足元に広がっているのは、粘りつくような闇だ。
 果てのない闇。
 空もない、建物も何もない、唯一つあるのは、この人の存在だけだった。
「ゴルベーザ様」と呼ぶと、「何だ」という柔らかな声が返ってくる。安堵して、彼の胸元に頭を預けた。
 温かさの欠片もない鎧に包まれたその胸元は、何故か、俺の心を安らかな場所へと導いていった。


 この人は、俺と同じだった。
 寂しいくせに、寂しいと言えない。欲しいくせに、欲しいと言えない。素直になれない、愚かで悲しい人だった。
 縛りつけることでしか、俺を繋ぎ止めておけない人。
 足を上げる。闇が絡みつき、どろりと糸を引く。
 暗闇に捕われていく俺を、ゴルベーザ様は悲しげに見つめている。けれど、その薄紫の瞳には、小さな喜びの光が覗いていた。
 足元の闇が、少しずつ固まっていく。
 逃げようとする俺の脳裏に、彼の悲しげな表情が突き刺さる。あの表情を、俺は知っている。一体どこで見たというのか。
 突然、目の前に、一枚の鏡が現れる。悲しげな顔をした男が一人、ぼんやりと映っていた。
 青い瞳から、一筋の涙が流れている。頬に触れてみた。鏡の中の男も、同じ仕草をした。
 これは俺か。俺は泣いているらしい。どうして泣いているんだろう。
 瞬間、現れたときと同じ勢いで、鏡が割れた。真ん中から亀裂が走り、砕け、落下し、暗闇の沼に飲み込まれていった。
 しゅるしゅる、微かな衣擦れの音。頭の後ろに手をやると、髪を束ねているリボンが解けていくのが分かった。
 このリボンは、セシルとローザが誕生日にくれたものだ。藍色の生地に金色の糸で、二人の名前が刺繍されている。

『これからも、一緒にいよう』とセシルは言った。
『大切にしてね』とローザは言った。

 リボンが、指先をすり抜けていく。
 掴もうと思った。これを失くしてしまったら、あの二人の元へはもう戻れないのではないか。そう思った。
 けれど、掴めなかった。びゅう、と風が吹き、リボンは暗闇の果てへ姿を消そうとしていた。少しずつ、遠く小さくなっていく。
「……追わなくてもいいのか?大切なものなんだろう?」
 言いながら、ゴルベーザ様は俺の背を抱いた。紫色の光が、俺の体を覆う。
 ああ、また俺を操るつもりなのか。
 ゆっくりと首を横に振った。俺は何に対して首を振っているのか。
 ついに、リボンが見えなくなる。闇に溶け、色のかけらさえ見つからなくなってしまった。
 これでいい、そんな考えが頭を埋め尽くし、俺を抱いている手にしがみつけば、

 ――――これでいい、これで、俺は幸せになれる。

 もう一人の自分が、念押しするように繰り返す。
 ゴルベーザ様は、と思い後ろを振り向くと、彼はいつの間にか兜を被っていて、表情を読み取ることはできなくなっていた。
「ゴルベーザ様」
「……何だ」
 静かで優しいこの声だけが、俺の全てだった。



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