“おかしなものを拾ってくるな”
そんな、スカルミリョーネの声が聞こえた気がした。
“おい、美味そうなもん持ってんじゃねえか。一口喰わせてくれよ”
頭の中に響いてくる、カイナッツォの声を振り払う。
目の前の存在を抱き上げて、胸元に抱き寄せる。モンスターに襲われでもしたのか、少年の体は傷だらけだった。
月光に照らされて輝く銀の髪。顔を覆う布のせいで、顔の詳細は分からない。
からん、という音をたてて、彼の手から何かが滑り落ちた。深い叢を掻き分け、それを拾い上げる。
落ちたものは、金属でできた、よく分からない何かだった。人間の手のひらほどの大きさで、平たく、角が尖っている。中心には穴が開いていた。
そのものの正体が分からぬまま、とりあえず懐に入れる。
さあ、この少年をゾットに連れて帰ったら、あいつらと――それからゴルベーザ様はどんな反応を示すだろうか。
“おかしなものを拾ってくるな”
“おい、美味そうなもん持ってんじゃねえか。一口喰わせてくれよ”
“あら、可愛い子ね。新しいペットにしてもいい?”
ゴルベーザ様は人間嫌いだから、きっと彼の存在を無視するだろう。
風が吹き、少年の小さな体を冷やそうとする。
テレポを慌てて唱え、自室へと戻った。
自室に到着してから気づいたことは、少年は武装している、ということだった。このままベッドに寝かせるわけにはいかない。何か着替えを用意してやらなくては。
彼を抱いたまま部屋から出る。すると、
「おっ!ニンゲンか!!」
鼻をふんふんと鳴らしながら、カイナッツォがやってきた。
どしどしどし。廊下を歩み、嬉しそうに大きな口を開く。
「俺への土産か!いやあ、悪いなぁ!」
「……違う」
「歳は……十三かそこらか?いい頃合いじゃねえか、俺にくれよ」
「お前にはやらん」
「けちだな。独り占めするなんて」
私は一つ溜息を吐き、
「私は人間を食べるつもりはない。この少年は、介抱して親元に帰すつもりだ」
「おっと涎が」
「……お前、私の話を聞いているのか」
口元を拭っているカイナッツォの横を通り抜けて、ゴルベーザ様の部屋へ向かった。
ふと、手元に抱いた少年に目をやる。幾つくらいだろうか、と考えた。
カイナッツォが言うように、一三かそこらなのだろうか。何故、あんな場所にいたのだろう。
親とはぐれたか、それとも、家出でもしてきたか。
モンスターに漁られて減ってはいたが、彼はそれなりの大荷物を背負っていた。そう、最低二泊はできる位に。ただ、着替え類は破かれて使い物にならなくなっていたのだが。
「ん……」
寒いのか、ぶるりと震え、少年が身を寄せてくる。抱き直して腕で包み込むようにしてやると、小さな溜息をついてしがみついてきた。
そうこうしているうちに、ゴルベーザ様の部屋の前に辿り着いた。
「…………ゴルベーザ様」
しばらく間が空き、
「何だ」
感情の読めない声が返ってきた。
「ゴルベーザ様、お話が――――」
「人間の気配がするようだが?」
「……はい。この近くで倒れていたのを見つけたのです」
喉で笑う声が聞こえる。
「それで、私の服を借りにきたのか」
「ええ」
「…………貸すわけなかろう。下がれ」
そう言われてしまっては、仕方がなかった。
火傷の痕。
再度自室に戻って服を脱がせると、痛々しい傷痕が目に飛び込んできた。
いや、火傷だけではない。刃物でできたとみられる傷、打撲の痕、それらが、少年の滑らかな肌を覆い尽くしていた。
