ひとりでは叶えられない夢を




 辺りは真っ暗闇で、雲も月も星一つだってありはしない。風の音もしない、虫の声も聞こえない。ここが、『あの世』なのだろうか。俺は死んでしまったのだろうか。ミストで少女を助けようとして――――いや、結局あの少女の母を殺めてしまっただけだった――――セシルと共に、あの揺れの中に巻き込まれてしまったのだ。
 セシルはどこへ行ってしまったんだろう。あの少女は? ミストは? 何もかもが分からぬまま、頭をぶるりと一度横に振った。
 突然、隣に座った誰かと目が合った。
――――少年が一人。
 少年が一人、こちらをじっと見ている。
 ミストの住人だろうか? 俺は、この少年を知らない。
 土埃にまみれて煤けた茶色い髪、薄紫色の瞳、凍りついて動かない表情。俺は、この少年を知らない。それなのに、何故か目を離せなかった。
 少年の瞳を覗き込む。薄紫色の真ん中、瞳孔の辺りで、何かが渦巻いてぐるぐると回っているような気がした。ぞくりとする。俺は多分、覗き込んではならないものを覗き込んでいるのではないか。そう思い視線を逸らそうとしたが、遅かった。
 惹き込まれる。途方もない暗闇に、闇の色に、薄紫色の瞳に、少年が纏っている悲しく虚しい闇のにおいに、ただただ惹き込まれてしまう。体を襲う怖気と戦いながら、俺は少年の手首を掴んだ。
 細い腕だった。折れてしまいそうなほど細く、病的だった。
「……カイン」
 少年が、笑う。
 その声は、声変わりする前のセシルの声とよく似ていた。



 頭の痛みに呻きながら、目を覚ました。
「……セシ……ル…………?」
 見渡し、手を伸ばしてセシルを探す。自室ではないということに気付き、慌てて起き上がった。
「ここは……?」
 眩しい光が部屋中を照らしている。見知らぬ部屋だった。ふと自らの体を見下ろし、仰天した。俺は、真っ裸だった。毛布を纏っていることだけが救いだ。
「セシル!」
 恐らく、セシルはここにいない。そんなことは分かっていた。分かっていたが、呼ばずにはいられなかった。毛布を羽織り、ベッドを下りる。頭がくらくらと揺れた。
「……セシル……」
 あの揺れの中、俺はどうしただろう。セシルを抱き寄せたことまでは覚えている。
 幼い頃のように、彼を守らなければならないと思った。それは体に染み付いている咄嗟の判断で、『兄』のように振舞ってきた自分自身の癖とも言える行動だった。
 目の前にある扉を抜ければ、セシルはそこにいてくれるのだろうか。
 と、扉に手をかけようとした。だが、持ち手が見当たらない。ひねる場所がない。どうすれば、この扉を開けることができるのだろう。
 それならば、と窓の外を見た。そこには、ありえない光景が広がっていた。
「……空……?」
 眼下に雲が見える。地面は見えない。どこにもない。
 この建物は、空の上に浮いているのだ。
 ごく、と唾を飲み込んだ。
 嘘だ、こんなものはまぼろしだ。
 俺はきっとあの夢の続きを見ているに違いない。みすぼらしい姿で闇の中に座り込んでいた少年のことを思い出した。
 吸い込まれそうな色を纏った、薄紫色の瞳。がりがりに痩せた細い腕。死人のように冷たい肌。

