緑の瞳に射抜かれた。
 不遜な笑みを浮かべ、彼はそこに立っていた。

「……よう。この辺りをこそこそ嗅ぎ回っている馬鹿でけえモンスターってのは、おめぇか」
 月の光を受け、刀身は静かに輝いていた。
 微かに血のにおいが漂う。おそらく、彼はここへ来るまでに何体かのモンスターを倒してきたのだろう。モンスターの血のにおいに混じって、人間の血のにおいがする。彼自身も怪我を負っているようだった。
 傷ついている者と戦う趣味は、私にはない。無視をしようと決めて、視線を逸らした。
「エブラーナを調査して、何をするつもりだ?」
 しゅ、と風の音がしたと思えば、次の瞬間、私の首には刀の切っ先がつきつけられていた。
「答えろ」
 薄紫色の布に覆われ、彼の顔の全貌は分からない。切れ長の瞳は刃物のように冴え、その奥底には自信が宿っていた。相当腕に覚えがあるのだろう。
 途端、苦々しい記憶が蘇り、酷く嫌な気分になった。
「……その問いに答える気はない」
「てめぇっ!」
 刀が、私の喉を切り裂く。返り血が彼の顔にかかった。回復魔法を手早く唱え、間断なく炎を放つ。
 寸でのところで避けた彼は蹲り、ぎらぎらとした瞳でこちらを見上げた。
「…………くそ……」
「怪我をしているのだろう? お前のような子どもと戦うつもりも、怪我人と戦うつもりもない。家に帰れ」
「誰が子どもだ!」
「むきになるところが子どもだ。どうせ、家の者に何も言わず、ここにやってきたのだろうが……」
 ちっ。小さく鳴った舌打ちは、肯定の音だった。
「……俺は子どもじゃねえ。もう二十三歳で、大人だ」
「…………二十三歳? とても、そうは見えんな……」
「だ、黙れ! 人が気にしていることをさらっと言いやがってっ!」
 面白い反応だった。堪らず笑い出した私に斬りかかってきた彼だったが、頭を鷲掴みにしてその場から動けぬようにしてやると、じたばたとぜんまい人形のように脚をばたつかせ始めた。それがまた面白くて、更なる笑いが込み上げてくる。
「離せよ、この野郎っ!」
 ぱっと手を離すと突然の動きに対応できず、彼の体が地面に沈む――直前で抱きとめると、やけに軽い体が、腕の中に収まった。
 甘く香る血のにおい。それに混じるのは、花の香りだ。
 刀が、音をたてて落下する。
 暴れようとする体を抱きしめ、回復魔法をかけた。
「……っ!」
 驚いたのだろう。彼の体が、暴れることをやめた。
「こんな酷い傷を抱えていながら私に切りかかってくるとは、いい度胸だ」
「……んなの、掠り傷だ」
「ほう。お前の国では、抉れるほどの傷を『掠り傷』というのか」
「……うるせえ……」
 彼の体は熱く、熱を帯びていた。怪我からくる発熱。ここまでくると、勇気ではなく単なる無茶なのではないだろうか。
「はな、せ……っ!」
 無理矢理に私の腕をすり抜け、地面に降り立つ。刀を拾い上げて構えをとるその姿は無駄一つなく、美しく、眩しかった。
 胸の奥が酷く疼く。
 鮮やかな緑の瞳の光彩に、息が苦しくなった。
「腕に覚えがあるようだが……その『自信』が、お前自身を滅ぼすこともある。忘れるな」
 何ごとかを喚こうとした彼を無視し、テレポを唱える。
 ごう、と炎の音が耳元で鳴り、視界も炎の色に染まり、何も見えなくなった。



 あれは、過去の自分自身へ放った言葉だった。
 自信によって身を滅ぼしてしまったのは、他でもない、私自身だったのだ。
 様々な魔法を操り、パラディンになることを夢見た自分。己の力を過信し、望んだものにはなれずに、試練の山で死んだ。
 ゴルベーザ様によって新たな生を与えられたが、こんなものは、紛い物に過ぎない。私が今持っている力は、モンスターの体が持つ力なのだ。
 本当は、人間の体で――――人間のままで、強い者、望んだ姿になってみたかった。もう、決して叶わぬ夢物語なのだけれど。
 無性に、あの男に会いたくなった。真っ直ぐなあの瞳に、射抜かれたくて堪らなくなった。
 瞳と同時に思い出されるのは甘く蕩けるような血の香りで、そんな感情を持ってしまう自分に自己嫌悪せざるをえない。
「髪は銀で瞳は緑。齢は二十三歳だ。できるだけ早く調べろ」
 部下に告げ、部屋を後にする。
 カイナッツォ辺りが『職権乱用だ!』と言うかもしれない。
 思いながら、更なる調査を進める為にエブラーナへと向かった。



 数日後、青年の正体が明らかになった。
「エブラーナの……第一王子……」
 私の表情に何かを感じ取ったのだろう。報告しに来た部下は私の手に書類を残し、そそくさと退室してしまった。
 隠し撮られた写真と簡素な説明が、書類には記されていた。
「……エドワード、か」
 写真の中で彼は、屈託なく、眩しい笑顔を浮かべている。布で覆い隠された口元は、どのようなかたちをしているのだろう。流石に「この男の素顔を調査してこい」と命ずるのは気が引けて、自分で盗み見るしかないか、と思う。
 同時に、何故こんなにもこの男に執着しているのだろう、と自分で自分が分からなくなってしまった。
 あのままでは、あの男は身を滅ぼしてしまうだろう。過去の自分を見ているようで、酷く落ち着かない気分になる。
 彼に力があるのは認める。だが、過信していてはいけない。後悔とは、後からやってくるものなのだから。

『エブラーナを調査して、何をするつもりだった?』

 蘇るのは、棘のような声だ。
 調査して、何をするつもりだったのか。その答えは簡単だ。
 私は、ゴルベーザ様の命により、エブラーナを滅ぼすつもりだった。ゴルベーザ様の命令は一言、
「皆殺しにしろ」
 それだけだ。
 内部から崩壊させようと、外部から攻め立てようと、やり方は問わない。ただ、一人残らず殺せ、と。
 冷徹な言葉と瞳の裏には、何もありはしない。人の心を持たぬ、ゴルベーザ様の声。人間らしからぬ漆黒の鎧を身に着け、彼は私に命令する。逆らうことは、許されない。
 本当は、外部から攻めて崩すつもりだった。モンスターの大群が押し寄せてくれば、あんな小国は一溜まりもない筈なのだ。
 だが、気が変わった。
 あの王子を一瞬で消すのは惜しい。
 あの王子に近づこう。近づいて、内部から崩してしまおう。
 何故か、ちくりと胸が痛んだ。微かに残った良心が、震えたのかもしれない。これまでも、様々な人間を殺してきたというのに。
 何を今更、と自嘲して部屋を出た。



