をきかなかった。
***
少しでも負担を減らしてやりたいと思い、鎖を長めにした。エッジは首を傾げ、あの頃と変わらぬ眩しい色をした瞳で、私の顔を不思議そうに見つめていた。
逃がすわけにはいかなかった。逃がしたが最後、殺さなければならなくなる。
ゴルベーザ様は、王族を殺せと言った。エブラーナの民の士気を奪うことが最大の理由であったが、その他にも理由があった。
王族の者は皆、他の民達よりも強い術や技術を持っている。それを受け継がせないためにも――というのが、ゴルベーザ様の考えだった。
『ならば、民達の元へ、人間の元へ戻らせなければ良いのですか』
そう訊いた私に、ゴルベーザ様は『ああ』と答えた。
彼はとても愉しげな表情を浮かべていて、少しだけ、嫌な予感がした。
「なに、これ。新しいペット?」
エッジを捕まえてから、三日が経過した。
モニター越しに牢屋の中を眺めながら、バルバリシアは「あんたが人間をペットにねえ」と呟いた。
「……ペットではない」
「じゃ、何なの、あれ」
「人質だ」
「人質?」
「そうだ」
監視能力のついているモンスター“アイズ”が、牢屋の中を映す。セピア色の画面に映し出されているのは、鎖に繋がれたエッジの姿だった。
忌々しげにこちらを見つめている。その瞳は、強さを失っていなかった。
「何で、殺さないの?あんなの、処分しちゃえばいいじゃない」
小首を傾げながら、バルバリシアは呟いた。彼女が抱いた感情はモンスターとしては至極全うなもので、けれど、私はそれを認めるわけにはいかなかった。
他の人間であれば、殺していたかもしれない。だが、エッジだけは別だった。
幼い頃から、彼の姿を見つめてきた。彼は苦労を重ね、今の力を手に入れたのだ。
彼が積み上げてきたものを、一瞬で壊す。そんなことは、考えたくもないことだった。
「あ!」
バルバリシアが、素っ頓狂な声をあげた。
向けられた視線の先。モニターの向こうにいるのは、エッジと――ゴルベーザ様の姿だった。
エッジの顎を摘み上げ、何事かを口にしている。ゴルベーザ様の顔を睨みつけ、しばらくしてから、小さく頷いた。
「何を話してたのか、気になるわね」
興味津々といった表情で、バルバリシアが目を細める。無関心を装い、その問いに首を横に振った。
唇を尖らせて、「つまんないの!」と、彼女は風を纏い、消えてしまった。
彼の世話をするのは、私の役目だった。
彼のことが心配で、彼の傍にいたくて、私は世話役を自ら買って出たのだった。
ゴルベーザ様が彼に何を囁いたのか気にならないわけではなかったが、私はエッジ本人に尋ねる術を持っていない。恐ろしくてゴルベーザ様に訊く事もできぬ私は、どうしようもない臆病者なのだ。
エッジのことでなければ、こんな感情に襲われることはないのに。
差し出したスプーンに一瞥をくれて、エッジはふいと横を向いた。ここに来てから、ずっとこうだ。
水はそれなりに口にするのだが、食べ物は少ししか口に入れようとしない。
以前より微かに痩せた体を捩り、彼は言った。
「……食欲なんかねえよ。食べたい時は、自分で食べる」
少し前までの彼は、逃げようと躍起になっていた。例え食事をとらなくても、獣のような瞳で、私を食い殺さんばかりの勢いで、暴れることもあった。
なのに、今はどうだ。何故、彼は生気を失っているのだろう。
理由ははっきりとは分からないが、見当はついていた。
ゴルベーザ様と話をしていたあの日から、彼は変わってしまった。ゴルベーザ様は、エッジに何を言ったのだろう。
「…………出てけ。さっさと、出てけよ」
ぐい、と口布を上げ、片膝を抱え、俯く。
「出てけ」
ぞくり、背筋に悪寒が走った。
不安定な空気に、幼子であった頃の彼の涙を思い出さずにはいられなくなる。自信をなくし道に迷い、未来を見失っていた頃の、彼の姿を。
