男の意識は、人と異形の間をふわふわと漂い続けていた。
どろりとした緑色の液体が、男の体を包んでいる。気泡が、肌を撫でていく。
体が、自分の体ではないかのように思え、男は呻き声をあげた。
それは、獣に似た酷い声だった。いや、獣そのものだった。
「目を覚ましたか。気分はどうだ」
緑色の液体の向こう側で、痩せぎすの老人が、黄ばんだ歯を見せながら笑っていた。
手を動かしてみる。つんざくような痛みが走る。腕の動きを、透明な板が遮る。そこで初めて、自らが透明な円柱の中に居ることに気づく。
太い指先、これが自分の指なのか。見覚えのない指先には、鋭い爪がついている。
「……さて、モンスター側に転ぶか、人間側に転ぶか……。どうなるか、この先が楽しみだな!」
言ってから、耳障りな声で老人は笑い、
「どちらにせよ、大成功だ」
夢見るような声で、呟いた。
その後しばらくしてから、男はカプセルの外に放り出された。
その頃になると、男の思考は血で染め上げられ、本能に浸食されていた。男の意識は大分モンスター側に傾いていて、人間を見れば見境なく噛みつきそうな、 そんな雰囲気を纏っているふうでもあった。
“人型に近いし、服を着ていないのはおかしいか”と呟いて、老人は男の体に適当な布を巻きつけた。そうして、一人の青年の前に男を連れて行った。
青年の居る部屋には結界がはられており、男の意識もそこでは不思議と落ち着いた。
「これが、お前の主、ゴルベーザ様だ。ほら、ご挨拶しろ」
老人は自分の倍ほどもある男の背を強く叩いたが、相変わらず、男の口からは呻き声が漏れるのみだった。
「……今度は成功したのか?ルゲイエ。この前のモノは使い物にならなかったが……」
青年――ゴルベーザが、黒い鎧を小さく鳴らし、男に近づいた。薄紫の瞳が笑っている。
「今度は大成功です!!聞いてください、何しろ、」
「面倒な説明はいらん」
「つ、つまりですね。コレは、火に関しては並外れた力を持つモンスターだということです」
「……火?」
「はい、火です。……あとは、説明するよりも見ていただく方が早いかと」
「そうだな」
ゴルベーザは男に一瞥をくれてから、
「では、やってみるとしよう。この部屋の結界を解くぞ。死にたくなければ、外に出ておけ。…………お前の言うとおり、『火に関して並外れている』なら、黒 焦げになってしまうだろうからな」
慌てて部屋を飛び出していくルゲイエを見て笑ってから、ゴルベーザは男に向き直った。
「さあ、私を喰いたいなら、全力で来い」
頭の中が真っ白になる。
人間、人間、ニンゲンだ。
喰い散らかしたい、喰い散らかしたい!
体の奥が焼けるのを感じた。信じられないほどの魔力が体に満ち、男は風と炎を同時に放っていた。
ゴルベーザがマントを翻す。氷の刃が降り注ぎ、男の手のひらを貫く。痛みにもんどりうちながら地面に倒れ、雄叫びをあげた。
手のひらに刺さった氷の刃を荒々しく引き抜いてから、ゴルベーザは男の瞳を覗き込んだ。
「面白い」
低く、地を這うような声音で、
「お前にはこれをやろう。そうだな……お前の名前は――――」
ぼた、ぼた。真っ赤な血が滴り落ちる。
差し出された赤いマントを受け取り、男は気を失った。
***
「ルビカンテ」
ルビカンテと呼ばれ、男は振り向いた。
銀色に光る廊下の中、男は紅蓮の炎のマントを纏っている。
ルゲイエと対峙しながら、ルビカンテは面倒臭そうに老人から目を逸らした。
「もう、牢に繋いでおかなくてもよさそうだな。数日前までは暴れてどうしようもなかったのだが……どうやら、本当に成功したようだ」
言われてみれば、とルビカンテは思う。
あんなに人間の血肉が欲しいと思っていた筈なのに、いつの間にかその感情は消えうせていた。
「後で、ワシの部屋に来い。お前の血を採取しておきたい」
そう言い残し、ルゲイエは廊下の奥にあるエレベーターの上に乗り、消えてしまった。
(……成功?)
自らのものとは思えぬほど大きな手をじっと見つめながら、ルビカンテは考えた。
自分は、パラディンになる為に登った試練の山で試練に失敗し、死んだはずだった。クリスタルルームと同じ輝きを持つ部屋の中で、血にまみれていたはずだった。
鏡に映る自分の姿は酷く滑稽で、醜く、無力だった。
記憶は、そこで途切れている。次目覚めた時には、カプセルの中だった。
(成功……)
ルゲイエは、ワシの部屋に来い、と言っていた。
このような異形の姿にされてしまったとはいえ、ゴルベーザとルゲイエは命の恩人だ。ルゲイエは嫌味な老人だが、命の恩人の命とあっては行かねばならない。 元来生真面目な性格のルビカンテは、エレベーターに向かおうとした。
途端、心臓を激しい何かが焼く。
「……ぐ……っ!」
空気を求めて喘いだ。頭を振り、壁に寄り掛かる。
体が何かを欲しがっている。脳裏を過るのは、鏡に映った醜い姿だ。
血塗れの自らの体を思い出すだけで、意識が混濁するのが分かる。
頭のどこかで、獣の咆哮が聞こえた。
どこをどうやったのか、いつの間にか、ルビカンテは叢の中に立っていた。
脳がぐつぐつと鳴っている。自分が自分でないようだ。
全ての音が大きく聞こえてくる。
嗅覚が異常に鋭くなっている。
草同士が擦れる音、虫の声、遠くで響くモンスターの足音。
草の青臭さ、果物の香り、夜の匂い。
ふらふらとあてもなく歩き始めた。この場所がどこかも分からないのだから、あてもなく歩くほかない。
ここは、自分が生まれ育ったミシディア周辺ではない。辺りに生えている草木の種類が違う。
歩いているうちに、どこかから水の匂いが漂ってきた。喉の渇きを覚えたルビカンテは、吸い寄せられるようにその場所を目指し始めた。
高い草が生い茂っている中を、掻き分けながら進む。水場が見えてきて、ごくりと唾を飲み込んだ。
一目散に水を目指す。
月明かりが絹糸のように木の葉を縫って射し込む下で、銀の髪が光っていた。
人間、人間、ニンゲンだ。
喰い散らかしたい、喰い散らかしたい!
