薄汚くて、暗くて、じめじめとしていて、空っぽのこの部屋は、私の心だ。
 ベッドと、一つの椅子と、散らかった書類と本。無造作に置かれたそれらが、私の心の虚無を表しているように思えた。
 シーツに包まり、窓を見る。暗い色のカーテンで塞いでしまっているから、星が見える筈もない。
 明日も、今日と同じだ。クリスタルのことだけを思う、虚無な一日になるのだろう。
 そっと目蓋を閉じると真の闇が訪れ、そして。

『ゴルベーザ、クリスタルだ。早く、クリスタルを手に入れろ』

 いつものあの声が聞こえた。


***


「……ゴルベーザ様!」
 張りのあるその声に、驚いて目を開いた。
「起きて下さい、ゴルベーザ様!」
 若い男の声だった。私を怖れてか、誰も入って来ようとしないこの部屋に、一体誰が。
 頭が働かない。ゆっくりと起き上がり、周囲に視線を巡らせた。
「朝ですよ。朝は日の光を浴びないと、体に良くありません」
 しゃあっという音が響き、太陽光が射しこんできて、あまりの眩しさに目を細めた。カーテンを開いた者の正体を確認する。窓が開かれた。一つに纏められた金色の髪が、風にふわりと靡いた。
「ほら、いい天気ですよ」
 そこに立っていたのは、長い金の髪を持つ青年だった。鎧を身に纏ってはいるが、武骨な印象は全くない。まるで風のようにしなやかな彼の雰囲気に、私の目は釘付けになった。
 彼はこちらに歩み寄り、嬉しそうに笑ってみせる。それから、いつの間にか椅子の上に置かれていた一輪挿しを持ち、今度は満面の笑みで私の方を見た。
「この一輪挿しは、バルバリシアから貰ったものなんです。竜の絵が描かれていて、綺麗でしょう? 今から、トロイアの近くにある森に、花を摘みに行ってきます」
 そうだ、思い出した。彼は、先日ミストで拾ってきた青年だ。名前は何だったか。
「俺が帰ってくるまでに、着替えを済ませておいて下さいね。朝食をご用意しますから。朝は、きちんと栄養を摂らないと」
 髪を揺らしながら、一輪挿しを持って、彼は慌ただしく部屋を出ていく。ああ、そうか、あの青年の名前は。
 後ろ姿をぼんやりと眺めながら、私は「カイン」と呟いた。



 数時間後、私は、カインと共に朝食の席についていた。
 この部屋にはテーブルなどなかった筈なのに、カインによってテーブルと椅子が運び込まれ、テーブルの上には先ほどの一輪挿しが置かれ、その中で青い花が一輪、風に吹かれて花弁を揺らしていた。
 朝食を食べるのは久しぶりのことで、どうしたらよいのか分からないような、何ともいえない気分になる。
 カインはというと、私の前の席につき、千切ったパンをぽんと口に放り込んでいる。視線が合うと、彼はまた微笑んだ。
 このカインという男は、バロンの竜騎士団隊長だったと聞いている。何日か前にミストで拾った時は虫の息だった。少しは役に立つだろう、そう思って洗脳し、ルゲイエに治療を任せたのだ。
「……お口に合いませんでしたか?」
「……いや」
 不安げな表情で見上げてくる彼から視線を逸らし、スープを一口飲む。
 騎士らしからぬ行動をする彼に、洗脳が強すぎたか、と思いながら、私は問うた。
「何故、こんな真似をする? 私を起こすように指示をした覚えはないぞ」
 薄めの唇が微かに震え「……ゴルベーザ様のお身体が、心配で……」と哀しげな声を紡ぎ出した。
 落ち込んだ表情の彼を見た途端、私の胸に何かが走った。
「……出すぎた真似をして、申し訳ありません…………」
 手に持っていたパンを置き、彼はすっと立ち上がった。私の足元に跪く。猫の様な動きだった。金の頭は項垂れ、その肩は酷く寂しげに見えた。
「顔を上げろ」
 言えば、はっとした表情でカインがこちらを向く。長い髪がとろりと流れ、瞬間、甘い香りが鼻先をくすぐった。
「怒っているわけではない」
 手を引き、立ち上がらせる。
「明日は、今日より三十分遅く起こせ。それと……朝食の量は、少な目がいい」
 長い睫毛が二、三度瞬き、笑みを湛えた目を彩った。思わず彼の頬に手をやる。そんな自分の行動に驚いた。
 この胸のざわめきの正体は何なのか。分からないまま、光る金糸に触れてみた。