 部下の報告書で知った彼の部屋は、エブラーナ城の一角にあった。まるで隠し部屋のような部屋だった。
 テレポを唱えて中に入り、見回す。月光だけが辺りを支配し、部屋はしんと静まりかえっていた。
 微かに香るのは花に似たやわらかな香の匂いで、彼の体から漂っていたのはこの香りか、と納得する。
 王子は留守なのだろうか。
 美しい薄紫色をした布が、ベッドの主を隠すかのように天井から吊り下げられている。天蓋か、と思いながらベッドに近づくと、薄布でできた天蓋の向こうでこちらを睨みつけている男と、目が合った。
 気配は全く感じなかった。これほどまでに気配を殺すことができる人間がいるものなのか、と驚く。同時に、男の異常に気がついた。肩で息をし、額に汗をかいている。熱があるようだった。
「……まだ、完治していなかったのか」
 あの時回復魔法をかけてやった筈なのだが、それでは不十分だったのだろう。彼は、怪我からくる高熱に苦しめられていた。
「う……るせえ……」
 緩慢な動作で身を起こし、ぶる、と頭を振る。動物のような仕草に面白さをおぼえて思わず笑うと、彼は舌打ちをし、傍に立てかけてあった刀に手を伸ばした。
「……今度こそ、始末、してやる……!」
「やってみるといい。……本当にできるものならな」
 覚束ない足取りで立ち上がり、彼は挑発に乗ってきた。変わった形の夜着――確か、キモノと呼ばれるものだったか――は、ぐしゃぐしゃに乱れてはだけている。ただ何故か、口元に巻きつけられているマフラーのようなものが、乱れずにきっちりと彼の口元を守っていた。
 確か、以前に会ったときにも口元が隠されていたように思う。
 この布にはどういう意味があるのだろう。少し、気になった。
 浅く焼けた肌が、汗ばんでいる。ゆっくりと上下し、鼓動と息の速さを語る。獣じみた瞳。手負いの獣は相打ちを狙っているように見えた。
「死ぬ気か?」
 彼が大声を出せば、兵士達が駆けつけてくるだろうに。どうして、一人で斬りかかってこようとするのだろう。
「……さあな」
 挑発的な態度に、何かがこみ上げてくる。覚えのある感覚だった。汚らしい、と自嘲した。どうしてこんな子どもに、と節操のない自分に嫌気がさし、視線を逸らした。逸らす直前に見た彼の瞳は、小さな笑みを湛えていた。
 心を見透かされてしまったような気がして、自己嫌悪の念が更に酷くなる。
 途端訪れた静けさに、耳の奥がきいんと痛んだ。
「なあ」
 彼の声が、響く。見てはいけない、と察知し、窓の外の月を見やってやり過ごそうとする。甘く妖しい響きを持つ声が、心臓をぎりぎりと鷲掴み、放さない。
 熱からくる荒い吐息。重なるように響く、微かな衣擦れの音。喉の奥で彼がわらい、弾かれるようにそちらを見た。
 彼は、ベッドに浅く腰掛けていた。脚を大きく開いている。布の隙間から見える細い脚の間にあるのは、シーツに突き立てられた銀の刀だった。
「俺に欲情してんのか?」
 日に焼けていない白い腿が、視界に飛び込んできた。
「……紳士的に見えたけど……やっぱりお前もモンスターなんだな」
 ただの子どもだ――そんな印象が、覆された。彼が纏う空気にただただ溺れ、飲み込まれてしまいそうになる。
 肩からずり落ちた服が、わざとらしく劣情を煽っていた。
「……子どもと戦う趣味はないと言っただろう? 勿論、子どもを抱く趣味もない」
「子どもじゃねえって」
 と、微かに頬を膨らませる。
 ああ、まただ。また、ただの子どもの表情に戻った。
「くそ、調子が狂っちまう。…………俺を殺す気はないんだな? じゃあ、何で俺の部屋に忍び込んだんだよ」
 お前の素顔が見たかったのだ、とは言えなかった。
 それでは、まるっきり『夜這い』ではないか。
 他の理由がないかと思い、考え、一つの答えを口にした。
「……お前は、己の実力を信じ過ぎている。そうお前に教えてやりたいと思ったのだ」
「俺に?」
「ああ」
 彼は、驚いた顔をして固まった。
「……何のために?」
 もっともな質問だった。本当のところ、確かな理由は私にも分からなかった。
 いや、もしかしたら分かっていたのかもしれない。私は、彼を簡単に死なせたくはなかったのだ。
 一番の理由であるはずの『この青年に近づきエブラーナを内部から壊す』という考えは、どこかへ消し飛んでしまっていた。
 どうして、こんなにも気になってしまう?
 どうして、目が離せないのだろう。
「…………ま、確かに、お前の言うとおりかもしれねえな。おめぇは、俺が想像していた以上に強そうだ」
 そう言ってから、彼はふわりと微笑んだ。
 背に、甘い痺れが走る。彼の微笑みはあの写真のものとよく似ていて、あまりにも屈託なく、優しかった。
「殺す気がねえってんなら……もうあっちへ行け」
 舌打ちし、どさりと後ろに倒れてしまった。
「眩暈がする……」
 脚の間にあった刀が、ずるりと抜けて白い腿を掠めた。慌てて近づき顔を覗き込むと、潤んだ瞳で見上げてくる。汗ばんだ胸が目の前にあった。腿には赤い筋が走っている。刀傷だった。
「全く、何をしているんだ」
 方膝を掴み、もう片方の手を翳して回復魔法をかける。汗ばんだ肌に触れたことで、元々高い私自身の体温が、更に上がったような気がした。頭が狂う血のにおい。ぶるりと頭を振り、熱を下げることに専念した。
「……目が離せんな……」
 結局その夜は、彼の熱が完全に下がるまで傍にいた。
 肝心の彼は、気を失ってしまって目を覚まさなかったのだが。



 次の夜も、私は彼の元を訪れた。
 兵士が待ち構えているかもしれないと考えていた私の思考を壊したのは、バルコニーに佇む彼の姿だった。
 朝方ベッドで眠っていた彼の顔は穏やかなものだったが、今はといえば、とても複雑そうだった。
「こ、これじゃあ……てめえに、礼、言わなきゃならねえじゃねえか……」
 いかにも不本意という風な彼の言い方に棘は含まれておらず、それが好ましく思えて銀の頭を撫でると、むんず、と手首を掴まれた。
「すまぬ」
 見上げてくる、緑色の瞳が美しかった。月明かりに照らされ、煌めいている。彼に触れたいと思ってしまった自分自身に驚きつつ、一瞬だけ触れることのできた、やわらかな感触を噛み締めた。久しぶりに感じた、人間のぬくもり。胸に根ざし始めた感情に、苦しさを覚えた。
 ――――私は、この生き物を殺さなければならないのだ。
「サ、サンキューな」
 私の手を掴んだまま、彼は呟くように言った。
 小さな手だった。刀を握るせいだろうか、節ばっておりたこもできていたが、それでも、その指は細く滑らかだった。
「爺が……ああ、爺ってのは俺の家族みてえなもんなんだけど。爺が、怪しんでたよ。こんなに簡単に治るはずがないって」
 おめぇ凄い術が使えるんだな、と。無邪気な笑顔を浮かべた。
「おめぇって、ほんと変なのな。この辺を嗅ぎ回ってたかと思ったら、俺の部屋に入ってきて怪我を治したりさ。そんなことするモンスター、おめぇ以外にいねえよ」
「……だろうな」
 風が強く吹き、私も笑う。驚くほど平和な無言が訪れ、穏やかな気持ちになった。
「若ーっ! 若!!」
 それを掻き消してしまうほどの大声がどこからか聞こえてきて、
「やべっ! 逃げるぞ!」
 彼に手を引かれ、その場を後にした。



 彼に導かれるまま、私達は森にやってきた。優しい風が吹き、木々がそっとざわめく。すばしっこい彼についていくのは少しきつく、呼吸が荒くなったが、振り向いた彼の表情を見ればそんなものは吹き飛んでしまった。
「後で爺にどやされちまうなぁ」
 私の手を握りしめたまま、彼は照れくさそうに微笑んでいた。
「……王子」
 どう呼べばいいのか分からず、そう口にする。彼は首を横に振った。
「エッジでいい」
 やっと、彼の領域に入ることを許されたような気がした。
 微かに響く虫の声、白く光る、月。全てが、彼を彩る材料だ。
 何故か、胸が痛かった。
「エッジ、か」
「そうだ。……おめぇは? 何て名前なんだ?」
「私の名は、ルビカンテだ」
「……ルビカンテ」
 彼が―エッジが――私の名を呼ぶ。それだけで、錆び付いていたはずの私の中の何かが動き出したのが分かった。
 感情ほど不必要なものはない。そう思っていたはずなのに、彼を見つめているだけで、世界が色鮮やかに蘇っていく。
 父を憎み、見返したくて試練の山に登り人間としての命を落としたあの日、私の心は死んだはずだったのに。
 なのに、どうして今更?
 人間であった時でさえ、このような感情に支配されることはなかった。何故なら、修業に明け暮れる日々は、荒んだ感情しかもたらさなかったからだ。
 不思議そうな表情でこちらを見上げているエッジに抱くこの感情の正体を、私は知らなかった。
「……おめぇ、別にエブラーナをどうにかしようとしているわけじゃなかったんだな。疑って、悪かったよ」
「それは……」
「ほんと、悪かった」
 するり、小さな手が離れていってしまう。
 違うんだ、エッジ。謝らなければならないのは、お前ではなく、私なのに。
 だから、お願いだ。謝らないでくれ。
 私はお前を殺さなければならないのだ。お前の愛する人々を、国を、何もかもを壊してしまわなければならないのだ。そんな私に、「悪かった」だなんて言わないで欲しい。
「立ち話もなんだし、座ろうぜ!」
 大きめの石に腰掛け、エッジはちょいちょいと指で地面を指してみせる。指された通りの場所に腰掛けると、石の高さによって、目線が彼と同じ位置になった。
 深入りをしてはならない、それは分かっていた。このままではいけないと、もう一人の私が頭の中で叫んでいる。
 だが、私は頭の中の声に従うことができなかった。彼をもっと知ってみたかった。彼と話し、彼を傍で感じていたかった。
 『お前はモンスターで、彼は人間なんだぞ』――――頭の中で、声がした。
 『違う。彼に近づき、エブラーナを内部から壊す情報を得ようとしているだけなのだ』――――自分自身に、醜い言い訳をする。
 実に、白々しい嘘だった。