古い傷は、回復魔法でも治らない。もう痕になっているからだ。
何故、こんな少年の体に酷い傷跡があるのだろう。
シーツを掛けて後ろを振り向くと、丁度カイナッツォが部屋に入ってきたところだった。
「血の匂いがするぞ。なあ、スカルミリョーネ」
「……そうだな」
スカルミリョーネも一緒だった。
「お。起きるぞ」
大きな口をにたあっと更に大きくしながら、カイナッツォはベッドに歩み寄る。スカルミリョーネに「お前も来い」と促し、あろうことか、少年の顔をひょいと覗きこんだ。
ああ、これは止めなければ。
等と考えているうちに、少年の目がぱちりと開く。
「ぎ、ぎゃあああああああっ!!」
顔面蒼白で飛び上がる。獣を思わせるその動きに感嘆している場合ではないと思い、小さな体をむんずと掴んだ。
「は、離せっ!離しやがれ、このっ、この!!」
「……お前に危害を加える気はない。ほら、カイナッツォ。お前も何か言え」
「元気で旨そうだなあ」
嬉しそうに笑うカイナッツォの頭を、スカルミリョーネが殴りつける。のっそりとした動きで、彼は少年に向き直った。
「……この馬鹿に喰われたくなかったら、お前の家を教えてもらおうか」
私の腹を蹴っていた少年の動きが、止まった。
「……喰いたいなら早く食えばいいだろ!」
「ほう」
どうやら、家の場所は言いたくないらしい。スカルミリョーネは私を指さし、「この男がお前を拾ってきたんだ」と呟いた。
「なぜ、あんなところで倒れていたんだ?」
背中から抱きすくめる形で問うと、彼は私の腕に指を這わせてくる。
「…………モンスターに襲われたんだ。どうにか相打ちに持ち込んだんだけど、結局、気絶しちまった」
「では、この傷は?」
丸裸のままでは寒かろうとシーツを巻き付けてやり、体中にある傷痕に視線をやった。居心地が悪い、という表情で少年は俯く。
「これは、修行中についた傷だ」
「……修行?」
カイナッツォとスカルミリョーネは顔を見合わせ、お互いに首を傾げている。
「んじゃあ何だ、お前はその修行とやらが辛くて逃げてきたのか」
「違う!」
首を横に振り、
「修行が辛いわけじゃねえ……」
黙りこくる。
沈黙が辺りを支配する。それを破ったのは、スカルミリョーネだった。
「……お前、腹が減っているんじゃないのか。人間の子どもは『お菓子』とやらが好きと聞く。難しい話はともかく、腹ごしらえをしてはどうだ?……おい、カイナッツォ。何か食べる物を買ってきてくれないか」
「な、何で俺が!!」
「ルビカンテは目立ちすぎるし、私は人間のいる場所へは行けない。お前なら、人間に化けて買ってこられるだろう?」
ぱくん、という音がしそうなほど大口を開いて、少年はクッキーを頬張った。
「ゆっくり食べればいい。誰も取りはしない」
頬を膨らませたまま、彼は頷く。その動きは、まるで小動物のようだ。
カイナッツォとスカルミリョーネは別室に食事をしに行った。カイナッツォいわく、「クッキーなんて腹の足しにもならない」らしい。
それにしても、本当に美味そうに食べる。しかし三枚四枚と頬張ってから、はたと気づいたように彼は食べることをやめた。
「……どうした。不味いか?」
ベッドに腰かけ、クッキーの入った皿を持って、彼は首を横に振る。
「太る」
という一言を口にしたっきりで。
太る?誰が?彼が、か?