息をひそめていたはずの感情が、鮮やかに蘇る。
目の前にいたのは、刀の切っ先のように尖った気配を持つ、一人の青年だった。
青年は、濁りのない澄んだ瞳をしていた。
血が沸騰する。ルビカンテは、躊躇いなく青年に手を伸ばしていた。抵抗は意味を成さない。細い腕を捩じり上げる。
「……この……っ!」
青年が、初めて声を漏らした。瞳の底には怯えがあった。
「火遁っ!!」
青年が叫んだその瞬間、ルビカンテの体を炎が焼いた。
ルビカンテは笑った。炎を司るモンスターである自分に、炎が通用するものか。
青年の体を覆う布を引き裂き、滑らかな肌の上で爪を滑らせ、ぷつり、血と蚯蚓腫れが浮き出る様を楽しむ。
血の甘い匂いがした。
「や、やめ……」
上目遣いの緑の瞳が、微かに潤んだ。
荒々しい仕草で胸当てを外す。青年は身を捩り、暴れ続けている。
けれどそれは、意味をなさない。
青年が震えていることに気づき、ルビカンテは嗤った。
ひゅう、ひゅう、と笛のような音で、青年の喉が鳴る。
ルビカンテは青年の破れた下衣の中に指先を潜り込ませ、さらにその奥を探った。
尖った爪で、下着を切り裂く。触れる度に血が滲む、その柔らかな肌に欲望を募らせながら、ルビカンテは、だらり、と獣じみた涎を垂らした。
猛りきった雄を取り出す。
青年と比べてあまりに大きすぎる性器に、青年が肩を震わせるのが見えた。
今からされることが何なのか、理解したのだろう。ゆるゆると首を横に振り、「……んなの、はいるわけ、ねぇだろ……っ」呆然とした顔で言う。
体格の差は、理解していた。けれど、欲しくて欲しくて堪らなかった。
きっと、この青年は死ぬだろう。この場所で、自分が犯し殺すのだ。
そう、自分は人殺しになる。
「ひぃ…………っ!」
細い首が仰け反った。逃げようとする腰をこちらへ引き寄せ、猛りの先を捻じ込もうとする。足を抱え上げ、閉じられないように体全体で押さえつけた。
小さな孔が、限界までその口を開く。無理に抉じ開ければ、この先何が待っているのか――そんなことは、分かりきっていた。
「むり…………っあ、あああああぁっ!!」
力づくで途中まで突き入れた。器官の限界を超えているのだろう、最後まで入れることはできなかった。
血で滑り、ぎゅうぎゅうと締めつけてくる。想像以上の感触に笑みを零しながら、ルビカンテは腰を振り始めた。
青年が苦痛を感じようが、どうなろうが、どうでもいい。
今は、獲物を貪ることしか考えられなかった。
「う、うぅ……っん、あぁっ、あ」
大人しくなった獲物を見下ろし、嬲りながら、ルビカンテは思う。まるで、呻き声が喘ぎ声のようだ。
口元を覆う布に、涙と汗が染みている。目を切なげに細めながら、体を薄い赤に染めている。
ルビカンテが雄で貫く度に、細い腹が緩く隆起する。その度、自らが異形であることを実感する。
手首の戒めを解いても、青年はもう逃げようとしない。虚ろな瞳で、涙を流し続ける。
“青年を支配している”という感覚が、ルビカンテの腹に知った感覚を凝らせる。
荒い息を吐きながら、青年を抱き上げ、膝の上に乗せる体勢で貫いた。
「ひあぁっ!!あ、ああ……っ!うぁっ」
緑の瞳が涙で濡れ、光っていた。
がくがくと揺さぶる。口元の布がずれ、青年の顔が露わになった。
切れ長の目に、高めの鼻梁、薄い唇。どこか幼さを残すその顔を目にした瞬間、ルビカンテの中に小さく在った理性が、がたがたと震え始めた。
『やめろ』――――自分自身に訴えかける。
『殺したくない』――――自分は獣ではない。
けれど、本能は止まらない。
青年の塩っ辛い涙をべろりと舐め上げ、自分のものだといわんばかりに細い体を抱きしめる。
甘く香る血の匂い。“これ”は自分のモノだ。滑らかな肌も、緑色の瞳も。
青年が一際大きな悲鳴をあげ、それと共に、ルビカンテは欲望を放っていた。
ペニスを引き抜き、草の上に青年を寝かせる。突然、頭が冷えてきた。
青年は気を失っている。
服は砂や土にまみれ、白い肌は傷つき、服は襤褸布同然で、頬は涙に濡れ、そして下半身は。
「ああああああああ…………!」
ルビカンテは頭を抱えた。抱えたまま、よろよろと立ち上がった。
現在の体に慣れていない為、ルビカンテは話すこともままならない。そんな彼が初めて発したのは、言葉にならない咆哮だった。
青年は、顔の色を失っている。
どうすればよいか分からなかった。ただ、死なせたくないと思うだけだ。
傷を治したいその一心で、ルビカンテは青年の体に触れた。
指先から、堰を切ったように魔法の記憶が溢れ出す。光が辺り一面を照らし、同時にルビカンテの獣の意識も息を潜めていた。
青年の傷は、完全に癒えている。
青年が睫毛を震わせる。ほぼ同時に飛び起き、座ったまま後退り始めた。荒い息をつく。涙の痕が痛々しかった。
「く、来るな……来るなあっ!」
大声で叫び、そうして。
「来るな化け物っ!!」
恐怖に侵された緑の瞳に映るのは、とても醜い化け物の姿だ。
(ああ、私は化け物なのだ)
人間を襲う化け物になってしまった。もう後戻りはできない。
わななく顎に、尖った爪の先を伸ばす。木の幹に背を預け、青年は小さな悲鳴をあげた。
ルビカンテがテレポの呪文を唱えると、驚きの表情を顔に貼り付けたまま、青年が掻き消える。
「…………わたし……は……私、は――――」
“人間だった頃”とは違う、恐怖を煽るように低い声が喉から漏れ出てくる。
傍にある泉をちらりと見ると、異形の男が涙を流しながらこちらを見つめていた。
