「人間というものは、面倒なものだ」
 書類を手渡そうとゴルベーザ様の部屋を訪れた私に向かって、彼は開口一番そう言った。
「そう思わぬか、ルビカンテ」
 兜を取り去ったゴルベーザ様の横顔が、暗い部屋の中で月明かりに照らされていた。ゆったりと椅子に腰掛けている彼の視線は、私を見ず、果てのない暗闇を見ているように思えた。
「……人間は、小さなことで心乱されてしまう。苦労を重ねて積み上げてきたものでも、一人の人間によって壊されてしまう。……酷く、面倒だ」
 ゴルベーザ様は、月がよく似合う人だった。鋭利な刃物にも似た冷たい横顔は、月と似ていた。
 彼の言った言葉を頭の中で繰り返し響かせ、「……確かに、面倒かもしれませんね」と答えた。

 私がまだ人間だった頃、私の目には、人間の持つ『面倒で弱い部分』は害悪そのものに映っていた。弱い部分を取り去れば、何よりも強い生き物になれるのではないか――――そう、考えていた。
 だが、弱い部分を取り去ってモンスターとなった私は、何よりも強い生き物になることはできなかった。
 モンスターには、理性というものが欠けてしまっていた。考えるより早く、体が動いてしまいそうになる。結果、目の前には血に塗れた死体だけが残る羽目になる。
 少し仲良くなることができたモンスターが――――甘えた声を出して体を摺り寄せてきた、幼く小さな動物が――――この体になってから初めてできた、愛する人が――――皆、血に塗れてしまう。
 大切にしたいと思うのに、モンスターとしての本能が邪魔をする。
 頭の中で煌めくのは、短い銀髪を持つ青年の姿だ。
 モンスターに襲われているところを見つけ、そこを通りすがった私は彼を救った。
 風のような笑顔を浮かべる、優しい心を胸に抱いた青年だった。

『友達になろうぜ!』

 彼には友人がいなかった。私にも、いなかった。
 彼の周りには人が沢山いるようだったが、彼の身分が友人を作らせてはくれないらしかった。
 私と彼は、夜にだけ会うことができる友達だった。
 身分も種族も越え、私達は笑い合った。
 経験上、近づいてはいけないと分かっていた。彼を殺してしまうことを、私は恐れた。
 彼が血に塗れてしまう夢を、何度も何度も見た。薄い胸を長い爪で切り裂き、細い首に齧りつく夢だった。夢の中で、息も絶え絶えになりながら彼は私の名を呼んだ。悲痛な声を無視し、私は彼を殺した。
 私の中で、愛と殺意は同等のものだった。愛が膨れ上がれば、殺意も強くなっていく。犯し殺すのが理想だった。美しい彼を、汚して壊してしまいたかった。

「――――ルビカンテ」
 私の意識を引き戻したのは、ゴルベーザ様の掠れた声だった。
「エブラーナの王子が心配か?」
 含みのある言葉。曖昧に笑うことしかできない。
 エブラーナの王子は今、ルゲイエの研究室で眠っている。もう、何日も目を覚まさない。研究室に運び込んだとき、彼はまさに虫の息だった。
 瀕死に追いやったのは、私だ。
 恐れていたことは、いとも簡単に現実のものとなってしまった。

『……や、やめ、て……くれ…………ルビカンテ……こんな、の…………いや、だ……っ』

 小さな窄まりを、醜いものが貫いていた。しゃくりあげて泣く彼を、飽くことなく何度も揺さぶった。
 彼の体は傷だらけで、服はぼろきれのようだった。
 私は、彼が欲しかったのだ。彼の全てが欲しかった。滑らかな肌を食み、やわらかな肉を味わった。
 何度目かも分からぬ射精の後、彼のものが勃ちあがっていることに気がつく。
 驚いた私の表情を見て、虚ろな緑の瞳で、彼は小さく呟いた。

『…………好き……なんだよ……おめぇが……おめぇが好きだから、だか、ら……』

 それが、彼が意識を失う前に言った最後の言葉だった。
 胸が痛む。
 モンスターになって手に入れたものといえば僅かな力だけで、それに比べ、失ったものはあまりにも多過ぎた。
「……人間は確かに面倒な生き物かもしれません。けれどその面倒な部分が、人間を強くも弱くもするのです」
 私はゴルベーザ様に微笑んでみせた。彼は初めてこちらをちらと見、「そうだろうか」今度は窓の外を見遣った。
「私は、感情に左右されて弱くなっていく自分自身を許すことができんのだ」
 そう言って立ち上がり、彼は隣室へと向かった。風のように微かな音をたてて扉が開き、奥に置かれているベッドの上の金髪に、私の視線は釘付けとなる。
 彼はやわらかそうな金髪に指先を伸ばし、掬い上げた一房の髪にそっと口づけを落とした。
「…………昨日は、バロンを消す予定だった。だが不必要な感情に邪魔をされ、結局、実行に移すことはできなかった」
 ゴルベーザ様は、計画に忠実なお方だ。そんな彼の忠実さを揺るがしたものとは、一体何なのか。
「不必要な感情とは、何なのですか?」
 鼻で嗤い、ゴルベーザ様は真っ直ぐに私を見た。
 自嘲の奥に、悲しみが透けて見えていた。
「……カインが話していたことを思い出したのだ。『飛竜の上から見るバロン城と、その周辺の景色が好きです。父に乗り方を教わった、あの日々が蘇ってくる』と言って、カインは笑っていた。バロン城を消せば、カインの笑顔は曇ってしまう。思った瞬間、計画を中止してしまっていた」
「ゴルベーザ様……」
「お前のようなモンスターになれば、こんな感情を持て余すこともなく生きていけるのだろうな」
 小さな寝息をたてて眠るカインの髪を梳きながら、
「全く、厄介なものを拾ってしまったものだ」
 彼は、ゆっくりと首を横に振る。
 自らが泣き出しそうな顔をしていることに、彼自身は気づいているのだろうか。
 人間らしいゴルベーザ様が、羨ましくて堪らなかった。
「ルビカンテ」
「はい」
「……本当に、いいのか。あの男の記憶を消して」
「…………はい」
「お前は、あの男を……想っているのではなかったのか」
 ゴルベーザ様の指先を、金糸が滑り落ちていく。
「想っているからこそ、忘れて欲しいのです。彼が忘れてしまっても、私は全てを覚えている。それで十分なのですよ」
 彼は何も言わず、光を失った指先を見つめている。
 時計の音だけが微かに響き続け、静寂に痛みを感じ、唇を噛んだ。



End


Story

その他