失ったものは戻ってこない。
 あの時こうしていれば、と考えても、空しいだけだ。
 だから、思い出さないようにしていた。俺から離れて旅立って行ってしまった男のことを、思い出す日は二度と来ないはずだった。
 ――そう、あの日までは。
 バロン城で再会したあの日、ゴルベーザはあの時と何も変わらない姿でそこに立っていた。
 名前も何もかも捨てていた―あの頃であれば、何も感じないふりをすることもできたのかもしれない。
 けれど、過去の自分を受け入れた俺には、無視をすることなんてできやしなかった。
「ゴルベーザ……!」
 一体、何年ぶりにその名前を口にしたのだろう。
 ゴルベーザはこちらをちらと見ただけで、顔色を変えることもなかった。


***


 真っ直ぐに見つめることすらできぬほど、久方ぶりに出会った彼は眩しかった。
 美しい瞳。
 改めて、私のような者が触れてはいけない存在なのだ、と思い知らされた。
 昔も、何度かそう思ったことがあった。カインは、自分とは違う世界で生きる存在なのだ、と。
 ずきりと痛む胸を叱咤しながら無表情を装い、視線を他へとやった。
 カインは一瞬目を見開いて、目の前の少女――しかし表情は、少女のそれではない――に目を向ける。
 そうだ、今はこの女をなんとかしなければならない。
「生きていたか」と言って、女は私を見据える。
 セシルを『操っていた』この女を、許すわけにはいかなかった。



 魔導船に響く、小さな寝息。
 ただ息をしているだけのセシルは、まだ意識を取り戻していない。その傍では、ローザとセオドアが泣き腫らした目蓋を閉じて、寄り添うように眠っていた。
「……やっと、眠ったか」
 カインが、セオドアの髪を撫でながら呟いた。
「ああ」
 答え、セシル達を見つめた。
「あれだけ泣けば、疲れもするだろう」
「……そうだな」
 ローザとセオドアの二人は、皆が床についても頑としてセシルの傍を離れようとせず、泣きながらセシルの名を呼び続けていた。
 皆、食事をとろうともしない二人を心配して「ここにいる」と言っていたが、全員が寝不足では、敵と戦うこともできない。
 皆を説得し、結局、私とカインがこの場所に残ったのだった。
「セシル」
 言いながら、今度は、セシルの髪を撫でた。それはまるで弟にする仕草のようで、酷く胸が締めつけられる。
「あの泣き声が、セシルに届いているといいんだが」
 独り言のようなその言葉に、悲しみの輪郭を見つけた。カインの眦には、涙が浮いている。自分も泣き出したいくらい辛い思いをしているくせに、彼は泣こうとしない。人に泣き顔を見せることは、避けたいのだろう。
 彼はセシルの傍に寄り添った。セシルの手を握りしめ、眠気の宿った眼差しで、
「……セシル」
 たった一言口にした。



 ローザやセオドアと同じように、カインもまた、セシルの傍で眠りについた。
 丸まった三つの背中に毛布を掛け、カインの形の良い頭に目をやると、途端、触れたくて堪らないという衝動が湧き上がり始めた。
 眠っているカインの頭を撫でたことは、何度もあった。だが、洗脳が解けた彼の体に触れたことは、ただの一度もありはしなかった。
 まやかしの関係だった。
 何もかもが幻で、何もかもが偽物だった。
 偽物達に紛れてしまった本当の何かは、見つからない。
 なのにどうして、こんなにも胸が疼くのだろう。カインを求めて、指先が震えてしまうのだろう。
 彼に触れる資格はない。分かっているのに、触れたくて堪らなくなってしまう。血で汚れた私の手とは対極にある彼の髪は、きっと、私が触れたら赤黒く汚れてしまうのに。
 私は、カインの本当の笑顔すら知らない。
 洗脳されているときのカインの笑顔は、本物ではなかった。
 私を恨んでいるだろうに、カインは私を邪険に扱ったりはしない。それだけで十分だろうに、それ以上を期待してしまう自分の浅ましさに腹が立った。
 以前のように、抱きしめたかった。口づけたかった。やわらかな頬を撫でて、金の髪を指で梳かし、彼の全てに触れたかった。
 何より、彼の本当の笑顔が見たかった。私に向けられる笑顔は、どんな色をしているのだろう。