***
「……う、あ…………っ、あ」
どこをどうやって帰ってきたのかも、覚えていない。
気がついた時には、シャワーの下で蹲っていた。
「……っ」
浴室の中で、青年――エッジ――は嗚咽を殺している。
死ぬかと思った。もう終わりかと思った。
ざあざあと降る湯の下で、俯きながら「ちきしょう」と小さく呟く。
水を吸った服が重い。それらは破かれ、ぼろぼろになっている。
泉になんて、行かなければよかった。気分転換をしたかっただけなのに。エッジはぶるりと頭を振り、シャワーの湯を止めた。
記憶の中に焼き付いている、魔物の、黄色い瞳。
その瞳は、明らかに普通のモンスターの瞳ではなかった。優しさと悲しみに満ちた、人間じみた色をしていた。
あの瞳がエッジの心を掻き乱す。
最後の最後で、あんなに優しい瞳をするだなんて。
立ち上がって、浴室を出た。服を脱ぎ、ごみ箱へ捨てる。いや、これは危険かもしれない。思い直し、火遁で焼いた。
(爺に見られでもしたら、どうなるかわかりゃしねえ)
ぼとぼとに濡れた体のまま、シーツに包まって突っ伏した。何もかもが面倒だった。
思考がぐるぐると回転している。ふと、エブラーナにある迷信が、エッジの頭を過った。
“魔物に体を支配された人間は、その命果てるまで魔物を求めるようになってしまう”
あんなものは迷信だ、エッジは一人ごちた。シーツをきつく握りしめて、今夜のことは忘れてしまえと自分に言い聞かせる。
モンスターに体液を注ぎ込まれた場所が熱い。体全体が、焼けつくように痺れている。
(……命果てるまで、魔物を求めるように…………?)
身動ぎした瞬間、体内に残っていた白濁液が太腿を伝った。
あの迷信は、迷信ではないのかもしれない。エッジは思い始めていた。
何日経っても、体の疼きはなくならない。修業をしていても、何をしていても、あの時のことを考えてしまう。
あのモンスターを殺せば、この体は元に戻るのだろうか。
何にせよ、「ただの体調不良だ」と爺達をごまかしていられるのは、今だけだろう。
よろめき、窓の方へと向かう。刀を握り締め、ただただ、外を目指した。
あのモンスターに訊きたい。最後の最後であんな優しい瞳をするなら、どうして俺を襲ったりしたんだ。
***
白魔法を思い出したのか、と言って笑ったのは、ゴルベーザだ。
ルビカンテはそのその笑顔に薄ら寒いものを感じ、跪いたまま俯いた。
青年を襲った後、ルビカンテは真っ直ぐゴルベーザの元に帰ってきてしまった。それはゴルベーザの洗脳の術からくるものなのだが、勿論、ルビカンテ自身は気づいていなかった。
「……人間を犯したんだろう?喰わずに逃がしたことは気にいらんが、まあいい。お前のように力が強い上に人間らしい感情を持っているモンスターは見たことがない」
「私は、ただ……」
「本来、モンスターは本能のみで生きている生物だ。上手く隠せたと思っても、その体から淀んだ空気が溢れ出る。モンスターであるという事実からは逃れられんのだ」
『来るな化け物っ!!』
青年の悲鳴を思い出すだけで、胸が締め付けられる。
(ああ、私はもう向こう側へは戻れないのだ)
椅子に腰かけていたゴルベーザが、立ち上がり、ルビカンテに手を伸ばす。顎を掬い上げ、目がなくなってしまうほどの満面の笑みを浮かべた。
「モンスターになったことを嘆くのか?その体は、人間なんぞよりずっと強靭だ。嘆くことなどなかろう?」
ゴルベーザの指先は、魔力のにおいがした。モンスターとなった今、ルビカンテは、人間であった頃とは違うにおいを感じ取れるようになっていた。
「……力こそ全てだ、ルビカンテ。感情など必要ない。そんなちっぽけなものに振り回されて命を落とす者の、なんと多いことか」
「ゴルベーザ、様…………」
ゴルベーザ様とこの前出会った青年に、大した年齢差があるようには思えない。
この人は、どうしてこんなに冷めているのだろう。ルビカンテは息を飲んだ。
――――この人も、人間であるはずなのに。
「……お前に用があるときは、思念波で呼ぶ。それまで、どうとでも好きに過ごすといい」
どうとでも、と言われても、ルビカンテにはいる場所がない。
昼間外に行くのも気がひけた為、外に出るのは専ら夜だった。
月が眩しい。あまり日光に当たらないせいか、光に弱くなってしまった気がする。
月光に、手のひらをすかしてみた。
不思議な色をした肌、赤い爪。いくら見ても、慣れることはない。
「…………っ」
凄まじい殺気を感じ、ルビカンテは後ろを振り向いた。
銀色の髪が、月明かりで輝いている。
「……探したぞ、この野郎……!」
青年の髪と同じ色をした刀が、物騒な光を放っていた。
あえかな喘ぎを漏らしていた青年が細い体をしていながらしなやかな筋肉を持っていたことを、ルビカンテは思い出していた。
青年の体と同じように細い、異国の雰囲気を纏う二本の刀。それらをぐっと握り締めながら、青年は近づいてくる。
皮膚を切り裂きそうなほど強く鋭い殺気と共に。
ひゅっ、と風の音がした――と思った瞬間、青年の体は宙を舞っていた。
月を背にしたその姿はあまりにも美しく、ルビカンテは思わず見惚れてしまう。結果、避けきることができず、腕で刀の刃を受ける羽目になった。
血の雫が、滴り落ちる。
素早さに特化した体なのだろう。青年の攻撃には力強さが足りない、とルビカンテは思った。
ちっ、と、舌打ちが聞こえる。
「かってえ奴だな……火遁も効かねえみたいだし……」
(私を倒しにきたというのか……この細腕で?)