頬は確かにぷっくりとしているが、それは年齢から来るものだろう。首や手首は細く、薄い筋肉がついているのみだ。もう少し太ってもいいのではないかと思う。
「少々太ったところで、問題はないように見えるが」
「……太ったら駄目なんだよ」
何やら事情がありそうだ。
「太っちまったら、親父みたいになれない」
父親の職業は、と問うと、困ったような表情で私の目をじっと見つめてきた。
切れ長の瞳の奥に宿る小さな暗闇に、どきりとさせられる。
「…………俺の親父は忍者なんだ」
聞いたことがある。エブラーナにいるという、一風変わった者達のことだ。
「忍者は、俊敏さが命だから……太れない」
「お前の父親は痩せているのか?」
「いや……普通だと思う」
話がよく読めない。
「親父は、痩せていなくったっていいんだ。親父は素早くて術も上手くて、とにかくすげえから。……でも、俺は太ったら動けなくなるだろうし……俺から素早さを取っちまったら、もう俺には…………」
ああ、話が読めた。
皿を持つ手が震えていることに気づく。止めてやりたくてその手を自らの手で包み込むと、彼は目尻に涙を滲ませた。
「父親のようになる必要はない。父親は父親、お前はお前だろう?」
細めた目から、涙が一筋零れ落ちる。
彼の手から皿を取り、テーブルに置く。体を抱き寄せても、彼は抵抗しなかった。
「可愛い子ね。飛んだり跳ねたり、まるで動物みたい」
手裏剣を投げる練習をしている少年を見つめながら、バルバリシアが言った。頬杖をつき、唇の端を上げながら、
「人間だった頃のあんたも、あんなだったわけ?」
体をふわりと宙に浮かせた。
太陽の光を反射して、金色の髪が煌めく。
「……さあな」
私の声を聞いて更に浮かび上がり、その為に、彼女の顔は逆光で見えなくなった。
確かに、人間だった頃の私は修行に明け暮れる日々を送っていた。体は常に傷だらけだったように思う。修行の果てに、この体を手に入れたわけだが。
私は自嘲気味に笑った。
酷く虚しい気持ちに襲われた。
「人間って、いいわねえ。何だか羨ましい。羨ましいわ」
空高い場所で、くるくると回りながらバルバリシアは言った。
生まれつきのモンスターであるバルバリシアは、人間に憧れているらしかった。
手に入れられぬものほど、輝いて見えるのだろう。
かあん。壁に立てかけてある板に、手裏剣が突き刺さった。中心につけてあった赤い印に、きっちりとおさまっている。汗が、雫となって彼の顎を伝い落ちる。満面の笑みを浮かべ、こちらを見て「ど真ん中だ!!」印を指差した。
「よくやったな」
言えば、彼は頷く。
「ねえ、お茶にしましょうよー!」
舞うような動きで、バルバリシアが降りてきた。
椅子に腰かけてミルクを飲む彼の顔には、不満の色があった。
「何で俺だけミルクなんだ」
「子どもにはミルクって、相場が決まってんのよ」
「子どもじゃねえって」
「子どもでしょ。この家出少年」
「……その辺でやめておけ」
コーヒー、紅茶、ミルク。テーブルの上には、ばらばらの飲み物が並んでいた。
バルバリシアは、極端に彼を子ども扱いする。からかうと面白いからだと言っていた。そして、彼はその煽りにのってしまう。まさにバルバリシアの思う壺、といった調子だった。
「あんた、いつまでここにいる気なの?」
紅茶を一口飲んでから、小首を傾げて彼女は訊いた。訊き辛いことを端的に訊くところが彼女らしかった。
「…………術が、使えるようになるまでいさせてほしい」
「術?術って、黒魔法?」
「……忍術だ。初歩の、火遁だけでも早く使えるようになりてえ」
彼がこの塔に来てから、三日が経過している。早く親元に帰すべきなのだが、本人はそれをよしとしなかった。帰る気がないのではなく、今は帰る時ではないのだと。
家に帰ると周りの者があまり修業させてくれないから嫌なのだ、と彼は言う。それが、彼の家出の理由だった。