『カイン』

 幼い頃のセシルによく似た声で、少年は俺を呼んだ。
 馬鹿馬鹿しい、あんなのはまぼろしだ。夢だ。今見ているこの光景も夢なのだ。何もかもが嘘っぱちで、だから、俺はちゃんと目を覚まさなくてはならない。
 現実を見なければ。
 毛布を頭から被って、ベッドに突っ伏した。瞬間。
「カイン・ハイウインド!」
 大声で名を呼ばれた。声は、低い男の声だった。毛布から出て顔を上げ、声の主を探す。扉の前に、その人物は居た。
「な……っ!」
 それは、大きな魔物だった。赤いマントを身に纏い、黄色い瞳をすうっと細めている。口を開くと、鋭い牙が覗いた。
 慌てて槍を探すのだけれど、見当たらない。構えの体勢をとったところで、自分は文字通り丸裸なのだ。攻撃されたら一溜まりもないだろう。
「…………殺気をしまえ、カイン。お前と戦う気などない」
 声は、魔物らしくない落ち着いた響きを持っていた。部屋に炎のにおいが充満する。この魔物は、炎を操る魔物なのだろうか。
「お前に、これを」
 言いながら、魔物は大きな袋を差し出した。中で金属音が響いた。
「新しい鎧と兜だ。槍は明日手渡そう。これを身につけ、ゴルベーザ様の元へ行け」
「ゴルベーザ、様……?」
 それが誰の名なのかも分からぬまま、魔物の元へ歩み寄った。魔物は殺気を放っていない。敵意も見えない。この魔物が、俺を救ったのだろうか。
「お前が、俺を救ってくれたのか? あのミストから……」
 問うと、魔物は首を横に振った。
「お前を救ったのは私ではない、ゴルベーザ様だ。もっとも、ゴルベーザ様はお前を『拾った』と表現していたが……」
「ひ、ひろ……っ」
 捨て猫か何かのような表現だった。不快感を覚えたが、表現はともかく『ゴルベーザ様』が俺を救ってくれたのは事実らしい。
 魔物の手から、荷物の袋を受け取った。
 近づいて見上げてみれば魔物の背丈は本当に大きくて、首が痛くなってしまう。
「……お前は魔物なのだろう? 『ゴルベーザ様』もお前と同じ魔物なのか?」
「ゴルベーザ様は魔物ではない。お前と同じ人間だ」
「じゃあお前は人間に仕えている魔物、なのか……?」
「そうだ。……さあ、着替えてくれ。ゴルベーザ様の元へ案内しよう」
 魔物を操る人間――――? それはどんな人間なのだろう。まだ見ぬ命の恩人を想像してみるのだけれど、材料が少なすぎるせいではっきりとした形にはならなかった。
 鎧を身に付け兜を被る。ぴったりすぎるくらいにぴったりのそれらを眺めながら、「誂えたようにぴったりだ」と呟いた。
「お前のために誂えたものだからな。当然だ」
「俺のために……? どうしてそこまで」
 魔物が扉を開いた。しゅん、と風のような音がした。どうやって扉を開いたのだろうと魔物の手元を覗く。
「ここを押せば扉が開く」
 壁のスイッチをさっと指差して、魔物は部屋の外に出た。慌てて後を追う。
「私の傍を離れるな。ここは魔物の巣のようなものだからな。……武器を持たぬお前が生き抜くには厳しすぎる場所だ」
 驚き、頷いた。この赤い魔物は魔物の親玉のようなものなのだろう、と解釈する。
 早くこの場所から脱出しなければならないような気がする。命の恩人の住処だが、ここは魔物の住処でもあるのだ。長居するような場所ではない。礼を言って、そしてセシルの元へ戻らなければ。
 長い廊下を歩きつつ、魔物に問うた。
「……俺は、どれくらいの間意識を失っていたんだ?」
「四日だ」
「四日……」
 セシルはどうしただろう。気がかりという名の暗い雲が、もやもやと胸を覆い尽くしていく。
 見たこともないようなものたち――――動く床や不思議な扉――――を抜け、魔物は一枚の扉の前で足を止めた。
「ゴルベーザ様はこの部屋の中だ。……お前が、自分で扉を開いてみるといい」
 壁のスイッチに手を伸ばす。背伸びして押すと、「お前は背が小さいのか」と言われた。「俺が小さいのではない、お前が大きいんだ」と返すと、魔物は微かに笑ったようだった。扉が開く。
 暗い。
「ゴルベーザ様。カインが目覚めました」
 暗い。暗い部屋だ。窓一つない。俺が居た部屋とはまるで違う、陽の当たらない部屋だった。足元には紙や本、よく分からない瓶が散乱している。
『ゴルベーザ様』はどこにいるのだろう。暗すぎて、人間の姿を見つけることができない。
 衣擦れのような音がした。のそり、何かが立ち上がる。その方向に目を凝らす。
 薄紫色の瞳に射抜かれて、思わず後退りした。銀色の髪から覗くその瞳は、死人のように濁っている。
「……カイン……」
 掠れた声が俺を呼んだ。夢の中で見たあの子どものことを思い出した。
 思わず、魔物の方を仰ぎ見る。
「あの方がゴルベーザ様だ」
「人間……なのか? 本当に?」
 確かに、気配は人間のそれだ。けれど。
「ゴルベーザ様はアンデッドではない」
『あれじゃあまるで死人の瞳じゃないか』。そう言おうとした俺の心を読んだかのように、魔物は小さく小さく言った。「昔はもう少し人間らしい瞳をしておられたのに」とも。
『ゴルベーザ様』は、魔物の中で暮らしている間に人間らしい瞳と感情を失ってしまったのだろうか。
 部屋の中に入ることを躊躇ってしまう。隣にいる魔物の方が余程人間らしいのではないか、と思った。大きな魔物は、真顔で『ゴルベーザ様』の方を見遣っている。
「ゴルベーザ様。……私はこれで失礼します」
 置いて行かれる。不安が頭の中を満たした。慌てて魔物の顔を見上げると、魔物は静かに頷いた。
「カイン、私の名はルビカンテだ。後でまた迎えに来るから……そんな不安気な顔をするな」
 俺は、そんなにも不安気な顔をこの魔物に晒していたのだろうか。醜態を見られてしまったような気がして、思わず俯いた。
 長く真っ直ぐな廊下の向こうへと、ルビカンテの背が消えていく。ぼんやりと、白昼夢を見ているかのような心持ちになりながら、その光景を眺めていた。
 これは現実なのだろうか。
 思えば、目覚めた瞬間から信じられないものばかり目にしている気がする。妙に人間染みている大きな魔物も、雲の上にあるこの建物も、全てがおかしく、全てが絵空事のように思えた。
 意を決し振り向く。
「……あ、あの……」
 男は静かにこちらを見ていた。薄紫色の瞳を俺に向け、何ともいえない表情で唇を歪めていた。
 この部屋に、光はないのだろうか。見渡すのだけれど、ランプらしきものは見当たらない。足元にある物を踏んづけてしまいそうで、部屋に入れずにいた。
「あの……灯りは……」
 問うと、男は掌に紫色の火を灯した。揺らめくそれは幻想的で――――同時に、何故か悲しく感じられた。
 紫色の光に照らされて薄ぼんやりと浮かび上がった本や紙、瓶を避ける。倒れた椅子もあった。布も落ちていて、それはカーテンなのだと跨いでいる途中で気がついた。子ども部屋に使うような、可愛らしい柄をしていた。
 男の目の前まで辿り着く。男は、ベッドに腰掛けたままこちらを見上げていた。
「あ……」
 軽い衝撃に見舞われて、両手を握り締めた。
 見てはならないものを見たような。
 出会ってはならない人間と出会ってしまったような。
 そんな感情が、胸の中でぐるぐると渦巻き始める。
「あ……あの……。ありがとうございます。俺を救って下さったとルビカンテから聞きました。鎧まで用意して下さって……本当に、何と言ったらいいか」
 兜を取って頭を下げた。
 何も言わず、男はこちらを見上げている。凍りつくような瞳だった。と言っても、冷徹さを纏っているわけではない。ただ、感情を氷の中に閉じ込めているような印象を受けた。
 見つめられ続けて、居心地が悪くなってくる。
 ルビカンテはいつ、俺を迎えに来るのだろう。この男から――――『ゴルベーザ様』から離れて待っていた方がいいような気がした。俺は、この人に不快な思いをさせているのかもしれない。
「……この恩は、後で必ずお返しします。ただ……今の俺には何もありません。少しだけ、時間を下さい」
 何より、セシルのことが心配だった。
 深々と頭を下げる。
「失礼します」
 顔を上げ、目を合わせることもなく踵を返した。途端。
「え……っ、うわっ!」
 紫色の灯りが掻き消えた、と同時に腕を引かれた。その勢いで、手から兜が転がり落ちた。手加減も何もない調子で引かれたものだから、前つんのめりになって倒れそうになってしまう。そんな俺の体を抱きとめたのは、俺の腕を引いた張本人だった。
 きつく抱きしめられて、頭の中がぐらりと傾ぐ。男の体は大きく、あたたかかった。
「な、な……っ」
「――――頭が痛い」
「え」
 ベッドの上に転がされた。天井が見える。蜘蛛の巣も見えた。今まさに、天井の隅の隅で蜘蛛が巣を作っているところだった。見れば見るほど、あちこち埃まみれだ。
 それで、どうして俺はこんなことになっているんだ?
「う、ぐ」
 俺の体を抱きしめている太い腕を解こうとするのだけれど、それはあまりにも力強く、押しても引いてもびくともしない。『命の恩人』ということを考えると足蹴にするのも気が引けた。
「はな……はな、し……っ!」
 男は寝ぼけているらしい。俺をクッションか何かと勘違いしているのだろうか。鎧を着た男なんて、硬くてごつくて抱きしめたところで楽しくも何ともないんじゃないかと思うのだけれど。
 男の腕の中でしばらく暴れに暴れて――――俺は、脱出することを諦めてしまった。力の無駄だ、と思う。迎えに来たルビカンテに頼めば、ここから逃してくれるだろう。それまでの辛抱だ。
 どこかから、時計の音が聞こえてきた。振り子時計の音が男の心臓の音に重なる。
「……ゴル、ベーザ……?」
『様』をつけるのは流石におかしいだろう、と躊躇いがちに呼んでみた。返事代わりに聞こえてきたのは、やわらかな寝息で。
 このままずっとルビカンテが迎えに来なかったら、俺はどうなってしまうんだろう。この男と二人きりで、抱きしめられたまま眠ることになるのか。
 仕方なく目を閉じた。鎧がごつごつとして痛い。せめて、これを脱がせて欲しかった。
 時計の音、遠くで鳴る風の音、男の寝息。迎えが来る気配はない。
 セシルはどうしているだろう。過ぎった不安が、何故か霧散していく。思考が固まらず、溶けて泡になる。おかしい。スリプルをかけられているみたいだ。
 夢の中へと落ちていく。
 暗闇の中に、ぽつり、茶色い髪の少年が現れた。薄紫色の瞳をした、あの少年だ。
 細い腕だった。みすぼらしい服を着ていた。髪の毛は薄汚れている。骨が透けて見えるような痩せ方をしていた。
「……カイン」
 少年が笑った。唇の端を持ち上げたように見えた。これは笑顔なのだろうか。俺には分からなかった。
 がりがりの左手が差し出され、俺は慌ててその手を握った。何故か、握らなければいけないような気がした。
「カイン……僕は、お前が羨ましいんだ」
 意味が分からなかった。俺の何が羨ましいというのだろう。
「僕は、お前のことが羨ましい。だから、僕はお前を欲しいと思う。……お前が欲しいんだ、カイン」
 握り合った手に視線を落としてぞっとした。いつの間にか、真っ赤な血がべっとりと着いていた。少年の目は泳いでいる。薄紫色の瞳の表面に、薄い水の膜ができた。
「僕のものになって」
 それは、紛れもなく哀願の言葉だった。手の中の血が乾いてくる。こびり着く感触が気持ち悪い。
「……お願い、僕のものになって」
 まるで、新しい玩具を欲しがっているかのように。
 これは夢だ。悪夢だ。単なる夢なら、この少年の思う通りにしてやればいい。首を横に振ったところで、良いことなんて何一つないだろう。
「ああ、分かった。お前のものになってやる。俺はお前のものだ」
 頭が真っ白になる。少年が笑ったような、そんな気がした。



