暗く黒い、雨が降っている。月の姿は、欠片もない。
 外灯に照らされ、ぼう、と地面が微かに浮かび上がっている。風が吹く度、木に吊されたカンテラはゆらゆらと揺れ、今にも消えてしまいそうな危うさでかちゃかちゃと鳴った。ぬかるんだ足下。踏みしめながら、小さな背中を探す。視界が悪い。「飛べないのって、面倒ね」と、背後で彼女が笑った。
 よく知っている気配を感じる。間違いない、すぐ近くに彼はいる。薄紫色をした瞳を濡らし、震えていることだろう。
「……ねえ、私達、間違ってたの?」
 雨音にかき消されそうなほど小さな声が、微かに響く。
「分からない」
 正直に答えて振り向くと、長い金の髪がしとどに濡れているのが見えた。綺麗好きな彼女のこんな姿を見るのは初めてのことで、戸惑ってしまう。
「ゴルベーザ様、泣いてるかも」
「……そうだな」
「うん、きっと……あっ! ルビカンテ見て、あっち!」
 ぱち、ぱち、何度も瞬く一本の外灯の下で、見慣れた背中を見つけた。
「ゴルベーザ様……!!」
 急いでその場所に駆け寄った。帰ったら温かい部屋で温かいものを飲ませ、その痩身をそっと抱きしめたい。許されるならば、だけれど。
「ゴルベーザ、様」
 彼はこちらを見なかった。真っ黒い『何か』をぎゅうと抱きしめて、ずっと遠くを見やっていた。
「ゴルベーザ様……ごめんなさい……私達……」
 バルバリシアが言った。勇気を振り絞ったのだろう、その体は微かに震えていた。
 ゴルベーザ様が腕に抱えている『何か』が、少しだけ動く。きゅう、と鳴いた。
「…………飼っても、いいでしょ? ルビカンテ……」
 薄紫の瞳が、こちらを射抜いた。絶望に濡れた瞳は、私達がつくり出してしまったものだった。彼にこんな顔をさせるつもりなんてなかったのに。
「あのね、この子が、僕の……友達になってくれるって……」
「……友達?」
 激しい風が吹いてきた。雨足も強くなる。カンテラが木から落下し、けたたましい音をたてて割れた。地面で砕け散る。硝子の破片が彼の頬を切った。思わず、手を伸ばした。ケアルをかけるためだった。
 バルバリシアが、ゴルベーザ様の体を抱き上げる。
「ゴルベーザ様は人間だから、だから、人間の中に戻るのが一番だと思ったのよ。今なら戻れる、私達から離れても生きていける。そう思って……」
「……ああ。私もそう思っていた。けれど」
 よくよく見てみれば、ゴルベーザ様が抱いていた生き物は、小さな竜だった。
「どうやらそれは、間違いだったようだ」
 彼を一人にすべきではなかったのだ。
 バルバリシアにしがみついている彼の姿は、胸が痛くなるほど悲しかった。
 誰かの声がする。金属音と老人の声が重なった。
「おーい!!」
「……ルゲイエ?」
 バルナバの肩に腰掛けたルゲイエが、こちらに向かって手を振っていた。
「全く、傘も何も持たずに出ていきおって…………仕方がないから追いかけてきてやったぞ!!」
 暢気な声だった。だが、今はそれに救われるような心持ちだ。
「帰りましょう、ゴルベーザ様。その竜は、勿論飼ってもかまいません」
 ルゲイエが、バルバリシアの頭上で傘を開く。
「うん」
 痛みの色を滲ませたまま、彼が笑った。


   一.ルビカンテ

 私を『拾った』時の、彼の表情がまだ忘れられずにいる。

 あの黒竜と同じで、私もまた、ゴルベーザ様に拾われ、救われた存在だった。
 父を見返すために聖騎士になるための修行をし、自らの力量も分からぬまま、試練の山に登った。
 当時の私は、聖騎士になれぬはずがないと、そう信じきっていた。
 結果、私は死に直面した。

 人間の体は無力で、皮膚を破れば血が溢れ出した。血で、前が見えなくなった。遮られた視界。だが、太陽は輝いていた。固まりつつある血に遮られても、太陽光の明るさを感じることはできた。
「おじさん、おじさんも死んじゃうの?」
 少年の声がした。何故、こんな場所に少年がいるのだろう。がちがちと悲鳴をあげる体を必死で動かし、声の方を見ようとした。瞼が赤黒く染まって、見えない。
 こんな場所にいたら、少年は魔物に喰われてしまうだろう。「逃げろ、ここは子どもが来るようなところじゃない」絞り出した声は、掠れていた。
「おじさんは、力が欲しいの? だから、この山に来たんだよね?」
 何かの気配を感じた。獣の臭いだった。魔物だ。
 「逃げろ」――――私が叫ぶより早く、魔物の気配は消え失せてしまっていた。消滅と同時に聞こえたのは、破裂音だ。ぞくり、背に嫌な何かが走った。今の音は何だ。
 体を動かそうともがく。腕も足も、馬鹿になってしまっていうことをきいてくれない。動かなければ。動いて、少年をせめて安全なところまで運んでやらなければ。
 けれど、体は動かない。
 役立たずな体だ。
 ああ、もっと力があれば良かったのに。
「おじさん」
 どく、どく、耳元で心臓が鳴っている。目元にびりりと痛みが走った。視界が開ける。透き通るような青空と、それから。
「おじさん、血を拭いたから……だから、見えるでしょ? 僕の顔」
 薄紫の瞳と、茶色の髪。白い肌は血と土で汚れている。痩せこけた頬を丸くして、彼はにっこりと笑った。不安定な笑みだ。
 ぼたぼたと落ちる真っ赤な血。微かに光るのは、紫色の魔力の塊だ。
 少年は、グールの首を握り締めながら笑っている。
 目の前にいる少年が、この魔物を殺したというのか。
 破裂音は、グールの体のどこかが壊れる音だったのだ。
「力が欲しいなら…………僕と一緒に来る?」
 不安定な笑み。今にも泣き出しそうな表情をしながら、それでも彼は笑っていた。