向こう見ずな青年の行動に、好意を覚える。同時に、ルビカンテの背を見知った何かが這い上った。
青年は、今度こそと言わんばかりの速さで刀を振り上げ、首を狙ってくる。弱点を狙われているのだと判断したルビカンテは、物思いに耽ることをやめ、攻撃を避けることに専念することにした。
この青年を殺したいわけではない。となると、避けるしか道はない。
「てめえっ、どうして攻撃してこねえんだよ!!」
くるくるくるっと舞いながら、何やら見知らぬ飛び道具をこちらに投げながら、
「調子狂うだろ!!先にしかけてきたのはおめえじゃねえかっ!」
ルビカンテの背にはいつの間にか木があり、追い詰められる形となっていた。刀の切っ先を、すんでのところで避ける。深く木に突き刺さったそれを引き抜いて、青年は小さく溜息をついた。
「……俺を襲ったことは、覚えてんだろ?」
ルビカンテに答えを求めている風ではなかったが、ルビカンテは至極真面目に「ああ」と答えていた。
青年は絶句し、震えている。
「おめぇ、喋れんのか……」
「……ああ」
「だったら話は早い。どうして俺を襲った。し、しかも……あんな形で」
青年の頬に、薄っすらと朱が走る。不快感と羞恥をない交ぜにした表情で、切っ先をルビカンテの喉に突き付けたまま、
「俺のプライドをズタズタにしたかったのか!?それとも――」
「俺のことが欲しかったのか?」と。
ルビカンテはその言葉を聞いた途端、思わず、青年の柔らかそうな髪に手を伸ばしていた。
「あ…………っ!」
触れた瞬間、青年は地面にへたり込んでしまう。
「お、おい、どうした」
尋ねると、潤んだ瞳で青年はこちらを見上げてきた。
おめぇのせいだろう、と言わんばかりの顔をしている。
息が荒い。悔しげに、眉を歪めていた。
「…………体が……おかしいんだよ……おめぇに襲われてから」
額に汗が浮いている。
「夜も、眠れなくて……体はあちいし、それに、眠れても変な夢ばっかりで……」
これ以上この青年と一緒にいたら、自分が自分でなくなってしまうような、そんな気がする。
緑色の潤んだ瞳に射抜かれているだけで、どこかおかしな気分になってくる。
この“おかしさ”の正体を確かめたい。その一心で、今度は頬に触れた。
青年の肩が揺れる。口元にある布の向こうで、甘い呻きを漏らす。
「さわ、んな……っ」
上ずった声に理性が擦り切れ、遂には押し倒す結果となってしまった。口元の布を下げ、露わになった唇に口づける。
「ん……う、ぅ……っ」
引き剥がそうと抵抗する腕には、力がない。
口を離して服に手をかけた瞬間、ルビカンテの心を抉るような悲しい声で、エッジは呟いた。
「……いやだ…………」
緑色の瞳から、透明な液体が溢れそうになる。
指先で涙を拭いながら、ルビカンテは「すまない」と口にした。
「……お前を傷つけたかったわけではないし、お前を殺したかったわけでもない」
「じゃあ、何で」
「…………自分を制御できなかったのだ。お前を見た瞬間、訳の分からない感情が嵐のようにやってきて」
あれは、感情と呼べるものだったのだろうか。単なる本能ではなかったか。
一点の曇りもない澄んだ瞳が、ルビカンテを見上げていた。
「なあ」
震える手で目元をぐいぐいとやってから、青年は起き上がろうとする。しかし、体に力が入らないのだろう。諦めた表情をして、ルビカンテを指差した。
「まさかおめぇ、人間なのか?」
なんと、勘の良い。
「うーん……上手くは言えねえけど……ほんと、人間みてえだ。普通のモンスターとは、目つきが違う」
「……そうか」
この体勢のままでいるのもどうかと思ったルビカンテは、青年を抱き起した。木の幹に背を凭れさせ、座らせる。「触るなって言ってんのに……っ」と青年が掠れた悲鳴をあげた。
「おめぇに触られると、力が入らなくなるんだよ……」
息を荒げながら、
「……ちくしょう……っ」
首を横に振る。
淫靡な空気にのまれ、ルビカンテは再度青年に手を伸ばした。肩に手を置き、指先を滑らせ、首筋、胸、腹に触れる。ぴくりと跳ねる、細い体。下腹部に辿り着いた瞬間、「あっ」と高い声を漏らした。
ルビカンテの手を止めようと、青年は獣の手を両手で押さえつける。
青年のペニスは、服の上からでも分かるほど屹立していた。形をなぞって扱くと、更に硬さを増す。
下衣を下げれば、熱くなったそれは先から蜜を垂らしていた。下着との間に、透明な糸を引いている。
「ま、た……犯す気、か……っ!?」
胸を上下させながら、息も絶え絶え、という風に青年は呟いた。
違う。処理をしてやるだけだ。
首を静かに横に振り、ルビカンテは口を開く。
そうして、青年のペニスに舌を伸ばし、蜜をぺろりと舐めあげた。
「あぁ……あ……っ、ひ……っ!」
足を閉じようとする青年の膝を押さえつけて、今度は全てを口に含む。
出し入れを繰り返すと、苦い蜜が沢山溢れ出してくる。先端を舌でくじれば、青年は悲鳴に似た喘ぎをあげた。
ちゅくちゅく、という濡れた音が漏れ始め、裏筋に舌を充てながら、顔を前後させる。
青年の甘い喘ぎに、頭の奥が痺れた。
「……ひぃ、あ……あぁっ……う……」