――エッジ。
何度、声をかけようとしただろう。
どうした、と、あの頃のように優しく語りかけようとしただろう。
決して行動に移すことはできないと分かっていながら、何度も、何度も、衝動に突き動かされてしまいそうになる。
踵を返し、牢を後にした。
***
知っているんだ。確証のない、馬鹿馬鹿しい約束だってことは。
ゴルベーザと名乗る男は、笑いながら俺に囁いた。
『お前が大人しくしていれば、エブラーナには手出ししない』
馬鹿馬鹿しい口約束だった。
でも、俺には頷く以外の道は残されていなかった。首を横に振れば、民達にこの男の手が伸びる。すぐに飛んで行ってみなを守ってやれるほど、俺は自由の身ではなかった。
目の前に迫る、モンスターの牙を睨みつける。
べろり、首筋を這う、生温かい舌の意味を知らないわけではない。
はあ、はあ、はあ。荒い息を吐きながら、ぎらついた瞳でモンスターは俺を値踏みする。髪を、目を、手を足を。全身を眺め、今夜の餌の状態を確認する。
大人しくしていれば、それでいいんだ。
大人しくしていれば、俺以外は傷つかずにすむ。
いや、俺だって傷つきやしないさ。こんなもの、犬に噛まれたようなもんなんだから。
目蓋を閉じる。
布を切り裂く音が、聞こえる。
涙が滲みそうになる。くそ。二度と泣かねえって、決めたのに。そんなもんは、あいつと初めて会ったあの夜に、全部置いてきたはずなのに。
涙を、ぐっと堪える。
俺が我慢すればいいんだよ。辛い思いをするのは、俺だけでいいんだから。
獣の唸り声。首に、牙が突き刺さる。
「あ、ああぁ……っ!!」
でも、でも。本当は、自信がないんだ。
本当に、この道は正しい道なんだろうか。俺は、間違っていないだろうか。
脳裏を過ぎるのは、あの男の優しい声だ。
「……ルビ、カンテ……」
小さく小さく呼んでみた。どこにいるかも分からぬ男の名を、呪文のように口にする。
「ルビカンテ……ッ」
なあ、俺は間違っているんだろうか。
体を真っ二つに引き裂くような激痛が走り、その後は、何も考えられなくなった。
水の滴る音が、俺の目蓋を開かせる。
天井から水滴の一つが落ちてきて、俺の頬を伝った。
体中が、痛くて痛くて堪らない。起き上がることもできず、ゆっくりと体を丸めた。
饐えたにおいが鼻をつく。それは、獣のにおいだった。下半身は血と――口にもしたくないようなもので滑り、どうしようもないくらい、全てがどろどろだった。
このままだと死んでしまうかもしれないと思ったが、それはないだろうと思いなおす。
食事を持ってきたり体を清めるものを持ってきたり、何かと俺の世話を焼きにくる奴がいることを思い出したのだ。
あのモンスターは、喋る能力こそないものの、人の言葉は理解しているようだった。なのに、俺が悪態をついても嫌な顔一つせず毎朝毎夕やってくる。
眉一つ動かさず俺の世話をする男は、俺のこの姿を見てどんな顔をするのだろう。
自嘲の笑みを浮かべながら、階段の方を仰ぎ見た。
赤い影が、歩み寄ってくる。
噂をすれば、というやつか。
何だか面倒くさくなって、また目蓋を閉じる。驚くあいつの顔を見られないのは残念だったが、眠くて仕方がなかった。
体が熱くて、だるくて、息が苦しい。
最後に耳に届いたのは、何かが割れる音だった。多分、あいつが食器か何かを落としてしまったのだろう。
笑い出す気力もないまま、暗い夢の世界へと落ちていった。
***
「……エッジ」
私の声は、聞こえていないらしかった。
「エッジ!!」
体を丸め、肩で息をつき、目蓋を閉じている。触れた額は酷く熱く、微かに汗ばんでいた。
初めて彼に触れることができたというのに、それが、こんな状況だなんて。
全身が、精液と血に塗れている。