 結局俺は、朝になるまで男の腕の中にいた。
 目を覚ました時には既に昼で、「気持ち良さそうに眠っていたからそのままにしておいた」とルビカンテに言われ、大きな溜め息をつくはめになった。文句を言おうと口を開いた瞬間、ルビカンテはさっと姿を消してしまった。
 のっそりとした動きで起きてきたゴルベーザは、男が男を抱きしめて眠っている、というある種異様なこの光景を何とも思わなかったらしい。
 ただ一言、「お前は私のものになったんだろう?」と薄く笑っただけだった。
「……俺がいつ、お前のものに?」
 驚きで、声が裏返る。
 俺が約束した相手は、夢の中に存在している筈だった。あの薄汚れた少年は、目の前の人物とは似ても似つかない。――――いや、よくよく見てみれば、どこかが似ているような気がした。姿かたちそのものではない。雰囲気、感情の起伏を殆ど感じられない眼差し――――。
 子どもでもない、大人でもない。人間でなければ魔物でもない、何もかもが中途半端に感じられる眼差しだった。
「あ」
 同じだ。
 気付き、腕から逃れ、ベッドを下りた。
 この男とあの少年は、同じ人間だ。
 途方もない暗闇と、闇の色。薄紫色の瞳。それから、体に纏わりついている悲しく虚しい闇のにおい。
 腕を引かれた。ベッドの中に引き摺り込まれる。手首を押さえつけられ、「お前は私のものだ」と耳元で囁かれる。
 胸を思い切り殴りつけられたような、そんな感覚が体を襲った。うまく息ができない。逃げたいと思うのに、体はまるで言うことを聞かなかった。
 何かの術をかけられている。それが何なのかは分からない。分かるのは、体が動かないことと苦しいということだけだ。
「う、あぁ、あ……っ!」
 ばちり、紫色の光が爆ぜた。何かを流し込まれている。胸の中で、憎悪と嫉妬が膨れ上がっていく。セシルを大切に思う気持ちが、跡形もなく消えていく。
 セシルが憎い。
 殺してやりたい。
 どうしてそんなことを思ってしまうのか、自分でも分からない。大切な筈なのに、唯一無二の存在である筈なのに。
「あ……っ、ち、ちが……う……っ!」
 術を跳ね除けようともがいた。憎悪も嫉妬もいらなかった。胸の中で膨れ上がっていく、その二つの存在が恐ろしかった。俺の心の中にこんなにも醜い存在があるなんて、そんなのは嫌なんだ。
 俺は、セシルとローザを大切に思っている。だから、二人を祝福しなければならない。
 そう言い聞かせてきた筈だった。納得し、二人を見守ると決めた筈だった。今まで通りというわけにはいかないのだと、平静を装って二人に笑顔を向けてきた。
 自分自身にも周りにも、嘘をつき続けてきた。その反動が、一気に胸を貫いた。
 全身が、嫉妬の塊になったようだった。
「…………ゴルベーザ、様……」
 自然と、その名を口にしていた。
『ゴルベーザ様』の瞳を見つめる。紫色のそれに、俺の顔が映り込んでいる。俺の瞳は、闇の色を纏って暗く輝いているように見えた。

 それから、俺はこの塔――――ゾットの塔で暮らすようになった。
 セシルを殺し、クリスタルを手に入れ、世界を破壊する。ゴルベーザ様の思い描いた未来を目指す手助けをするのが、俺の役目だった。
 帰る場所などない。今セシルを目にしたら、襲いかかって槍で突き殺してしまいそうだった。その感情がおかしなものであることは分かっている。分かっていながら、どうすることもできなかった。

 俺の朝は、ゴルベーザ様の腕の中で目覚めるところから始まる。食事も一緒に摂った。放っておくと、ゴルベーザ様は食事をするのを忘れてしまうのだ。今までは、ルビカンテや他の四天王達が必死で声掛けをしていたらしい。
 ゴルベーザ様は、度々頭痛を訴え、俺を抱いて眠りたがった。『抱く』と言っても、抱きしめて眠るだけだ。それ以上のことは何もない。俺は、ただじっと彼が眠りにつくのを待つだけだった。
 ゴルベーザ様の傍で眠ると、必ずと言っていい程様々な夢を見た。夢の中には、いつだってあの少年が居た。
 泣き喚く赤ん坊を抱いて呆然としている少年を、ただ見つめ続けるだけの夢。「頭が痛い」と泣く少年を、ただ見つめ続けるだけの夢。父と母の間に立って幸せそうに微笑む少年を、ただ見つめ続けるだけの夢。
 俺は、いつも見つめ続けることしかできなかった。触れても話しかけても、少年には聞こえない。
 見つめ続けて分かったのは、少年にも幸せな時代があった、ということだった。父と母の傍で、「弟か妹が産まれるんだ」と声を弾ませる。そんな時代が、ゴルベーザ様にもあったのだ。
 いつから、彼はこうなってしまったのだろう。彼の傍にいた筈の父と母、それから赤ん坊は、どこへ行ってしまったんだろう。夢は、そういったことを教えてはくれなかった。