『ゴルベーザ様。ゴルベーザ様の好きな色は、何色ですか?』

 唐突に、彼の声が頭の中に振ってきた。
 そういえば、彼を操っている最中にそんなことを訊かれたことがあったなと思い出した。私は、あの問いになんと答えたのだろう。思い出せない。
 今の私なら、迷わずこう答えるだろう。
 私は青と金が好きだ、と。


***


 セシルが光を取り戻し、皆の顔に、笑みが戻った。自らの闇と対峙したセシルは以前よりも眩しく、真の光に近いもののように見えた。
 様々な強敵と戦い、前に進んでいく。クリスタルの力で蘇ったモンスター達は、どれも、強い力を持つものばかりだった。
 目の前の敵を、真っ直ぐに見つめる。
 六つの頭を持つ巨大なドラゴンが、凶悪な表情をしてこちらを見下ろしていた。
 がくがくと膝を震わせながら、セオドアは剣を構えている。
「力を抜け、セオドア!」
 カインが叫び、
「は、はいっ!」
 はきはきとした声で、セオドアが応えた。
 ドラゴンが、涎を垂らしながら尖った爪のついた手を振り下ろす。無駄一つない跳躍でそれを避けながら、カインは蹴りを叩き込んだ。
 カインの攻撃によって怯んだところで、セシルとセオドア、そして私が攻撃を仕掛ける。ローザがスロウを唱え、ドラゴンの動作が緩慢になった。
「僕が、止めを刺します!」
「……セオドアッ!」
 自分がやらなければ――皆の役に立たなければ――おそらく、セオドアはそう思ったのだろう。
 しかし、それはあまりにも無謀過ぎた。手負いの獣は、最後の力を振り絞って噛みついてくるものなのだ。
 セオドアに、巨大な爪が迫り来る。がちがちに固まってしまったセオドアは動かず、剣を握り締めたまま立ちすくんでいる。
 セオドアを守るため、カインとセシルが駆け寄る。二人に任せておけば大丈夫だと分かっているはずなのに、頭の奥底が疼いて、収集がつかなくなった。二人は、怪我することを覚悟して行動しているのだ。
 二人が傷つく姿を見ることが、酷く恐ろしい。
 気づいたときには、背中で鋭利な爪を受け止めていた。
「ゴルベーザ……ッ!」
「兄さん!!」
 背中に冷たいものが走る。それが痛みだと分かるまで、しばらくかかった。
「……馬鹿野郎っ!」
 跳躍する直前、カインが叫ぶ。膝を折り、私は彼に微笑んでみせた。彼の怒声を嬉しく思うだなんて、私は相当の『馬鹿野郎』らしい。
「……カインの言うとおりだよ……兄さんの、馬鹿……っ」
 カインの攻撃によって、ドラゴンの体が沈む。
 セシルの潤んだ瞳が悲しくて、「泣くな」と口にした。セオドアとローザも、泣き出しそうな表情をしてセシルの背後に立っている。
「兄さん……僕はもう、子どもじゃない。だから、兄さんに守ってもらう必要はないよ……。兄さんが怪我をすることの方が、辛いよ」
 駆け寄ってきたカインが、私の肩に頭を預け、
「……そうだ。俺達の心配をするくらいなら、自分の心配をしろ。俺も、お前が……」
 そう言ったきり、黙りこくる。
「……セシル、カイン、すまなかった」
 言うと、カインは私の手を強く握りしめた。