どうして。誰がこんなことをしたのだろう。
回復魔法を唱えれば、傷が癒え、熱が引く。けれど、彼は目を覚まさなかった。疲労が溜まっているのかもしれない、そう思った。
心臓が激しく脈打ち、何もかもを壊してしまいたい衝動に駆られる。
苛立ちは頭を蝕み、同時に、息苦しさを覚えるほどの胸の痛みがやってきた。
おそらく、ゴルベーザ様は、彼を縛り付ける言葉を囁いたのだ。今の彼は、例えこの鎖を解いたとしても逃げ出そうとはしないだろう。
「……彼を、どうするおつもりですか」
背後から近づいてくる足音に、静かに問いかけた。
「モンスター達が飽きるまで、奴らの好きにさせるだけだ」
「…………飽きたら、その後は?」
「お前にくれてやろう。その王子で、好きに遊ぶといい」
「ゴルベーザ様……っ!」
振り向いて睨みつけても、漆黒の兜が嗤っているばかりだ。
「モンスターが飽きる前に、彼は命を落とします」
「お前が回復してやれば、死なぬ」
「彼の心が、死にます」
抱き上げた体は軽かった。背筋に震えが走るほど、頼りない重さだった。更に引き寄せて抱きしめようとすると、鎖がぴんと真っ直ぐに張り詰める。
怒りに任せて呪文を唱えると、鎖の中心が赤くどろりと溶け始め、切れて落ちた。
「心が死んだ人形では駄目なのか?」
皮肉なのかと思ったが、ゴルベーザ様の口調は本気のそれだった。本当に、理解できないらしい。
心を失ってしまったら、彼は笑わなくなってしまう。泣くことも、怒ることもなくなってしまう。銀の髪と緑の瞳が手に入ったとしても、心を手に入れられなければ意味がない。
「ゴルベーザ様は……」
“人を愛したことがないのですか”
訊こうとして、やめた。
どうしようもないくらい、意味のない質問に思えたからだった。
指を動かし掻き出せば、とろとろと白い液体が流れていく。目を覚ました彼は、抵抗一つせずに私の腕に抱かれていた。
浴室の排水溝に精液が飲み込まれ、消えていく。
「……余計なことしやがって……」
ぐるりと内部で指を回すと、彼は肩を震わせる。大量に出された精液は、エッジが何度も犯されたという何よりの証拠だった。
「なあ……」
掠れた声だ。
「……お前も、俺を犯すのか?」
既に“心”を失っているような、感情のない声で呟く。
指を引き抜くと、彼は息を詰め、肩を震わせた。
「国の皆を守れるなら、これくらい何ともねえ……お前も、犯りたきゃ犯りゃあいい」
壁にあるスイッチを押すと、湯が、雨のように降り注ぎ始めた。少し癖のあるエッジの髪が、猫の耳にも似たかたちで垂れ、力を失っている。
彼を、ここから逃がしてやりたい。けれど逃がした瞬間、ゴルベーザ様はエブラーナの民を殺しに行くだろう。その光景を見てエッジが何を思うのか。そんな事は、想像したくもなかった。
だがこのままでは、彼はモンスターにいいように嬲られるだけの毎日を送るだけなのだ。
髪から垂れた湯が、彼の頬を滑り落ちていく。それが涙のように見え、指先で拭った。
「最近気づいたんだけどよ……おめぇの気配……昔の知り合いに似てるような気がするんだよな」
心臓が大きく跳ねる。夢見るような眼差しで、エッジは微笑んだ。
「ま、ずっと前の話だから、俺が覚えてる気配ってやつも怪しいとこなんだけど」
疲れきった瞳に、胸が痛くなる。
「あいつ、今頃何してんのかなあ……俺がいなくなったあとも、あの場所に来てたのかな……」
お前が来なくなってからも、諦めきれなかった私は、何度もあの木の元を訪れていた。でも、お前は一度たりとも姿を現しはしなかった。
私はここにいる。口をついて出そうになる言葉を、飲み込む。
「……俺は、あいつのことが好きだった。…………でも、怖くなって、逃げ出しちまったんだ。日に日に膨れ上がっていく感情が、怖くて堪らなくて」
エッジが、私のことを?
