我慢して、我慢して、我慢して、自分の本性がどれなのかすら分からなくなった頃、黒竜はその姿を現した。
 幼い私にとって、黒竜は私の友人で、ただ一人の理解者だった。
 子竜だった黒竜はいつしか大きな体を持つようになり、私を守るようになった。黒に染まった見た目に反して無邪気な性格をしている黒竜は、常に私の傍にいた。
 黒竜の体は、とても冷たい。氷のようなそれに、生き物らしい温もりはない。ただ血の色をした瞳だけが、鈍い光を放ってこちらを見つめているだけだ。
 真夜中になると、寂しさを訴えて黒竜は啼く。その背を撫でて、私は共に眠りにつく。子どもの色を滲ませた啼き声は、胸に深く突き刺さる。
 異常なまでに冷たい、黒竜の肌。
 私はもう、子どもではない。だから、黒竜が普通の生き物でないということには気づいている。
 黒竜は、私が私の心を殺す度に大きくなっていく。人間の心を殺して闇に近づこうとすればするほど、夜、声を枯らして啼く。
 おそらく、黒竜は私の心なのだ。私の『人間らしさ』の塊なのだ。
 どうやって生まれたのかは分からない。幼い頃の私は「友人が欲しい」と泣いていたから、無意識のうちに黒竜をつくり出してしまったのかもしれない。
 冷たい体を抱きしめる。
 小さく啼いて、黒竜は一滴の涙を零した。


***


 心を殺すことには慣れていた。
 弟を捨てて逃げ出した私の目の前に広がっていたのは、這いつくばって土を食べるような、惨めで暗い現実だった。その現実から逃げるため、私は心を殺した。
 ぐさ、ぐさ、と何度も何度も胸の奥底にある感情を刺して殺した。何らかの色を持っていた心が、血の色を含んで固まって、黒へと変色していった。
 黒になってしまえば、もう何にも染まらず生きていけると思っていた。
「………………母さん……」
 瞼を閉じる度に浮かぶのは、母の笑顔と、それから――――。
 涙が零れた。
 握りしめた草のにおい、涙で濡れた地面が色を変える。
(ねえ、何で感情なんてものがあるんだろう)
(何で、悲しいの。痛いの。寂しいの)
(何で、僕の傍には誰もいないの)
 本当は、弟を抱きしめていたかった。でも、抱きしめていたら殺してしまうかもしれないと思った。
 いとおしい弟。いいにおいのする、可愛い弟。
 でも、弟が生まれたから母さんは死んだ。弟は何も悪くない、分かっていたのに、自分を止められそうもなかった。
 だから、弟を捨てた。
 体の中に巣食う憎しみと孤独、それから得体のしれない塊が、人間としての心を奪っていった。

『人間が憎いか?』

 頭の中に、声が響く。
 人が憎いのか、何が憎いのか。
 ただ、“全部なくなってしまえばいい”という考えが、全てだった。
 心の中の闇に手を伸ばす。闇は優しく笑っている。だんだん息ができなくなってくる。喘ぎながら、空気を求めて地面を掻く。
 笑い声、耳が痛い、入ってこないで、僕の中に入ってこないで、ねえやめて、痛いから、やめて、お願いだよ、僕を見ないで、汚いんだ、汚いから、こんなに汚いってこと、誰にも知られたくないんだ、もう見ないで、お願いだから見ないで、母さんには知られたくない、こんな僕を見たら、母さんはきっと泣くよ、ああ違う、きっと僕を嫌いになるよ、僕は誰にも抱きしめてもらえないよ、ずっと独り、独りで、ねえ、息が苦しい、頭がいたいよ、頭が


「――――――――ゴルベーザ様!!」
 色をなくした顔が、こちらを見下ろしていた。
 思わず手を伸ばすと、指先が濡れた頬に触れた。蝋燭の焔に照らされ、金の髪が微かに揺れているように見えた。涙の冷たさで、目が覚め始める。
 ああ、そうだ。私は眠っていたのだ。
 何十年も前の夢を、見ていた。飢えに喘いでいた夜は、もう遠い昔のことなのに。
「……ひどく、うなされておられました」
 私の体の上に跨っている痩身の男は、微かに震えていた。まるで彼自身がうなされていたのではないかと思ってしまうほど、切ない表情をしている。
 自らの頬をぐいと拭い、彼はベッドから飛び降りた。瞬間響いた音といえば衣擦れの音だけで、足音は一切しなかった。「御無礼を、お許し下さい」呟いて、床に跪いた。
 何のことだ、と思う。起き上がってベッドに腰掛けて、それからようやく気がついた。
「…………私の体に跨ったことなら、もう良い」
 カインは作法に煩い。私が気にしていなくても、カインはこういうことを気にしすぎる傾向にある。カインはうなされている私を起こそうとして、私に跨ったのだろう。責める理由はどこにもなかった。
 指を伸ばしてまさぐった。金の髪はやわらかかった。「何も、お前が泣くことはないだろう」と言うと、「感情が流れ込んできて、どうしようもありませんでした」と彼は顔を上げた。
「ゴルベーザ様に触れていると……触れられていると……胸が痛くて堪らなくなる瞬間があるのです。言葉で言い表すことのできない感覚が、痺れのように流れ込んできて」
 洗脳の術から来るものだろうか。初めて聞く現象だった。
「……何故、私がうなされていると分かった?お前は部屋に戻ったものと思っていたが」
 私の手をそっと両手で包み込み、彼は微かに笑った。眦に涙を残したままのその笑みは、ひどく不安定なもののように思えた。
 蝋燭の焔のように揺らめく感情が、透けて見えている。
 ちり、り。
 焦げたにおいが立ち昇ったと思った瞬間、淡い灯りは掻き消えていた。
「……あっ」
 咄嗟に立ち上がって火を灯そうとするカインの腕を引いた。腕の中におさまった体を抱きしめ、温かさを確かめる為に首筋に顔を埋める。
「ゴルベーザ様……?」
 彼が抵抗しないということは知っていた。抵抗できないということも。
 シーツの上に押し倒し組み敷くと、彼は浅く息を吐き、死を待つ者のように力を抜いて瞼を閉じた。
 こみ上げる虚しさを押し退けて、青空のにおいのするしなやかな体を抱きしめる。
 カインが操られている身であろうとも、この温もりだけは真実だった。
「黒竜が」
 薄く開かれた瞼の向こうには、暗闇の中でも光を失わぬ青い双眸があった。
「黒竜が、教えてくれたんです。……ゴルベーザ様がうなされているということを」
 どこからともなく現れた黒竜が、ぺろりと私の頬を舐める。それを見て、カインは嬉しそうに笑った。滅多に見られない、優しい微笑みだった。
「見た目はちょっと厳ついけれど、彼はとても優しい竜ですね」
 黒竜は、私の頬から離れて今度はカインの頬を舐めた。
 彼のくすぐったそうな表情が、私の中の何かを刺激し、揺さぶる。
 黒竜の黒い皮膚を撫でていた彼は、震える声で小さく言った。
「……見た目は厳ついけれど、本当は優しい。思うんですが、それは何だかまるでゴルベーザ様の――――」
 唇を重ねれば、彼はあっという間に口を閉じた。
 黒竜が、切なげに啼く。その声に胸の奥を裂かれ、息苦しさに喘ぎ、カインの指に指を絡める。
 ただ、この温もりだけが真実だった。



 End




Story

ゴルカイ