 ――――人間としての私の記憶は、そこで途切れていた。

 ルゲイエによって魔物に改造された私は、ゴルベーザ様と共に生きていくことになった。
 魔物になった私を見ても彼は全く驚かず、ただ、私の手を握りしめた。長い爪が尖り、人間とは異なった色をした肌。それらを恐れず、私の瞳を見つめていた。
 当時、ゴルベーザ様の生活は荒れ果てていて、それをまともな姿にするのが私の最初の仕事となった(ルゲイエは全く役に立たなかった)。目を離すと、生肉や雑草を食べようとする。風呂にも入らず、髪は伸び放題。食事、入浴、就寝。傍にいて、人間らしい生活とはどういうものなのかをひたすら教え続けた。
 彼には、生まれてからの記憶というものがほとんど存在しなかったのだ。
「僕は人間じゃないよ」
 日常生活について必死に説明する私を見て、彼は言った。彼は、魔物になりたがっているように見えた。人間であることを否定して、ルゲイエに改造されたいと言うこともあった。「私のように、死にそうになってから改造されても遅くはないのではありませんか」と助言すると、彼は成る程と頷いた。
「ルビカンテ」
 時たま見せる、屈託のない笑顔。
 助言は言い訳に過ぎなかった。
 私はただ、この笑顔を失いたくなかっただけなのだ。魔物に成り果てた彼を、見たくなかっただけなのだ。
 
 ゴルベーザ様と暮らし始めてどれくらい経った頃だったろう。彼は、人間の女性によく似た魔物を連れてきた。その魔物はとても美しい人間のかたちをしていて、ゴルベーザ様は「お姉さん」と嬉しそうに彼女を見上げた。


   二.バルバリシア

「お姉さん」
 私は、ゾットと呼ばれているこの塔の屋上で、たった一人で生きてきた。その生活に不満などなかったし、恐れもなかった。それは基本、魔物は一人きりで生きていくものだからだった。
「お姉さん」
 びゅうびゅうと心地よい風が吹く中で、もう一度、誰かが私に呼びかけた。可愛らしい声だ。子どもの声だった。
 振り向くと、一人の少年が立っていた。
「なあに? 坊や」
 薄紫の瞳が、こちらをじっと仰いでいた。
 ああ、そういえば。ずっと無人だったこの塔に、人間が入り込んだと聞いた。見た目からは想像もつかないほどの魔力を持ち、襲いかかる魔物を殺しているという。
 くんくんとにおいを嗅ぐと、強烈な魔力のにおいがした。頭の心が痺れるような、良い香りだった。
「…………お姉さん」
「なあに?」
 鼻先がつくほど顔を近づけても、彼は何もしてこなかった。滑らかな頬にそっと触れた。やわらかい。血を啜りたい衝動に駆られる。けれど、この白い首筋に噛みついたが最後、私は殺されてしまうだろう。これだけの魔力を持つ者に勝てるはずがないと、私は本能で悟っていた。
「僕と一緒にいて、お姉さん」
 この子どもは、自分が何を言っているのか理解しているのだろうか。首を傾げ、私は彼に囁いた。
「坊や、私は魔物よ。人間の『お姉さん』じゃない」
「知ってるよ」
「なら、どうして」
「誰かに似てるんだ……誰なのかは思い出せないけど……髪が……」
 伸ばされた幼い指先が、私の髪を撫でていった。
「綺麗な、金の髪」
 少年は泣いていた。泣いているのに、笑っていた。少年の中の何かがおかしいことは明白だった。けれど、どこがおかしいのかは分からなかった。私に分かるのは、彼が孤独を抱えているということだけだった。
 無視するという選択肢は選べず、私は少年と共に生きる道を選んだ。彼の気が済むまでなら、どうということはないだろう。

 ゴルベーザ様――――ルビカンテがそう呼んでいたので、私もからかいをこめてそう呼んだ――――とルビカンテ、それからルゲイエとの共同生活が始まった。まるでちぐはぐで統一感のない者達の集まりは、何故だかとても上手くいった。
 ルゲイエは研究施設さえあれば文句がないようだったし、ルビカンテはこの世を統べる王に仕えているかのようにゴルベーザ様の足下に跪いていた。ゾットの塔の屋上に吹く風を気に入っていた私は、ここを離れる理由を見いだせなかった。
 ゴルベーザ様が飽きる日はそう遠くないと思われた。どんなに穏やかでどんなに幸せでも、私達の暮らしは『家族ごっこ』に過ぎなかったからだ。
 ――――『家族ごっこ』。
 魔物の命は長く、人間の命は短い。儚い時間が混じり合い、小さな幸せが生まれた。虚無の中で生きてきた私にとって、この生活は新鮮だった。ゴルベーザ様は、私の腕を求めて笑った。
 彼と出会ってから、二年もの月日が流れた。彼は、少しずつ大きくなっていく。私は変わらない。変われない。やがて、私は何かに怯え始める。魔物に囲まれて生きる人間の末路とは、一体どういうものなのか。

 出かけよう、とゴルベーザ様に持ちかけたのは私だった。基本的な買い物はメーガス三姉妹に任せているのだけれど、時折無性に買い物がしたくなることがある。部屋に篭ってばかりいるゴルベーザ様が気になっていたこともあり、「甘いものでも食べましょう」と、私は彼を誘い出した。
 やってきたのはトロイアだった。水が美味しくて風が気持ちいいこの町は、私のお気に入りだった。人間の服を着ることは面倒だったが、この町に遊びに来る為なのだと思うと苦にはならなかった。
「人間がいっぱいだね」
 町に入るなり私の陰に隠れたゴルベーザ様は、小さな声でそう言った。足元にしがみつく彼がいつもよりも小さく見え、私は茶色い頭を撫でながら笑った。
「買い物って、何をするの?」
 問われ、思い出す。そういえば、彼は一度も買い物をしたことがないんだった。「これがお金よ」と金貨を手渡すと、「これで何をすればいいの?」と首を傾げた。「欲しいものの名前を言ってお金を手渡せばいいわ」と答えると、「欲しいもの?」と睫毛を瞬かせる。
「そう、欲しいものよ」
「欲しいもの……」
「甘い食べ物とか飲み物、着たい服や遊びたいオモチャ、何でもいいの。……ほら、あの人間がジュースを売ってるでしょう? 一杯五ギルって書いてある。この金貨を渡して『一杯下さい』って言えば、ちゃんと売ってくれるわよ」
「ジュース……」
 金貨を握りしめた手を胸元に引き寄せ、不安げな表情を隠そうともせず、それでも私が助けてくれないのだと判断すると、彼はジュースに向かって駆けていった。
 しばらくの後ジュースを手に帰ってきた彼は、どこか恥ずかしそうにしながら私にお釣りを手渡した。
「出来たよ! ちゃんと買えたよ! ……の、飲んでも、いい?」
「もちろん」
 ちらりとこちらを見、カップに口をつける。葡萄の良い香りと彼の笑顔が、私の口元を綻ばせた。こんなに喜ぶのなら、もっと早く連れてきてあげれば良かった。
「他に欲しいものはある? あるなら、買いに行きましょう」
 ごくごくとジュースを飲み干した彼は、袖で口元を拭って首を横に振った。
「……バルバリシアが欲しいものを見に行こうよ。バルバリシアは、食べ物を食べられないし……僕は、これで十分だよ!」
 胸が、酷く痛んだ。私は食べ物を口にすることが出来ない。それを知っているからこそ、彼は私に気を遣う。私が人間だったなら、もっと彼を笑顔にしてあげられたのに。彼に気を遣わせることもなかったのに。
「……ゴルベーザ様、ここの水はとっても綺麗なことで有名なの。ちょっと足を浸けてみない? 冷たくて気持ちがいいはずよ」
 ゴルベーザ様の手を引いて、湖へと向かった。