「……ゴルベーザ様。ゴルベーザ様、朝です」
 言いながら、ゴルベーザ様の体を揺すった。だが、ゴルベーザ様は起きてこない。
 朝といっても、この部屋には一筋の光も射し込まない。時計がなければ、時間どころか今が朝なのか夜なのか、それすら分からないだろう。
 窓には木が打ち付けられ、その側には、バリケードのように本が積み上げられている。そんな窓の状態を見ていると、これでもかという程気が滅入った。

◆◆◆

 カインを見つけたのは偶然だった。
 セシルと召喚士達の死を確認するつもりで、私はミストに向かったのだった。
 崩れた崖の陰で、カインは気を失っていた。セシルもまた、気を失ったままその傍で倒れていた。少女は少し離れた場所で気を失っている。
 まず、その金色の髪に目を奪われた。兜は見るも無残なかたちになっていて、元の形が分からぬほどだった。
 真っ赤な血がカインの体からどくどくと流れ出し、血だまりを作っていた。カインの状態は少女やセシルよりもずっと酷く、このまま放っておけば確実に死が訪れるだろう、と思われた。
 カインはセシルを守ろうとしたのだろう。セシルの体に折り重なるようにして倒れていた。
 頭に鈍痛が走る。頭痛に見舞われながら、カインの体を抱き上げた。
 血が垂れ、私の手を汚し、マントに染みを作る。
「セシ、ル……」
 意識が混濁しているのだろう。カインは延々と、セシルの名を呼び続けていた。そんなカインを何故か放っておくことが出来ず、本来の目的も忘れたまま、私はゾットの塔へ戻ったのだった。


「……何だ……?」
 木の割れる音で目が覚めた。腕の中にいたカインの姿は既にない。慌てて起き上がり視線を巡らせると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「な……っ!」
「……おはようございます、ゴルベーザ様。もう昼ですよ」
 開かぬはずの窓が、目一杯開いている。
 窓を塞いでいた木はどこにも見当たらない。
 カーテンが、風を孕んで揺れていた。
「お前は、何を……?」
 ベッドから降りれば、埃一つない床に足が触れた。積み上げられていた本は本棚に収まり、紙は箱の中に一纏めに入っていて、これが自分の部屋だなんて信じられなかった。
 何を勝手なことを、とカインを怒鳴りつけようとした。なのに、その言葉を口にすることはできなかった。明るい自室を見ていると心の中にあった靄のようなものが消えていくような気がして、気分が良いということに気がついたのだ。
 絶句している私を見て、カインはいたずらっぽく微笑んでみせた。それはあまりにも子どもくさく無邪気なもので。
――――胸が締めつけられた。その笑顔をもっと見ていたいと思うのに、カインはいつもの、どこか冷たくどこか優しい、無表情に近い顔に戻っていた。
「汚いので、片づけています」
 その手には、大きな箒が握られている。
「……お前が一人でやったのか?」
「いいえ」
 部屋の隅に視線を遣る。大きな図体を小さく縮めて、ルビカンテが床を拭いていた。
「……ルビカンテ、お前……」
「……ゴルベーザ様、あまり見ないで下さい」
「入り口ならともかく、お前がこの部屋のこんな奥にまで入ってくるなんて……何年ぶりだ?」
「…………分かりません。私がこの塔に来た頃にはもう、この部屋は玩具箱を引っくり返したような状態でしたし……もしかしたら、一度も入ったことがないのかもしれません。私も他の四天王も、貴方の部屋に入ろうなんて思いもしませんでした。掃除しようと言い出したのはカインです。『こんな部屋にいたら気が滅入る』と、窓を塞いでいた木を突然槍で壊しだして……」
 突拍子もないことをする男だ。
 カインは、はたきを持って棚をばんばんはたいている。ルビカンテの拭いたところに埃がはらはらと落ちた。
 ルビカンテは肩をがっくりと落とし、「カイン。それでは床を拭いた意味が無いだろう」と呻くように言った。
 カインは特別掃除好きというわけではないらしい。どちらかというと、下手な方なのかもしれない。
「確かにそうだな、せっかく拭いてくれたのに……悪かった。はたきはやめておく」
 言って、布を手に取った。埃は拭き取ることにしたらしい。
 二人はせっせと掃除している。どんどん綺麗になっていく部屋は、あまりにも眩しかった。
「ゴルベーザ様」
「……何だ」
「ゴルベーザ様も手伝って下さい」
 言って、カインは手を招く。それに反論したのはルビカンテだった。
「カイン、ゴルベーザ様にそんなことをさせるわけには……!」
「……させないから、掃除の仕方を教えないから、ゴルベーザ様の部屋は荒地みたいになってしまっていたんじゃないか。ここはゴルベーザ様の部屋なんだから、自分でできることは自分でやって頂かないと」
「む……」
 眉をひそめ、ルビカンテは黙ってしまった。
「ゴルベーザ様、ここに立って下さい」
 主を呼びつけるなんてとは思ったが、悪い気はしなかった。元より、操りの糸で作られているだけの偽りの主従なのだ。本来、私達には関係も何もありはしない。
 言われたとおり、棚の前に立った。「しっかり立っていて下さいね」と言いながら、カインは私の背の方に回った。
 地面を蹴る音がした。両肩に衝撃が走る。カインが私の肩に乗っていた。
「やっぱり、思った通りです。丁度いい高さだ」
「カイン! 掃除ならともかく、ゴルベーザ様を台にするなんて……!」
「……私は構わん」
 ルビカンテは何か言いたげにしていたが、諦めたらしく、再度床を拭き始めてしまった。
 肩に感じる温もりに、胸が痛くなった。「ゴルベーザ様は本当に背が高いですね」と笑いながら、カインは私の顔を覗き込む。
 ああ、まただ。笑顔をもっと見ていたいと思うのに、カインはすぐ真顔に戻ってしまう。
 その笑顔を、もっともっと見ていたい。
「ゴルベーザ様、次は向こうを」
 言われるがまま、窓の方へ向かった。
 窓の周りには、釘の跡があった。穴と錆が残っている。眼下に広がる雲を眺め、カインは窓を拭き始めた。
「ゴルベーザ様。……ゴルベーザ様は、どうしてこの窓を塞いだんですか」
「……分からぬ。忘れた」
「忘れた?」
「……私には、幼い頃の記憶がない。ここに来てすぐの記憶も、ルビカンテと出会った時の記憶もない。……少しずつ忘れていってしまうどころか、頻繁に意識と記憶が飛ぶから大切なことを覚えていることもできない。親の顔も覚えていないし、ここに来る前の記憶もない」
「そんな……」
「大切なものも思い出も、何もない。クリスタルを集め月に行くことだけが、私の――――」
――――私の夢なのだ。そう言おうとして、唇を止めた。本当に、これが私の夢なのだろうか。
 カインの手に力が篭ったのが分かった。私の頭を抱き、微かに体を震わせている。
「どうしたカイン。……寒いのか?」
 背負っているせいで、その表情を見ることは叶わない。
「違う……、ちがい、ます……」
 言って、カインは私の頭に顔を埋めた。
 「ゴルベーザ様の髪は、意外とやわらかいんですね」
 呟く声は、今にも泣き出しそうなものだった。

