頭が痛くて堪らない。
 真っ赤に染まる視界の中で、ゴルベーザは頭を抱えうずくまった。

 しかし、休んでいる暇はない。
 自分には成さねばならぬことがある。

『クリスタルだ』

 そう、クリスタルを手に入れなければならない。

『邪魔者は殺せ』

 そう、セシル達を殺して、先へ進まなければならない。

…進まなければならない。

(何か大切なことを忘れているような気がする)






「大丈夫、もう動けるわ!」

 突如、目の前に現れたドラゴンの霧によって、黒竜が消し去られる。
 呪縛の冷気で倒れていた筈のセシル達が、怪訝な顔をして身を起こした。
 一体何者だ、とゴルベーザが視線を巡らせたその先には、緑色の髪をした女が立っていた。
(あれはミストの召喚士か…生きていたとはな)
 その女の隣でふらりと立ち上がった竜騎士の姿を目にした瞬間、全身の血が逆流したかのような衝撃に襲われ、視界が赤くなる。動けなくなる。
 が、それは一瞬で、途端に頭が痛くなり、その衝撃も掻き消えた。
 とにかく殺さねばならないのだという思いがゴルベーザの思考を真っ黒に染め上げる。
 召喚士が幻獣を放ち、白魔道士が回復をこまめに行う。その合間に剣や武術で攻撃され、ゴルベーザの体力は少しずつ奪われていった。
 竜騎士が高く跳躍し、槍を振るう。しかし他の者達には見られない何か異質なものが、竜騎士の体にまとわりついていた。
(……あれは迷いだ)
 槍は決してゴルベーザの弱点を突いてこない。
(何故迷う?)
 何を迷うことがある。
 まとまらない思考を振り切るように首を振り、呪文を詠唱する。
 右手を翳してファイガを放つと、召喚士がもんどりうって倒れていくのが見えた。
「貴様っ!」
 セシルが吠えて斬りかかってくる。
 激しい攻撃に目眩を覚えた。
 こちらも攻撃に集中しなければならないと分かっているのに、どうしても集中する事ができない。

 初めて、死を覚悟した。

 頭の中で声が喚く。
 迷いなど捨てろ、お前が成すべきことは一つだ、と。
 しかし、心と体がばらばらになったかのように葛藤がおさまらない。
 セシルの剣がきらりと光るのが目に入った。膝が崩れる。避けきることはできそうにない。
 ゴルベーザは瞑目して痛みが走るのを待った。
 しかし、いつまでたっても何の感覚もやってこない。
「カイン…ッ!どうして」
 セシルの声が響く。女達が悲鳴をあげた。
 目蓋を上げると、男がゴルベーザを守るように手を広げて立ちはだかっていた。
「どうして!」
 セシルがもう一度叫ぶ。
 立ちはだかっている男―――カインの体はがくがくと震えている。
 固い音をたてて、槍が地面に転がった。
「…セシル…すまない……俺には、ゴルベーザを……殺せ…な……っ」
 倒れ込んできたカインの体を、思わず受け止める。
 鎧の胸当ての部分は砕け、その場所からは血が溢れ出していた。
「またカインを操っているのね!」
 白魔道士が言った。
 違う。自分は操ってなどいない。
 腕に抱いた体が弛緩し、重みを増す。意識を失っているのが見てとれた。

(何故、私を守った)

『そんな男は放っておけ』

(何故、こんな)

『早く、クリスタルを』
『クリスタルを』
『クリスタルを!』

 ふらつきながらゴルベーザは立ち上がる。
 カインを抱き締めたまま、クリスタルの元へと足を進めた。
「カインを離せ!」
 セシルのそれには答えず、ゴルベーザはクリスタルを手に取る。

『その男は邪魔だ、捨てていけ』

(…嫌だ)

 抱く腕に力を込める。
 頭が締め付けられるように痛いが、それよりも胸が痛かった。
 血の臭いがする。滑った感触がする。
 息が上手く吸えず、酸欠にあえぎながらテレポを唱える。
 悲愴な表情で駆け寄ってくるセシル達が見えたが、それも瞬く間に消え、目の前に見慣れた風景が現れた。
 いつもと変わらず静かな塔内に、ぴちゃり、と水音が小さくこだまする。
 座り込んだままの体勢でテレポを唱えたゴルベーザの腕の中で、青白い顔色をしたカインが静かに気を失っていた。
 水音は止まない。鎧を伝い、床に赤い液体が滴る。
 カインの命が流れていってしまう。治療を施さなければ、確実に死が訪れるだろう。
「…カイン」
 血で滑る指先からクリスタルが転がり落ちた。
「お願いだ、目を」
 目を覚ましてくれ。
 意識をなくしたカインの体は何の反応も返してこない。
 ふと、カインが居なくなった未来を想像して体が粟立った。
 ここ数週間の記憶が酷く曖昧だ。
 どうして彼を殺そうだなんて考えたのか。