青年の瞳の色が、ぼんやりとしたものになっていく。びくん、と青年は震え、息をつめた。
ルビカンテの口腔に、苦いものが流れ込んでくる。躊躇わず、嚥下した。
青年は何度もまばたきを繰り返した末に目蓋を閉じ、意識を失ってしまった。
***
赤い魔物が持つ、人間の瞳。綺麗な色をした瞳。
(あんな綺麗な目をしたモンスターがいるなんて)
薪が爆ぜる音が聞こえ、エッジは現実に引き戻された。目蓋を開き、飛び起き――ようとして、自分が何かに座ったまま眠っていたことに気がついた。
胸元に添えられた手に、全てを知る。エッジはモンスターに抱きかかえられていた。
「てめぇ……!」
心臓を一突きにしてやろう、と視線を巡らせ刀を探す。その刀がすぐ隣の木に立てかけられているのを見つけた瞬間、視界がぐるんと回るのが分かった。
魔物の腕が、エッジの体を強く抱く。
「……お前の体を温めているだけだ。他意はない」
目の前では、焚き火が橙色に燃えていた。
「気分は?」
「…………サイアクだ」
気を失う前にしていたことを思い出す。エッジは振り向き、モンスターを睨みつけた。
モンスターは無表情で、こちらを見ている。一瞬悲しげな瞳をしているように見えたのは、気のせいだったか。
不思議なことに、触れられていても、今は何ともない。
モンスターの腹に背中を預けながら、エッジは溜息をついた。
「……ああもう、訳わかんねえ。俺、何でこんなことになってんだよ。おめぇを殺しに来たはずが、何で!」
大声で叫んだら、喉がひゅうひゅうと鳴った。酸素が足りない。ぶるぶるぶるっと首を横に振った。目眩が余計に酷くなった。
「大人しくしていろ」
「うるせえ、おめぇのせいだろ」
「……すまない。私が理性を保てなかったばっかりに」
「…………っ」
会話が途切れ、エッジは唇を噛んだ。予想外の反応を返してくるモンスターに、毒気を抜かれてしまう。
こいつは一体どういうつもりなんだ。
「モンスターの体になって直ぐのことだったから、込み上げる衝動を抑えることができなかったのだ」
「……え?」
再度振り向こうとしたエッジの体を、モンスターはぎゅっと抱きしめた。まるで、顔を見られたくない、とでも言うように。
心臓の音が聞こえる。共鳴するように、エッジの心臓が跳ねた。血が、どくん、どくんと足並みを揃える。
「人の体が、こんなに温かいものだったとはな。人間だった時には、気がつかなかった。触れられなくなってから気づくとは、皮肉なものだ」
「おめぇ……」
「……殺してしまうかと、思った……。私は獣ではない、思考まで獣に成り果てるつもりはないのに……っ」
「い、いてぇよ、おい」
モンスターの手に力が篭もり、それがあまりにも強いものだったので、エッジは呻いた。直後に緩められた腕の間をすり抜け、自らを抱いていた者の顔を見ようと向き直る。
顔を片手のひらで覆ったモンスターが、静かに俯いているのが見えた。
思わず、エッジはモンスターの膝に手をついて、その顔を覗き込む。
モンスターは、エッジにとってもう“恐ろしくて凶暴なモンスター”ではなくなっていた。
震えている手のひらを掴み、モンスター――男の手を顔から剥がした。頬が濡れている。「俺はここにいるじゃねえか。殺してない、大丈夫だ」言い聞かせるように話しかけた。
黄色い瞳が揺れている。優しい色をした、綺麗な瞳だ。
男が縋りついてくる。抱き寄せられ、はねのけることもできたはずなのに、エッジはそれをしなかった。
背を丸めた男が、エッジの耳元で嗚咽を漏らす。痛々しい声に、胸を引っかかれているような気がする。
目蓋を閉じて、男の首に腕を回した。
どれくらい、そうしていたのだろう。
どうやらいつのまにか眠ってしまっていたらしく、辺りはもう明るくなっていた。
「……起きたか?」
胸がちくりと痛くなるような、そんな顔をして男が微笑む。
「俺なんか放っておいて、家に帰ればよかったのに」と言うと、俺の髪を撫でながら、男は、
「そんなこと、できるわけがないだろう」
と小さく言った。
「もうすっかり朝だな。俺、帰るわ」
男の膝から下りて、刀を手に取る。これ以上あの温かい腕の中にいたら、離れ辛くなってしまうような気がした。
男に背を向け、エッジは歩き出す。
男を殺す気は失せていた。元より、あれはモンスターなどではないのだ。見目こそ違えど、あれは人間だ。
人間を殺すことは、できない。
「……ま、待て!」
背後で声がした。振り向かずに歩いてこうとするエッジの腕を、男が掴む。思わず振り向くと、男は必死の形相でエッジを見つめていた。
こんなに大きな体をした男が、こんな顔をするのか。
エッジは吹き出し、笑った。
「どうしたよ」
「……お前の」
「ん?」
「お前の名は?」
「……んなもん、知る必要なんてねえだろ。俺達は、もう二度と会うこともねえんだから。おめぇの命も、もう狙わない。あのことは……犬にでも噛まれたと思って忘れるさ」
掴まれた腕を外そうと、腕を振る。だが、男は放さない。
「は……放せよ!」
途端、ぞく、と何かが全身を走り抜けた。
視界が霞む。膝が笑って、立っていられなくなる。
「触んなっ!」
