誰かを尊敬したことはあった。
 だが、おそらく『愛した』ことはなかったのではないかと思う。
 ――――これは、『愛』なのだろうか?



 机の上に積み上がった本を見つめて、溜め息をついた。まさか、これだけ読んでも分からないだなんて。
 積み上がっている本は全て、人間達が書いた恋愛小説だった。
「……何故だ」
 何故、分からないのだろう。
 私があの青年に対して抱いているこの感情は、どういった類のものなのだろう。
「…………エッジ…………」
 私が落とした国に住んでいた、王子の名前だった。今は民と共に国を追われ、洞窟で身を潜めている。
 細い体躯。やわらかい緑色を纏った瞳。光を反射する銀の髪。
 思い出すだけで、胸が灼けたように熱く痛くなる。その細腕を引き寄せたくなる。抱きしめたくて堪らなくなる。
「……それだけなら、『恋』や『愛』と表現することもできただろうに」
 刃物の切っ先のような眼差し。
 あの眼差しを思い出すだけで、あの青年の体を引き裂きたくて堪らなくなってしまう。これが『愛』なのだとしたら、歪んでいるとしか言いようがない。
 自分の中に突如芽生えた見知らぬ感情と熱に、私の心は支配されてしまっている。
 もう一度溜め息をついて、椅子を立った。


 青年は、三日に一度、私の前に姿を現した。
 暗い森の中、小さな影が揺らいでいた。
「ルビカンテ……!」
「……またお前か」
 両親の敵を討つ為に、青年は――――エッジは、私に向かってくる。
「今日こそ仕留めてやるからな!」
 無茶をするその姿がまた、私の心に揺さぶりをかけた。
 勝てぬということは分かっているだろう。それなのに、エッジは刀の先を私に向けてみせるのだ。
「……死にたいのか?」
 真面目に問うたのだが、エッジはそれを挑発と受け取ったらしい。手裏剣を思い切り投げつけてきた。
 手裏剣を避け、彼に近づいていく。刀を構え、彼はこちらを見上げていた。
「んなわけねえだろ! 死ぬためじゃねえ、おめぇを殺すために俺は……!」
 たん、と地面を蹴る音がした。無駄一つ無いその動きにどきりとする。
 背後には二つの月。
 二つの光に照らされたマントが、やわらかく光っていた。
 なんて綺麗な生き物なのだろう、と思う。
「く……っ!」
 炎で手首を狙った。二振の刀が、地面に虚しく落下する。同時に落ちようとしたエッジの体を両腕で受け止めると、彼は「ひゃっ?!」と素っ頓狂な声をあげて足をばたつかせた。
「は……、はな、せ! 放せよ、このっ!!」
 ――――軽い。
 恐ろしいほど軽い体だった。片手で抱いたまま、空いている方の手で火傷を負った手首を掴む。
「ひッ」
 痛みで、エッジの体が硬直した。緑色の眼差しが、涙で揺れている。
「何十回向かって来ても、結果は同じだ。お前は負ける。私には勝てない」
「んなこと、誰が決めたんだよ! 俺は勝つまで諦めねえぞ! おめぇの首を取るまで、俺は――――!」
 手首から手を離し、今度は彼の首を軽く握った。
「今、首を取られそうになっているのはお前だろう」
「あ……!」
 エッジの脈拍を指先で感じる。ひどく早いその脈拍は、彼の心情を如実に表していた。
 ああ、このまま殺してしまいたい。その衝動自体にぞくりとする。怯えた瞳が、衝動に彩りを与えた。
「……怖いか?」
「だ……れが……!」
 殺せば次はない。揺らぐ緑の瞳を見ることも、彼に追い掛けられることもなくなるだろう。
 親指で小さな喉仏をゆるゆると撫でると、ぴく、とエッジの体が震えた。
「来るのなら、もう少し強くなってから来ると良い」
 ぱっと両手を放すと、くるりと回って彼は地面に降り立った。鋭い眼光が、私を射抜いている。
「今のお前とは戦う気にもならぬ」
「な……ッ」
 身を翻し、テレポを唱えた。 



 自己嫌悪に陥って、頭を抱える。
 本能に支配されている自分が、とても弱い存在であるように思われた。
 何故、私はあの青年を殺さないのだろう。
 答えはとっくに出ている。だが、その答えが自分でも信じられずにいた。

『王と王妃は殺した。城も魔物で支配した。だから、王子などという取るに足らない存在は好きにさせておけば良い』

 表向きはこう言っている。だが、本当は違っていた。
 私は、エッジを失いたくないだけなのだ。
 自分で自分がよく分からない。殺したいと思いながら、失いたくないと思うだなんて。