***


 あの日から、私の生活は劇的に変わった。
 ごみ溜めか廃墟のようだった部屋は、整頓され、見違えるように綺麗になった。朝は決まった時間に起き、朝食をとるようになった。
 それだけではない。何より一番の変化を遂げたのは、私の心だった。カインが傍にいる、それだけのことで私の心は熱くなった。
 カインは屈託なく微笑みながら、私に色々なことを話した。
 両親のこと、飛竜のこと。それから、幼馴染のこと。ころころと変わる表情から、目を離せなかった。
 セシルとローザのことを話す時、彼はいつも寂しそうに俯いた。望郷の念に駆られているかのように、眼差しを遠くに向けていた。
『俺は、寂しかったんです。ずっと、三人一緒にいられると思っていたのに……』
 そう話す彼の口元に、いつもの笑みはなかった。セシルとローザの話を聞く度に胸が痛み、いつしか私は、他の人間のことを考えないでほしい、と思うようになっていた。
 
「ゴルベーザ様」
 私の手元にある本にちらりと視線をやりながら、カインはティーカップを机の上に置いた。
「少し休まれてはいかがですか? ぼんやりしていらしたようですし」
「ああ」
 本を閉じて彼の髪を眺めた。
 彼は、いつも私の傍にいる。金の髪からは甘い匂いがして、それが更に私の心を掻き乱した。
 彼を見ていると嵐のように心が喚き、正体不明の息苦しさに襲われる。
 何もかもが分からない。部屋の中に、心の中に踏み込まれるのは嫌だったはずなのに、私はカインの侵入を許している。
 何故か、あの笑顔を見たいと思ってしまう。あの金髪に触れたいと思ってしまう。はっきりしない感覚に、苛立ちは増していくばかりだった。
 立ち上がり、白い頬に触れる。耳朶を撫で、金の髪を梳いた。まだ足りないと思い彼の両手首を壁に押さえつけると、銀製のトレイがけたたましい音をたてて落下した。
「……ゴルベーザ……様……っ」
 驚愕に見開かれた目は、迷いに揺れて震えている。肉食獣のような心持ちになり、無防備な彼の首筋にそっと口づけを落とした。
「な、何を……なさる、おつもりですか……」
 口づけた唇を開き、歯をたてる。紫色の防具に覆われている下腹部を撫で、「鎧を脱げ」と囁いた。
 洗脳されているとはいえ、流石に躊躇いがあるのだろう。彼は「はい」とは言わなかった。
「一体何を……」
 磔にしたまま、唇を塞ぐ。呻き声を奪い取れば、甘い痺れが背筋に走った。
 それは、喜び、悲しみ、全ての感情を忘れていた筈の私の中に芽生えた、温かな光だった。カインを離したくない、と思った。
「……ゴルベーザ様………」
 青い瞳を覗き込み、唾液に濡れた薄い唇をもう一度塞いだ。



 全てを脱ぎ捨てて、彼はベッドに腰掛ける。いつも鎧に包まれている肌は白く、高い跳躍力を持つ足は野生の獣を思い起こさせた。
「……本当に、いいんですか」
 真っ直ぐな瞳をこちらに向けて、彼はシーツを手繰り寄せた。
「本当に、とは?」
 問えば、視線が泳ぐ。
「本当に、俺でいいんですか」
「構わん」
「…………身近にいる俺で間に合わせるおつもりですか。それとも、俺でなければいけない、ということですか」
「……カイン」
「お願いです。答えて、下さい―――」