***


 目の前にいるばかでかいモンスターは、さっきから難しい顔をしてじいっと黙りこくっている。その横顔を眺めているだけの時間に飽きてきて、
「ルビカンテ」
 名を呼ぶと、モンスターは、はっとした表情をしてちょっとだけ唇の端を上げた。
 モンスターの傍に呑気に腰掛けているだなんて、おかしな話だ。
 だが何故か、ルビカンテに攻撃をしかける気は起きなかった。
 ルビカンテは変なやつだ。エブラーナ周辺を調査していた癖に、俺のことを殺す気はないという。それどころか、「己の実力を過信するな」と教えに来たりして。
 まあつまり変なやつなんだなと納得して、俺はルビカンテに尋ねてみることにした。
「前も訊いたと思うんだけどよ。『己の実力を過信するな』って、何でわざわざ俺に言いに来たんだ? おめぇはモンスターで、俺は人間だろ。おめぇの得になることなんて何一つねえじゃねえか」
 上がっていた唇が、すうっと下がってしまう。
「ルビカンテ……?」
 俺の頭を撫でて、ルビカンテは痛い顔をした。
「…………私は昔、人間だったのだ」
 目を見開いた俺を見て、「本当のことだ」と月を見上げ、
「人間だった頃の私は、パラディンを目指していた。パラディンになることだけを考え、修業に明け暮れる日々を送っていた。私は父と折り合いが悪く、だからこそ私は、『父を越えたい』と思っていた。私は、必ずパラディンになれると思って試練の山に登った。……今思えば、根拠のない自信だったが、その時の私は、自信があったのだ。だが結局試練を超えることができず、私は倒れてしまった。……あの時の私とお前が少し似ているような、そんな気がしてな」
「じゃ、じゃあ、何でおめぇはここにいるんだよ? 死んだんだろ……?」
「死んだといえば、死んだのかもしれん。試練の山で血塗れになって倒れていた私を、ある方が救って下さったのだ。私は人間としての体は失ったが、代わりに、この体を手に入れた」
「モンスターの、体を?」
「そうだ」
 『ある方』とは誰なのか。一瞬問おうかと思ったが聞いてはならぬことのような気がして、やめた。俺の頭を撫でる手は大きくて、まるで自分自身が子どもになってしまったような、そんな気分になってしまう。その手からは火の匂いがして、まるで焚き火の傍にいるみたいだな、なんて思ったりもした。
 父親を越えたくて、修業をする――そんなルビカンテの気持ちが、分からないわけではなかった。俺だって、親父を越えたいと思っている。でも俺と親父は仲がいいから、完全に理解するということはできそうになかった。
 一体、こいつはどんな気持ちで修行に励んでいたのだろう。
 寒さを覚えて着物の襟を引き寄せると、「寒いのか?」とルビカンテが声をかけてきた。頷くよりも早く、暖かいものに包み込まれる。ひょいと抱き上げられて移動させられ、気がついたらルビカンテの腕の中にいた。
 あったけえ。確かにあったけえ、けど。
「……不満か?」
 後ろから俺の顔を覗き込み、伺うように呟く。その姿は何だか情けなくて、あまりにもでかい体とは不釣合いで、面白かった。
「不満だ」
 困り顔が、より酷い困り顔になった。広い胸に頭を預け、「嘘だって!」と言ってみた。
 どうしてこんなことを許しているのか、自分でもよく分からなかった。
 ただ、人間のものとは違う体温が、俺の心を落ち着かせる。
「……へへっ」
 照れくさくて、笑った。見た目は凶暴なモンスターそのものだが、ルビカンテの中身は――心は――どんな人間のものよりも人間らしいもののように思われた。人間だったときはどんな顔をしていたんだろう、どんなやつだったんだろう、と考える。でもまあそんなことは今はいいか、と頷いた。
 過去なんて関係ない。今のこいつが、全てだった。
「……花の、香りが」
「ん?」
「お前はいつも、花の香りをさせているのだな」
「あー……臭うか? 忍者が香のにおいをプンプンさせててどうするんだって爺には怒られるんだけど、血の臭いが取れないからたまに焚いてるんだ。ほら、最近モンスターが増えてきただろ? どうしても、染みついちまって取れなくて…………あっ」
 モンスターであるルビカンテの前で、こんな話をするべきではなかった。猛烈な後悔に襲われて膝から下りようとすると、ルビカンテは俺の体を抱きすくめ、肩に額を預けてきた。
「……かまわん。お前達人間を傷つけているのは、私達モンスターだからな」
「けど」
 訪れたのは、静寂だった。
 どこかで鳥の声がする。そのさえずりに耳を傾けながら、ルビカンテの頭に手をのばす。どこもかしこも熱があるみたいに熱くって、湯たんぽみたいだった。
「……また明日、会えるか?」
 自信なさげな声に、ルビカンテの緊張を知った。太い腕に力が篭っているのが分かる。
「会えるさ」
 頷き答えて、膝から飛び降りた。
「また明日会おうぜ!」
 ルビカンテが、立ち上がる。
 あれ? と思った。俺を見つめる瞳には、違和感が滲んでいた。
 寂しそうで、切なくて、痛くて、息が苦しいようなそんな表情。
 ルビカンテは何かを言おうとしたのか一旦口を開き、でも、結局は何も言わなかった。
「俺とおめぇは友達だろ? そんな顔しなくたって、すぐ会える」
「友達……」
「おう! 友達だ」
 ルビカンテの温もりを失った体が、寒さを訴えている。ようし走って温めてやろう! と心に決めた。走り出した俺の背に、ルビカンテが話しかけてきた。
「また明日、お前の部屋に行く」
 ぴらぴら、と手を振って、エブラーナ城へ戻った。


***


 エブラーナの民や兵士に見つかっては危険だ。
 ということで、私達が会う場所は徐々に移動していった。
 最初は彼の部屋だったものが、いつしか森や海辺へ移動し、今では――――。