「ゴルベーザの傷を癒したい」。そう言って、カインは顔を伏せた。近くで見つけた結界で今夜は休むことにする。
 カインの望んだとおりに、私は彼の目の前に背中の傷を晒した。他の者は、少し離れた場所で食事をしている。死角になる場所で、私達二人は腰を下ろしていた。
 不慣れな動作で、カインが白魔法を発動させる。
 不安定に瞬きながら、淡い光が傷口に染み込んできた。じわりと温かく、優しい光だ。
 あまり魔法に慣れていない様子が、背後から伝わってくる。
「……お前は、馬鹿だ」
 呟いて、私の背に額をあてる。彼に触れられているという事実だけで、私の胸は張り裂けてしまいそうだった。背中にぴったりと両手のひらをおいて、彼は小さく呪文を詠唱する。嗚咽混じりの響きに、堪らない気持ちにさせられた。
 ああ、まただ。
 また、私はカインを苦しめている。
 皆が談笑する声が、遠くから聞こえてきた。
「私は、お前を泣かせてばかりいるな」
 昔と、何も変わらない。
 彼の笑顔を見たいと望むのに、それが叶うことはなくて。
「……泣いていない」
「だが、泣きそうだ」
 振り向き、震える指先で、彼の頬に触れた。ひんやりとした感触に、カインの体温が低めであったことを思い出す。
 彼の金色の睫毛が、微かに瞬いた。
 どちらともなく、唇を寄せた。ふ、と小さな息を吐き、彼は私の唇を受け止める。
 濡れた音をたてて何度も何度も口づけていると、醜い情欲が湧き上がり始めた。焦り、カインの体を引き剥がす。
「ゴルベーザ……」
 濡れた唇で、彼は呟く。
 彼は、私のような者が触れて良い者ではない。
 自分自身に言い聞かせる。
「おーい、飯、食わねえのかー!? 俺がぜーんぶ食っちまうぞー!」
「そうそう! おいらも食っちまうからなあー!」
 聞こえてきたエッジとパロムの声に、カインの視線が泳ぐ。
「い、今行く!」
 慌てて立ち上がり、皆の方へと駆けだす。
 背中の傷は、もうすっかり癒えていた。


***


 一度触れたら、たがが外れてしまうことは分かっていた。快晴の空を映したかのように青い瞳から、目を離すことができない。
 カインのどこに惹かれたのか、きっかけは何だったのか、近頃では、それすら分からなくなっている。おそらく、彼のことを考えすぎているせいなのだろう。
 自らの危険も顧みずに、フースーヤは私を逃がしてくれた。彼は、どうしているだろう。不安は募っていくばかりだ。この戦いが終わったら、また、故郷の月を目指さねばならない。
 それは同時に、カイン達との永遠の別れを意味していた。
 再開を果たさなければ、胸を焦がすだけですんだだろう。だが、触れてしまった今では――。
 ゼムスに心の弱い場所を突かれ闇と共に生きていた、あの日々を思い出す。笑うことを忘れ、生きる意味も見出せず、ただクリスタルだけを求めていた、あの日々を。
 終わりの見えない暗闇の日々に一筋の光を差し入れたのは、他でもない、カインの存在だった。
 彼がいなければ、青き星での侵略行為はもっと酷いことになっていたに違いない。
 洗脳からくる笑顔だと知っていても、彼の微笑はとても美しかった。体を初めて暴いたあの日も、『ゴルベーザ様が望むなら』と、カインは抵抗一つしなかった。

『ゴルベーザ様が望むなら』

 それは、操られている時の、カインの口癖だった。私が望むことは何でもこなす人形は、死を恐れない殺人兵器にさえなりえた。
 離れさえすれば忘れられると思っていたのに、再開した瞬間、その考えは瓦解してしまった。
 胸を深く突くのは、彼の青い瞳だ。
 やわらかな唇の感触を思い出し、私は頭を抱えた。
 触れるべきではなかった。
 距離が近くなればなるほど、別れが辛くなるだけなのだ。
「――兄さん」
 背後から声をかけてきたのは、淡い月光のように微笑むセシルだった。
「泣いているのかと思いました」
 記憶の中の母によく似た面差しだった。
 私が腰掛けている岩に私と同じように腰掛け、セシルは私を見上げた。
「……カインの白魔法はまだまだだ。傷跡が、薄っすらと残っています。僕も、パラディンになりたての頃はこうだったな」
 セシルは、何が言いたいのだろう。分からず、私は口を閉ざす。「知っていますか?」と、セシルは小さな声で言った。
「カインは、皆が眠った後、白魔法の練習をしてるんです」
 プライドの高い彼らしい話だった。思わず唇の端を上げた私の顔を見て、セシルは続けた。
「……自分のためだけじゃありません。カインは兄さんの傷を癒したくて、白魔法の練習をしているんですよ」
「……私の、ため?」
「ええ、兄さんのためです。兄さんは、無茶ばかりしているから」
「無茶をしているように見えるか」
「……自分の命なんてどうでもいい、と思っているように見えます。兄さんには、もう少し自分のことを大事にして欲しい。僕だけじゃない、皆そう思っていますよ」
 立ち上がり、セシルは視線を遠くにやった。
「ね、カイン。君もそう思ってるよね?」
 岩陰から、ばつが悪そうな表情をしたカインが姿を現した。
「……気づいていたのか」
 苦笑し、こちらに向かってくる。「気配を消していたのに」言いながら、彼はやや離れた場所で立ち止まった。
「気づいていたよ。他の人には分からないかもしれないけど、僕にはすぐ分かる。今日も、白魔法の練習をするつもりなんだろう?」
「そのつもりだったが……」
 ちらと私を見、
「先客がいるようだから、今日は中止だ」
「人がいたっていいじゃないか。ね、兄さん?」
「……ああ」
 困り顔のカインと私を残し、セシルが寝所へ戻っていく。
「兄さんが教えてあげたら、カインの魔法も、もっと上達するかもしれませんよ。黒魔法も白魔法も、魔法の基礎は同じでしょう?」
 私の耳にそっと囁いて、セシルはにっこりと微笑んだ。