***


 ミストで倒れ、次に目覚めたとき、俺は俺でなくなっていた。
 体調は万全で、悩みもない。幸せそのものになっていた。
 俺はセシルとローザのことで悩んでいたはずだったのに、その悩みは酷く薄れた過去のものとして存在していた。
 幼い頃のままでいられないなら、セシルとローザを殺してしまえばいい。そうすれば、全てが終わる。悩む理由はどこにもない。
 この考えはおかしい、いや、考えだけではなく、他にもおかしいところがある気がする。そう思うのに、俺はゴルベーザ様の傍を離れることができずにいる。
 ゴルベーザ様は、酷く寂しい生活をしていた。真っ暗な部屋に住み、陽の当たる場所を避けるようにして生きていた。俺は、荒れたあの人の生活をどうにかしたいという衝動に駆られ、彼の傍にいるようになった。
 どうやって彼と出会ったのか、どういう経過でセシルと敵対することになったのか。探しても探しても、答えは見つからない。
 俺に分かることといえば、ゴルベーザ様がいつも哀しそうな表情をしていることと、彼の傍にいると心が安らぐこと、それだけだった。
「カイン、私は……」
 ゴルベーザ様が俺の肩に触れた。
 答えが欲しかった。俺は、この人の何なのか。この人は、どうしてこんなに哀しげな瞳をしているのか。何故、親に捨てられた子どものように途方に暮れた瞳をしているのか。
 この人の哀しげな瞳をどうにかしたい、と思う。この感情は、同情から来るものなのか。分からない。何も分からない。それでも、この人を放っておくことはできなかった。
 薄紫の瞳を見る。哀しみにうちひしがれた瞳。ほら、またそういう顔をする。俺が目の前にいるのに。それとも、俺が目の前にいるからなのか。
 首に腕を回し、引き寄せる。冷たい鎧が俺の胸に触れ、次に唇が頬に触れた。更に強く引き寄せると、二人でシーツの上に転がった。素早く身を起こし、俺はゴルベーザ様の上に馬乗りになった。
「俺は、単なる人形ですか?」
「違う、カイン」
 ゴルベーザ様が、首を小さく横に振る。
「……お前のことを思うと、胸が痛くなる。触れたくて堪らなくなる。この感情がなんなのか、私には分からない」
「…………ゴルベーザ様……」
「可笑しいだろう。自分の感情が、分からないだなんて……」
 顔を寄せ、どちらともなく口づける。『もう戻れない』。そんな言葉が脳裏を過ぎった。
 俺と同じ目を持つ人。何もかもを諦めている、そんな瞳を持つ人。
 いつの間にか体勢を変えられ、俺は押し倒される格好になっていた。口づけが深いものへと変わっていく。彼の胸甲を外し、俺は彼の肌に触れようと躍起になった。抱きしめられる。痛いほど強く、抱きしめられる。
 胸が痛くて切なくて、堪らない。張り裂けそうな想いを抱いて、彼の背を引っ掻いた。