 カインのことが欲しくて、カインの全てを手に入れたくて、私はカインを操った。
 金色の髪が、ぬくもりが、青い瞳が、何もかもがいとおしかった。腕の中に閉じ込めておきたいと思った。
 夜、カインの体を抱きしめていると、不思議と頭痛が治まった。抱きしめるだけで、心に僅かな光が射し込むようなそんな気がしていた。もっと笑って欲しかった。もっと、幸せそうな顔をして欲しかった。
 どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。理由は全く分からなかった。

 夜を迎えた。
 カインの体を抱き寄せる。部屋は、見違えるほど美しくなっていた。
「……男同士が抱き合って眠るなんて、おかしいと思いませんか?」
 私の胸に頬を寄せ、カインが小さく呟いた。
「おかしくてもおかしくなくても、どちらでもいい」
「ゴルベーザ様……」
 瞼を閉じると、自分が幸せになったような錯覚に陥った。
 ぬくもりに慰められている。そう思った。

◆◆◆

 親の顔も覚えていない、昔のことは忘れてしまった、とゴルベーザ様は言った。それが本当だとしたら、俺が見るあの夢は、ゴルベーザ様が忘れてしまったはるか昔の出来事なのだろう。
 ゴルベーザ様は、寝息を立てて眠っている。あたたかい腕に抱かれているのに、気分はどこか切ないままだ。
 瞼を閉じる。
 真の闇が、瞼の裏で開いた。
 とろとろと眠れば、その先にあの少年がいた。少年は、凍りついた表情でどこか遠くを見ていた。
 雪が降り始める。少年の唇が動いた。
「いいなあ」
 唇の動きだけで、そう言った。視線の先には窓があって、窓の向こうには家族がいる。カーテンの隙間から漏れ出る橙色の優しい灯りと、甘く懐かしいシチューの香り。バターとミルクのいい匂いがした。
 橙色が、少年の顔を照らした。家族の笑い声が耳に届く。痛くなるほど悲しい顔で、少年は――――ゴルベーザ様は、窓の向こうを見つめ続ける。
 改めて、家族を見た。瞬間、俺の思考はまともに働かなくなってしまった。
 窓の向こうにいたのは、若い頃の俺の父と母だった。食事を前にはしゃいでいる子どももいる。幼い頃の俺だった。
 いただきます、と幼い俺が言った瞬間、赤ん坊の声がわあんと響いた。慌てながら、幼い俺は隣に置いてあった揺りかごの中を覗き込んだ。母が、赤ん坊をそっと抱き上げる。銀色の髪、白い肌、青い目。
――――セシルだ。
 母は、やわらかな表情で赤ん坊のセシルをゆらゆら揺すった。不満気に、羨ましそうに、幼い俺はその光景を見上げている。「カイン、やきもちを焼いてるの?」と母は優しくくすくすと笑った。図星だったのだろう、幼い俺は、恥ずかしそうに下を向いた。
「そうよね。お兄ちゃんだって、寂しくなるわよね」
 微笑んで、母は幼い俺の頭を撫で、頬に口づけた。
 父は、その光景を優しい眼差しで見守っている。
 幸せな家族の世界。この日、何故、セシルは俺の家に居たのだろう。預かったのだろうか。俺が「セシルと一緒にいたい」とバロン王に駄々をこねたのかもしれない。少年の瞳に、この光景はどう映ったんだろう。
「どうして……」
 言って、少年は走りだした。涙をぼろぼろと零しながら駆けて行く。寒さのせいで、耳は真っ赤だった。
 泣く少年の傍には誰も居ない。胸が痛かった。その頭を撫でてやりたかった。震える体をあたためて、優しい言葉をかけてやりたい。けれど、それは叶わない。これは過去で、夢の中の出来事なのだ。
 目が熱かった。瞼を開くと、顔が涙でびっしょりと濡れていた。
「あ……」
 ここはもう夢の中ではない。それなのに、拭っても拭っても、涙がどんどん溢れ出てくる。
「……カイン…………?」
 顔を覗き込まれ、恥ずかしくて目を逸らした。辺りはまだ真っ暗で、夜が明けていないことが分かる。
「何故、泣いているんだ」
「……何でもありません」
 しゃくり上げながら答えると、ゴルベーザ様は俺の瞼をそっと拭った。
「……泣き止んでくれ。お前が泣いていると、落ち着かない」
「ゴルベーザ様が、俺を泣かせているんです」
「私が?」
 それは言いがかりに近かった。勝手に夢を見たのは俺で、勝手に泣いているのも俺だ。ゴルベーザ様は何も悪くない。
「……私と眠るのが嫌なのか?」
「いいえ」
 首を横に振った。
「私に触れられるのは?」
「嫌、では……ありません……」
「……明日はファブールに向かう。セシルと対峙することになるだろう。それでもお前は、私の傍にいるつもりなのか」
「俺を操っているのはゴルベーザ様です。俺の意思なんて関係――――」
「……術を解いて欲しいのか? それなら解いてやろう。お前の好きにするといい」
「え……?」
 頭の中で何かが爆ぜた。嫉妬や憎悪が溢れ出し、頭がぐちゃぐちゃになってしまう。
 術を解かれている。息が詰まった。
 術を解かれたら、俺はこの感情と一人で向き合わなければならなくなる。『俺は洗脳されているから』という言い訳ができなくなる。
「……や……いやだ……っ!」
 暴れる俺の体を押さえつけ、ゴルベーザ様は洗脳を解こうとする。
 嫌だ、怖い。この感情と向き合うのが怖い。現実と向き合うのが、怖い。俺は逃げ出そうとしている。逃げたい。現実を見ていたくない。
「カイン」
 悲しげな声を響かせながら、ゴルベーザ様は術を解くのを止めた。逆に、俺の体に術を送り込む。ゴルベーザ様の手の力が、ふっと緩んだ。
「……カイン。どうすれば、お前は微笑んでくれる? 私はお前に笑って欲しい。もっと、お前の笑顔を見ていたい……」
 頬に唇が触れてきた。驚き戸惑っていると、今度はそっと唇を塞がれた。
「ん……っ」
 ゴルベーザ様は男だ。だが、不思議と嫌な感じはなかった。それどころか、寧ろ。
「ゴルベーザ様……」
「……ミストでお前の姿を見た瞬間、どうやってもお前を連れ帰らねばならないと思った。お前を手に入れたくて堪らなくて」
「何故、そう思ったんです……?」
「……分からない。分からないが……私の目には、お前の姿が幸せの象徴のように見えたのだ。お前を手に入れれば、お前が傍にいてくれたら……幸せになれるような気がした」
「俺が、幸せの象徴に?」
 それは、俺がさっき見たあの光景と関係があるのかもしれない。ゴルベーザ様は、あの光景の中に『幸せ』を見たのだ。そして、その光景の一部を――――俺を、自分のものにしようとした。だがそれなら、俺でなくセシルでも良かったのではないか。
「おそらく私は、お前の笑顔をどこかで見たことがあるのだろう。だから、お前の中に見える『幸せ』を欲しいと思ってしまう。お前の笑顔を欲しいと思ってしまう。クリスタルを集めるという願いは、一人でも叶えることができる。だがこの願いは……」
 ふと浮かんだ疑問は、ゴルベーザ様の言葉ですぐに解決してしまった。そうだ、幼い俺は笑っていた。