「あいつが姿を見られることを嫌がってるってのは分かってたけど、それでも、見たくて覗いちまいそうになって……そんな自分が凄く嫌で」
饒舌になっていく薄い彼の唇を、指先でなぞる。彼は、自分がどのような表情をしているか分かっているのだろうか。
「おめぇの持ってる気配が、あいつに似てるからかな。おめぇの隣にいると、何か、俺――――」
泣き笑いのような表情は、あまりにも痛々しかった。
顔を近づければ、吐息が触れ合う。
愛おしさに満ちた胸が軋む。激しい衝動に突き動かされ、唇を重ねた。
ただ、悲しいほど饒舌な彼の唇を塞いでしまいたかった。
焦がれてやまなかった彼の肌。触れることなど永遠に叶わないと思っていた。願いは叶ったが、素直に喜ぶことはできない。
それなのに微かな喜びを感じてしまっている自らの心が、酷く汚らしいもののように思えた。
彼の体を床に横たえ、濡れた髪を撫でる。
真っ直ぐな眼差しが、私を見ていた。
「……どうせなら、“犯す”んじゃなくて、“抱いて”くれ」
こちらに手を伸ばしながら、
「夢くらい、見させてくれたっていいだろ……?」
彼は、私に『ルビカンテ』の影を重ねているのだ。
目蓋を閉じ、私の背に手を回す。
「好きだ、『ルビカンテ』。……ずっと前から、おめぇのことが好きだった……」
好きという言葉が、刃物のように私の胸に突き刺さった。
甘いはずの告白が、こんなにも痛いものだなんて。
私の姿を見せずにしてやりたいと思い、裂いたマントの切れ端で彼の目を覆った。
寒さからくるものなのか、胸の突起は痛いほど尖っていた。指先でそっと愛撫すると、呼吸が僅かに乱れる。人差し指を滑らせ、脇腹を撫でた。
「……ん、んん……っ」
舌で口腔を探りながら、下腹部に手を伸ばすと、緩く立ち上がりかけている彼のものが震えた。
“犯す”のではなく“抱く”ために、丁寧な愛撫を施していく。
しばらくの間だけでも、彼に夢を見させてやりたかった。
「ひ……あっ!」
張り詰めたペニスを、口に含む。
背を仰け反らせながら、甘い声をあげて彼は達した。
丁寧に解してからようやく中に入り込むことができた。
足を折り曲げ、腰を揺する。よくこんなものが彼の中に、と思うほど、彼と私の体格差は大きかった。
「あ……あ、あぁ……っ!」
赤黒くて醜いものが、彼の中を蹂躙する。
最奥まで突き入れ、次はぎりぎりまで引き抜く。他のモンスター達が出した精液が掻き出され、彼の肌を伝った。
激しい嫉妬が胸を焼く。
「もっ、と…………動いて……くれ……」
くちゅ、くちゅ、という淫猥な音が、浴室に反響する。
拡がりきった秘部は限界を訴えて赤くなり、閉じることを忘れた唇は一筋の唾液を垂らしていた。
「あぁ、あ、あっ……う、あ、んっ」
肌を蠱惑的な色に染め上げながら、喘ぐ。彼が腰を揺らめかせる場所を探りながら、自らの快楽を追った。
「……ルビカン、テ……、ルビカンテ……ッ!」
膝裏を持って深く挿入した途端、彼の顔と胸元に彼自身の白濁が散った。
彼の浅く荒い息に絡めとられ、本能に支配されていく。
探り当てた彼の良い場所を何度も何度も擦りながら、脇に手を差し込んで細い体を抱き上げる。深くなった結合に掠れた喘ぎを漏らし、彼は私の腕に爪をたてた。
限界が見え始める。
再度達したらしい彼のペニスから出るのは、透明の液体のみだ。
同時に起こった激しい締めつけに陥落し、欲望を解放した。
「ひああぁ……っ!!」
がくがくと震えている体をきつく抱きしめ、より奥を穢すために、逃げようとする腰を引き寄せる。
「……中、が……なかが……熱い…………」
彼は、熱に浮かされ、うわごとを漏らす。
もうやめてやりたいと思う心とは裏腹に体はエッジを貪ることを求め、ただ食い殺すためだけに再度、腰を揺すぶり始めた。