「もっと集中しろ……そう、それでいい」
 骨張った手首を彼の背後から握り、言う。
「短期間で、これほど上達するとは。お前は、本当に努力家だな」
 首を横に振り、カインは手のひらに光を集めて見せた。月明かりに似た美しい光は、私には決して出すことのできない色をしている。ふわふわと光を浮かせながら、彼は私の胸元に頭を預けた。
「……綺麗だ」
 カインが、夢見るような口調で言った。ごく自然に、彼の胸元に手を回す。
 集中力が切れてしまったのだろう。光はあちらこちらに飛び、舞い、霧散した。辺りが急に暗くなり、何故だか悲しい気持ちに包まれる。
 きっと数日のうちに、彼に触れることはおろか、この姿を見ることも叶わなくなってしまうのだ。
「あの塔で……ゾットの塔でお前と共にいた日々は、今思えば、とても幸せだったよ」
 私の手に手を添えながら、カインは小さく口にした。
「虚勢をはる必要もなければ、先の不安を思う必要もなかった。ただ、お前のことを考えていれば、それで良かった。お前が俺に何かを命じて、俺はそれを素直にきいて、何も考えずに何も迷わずに、ただただお前だけを見つめていた」
 そうだ。彼が操られることに喜びを感じているということに、私は気づいていた。
 彼は逃げていたのだ。何もかもを捨てたふりをして、私に縋りついていた。
 当時の彼は、ひどく追い詰められていた。
「……あの頃に戻りたいとは思わない。でも、あの頃を妙に懐かしく思う時があるんだ」


***


 この前交わした、あの口づけが、俺を惑わせる。
 思わず震えてしまうほど、優しい口づけ。焦がれてやまなかった感触に、俺は思考を止めてしまいそうだった。
 どういうつもりで、ゴルベーザは俺に口づけたのだろう。
「……確かに、幸せだったかもしれん。毎朝、目覚めると、必ずお前が傍にいてくれた」
「ゴルベーザ……」
「朝の挨拶をして、私に微笑みかけてくれた。朝が来ることを何よりも恐れていたはずなのに、お前の笑顔一つで、私はいつの間にか、朝を恐れなくなっていた」
 互いを慰め合う毎日だった。俺達には慰めが必要で――けれどいつしか、俺達の間には慰め以外の何かが芽生え始めていた。
 愛と呼ぶには、何かが足りなかった。
 恋と呼ぼうとしても、それとは何かが違った。
 可愛らしい響きのそれとは違い、俺達の関係はあまりにも血生臭過ぎた。
「……俺は、お前が青き星に……俺達の星に残ってくれたら良かったのにと、そればかり考えていた。お前の気持ちも考えず、馬鹿げた妄想を描き続けていた。月に残ると決めたお前を引き止める言葉一つ、口にできなかったのに……」
 そして、バロンに戻ることもできず、俺は試練の山へ向かった。
 修行に明け暮れれば何かが変わるかもしれないと思ったのに、優しい風を頬に感じるたびに故郷のことを思い出し、一つになってしまった月を見上げるたびに、ゴルベーザのことを思い出した。
 結局俺は、何一つ、捨て去ることも忘れ去ることもできなかったのだ。
 捨て去る必要などないと気がついたのは、闇に成り果てた昔の俺と対峙した時だった。
 今の俺の中には、昔のままの醜い俺と少しだけ成長することができた俺とが、混ざり合って共存している。
 ゴルベーザの真意が知りたかった。
 昔のお前は、俺のことをどう思っていたんだ?
 今は、どう思っている?
 あの口づけの意味は?
 逃げることは簡単だった。ゴルベーザから身を離し、「おやすみ」と一言言えば良い。あとは彼を避け続ければ、何もなかったことにできる。
 ゴルベーザに拒否され、傷つくことを、俺は恐れている。それでも、傷ついてぼろぼろになってしまっても――俺は、ゴルベーザの本当の気持ちを知りたかった。
 こんな方法しか知らないなんて、俺は本当にどうかしている。
 震える手で彼の手を強く握り、深く息を吸った。
 軽蔑されるかもしれない。仲間としての地位さえ失ってしまうかもしれない。
 体の震えが止まらなかった。
「……俺を、抱いてくれ」
 上擦った声を、まるで自分の声ではないように感じた。
 怖い。
 振り向けない。
「本気か……?」
 かあっと熱くなった俺の体を、ゴルベーザは強く抱きしめる。
 拒否の言葉を恐れながら、俺はただ、彼の言葉を待った。