 きつく抱きしめられる。そのあまりのきつさに呻き「苦しい」と呟くと、今度は口づけが降ってきた。慌ててゴルベーザ様の体を押し返す。
「ゴ、ゴルベーザ様……っ」
 夜着のボタンが、一つずつ外されていく。
 薄紫色の瞳が、俺の全てを雁字搦めに縛りつける。
「あ……、ま、待……っ」
 喉を甘噛みされ、声にならない悲鳴をあげた。きつく吸われ、痕をつけられているのを感じる。
「ゴルベーザ様、お止め下さい……!」
「嫌なのか?」
「嫌……では……」
 心が曖昧に揺れる。ゴルベーザ様は男で、セシルの敵なのだ。これ以上行ったらきっと、ゴルベーザ様に囚われたまま戻って来られなくなる。
 けれど、嫌なわけではないのだ。与えられる唇の感触に、全身が疼く。
「ひっ」
 乳首が生温かい感触に包まれた。ぴちゃり、濡れた音がいやらしく響いて俺の耳を犯した。優しく噛まれ、舐められ、指先で潰される。
「あ……っ」
 ゴルベーザ様の肩を掴み、体の下から抜けだそうと試みた。だが、強い力で押さえつけられてしまう。
「――――カイン」
 そんな声で、そんな響きで、俺の名前を呼ばないで欲しい。
 洗脳よりも手酷く強い何かに、心を引き摺られる。
「……さ、わら……な……」
 くすぐったいのか気持ちが良いのか分からない。赤く腫れてしまいそうなほど弄られ、腰が浮いてしまう。浮いた腰に、ゴルベーザ様の手が伸びた。
 服越しに、反応している場所を撫でられる。
「ひ……、あっ!」
 形を確かめるように。勃ち上がっているそれを指先でなぞられる。焦れったい愛撫だった。
「ゴルベーザ様……ぁ……っ」
 自分の声なのに、自分のものでないようだ。甘ったるい響きに耳を塞ぎたくなる。下衣を脱がされ、足を大きく開かされた。今度は、羞恥に襲われ泣きたくなった。
「力を抜け、カイン。……無理か?」
「あ……、だって、こんな……」
 抜けと言われて抜けるものではない。深呼吸してみても、体の強張りは取れなかった。
 俺の足から手を離し、ゴルベーザ様は俺の顔を覗き込む。
 近い。
 唇が、俺の唇を優しく食んだ。
 舌で舌を絡め取られ、呼吸まで奪われる。歯列をなぞられ上顎を撫でられたら、もう駄目だった。
「ん、う……、うぅ……ん……っ!」
 唾液が唇の端から溢れた。指先で耳を撫でられる。口づけだけでも頭がぼんやりしておかしくなりそうなのに、そんなことをされたら堪らなかった。
 全身が蕩け、力が抜ける。ようやく、唇が離れた。
 首筋に、胸に、臍に。口づけが与えられ、俺は荒い息を漏らした。
「……っ! あ、駄目です、そんな……っ!」
 その場所に、ゴルベーザ様の唇が触れた。今にも果ててしまいそうな位、その場所は勃ち上がって固くなっている。
 あたたかい口腔に包まれて、鼓動が早くなっていく。声が止まらない。止められない。このままでは達してしまう。
「ゴルベーザ、様……、口、離し……て……っ」
 懇願すると、あっさり離された。だが、ほっとしていられたのは一瞬のことだった。
「……いきそうか?」
 何度も頷くと、ゴルベーザ様はその場所を撫で擦りながら俺の顔を覗き込んだ。
――――見られている。
 全身が更に熱くなっていくのを感じた。
「見ないで、見ないでください……、あぁっ、ひ……」
 俺の表情を余すところ無く見ようというのだろう。嫌だ、恥ずかしい。見られたくない。許して欲しい。
 下着は先走りでぐちゃぐちゃになってしまっている。不規則に響く濡れた音が堪らない。限界が近づいてくる。瞬間、頭が真っ白になった。
「ああぁ、あ…………っ!」
 先走りとは違う生あたたかい感触が、下着の中に広がっていく。
「あ、あ……っ」
 骨を抜かれてしまったかのように、体中の力が抜けた。
 足を大きく開かれる。もう、抵抗する力もない。下着を下げられると、布と性器の間に精液の糸が引いた。ゴルベーザ様が、その精液を指で掬う。濡れた指が、後孔に触れた。
「ひっ!」
 ありえない場所に触れられて、息を詰める。襞を伸ばすように、ゆっくりと指が入ってきた。
 掴むものが欲しくて、シーツをきつく握りしめた。
 途中まで引き抜かれ安堵したのも束の間、再度、指が侵入してくる。今度は二本だ。中をぐるりとなぞり、幾度も抜き挿しされる。大きく開かれた足が恥ずかしい、などと思っている暇もない。
 酷い異物感に支配されながら、喘ぎ、肩で息をする。
 鼻にかかったいやらしい声。これが自分の声だなんて。
 ずる、と三本の指が抜けた。
 次に何をされるのか。それは、何の為にその場所を解していたのか、ということを考えればすぐに分かることだった。
 怖い。
 ゴルベーザ様の体は、人間の中でも特に大きい方だ。もしかしたら、その場所も――――。
「あ……っ」
 熱り立ったものが、俺の視界に飛び込んできた。あんなもの、入るはずがない。
 逃げようとずり上がった俺の腰を、ゴルベーザ様がぐっと掴んだ。足を開かれ折り曲げられ、心臓が早鐘を打つ。
 ゴルベーザ様が、覆い被さってきた。
「う……、ああ、あ、あ、あっ!」
 熱い先端が、掻き分けるようにして入ってくる。
 逃げようと思っても、どろどろになってしまった体はいうことを聞かない。ぎちぎち、と肉同士が擦れた。
「うあ、あっ、う……っ!」
「カイン……」
「抜いて、くださ……っ、あぁ……!」
 気遣うようにゆっくりと、だが確実に奥まで侵入してくる。
 抱きしめられ、ゴルベーザ様の体温を感じた。
 この背に手を回してしまったら、このぬくもりを二度と手放せなくなるような気がする。それが怖かった。
 これは同情なのだろうか? それとも愛情? ――――分からない。たった一つ分かっているのは、『ゴルベーザ様の願いを叶えたい』という想いだけだった。
 ゴルベーザ様は、幸せを欲しがっている。ぬくもりを求めている。一人では叶えられない夢を見ている。ただ、そんなゴルベーザ様の願いを叶えたい、と思う。何故なら、俺もゴルベーザ様と同じ願いを抱えているからだ。
 一人では叶わぬ夢を見続け、一人もがき続けている。
 愛でも同情でも自己憐憫でもその全てでも、何でも構わなかった。
「んん、んっ!」
 腹の奥まで届いたそれが、往復を繰り返す。中を擦り、愛撫し、形を覚え込ませるかのように動き回る。息ができない。唾液を飲み込む暇もない。
 ゴルベーザ様の手が、俺のものを掴んだ。揺すぶると同時に扱かれて、快楽に飲み込まれていく。
「あ、ああ、あぁ、あ……ひ……!」
 ベッドの音が、心臓の音が、濡れた音が、自分自身の声が、耳の中で混ざり合って俺の頭をおかしくさせる、
「ゴルベーザ、様……っ!」
 この背に手を回したら、もう戻れない。でも、もう我慢することなどできなかった。
 その広い背に手を伸ばし、爪を立てる。熱の篭った体に頬を寄せた。
「カイン……」
 求められている、欲しがられている、必要とされている。
 俺の名を呼ぶ切羽詰まったその声に煽られて、ただひたすら、高いところへと昇りつめていく。