彼は、放っておくといつまでも手裏剣を投げたり刀を振るったりし続ける。だから、私には周りの者の気持ちが痛いほど分かった。
「では、私が炎の扱い方を教えよう」
彼の切れ長の目が、丸くなった。素っ頓狂な声で、「え?」と呟く。バルバリシアが私を見た。
「ルビカンテはね、火に関しては凄いのよ。火に関してはね」
「……何だかすっきりしない言い方だな」
少年が、腹を抱えて笑いだす。目じりに涙を溜めながら、彼はこちらを仰ぎ見た。
今だ、と思った。私は、大切なことを彼から聞き出せていなかった。
「お前の名は?…………そろそろ教えてくれても良い頃だろう」
彼は歯を見せて明るく笑う。
「俺の名前はエッジだ。ルビカンテ、俺を――」
「ん?」
「俺を助けてくれて、ありがとう」
屈んで、小さな体を背中から包み込むようにしてエッジの肩を指先で辿る。
微かな炎を発する彼の手首を、そっと握りしめた。
壊してしまうのではないかと思うほど、手首は細く頼りない。
「こ、こうか?」
ぶるぶる、と彼は手のひらを震わせた。力を籠めすぎている。
「いや、違う。もっと力を抜くんだ」
「……分かった」
息を一つ吸い、「火遁!」と呟いた。
「うわっ!!」
途端、エッジの体と同じ位の大きさを持つ炎が、彼の手から放たれた。
余程驚いたらしい。こちらに体重を預けてくる。
こちらを見、にいっと笑った。
「この調子なら、もうじき完璧に扱えるようになるよな!」
「ああ」
「おめぇの使う……何だっけか、あのすげえやつ。あれ位でっけえ火を出してみてえ」
「火燕流、か?」
「そうそう、それだそれ」
「火燕流は魔力の消費が激しい。火燕流ほどの技を使いたければ、努力を惜しまぬことだ」
「……おう!」
どうやら彼は本気のようだ。立ち上がり、神妙な面持ちで私の目を見つめた。私も同時に立ち上がる。彼の顔が、ぐぐっと上向きになった。
「遠いなあ。ほんとでっけえ。……首がもげそう」
なくなるほどに目を細め、けらけらと笑う。
最初に見せていた、手負いの獣の眼差しが嘘のようだ。胸が温かくなり、思わず彼を抱き上げた。口をぱくぱくさせながら、けれど彼は暴れない。
「たっけえ!」
それどころか、私の体をよじ登って自ら肩車の格好になった。私の頭を強く抱き、おお、だとか、すげえ、なんて言葉を口にし続けている。
エッジを早く親元へ帰してやらなければならない。それは分かっている。
なのに、抱いてはならない感情が胸を支配し始めていることに気づく。
この場所、ゾットの塔で共にいられるのは、あともう数日だけだと分かっているのに。なのに、彼を手放すことを想像するだけで、憂鬱で堪らなくなる。
雲の流れが速い。風が強いのだ。
「……親父とお袋、元気かなあ…………」
多分彼は、流れる雲をじっと見つめているのだろう。
呟いたきり、黙りこくって何も言わなくなってしまった。
●
夜中に目が覚めた。近頃、眠りが浅い気がする。原因は、分かっている。
火遁を使えるようになったら、城に帰らなければならない。
きっと、親父もお袋も心配している。爺なんて、うろうろして俺の名前を呼び続けているかもしれない。
身を起こす。ぎし、とベッドが小さく軋む。お月さんの光が窓から降ってきて、シーツを照らしている。
ベッドサイドに置かれたランプに火を灯し、俺はベッドから飛び降りた。
足元に、大きな体が横たわっている。巨体の割に、寝息は小さかった。
俺がここで世話になるようになってからというもの、ルビカンテはこちらにベッドを譲り、「ここでいい」と床で眠っている。
俺が床でもかまわなかったのに、「子どもが無理をするな」とルビカンテは笑った。
彼の隣に膝をつく。起こしたくないと思い、ランプの灯を消し、それを隣に置いた。
ルビカンテはシーツを体にかけて、静かに眠っている。
おかしなモンスターだなあ。改めて、そう思った。
――――父親のようになる必要はない。父親は父親、お前はお前だろう?