「私が触れなくても、お前の体は疼くのだろう?その体を、どうするつもりだ?」
「どう……って……」
何か、特別な考えがあるわけではなかった。
ただ、この手に掴まれていると辛くてどうしようもなくて、自分が自分でないように思われて、エッジは首を横に振る。
「分かんねえよ、そんなこと……」
「責任は、私にある。何とか、お前の体を元に戻す方法を考えるつもりだ。……だから、責任をとらせてくれないか……?」
頭の芯が痺れる。もっと触れてほしくて堪らなくなる。
どうすれば楽になれるのか。それは、エッジ自身が一番よく知っていた。
もう、上手く返事を紡ぐことすらできない。出てくるのは、熱い吐息だけだ。
息が苦しい。いつの間にか男に抱きしめられていて、それでも、振り払う力はなかった。
「……俺、の……名前は……エッジ、だ……」
男の胸に顔を埋め、どうにか呟く。
「……エッジ……」
嬉しそうな声に、また、エッジの胸が痛んだ。
***
――――責任をとる。
半ば強引に自室に連れ帰ってきたエッジの寝顔を眺めながら、ルビカンテは途方に暮れていた。
エッジは、大きなベッドの上でシーツに包まって眠っている。銀の髪を撫で、ルビカンテは目を細めた。
ついさっきまで、ルビカンテはエッジを抱いていた。
悲鳴とも喘ぎともつかない声をあげる青年は酷く淫らだったが、その反面、全く穢れのないものにも見えた。
『……ルビ……カンテ……ッ』
ベッドに入る前に「私の名はルビカンテだ」名乗ると、エッジは喘ぎ混じりでその名を口にした。名を呼ばれるだけで、こんなにも胸が疼くものなのか、とルビカンテは驚いた。
胸元にしがみついてくる手、何度も震えては欲望を吐き出す腰、絡みつく脚、濡れた肌。
ひっきりなしに響く喘ぎは甘く、幾度となくエッジの中に注ぎ込んだ。
『腹が、熱……い……っ……死んじ、まう……よ……う……っ』
結合部分で、精液があわ立っていた。腰を前後させる度に、注いだものが溢れて零れ出してくる。じゅぷ、といやらしい音をたてながら、シーツを汚していく――――。
「……人間を?」
腐臭を漂わせながら、スカルミリョーネは聞き返してきた。
茶色いローブの中では、黄色い瞳が爛々と輝いている。
「人間を、犯したというのか?」
「……ああ」
スカルミリョーネの部屋は、土が床いっぱいに敷き詰められている。それに困惑しつつ、ルビカンテは再度言った。
「人間の……青年を、犯した。その為、彼は体調異常に悩まされている。それは、本能に逆らえなかった私の責任だ。だから、彼を元の体に戻してやりたいと思っているんだ」
「……元に、か……」
そう言ったきり、スカルミリョーネは黙り込んでしまった。
スカルミリョーネは、何百年も前から生きているのだという。
ルビカンテがスカルミリョーネに相談にきたのは、このアンデッドなら何か知っているのではないか、と思ったからだった。
「……時が経つのを待つしかないだろう。精液に含まれている催淫作用が抜けるまで待つんだ。それまで、幾ら欲しがっても抱いたりしてはいけない」
その様子では、今も抱いているんだろう?そう言ってスカルミリョーネは背を向けた。どきり、胸が跳ねる。
抱いてもいけない。時が経つのを待つしかない。
それは、エッジが一人であの衝動に耐えなければならないということを意味していた。
「……ルビカンテ。お前にできる事は、傍にいてやることだけだ」
拳を強く握り締め、ルビカンテは俯いた。
苦しみは、直ぐにやってきた。
震えるエッジの体をきつく抱きしめながら、ルビカンテは「すまない」と囁く。
がくがくと全身を震わせながら、エッジはルビカンテの胸元に縋りついていた。
「……ひ、あ……あ、あぁ……っ」
「エッジ」
「お、願いだ……っ、触っ……て……くれ……」
ルビカンテの顔を見上げ瞳を潤ませているエッジの顔には、はっきりとした情欲の色があった。
自らを見失っている、とルビカンテは思う。
ついさっき、“体を正常な状態にするには、抱くわけにはいかないのだ”と教えたはずなのに、エッジはそれを忘れ、ルビカンテを求めていた。
首をゆっくりと横に振り、エッジをベッドに横たえる。
部屋を出ていこう、と思った。『傍にいてやれ』とスカルミリョーネは言っていたが、全ての元凶である自分が傍にいても、エッジの心を乱すだけではなかろうか。
「……しばらくしたら、また来る。すまないが、それまで一人で――――」
ぴくん、とエッジの体が跳ねた。何事かを、口にする。
「…………いく、な……っ」
こちらに手を伸ばし、切なげな声で呟いた。
***
この男に犯されなければ、こんなことにはならなかった。
この男が悪い。それは、変えようのない事実だ。
なのにどうして、あの腕に縋りつきたいと思ってしまうのか。
行かないでくれ、と喘ぐように呟くと、ルビカンテは目を見開いた。
もしかしたら、気が触れたとでも思われたのかもしれない、とエッジは心の中で笑う。
体は熱を持っていたけれど、エッジは正気だった。
「……何故だ?だって、私は――――」
近づいてきて屈んだルビカンテの腕を掴む。この手を、離したくなかった。
エッジは、ルビカンテが悪の塊でないことを知っていた。