◆◆◆


 エッジが姿を現さなくなって、一週間が経過した。こんなに間が空くのは初めてのことだ。
 諦めたのだろうか。自分の無力さに気づいたのだろうか。それとも、力をつけるためどこかに篭っているのだろうか。
 月明かりを見ていると、彼の緑の瞳に射抜かれたくなってくる。
 森に行けば、また彼に会えるのだろうか。
 会える可能性はゼロに近いだろうと思いながら、私は森へ向かった。


 森に辿り着くとほぼ同時に、細かい雨が降りだした。雲が月を隠し、辺りはあっという間に真っ暗になる。
「……嵐になるな」
 エブラーナの周辺は天候が変わりやすい。ここ数日はよく晴れていたのにと思いながら、エッジのいそうな場所を探した。
 馬鹿馬鹿しいことをしているという自覚はある。だが、やめる気にはなれなかった。
 雨足が、徐々に激しくなっていく。濡れたマントも、同時に少しずつ重くなっていった。
 こんな夜に私を狙うほど、彼も馬鹿ではないだろう。忍ぶには良さそうな夜だが、彼の得意とする手裏剣も、この雨では形無しになってしまうに違いない。
 帰ろう、とテレポを唱えかけ――――何かが視界に飛び込んできて、思わず口を閉ざした。
 目の良い魔物でなければ、おそらく見つけられなかっただろう。
「…………エッジ?」
 そこは、森の中でも特に木々が茂っている場所、濃い闇が影を落としている場所だった。同時に水場がある場所でもあるのだが、湧く水は決して綺麗なものではなかった。水、というよりは泥に近いだろう。
 その泥の中に、紫色の布が見えた気がした。
 ざあっと嫌な風が吹く。葉から落ちた大粒の水滴が、ばたばたと音をたてた。
 雨が全てのにおいを遮る。
 これでは、生きているのか死んでいるのか分からない。
 駆け足で近寄って、茂みを掻き分けた。
「エッジ!!」
 最初に、青白い腕が見えた。泥水の中に、腰から下が沈んでしまっている。慌てて抱え上げ、口に巻かれた布を下げた。
 息はある。だが、彼の体はひどく熱かった。瞼はかたく閉じられたままで、回復魔法を唱えてもそれは変わらない。
 どうしてこんな場所に、だとか、何故こんなことに、だとか色々な考えが頭を過ったが、まずは彼の体を癒やすのが先だった。
 近くに洞窟があったはずだ。
 エッジの体をきつく抱いて立ち上がった。 


 雨の音が、遠くで聞こえる。
 泥まみれになった服を剥いでいくと、骨ばった痩躯が現れた。
「……お前はもう少し食べた方が良い」
 届くことのない独り言を漏らしながら、濡らした布で体を拭った。
 もしかしたら、こんな洞窟で介抱するより、自室へ連れて行って介抱する方がいいのかもしれない。けれど魔物だらけのあの場所に、弱ったエッジを連れて行く気にはどうしてもなれなかった。
 彼は、高熱に冒されている。回復魔法でも癒やすことのできない熱だ。その原因を探るため、私は彼の体をじっと見つめた。
 一見したところ、怪我らしい怪我はない。
 顔、首、胸、腰。各々を辿りながら、おかしな場所はないか探していく。
 指先。
 細めの指先を見て、ぞっとした。人差し指の先端に、何かに噛まれた痕がある。おそらく、毒を持つ虫か何かに噛まれたのだろう。噛まれ、意識を失ってその場に倒れ、あの沼地に捕らわれる羽目になったのか。
 間に合うかどうかは分からない。
 行き場のない焦燥感に駆られながら、彼の指先を咥え、吸った。微かだが、口の中に苦い液体が飛び込んでくる。
「ん……っ」
 刺激に痛みを覚えたのか、エッジは小さな声で苦痛を訴えた。
 よくよく見てみれば、肘の裏側にも噛まれた痕がある。きつく吸って飲み込むと、毒の味が口の中に広がった。
 魔物には何の害もないが、人間には猛毒になってしまう。そんな毒だった。
 焚き火を用意し、エスナを何度もかけ、彼の額に滲む汗を拭ってやる。
 発熱からくる寒気に震えながら、エッジは私のマントをぎゅっと握った。頭を撫で抱きしめてやると、安堵したように私の胸に頭を預けてくる。触れられた胸が、壊れてしまいそうなくらいにきつく締めつけられた。
 寝顔が、少しずつ穏やかなものになっていく。
 ほっと安堵の息を吐いて、私はただ、彼の寝顔を見つめていた。
 