 彼が笑うその瞬間、胸が温かくなる。
 カインの傍にいると、自分がまるで『普通の人間』になったような気がした。
 最初は術で彼を操っていたのだが、いつからか術を解いても彼は逆らわなくなっていた。
 諦めたのかと思ったのだが、そうではなかった。

『お前は悪い奴じゃない』

 何を思ったのか、カインはそう言ってゴルベーザ手を握り締め、青い瞳でゴルベーザを見据え、
『お前は、まだ間に合う』

そう言った。
 振り払うこともできたのに、ゴルベーザにはその手を離すことができなかった。

 彼とはよく一緒に音楽を聴いた。
 元々音楽に興味などなかったゴルベーザにレコードを用意させたのは他の誰でもない、彼だった。
 ベッドに寝転がり、クッションを抱き締めながら、感情を知らないなら教えてやる、そう言って子供のように彼は笑った。

『この曲は喜びを表現している。華やかだろう?弾むような心持ちにならないか?作曲者が自分の子供が産まれたときに書いた曲だ』

『この楽しげで希望に満ち溢れた曲は、結婚式によく演奏されるものなんだ。この曲の中、愛する者と永遠を誓う』

『これは…ほら、哀しい旋律だろう?……分からないか?この暗くて高い弦楽器の音は、』

『心が壊れていく様を表している』

 心が壊れる。
 胸が引き裂かれたかのように痛い。
 こんな感情、知りたくなかった。

『両親が亡くなった時、この曲を何度も聴いたよ』

 知りたくなかった。

『泣くことで哀しみが薄れるかもしれないと思って、何度も何度も聴きながら泣いた』

「ゴルベーザ様っ!」
 言葉と共に肩を強く引かれる。
 肩の先に目をやると、ルビカンテが何とも形容しがたい表情で立っていた。
「この血はカインのものですか」
 床に視線を落とすと、マントに染み込む程の赤が床を汚していた。
「このまま放っておけば、死にます。ゴルベーザ様、貴方はそれで構わないのですか」
 ゴルベーザはゆるゆると首を横に振った。
「でしたら、カインを早くルゲイエの所へ。この傷は私が治すには深すぎます。…カインは私が連れて行きますから、ゴルベーザ様はその血だらけの鎧を脱いできて下さい」
 いつものゴルベーザならば、命令するなとルビカンテを恫喝していただろう。
 しかし今はルビカンテに頼る他ない状態だった。思考が働かないのだ。
「早く、カインをこちらへ」
 おずおずとカインをルビカンテの腕に預ける。
 ルビカンテは一礼すると、踵を返した。
 彼の背が見えなくなった頃に周りを見わたせば、血生臭い床にクリスタルが転がっているのが目に入ってきた。
 血で濡れたクリスタルだ。
(こんなものの為に、私はカインを…)

『早くクリスタルを拾え』

 痛みが頭を支配し、ゴルベーザは頭を抱えてうめいた。
 震える手でクリスタルを拾い上げ、自室へと向かう。
 クリスタルから血が雫となって流れ落ちた。





 血濡れた鎧とクリスタルを自室に置くと、ゴルベーザはルゲイエの元へ向かった。

「ルゲイエ!」
「…ゴルベーザ様」
 カインはベッドに寝かされ、無数のコードがついた装置を胸に着けて眠っていた。
「危ないところでしたが、もう安心です。それよりゴルベーザ様」
 ルゲイエが胸元から小瓶を取り出す。
「ゴルベーザ様の怪我も酷いもんですよ。…せめて薬くらいは飲んでおいてください」
 特別に調合したんです、と手渡される。
 ゴルベーザは小瓶を受け取ると小さく頷いた。
「カインはしばらく目覚めません。もう少ししたらこの装置を外して、普通のベッドに移しましょう。そうですね、ここの隣室のベッドに…」
「私の部屋に移してくれ」
「…ゴルベーザ様の、部屋に?」
 怪訝な顔でルゲイエが聞き返してくる。
 ゴルベーザはカインの髪にそっと触れた。
「そう、私の部屋だ」
 その言葉に、ルゲイエが頷く。
「カインの側で目覚めを待つおつもりで?」
「ああ」
「…それならアラームが鳴ったらワシを呼んで下さい。それまで退室していますので。アラームが鳴ったらゴルベーザ様の部屋に運びましょう」
「…ああ」