◆◆◆

 見も世もなく喘ぎ、乱れ、カインは私の元へと堕ちてくる。
 私は、綺麗なものを壊している。穢して犯して、元の世界へ戻れぬように腕の中に閉じ込めて――――そんな私の姿は、まるで、玩具を独り占めして放そうとしない我儘な子どものようだった。
 カインに暗闇は似合わない。竜騎士の鎧には、青い空がよく似合っていた。
 太陽光を反射して煌めく金の髪が綺麗だった。空を映したような青い瞳がいとおしかった。彼の笑顔を永遠に見ていたい、そう思うことが何度もあった。
 開放してやらねばならないのだろう。本当に、彼のことを想っているというのなら。
 そうだ。彼を抱くのは、これが最初で最後だ。

「……そこ、いやです、駄目、あぁ、あ……っ!」
 探っているうちに、カインの弱い場所が分かってくる。
 どこを擦れば、細い腰を跳ねさせるのか。どこを舐めれば、より一層甘い声で啼くのか。嫌と啜り泣くくせに、彼の体はどろどろに蕩けて快楽を訴えるのだ。
 浅いところを擦ると、カインの喉がひゅっと鳴った。かたく凝っている場所に先端をぶつけ、耳元で響く喘ぎ声を堪能する。
「あ、ひ、ひ……っい、あっ! おかし、い、そこ……!」
 私の背に爪を立てている、その力がより一層強くなった。カインが私に与える痛みはぞっとするほど甘美だ。
 どんな表情をしているのだろう、と身を少し離して顔を覗く。私の視線に気づいたカインは、慌ててさっと目を逸らした。両手で顔を覆おうとする。その両手をシーツに縫い止め、深い場所にぐっと腰を進めた。
「ああぁ、あ!!」
 衝撃に震える媚肉を堪能し、今度は一気に引き抜いた。カインのペニスは先走りをだらだら垂らしている。眦から涙が溢れた。再度、最奥まで挿入する。
「うぁ、あ、んんっ」
 快楽に染まったカインの顔を見ているだけで、射精感が高まり胸が疼いて堪らなくなる。開放してやらねばならないと分かっているのに、溢れ出る自分自身の感情を抑えておけなくて。
 カインの心だけでは足りない、体だけでも足りない。どちらも欲しくて、彼の笑顔が見たくて、けれど、私には洗脳に侵された偽物の心を手に入れることしかできない。――――こんな酷いことをしておきながらカインの心を欲しがるだなんて、何ておこがましいのだろう。
 口づけた唇は熱く、やわらかい。
「んん、うぅ、んー……っ!」
 中がきつく締まる。白濁が、カインの腹に散った。誘われ搾り取られるようにして、カインの中に全てを吐き出した。


 シャワーを浴びながら、カインはどこかぼんやりとした表情を浮かべていた。
「……カイン?」
 問いかけても答えない。聞こえていないのだろう。
 カインは、何を考えているのだろう。明日のことだろうか。セシルやローザのことで悩んでいるのだろうか?
 頬に指を滑らせると、はっとした顔でカインがこちらを見上げた。その体を抱き寄せ、腰に手を回す。湯に濡れた体がびく、と震えた。
「……まだ出していないだろう?」
 腰にあてた手を下に持って行くと、カインは絶句して固まってしまった。
「自分で出すか? それとも……」
『自分で』という言葉に反応して、唇をぱくぱくさせている。放っておいたら、処理がなかなか進まないまま時間だけが過ぎ去ってしまうだろう、と割れ目に指先を這わせる。私は、カインを早く休ませてやりたかった。
 休ませて――――それから、彼の記憶を消してしまうつもりだった。毎夜、私の傍で眠っていたことも、掃除した日のことも、今夜のことも。私に関することは、全て忘れてしまえば良い。
 本当は、洗脳の術も解いてやるつもりでいた。だが、カイン自身はそれを望んでいない。私に操られたままでいることを望んでいる。それならせめて、その想いを叶えてやりたかった。
「ひ……っ」
 指をゆっくり挿し込むと、中がくちゅりと鳴った。二本挿入し、そのまま押し拡げる。やわらかくなったそこは、私の指を拒まなかった。
「あぁ、あっ」
 白濁が、内腿を伝っていく。
「ゴルベーザ様……」
 息を荒げながら、カインはきつく瞼を閉じた。

 シャワーを浴びた後、私は、カインの体や髪を拭いてやった。「自分でできますから」と焦る彼の腰は言葉とは裏腹にすっかり抜けてしまっている。
 綺麗になった体をベッドに横たわらせると、カインは惹かれずにはいられないような眼差しをこちらに向けて優しくそっと、微笑んだ。
「あ、ありがとう……ございます……」
 もっと触れていたい。だが、手放さねばならない。
 私は、クリスタルを手に入れるためだけに生きてきた。これから先もそうして生きていくつもりでいた。それなのに、カインの傍にいると生きる意味が揺らいでしまう。『他にも生きる道があるのではないか』と考えそうになってしまう。頭がぎりぎりと締めつけられるように痛んで、息ができなくなってしまう。
 頭のどこか深い場所で、『これを捨てろ、ただの駒にしてしまえ』という声がする。
 カインはセシルの親友で、バロンの竜騎士で――――上手く操れば、最強の駒となるだろう。
 そうだ。『駒』に必要な部分だけを残し、いらぬ記憶は消してしまえばいい。
 心が、凍りついていく。
「……ゴルベーザ様?」
 異変に気づいたらしい。カインが、不安気な声で私の名を呼んだ。
「ゴルベーザ、さ……っ!!」
 邪魔な記憶は、いらない。
 頭の中で、誰かが喚く。『お前に感情は必要ない』『お前はクリスタルを集める為だけに生きていればいい』『お前の心を揺らし惑わせるその男の記憶を消して、従順な駒にしてしまえ』と。
 そうだ、カインの記憶を消してしまわなければ。
 頭の中にいる『誰か』と、意見が一致する。

――――頭の中の『誰か』は、従順な駒を手に入れる為に。
――――私は、彼の心を開放する為に。

 身を屈め、カインの顔に自らの顔を近づける。
 額にかかった金の髪を撫でつけ、込み上げるいとおしさを堪能する。こんな気持ちになるのも、きっと、これが最後だ。
 掌に、魔力を篭める。目を見開いて、カインが小さく私の名を呟いた。
「ゴルベーザ様……?」
「カイン。……私は、お前を……」
 最後は、言葉にならなかった。