「……ルビ……カン、テ……?」
 一体、何時間が経過したのか。外から聞こえていた雨音がすっかり止むのとほぼ同時に、エッジはぼんやりとその瞼を開いた。
「えっ?! ル、ルビカンテ……?!」
 慌てふためいて、私の腕から逃れようとする。小動物のようなその様が面白くて、手で支えるのをついつい忘れてしまった。
「わわっ! うわっ!」
 地面にごろんと転がって、エッジはすっくと立ち上がる。折角綺麗に拭ったのに、湿った土の上に転がったせいでまた泥塗れに逆戻りだ。
 頭をそっと撫でると、エッジは私の手をぱんと振り払った。ついでのように、きつい眼差しで思い切り射抜かれる。欲しかった眼差しを得られて、私は満足していた。
「お、俺は……俺は何でこんな……っ!」
「こんな?」
「はっ、裸……!」
「何故だと思う?」
 意地悪く問うと、エッジは目を白黒させながら「えっ!」と口篭った。
「も、もしかしておめぇ、俺を襲……った……とか……?」
「……そうだ、と言ったら?」
「ぎゃっ」とか「わっ」とかよく分からない悲鳴をあげながら、エッジは思い切り飛び退いた。
「へ、へ、変態!」
 元気に飛び回れるようになったのは結構だが、変態などと罵られて良い気分になれるわけがない。
「冗談だ。本気にするな」
 言いつつ、広めの額を指でぴんと弾いた。
「いてっ」
 額を押さえようとした手を取り、「お前は虫の毒のせいで死にかけていたのだ」と本当のことを口にする。
「…………毒?」
「覚えていないのか。泥水の中で死にかけていたお前を、私はここで介抱していたのだ」
「介抱……」
 自分がじっとりとした汗をかいていることに気づいたのだろう。エッジは、視線を焚き火の前に遣った。
「本当に……おめぇが、俺のことを……?」
 泥だらけになった服や濡れた布を見て、エッジは信じる気になったらしい。「ああ」と私が頷くと、「何で!」と噛み付くような勢いで私に掴みかかってきた。
「何で助けたりしたんだ! おめぇは俺の敵だろ?! それなのに……!」
 もっともな疑問だった。
 正直なところ、私にも何故なのかは分からない。考えても考えても、ただよく分からない感情たちが頭の中でぐるぐると回るばかりなのだ。
 彼を殺すのは気が引ける。だが、他の誰かが彼を殺すのはずっともっと嫌だった。
 それなら、私がこの手でこの男を殺したい。気は進まないが――――誰かに殺されてしまうのなら、私が、この手で。
「……お前を殺すのは、この私だ。それまで死なせてなどやるものか」
「てっめえ……!」
「お前も想像してみると良い。……私が、お前と全く関係のないところで命を落としたとしたら――――」
「嫌だ」
 即答だった。
「おめぇを倒すのは俺だ。だから、勝手に死なれたら俺が困る」
「そうだろうな。私も、お前と同じ気持ちだ」
「気が合うな」
 けらけらと笑って、エッジは己の服を掻き集め始めた。
 私は、初めて見る彼の満面の笑みにひどく動揺している。
 彼はこんな顔で笑うのか。太陽の光を集めたような、思わず頬に触れたくなるような笑顔だった。
「うへえ泥だらけだ」と呟いて、彼は服を身につけた。いくらか綺麗にしたつもりだったが、それでも泥は完全に取れてはいなかった。
 目を奪われたまま彼から視線を外せずにいる私を見て、エッジは「礼は何がいい?」とたどたどしい口調で問うてきた。
「……借りは、返さねえとな」
 真っ直ぐな彼らしい、何ともいえない言葉だった。親の仇に対して借りなんて、考える必要もないことなのに。
「…………どんなことでも構わないのか?」
 顎をすくい上げて問いかけると、エッジは「お、おう」と小さく頷く。
「あっ……で、でも! 無理難題を吹っかけるのはやめてく……んッ! んん……ッ」
 唇を塞ぐと、目を見開いて私の腕にぎゅっとしがみついてくる。舌で口腔を探れば、全身の力が徐々に抜けだした。
 がくがく震えている体をきつく抱きしめ、更に深く口づける。
「ん、んぅ……んん……、ん……」
 どうやら、快楽には抗えなかったらしい。かたくなった彼のものが、私の体に当たっている。
 唇を離すと、息も絶え絶えといった調子で彼はその場に座り込んだ。耳まで真っ赤だ。
「な……にす……っ、この、ば、馬鹿!」
「どんなことでも構わない、と言ったのはお前だろう」
「そうだけど! でもまさかこんな……っ」
「吠えている暇があるなら、その猛ったものを鎮めた方がいい」
 洞窟の外へ向かいながら、わざとらしく小馬鹿にした口調で言う。頭から湯気が出そうなほど赤い顔で、エッジは「嫌がらせかよ!」と大きく吠えた。
「……ああ、嫌がらせだ」
 そう、これは嫌がらせだ。
――――彼への嫌がらせなのか、私への嫌がらせなのか。それは、私自身にも分からないことだった。



 End