「ひ…………っ」
 大きく開かれた足の間に、彼の猛りが押し当てられた。そこは垂らされた香油と俺の先走りで濡れている。男と寝たことはない、寝たいと思ったこともない。では、これは夢なんだろうか。頭の端で考えた。
「あ、ああ、あ……」
 無理矢理に拡げられていく感覚に、目蓋の裏が瞬いた。彼もまた、眉根を寄せながら堪えるような息を吐いている。その様が愛おしい。口づけたくて堪らなくなった。
「……ゴルベーザ、さま……っ」
 体を二つに裂かれてしまうと思うほどの、激しい痛みがやってくる。けれど、心はとても穏やかだった。彼の腕に爪をたてれば、口づけたいという想いが届いたのだろうか、そっと覆い被さってきた。
 頭を優しく撫でられて、深く口腔を探られる。中を抉っているものが、大きさを増した。
「すまない……余裕が、ない」
 切羽詰まった調子の彼の声に、ぞくりと肌が粟立つ。彼の息が唇にかかる。それだけのことで、達してしまいそうになった。
「動くぞ」
 頷き、彼の背に掴まった。縋りつくのが精いっぱいだった。限界が近いことを知った。
 痛くて堪らないはずなのに、心が満たされていくのが分かった。
「ん、あ……あぁっ!」
 胸を撫でられ、おかしな声が出て、顔が熱くなった。視界が霞む。がくがくと揺さぶられた。
「……ああ、あっ……、熱い、あつ、い……っ」
 下腹部に欲望が凝る。瞬間、達してしまっていた。
 俺が達しても、抜き挿しは止まらない。それどころか更に抽迭を早められ、頭の奥がぐちゃぐちゃになった。
 彼の汗が滴り落ちてきて、俺の汗に混ざる。溶けてしまう。体が溶けて、どうにかなってしまう。
「ひ、い、あっ、あぁ……、や、休ませて……くだ、さ……い……!」
 懇願しても、止まらない。唇を閉じることができない。喘ぎを抑えることができない。
 部屋中に満ちる、香油の匂いと濡れた音。開きっぱなしになっている唇の端から、唾液が滴った。今の俺は、きっと、とてもはしたない顔をしているだろう。酷い顔に違いない。
 胸につくほど、膝を折り曲げられる。ぎいぎいとベッドが軋んだ。
「はあ、あ……あぁっ」
「カイン、カイン……ッ」
 彼の昂ぶりが中で震える。熱い体液が、流れ込んできた。声が出ない。掠れた悲鳴が出るだけだった。引き摺られるかのように、俺も精を放っていた。
 ゴルベーザ様が倒れ込んでくる。汗ばんだ体を抱きしめた。抱きしめ返されて、愛おしさが満ちた。
「……カイン、教えてくれ……この感情は、何だ。分からない……これは、一体何なんだ……」
 痛々しい声と共に、頬に、目蓋に、口に、口づけが降ってくる。中に入れられたままのものが硬さを取り戻し、俺は体を震わせた。
「ゴルベーザ様……」
 この人は、愛というものを知らないらしい。虚無の中で生きてきたからか。だから、愛することも愛されることも知らないのか。
 俺は、愛することも愛されることも知っているけれど、愛を見失っている。
 やっぱり俺達は似ている。そんな気がした。
「分からなくてもいいんです。……俺を見ていると、胸が痛くなるんでしょう? 触れたくて堪らなくなるんでしょう?」
 俺に触れて下さい。ずっと、抱きしめていて下さい。
 掠れた声で呟けば、彼は、困ったように頷いた。