 ゴルベーザの部屋に運ぶ頃には、カインの顔はかなり色を取り戻していた。
 しかし心は晴れない。
 幾らルゲイエにカインは無事だと言われても、目を覚まさないかもしれないという考えを打ち消すことはできなかった。
 椅子に腰掛け、ゴルベーザは白く清潔なベッドに横たわったカインの顔をただ見つめ続ける。
(どうしてお前は私を守った)

『…セシル…すまない……俺には、ゴルベーザを……殺せ…な……っ』

 悲痛な声を思い出し、息が苦しくなる。
 だらりとして力のないカインの手を握り締めると、息苦しさが少しだけ和らぐような気がした。

 人を好きになると優しい気持ちになれる、とカインは微笑みながら言っていた。
 その人の笑顔を見ているだけで幸せな気持ちになれるのだと。

『お前にもいつか分かるさ、人を愛するということが』

 あの胸の温かくなる感覚を幸せと呼ぶのだとしたら。

『お前ならきっと、愛する人を見つけられるよ』

 カインの微笑を見ている時に感じた温もりの正体が、彼の言っていた愛なのだとしたら。

(憎しみだけで生きてきた私に、愛することを教えたのはお前だ)

 まだ何も伝えられていない。
 この気持ちも、新しい夢も。

 目の前の全てが傾ぐ。耐えられない程に瞼が重くなり、ゴルベーザは目を閉じる。
 先程飲んだルゲイエの薬に、何か睡眠作用のあるものが入っていたらしい。
 大人しくしていろということか。
 ルゲイエめ、と言う間もなく、ゴルベーザは眠りに落ちていった。






 どれくらい眠っていたのだろう。
 突然手に強い力を感じ、ゴルベーザは身を起こした。
 カインが身動ぎしている。その額には汗が浮き、頬や目元は刷毛で撫でたかのように朱に染まっていた。
 手のひらが酷く熱い。
 熱が出るかもしれません、というルゲイエの言葉を思い出した。もし出たら飲ませて下さいと渡されていた青い小瓶をポケットから取り出す。
 蓋を外し、カインの薄く開いた唇に流し込むが、殆んど顎から伝っていってしまう。
 ゴルベーザは幾らか逡巡した後、薬を自らの口に含んでカインに口づけた。
 熱のせいでかさついてはいるが、柔らかいその感触にぞくりと甘い痺れが走り、心臓が早鐘を打つ。
 単なる薬を飲ませる為の行為だとは分かっている。
 どんなに自分がカインを想っても、カインが想い返してくれるとは限らない。
 寧ろ、カインの優しさを無下にしてセシル達を殺そうとした自分を憎んでいると考える方が自然だ。
 こうして口づけられるのも、多分最初で最後だろう。
 熱い口腔に薬を移すと、ゴルベーザは名残惜し気に唇を離した。
 カインが燕下するのを見届けると、その口元をタオルで拭う。
「ゴルベ……ザ……」
 カインの唇がゴルベーザの名を紡いだ。
「…ゴルベーザ……」
 空をさ迷う手を捕まえ、両手で包み込む。
「カイン、気が付いたのか」
 薄く瞼が開き、焦点の合わない青い瞳が覗いた。熱のせいで掠れた声が、ゴルベーザの名を何度も呼ぶ。
「私はここだ。あまり喋るな」
「よか…った、生きて…た…」
 カインが今にも泣き出しそうな瞳で、眉尻を下げて微笑んだ。
 衝動が体を突き抜ける。
 その衝動に抗う術もなく、ゴルベーザはカインを強く抱き締めた。
「何故、私の前に飛び出したりした」
 声が上擦る。
 カインは何も答えずに、大人しく抱かれているだけだった。
「…何故、私を庇ったんだ」
 胸元にあてられたカインの手が、ゴルベーザの服をぎゅっと掴んだ。
 小さく息を飲む音がゴルベーザの耳に届く。
「お前が…死ぬかもしれないって思ったら、いてもたってもいられなくなって…気が付いたら…」
「……突き動かされるままに飛び出していた。とでもいうのか?」
「ああ」
 カインを抱く手に力が篭る。