――――エッジ。私も、お前のことを。
心の中で、口にした。
彼を、助けてやりたかった。
エッジは度々熱を出し、それでも、モンスター達と体を繋ぐことをやめようとはしなかった。
彼の心が死んで石になっていくさまが見えるのに、どうすることもできない。
突き上げさせた細い腰に圧し掛かりながら、モンスターが吼える。その光景は見慣れたものになっていて、けれど、私の心は荒んでいくばかりだった。
唇を噛み、声を押し殺し、エッジは密やかに熱い息を漏らす。
四つん這いになった膝には血が滲み、無慈悲なモンスターは、それすら加虐の道具にしようとする。傷のできた膝を撫で、自らの快楽だけを追いながらモンスターは腰を振った。
「ひ、あ、あ……っあぁ……っ」
暫くの後、エッジの唇が綻び始めた。とろり、唾液が滴る。
頬は紅潮し、瞳は甘く蕩けていた。
薬が効き始めたのだろう。
「……あ……っ……!」
私は、数日前から彼の食事の中に媚薬を混ぜるようになっていた。
彼が苦しまずに済むのなら――その気持ちが、私を突き動かす。
快楽に喘ぎ腰を振り始めたエッジの表情は何もかもを捨て去っていて、これで良かったと思う反面、後悔の念を抱かずにはいられない。
死んでいく、彼の心と表情。
私が焦がれたのは、軽やかに駆け、満面の笑みを浮かべる彼の姿だった。他愛もないことで笑い、照れ、真っ直ぐな瞳をこちらに向けてくる彼が愛おしくて堪らなかった。
『ルビカンテ!』
弾むような彼の声が、鮮やかに蘇る。
二体のモンスターに襲われている彼の姿とその声は、どうやっても重ならない。
我慢がきかなくなったのか、一体のモンスターがエッジの口に自らのペニスを捻じ込もうと銀の髪を鷲掴む。
途端、細められた目から、涙が滑り落ちた。
「……ルビ、カン、テ…………ッ」
初めて会ったあの夜以来、見ることがなくなっていた彼の涙だ。
どんなに辛かろうと、決して涙を見せることはなかったのに。
――甲高い音をたてて、私の中で何かが割れた。
目の前が真っ赤に染まり、びちゃりと濡れた音が響く。血に濡れた巨体二つを部屋の隅に転がしてから、自らの行いに気づいた。
モンスター達は、私の攻撃で絶命していた。
床が、鮮やかな赤色に染まっていく。
エッジの頬にも血が散り、それでも、彼は正気に戻ることができない様子だった。荒い息を漏らしながら、体を横たわらせ、私の方に手を伸ばしてくる。
彼を逃がすと、エブラーナの民達の命がない。
けれど、このままでは彼が死んでしまう。上目遣いの瞳に滲む情欲が、彼の心を徐々に殺していくことだろう。
伸ばされた手を握り、彼の体を手繰り寄せる。
掻き抱いた体は血生臭い。しかし首筋に顔を埋めれば、彼自身の香りがした。
私の背に爪をたて、彼は、
「ルビカンテ……」
記憶の中の『ルビカンテ』の名前を呼ぶ。
悦楽を求めて震える背を壁に押しつけて片足を持ち上げると、粘着質な精液が流れ出た。既に濡れ準備する必要もない場所に、猛りを思い切り突き立てる。
「ああぁ…………っ!!」
快楽を求めてか、ぎゅう、と内壁が締まった。
いつの間にか、彼の体は受け入れることに慣れてしまっている。
このままで良いのか?本当に、後悔しないのか?お前は、彼の心を見殺しにするのか。
自問し、虚ろな瞳を見つめる。
「あ、ひぃ、あぁ……っ、ん……っ!」
腰を掴み、ひたすら揺さぶる。
ぼろぼろと零れ落ちる涙は止まることを知らず、ただ、彼の胸を冷たく濡らしていく。
『焦っているからこそ、自らの無力さに涙するのだ』
自分で言ったあの言葉が、自分に跳ね返ってくる。泣きだしたい気持ちに襲われながら、“何故、やりもしないうちから諦めようとするんだ”と自らを罵倒する。