「……おい、おいってば! 聞いてんのか? ルビカンテ」
「…………あ、ああ」
 今では、私の自室で会うことが定番となっていた。私が彼を城の近くまで迎えに行き、それからテレポで私の部屋へと向かう。
 ただ話をするだけの関係だったが、それは私にとってかけがえのない時間だった。
「だから、夜中に出かけるなって、爺がうるせえんだって。友達と会ってくるって言っても、信用してくれねえんだよ。本当のことなのにな」
 「今日泊まって、明日の朝出てくから」と彼は着物(浴衣と言うらしい)に着替え、まるで自分の部屋のようにくつろいでいる。
 ベッドの上をごろごろと転がってから、手足を伸ばして伸びをする。その姿を猫のようだと思いながら、まあ信用してもらえないのは当然だろうな、と考えた。
 単なる『友達』と会うだけなら、昼に会えばいい。昼に会うことができない理由をその爺とやらに告げていないのだとすれば、爺に同情せざるをえなかった。大方、どこかの女に入れ込んでいるとでも思っているに違いない。
「心配してくれる人間がいるということはそう悪いことではない」
 言うと、彼は不満げに眉根を寄せた。
「何度も言うけど、俺はもう大人なんだよ。何の術も使えねえあまちゃんなんかじゃねえ。そこら辺にいるモンスターなんかには、ぜってえ負けねえ」
「でも、私には勝てないんだろう?」
「……おめぇは、違うだろ。俺に襲いかかってきたりしねえしな」
「信用されたものだな」
「だって、友達を襲うやつはいねえだろ?」
「私はモンスターなのだぞ? いつ理性を失ってしまうか、それは私自身にも分からぬ」
 エッジの顔が、悲しげに歪んだ。小さく小さく「馬鹿」と口にし、彼はゆっくり身を起こす。あの夜のように、私は彼から目を逸らした。逸らした先では、丸い月がわらっている。窓枠の中に絵画のように填っている二つの月は明るく、部屋の灯りを落としても問題はないと思われた。
「ライト」
 呟くと、部屋を照らすものは月明かりのみとなった。
 エッジが、こちらに――窓際に――近づいてくる気配がする。私のマントをぎゅうっと引っ張り、しばらくの間佇んでいた。
「…………んで、そんなこと言うんだよ」
 振り向くと、緑色の瞳に白く光る月が映り込んでいた。今にも泣き出しそうに、潤んでいる。感情を簡単にあらわにする彼に羨ましさを覚え、細い顎をすくい上げた。
「私は」
 エッジの肩がぴくりと揺れたのが分かった。
「私は、私自身を信用していない。いつか誰かを襲うかもしれない、殺してしまうかもしれない。そう思って、生きている」
 ゴルベーザ様の命令に従って人を殺したことは何度もあったが、理性を失ったことは一度もなかった。だが私は、理性を失って本能の塊になり、単なる獰猛な獣になってしまったモンスター達を何体も目にしてきた。
「私は、お前の命も奪ってしまうかもしれない」
 これは警告だった。
「お前の大切な人達を、殺してしまうかもしれない」
 首を緩く横に振り、けれど絶句しているらしい彼は言葉らしい言葉を発しようとしない。
 美しい瞳。布に隠された向こう側では、唇が震えているのかもしれなかった。
「……俺は、おめぇを信じてる」
 震える声に、怯えはない。
「おめぇが信じてなくても、俺は信じてるから」
 ただ、嬉しかった。だがその喜びの裏にはきつく締めつけられるような痛みがあった。私を信じてはならない。何度も、そう口にしようとした。
 殺そうと思えば、いつでも殺してしまえる。
 だって、彼はこんなにも近くにいる。
 細い喉元をさらし、寝顔をさらし、私に抱きついてくる。
 彼の信用が痛かった。真綿で首を締められているかのように、息が苦しくなっていく。
 私の首に腕を回し、
「…………おめぇのこと、やっぱ好きだ」
 甘い声で、彼はそう言った。
 胸が喧しく鳴り始めた。友人として好きなのだ、ということは分かっている。それでも、彼の言葉に感動している自分がいた。
「そういう馬鹿真面目なとこがいい」
 抱く腕に力が篭っていた。
 理性が吹き飛んでいってしまいそうだ。
 この場合吹き飛びそうなのは、男としての理性だった。香の甘い匂いと彼の匂いが混じり合い、鼻腔を擽る。彼の体を暴いてしまいたいという考えが頭を支配し、下腹部が疼いた。
 密着した体を慌てて離すも、もう遅い。目を丸くした彼は私の下腹部を見、再度絶句していた。
「…………俺に、欲情してんのか?」
 掠れた声に、脳に巣食う埋め火が嗤う。
 確か以前も、この質問を投げかけられたことがあった。
「俺を、どうしたいと思ってるんだ……?」
 本当は心のどこかで、彼の血肉を貪り喰いたいと思っていた。
 それと同時に、細く小さな体を暴きたいとも思っていた。
 思う存分彼を『食べて』、満腹になりたいと望んでいた。
 それらは全て、認めてはならない感情だった。例え実行に移すことがなくても、この感情の存在を認めれば、彼と私は友人ではなくなってしまうような、そんな気がしていた。
 勃ち上がりかけている私のものをじいっと見つめていた彼だったが、「でけえなぁ」という言葉と共に、手のひら全体でその場所を撫でた。
「エッジ……ッ!」
 慌てて引き剥がそうとするも、彼の笑顔に阻まれてしまった。
「したいなら、しようぜ」
「何を馬鹿な事を……」
 冗談だろう、と流そうとする私を無視し、その場所を細い指先が遮る。巧みな手つきで撫で摩り、淡々とした口調で言った。
「慣れてるから、大丈夫だ」
 言葉の刺が突き刺さる。
 彼は、誰を抱いたことがあるのだろう。誰に抱かれたことがあるのだろう。
 この細い腰に、浅く焼けた肌に、陽にさらされることのない白い内腿に、誰かが触れたことがある。誰かが、彼をきつく抱きしめたことがある。私の知らない、誰かが。
 思考がぐちゃぐちゃになりだし、歯を噛んだ。
「慣れてるから、多少手荒くしても……わっ!!」
 抱き上げ、ベッドに放り投げた。
 彼は、笑っている。
「……やる気になったか?」
 不遜な態度で彼が脚を開くと、薄紫色をした下着が目に入ってきた。
 紺色の浴衣とよく合うその下着は、見たこともない形状をしている。ぱっと見は普通の下着のようにも見えるのだが、腰骨の辺りに一つ、結び目があった。何というか、とても、頼りない。
「……早く、来いよ」
 目を細め、焦る私の心を見透かすかのように脚をだらしなく投げ出し――――。
「早く」
 甘い誘惑を拒めぬまま、彼の体にのしかかった。
 月光に照らされて肌は白く光り、私を拒んでいるように見えた。
 この体に、誰かが触れたのだ。考えれば考えるほど、体中の血が沸騰してしまいそうだった。おそらく、彼は相当慣れているのだろう。何の動揺も見受けられなかった。
 私の手を握って導き、下着の結び目を掴ませ、私を挑発する笑顔で解かれるのを待っている。
 胸を焼く嫉妬は醜く、彼は自分のものではないのに、と嗤った。
「…………ん」
 紐を解かずに脇腹に手を滑らせると、彼は小さな声を漏らした。
 それは小さかったけれど私の心に火をつけるには十分なもので、だから、今度は胸元に触れたくなった。
 薄い布地を掻き分けるようにして、胸元の突起に触れる。摘み、舌を伸ばした。
「……ルビカン、テ……」
 上下する薄い胸が、私を誘う。
「……腹が減って死にそう、って顔してる」
 細い脚を私の腰に絡ませ、躊躇っている私を置き去りにして、ぐい、と腰を押し付けてきた。
 慣れた仕草に、嫉妬の炎が酷くなる。
 下着の紐を解くのももどかしくずらして手をさし入れ、彼のものを握った。
「……っ」
 彼の余裕が、微かに揺らぐ。
 軽く上下させると、私の服を掴み、顔を胸元に埋めた。
「…………気持ち良いのか?」
 エッジは何も答えず、荒い息を漏らした。
 先端からとろりとした液体が滲み出て、私の指を濡らす。ちゅく、ちゅく、と扇情的な音が響く。銀の髪に鼻を埋めながら揉みしだくようにして愛撫する。高鳴る鼓動が喧しかった。
「ん、ん……っ」
 鼻にかかった声に、体の芯が熱くなる。彼の顔が見たくて胸元からそっと引き剥がすと、頬を上気させている彼の顔が覗いた。
 口元の布が苦しそうだな、と思う。薄いものでも、邪魔なものは邪魔だろう。
 手を伸ばして布を取ろうとすると、彼はぶるりと首を振って逃げてしまった。私に背を向け、布を守るようにきつく押さえてこちらを見ている。
「布を外そうとしただけなのだが……駄目……なのか?」
「……駄目だ」
 もう一度、布に手を伸ばす。彼の口元を隠すそれは薄かったけれど、私の心を乱すのには十分だった。
 これでは、彼に口づけることもできない。
 口づけたい。
「あ、んう……っん……っ!」
 布越しに、唇をなぞる。形を確かめ、柔らかく食んだ。
 本当は、直接触れたかった。布越しでも分かる形の良い唇を、直接貪りたい。舌を吸って、唾液を飲んで、歯列をなぞって彼の味を知りたかった。
 食んだまま彼の肩をシーツに押し付け、片足を抱え上げ、腰の紐を解く。
 薄く開いた瞼の隙間から、潤んだ緑の瞳が覗いていた。
「……エッジ」
 この姿を他の誰かにも見せたことがあるのだとは、思いたくなかった。彼は私だけのものではないのだと思うと、行き場のない怒りにも似た何かが体の中で咆哮をあげる。
 彼のものは勃ち上がりきり、今にも達してしまいそうだ。
 先走りに濡れた指を窄まった場所まで持っていくと、彼は首を横に振って顔を両手のひらで覆ってしまった。
 本当に、こんな狭い場所に入るのだろうか。
 恐る恐る指を埋めていくと、想像していたよりも容易く指を飲み込んだ。けれど、やはりきつい。指の何倍もある私のものを受け入れられるとは思えなかった。
「……も、ちょっと……奥……」
 震える声で、
「奥、に……」
 言われたとおりに、更に指を進めた。微かに腰を揺らし、ぎゅうと締めつけ、
「……ここ……」
 ねだる上目遣いで――慣れた表情で――腰を浮かせた。
 指先に、しこりのような何かが当たっている。転がすようにして、そっと撫でた。
「ひぁ……っ! ああ、ぁ……っ」
 肌が、薄桃色に染まる。
 再度撫でると、先程よりも大きな反応を見せた。彼のものの先端からひっきりなしに透明の液体が溢れ、銀色の恥毛を濡らしていく。
 何も言わず、指を二本に増やした。
 きつい。
 ぐるりと指を回し、奥まで思いきり突いた。
「あああぁ……っ!」
 私の指を引きちぎる勢いで、中が締まった。白濁が、彼の顔に、胸に散る。
 青臭さが鼻腔を擽り、胸を舌で辿った。
「……あ、ぁ……」
 達したばかりの体を弄られることが辛いのだろう。苦味のある液体を舐め取りながら指をもう一本増やし、素直な反応を見せるその姿を眺める。
 彼の体を貪りたいという私の心を読み取ったのか。
 エッジは自らの膝裏を持ち、きつく瞼を閉じた。
「……本当に、いいのか」
 うっすらと瞼を開いてちらりとこちらを見たものの、もう一度瞼を閉じてしまう。
 空いている方の手で臀部に触れれば、そこは汗で湿っていた。
 指を引き抜いて自らのものを取り出し、先端を押しつける。
 堪らず、腰を掴んで引き寄せた。
「あ、あぁっ!」
 細い腰。手荒に扱うと、壊してしまいそうだ。
「ひ、ぐ……うぅ、あ……っ!!」
「く……っ」
 あまりのきつさに、呻きが漏れた。蕩けてしまいそうなほど、熱い。うねり、絡みついてくる。
 涙が一筋彼の頬を伝い落ち、その涙に反するように、彼は目を細めて微笑んだ。