 あの時、カインを切りつけたのは、他の誰でもない、セシルだった。が、自分がカインを死の淵に立たせたのだという考えがゴルベーザを支配して離さない。
 そもそも、自分がクリスタルを欲したりしなければ、この戦いが起こることもなかった。

 今まで一体、どれだけの人々を死に追いやってきただろう。
 どれだけの人々を傷付けてきただろう。
 何故自分はこんなにもクリスタルを望むのだろう。
 何故頭の中に巣食う憎しみのままに、行動していたのだろう。
「俺は、お前を信じていた。お前は本当は良い奴だって…信じていたんだ」
 カインが静かに話し出す。

 俺はお前が苦悩しているのを知っていたんだよ、ゴルベーザ。
 …お前は覚えていないかもしれないが、お前は一度だけ、俺の目の前で正気を失ったことがあったんだ。
 頭を抱えて、痛い痛いと繰り返しながら、お前は涙を流していた。
 驚いたよ。あの時のお前の表情は誰よりも人間らしくて、葛藤に満ちていた。
 俺は泣き続けるお前に訊いた。
 何故泣く、お前はどうしたい、と。
 お前は床に膝をつき、俺を見上げながらこう言った。

「もう終わりにしたい。憎しみだけで生きていくのは、もう嫌なんだ」

 カインの静かな声とは裏腹に、ゴルベーザの頭の中ではよく分からない感情が忙しなく渦巻いていた。
「私が、そんなことを…」
「…俺はお前に憎しみ以外の感情を知って欲しいと、そう思った。音楽を沢山聴き、色々な風景を見て、本を読んで」
 カインの指先が、ゴルベーザの髪を撫でた。
「そうして俺が、お前の友人となって傍にいれば…お前は人間らしく生きられるのではないかと、そう思った」
 抱き締めていた体を離し、カインの目を見る。彼は眉尻を下げて、今にも泣きそうな顔で微笑んでいた。

 友人、という言葉がゴルベーザの胸に突き刺さる。
 分かっていた。カインが、同性でしかも敵である自分を、恋愛対象と見なす筈がない。

 青く澄んだ、一点の曇りもない瞳をじっと見つめた。
 空に似ている、と思った。抜けるように晴れた青空に似ている、と。
 ああ、この瞳を汚してはいけない。薄汚い自分の欲望で汚してはいけない。抱きたいなどと考えてはいけない。