彼を逃がし、エブラーナの民を助ける道を探せ。考えろ。どうすればよいのか、考えるんだ。
だが、独りでは駄目だ。独りでは、道を見つけることはできない。
嫌われても構わない。恨まれても、殺意を抱かれても構わない。彼が笑顔で生きていてくれるなら、それでいいではないか。
エッジが吐精し、体を弛緩させる。自らのものを引き抜き、彼の体を横抱きにした。
喧しく心臓が鳴り、口の中がからからに乾く。
言え。必死で、唇に命令した。
「……エッジ」
閉じかけた彼の目が、驚愕に見開かれる。
「エッジ。……私だ」
どこにそんな力が残っていたのか。
くるりと身を翻し、彼は地面に降り立った。
***
快楽を訴え、体が震える。混乱した頭がぐるぐると回り、呼吸をおかしくさせた。心なしか、視界も回っている。
「エッジ」
そんな。この男が、ルビカンテだったなんて。
この男から離れたくて、後ずさる。けれど、両手首に填められた手錠がそれを許さない。
胸が痛くて、息が苦しくて、『騙された』という思いが心を締めつけて、どうすれば良いのか分からなくて。
「……来るな……っ」
ルビカンテにだけは、こんな姿を見られたくなかった。
伸ばされた手を振り払い、太陽の色をした瞳を睨みつける。優しい色の瞳は崩れかけた心を瓦解させようと、静かな光を湛えていた。
どんなことを考えながら、俺を抱いていたんだ。お前のことが好きだと口にした俺を、心の中で嘲笑っていたのか?
では、昔――あの木の下で――交わした言葉の数々も、全て嘘だったのか。
何もかも、まやかしだったのか。
「…………っ」
どろり。
嫌というほど注ぎ込まれた液体が、内腿を伝って落ちた。
どろどろに汚れたシャツの胸元を握りしめ、冷えた壁に背をつく。ルビカンテは何も言わず、悲しげな表情で佇んでいる。
そんな目で、俺を見るんじゃない。
ルビカンテと過ごした日々の思い出が穢されてしまったように感じられた。
「……俺に近づいたのも、作戦の一つだったのか?俺を殺すために、おめぇは最初から……!」
優しく、時に厳しかったルビカンテ。お前の言葉を胸に、修行を続けてきたのに。
「……そうではない」
「じゃあ何なんだ!これは一体どういうことだ!!何で、今まで黙ってたんだよっ!!」
「エッジ。……お前の両親を殺したのも、お前の国を襲ったのも、皆、私なのだ。だから、私はお前に真実を告げることができなかった」
思い切り頭を殴られたかのような衝撃に見舞われ、首を横に大きく振る。
「う、嘘だ……っ」
「お前に出会ったのは偶然だった。お前の両親と知らずに、私は『エブラーナの王と王妃を殺す』という任務を全うした。この牢で再会するまで、お前がエブラーナの王子だということは全く知らずにいた」
「おめぇが、親父とお袋を……」
目の前にいるのは、両親の仇なのか。それとも、焦がれてやまなかった想い人なのか。
眩暈に全身を支配されながら、ぐらつく心と体を支えようとする。
止まっていた涙が、また滲んでしまいそうになった。泣かないと決めたはずなのに、俺の心はすっかり弱ってしまったみたいだ。
「……本当に、すまなかった。謝って済むことではないとは分かっているが、謝らせて欲しい。……分かるだろう?私は、お前に想ってもらえるような男ではないのだ」
ルビカンテは、寂しげに微笑んだ。
「お前は人間の王子で、私はモンスターで…………初めから、交わってはいけない者同士だった」
体を裂かれて死んでいる足元のモンスター二体を見下ろすと、短剣が転がっているのが見えた。血に濡れているそれを拾い上げ、構えの体勢をとる。ずきずきと胸が痛み、足が馬鹿みたいに笑った。
忍びの者は皆幼い頃から、毒薬の知識を頭に叩き込まれる。だから、食事に何らかの薬を入れられていたことには、最初から気がついていた。俺は媚薬入りと知りつつ、食事を口にしていたんだ。