***


 こんなことに、慣れてるわけがないだろ。
 気づけよ、この――鈍感。
 慌てふためくルビカンテの姿が、目に入ってくる。引き抜こうとするゴツい腰にがっちりと足を絡ませて、痛む体を悟られないようにと祈った。
「……エッジ……大丈夫か」
 ルビカンテの息は荒く、腰は汗ばんでいた。本当は早く動きたいのだろう、酷く辛そうだった。
「へーき、だ……」
「……泣くほどなのだから、相当きついのだろう?」
「へーき、だって、言ってんだろ」
「しかし」
「……大丈夫、だって」
 まだ半分も入っていないってことは、分かっていた。腹の奥が、焼けつきそうだ。叫びたくなっちまうくらい、苦しい。
 でも、初めてだということをルビカンテに知られたくはなかった。どうしても、知られたくなかった。
「ああぁ……っん……、あ、あ、あ……っ!」
 全部。そう、全部、この日のためだった。
 この日のために、俺は『慣れている』ように見えるようにと、自分の体を自分の手で『慣らして』いた。
 ずる、ずる、と奥に侵入してくる太いものに、内臓を引っ張られる。頭の底がぐるぐるする。息が吸えない。くる、しい。
 全部がおさまる頃には、俺の意識はかっとんでしまいそうなほど真っ白になってしまっていた。
「でか、い……」
「……体格差を考えれば、仕方がないだろう」
 心配に満ちた瞳が、俺を見ている。魔物の金色の瞳は切なさに揺れていて、『まるで好き合ってセックスしてるみたいだ』と馬鹿な事を考えた。
 ルビカンテとセックスしたくて、嘘をついた。ルビカンテは『子どもとセックスする趣味はない』と言っていた。
 ルビカンテにとって俺は子どもでしかないのだ。俺は、恋愛対象にはなりえない。
 だから俺は、ルビカンテのモンスターとしての本能に訴えかけてやろうと思った。ルビカンテはモンスターだから、俺が本気で誘えば、少しくらいは理性の綻びを見せるだろうと思ったのだ。
 でも、ルビカンテは嫌になっちまうくらいに紳士だから。俺が誰ともセックスしたことがないって知ったら、俺とセックスしてくれるはずがないって、俺は知ってたから。だから、俺は慣れている風を装った。愛がないセックスは、少し悲しかったけれど。
「……動いて……くれよ……」
 俺の中はルビカンテのものできちぎちになってしまっていて、血管が浮き出ているのが分かりそうなほどぴったりで、串刺しにされているかのようなイメージの中に落ちていってしまう。
 ルビカンテと会えない日は――――夜、自分で自分の体を慣らしていた。虚しい行為だと思いながらも、ルビカンテが欲しくて堪らなかった。
 どこかで、本能の奥底で、あの金色の瞳は俺を欲しがっているように見えた。でもそれはモンスターとしての本性で、あいつの本当の気持ちではないんだ。
 俺は、ルビカンテのことが好きだった。友達としてじゃなくて、それ以上の気持ちを持って、ルビカンテを見つめていた。優しい瞳が、俺を守るように差し伸べられる腕が好きで、これは友情なんかじゃないと気づいたときにはもう遅く、後戻りなどできないところまで深入りしてしまっていた。
 俺は、恋愛対象になることができない。
 それならば、体だけでも、と思った。
 多分、本当のことを知ったらルビカンテは怒るだろう。
「ひっ、い……っ」
 繋がった部分から、いやらしい音がした。声を出さずにはいられない。ルビカンテの胸に縋りついて、快楽を追う。
 ルビカンテは優しいから、俺が「好きだ」と言えば、嘘でも「私もお前のことが好きだ」って言ってくれるだろう。それは避けたかった。そんな悲しいことは、ご免だった。
 全てが中におさまって、引き抜かれて、その度に彼の体温が上がっていくような気がする。体が熱い。優しい手つきに、いとおしさが高まっていく。
 何でこんなに好きなのか、自分でももう分からない。ルビカンテがモンスターで男だなんてことは初めから分かっていたし、彼がこの感情に応えてくれることがないってことも、初めから分かっていたのに。
 いとしい眼差し。思わず、勘違いしてしまいそうになる。そんな瞳で、俺を見るな。
「ん、んんんっ!!」
 ぎっ、ぎっ、とベッドが悲鳴をあげる。中を抉る杭は焼けつき、俺を果てへと導いていく。涙が溢れる。望んだことなのに、涙が溢れて止まらないのはどうしてなんだろう。
 耳朶を舐る舌、甘噛みされて肩を揺らす。
 気持ちいい。気持ちいい。
 けど、悲しい。
「……ああぁ、あっ、ん……っ、ん……! も、もう……!」
「……出したいなら、出せば良い」
「……おめぇ……も、でる、なら……いっしょ、に……っ」
「…………そのような姿を見せられては、もう限界だ」
 そう言うと、ルビカンテは俺をぎゅうっと抱きしめた。脚は目一杯開かれて、中は奥の奥まで犯されて、ルビカンテのことしか考えられなくなって、何だかよく分からない感情に押し潰されて殺されてしまいそうになる。
「気持ち、いい……っ、ルビカンテ……ッ、もう、いく……っ」
 必死に縋りつき、直接口づけることの叶わぬ胸元に、布越しの口づけをする。「煽るな」という切羽詰った声が降ってくる頃には、彼の熱を感じることしかできなくなっていた。
「んん、ん……あぁ……!」
 俺がいった直後、中のものが大きくなって、液体を吐き出した。それは自分で慰めていた時には決して得られない感覚で、だから、気持ちよかったけれど、とても怖いものだった。
 射精は止まらなくて果てもなく吐き出されて、腹の中はぐじゅぐじゅに蕩けてしまいそうで――でも、まだ足りない。
 多分、ルビカンテも同じ気持ちでいるはずだ。
「エッジ」
 何を言えば良いのか分からない、そんな顔で、俺を見ている。
 誘ったのは俺なんだから、そんな顔をすること、ないのに。
 引き抜かれそうになったその瞬間、俺は首を横に振り広い背中に手を回して、彼を制止した。
「もっと…………欲しい……っ」
 モンスターの本性を煽るために、腰を揺すった。放ったばかりの自分のものが、ルビカンテの腹に擦れて硬さを取り戻し始める。
 まるで虚しい自慰のようだと嗤いながら、腰を振る。浅ましい真似をする。これじゃあまるで道化だ。
 無言のまま、ルビカンテが動きだす。
 「好きだ」と叫びださぬよう、固く口を閉ざした。