***


 穏やかな日々がやってきた。慈しみ、抱きしめ合う、穏やかな日々だ。
 私達は、隙間を埋めるかのように笑い合った。私にとって、カインは唯一の存在だった。空っぽの部屋の中にある、青い一輪の花だった。
 けれど私は、カインの唯一ではなかった。
 彼は時折、遠い眼差しを空に向けていた。彼の脳裏に巣食っているのは、二人の幼馴染だった。
 カインは私の部屋で新たな花を生けている。真剣な眼差しで、青い花を見つめている。ベッドサイドに飾られるであろうその花は、彼の瞳によく似た色をしていた。
 窓から射す陽の光が、彼の金色を眩しく輝かせた。
「花が好きなのか?」
 問えば、カインは花を生ける手を止めず、
「好きですよ」
 と答えた。
 自らの兜を外して脇に置き、私はカインをじっと見つめた。ああでもないこうでもないと悩みながら生けるその姿は酷く子どもっぽく、同時に好ましく、私の目に映った。
「俺の母親は、花を生けるのが好きな人でした。……青い花がよく似合う、少女みたいな人だった。今の俺は、母が花を生けていた姿を思い出しながら生けているんです。そういえば、」
 話を続けてもいいのか、という風に、カインがちらとこちらを見る。私はゆっくりと頷いた。
 母のことを語る彼の声には、望郷の念が含まれていた。『母』。その単語に締め付けられるような何かを感じ、深く息を吸い込んだ。
「……ローザも、花が好きです。幼い頃の話ですが、俺が落ち込んでいる時は決まって、白詰草で花の冠を作ってくれました。『カインとセシルと、私。お揃いね』と言って俺の頭に冠を載せる彼女は、まるで俺達の……俺とセシルの姉のようでした」
 故郷に想いを馳せているのだろう。彼はそっと微笑み、はっとした表情で数回瞬きをした。
「俺は馬鹿ですね。殺したいほど憎んでいる相手のことを想って笑うだなんて」
 懐かしい人を想って笑う彼は、とても綺麗だった。けれどその思いに反して、酷くささくれだった気分になっていく。そんな私の気分に気づいたのか、花を生けるのを止め、カインがこちらに歩み寄ってきた。椅子に座っている私と視線を合わせて「失礼します」と囁くように言う。柔らかい感触。触れるだけの口づけだった。
「そんな悲しいお顔をなさらないで下さい」
 切なげな彼の表情に、胸がざわつく。抱き寄せると、彼は私の首筋に顔を埋めた。彼の髪から甘い香りが漂ってきて、何故か涙が出そうになった。
「貴方に触れていると、胸が締めつけられます」
「……ああ」
「何故かは分かりませんが、こうして触れていないと貴方がどこかへ行ってしまうような、そんな気がして」
 彼はしゃがみ込み、私の鎧を剥いでいった。指先は震え、眦は朱色に彩られている。金属音が響くだけで、作業はちっとも進まなかった。焦れて自ら脱ごうとすると、カインは「申し訳ありません」と一言呟き、「手が震えて」と目蓋を伏せた。
 鎧を取り去った私の下衣を寛げ、その場所に口づけてみせる。湿った温かい感触に、欲望がたぎっていくのを感じた。
「…………ん、ぅ」
 既に何度も抱いてはいるが、彼に口淫を強いたことはなかった。先端を躊躇いがちに舐めながら、ゆるゆると扱いている。その眺めに、ぞくりときた。
「う……ぅん、ん、んっ、ん」
 金の髪が、唾液で頬にはり付いている。濡れた音と荒い吐息が、部屋を満たしていた。拙い手つきに欲望を煽られる。情けないことに、この様子では長く持ちそうになかった。
「カイン、もういい」
 カインは小さく首を横に振り、更に深く銜え込む。思わず髪を鷲掴むと、青い瞳と目が合った。この真っ直ぐな瞳に弱い私は、思わず、欲望を喉の奥に流し込んでいた。
「んんん、ん……っ!」
 肩を震わせながら、嚥下する。飲み込み切れなかった白濁が、彼の顎を伝って落ちた。
 胸と頭を侵す暗闇が、下卑た笑い声をあげる。いつものあの声が、脳を引っ掻いた。

『セシルとローザを殺せ、殺してしまえ。そして、カインをお前のものにすればいい。洗脳して頭の奥深くまで浸食して喰らい尽して、意識を持たぬ人形にしてしまえばいい。簡単だろう。なあ、簡単だろう』

