地面の上、ゆらり、陽炎が立っている。
暑いなと思いながら、ルビカンテは空を見上げた。厚い雲が流れていく。夕刻には雨になるかもしれない。
――――今日も、来るだろうか。
淡い期待と暗い何かが、心の中で入り混じる。
森の中、青年の姿を思い出しながら、ルビカンテは歩みを進めた。
ルビカンテがエブラーナを襲撃したのは、数週間前のことだった。
王と王妃を斃したものの王子は城におらず、ルビカンテは肩透かしを食らったような気分でエブラーナを後にした。
主であるゴルベーザの命令は『皆殺し』だった。
王族も民も、皆殺し。
命とはいえ、民だけは救ってやりたい。ルビカンテはそう考えていた。主の命に背くことになるが、被害は最小限に留めておきたい。
けれど、王族は別だ。王族を殺さぬわけにはいかないだろう。
人を殺すのは好きではなかった。人を殺すと、嫌な感触がいつまでも取れない。同時に、人間であった頃の夢を見てしまう。
魔物でありながら、ルビカンテは人の心の欠片を持っていた。
魔物の心と人の心が、いびつに混ざり合う。
そのあまりのいびつさに、ルビカンテはいつも苦悩を強いられていた。
(…………ああ、また)
あの気配だ。
陽炎のように、淡い気配が立ち昇る。
姿は見えないけれど、もうすぐ近くにいるのだろう。
ルビカンテの命を狙う、銀の髪と緑の瞳を持つ青年。エブラーナの、王子。
(殺さなければ)
あの細い喉を、絞めなければ。
青年は静と動を操るのが上手かった。やかましい気配を纏いながら、次の瞬間には静かに姿を消してしまう。姿を消す時彼は決まって微笑んでいて、とてもではないけれど、それは両親の仇に見せるような笑みではなかった。
(……蠱惑、だ)
思い出すだけで喉が鳴る。魔物の心を擽られてしまう。自分は馬鹿だ。思いつつ、ルビカンテは昂ぶる気持ちを抑えられずにいた。
細い腕、細い腰。薄い胸板、上目遣いで見つめてくる緑の瞳。
青年は、決してこちらを攻撃してこようとはしなかった。いつだって、強烈な殺気と笑みをぶつけ、ルビカンテの前から姿を消してしまう。
今日こそ、殺さなければ。炎であの体を焼かなければ。
そう思うのに、青年を前にするとルビカンテの意思は揺らいでしまう。
そうだ、きっと今日だって。
いつも通り、彼の気配に近づいていく。今日もきっと、言葉一つ交わすことなく消えてしまうのだろう。ただ、ルビカンテの心を掻き乱すような笑みだけを残して。
がさりと木々の隙間を抜ける。
目の前に、人の姿を見つけた。ああ彼だと思ったが、いつもとはまるで違う。
(…………女?)
そこに倒れていたのは女だった。細い足首が、薄布で出来た白いローブの裾からちらりと見えている。腰に巻かれた薄紫色の布が、その細さを強調していた。
心臓が大きく跳ね、ルビカンテは首を傾げる。
自分のいびつな心が反応するのは、あの王子だけなのに。
しゃがみ込み、俯せている女の体を仰向ける。女が動いた瞬間、甘い香のにおいがふわりと舞った。花のにおいだ。春の花のにおい。
ローブで隠されていて、女の顔は下半分しか見えなかった。首には腰に巻かれているものと同じ、薄紫色の布が巻かれている。
脳内で警鐘が鳴った。
――――分かっている――――この女は――――そうだ、これは――――だが――――。
そっと、細めの顎に触れた。女は動かない。薄めの唇は、引き結ばれるでもなく緩められるでもなく、自然なかたちでそこにある。
心臓がやかましい。
もっと触れたい、この甘く細い体が欲しいとルビカンテの中の『魔物』が牙を剥く。
だが、ルビカンテの中の『人間』は別のものを欲しがっていた。
(ああ、欲しい)
『魔物』が右手で、ローブの裾をたくしあげた。すらりとした足が露わになる。体の熱が、上がっていく。
ほぼ同時に、『人間』が奪ったのは――――。
薄い唇に、唇を重ねる。
「…………ッ!」
初めて、女の体が反応を見せた。
甘い舌を追いかけ、吸い、愛撫する。口腔を支配するかのような口付けだった。
「……ん、ふ……ッ、う、んぅ……ん……」
低い男の声が、薄い唇から漏れ出る。ぞくりと何かがルビカンテの背を走り、駆け抜けていった。
女の――――青年の腕が、ばたついてルビカンテの胸を押そうとする。瞬間、小刀が青年の手から滑り地面に落ちた。
自分の体を餌にして、この青年はルビカンテを殺害するつもりだったのだろう。ルビカンテは全て見通していた。見通していながら、倒れている『女』に近づいたのだ。
「…………ッは……はなし、やがれ………ッ!」
ようやく離れた口を必死で動かして、青年はルビカンテを威嚇する。
荒い言葉遣いに彼の本質が見えたような気がして、ルビカンテは心を弾ませた。
ルビカンテは、青年の本当の表情を見たいと思っていた。今、青年の眼差しに嘘偽りは見当たらない。
「エッジ」
呼ぶと、青年は目を見開いて慌てだした。名を知られているとは思っていなかったらしい。あの蠱惑的な眼差しをしていた者とは思えぬほど子どもっぽい仕草で、ルビカンテの体を押しのけようとしている。
「……今のお前の貧弱さでは、私に勝つことなどできぬ。今日はこのまま住処に帰れ」
(私は何を言っているのだろう)
「それとも、このまま私に抱かれたいのか? 『ここ』に、ものを含みたい、と?」
言葉とともに、足を大きく開かせる。
ひゅっ、とエッジの喉が鳴った。
「冗談だ」
笑みと共にそう返しエッジの足から手を放すと、くるりと身を翻して彼は地面に立った。
ローブが捲れて下着が見えたけれど、彼は気にならないようだ。
「……こ、この……ッ、へ、変態!!」
「その変態を誘った変態はお前だろう」
「う…………ッ」
悔しげな眼差しと甘い香のにおいを残し、エッジの姿が掻き消える。
あれが、彼が持つ本当の表情と眼差しなのだろう。
(明日も、私を殺しに来るだろうか?)
どくどくと脈打つ心臓は、いつまで経ってもやかましく大きな音を鳴らし続けていた。
End