***


 羞恥に赤く染まった肌が、私の理性を砕こうとしている。髪に口づけて、カインの体をきつく抱いた。
 聖竜騎士となった彼の姿は、あまりにも眩しい。
 空を翔る姿だけでも触れ難かったというのに、光を得た彼は、私とは別世界の軸に立っていた。
 穢れた私の手で触れてはならないように思え、そっと体を離す。
「……すまない、カイン」
 おそらく、カインは迫り来る最後の戦いを前に、少し感傷的になっているのだろう。だから今更、私を求めてきたに違いない。
「私達も、もう眠ろう。……お前は少し感傷的になっているだけだ。そんな気持ちは、一晩寝てしまえば忘れることができるだろう」
 カインは振り向かなかった。嫌な予感がした。
 ずきずきと胸が痛み、感傷的になっているのは自分の方なのではないか、と思う。
「……そう、か」
 彼は、それきり黙りこくってしまった。肩が震えていることに気づく。手のひらが、口元を押さえていることにも、気づいてしまう。
 彼は泣いている。
 見たいのは、彼の笑顔だった。なのに私は、彼を泣かせてばかりいる。彼を笑顔にする術が、どうしても見つからない。
 今彼を抱けば、きっとまた、彼を苦しめることになってしまうだろう。だが抱かなくても、彼を苦しめることになる。
 私は、どうすればよいのだろう。
 私自身は、どうしたい。
 カインは、寝所とは反対方向に歩き始めた。
「先に……戻っていてくれ。変なことを言って、すまなかった」
「カイン」
「頭を冷やしてくる。俺の言ったことは、忘れてくれ……頼む」
 追いかけよう、と思う。足が竦んだ。
 背後から抱きしめて、組み敷いて、白く輝く鎧の中にある体の全てを暴けば、彼は私に微笑んでくれるのだろうか。
 違う。そうではない。大切なものは、きっと、もっと別の場所にある。
「カイン!!」
 想像以上に大きな声が出た。彼は振り向き、驚いた顔で静止している。
 想いを伝えなければいけない、と思った。伝えなければ、私達は前に進めない。
「好きだ、カイン」
 彼が息を飲むのが分かった。
「愛している……」
 泣き笑いのような表情。あともう少しだ。あともう少しで、求めていた笑顔が手に入る。
 歩み寄り、涙でぼろぼろになっている彼の顔を抱き寄せた。どうして、こんなにも愛おしいのだろう。胸が熱くて、詰まって、どうしようもない。
「お前は? ……お前の気持ちを、聞かせてくれ」
 想いを伝えることの難しさを知った。彼の返事を聞くのは恐ろしかったけれど、どんな答えが返ってきても、正面から受け止めたいと思った。
 濡れた瞳が、私を見る。
「……好きだ……っ」
 私の胸に額を預け、震える声で、
「好きでもない奴に、『抱いて欲しい』だなんていうわけがないだろう……!」
 顎を掬い上げる。噛みつくように口づけると、理性が消えていくのを感じた。
 もう、湧き上がる感情を堪える気はなかった。
 何より、カイン自身が、私に貪られることを望んでいる。
 傍にあった柱に彼を凭れさせ、片脚を大きく持ち上げた。下腹部を覆っている鎧を外し、下着越しにペニスを撫でる。彼のものは既に立ち上がりきっていて、先走りが下着に染みていた。
「はや、く……」
 今挿入したら、傷つくのは彼だ。そう思い、下着を下ろしてからそっとペニスを握った。
「あ……っ!」
 耳朶を食み、愛撫する。か細い喘ぎが私の頭を真っ白にし、声に合わせるようにして、とろとろと流れてくる先走りをペニスに擦りつけた。