 そんなことをしたら、カインがカインでなくなってしまう。あの真っ直ぐな瞳が、曇ってしまう。分かっていながら、頷く。
 渦巻く嫉妬が、歪みを生み出した。




 風のクリスタルを手に入れるようカインに命じると、彼は跪き、いつもと変わらぬ声音で「はっ」と頭を下げた。
 風のクリスタルを手に入れることも大事だったが、私にはもう一つ、目的があった。
「それと、もう一つ。セシルとローザを、お前の手で殺してこい」
 自分の声が、酷く遠くの方で響いているような気がした。
 ぴくり。鎧に包まれた背が嫌な反応をしたことに、私は気付いてしまった。彼は返事をしなかった。
「殺してしまいたいほど、憎んでいるんだろう? 違うのか」
 洗脳されている者の心は、脆くて儚い。言葉一つでどうにでもなるはずだった。
「お、俺は……!」
 槍を握りしめている左手が、小さく震えている。薄紫の光が彼の体を包み込んだ。その光に、洗脳が解けかけていることを知った。
 そんなに、あの幼馴染達が大事か。洗脳を解きそうになる程に大事なのか。心が喚き散らし、ひび割れていくような気がした。
 誘われて、竜の兜に手を伸ばす。
 カイン、私には、お前しかいないんだ。お前がいなくなってしまったら、私の部屋はまた空っぽになってしまう。
 開かれたカーテンと窓、風に揺れる金色の髪。朝食の匂い、テーブルの上で震える青い花びら。洗脳されているというのに、青さを失わない瞳。彼の世界は光に満ちていた。
「カイン……」
 外した兜が地面に落下し、耳障りな音をたてた。唇を震わせて、彼は何かを言おうとした。頬を両手で包み込み、親指で薄い下唇を撫でる。
 これ以上、強い術をかけてはいけない。きつすぎる洗脳は彼の心を壊し、ただの操り人形に変えてしまう。止めようと思うのに、止められない。
 赤黒い光が、私の手から彼の体へ送り込まれていく。カインはあえかな呻きを漏らしながら、それでも、私に何かを言おうとする。
 ぽたり、涙が滴った。
「ゴ、ルベー……ザ……ッ」
 赤黒い光に照らされて、彼の涙が血の色に光った。彼の心は血を流している。私は喘ぐように息を吸い込んだ。
 どうしても。どうしても、彼の全てを手に入れたかった。体を犯し尽しても満たされない想いは、酷く獣じみていた。
「どう、して」
 青い瞳に霞がかかる。壊れた機械に似ている、と思った。
「ど……して、こんなこと、を……っ」
 私の籠手に爪をたて、
「……こ、んな、ことをしなくて……も、俺は……」
 力を失った体が倒れ込んでくる。横抱きにして色を失った顔を覗き込むと、カインは悲しげな微笑みを見せた。彼は何事かを伝えようとする。そっと、耳を澄ませた。
 カインは最後の灯火のような声でゆっくりと囁き、その言葉が、私の思考を正常へと導いた。
「カイン……ッ!」
 赤い光は止まらない。それどころか、更に赤く輝き始める。止まれ止まれと念じても、無駄な足掻きだった。

『青き星の人間の言うことなど、聞くな』

 頭を襲う頭痛と共に、あの声がやってくる。

『お前は、クリスタルのことだけを考えておれば良い』

 視界が真っ赤に染まる。ああ、私も術をかけられているのか。私も、カインと同じなのか。膝が崩れ、カインと共に床へと倒れてしまう。その拍子に兜が脱げ、私の顔は外気に触れた。
 カインの目蓋は、きつく閉じられている。
 次に目覚めたとき、カインはカインでなくなっているに違いない。あの微笑みも、青い瞳も、母を懐かしむ声も、消えてしまっているに違いない。
 どうして、もっと早く気がつかなかったのだろう。過去、痛み、笑顔。それら全てが、カインを鮮やかに彩っていたというのに。一つでも欠けてしまえば、カインはカインでなくなってしまうのに。
 頭に響く、カインの声。最後に聞いたその言葉が、私に一滴の希望を残した。

『……ぜっ、たいに、お前を助けて、やる。やくそく……する。俺は、お前の、本当の笑顔を見て、みたいんだ……心からの、笑顔、を……』

 カイン、教えてほしい。胸が痛くて苦しくて、お前の瞳を見ていると涙が溢れ出しそうになる。この気持ちは何なのか。何と呼ばれるものなのか。
 狭くなっていく視界の端で、青い花が揺れている。
 彼の瞳に似た花びらが一枚、風に吹かれて宙を舞った。


End


Story

ゴルカイ