あの薬を飲んで、ぐらぐらする頭のままでこの男にしがみついていることが、とても嬉しかったから。
幼い頃には触れることも、見ることすら叶わなかったルビカンテに触れられているような気がして、本当に嬉しかったんだ。
ルビカンテが間合いを狭めてくる。俺は震え、伸ばされた手に向かって短剣を振るった。肉を切り裂く感触が生々しく指先に伝い、ぼたぼたと垂れては落ちる血を見つめ、
「殺してやる……っ!!」
自分に言い聞かせる為に、大声で叫んだ。
「……今のお前には、無理だ」
「黙れ!!」
「薬には気づいているのだろう?効果がでている間は、歩くこともままならないはずだ」
「黙れって、言ってるだろ!!」
「……昔、教えただろう?勇気と無茶は違う、と。お前はすぐ、燃えさかる炎の中に飛び込んでいこうとするから」
「勇気でも無茶でもねえ、これは……これは……っ!!」
再度、手が伸びてくる。大きく振り上げた手を、力いっぱい振り下ろした。肉の音に混じって骨の割れる音が響き、大きな手の甲から、短剣の切っ先が顔を覗かせた。
「な……っ!」
貫通、した。
ルビカンテは、一切防御をしなかった。
短剣を持つ俺の手を引き寄せ、耳元に唇を寄せる。
「お前をここから逃がす。エブラーナの民達も、殺させない」
「けど、俺がここから逃げたら、あの真っ黒い鎧を着た奴が……!」
「…………バロンという国を知っているか」
唐突な質問だった。
バロンは大国だ。知らないわけがない。
「……ったりめぇだ」
頷くと、ルビカンテは話の続きを口にした。
「あの国にいる『セシル』という者が、ゴルベーザ様が差し向けた刺客を次々と倒し、こちらへ向かって来ている。彼らに協力を求めれば、お前と国、両方を救うことができるやもしれぬ」
「……どうやって、そんなことを……」
「セシル達と協力して、ゴルベーザ様を殺すのだ。お前ほどの力があれば、足手纏いになることはないだろう」
驚き見上げた先にあったのは、短剣が刺さったままの手だ。その手から光が溢れ、みるみるうちに傷が塞がり始め――乾いた音をたてて、短剣は地面に落下した。
ルビカンテは、ただ笑っている。優しい瞳で、俺を見ている。
「…………回復してやろう。薬の効果は消せないが、傷を癒すことはできる」
「なあ、ゴルベーザって、あの黒い奴のことだろ?じゃあ、おめぇは?……おめぇはどうするんだよ。あいつがいなくなったら、おめぇは……」
大きな手のひらが、俺の頬を撫でる。溢れ出す淡い光が、俺の全身にある牙の痕や引っ掻き傷を消していった。
最後に俺の顔を汚している血を自らのマントで拭い、ルビカンテは口を開いた。
「……仇を、とって欲しい。お前の両親の仇を、お前自身の手で」
意味が分からなかったのは、ほんの一瞬のことだった。
抱き上げられ顔が近づき、今にも唇が触れそうな距離で囁かれる。
「お前は、幼い頃に遊んだ『ルビカンテ』ではなく、お前の両親の仇である『私』を倒すのだ」
じりじりと脳が焼けつく。
この男は、何を言っている?
涙が零れ落ちそうになり、目蓋を閉じる。幼い頃、あの木の下で感じていた『ルビカンテ』の気配を感じながら、男の首に手を回した。
痛いくらいに掻き抱かれ、涙が零れ落ち、体温の高い首に顔を埋める。
「……ルビ、カンテ……ッ……こんなのは、嫌だ……!だって、俺は……っ!」
「…………お前が愛した『ルビカンテ』も、お前のことを愛していた。あの男にとって、木の下でお前と過ごした時間だけが、本当に幸福な時間だったのかもしれぬな」
男の背に爪をたて、嗚咽を押し殺す。
目蓋の裏に焼きついている幸せな日々の光景を思い出しながら、ただ、泣き続けた。
End