ルビカンテの言葉をなぞる。
言われなくたって、そんなことは分かっているつもりだった。
親父は親父、俺は俺だ。火遁を使えるようになったって、俺が親父のようにすごい忍者になれるという保証はない、と。
だけど、ルビカンテの言葉を聞くあの時まで、俺は無意識のうちに“親父そのものにならなければならない”と思っていたらしかった。
その思いを、この男が壊した。
手を伸ばして、大きくて太い手に触れた。爪の先が、微かに尖っている。それは炎のように赤くて、モンスターの証しみたいに見えた。
人差し指をぎゅっと握る。鼓動が脈を打つ。胸が苦しい。
どうして、傍にいるだけでこんなに胸が苦しくなるんだろう。
『私とお前は住む世界が違う。だから、早く帰るんだ』
ルビカンテは、口癖じみた言い方で、そう口にする。
その時は彼のきつい口調に思わず頷いてしまうのだけれど、本当は、首を横に振りたくて堪らなかった。
火遁を使えるようになったら、俺は城に帰らなければならない。帰った後、ルビカンテは、“住む世界が違う”からと言って、会ってくれなくなる気がする。
ルビカンテは優しいから、俺に親切にしているだけなんだ。
苦しい。苦しい苦しい。圧迫感が、首のあたりまでせり上がってくる。
「…………う……っ」
駄目だと思った時には、もう遅かった。
頬を滑り落ちた雫が、ルビカンテの目蓋に落ちる。
うっすらと開く目。淡い黄色をした瞳とかち合った。
ルビカンテの目は一瞬驚きを湛えたが、すぐにそれもなくなった。俺の頭を撫でて、口角を上げて微笑む。
「……怖い夢でも見たのか?」
俺が曖昧に頷くと、起き上がり、包むみたいにして強く抱きしめてきた。
馬鹿。そんなことをするから、余計に涙が止まらなくなるんだ。
「人恋しいのだろう?……だから、早く家に帰れと言っているのに」
馬鹿野郎。馬鹿野郎馬鹿野郎馬鹿野郎。
「今夜は共に眠ろう。ほら、泣きやめ。目が腫れるぞ」
馬鹿は俺か。
術は上手くなりたいさ。でも、ルビカンテに二度と会えなくなるのは嫌なんだ。
「どこか痛いのか?」
胸が痛い。
お前に近付けば近付くほど、胸の痛みは酷くなるばかりで。
抱き上げられ、ベッドに寝かされる。シーツをかけられたと思ったら、隣にルビカンテが滑り込んできた。
我慢できない。今度は、自分から縋りついた。
「…………今夜だけだぞ」
朝なんか、こなければいい。
背に回された腕は、とても熱かった。
●
あの夜、今夜だけだぞ、と言ったのは自分だ。
なのに、何故か今夜も共に床についている。
今日、エッジはついに火遁を完璧に操ることができるようになった。明日の朝、ここを出て行くつもりだという。
寝息をたてて眠る彼の顔は、とても幼い。シーツを握りしめている指先を見ると、微かに爪が伸びていた。
形のいい爪だ。小さな指先を摘めば、それはわずかに硬かった。武具を持つためか、彼の手に柔らかさはなかった。
そういえば、エッジは明日の用意をしていただろうか。せめて、回復薬の一つくらいは持たせてやらなければ。
起き上がってベッドから下りようとした私の服を、ぐい、と引っ張るものがあった。
「……どっか、行くのか……?」
目蓋を蕩けさせながら、呟いた。
「少し、用事を済ませてくるだけだ。すぐ戻る」
掴む手を外して立ち上がろうとするも、瞳の強さだけで阻止される。わざとらしく溜息をついて銀色の頭を撫でると、エッジはこちらが苦しくなるくらい、悲しげで辛そうな顔をした。
彼を突き放そうと思ってした行為が、刃となって私の胸に跳ね返ってくる。
突き放さねばならないのに。どうせ、明日には永遠の別れが待っているのだから。
私と彼は、住む世界が違うのだ。明日別れたら、もう、二度と会うつもりはなかった。
薄く開いた窓の隙間から緩い風が吹き込み、カーテンが捲れ、月が露わになる。身を起こし、エッジは私の服を更に強く握った。