***


 「シャワーを浴びてくる」と出て行った彼の背中は、何かを背負っているかのように淋しげだった。結局彼の顔を見ることができぬまま、朝を迎えてしまった。
 彼は王子だから、外で発散するのに手間がかかるのだろう。だから、簡単にことを進められる私を誘ったに違いない。
 それに、王子が国内の者に手を出したとばれてしまうと何かと面倒そうだ。私相手なら、女と違い、相手の妊娠に怯えることもない。
「……単なる捌け口……か」
 慣れているくせにどこか初心さを残した彼の仕草が、堪らなく私の心を煽った。捌け口だと思う度に胸がきつく締めつけられたけれど、細い体を抱きしめることをやめることはできなかった。
 心が手に入らないなら、体だけでも欲しいと思った。
 抱いてはならない禁じられた感情を、少しだけでも満たしたかったのだ。
 愚か者め、と自分を罵る。一度手を出してしまえば、抑えがきかないことくらい目に見えていただろう?
 突然、どこかで何かが割れるような音が響いた。
「……エッジ!」
 バスルームだ。
 駆けて行って扉を開くと、しゃがみこんで血に濡れている彼の後ろ姿が目に飛び込んできた。
「エッジッ」
「こ、こっちにくんな!!」
 ボディソープを入れてあった器が落ちて、割れていた。それに当たってしまったのだろう。彼の脚は血で真っ赤だった。
「傷、浅いから……大丈夫だ」
 湯に濡れていることで、血がより多く出ているように見えるのだろう。確かに傷は浅いと思われた。しかし、放っておくわけにはいかない。
 近づいて回復してやろうとすると、エッジはこちらを見ようともせずにきつく傷口を押さえ、首を横に振った。
「……駄目だ……っ」
 その時初めて、彼が口元の布を外していることに気がついた。
「私に、素顔を見られたくないのか」
 後ろ姿のままで、彼は静かに頷いた。とろとろと流れ出す血と霧雨のように振り続ける湯が、排水口に吸い込まれていく。
「……どうしても、駄目なのか」
 もう一度、頷いた。
 部屋中に、血のにおいが充満していた。無防備な白い裸体が、血の赤とは対照的だった。
「……エブラーナの男は……素顔は、家族と、それから……生涯を共にする相手にしか見せちゃいけねえってことになってるんだ」
 近づき、「ならば、振り向かなくても良い」と告げ、傷口に触れた。普段太陽に照らされている首筋はうっすらと日に焼け、彼が太陽の下で生きていくべき者なのだと私に教えていた。
 回復魔法を唱え、血を溢れさせている場所へと注いでいった。
「……お前の伴侶になる者とは……どんな人間なのだろうな」
「…………可愛い姉ちゃんに決まってる」
「そうだな」
「おめぇがびっくりしちまう位の、ものすごい美女に決まってる」
「だろうな」
「……胸がでかくて、腰が細くて、脚が長くて、笑顔が可愛くて、料理が上手で、それから…………優しい、目をした……」
 涙混じりの声だった。胸を抉るような、痛々しい声だった。肉体の傷口はもう癒えているというのに、何故か、彼の心はズタズタであるように思えた。
「エッジ……」
 肩を震わせて泣いている。嗚咽を隠そうともせず、背を丸めて泣いている。
 彼のことが、分からない。分からないから尋ねたいと思うのに、言葉が一つも出てこない。
 私は、彼の伴侶にはなりえない。彼と永遠を約束すること――友人としてですら――も、許されない。こうやってほんの一瞬を共に過ごすだけの存在だ。
 彼も、どこかで分かっているはずだ。
 私達の関係には、必ず終わりが来るということを。
「……風邪をひくぞ。さっさと出て、服を着ろ」
 そう言い残し、バスルームを後にした。

 しばらくしてから、彼はきっちりと服を着込み、真っ直ぐな瞳を向けて私の目の前に立った。
 着替えを持ってきていたらしい。戦いのために作られた服は、彼によく似合っていた。彼は、モンスターを殺すことに長けているのだ。そんなことをぼんやりと思い出した。
 切れ長の目元は、涙を流したがために少しだけ腫れていた。
「うまかっただろ?」
 掠れた声で告げられた言葉の意味が分からず、私は黙った。
「俺の、演技」
 演技?
「本当は、抱いたことも抱かれたこともねえよ。誰も、誰にも」
 さあっと血の気が引いていくのを感じた。エッジは笑っている。だが、目は笑っていなかった。
「何故、あんな……」
「……あんなことを、って?」
 彼に触れたことがある者は、いなかったのだ。存在しない『誰か』に対して私は、嫉妬の炎を燃やしていたのか。
 随分、手荒に扱ってしまった。慣れているならばと、何度も、あの小さな体に――――。
「初めてだって分かってたら、おめぇ、抱いてくれなかっただろ?」
 そういえば、彼の瞳は怯えを含んではいなかったか。
 布越しに口づけた唇は、「どうすればよいのか分からない」という風に震えてはいなかったか。
 それに、何より。
「……俺が、誰にでも体を許すような奴に見えたか?」
 そうだ。彼は一見奔放そうに見えるけれど、根の部分はこれでもかというほど真面目な人物なのだ。
 初めて彼の部屋に侵入したとき、彼は躊躇いなく肌を見せた。彼の白い腿に目がいって、だから、彼が悪戯好きだという事を忘れていた。あの時の彼は、私をからかっただけだったのだ。
 では、これもからかいなのか?
「ん……っ」
 彼の口から、淫靡な声が漏れた。
「……おめぇ……出しすぎ……」
 踵を返し、よろよろとした足取りでバスルームに戻ろうとする。
 腕を掴んで抱き寄せると、「出てきちまった」と呟いて、私の胸に頭を預けた。
 背中から下衣に手をさし入れ、割れ目を辿る。ねばついた感触。下着はべとべとに汚れてしまっていた。
「せっかく、着替えたのになあ」
 全部掻き出したつもりだったのに、とまるで何でもないことのように笑う。
「こればっかりは、練習じゃあどうにもなんなかった……」
「気持ち悪いだろう?……出してやるから、ベッドに座れ」
「いい」
「良いわけがないだろう! 何故、こんなことを……!!」
 行き場のない怒りを、抱きしめる腕に篭めた。
 彼は、ただただ佇んでいる。
「……だって。だって、本当のことを言ったら、おめぇは俺に手を出してこないと思ったんだ。だから俺、自分で……」
 そういえば、彼の体は本当に慣れている者のようにやわらかかった。誰とも交わったことがないなら、導き出される答えは一つだけしかない。
「どうしても、おめぇと……して……みたかったんだ。だって、ずっと一緒にいられるわけがねえって、分かってたから。友達でいられる期間が短いってことも知ってたから。俺はいつか王になって、結婚して、国を守らなくちゃならねえ。俺は、今までよりももっと多くのモンスターを殺すことになると思う。そうなったら、もう、おめぇの傍にはいられない。こうやって、会うこともできない。……だから……どうせ終わりが来るのなら、今でもいいじゃないかって、そう思ったんだ。自分の心に嘘をついて生き続けるより、一瞬でも素直になってみようと思って、俺」
 背中に回される、細い腕。深く爪をたてられて小さな痛みが走り、でも、その痛みが彼の手によって生み出されたものなのだと思えば、それすら甘美なもののように思えた。
「本当は、この口の布を取って、おめぇと一緒にいられたらって思った。でもそんなことを言ったら、おめぇや俺の国の民達に迷惑がかかっちまう。俺の我侭で、国を潰すわけにはいかねえだろ?」
「エッジ……」
「ごめんな、ルビカンテ。騙し討なんて、おめぇがこういうのを一番嫌ってるって、俺、知ってたのに」
 彼の服からは、彼の部屋にある香の匂いがした。そして髪からは、私が使っているシャンプーの匂いがする。甘い香りが混ざり合って、彼の匂いと一つになる。いつまでも抱きしめていたくなるような、そんな匂いだった。
 彼が正直に言ったとしたら、私はどんな反応を見せていただろう。彼を、抱いただろうか。「私もお前のことを想っている」と、微笑みかけてやることができただろうか。私は、別れを選択しないでいられただろうか。
 そこまで考えて、ああ、エッジの読みは正しかったのだ、と思った。
「……確かに、騙されることは好まぬ。だが、私が腹を立てているのはそこではない」
 彼の体を抱き上げる。今度は、優しくベッドに横たわらせた。
「私は、自分に腹を立てているのだ。お前の白い肌に目が眩んで、本当のことが見えなくなっていた。だが、もしお前が素直に『抱いて欲しい』と言ったとしたら、私はそれを拒み、お前と別れることを望んだだろう。お前の作戦は、成功とも言えるし失敗とも言える」
 「失敗に決まってっだろ」と小さな声で言ってから、猫のように背を丸め、彼は膝を抱えた。
「……最後まで、『慣れている』ふりをする気でいたってのに」
 最後の最後で欲が出た、と。緑の瞳をこちらに向ける。
「……おめぇのことが好きだって、言いたくて堪んなくなった。体だけでもいいって思ってたはずなのに、一回やったら、心まで欲しくなった。おめぇの心が欲しいって、思っちまった」
 随分前から、私の心はお前のものだ。
 だが私は、お前の国を共に守ることができない。それどころか。
「おめぇのことが、好きなんだ。友達としてじゃなく、それ以上の気持ちでおめぇを見てる。……気持ちわりいって思われちまうだろうけど、自分の気持ちに嘘はつけねえ」
 好きな者に求められて気持ち悪いと思う者がどこにいるだろう。
 心が繋がっているという事実に、胸が熱くなる。
「気持ち悪いなどとは思わぬ」
 この想いに応えるべきか否か。悩むのはそれだった。
 彼に応えて――それから、その後はどうするつもりなんだ。
 想いを伝えたい。彼の心に応えたい。お前の全てをいとおしいと思っている。そう言って抱きしめたかった。
「……私も、お前のことを愛している」
「き……気ぃ遣って言ってんなら、そんなの」
「本当だ」
 丸まっている体を抱きしめた。小さな体だった。この体を手荒に扱ったことを、また後悔した。
 お前を殺さなければならない。それを知りながら、私は彼を抱きしめる。汚らしい腕で、血に塗れた腕で。
 お前を赤く汚してしまうと、知っているのに。
「お前を、誰よりも愛している」
 彼の篭手を外し、手の甲に口づけた。恭しく落としたそれは忠誠の証にも似ていたけれど、実際は、裏切りの証だった。
 私が彼に会いに行かなければ、彼は私に会うことができない。
 ここにはテレポを使って来るから、彼はこの部屋の在処も知らない。しばらくの間離れていれば、彼の心も変わっていくだろう。
 新しい誰かに恋をして、彼が言っていたように、『誰か』と国を守るようになるだろう。
 今日限りだ。
 今日限りで、この関係は終わる。
「ルビカンテ……」
 何もかも、終わりだ。
 彼の声を聞きながら、最後を思い、きつく抱きしめた。