「ねえ、聞いて、ルビカンテ」
 眠るゴルベーザ様を腕に抱き、ルビカンテは空を見上げていた。月が輝く夜だった。私達魔物は、この光の下でしか生きられない。窓枠の中にはまっている月の明りは、青く切なく、私達を包み込んでいた。
 私は顔を歪めてしまっていたのだろう。振り向いたルビカンテは目を丸くしていた。
 小さな寝息、胸が痛む。息を潜めた。
 「どうした」と、ルビカンテが、掠れた声で言った。
「私ね」
 私がちらりとゴルベーザ様を見ると、ルビカンテは何かを察したらしく、ゴルベーザ様をベッドに寝かせた。シーツを掛けて頭を撫でる。「私ね」もう一度言った。
「ゴルベーザ様を、捨てようと思う」
 驚きの色を隠そうともしない黄色の瞳。魔物のくせに、あんたは何でそんな人間くさい顔をするの。歩み寄ってくるルビカンテの顔を、ただひたすらじっと眺めた。あんたには分からないのとわらった。
「ゴルベーザ様は、人間達と生きるべきだと思う。だって、ゴルベーザ様は人間なのよ。私達とは違うわ。ここを出て、本物の……本物の、家族を作らなきゃ」
 ルビカンテの大きな図体が微かに動いた。
「頭のいいあんたのことだから、それくらい分かってるんでしょう」
 自らの尖った爪の先を見つめてから「ああ」と彼は頷いた。
「……分かっている。ただ、分かりたくなかっただけだ」

 そうして、私達はゴルベーザ様を捨てた。
 食べ物を持たせ、綺麗な服を着せて、大きく豊かな国――バロン――の前に置き去りにした。行かないでと叫ぶ声を聞かぬようにするため耳を塞ぎ、濡れた瞳を見ぬようにするため目を背けた。人間は、魔物よりも優しい。そう信じていた私達は、彼の言葉を聞こうともしなかった。

『行かないで、ルビカンテ、バルバリシア。僕を一人にしないで!』

 それは、よく晴れた夜のことだった。けれど、数時間後には叩きつけるような雨が降り始めて。焦って探して見つけ出したとき、彼は表情を失っていた。笑顔は以前のような笑顔ではなく、人間らしさを刃物で切り裂いたかのようなかたちをしていた。
 ゴルベーザ様はものを拾ってくる癖がある。そのことに気がついたのはこの時で、彼がルビカンテの口調を真似始めたのも、この時からだった。


   三.カイナッツォ

 はっきり言って、拾われたという実感はなかった。あんなガキに拾われただなんて、そんなこと、この俺様が認められるわけがない。
 ゴルベーザとは――――いや、ゴルベーザ様とは森の中で出会った。どこからともなくいい匂いが漂ってきたので、今日の晩飯と決めて近づいたのだ。
 誘われて近づいてみれば、それはそれはひ弱そうなガキだった。

「へへ」
 ずるりと舌舐めずりして、そうっとそうっと近づいた。薄紫色をしたローブが揺れている。歳は十五歳前後か、これは食いでがありそうだ。涎が垂れた。四つん這いのまま近づいて、足首を掴んでやるつもりだった。
 ぎろり。ローブよりも僅かに濃色の瞳が、虫けらを見る動きでこちらを見た。ぞくりとした。笑った。笑ったのは、相手の方だった。
 舞い上がったのは、炎だ。避けようとしたが、炎と同時に目の前に現れた不思議な光に気を取られてしまい、避けきることが出来なかった。
「う、あ……っ!!」
 じゅうじゅう焼け焦げるにおいが鼻をついた。熱さに喚く腕を押さえてガキを睨む。こんなガキがファイガを使えるだなんて、誰が思うだろう。ちいっと舌打ちをする。『多分ブリザガも使えるんだろうな』という考えが頭を過ぎった。それはやばい。俺は、冷たいものが苦手なのだ。
 俺は、水を集めることにした。意識を集中する。ガキはひたすら笑っていた。
「――――面白いことをする奴だ」
 声変わりする前の高くて子どもっぽい声が、おっさんくさい言葉を吐いた。俺は目を丸くする。おかしなガキだと思ったが、ここまでとは。
「続けろ、何をするつもりなんだ?」
 馬鹿にされていると気付き、俺は集めた水を放つことにした。頭に血がのぼり、ぎりぎりと歯を食いしばる。
 集めた水は生き物のように跳ね、ガキに飛びかかった。
「……ゴルベーザ様!!」
 何かが、ガキに覆い被さった。赤いマントが翻る。そのマントによって跳ね返された水が、こちらに向かってきた。すんでのところで避けて見上げれば、赤い魔物が俺を睨んでいた。
 もしかして、その獲物を横取りするつもりなのか。
「おい! そのガキは俺のだ!! 横取りはやめろ!!」
 赤い魔物はガキを抱きしめ、「馬鹿なことを」首を横に振る。「貴方もですよ、ゴルベーザ様」きょとんとした表情で何度か目を瞬かせた後、ガキは赤い魔物の体をぐいと押し退けた。
「ルビカンテ、どうして手を出したんだ。私一人で十分だったのに」
「万が一、ということもありえますから。ゴルベーザ様に怪我をさせたら、バルバリシアやメーガス三姉妹達に何と言われるか」
 一人と一匹は、ひたすら何かを言い合っている。
 俺を無視して話を続けるなんて、いい度胸してんじゃねえか。
 水が効かないとなると、俺にはこれしかない。
 呪文を唱え始めた俺を見て、赤い魔物は溜息をついた。
「……まだ続けるつもりなのか」
 ガキがさっき放った、緋色の炎。緋色の隙間から見えた金色の光を思い出す。あの金色は、無意識のうちに放たれたものだろう。あれを辿れば、面白いものが見られるに違いない。
 ずるり。俺の体がとろけ、形を変えだした。視界が揺らぐ。二足歩行の生き物になる。女だ。人間の、女。あの光は、この女の髪の色だったのか。
「ひっ」
 初めて、ガキが怯えた声を出した。顔を手のひらで覆い、首を横に振っている。
 俺の特技――――それは、化けることだった。意識すれば、何にだって化けることができる。化けた相手の口調を真似るのも得意なことの一つだ。今はこの女の正体が分からないから、口調を真似ることはできないが。
 人間の女、人間の女の喋り方。
 唇の端をぐいっと持ち上げて、一般的な女の喋り方で話すことにした。あのガキの名前は、ゴルベーザとかいったか。
「ゴルベーザ」
 俺の喉から出たのは、包み込むような優しい声だった。
「久しぶりね」
「……あ……っ」
 喉を掻き毟る仕草を見せ、「ちがう」ゴルベーザは掠れた声で言った。
「…………ちが……だって……かあさ…………死……」
「落ち着いてください、ゴルベーザ様! これは魔物です!」
「……その、名前……呼ばない……で……っ……だって、僕の名前は……ぼくの、ぼくのなまえは、だって、なまえ……は……」
「ゴルベーザ様、記憶が……?」
 耳を塞いで目を閉じる。全てを遮断してうずくまる姿は、まるで卵だ。卵の中に閉じ篭って、ゴルベーザは何もかもから自らを守ろうとしているように見えた。ゆらり、突然立ち昇った薄紫の炎が、ゴルベーザの体を包み始める。
 暗い瞳に射抜かれ、防御しようとしてももう遅い。脳をぐらぐら揺らす衝撃に見舞われ、地面に転がった。何の魔法かは分からなかったが、体を貫く痛みは分かった。全身に、太い針で刺したような痛みが走る。
 血の臭い。砂利の味がする。血に塗れた金の髪が視界に映る。術は、まだ解けていない。俺は女の姿のままだ。血反吐を吐いた。痛い、痛い。
「ゴルベーザ様!!」
 赤いのが叫んだ。うるせえ黙れ。頭ががんがんするだろう。
 ああもう、痛い。こんなガキ、無視しておけば良かった。こんな奴に殺られるなんて。人間なんかに殺られるなんて。
「かあさん」
 薄紫色の瞳は涙でびしょびしょだった。何でそんな目で見るんだよ。お前がやったんだろ。お前が、俺を殺そうとしたんだろ。ああでも、最初に手を出したのは俺なんだけどな。
 クソ、悔しい。
「かあさん、ごめんなさい」
 赤いのの腕の中で、ゴルベーザはただただ泣いていた。意識が遠ざかる。息もできなくなってくる。あれほどのすごい力を持っているくせに、何で泣くんだ。力が全てじゃないのか。力があれば、それでいいんじゃないのか。少なくとも、俺の人生ではそれが全てだった。力のないものは殺られていくだけで、生きている価値もありゃしない。力で手に入れられないものなんて、俺は知らない。
「かあさん、あのね……」
 どこか幼い仕草で、ローブの胸元を掴みながら。
「ぼく、おとうとをころしたんだ」
 襲い来るは、闇。
 『弟を殺した』――――その言葉だけが、俺の頭にこびり付いて響き続けていた。