「また……会えるよな?」
緑色の瞳が濡れている。
彼は、私が首を横に振ることを分かっていながら、こんな問いかけをしたようだ。表情には暗さが満ちていた。
「…………二度と、お前に会うつもりはない。言ったろう、住む世界が違う、と」
「ルビカンテ……」
涙声で、私の胸にしがみついてくる。
胸に熱いものがこみ上げてきて、彼の体を抱きしめた。
「お前のことを嫌っているわけではない。ただ、私達は住む世界が違うだけなのだ。……今回は、たまたまその世界が交わっただけで、きっと、この先二度と交わることはないだろう」
エッジが顔を上げる。頬はすでに涙で濡れきっていて、涙がとめどなく溢れて零れて。
頬を拭ってやりたくて、気づけば、彼の頬に口づけていた。
「……ルビ、カンテ……」
「泣きやめ。目が腫れると言っているだろう?」
心臓が激しく鳴っている。
冗談で済ますことができるのは、ここまでだと分かっていた。
視線を泳がせ、エッジは照れたように笑う。それから、思いもしなかった言葉を紡ぎ出した。
「なあ、その……口には、しねえのか?」
思いもよらない言葉を聞いた私は、固まってしまい、何も口にすることができなくなってしまった。
目蓋を閉じ、エッジが顔を近づけてくる。何も言えぬままこちらも目蓋を閉じると、唇に柔らかいものが押し当てられた。
間もなく離れていく。
にっこりと笑って、
「お、おやすみっ」
次にはっとしたような顔をし、シーツの中に潜り込んでしまった。
「……おやすみ」
シーツ越しに頭を撫でると、温かな気持ちが胸に残った。
テレポで、この草原――彼が倒れていた場所――までやってきた。あれやこれやと言いながら、何故か、バルバリシアとカイナッツォとスカルミリョーネもついてきた。
カイナッツォとエッジは相性がいいのか悪いのか、よく言い争いをしている。それは、別れる直前も同じだった。
「おいルビカンテ、ほんっとうに帰していいのか?こんな美味そうな獲物、他にないぞ!」
「獲物獲物言うな、亀!!」
「このガキ、今何て言った!!こうなりゃ今すぐ食って……ぎゃっ!!」
カイナッツォとエッジの言い争いを終わらせたのは、スカルミリョーネだった。カイナッツォに、蜘蛛の糸を投げつけている。
「……そこで、亀らしくのろのろしていろ」
言ってから、エッジの方に向き直り、
「さあ、こんなのは放っておいてさっさと行け」
優しい口調でそう言った。
「おう。色々、ありがとな」
蜘蛛の糸に絡まって何やらぎゃあぎゃあ喚いているカイナッツォを尻目に、エッジが微笑む。
「あんまり無理せずに、楽しくやりなさいよ」
バルバリシアがエッジの顎を掬い、妖艶に唇を持ち上げる。
「さんきゅーな、ねえちゃん」
「どういたしまして」
ぺこりと頭を下げてから、エッジはカイナッツォの前に向かった。
「おめぇもありがとよ!クッキー、美味かった」
礼を言われるとは思ってもみなかったらしいカイナッツォは、細い糸に絡まりながら目を丸くして、「俺が選んだんだからな!不味いはずがねえ!」と顔を赤らめて見せた。
「気をつけて帰るんだぞ」
「おう……ルビカンテも、さんきゅ」
エッジは俯く。
「…………じゃあ、もう行くから」
小さな声で言い、踵を返した。
少しずつ、少しずつ、小さな背が遠く離れていく。
それは、俊敏な彼に似つかわしくない、ゆっくりとした足取りで。
溜息をつき、バルバリシアが私の頭を指先で弾いた。
「……あの子、泣いてるわよ」
「分かっている」
「追いかけなくてもいいの?きっと、理由はあんたよ」
「……だろうな」
「あんたも素直じゃないわね」
「何を今さら……」
今あの手首を掴んだら、もう戻れなくなってしまう。
だから、私は追いかけない。
『また……会えるよな?』
彼の未来を守るために、自らの感情に鍵をかける。
けれど、抱きしめた体の熱さを、決して忘れることはできないだろう。
End