「はい、カイン」
 差し出されたグラスを受け取り、カインは微笑んだ。
 月明かりが部屋を照らしている。時間は、もうそろそろ深夜にさしかかろうとしていた。
 ベッドに腰掛け、二人はほぼ同時にグラスを傾ける。
 とろり、と甘い酒の味が、カインの舌を転がっていった。

 今夜は、セシルが暗黒騎士になって始めての夜だ。
 『今夜は一緒に過ごそう』と約束していたわけではなかったが、カインの足は自然とセシルの部屋に向いていた。
 暗黒騎士は、鎧を体に打ち込んであるのだという。
 気にならない筈がなかった。
 鎧を埋め込まれたセシルの体の状態が気になって、心配で眠れず、カインはセシルの部屋に来たのだった。

 先にグラスの縁から唇を離したセシルが、痛いなあ、と言って苦笑した。カインの顔に悲しみが浮き、それを見たセシルは困ったように目を伏せた。
「……それ、どうなってるんだ」
 ベッドサイドにグラスを置いたカインが、そっとセシルの鎧の背中に触れると、息を飲む感触が伝わってきた。はっと気付き、カインはその手を退ける。
 汗ばんだセシルの額が、全てを物語っていた。
「やっぱり、痛い、んだな」
 声の震えを自覚しながら、分かりきったことを訊く。
「…うん。じんじんするっていうか、がんがんするっていうか…とにかく、痛いよ」
「横になったらどうだ?」
「でも、折角君が来てるのに、そんな」
「遠慮するやつがあるか。ほら、寝ろ」
 セシルが、やたらと人のことばかり気にする男だということを忘れていた。
 この部屋に来たことを少し後悔しつつ、カインはうつ伏せになったセシルの頭をぽんと叩いた。
 ふとあることに気付き、問いかける。
「打ち込んである傷って、回復魔法やポーションでどうにかなる傷じゃないのか?」
「…何か、『数日間は痛みに耐えなきゃならない』っていう決まりがあって、何日かは、このままなんだ」
「…風呂は?」
「今日は入れないよ。汗が気持ち悪い」
「籠手や靴は脱げるんだろう?」
「脱げるよ。でも、体が痛くて上手くいかないんだ」
「…そういうことは早く言え」
 本当に、いらないところでいらない気を遣う男だ。昔からこの男は……と思いつつ、カインはセシルの鉄靴に手をかけた。外し、床に降ろす。黒色をした下衣が現れた。
 両足のものを外し終えたら、今度は肩甲に手を伸ばす。かしゃり、かしゃり、と剥ぎ取っていけば、最終的に残ったのは、胸甲の部分だけだった。金属で編まれた紐が背中の部分にくくりつけてあって、普通の鎧とは違うのだ、と分かる。
 直接素肌に触れている胸甲は少し熱を持っていて、汗ばんでいた。いや、汗ばかりではない。ぬるついた指先を見つめ、カインは唇を噛んだ。
「……血が」
「ああ、うん……」
 月光に照らされたセシルの瞳が青く光る。頬が、赤く上気していた。
 セシルの額が汗ばんでいるのは、痛みのせいだけではなかったのか。舌打ちをして、カインは立ち上がった。




 氷水で濡らした布を絞って、セシルの額に当てようとする。うつ伏せのままでは当てられないので、首を横向きにしてやれば、「いてて」という緊迫感のない声が部屋に響いた。
「……怒ってるの?」
と訊いて、セシルは目を細くする。そうではない。喚きだしそうな気持ちを抑えつつ、カインは口を開いた。
「お前の体調の変化に気付かなかった自分に腹を立てているだけだ」
 背を伝う血を、もう一枚の布で拭う。真っ赤に染まった布を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「一人で抱え込むのは、やめてくれ」
 自らの手にも血が着いているというのに、気にも留めず、
「お前が痛いと、俺も痛い」
と言った。
「……ごめん」
 額の布を握り締め、セシルはカインを見つめた。真剣な眼差しに、カインは瞳を揺らす。「謝るくらいなら、最初から抱え込むな」と口にするのが精一杯だった。
「…カインってば、前は三日に一度は僕の部屋を訪ねて来てたのに、最近は全然来ないじゃないか。だからつい、無理をしたくなって」
「それは、」
「何で、僕を避けるの?」
 カインは口を噤み、目を逸らす。ローザの為だ、とは言えなかった。
 ローザはセシルに恋をしている。間に入っては邪魔になると思ったから、カインは身を引いたのだ。
 セシルをちらと見、鈍い奴だ、とカインは思った。
「別に、避けているわけじゃない。忙しくて、来られなかっただけだ」
「……そう」
 納得がいかない、という顔をしているセシルを無視して、カインは血塗れになった布をボウルに張った水で濯いだ。水を搾り出し、乾き始めている背中の血を丁寧にふき取っていく。薄桃色に染まった布は、じきに熱を持って温くなった。
 本当に大丈夫なのか、と思い、胸をざわつかせる。今夜は泊まって看病してやった方がいいかもしれない、とも思った。
「カイン……もう、部屋に戻るの?」
 カインの思考を読んだかのような質問を、セシルが投げかけた。
 カインはゆっくりと目蓋を閉じ、考える。
 ローザを呼んだ方がいいのではないか。彼女はセシルのことを想っていて、白魔道士で――――。
 目蓋を開くと、また、青い瞳が真っ直ぐな眼差しをこちらに向けていた。瞳が雄弁に語っている。喉をぎゅうっと締め付けられたような感覚に陥って、カインは息を詰まらせた。
「……今夜は、この部屋で寝る」
 親友として、幼馴染として、心配だから。
 胸の奥の奥にある、禁じられた想いに言い聞かせる。
 嬉しいよ、と唇の端を上げたセシルの声に弾かれて、カインはそっと苦笑した。





End






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カイン受30題