 目を覚ましたとき、俺はわけの分からない塔の中にいた。赤いの、ルビカンテが言うには、ゴルベーザが俺を助けたらしい。こりゃまた意味が分からねえ。俺を助けて、それからどうするつもりなんだ。
「このルゲイエって奴の実験材料にでもする気か? 勘弁してくれ」
「違う」
「じゃあ、どういうつもりだ。亀鍋にでもして食うつもりか」
 自虐をこめて言うと、ゴルベーザは笑った。薄紫色のローブが朝風に揺れている。朝の光は金に輝いていて、彼の薄い産毛まで透かして照らしてしまいそうだった。
 哀しい目をして笑う奴だ。人間ってのは、楽しい顔をして笑うんじゃないのか。しみったれた顔しやがって、ガキのくせに。
「私の子分になれ。勝負に負けたんだから、当然だろう?」
 何を言い出すんだ、こいつ。
 見れば、ルビカンテはゴルベーザの背後でふき出している。その傍にいる金髪姉ちゃんが、腹を抱えて笑っていた。
「……返事は?」
 声の端に不安を浮かべて訊くもんだから、俺はついつい頷いてしまった。
 まあいいさ。暇潰しには丁度いい。


   四.スカルミリョーネ

 私とゴルベーザ様が出会ったのは、夕陽が眩しく感じられる時刻のことだった。
 当時、既に私の体は朽ち果てたアンデッドになっていて、自らの身を持て余していた私は、生きることも死ぬこともできず、ただ横たわっているばかりだった。

 何故、こんなことになっているのか。自分が何者なのかもまま、ただ呆然と前を見遣る。分かるのは、己の体が腐っているということだけだった。草原に響くのは風の音と鳥の啼き声で、ぐちゃぐちゃどろどろの体は蝿をたからせていた。橙色の光を落とす太陽は徐々に沈みつつあって、霞んで歪んだ視界いっぱいに広がる橙は、腐った脳みそを食べ尽くしてしまいそうだった。
 体の中では、様々な記憶が渦巻いている。どうにかこうにか瞳を動かして見た自らの腕はどう見ても異形のそれで、骨を露出させていた。尖った爪は黄色く、大きな獣を思い起こさせる。歪んだ骨があちらこちらから飛び出していて、剥き出しの歯はがたがただった。
 記憶の底に存在していたのは、『生きていたい』という感情だった。死の淵に立たされていたあの時、死にたくないと叫んだように思う。それ以外は、何も思い出すことが出来なかった。
 永遠とも一瞬ともつかない時間が、延々と流れては消えていく。何度も夕陽を迎えては見送り、朝になってまた夕陽を迎えて夜になる。飲まず食わずでいても、私は死ぬことが出来なかった。鳥や魔物が私の体をつついたり転がしたりしに来たが、状況は全く変わらない。ぼろぼろになっていく肉体とは裏腹に、頭の中は爛々と輝いている。そうしてまた、目の前に夕陽が顔を出した。
「面白いものというのは、これのことですか」
 降ってきたのは太い声だ。驚いてそちらを見上げると大きな魔物の姿が見えたが、逆光のせいでよくは見えなかった。
「そうだ。面白いだろう?」
 新しい声が降ってきた。張りのある、青年の声だった。
「……面白い、ですか? 私にはよく分かりませんが」
 青年が近づいてくる。顎を持ち上げられ、骨が鳴った。「黄色いが、人間の目をしている」と言いながら、青年は私の瞳をなぞり、撫で、指の腹で押し――――そこまでされてようやく、彼が私の眼球を刳り抜こうとしているのだと気がついた。
「……やめ……」
 言葉は自然に零れた。「人間の言葉を話せるのか」と笑った彼は、手が汚れることも構わずに私の頭を撫でた。彼が顔を傾けた瞬間、逆光の力が弱まる。青年の顔がよく見えるようになる。薄紫色の瞳が、ちらと光った。
「持って帰るぞ」
「……その、何でもかんでも連れ帰りたがる悪癖を直される気はないのですか」
「悪癖? その悪癖で命拾いをしたのは誰だ?」
 言いながら、私の背に生えている骨を強く握った。
「……私、ですが」
 ふん、と鼻で笑い、「テレポを唱えろ」と彼は魔物のマントを握った。