 ちゅくちゅくと鳴るいやらしい音は、彼が期待に打ち震えているという何よりの証拠だ。
 窄まった場所に指を持っていくと、そこは先走りで濡れ、ひくついていた。
 指先を挿し入れる。酷く熱く、狭い。毎日のように抱いていた、あの頃とは違うのだ。心は急くけれど、彼を傷つけたくはない。
 ゆっくりと指を進め、無理そうなら戻る。何度もそれを繰り返すうちに、カインの中は蕩けだし、彼は啜り泣き始めた。
「……ゴルベーザ……も、う、もう……っ」
「もう少し、辛抱しろ。……お前を、傷つけたくないんだ」
 切なげな声で泣く彼を宥めながら、狭い場所を寛げていく。はあ、はあ、と荒い息を吐く彼の額には、汗が滲んでいた。
 指を引き抜き、自らの雄を取り出す。
 武具に護られているカインの片脚を抱え、ぐ、と腰を沈めた。
「あ、ああぁ……んん……っ!」
 カインの体が、ぶるぶると震える。途端、きつく中が締まった。
 彼が、挿入しただけで達してしまったのだということを知る。
 彼が吐き出した白濁は私の腹を汚し、垂れて、床を微かに汚していた。
「……ゴル、ベーザ……ぁ……っ」
 呼ばれ、抑えがきかなくなる。
 しがみついてくる体を支え、両脚を抱え上げた。
「あぁ、あっ!」
 眩暈がするほど、彼の中は熱い。馴染ませるために、そっと腰を揺すった。
 彼に触れている。その事実が、私の心を満たしていく。体だけではなく、彼の心に触れることができているような、そんな気がして。
 彼を操っていた頃も、何度も何度も抱き合って、欲望を交し合っていた。けれど、交わされるのは快楽だけで、そこに『心』が含まれることはなかった。
 抱き合っても遠く、繋がっても空しい。そんな日々は、単に胸を抉るだけだった。
「あっ……ん……、んん……う……!」
 大きく響いてしまう喘ぎ声を抑えるため、彼は唇を噛んでいる。マントの端を口元まで持っていってやると、彼は躊躇いなくそれに噛みついた。
 彼の体を持ち上げ、落とす。鼻から抜けるような甘い声を漏らしながら、彼は首を横に振る。
「んんん……んう、んっ」
 屹立した彼のものは私の腹に当たり、今にも達してしまいそうなほど、多くの蜜を垂らしていた。
「あぁっ……ゴルベーザ……!」
 一瞬。
 カインに何か別のものが重なって見えたような気がして、胸が大きく鳴った。
「……俺は……」
 彼の唇の端から、一筋の唾液が流れ落ちた。
 重なって見えたのは、過去の影。
 聖竜騎士である彼の白い鎧の奥に透けて見えたのは、過去の彼の姿だった。
 地面に横たわらせ、何かを伝えようとしている彼の頭を撫でる。結合を解こうとすると、「嫌だ」と彼は小さく呟いた。
「……俺は、ずっとお前のことを忘れようとしていた。でも、忘れようとすればするほど忘れられなくなっていったんだ……」
 胸甲の冷たい感触が、私の胸元に当たっている。
 その冷たささえも、愛おしかった。
「お前は、俺のことを愛しているって、そう言ったけれど……俺の過去は? ……過去の、あの憎悪と幼さに満ちた愚かな俺を、お前はどう思っていたんだ……?」
 今度は、はっきりと、二十代の――二十一歳の――彼の姿が、私の目の前に現れた。幼い表情。ああ、こんな顔をしていただろうか、と思う。もっと、大人びて見えたような気がしていたのに。
 もしかして、彼は背伸びをしていたのだろうか。大人であろう、独りになることは、恐ろしくない。そう自分に言い聞かせていたのだろうか。
 モンスター達の中で独りきりで過ごしていた、ずっと昔の私のように。