「…友人で、いてもいいのか?私はお前を…セシル達を殺そうとしたんだぞ」
 ふ、と寂しげに笑うと、カインはゴルベーザから視線を外した。
「すまない。もう友人ではいられない…」
「そ、うか」
 そう答えて、頷くのがやっとだった。
 自分は一体、何を期待していたのだろう。自嘲してカインから完全に体を離し、その体に手早くシーツを掛けた。
「ルゲイエを呼んでくる。本当に…すまなかった」
 そうして立ち上がり、踵を返そうとした瞬間、
「行かないでくれ」
と服の袖を引かれた。
「…カイン?」
「傍に、いてくれ」
 勘違いしてしまいそうだった。
 友人ですらない男に、何故そんな言葉をかける。
 行き場のない苛立ちが、ゴルベーザの胸をざわつかせた。
「俺は、お前を友人だとは思えない」
「なら、この手を離………っ」
「愛している」
 心持ち薄めな唇が、言葉を紡ぐ。
「友人としてではなく」
 袖を引いていた手が、ゴルベーザの指を握り締めた。
「お前を、愛しているんだ」
 カインの表情は真剣で、しかし直ぐにその言葉を信じる気にはなれなかった。
「友人になれればいい、と最初は思っていたんだ」
 カインの指がするりとこちらの指に絡んでくる。今までにない位鼓動が喚いた。
「…でもそれじゃあ駄目なんだ。お前の傍を離れても、お前のことを考えない日はなかった。思い出すのはお前が時たま見せていた笑顔ばかりで、そのうち満足に眠ることすらできなくなって」
 自嘲した笑みを浮かべ、カインが目を逸らす。
「……さっき眠っていた時も、お前と…口付け合う夢を…見ていた」
 無表情を装おうとしているのだろうか、唇が震えている。
(彼も同じ気持ちで私を見ていたのか)
 カインの横に手をつくと、ぎしり、とベッドが軋んだ。我慢することなどできる筈もない。
 驚きに静止した彼の唇を、奪い、貪った。
「…っ……」
 カインの体が揺れる。
 見開かれていた目蓋がゆっくりと閉じられた。舌を潜り込ませれば躊躇うように応えてくる。
 髪を撫でて耳を擽ると、かあっと耳朶が赤く染まった。
「ん、んんっ」
 首筋のラインをなぞる。
 このまま、彼の全てを自分のものにしてしまいたい。そう思った瞬間、
「…ゴルベーザ様」
と背後から躊躇うような声が聞こえてきた。
 カインが慌てふためいた様子でゴルベーザの胸をぐいぐいと押す。
 熱く熟れた唇から離れると、とろりと引いた銀糸がカインの顎を流れ落ちていった。
 ルビカンテが頭を下げる。
「申し訳ありません。ノックをしても返事がなかったので、中で倒れたりしているのではないかと…思ったのですが。無用の不安だったようですね」
 ノックの音も聞こえてこないほど、行為に熱中していたということか。
ど うやら同じことを考えたらしい。カインはいたたまれない、といった表情で顔を背けてしまった。
「カインの傷はまだ癒えていません。できるだけ無理をさせないで下さい」
これを、と二人分の食事がのったトレイが差し出される。
「…ああ」
 受け取り、ベッドサイドの机に置く。すまない、と返事をすると、ルビカンテが笑う。その笑顔は四天王とは思えぬ位優しげなものだった。
「ゴルベーザ様。何か思い出しませんか」
「……?」
「貴方の両親の名、弟の名。貴方がクリスタルを集める理由……思い出したのではありませんか?」
 何のことだ。
 そう言おうとして、何かが頭に流れ込んでくるのを感じ、ゴルベーザは黙りこくった。

 この記憶は何だ。

「う……っ」
「ゴルベーザ!」
 ぎりぎりとこめかみが締め付けられる。頭を抱えてベッドの方に倒れると、カインが頭を支えてくれた。胸に、頭を押し当てられる。
 ルビカンテの声が降ってきた。
「…今の貴方なら、思念波にも勝てる筈です。貴方はもう子供ではない。貴方が本当はどう生きていきたいのか、答えは出ているんでしょう?」
 目の前が赤く染まり、ぐらぐらと意識が揺れる。
 ルビカンテは何を言っているんだ。
「ルビカンテ!ゴルベーザに何をした!」
 視線を頭上に向けると、カインがルビカンテを睨み付けているのが見えた。
「私は何もしていない。これはゴルベーザ様が越えねばならない痛みなのだ。そして私は、この日を長い間待ち望んでいた」


 頭が潰れるのではないか。そんな思いが頭を過ぎる。そう思ってしまうほどに頭痛は酷くなっていく。

 目の前が白く瞬き、突然一人の男の映像が現れた。反射的に(懐かしい)と思う。この男は誰なのか、それも分からぬうちに男の傍に一人の女が現れ、寄り添った。
 柔らかな笑みを湛えた女だった。こちらに手を伸ばして微笑んでいる。まるで全てを赦すかのように、優しい面持ちで彼女は佇んでいた。

『セオドール』

 静かな声で囁かれ、びりり、と背に痺れが走る。
 これは誰の名前だ?

『セオドール』

 男も、女と同じように微笑を浮かべながらこちらに手を差し伸べる。

『貴方の名前は、神様の贈り物、という意味なのよ』

 女が胸元に手をやると、突然その腕に赤ん坊が現れた。小さな頭には、薄く銀色の髪が生えている。
 赤ん坊が目蓋を開く。海のように深い色をした青い瞳。これには見覚えがあった。パズルが組み合わさるかのように、答えが導き出される。

「…父さん……母さん」

 膨大な記憶の波に一瞬、自分が今どこにいるのか、何者なのかさえも分からなくなる。
 手に触れる温もりに縋る。この温もりだけが、頭の痛みと記憶の海から自分を救うただ一つの光だった。
「カ、イン…ッ…」
「俺は、ここにいる、ここにいるから!」
 カインの叫び声に、弱弱しい幼子の泣き声が重なっていく。



(父が死に、母も死に、そうしてただ一人残った家族を)