 そうしてテレポでやってきた場所は、見知らぬ塔の中だった。美しい女性の魔物と、亀のような形をした魔物、それからさっきの大きい魔物が私を取り囲んでいる。青年はといえば、黒い竜を抱きしめながら椅子に腰掛けていた。
「まぁた拾ってきやがった。こんな腐った野郎を一体どうするつもりなんだ」
「ゴルベーザ様、何でまたこんなものを……何で止めなかったのよ、ルビカンテ」
「私は一応止めたぞ」
 先程までの場所とは違い、塔の中は冷えていた。青年が、口を開く。やわらかそうな髪が美しかった。
「『こんなもの』ではない。何種類もの生物の死骸が組み合わさってできたアンデッドだ。そうそう見られる代物ではない」
 これから何をされるのか、全く検討もつかない。
「死骸のそれぞれが、『生きたい』と願ったのだろう。醜い姿になっても構わない、どんなことになっても良いから生きたい、そう望んだのだろう。……その貪欲さが、面白い」
 『生きたい』と願った――――? 私が? そう望んだのか?
「お前の体は、『生きたい』と望んだ者達の肉体で出来ている。恐ろしいほど貪欲な感情が、お前の体を作ったのだ」
「……『生きたい』と望んだ覚えはない……私は、死にたかった。本当に朽ちてしまいたかった。……こんな……こんな姿になってまで、生きていたくはなかった……」
「だが、お前が望んだことなのだ」
「ち、がう……! 望んでなどいない……っ」
 手を伸ばし、青年の腕を掴んだ。鋭い爪が突き刺さり、血が滲む。黒い竜が威嚇の声をあげて私に咬みつこうとするのを、青年が止めた。
 ぽた、ぽた、血が滴る。白い肌に散る赤は眩しくて、香しい匂いを放っていた。
「お前は、自分のことを醜いと思うのか」
「……当然だ。こんな……体……」
「私は、醜いとは思わぬ。お前が望むなら、力を与えてやってもいい」
 血は滴り続けていた。それなのに、青年は微笑みを崩さない。恐ろしくなって手を放すと、赤い魔物が回復魔法を唱えた。傷口が癒えた腕をちらりと見遣ってから、私の両頬を手で挟み、顔を覗き込む。薄紫色の瞳には、醜い私の姿が映っていた。
「お前より、私の方が醜い」
 青年は、端正な顔立ちをしていた。薄めの唇も、大きめの目も、白い肌も、全てが輝いているように見える。汚いところなど、どこにもなかった。一点の曇もない瞳をしていた。首を横に振ろうとするも、それは彼の手で阻まれて許されなかった。
「私は、お前を醜いとは思わぬ」
 もう一度。眉を微かに下げ、うっすらと笑みながら彼は呟いた。黒い竜が、甘えるようにその背後に擦り寄る。これほどまでに真っ黒な竜がいるものなのか。漆黒は不吉な色そのもので、この竜も行き場所がない者なのではないかという考えが頭を過ぎった。頬にそえられた手に触れると、背に、痺れにも似た感覚が走る。
 ――――彼の傍に居たい。
 感情は突然やってきて、私の胸を締めつけた。
 彼の役に立ちたいと思った。彼を守りたいと思った。彼なら私を認めてくれる、そう思った。哀しくも鮮やかな瞳の残像が、目の奥に焼きついて離れなかった。
 いつの間にか、私は涙を流していた。彼は獣の仕草でその涙を舐め、「塩辛い」と眉根を寄せた。
「そいつ、腐ってるんだろ? ……腹壊しても知らねえぞ」
 亀の魔物が意地悪く言う。
「壊しても、ルビカンテが治してくれるだろう?」
 彼の言葉に余計に涙が止まらなくなって、青年の細い体にしがみつくしかなかった。


   五.セオドール、ゴルベーザ

 私の胸にはいつも大きな穴が空いていて、隙間風がびゅうびゅう吹いていて、大切な物はさらわれて、真っ黒な煤が残るばかりで、だから、何かを拾って掻き集めれば、この空虚な胸が埋まるのだと思っていた。だが実際は埋まることなどなく、穴は大きくなっていく一方だ。大きくなった穴は、いつか私を飲み込んでしまうだろう。
 ただ漠然と、そんな気がしていた。