 ――俺のことを、忘れないでくれ。

 過去の彼が、口を開いた。頬を撫でると、青い瞳から涙が溢れる。
 過去のカインも、聖竜騎士となったカインも、どちらも同じカインだ。芯の部分は、変わらない。
「お前はお前だ。初めて出会った頃から、私はお前に惹かれていた」
 私の腰に、カインの脚が絡みつく。刹那の逢瀬を少しでも濃いものにするために、彼は私の背に爪を立て、深く深く、全てを飲み込む。
 一つ一つを、目に焼き付けておきたい。
 流れるような金の髪、空を映したかのように青く光る瞳、少しだけ薄めの唇、白く長い指。
 そして、優しい笑顔。
「ゴルベーザ……、俺が動いても、いいか……?」
「……ああ」
 腰掛け、柱に凭れる。私の上に座る格好で、彼は腰を揺すり始めた。
 ずるり、と引き抜かれる度に媚肉は震え、金糸が揺れる。微かに鳴る武具が擦れる音が、私の耳を犯した。
「んんっ、あ……っ、あぁっ」
 体を揺らめかせる彼の顔は、快楽に染まりきってはいない。彼の中に不安があるせいだろう。操られていた頃とは、違うのだ。
 もっと彼の顔を見ていたいのに、彼が見せる新たな表情を、もっともっと見つけたいと思うのに、きっともう、彼をこの腕に抱くことができる日は来ない。
「……これが最後なのだと思うと、どうしようもない気持ちにさせられるな……」
「…………ん、あぁ……っ」
 溢れた涙が、私の胸に落ちた。こうしている間にも、終わりは近づいてきているのだ。
 彼を死なせることはしないが、私が死なぬという保証はない。どちらにせよ、この戦いが終われば、私は故郷の月へ帰るつもりなのだから。
 抜き挿しが速くなっていく。
 息ができぬほどの快楽に見舞われて、彼の腰を掴んだ。
「ゴルベーザ……ッ! あ、ああぁっ、ん……!」
 仰け反ったカインの首に噛みつき、彼の中に欲望を流し込む。彼も同時に、精を吐き出していた。



「別れが、辛いか?」
 意地の悪い質問だ。くったりと力の抜けた体を抱きしめながら問うと、『分かっているくせに』という表情で、彼は小さく頷いた。
「……お前と共にお前の故郷の『月』へ行けたらと思ったこともあったけれど……でも、俺には、この星でやるべきことが残されているから……お前と共には、行けないんだ」
「……セオドアのことか?」
「ああ……セオドアを、一人前の騎士にしてやりたい。それに、お前の弟のことも心配だ」
 ふっ、と笑い、
「これからは、あいつの力になっていきたいと思ってる。俺は、あいつの家族だからな」
 ローザもセオドアも、と笑う。
「お前もだよ、ゴルベーザ」
「カイン……」
「お前は、俺の家族だよ。大切な、家族だ。お前と一緒には行けないけれど、俺はずっと、お前の無事を祈っている」
 大切な家族。
 思いもよらなかった彼の言葉に、胸が熱くなる。
 離れてしまっても、この先その青い瞳を目にすることができなくなってしまっても、彼を想う、この気持ちだけは消えることはない。そう思うことができるからだ。
 私の体を抱きしめて、彼は耳元で囁いた。
「……お前と出会えて良かった。色々なことがあったけれど、幸せなことも、沢山あった」
 秘められた想いの全てを抱いて、大切な思い出に鍵をかけ、互いに、自らが目指す道の方へと歩き始める。
 閉じられた彼の目蓋に口づけを落とし、頬を辿り、ゆっくりと唇を重ねた。

 目蓋の裏に焼き付けられた、二人のカインの姿。
 どちらも手に入らないことは分かっているのに、抱きしめずにはいられない。
 鼓膜に残る、愛おしい人の声。決して忘れることはない、心を軋ませる、儚い想い。
 周囲の景色が、風景が、全てが変わっていってしまっても、この想いだけは変わらない。
 ただ、この肌が覚えている。
 切なく甘い、彼の指先の感触を。



End




Story

ゴルカイ