 彼を部屋まで送って行ってから、その足でカイナッツォの元へと向かった。約束の時間は、とうの昔に過ぎている。
 扉を開くと、彼の部屋はぐちゃぐちゃだった。
「待ちくたびれた」
「すまない」
「腹が減った」
「悪かった」
「人間は? おめえがダイスキな人間はどこだよ。俺が八つ裂きにして喰ってやろうかと思ってたのによ」
「……彼とは、もう二度と会わない」
 目を真ん丸くして、彼は私を見た。くんくんと私のにおいを嗅いだ。くかか、下卑た嗤いを浮かべ、目を細める。
「……抱いたな?」
 弾む声で、言った。
「……ああ。抱いた」
「良かったか?」
「ああ」
「ハツモノだったのか」
「……ああ」
「良かったか?」
 再度放たれた同じ質問に、彼を睨みつけた。
「…………良かったが……良くなかった」
「だから、人間はやめとけって言ったのによお。糞真面目なルビカンテ様は、俺の言うことを聞くべきだった!」
 げらげらと笑って、
「殺す相手を好きになるなんて、ほんと馬鹿げてるな! そう思いながら、お前はその人間を抱いてたってわけだ!」
 後で困るのは自分だろうに、カイナッツォは床にひっくり返って笑い転げ始めた。踏んづけて蹴飛ばしてやろうか、と思う。本気で踏んづけようとしたその途端、カイナッツォの姿がぐにゃりと溶け、変化した。
「――踏むなよ、ルビカンテ」
 それは、焦がれてやまないエッジの姿だった。この中身はカイナッツォだ。分かっているのに、踏むことができなくなる。
 そんな私の姿を見て、「重症だな」とカイナッツォは大笑いした。
「……さあて。エブラーナを滅ぼす作戦でもたてようか? ま、殺されっちまう前に、俺は退散するけど」
「やめろ。私が退散する。そもそも、ここはお前の部屋だろうが」
「そういやそうだったな。お前があんまり怖い顔をするんで、忘れてた」
「……その格好は、よせ。気分が悪くなる」
 この男に相談しようと思っていた私が馬鹿だった。
 踵を返そうとする私の背に、『エッジ』の声が降ってくる。
「人間を好きになるなんて、馬鹿としか言いようがない。ほんと馬鹿だよ、お前。ま、モンスターが誰かを好きになるってこと自体、間違ってるんだけどな」

◆◆◆


 彼を忘れようと努力した。努力している時点で忘れられていないのだと気づき、愕然とした。あれから何年も経つというのに、私は彼を忘れられないでいた。
 周りの風景は変わるのに、私の心は変わらない。彼の姿を探し、彼を求めてしまう。
 彼の温もりを捨てたのは、自分だというのに。


 数年の間に、ゴルベーザ様はまた、人間らしさから遠ざかってしまった。
 闇そのものとも言える甲冑を身に着け、低く低く私に言う。
「エブラーナはまだ落とせんのか」
 言って、書類に視線を落としている。
「……もうしばらく、お待ちください」
「聞き飽きたな」
「申し訳、ございません」
 他の四天王達も皆、それぞれの役目を与えられている。動くことができていないのは、私だけだった。
「無駄な情は捨てろ」
「……はっ」
「お前の人間臭い部分に救われることもあった。だがこの先は」
 ゴルベーザ様の計画は、すでに前進し始めていた。もう、止まることはできない。世界は終幕へ向かおうとしていた。
 ゴルベーザ様は命の恩人だった。ゴルベーザ様に救われなければ、今の私はなかった。試練の山で、彼が手を差し伸べ、私はその手に縋りついた。
 死にたくなかった。力が欲しかった。ただ、悔しかった。
 異形の体となってしまってもかまわない、強大な力が欲しかった。幼いゴルベーザ様の手は小さくそして冷えていて、私が守ってやらねばと思った。彼の背後には見えない何かが息づいていて、彼はそれに怯えて生きていた。
 いつごろからだろう。
 彼が、漆黒の甲冑で身を守り始めたのは。
「この星に、人間は必要ない」
 では、貴方は?貴方以外の人間がこの星から消えた後、貴方は。
「……もう、行け」
 試練の山で命を失いかけたときの私は、確かに、世界に絶望していた。世界は白と黒で構成されていて、美しいものなど一つも無いと思っていた。だが、今は違う。
 扉へと向かう私の目に、漆黒の鎧が映った。黒は、何も映さない。全ての色を拒み、どんな色にも染まらない。
 エッジの鮮やかな瞳が、私の心に色鮮やかにした。彼がいたから、世界の美しさを思い出すことができた。私がまだ人間であった頃、まだ幼い子どもだった頃に目にしていた美しさだった。
 あの緑色の瞳が、無性に恋しくなった。
 長く続く銀色の廊下は酷く無機質で、あまりにも冷たすぎる。
「……エッジ」
 人間を殺したくなかった。彼と出会ってからは、人間を殺したことは一度もなかった。だが殺さなければならなかった。人殺しはしたくなかったが、ゴルベーザ様を裏切る気にはなれなかった。
 この身を救って下さったのは、ゴルベーザ様だ。だから、出来る限りゴルベーザ様の傍にいて、彼の望む世界の終幕を見てみたいと思っていた。それこそが彼への恩返しだと、そう思っていた。
 握りしめた手のひらに刺さった爪が、私自身の肌を傷つけていく。ぽたりと滴った血は床に落ち、甘い芳香を放つ。
 エブラーナの戦力は分かっていた。何もかも、嫌というほど分かっている。
 本当にくだらない話なのだけれど、私は、エブラーナ王の癖や王妃の趣味まで熟知していた。
 役に立たない情報の数々は、エッジが身振り手振りを交えて面白可笑しく教えてくれたものばかりだ。だがエブラーナの人口や弱点などというものよりも、エッジが話してくれた情報の数々は、瑞々しく煌めいていた。
 滴る血液が、『何も考えるな』と嗤う。『ただのモンスターになれば、悩むことなく任務を果たすことができるぞ』と、甘い言葉を囁きかけてくる。
「……すまない、エッジ……」
 届かぬ言葉を吐くことしか、できなかった。