「ここにいらっしゃったんですか。もう夕飯の時間ですよ」
 本を読んでいる私にそう話しかけたのは、ルビカンテだった。書庫の中は既に真っ暗で、月明りだけが微かに降り注いでいる。埃まみれになったローブの裾をはたいてから、読みかけの本をぱんと閉じた。
「……何というか……ここは、本当に散らかっていますね。無造作に積まれた本が、まるで塔のようだ。早めに片付けなければ」
「ここはこれでいい」
「危険です。崩れてきたら、怪我をしますよ」
「普通の人間なら、怪我をするだろうな」
 唇を引き結んだ後、ルビカンテは黙ってしまった。言いたいことがあるなら言えばいいのに、馬鹿がつくほど生真面目なルビカンテにはそれが難しいようだ。
「一体、何の本をお読みになっていたんですか?」
 言いたいことを言うのは諦めたらしい。近づいてきたルビカンテに、読んでいた本を手渡した。大きく分厚いそれを片手でひょいと受け取って表紙を見、「クリスタル……ですか」首を傾げた。
「そう、クリスタルの本だ。私は、クリスタルを集めようと思っている。地上のものだけでなく、地底にあるものも、だ」
「何故、クリスタルを? あんなものを集めて、一体どうしようというんですか」
 ルビカンテの瞳は、不安を湛えて揺れていた。私を心配しているのだと分かる。本当に、人間のような魔物なのだ。けれど、こんな理性の塊のような男の瞳の中にも獣の色が滲むことがあって、それは魔物の本性に他ならなかった。
 生きる場所が、世界が違うのだと思い知らされる。お前が幸せに暮らせる場所などどこにもないのだと、頭の中で暗い声が響く。ルビカンテの手は暖かくて、触れられると優しい気持ちになれる。それなのに、私の居場所はここにもありはしないのだ。
「頭の中で、声が響き続けているんだ」
 私の言葉を聞いたルビカンテは、うずたかく積み上げられた本の側にしゃがみ込み、こちらの顔を覗いた。ルビカンテの体温が伝わってきそうなほど近い距離だ。
「声……? 一体誰の」
「分からない」
「では、どんな声なんです」
「暗い……暗い声だ。世界の果てから響いてくるような声だ。その声が、『クリスタルを集めろ』と囁くんだ。『クリスタルを集めて月へ行け』と命令する」
 声は、日に日に大きくなっていく。最初は夢の中でがなりたてているだけだったのに、今では隙間もないほどだ。
 自分の思考がどれなのか、暗い声が発している言葉がどれなのか、だんだん見分けがつかなくなってくる。暗い声が『全てを破壊しろ』と嘲笑うから、私の思考もそちらへ傾き、何もかもを憎むような心持ちになってしまう。全てを破壊して、それからどうするつもりなのか。声は教えてはくれないのに。
「スカルミリョーネの時以来ですね。ゴルベーザ様が何かを欲しがるのは」
 ルビカンテに言われ、初めて気がついた。そういえばそうだ。食物を食べることも飲むことも、睡眠をとることすら欲しなくなっていっている気がする。昔は――――ルビカンテと出会った頃は、それなりに物をねだることもあったのに。甘いものが食べたい、毛布が暖かくない、一人寝は寂しいと、我侭をぶつけることもあったのに。
 必要な感情が、徐々に消え失せていっている気がする。
 クリスタルを集めれば、この暗い声は消えてくれるのだろうか。
「う……っ」
 ずきん、と何かがこめかみを刺した。脂汗が滲み出て、視界が反転する。手を伸ばした先にあったのはルビカンテのマントで、溺れる仕草でしがみつくと、掬うようにして抱き上げられた。
「……私の声が、聞こえますか?」
 ルビカンテが、エスナを唱えて言った。気休めにしかならない魔法の温もりは私を癒してはくれなかったけれど、ルビカンテの気持ちが嬉しかった。頷いた私の顔を見て、ルビカンテはそっと微笑む。
 ルビカンテも、バルバリシアも、カイナッツォも、スカルミリョーネも、皆、私のことを思ってくれる。魔物としての本能を隠して、私と共に生きようと努力してくれている。一度捨てられそうになったことを恨まなかったと言えば嘘になるが、抱き上げ抱きしめてくれるこの腕には、いくら感謝しても足りないと思う。
「ルビカンテ……」
「ゴルベーザ様?」
「私は、どうなってしまうんだろうな」
「ゴルベーザ……様……」
「お前だって、気づいているんだろう? 私の体の変化に」
 酷くなっていく頭痛と、頭の奥で囁く声。歯車が狂い始めている。物事が、良くない方向へ進み始めている。凶暴な感情がこみ上げてきて、同時に涙が溢れ出した。
「ゴルベーザ様。私は……私だけでなく他の者達も、貴方がどんな姿になったとしても、必ず貴方の傍にいますよ。貴方が貴方でなくなってしまったとしても、貴方が泣いて嫌がっても、貴方の傍にいます。私に新たな命を与えたのは貴方です。バルバリシアも、貴方なしの人生など考えられないはずです。カイナッツォも口先では文句ばかり言っていますが、貴方の帰りが遅い時は誰よりも心配して落ち着きをなくしています。スカルミリョーネは、貴方に生きる意味を与えられたと言っていました」
 溢れる涙を指先で拭いながら、ルビカンテは囁くように口にした。
「皆、貴方のことが好きなんですよ」

 ルビカンテの言葉は、瞬間的にではあったが、私の心を軽くしてくれた。だが体は確実に最悪の方向へと向かっていて、記憶が飛んでなくなってしまうこともあった。記憶が飛んだ後は必ずと言っていいほど『何かの』返り血を浴びていて、そんな私の姿を見ても、ルビカンテ達は何も言わなかった。

「ああ、また……」
 目を開くと、そこは自室だった。いつの間にか、床で眠っていたらしい。
「また、私は」
 朝日に照らされた指先は、血で真っ赤に染まっていた。人間のものなのか魔物のものなのかは分からない。胸を侵食している憎しみだけが、私の心の中でその存在を誇示していた。
 怖かった。この先誰を傷つけてしまうのか、どれだけの者を殺してしまうのか。考えるだけで、歯の根が合わなくなった。
 頭の中では常に誰かが哂っていて、虫の羽音じみた唸りが耳の奥を犯している。「殺せ、憎め」という声は絶えることなく響き、私の本性をひたすら歪めていった。
 ゆっくりと立ち上がり、浴室へと向かう。血を洗い流してしまいたかった。
 着替えを抱え、扉を開き――――そこまでは、いつも通りだった。首を左に回して鏡を見ると、異様なものが目に入った。
 鏡の中、血に塗れた青年が立っている。
「え」
 力が抜け、着替えが手から滑り落ちた。ひゅう、ひゅう、喉が鳴る。笛の音が止まない。鏡に映る自分から、目を離すことができない。血に濡れた銀の髪。それは、記憶の中に封じ込めたはずの色だった。
 銀色は、弟の色だ。
「あ、ああぁ……あ……!」
 自らの髪を握り締め、思い切り引っ張る。ぶちぶちと切れる音がしたが、痛みは殆ど感じなかった。立っていられなくなって座り込むと、てのひらの上には血だらけの銀髪がのっていた。
「……いや、いやだ、いやだいやだいやだ……!」
『お前が殺した弟の髪の色だ』
「ひ……っ」
『お前が捨てて、殺したのだ』
「ち、ちがう、ちが」
『魔物と獣がいる森の中へ、置き去りにしたのだ』
「あの、ときも……頭の中で声がして、息が出来なくなって……『お前はゴルベーザ』だって言われて、何も分からなくなって、気がついたら森の中にいて」
『そして、弟を見殺しにした』
「弟のことを憎いと思ったことなんて、一回もなかったのに。確かに、弟を産んだから母さんは死んだ。でも、弟は悪くないってことくらい分かっていた。なのに、私は」
『お前は、弟を恨んでいたのだ。殺してしまいたいと思うほど、憎んでいた』
「違う……でも、泣いている弟を置き去りにしたのは事実だ……」
 指に絡む銀の髪。泣いていた弟の声。やわらかくて優しいミルクの匂い。あんなにも必死で、私を呼んでいたのに。たった一人の家族だったのに。
「……ふ、……っ……」
 顔に散った血が、涙で溶け出した。視界が赤く染まり、口の中にしょっぱいものが広がる。私の本当の名前は、何だったろうか。何も思い出せない。
 何もかもを壊せという声がする。全てを憎めという声がする。私が私でなくなっていく。声が出ない。
「ゴルベーザ様!!」
 ルビカンテの、バルバリシアの、カイナッツォの、スカルミリョーネの声が遠くで聞こえた。私に近づいてはいけない、離れろ、そう叫びたいのに、喉は掠れた息を吐き出すばかりだ。
「ゴルベーザ様、しっかりして下さい!」
「てめえ、また殺してきやがったのか」
「……その、髪の色……」
 ルビカンテが、私の体を抱き起こす。憎まれ口を叩くカイナッツォの顔は、悲しげに歪んでいた。私の髪を撫でるバルバリシアの手は震えていて、皆の一歩後ろでこの様子を見ているスカルミリョーネは、ただ浅く浅く息を吐いていた。
 私から離れろ。やっとのことで口を動かしても、声は出ない。けれど唇の動きを読んだらしいルビカンテは、「何があったんですか」と私の体をきつく抱きしめた。離れろと言っているのに、どうして。
「……私達が貴方の傍を離れて……離れたら、貴方は一体どうなってしまうんです。貴方の体と心は、どこへ行くというんですか」
 お前達を傷つけたくないんだ。お前達を殺してしまうのが怖いんだ。もう、誰も傷つけたくない。独りになりたくないんだ。
 歪んでいく心を止められない。手に入れた幸せが、指先をすり抜けて逃げていく。
 やっと、見つけたと思ったのに。やっと、幸せになれると思ったのに。