 柔らかい銀糸と大きな青い瞳を持つ、ただ一人の弟を野に置き去りにした。
 あんなに小さくて頼りない生き物を、独りぼっちにしてしまった。
 そのせいで、自らも一人きりで生きていくこととなった。

「全て、私が悪いのだ……私が弟に憎しみを覚えたが為に」
「…ゴルベーザ」
「多くの人を傷つけて、この星を、滅ぼそうとした…!」
 温い液体が頬を伝い、カインの指先がそっと頬を拭った。同時にもう一つ、何かが背を撫でていく。
「ゴルベーザ様、貴方は操られていたのです」
 ルビカンテの熱を持った大きな手が、労わるように背に添えられていた。
「貴方がカインを操っていたように、貴方もまた、操られていたのです」
 意識を保っていられないほどの衝撃が、後頭部を襲った。かちかちと歯が鳴る。
 ルビカンテは静かに話し続けた。



 私が貴方に出会ったとき、貴方はまだ少年でした。
 貴方は弟を棄てた罪悪感に囚われ、山の麓に建った粗末な小屋に一人で住んでいました。
 私が貴方の住む小屋を訪ねたのは全くの偶然でした。私はその時モンスターに敗れ、瀕死で、たまたま見つけた貴方の小屋に転がり込んだのです。
 貴方は驚きつつも私の傷の手当をしてくださいました。そして、傷が治るまで、と小屋においてくださったのです。
 色々な話をしました。貴方の両親の話や、弟の話、『おかしな声』が聴こえるという事。…本当はとても寂しいのだということ。
 当時の私もまた、孤独でした。その為、貴方の心うちが手に取るように分かりました。
 傷が治りかけた頃、私は貴方に、一緒に住まないか、と持ちかけました。いつも泣きそうな顔をしていた貴方の顔が、その時綻んだのを憶えています。
 しかし、貴方が笑顔でいることを、『おかしな声』が阻みました。貴方の薄紫の瞳が揺れ、瞬間、真っ赤に染まったのです。

 次に気付いた時、既に私の体はモンスターに変えられていました。『おかしな声』が呼んだルゲイエが、改造手術を施したのです。
 その日から私の意識は遮断され、私は貴方の言葉に忠実に従う僕となりました。しかし、意識はいつまでも残ったままでした。
 来る日も来る日も、貴方が正気に戻るのを私は待ち続けたのです。


「そうして何年も過ぎて、諦めが私の心を支配し始めた頃…カイン。お前がゴルベーザ様の正気を揺り動かしたんだ」
 ルビカンテがカインをじっと見つめた。
「俺が…?」
 ルビカンテとカインの声が、酷く遠くから聞こえてくるような、そんな感覚だった。しかし、聞き漏らしたくない一心でゴルベーザは耳を傾ける。
 ただただ真実を知っておきたかった。
「お前はゴルベーザ様が正気を失ってから初めて触れた、優しい人間だった。人間らしい生活に、何より真っ直ぐで素直なお前に、ゴルベーザ様は徐々に惹かれていったのだ」
 まるで子供に対してするように、ルビカンテがしゃがみこんでこちらの瞳を覗き込んでくる。
 その瞳に、おぼろげだった小屋での記憶が鮮明なものになる。
「……私には貴方の心を元に戻す事ができませんでした」
「…………ルビカンテ…」
「カインを愛しているんでしょう?」
 ルビカンテの瞳が揺れる。
「…ああ」
 頬に添えられていたカインの指先がびくりと震えた。きっと顔を真っ赤にしているのだろう、その指先がほんのり色づいていた。
「ゴルベーザ様。今の貴方の中に、憎しみや悲しみはありますか?」
 問われ、考えを巡らせる。さっきまであんなにも酷かった頭痛が、今は不思議と落ち着き始めていた。

 弟への憎しみ。
 そんなものはとうに消えていた。
 誰からも愛されない、という悲しみ。
 それも、いつの間にか消えていた。

 ゆっくりと首を横に振ると、ルビカンテが目を細めて微笑んだ。
「…では、貴方の今の夢は?」
「私は」
 瞬間的にカインの顔を見ていた。頭痛が跡形も無く消え失せ、心が赴くままに、起き上がり、カインの体を抱きしめる。
「カインと共に、生きていきたい」
 腕の中の体躯が震え、同時に、小さく笑う声が響いた。
「…どうやら私はお邪魔のようだ。話の続きは食事が済んでからに致しましょう。…これから忙しくなりますよ」
 ルビカンテがマントを翻して去ろうとする。
「ルビカンテ!」
 ゴルベーザは急いた声でそれを制す。
 そうして、振り返ったルビカンテに頭を下げた。
「ゴルベーザ様」
「カインの力だけでは私が正気に戻ることはなかっただろう。お前がいてくれたから、私はこうして元の私に戻ることできたのだ」
 更に深く頭を下げる。
「……今まですまなかった…ありがとう」
 頭を上げてルビカンテの顔を見ると、彼は少しだけ頷いて、困ったように笑った。
 扉の向こうに、その姿が消える。