 恨みの籠った瞳。
 殺意の塊。
 恐怖。
 エブラーナ城に向かった私は、様々な感情が入り混じる城の中で、ひたすらに術を唱えていた。
 逃げ惑う人々を殺す気にはなれず――ここまでやっておきながら、とは思ったが――立ち向かってくる者にだけ、攻撃した。
 兵たちが次々と倒れていく中で、女性を抱きしめ、怯えの欠片すら見せずにかかってくる者がいる。
 どこかで見た面差し。
 エブラーナ王だった。
「……お前は、逃げぬのか」
 王が片手に抱いている女は、既に事切れている。焼け焦げた臭い。薄桃色のドレスは、裾が黒く変色していた。
「私に勝つことができないことくらい、分かっているんだろう?」
 虚しい風が吹いていた。城の隙間を縫うように吹く風は生暖かく、城全体を照らす太陽は夕陽となり、橙色をしていた。
 王自身も、怪我をしている。垂れた血が、石畳を夕陽よりも更に赤く染め上げていく。憎しみの炎を隠そうともせず向かってくる男の瞳はエッジに瓜二つで、「彼が歳をとったらこういう感じになるのだろうか」と考えた。
「……もう、息は無いんだろう?」
 女に視線をやりながら言うと、「ああ」と掠れた声で王は答えた。
「ならば何故、抱いている」
 問うと、「冷たい床に寝かせておく気にはなれない」という言葉が返ってきた。
「負けると分かっていながら、私と戦うつもりなのか」
「……やってみなければ、分からんだろう?」
 エッジが言いそうな言葉だと思った。しかしこれでは、勇気ではなく無茶だ。
 見たところ、術を使うこともできぬほど体力を消耗してしまっているようだ。刀を持つ手が震えている。眼球の動きで、男の視界が不明瞭であるらしいことも分かった。
 結果は見えていた。だが、彼は自信に満ちていた。
「……わしがいなくなっても、エブラーナは滅ばぬ。わしの一人息子が……この国を、守ってゆくだろう……」
「私は、その一人息子も殺すぞ。王族を失ったこの国は、どこへゆくのだろうな」
 男は微笑み、何も言わず、女をきつく抱きしめた。
「本当は、王族など関係ない。エブラーナの民が……一人でも多く残っていればいい……エブラーナを想う人間が生きている限り、この国はなくなりはしない」
「……詭弁だな」
「…………お前達モンスターからすれば、こんな情の塊のような話は詭弁でしかないのだろうな。だが、国というものは人数やかたちだけで出来ているわけではないんだ……」
 立っていることもできなくなった王が、地面に座り込む。手裏剣が飛んできて、私の頬を掠めていった。エッジが投げるときの癖は、王の癖そっくりだった。
「惚れた女を守り切ることができなかったのは残念だが……最後に、息子の役に立つことは、できそうだな……」
「どういう意味だ……?」
 マントを脱いで床に置き、女をその上に寝かせ、王は丸腰でこちらに向かってきた。瞳が、夕陽の色を映していた。
「こういう意味だ」
 振り切る間もないほど唐突な動きで、腕を掴まれた。
 振り払おうと思うのに、王の手から流れ込んでくる何かに邪魔され、身動きが取れない。
 腕を引かれた。
 何とも言えない、生温かい感触。
 王の胸を貫いたものがある。それは、私の腕だった。
 王の口元の布が、真っ赤になる。ひゅう、ひゅう、と彼の喉が鳴り――。
「――親父、お袋……っ!!」
 門扉を開く音と共に、焦がれていた者の声が、大きく響いた。
「……わしを、燃や、せ…………」
 王が呻いて、わらった。
「わし、と……あいつを、一緒に……!」
 『あいつ』――――王が見たその先には、王妃の姿があった。
 燃やせ、とは。死体を見られたくない、ということだろうか。それとも、他に何か理由があるのだろうか。
 分からない。
 分からないが、男の最期の頼みを気かぬ理由はなかった。
「やめろ、ルビカンテッ!!」
 炎が高く高く燃え上がった。刀を振り上げ駆けてくる青年の姿を無視し、王を王妃の傍に横たわらせ、血塗れの服を炎で撫でた。
「やめろーっ!!」
 私の背を、刀の切っ先が走っていった。血の流れる感触。
 恐る恐る、振り返る。
 彼の瞳は濡れていた。どうしようもない感情を美しい瞳に篭めて、震えながら私を見ていた。
 燃えさかる炎が、跡形もなく二人を焼き尽くしていく。気づいたときには炎は消え、彼らがいた場所には消し炭が残るのみとなった。
 刀に映り込んだ空の光は、既に暗くなりつつある。
「……何で、おめぇが……」
 感情を隠すことなく、彼はこちらを見上げていた。求め焦がれていた幸せそうな笑顔は、そこにはなかった。
 私の血がついてしまった刀の切っ先をちらと見てから、彼はゆっくりと首を横に振る。

『おめぇのことが、好きなんだ。友達としてじゃなく、それ以上の気持ちでおめぇを見てる』

 いつか耳にした、彼の言葉を思い出した。
 永遠を共にすることは許されない。
 では、好きでいることも罪なのだろうか。
 彼の幸せを奪いながら彼の幸せを願う私は、酷く滑稽で馬鹿げた生き物だ。
 いつか、彼を殺す日がくる。そのことを知っていながら、私は彼に近づいてしまった。彼の国を襲った者が私でなければ、彼の心の傷はもう少しだけましだったに違いない。
 彼の笑顔が好きだった。どんな表情も魅力的で堪らなく愛しかったけれど、一番愛していたのは、屈託のない笑顔だった。
「……俺のことが好きだって……言ってた癖に……」
 刀を振る。ついていた血が散り、刀は元の美しさを取り戻した。
 涙を流しながら、彼は俯いた。
「……おめぇのことが、好きだったよ。おめぇが来なくなっちまってから、色んなヤツと会ったけど……でも、何かが違った」
 彼の体が、殺気を纏い始めた。
「今でも、おめぇのことが好きだよ。……だから、憎い」
 以前とは比べ物にならない程の大きな魔力を感じ、エブラーナ王の言っていた言葉の意味を知った。
「こんなに好きなのに、同じくらい、憎い」

『最後に、息子の役に立つことは、できそうだな』

 あの時は、彼の言う言葉の意味が理解できなかった。
 だが、今なら分かる。
「おめぇを殺したって、親父とお袋は帰ってこねえ。それでも、おめぇを許せねえ!」
 怒りと憎しみが、彼の力を高めていく。
「こんな感情、知りたくなかった……っ!」
 雷が落ちた。サンダーに似ていたが、少し違う。これは、いつか彼が「使えるようになりたい」と言っていた雷迅だろう。
 彼の激しい攻撃を前に、私は避けることなく立ち尽くす。
 彼に、殺されたかった。
 憎しみの刃でもかまわない。この胸を、貫いて欲しかった。
「何で、一緒にいちゃいけなかったんだよ! 何でおめぇは人間じゃねえんだよ! 何で、好きな奴を憎まなくちゃならねえんだよ! 何で……っ!!」
 無茶苦茶に振り回された刀が、私の肩を貫いた。
 鋭さの奥に鈍さを伴なう痛みは、彼とした布越しの口づけに似ていた。そんなことを思う私の頭は、とっくの昔におかしくなってしまっているんだろう。
「……何で、こんなことされてんのに、おめぇのことを嫌いになれねえんだよ……っ」
 ずるり。引き抜かれた刀は真っ赤だ。
「だって俺、知ってるんだよ。夜俺が寝てるとき、おめぇはいつも、辛そうな顔で俺の顔を覗きこんでた。おめぇがあんまりにも辛そうな顔をしてるから、俺は何も言えなかったけど」
 再度刀を振り上げて、
「おめぇは真面目な奴だから、普通のモンスターとは違うから、だから、何か理由があるんだって……」
 振り下ろそうとして、失敗した。
 地面に転がり落ちた刀は乾いた音をたて、それにつられるようにしてエッジは膝をついた。
「……エッジ……」
 抱きしめたい。そう思い、しゃがみ込んで手を伸ばし――本当にこれでいいのか、と自問した。
 彼の笑顔を手に入れることはできない。それならば、モンスターらしく振舞うことこそが最善の行動なのではないだろうか。
 私を憎めばいい。忌み嫌い、殺意の篭った瞳で私を見ればいい。
 憎しみの力でお前が強くなれるなら、心の底から私を憎め。
「ルビカンテ」
 私の顔を見上げ、彼は口元の布に手をかけた。
 一気に引き下ろし、私が『見たい』と願っていた顔の全てをあらわにする。
 形の良い薄い唇をきゅっと結び、目を細めた。
「……決めてたんだ。今度会えたら、こうするって」
 鼓動が、喧しく鳴る。生涯を共にするものにしか見せない、そう言っていたのに、何故。
「……ずっと一緒にいられなくても、おめぇのことを好きだって思う気持ちに嘘はねえからな」
 甘く蕩けるような笑顔。
 彼のことが分からなくなる。
「好きだよ、ルビカンテ」
 冷たい唇が、私のそれにそっと触れた。
「……好きだから、だから――――おめぇを殺したい」
 私の唇を甘噛みし、殺意の塊のような瞳でこちらを睨む。その瞳は、相も変わらず美しくて。
 死んでしまったら、この瞳も見られなくなってしまうのか。
 それだけが、心残りだった。



 End


Story

ルビエジ