 あれは、いつのことだったか。カイナッツォが体調を崩し、床にごろんと寝そべっていた時のことだ。「看病してやる」と言った私に目を丸くして、「亀鍋はやめてくれよ」とカイナッツォは笑ったのだった。濡らした布を何度も絞って額にのせると、『まるで本物の家族みたいだ』という考えが頭の中を過ぎった。
「こんな風にされたのは、生まれて初めてだ」
 白魔法が効かないなら、痛みが消えるのを待つしかない。私の太股に頭を置き、腰を抱いて、カイナッツォは目を閉じていた。そうしてまた、口を開く。
「……例え体が変になっても、頼れるのは自分だけだったからな。だから、力が全てだと思っていた。弱い奴なんて、生きる意味すらない。そう思っていた。でも――――」
 今にも泣き出しそうな声で、カイナッツォは言った。
「――――力だけじゃねえんだよなあ。力が強くたって、心が弱い奴もいる。その逆だってある。おまえ……いや、ゴルベーザ様と出会って知ったことが山ほどある。見た目が可愛くたって、俺より強い奴もいるってな。見かけに騙されたら終わりだってことも知った。強すぎる力に苦しんでいる奴がいるってことも、知った」
 温くなった布を氷水に浸す。ちゃぷんからん、桶から出した布を絞り、カイナッツォの額にのせた。
「馬鹿なことを言う奴だ。私は、可愛くなんてないだろう?」
 そう茶化すと、黄色い瞳が見上げてきた。笑っている。「可愛いさ」鋭い牙を見せながらそう言ったので、耳がかあっと熱くなった。
「……けどなあ。可愛いとか、そういうことを思っちまったら駄目だって思うんだよ。好きになればなるほど、頭からバリバリ喰っちまいたくなる。他の奴らも同じだろうな。魔物としての本能を消すことは出来ねえから」
「それなら、食べればいい。頭から喰われてお前の血肉になるのも悪くない。独り占めすることに戸惑いを覚えるのなら、皆で分けて喰えばいい」
「……おいおい、縁起でもないこと言うなよ。いざ喰われるって時になってから泣き叫ぶのはお前だぞ」
 額に置いてあった布を手に取って、カイナッツォは起き上がった。わずかにぐらりとふらついて頭を振り、視線をやや遠くへ遣った。
「お。どうした、バルバリシア」
 荒々しい調子で扉が開き、部屋に入ってきたのはバルバリシアだった。顔面蒼白だ。
「た、食べるとか何とかって話が聞こえてきたから……びっくりして……っ」
「んあ? 例え話だよ、たーとーえーばーなーし。俺がゴルベーザ様を喰うとでも思ったか? こんなチビ、喰っても栄養になりゃしねえ。髪の毛一本にもならねえよ」
「あんたには髪なんてないじゃない! つるつるの癖に!」
「つるつるで悪かったな!」
 がばっと私に抱きついて、「食べたら承知しないわよ!」とバルバリシアはカイナッツォを睨む。そのうちすんすんと泣き出したので、「悪い、言い過ぎた」とカイナッツォの方が折れる形になった。
「ゴルベーザ様はいい匂いがするから、心配になるのよ」
 気が強いはずの彼女は、私のこととなるとどこかの線が切れてしまうらしい。最初は母のように見えていた彼女が姉のように見えていることに気付き、時の流れを知った。私達は決して、同じ時間を生きることは出来ないのだ。
 私一人が取り残されてしまうのか。それとも、私が彼らを残して逝ってしまうのか。
 私を抱きしめている腕からは風の匂いがして、これが幸せというものなのかもしれない、と錯覚してしまうほどだった。
 つかの間の幸せでも構わなかった。ただ、この優しい腕を感じていたいと思った。この幸せが少しでも長く続くようにと祈り、瞼を閉じる。と眠気に襲われ、欠伸した。
「おお、眠いのか? よし、一緒に寝るか」
「何言ってるの。私が一緒にお昼寝するのよ」
 二人が何かを言い合っている声が聞こえたが、遠く分からなくなっていく。幸せとは、なんて気持ちの良いものなんだろう。暖かくてふわふわしていて、思わず涙が溢れそうになる。
 幸せというものは――――なんて、儚げなものなんだろう。


 手に入れるのは大変なのに、失うのはあっという間だ。
 炎のように燃え上がる感情は、瞬く間に体の中を支配していった。
「きゃっ!」
 バルバリシアが、目を見開いて飛び退いた。
 まず、鏡が割れた。びりびりと部屋全体が微かに震え、それと共に私の脳も震えだし、いつものように、頭の中の声が大きくなり始めた。
 ルビカンテ達から離れなければならない。このままでは、皆を殺してしまう。
 そこら辺にいる魔物とは比べものにならない力を持っている彼らも、私の前では無力なのだ。こんな力、欲しくなんてなかったのに。
 私の腕が、勝手に動く。皆を殺そうと、手を翳す。フレアを唱える私の唇に釘付けになったまま、ルビカンテはゆるゆると首を横に振った。
「ゴルベーザ様……っ」
 何を唱えているのか、ルビカンテは分かっているはずだ。それなのに、彼は私の傍を離れようとしない。「いけません」と言い、詠唱を止めさせようとする。このままでは、皆に当たってしまう。止めたいのに、止まらない。
 掌が光った。赤い光が溢れ零れて、バルバリシアとスカルミリョーネに直撃する。壁に叩きつけられたバルバリシアは声もなく倒れ、スカルミリョーネは床に突っ伏した。赤い光がばちばちと爆ぜ、周囲を覆い尽くす。
 何故、こんなことをしているんだ。
 何故、私に微笑みかけてくれる者達を傷つけねばならない。
「バルバリシア!! スカルミリョーネ!!」
 カイナッツォが、二人に駆け寄った。この光景を見ても、ルビカンテは私の体を放さずにいる。
 どうして、こんなにも心が暗いのだろう。どうして、何もかもが煩わしくて憎らしくて堪らないのだろう。
 指を伸ばした先にあったのは、ルビカンテの太い首だった。
「……ぐ……うぅ……っ」
 ルビカンテに馬乗りになり、首を絞める。
「やめろ!」
 カイナッツォが、どこか遠くで叫んでいるような気がした。
「やめろって言ってるだろう! 殺す気か!」
 私の腕を引き剥がし、睨みつけてくる。咳をしているルビカンテの肩を支えながら、カイナッツォは何かを詠唱した。ちっと舌打ちして、苦笑する。
「俺にはこれしかねえからなあ」
 カイナッツォの体が、溶けて形を変える。人間の女の形になった彼は、「ゴルベーザ」と優しく笑った。カイナッツォと出会った日のことを、思い出した。
「ゴルベーザ」
 優しい、女の声だった。記憶の底にある母の声とよく似た声に、私の心が反応する。頭の中の声が少し小さくなり、今しかないと思った私は必死に声をあげた。
「……逃げてくれ……お願いだ……!」
 叫んだと思ったはずの声は、小さく掠れていた。
「お願いだ……お前達を殺してしまったら、私は……」
 私の心は、完全に壊れてしまう。
 がらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがら、雑音が耳奥で回る。『殺せ、殺せ』と声がする。嫌だ、殺したくない。失いたくない。
 手に残る血が赤黒く固まり、そこに銀の髪がはりついている。私の心を無視する裏切り者の唇は黒魔法を詠唱し始め、その呪文が終わる頃には、心の中はまるで空っぽになっていた。
 最後に目にしたのは、崩れゆく『母』――――変化したカイナッツォ――――の姿だった。