それは、こうしてルビカンテの傍にいるようになってから知ったことだ。
元々は人間だったということ。人間と魔物の狭間で苦しんでいること。エッジの体調を、本気で心配しているということ。
今この手を離したら、ルビカンテはきっと、独りきりで苦しむのだろう。自分のせいで、だとか考えて、頭を抱えるに違いない。
(俺だって一緒だ。こいつがいなくなったら、独りで苦しむことになる……)
それならば、二人で苦しんだほうがいい。
(馬鹿だなあ、ほんと)
悲しげなルビカンテの表情を見て、エッジは全てを赦してしまっていた。
不器用で馬鹿真面目な、この男を。
「……責任、とってくれるんだろ?」
頭の芯がぼうっとする。眩暈を堪えながら、太陽に似た色の瞳を見つめた。
ルビカンテは“抱いてはいけない”とは言っていたけれど、その他の事をしてはいけないとは、言っていなかったじゃないか。
唇を薄く開き、ルビカンテの頭を抱き寄せる。目蓋を閉じて、口づけた。
ルビカンテの口腔は、少しだけ体温が高い。やっぱり火のモンスターだからなのか、とエッジは思う。
舌を絡ませれば、下腹部が疼く。これは感情からくるものなのか、本能からくるものなのか。
いくら考えても分からなかったけれど、今はもう、そんなことはどうでもよかった。
「せめて、傍に……いてくれよ。おめぇがこの部屋を出て行ったら、余計に心配事が増えるだろ……」
ルビカンテは、何を言っているのか分からない、という顔でエッジを見ている。
抱き寄せた頭はいつも以上に熱を持ち、ルビカンテが熱を持て余していることを伝えてくる。
再度口づけて、エッジはルビカンテの舌を絡めとった。部屋に濡れた音が響く。ぞくり、体が震えた。
どうして、口づけるだけでこんなにも気持ちが良いのだろう。
「……ん……うぅ、んっ……ん……」
必死で舌を絡めれば、ルビカンテもそれに応える。
歯列をなぞり、既に知られた弱い場所を、探るように舌先で愛撫される。
我慢できなくなって、エッジはルビカンテの腹に下腹部を擦りつけた。それは無意識のうちに行われた行動だったのだが、ルビカンテを煽るには十分だった。
ルビカンテの手が、エッジの下衣を剥ぎ、屹立したものを緩く握る。
びくん、と体を跳ねさせて、エッジは目蓋を閉じた。
「あっ、あ……、あぁ……っ!」
先走りでしとどに濡れたペニスが、いやらしい音をたてる。唇に吸いつくようにしながら、「ルビカンテ」と名を呼んだ。
「……ひ、あぁ……っ!」
頭が真っ白になって、息もできないくらいに胸が高鳴って。
はあはあという荒い息と共に、吐精する。
「ルビカンテ……ッ」
何故だろう。体に篭った熱のピークは過ぎ去ろうとしているのに、ルビカンテの体を離したくないと思う。
「……風呂に入ってくるといい」
ルビカンテの体温が離れてしまったことを残念に思いながら、エッジはこくりと頷いた。
あれは、モンスターなのだ。
あれは、人間とは対極にいるモノなのだ。
だから、無駄な感情を抱いてはならない。
ならば何故、自分はこんなことをしている?城に帰らなければならないのに、何故、ルビカンテの傍を離れられないでいるんだ。
あの異形の腕に抱かれ始めてから、どれくらい経ったんだろう?
体を侵す熱は、もうとっくに消え果てているというのに。
「……何、読んでるんだ?そもそも読めるのか?こんなに真っ暗なのに」
ベッドの中で身を起こして本を読んでいるルビカンテに、エッジは問いかけた。
部屋の中に在るのは月明かりだけなのによく読めるなあ、と思う。
「モンスターだからな。夜目が利く」
「なるほど」
広いシーツの中を泳ぎ、ルビカンテの本の前に辿りつく。覗き見ると、途端、橙色の明かりが灯った。明かりの出所は、ルビカンテの手のひらだった。
手のひらから、炎が溢れ出している。
本の中に書かれていたのは、見慣れない言葉の数々だった。
「……魔法の本?」
「白魔法の本だ。……学びなおしたいと思ってな」
「おめぇ、十分すげえ白魔法が使えるじゃねえか。あれじゃあ駄目なのか?」
「人間であった頃に比べれば、まだまだだ。黒魔法を使うことは容易いが、白魔法を使うことは難しい。やはり、モンスターとはそういう生き物なのだろうな。光と交わろうとすると、途端に上手くいかなくなる」
炎が掻き消え、部屋に静けさが戻る。代わりに灯った光は、白く温かかった。
「これはケアル……か?」
「ああ」
「綺麗だな」
エブラーナには白魔法がなく、モンスターが使っていたとしても、こんなに間近で見る機会はない。
指先で触れてみると、それは少しだけ温もりをもっていた。
「……火の魔法を使ってるおめぇも悪くねえけど……何となく、白魔法が似合うな」
「似合う?」
「だって、おめぇはすごく優しいじゃねえか。攻撃より、回復が似合うと俺は思うぜ」
ルビカンテは人を傷つけることを嫌っているように見える。
それなら、白魔法の方が似合うというものだ。
「……エッジ……」
ルビカンテの顔が近づいてきて、ぎゅっと目蓋を閉じた。唇をなぞる指。優しく口づけられ、静かだった胸が高鳴り始める。
「な、何しやがるっ!さっきもしただろ、今夜はもう――――」