『一緒に住まないか』
 そう言って少年の頃に差し伸べられたルビカンテの手を、自分はよく覚えている。
 ただひたすら嬉しかった。その骨ばった手を取れば、孤独から開放されるのだと思っていた。
 そうだ。姿かたちが変わっても、ルビカンテの本質は変わらない。優しくて実直な男だ。
 彼に(ありがとう)ともう一度心の中で唱え、腕に力を込める。

「ゴルベーザ……」
 涙の混じった声が腕の中から聞こえてきた。
「…さっきの言葉…本当なのか?」
 小さな声だった。自身なさげな声で、カインはこちらに問うてきた。
 返事をするのももどかしく、唇を寄せる。頬を両手のひらで持ち上げて唇を啄ばむと、焦れたように首の後ろに手を回された。
 口づけが深くなり、吐息が交じり合う。
 途方も無く愛おしい。二度と離れたくない。

 彼と一緒に生きていきたい。
 心から、そう思う。

「…んん……んっ……ゴルベーザ…ッ…」
 息をつぐ合間に名を呼ばれ、どうした、と返事をする。
「喉が乾いた……先に……」
 食事にしないか?
 そう言って恥ずかしそうに左の手のひらで顔を覆った彼が可愛らしく見えて、返事の代わりに柔らかな金糸をくしゃくしゃと撫でた。




 それからの日々はとてもめまぐるしいものだった。

 各国にクリスタルを返し、謝罪をした。なじられ、蔑まれたが、仕方の無いことだと思い受け止めた。
 私はこれから、亡くしてしまった命の重みを背負って生きていくこととなる。
 今までしてきたことは、謝ってすぐに済む問題ではない。それでも今は謝ることしかできなくて、ただただ頭を下げるばかりだった。

 そうしてその後、セシル達と協力して諸悪の根源のゼムスを滅ぼした。

 セシルは複雑そうな表情で自分の出生の秘密を訊いていたが、何かに気が付いたように、
「僕が貴方の立場だったかもしれないんだね」
とぽつりと漏らしていた。

 世界各国を飛び回り、ルビカンテやカインと共に、復興の為に何年も働いた。
 その復興も終わりが見えてきた頃、自分達はいつの間にかミシディアの外れに住み着くようになっていた。




「―――――……い」


「―――――…おい」


 重い目蓋を僅かに開くと、困り顔の愛人の姿が目に入った。金糸が白いカーテンと共に揺れている。彼は、手にティーカップを持ち、やっと起きたか、と呟く。
「何度、声をかけたと思ってるんだ……紅茶でいいか?」
「…ああ」
 いかにも彼らしいシンプルな白いシャツの裾が、カーテンと同じように風に揺れている。
 細い指先が紅茶を淹れるのをぼうっと見ていたら、ちょいちょいと手招きされた。
「紅茶が冷めるだろ。早く席につけ」
 急かされ、テーブルに向かう。
 紅茶とフルーツ、それにパン。いつもと変わらない朝食を、薄いカーテンを通過して入り込んだ陽の光が照らしている。

 ふと、カインと目が合う。

 無表情気味だった彼の目元と口元が、緩くアーチを描いた。
 晴れた空の色をした瞳が光を取り込んできらきらと瞬く。頭を抱き寄せ、額を合わせ、おはよう、と口づけた。

「……良い天気だな、カイン」
「ああ」
「空が綺麗だ」
「…ああ」
「こんな日は、何をすれば良いと思う?」
「そうだな……」
 ちら、と窓に視線を走らせる。
「一緒に空を駆けてみようか」

 窓の外に居る飛竜が首をもたげ、カインに答えて優しく鳴いた。


 いつもと変わらない風。
 いつもと変わらない朝食。
 そして、何より。


 いつもと変わらない彼の居る日常が、どうか、いつまでも続きますように。


End






Story

ゴルカイ