   六.それから

 彼が身につけている鎧は、闇の色をしていた。
「ゴルベーザ様」
 呼ぶと、彼は振り向く。魅力的な笑みを見せる筈の顔は、兜に覆い隠されていた。
「……どうした? ルビカンテ」
 煌めく月の光に照らされても、鎧は光を反射しない。光を浴びることを嫌う彼の為に作られた甲冑は、何もかもを拒んでいた。
「エブラーナが落ちました。残党がいるようですが……元々小さな国です、放っておいても問題ないでしょう」
「そうか」
 マントが夜風にはためいている。興味なさ気に返事をすると、彼は窓の外に視線を戻した。宝石をまき散らしたかのような夜空はあの時から何も変わっていないように見えるのに、私達の関係はといえば、全く違う方向に向かって歩み続けていた。

 ゴルベーザ様の髪が銀色に変化したあの時、私達の『家族ごっこ』は唐突に終焉を迎えてしまった。バルバリシア、カイナッツォ、そしてスカルミリョーネは、あの日を境に、以前とは全く違う態度でゴルベーザ様に接するようになった。
 姉のような態度でゴルベーザ様に接していたバルバリシアは、単なる部下としてゴルベーザ様に跪くようになった。
 子ども同士の喧嘩のように吠え噛みついていたカイナッツォも、嫌味のつもりかと勘違いしてしまうほど『子分』に徹するようになった。
 スカルミリョーネは元来無口な為分かりづらかったが、彼もまた、彼らしい感情を失ってしまったらしかった。
 あの瞬間――――ゴルベーザ様が自らを失った瞬間――――何らかの術がバルバリシア達にかけられたことは、間違いないだろう。バルバリシア達だけでなく、塔の中にいた者達は、皆一様に自らを失ってしまっていた。
 私が術にかからなかった理由は憶測することしか出来ないのだけれど、おそらく、あの瞬間に気を失っていなかったからだと思われた。私だけが、あの光景の一部始終を目にしていたのだ。人形のようになった皆の体を回復したのは私であったけれど、皆の心を回復することまでは出来なかった。
 私だけが変われずに立ち止まっている。

『私は、クリスタルを集めようと思っている。地上のものだけでなく、地底にあるものも、だ』

 あの言葉は、現実のものとなった。町を破壊し人を傷つけ、ゴルベーザ様はクリスタルを集めた。私を含む四天王達は躊躇うことなく略奪行為を行ない、世界は血で汚れていく。
 胸が痛まぬはずがない。それでも、私は彼の望みを叶えてやりたいと思っていた。クリスタルを集めて月へ行けば昔の彼に戻ってくれるのではないかと、虚しい期待を抱き続けていたのだった。
 例え、その願いの果てにあるものが、世界を破滅へと導くものであったとしても。

「ルビカンテ」
 月を見上げていた彼が、自室へ戻ろうとしていた私の名を呼び振り向いた。
「こっちへ来い」
「……はい」
 言われたように近づいて、彼の傍で空を見上げた。
 初めて出会った時の彼の姿を思い出す。乱れた茶色い髪と哀しい微笑み、薄紫色の瞳が印象的だった。今思えば、寂しそうな瞳の奥にはいつだって狂気の色が隠れていたように思う。彼はずっと、『頭の中に直接囁きかけてくる何か』に怯えていたのだろう。抵抗を繰り返し、苦しみながら生きていたのだろう。
 兜の前を片手で覆い、ゴルベーザ様は俯いた。
「……あの月へ行きたい。そう思い、私はクリスタルを奪ってきた。人を殺し、魔物を操り、それが当然なのだと思って生きてきた。だが、時々分からなくなるのだ。何故こんなにも、私は月に惹かれてしまうのか。あの月に何があるというのだ? 目的を果たした後、私はどうすれば良い……?」
 弱々しい声が、少年だったあの頃を思い出させる。この人は、あの頃と変わっていないのではないか。精神を無理矢理ねじ曲げられただけであって、この人の本当の心はどこかで生き続けているのかもしれない。
 微かな希望に煽られて兜に触れると、彼はそっと兜を脱いだ。
 息を飲み、ゴルベーザ様を見つめる。やや伸びた銀の髪が、夜風に靡いた。
「こうして素顔をさらすのも、久しぶりだな」
 彼の素顔を見ることができなくなってから、何年の月日が流れただろう。自らの銀髪を嫌い、降り注ぐ光から逃げていた彼の素顔。年を重ねても変わらぬ薄紫の瞳が、揺れながら月を見上げた。
「私は、間違っているのかもしれない。それでも、月を目指す以外の道を見つけることができないのだ。私には、もう、何もない。そう、何も――――」
 兜が手から滑り落ち、金属音が響いた。ゴルベーザ様は、両手で顔を覆っている。泣いているのかもしれないと考えたが、顔を覆う手が離れた瞬間、その考えが間違いであったことを知った。
 薄紫色の瞳は、硝子玉のように色を失っている。 
「――――明日は、飛空艇でファブールに向かう。カイナッツォにそう伝えておけ」
 いびつな笑みを浮かべ、彼はそう呟いた。



End


Story

その他