「城に帰らなくてもいいのか?エッジ」
「……ルビ、カンテ……」
「両親は心配しているだろう。……民達もな」
自分は王族の者だ、とルビカンテに告げた覚えはなかった。では、どうして彼がそのことを知っているのか。
「私達は、独自の情報網を持っている。モンスターには人に化けるものや空を飛ぶものもいるから、収集は案外容易なのだ」
とはいえエブラーナの忍者は勘が鋭いから難しいこともあるが、と微笑む。
何も言えずにルビカンテの腕に抱かれながら、エッジは次の言葉を待った。
きっと、ばれている。いや、確実にばれている。
ばれたら、ルビカンテから離れなければならなくなる。
「……早く、城へ帰るんだ。もう、私が傍にいなくても平気だろう?」
やっぱり、ばれていた。
「体に触れていれば分かる。反応が違うからな」
いつからばれていたのだろう。
「どうして、自分から、『もう治った』と言わなかったんだ」
どうしたら良いのか分からなくなって、ルビカンテに抱きつく。対面するかたちで男の膝の上に座りながら、エッジは自分の心を整理していた。
離れたくなくて、胸が高鳴って、ルビカンテの笑顔が見たくて。
この感情に、なんと名づければいいんだろう。
国に帰りたくないわけではない。でも、ルビカンテとも離れたくない。我侭だと知りつつ、エッジはそっと口にする。
「……俺、おめぇのこと……好きなんだと思う。何でかは、分かんねえけど」
***
エッジは、明るい笑顔とは裏腹に、少し遠い目をしていることがあった。
今なら分かる。
あれは、エッジの中に在る小さな闇の塊だったのだ。
――友達なんか、いねえよ。
何の話の最中だっただろう。ある日、青年は事も無げにそう言った。
王族であるエッジには、“本当の友達”などいないのだという。“エッジ”を見てくれる者はおらず、周りの皆が見ているのは、“王子”であるエッジなのだと。
おそらくそんなことはないだろう、とルビカンテは思う。
エッジは疑心暗鬼に陥っているだけで、彼の人柄に惹かれている者は必ずいる筈だ。
「おめぇは、『エブラーナの王子』じゃない俺の傍にいてくれる。俺本人を見ていてくれる。……それが、すげえ嬉しいんだ……」
涙声で、エッジは呟く。
「……初めは、あんなに憎かったのに。俺、もしかしたら、本物の馬鹿なのかもしれねえ」
こちらを見上げてくる。その顔は、笑っていたが泣いていた。唇の端を上げているのに、ぼろぼろと涙を零している。
「頭の中……ぐちゃぐちゃで……どうしていい、か……、もう……」
「……泣くな」
「分かってんだよ、おめぇ、と……一緒にいちゃいけねえって……分かってんのに……っ」
「エッジ」
腕の中にある、小さな体。ルビカンテが抱いているのは、大きな可能性を持っている青年だ。
若く、実力もある。周りの人間に愛されている。そして何より――自分のような異形ではない。
エッジの目の前には、幸せな未来が存在している。それを壊すことは、許されない。
「……分かっているのなら、私が説得するまでもないな」
声が震えないように意識しながら、
「城に帰れ、エッジ」
本心と逆さまのことを言う。
青年は、傷ついた表情で首を横に振った。
「お前の気持ちには応えられない」
「……ルビカンテ」
「お前は、ただの友人だ」
銀色の睫毛が濡れている、それがとても美しいと思う。絶望の底にいる緑の瞳を彩りながら、睫毛はきらきらと光る。
自らの口から放たれる、見え透いた嘘の数々。必死になって更なる嘘で塗り固めていこうとするのに、エッジが目の前にいるというだけで、簡単に壊れていってしまいそうになる。
「お前と出会えて、良かった」
そう言うのがやっとだった。
涙に濡れた頬を撫で、震える体を横たわらせる。こちらを真っ直ぐに見つめてくる瞳の中に、紅く燻る炎が見えた。
心の奥底を見透かされているような気がして思わず目を逸らすと、月光に照らされた蒼い指先が伸びてくる。
頭の芯が焼ける。
「ルビカンテ……」
自分を呼ぶ、その声すらも愛おしくて。
もう二度と、このしなやかな体に触れられる日は来ない。
上ずった喘ぎは涙を含み、柔らかく指を飲み込んでいく。「おめぇのが欲しい」と懇願する声を振り解きながら、ルビカンテはエッジの全身を愛撫した。
腕、脚、顔、その一つ一つを確かめるように。
「……あぁ、あ……っ、……う、嘘、つき……っ!」
頬に口づけながら、中を指で掻き回す。耳元で響くエッジの言葉に耳を傾ければ、甘い痺れに襲われた。
「俺のこと……好きなら……っ、好きって言えばいいじゃ、ねえか……っ」
首に巻きつけられた腕の熱さ。
「好きだ」と口にしてしまったら、たがが外れてしまうことは目に見えている。だから、何も言わない。
「…………ルビカンテ……ッ」
耳朶を食み、舐める。
少しだけ、嫌な予感がした。
(……駄目だ、エッジ。それは、考えてはならないことだ)
「……俺が……人間でなければ……っ、よかったのか……?もし、俺が……モンスター、だったら――――」
――――おめぇは、俺に『好きだ』って言ってくれたのか?
続く言葉を、口づけで塞いだ。
言ってはならない、その言葉を。
End