   まぼろし




 誰かに見られている気がする。
 それは、この数日間――――いやもう少し前から感じていた違和感だった。
――――嫌な視線、というわけではない。ただ、やわらかく切ない眼差しを、誰かがこちらに向けているような感じがして。
 そうして俺は月の最奥を目指すと同時に、視線の主を探すことにしたのだった。


 もしかして、セオドアなのだろうか?
 隣で剣を磨いているセオドアの顔を、じっと見つめてみた。
「んっ?」
 視線に気づいたらしい。素っ頓狂な声をあげて、セオドアは俺をぱっと見た。
「カインさんカインさん! 見て下さい、綺麗でしょう」
 言って、彼はたった今磨き上げられたばかりの剣を目の前に差し出した。焚き火の橙に照らされて、それは美しく輝いている。「ああ、綺麗だな」と素直に頷くと、セオドアはえへへと頭を掻いてみせた。
「武器と防具は大切にしないと、ですよね!」
 その大きな瞳は真っ直ぐで、きらきらとした何かに満ち溢れていた。若い頃のセシルによく似ている。思わず、笑みが零れた。
「あっ、な、何笑ってるんですかカインさん……! 僕の顔に、何か」
「いや、ついていない」
「じゃ、じゃあ何で笑って……!」
 慌てる様が面白くて、余計に笑ってしまった。きょろきょろと動くセオドアの瞳は忙しなくて、やわらかさとは程遠い。
 違う。あの眼差しを向けていたのは、セオドアではない。
「……カインさん?」
 見上げてくる丸い頭をぽんぽんと軽く叩いて、立ち上がる。
「もう、カインさん……! また、僕を子ども扱いしてるでしょう」
 軽く頬を膨らませたその姿はどう見てもまさに子どもそのものなのに、セオドアは「僕は子どもじゃありません」と言って拗ねてしまった。
「もう少ししたら、カインさんの背を追い抜かします。子ども扱いしていられるのもあと少しの間だけですよ! 今度は僕がカインさんの頭を――――!」
「そうか。楽しみにしている」
 言いつつ再度頭を撫でると、セオドアはがっくりと肩を落としてしまった。
 次に、ローザとリディアの二人と話す機会を得た。昼食を前に、ローザは小さく溜め息をついている。
「食料が残り少なくて……あまり量がないの」
 この前食料を調達できたのは、一体いつの事だったか。
 ローザとリディアは、率先して食事を作ってくれている。経験豊富な二人に任せておけば、栄養面での心配は無いだろう。この辺鄙な場所でこれだけの食事を作ってくれているのだからこれで十分だ、と俺は思うのだが、ローザとリディアはあまり納得していないらしい。「育ち盛りの子達に申し訳ない」とリディアもまた、溜め息を零した。
 確かに、育ち盛りの子ども達には酷かもしれない。
 短い戦いならともかく、戦いは想像していたよりもずっと長引いている。保存食があるとはいえ、野菜や果物が全くないというのは成長の面でも心配だった。
「……ローザ、リディア。そう落ち込まないでくれ。この状況であたたかい食事を用意してくれている二人には、感謝してもしたりないほどなんだ。俺も、もう少し視野を広げて食料を探してみようと思う」
「カイン、ありがとう。とても助かるわ」
「わあ、ありがとうカイン! これからも、頑張って美味しいご飯を作るね」
 そう言って照れくさそうに笑い合う二人の瞳はとても優しくて、切なさの欠片も見当たらない。
 違う。ローザとリディアではない。
 では一体誰なんだろうと首を傾げ、冷めないうちにとスープを口に運んだ。

 セシルの意識が戻ると同時に、皆に本来の笑顔が戻ってきた。だが未だに、眼差しの主は分かっていない。
 ひんやりとした壁に背を預け、足元に視線を落とした。
 皆、もう寝入っている。考えるのは明日にして、今日は眠った方がいいだろう。
 テントに入ろうとしたその時、エッジとセシルが話をしている姿が見えた。
 今日の見張りはエッジで、セシルはもうテントで休んでいるはずだった。何か重要な話をしているのかもしれない。
 邪魔せぬように、そっとテントに――――。
「おっ、カイン!」
 と、エッジが大きく手を振った。
「エ、エッジ……」
「ん?」
 エッジはただ、にこにこと笑っていた。セシルも穏やかな表情で、「あっ、カイン!」と手を振っている。
「カインもこっちにおいでよ」
 言いつつ、セシルはほんの少し隣に移動した。セシルとエッジの間に隙間が空く。ここに座れということらしい。
 大事な話をしていたわけではなかったのか、と俺は空けてくれた場所に腰を下ろした。
「どうしたんだ? こんな夜更けに。もうお前は眠っているものだと思っていたが……」
 セシルに問うと、「カインこそ」と彼は笑った。深い海の色をした瞳が、すっと細められる。俺は、セシルのこの眼差しをよく知っていた。視線の主がセシルなら、迷うことなくすぐに分かるはずだ。
 俺を陰から見つめているのは、セシルではない。
「俺は……少し眠れなくてな」
「ああ、それならセシルと同じだな。気持ちが昂って眠れねえんじゃねえの?」
「そうかもしれない。……セシルもそうなのか?」
 セシルは静かに頷いた。どこか遠い目をしている。
「気が急いて仕方がないんだ。焦りだけでは前に進めないということは分かっている、それなのに……どうしても、落ち着いて眠っていられない気分になってしまう。体力を回復して明日に向かうことこそが最善だと分かっているのに」
 戦いに戦いを重ねていると、心が磨り減ってしまう。セシルの場合は、意識を失っていた間に迷惑をかけてしまっていた、という焦りもあるのかもしれない。
「ったく、セシルはほんと真面目だな」
「……そう、かな?」
「そうだな。少なくとも、エッジよりは真面目だ」
「カインてめえ!」
 俺が頷くと、エッジが掴みかかってきた。喉元に手をかけられる。
 と言っても、激しいものではない。これはじゃれているだけなのだ、と経験から分かっていた。
 エッジは、緑色の瞳をしている。まるで若草のような色だ、と思った。年齢を重ねても、エッジの瞳の表面には子どもの色が残っていた。
 あの視線とは似ても似つかない。
 エッジもまた、あの視線の主ではなさそうだった。
「ちょ、ちょっと二人とも!」
「……ん?」
 慌てて止めようとするセシルをちらと見てから、エッジはすっと立ち上がった。
 突然視界が暗くなり、体があたたかくなる。何事かと思いながら暗闇から這い出した。
 毛布だ。大きな毛布が、俺とセシルの上に掛けられていた。エッジが自分の体に掛けていた見張り用の物だ。
「カイン。おめぇの体、めちゃくちゃ冷えてんぞ。セシルもだろ?」
 言いつつ、エッジはセシルの額を指先で弾いた。「冷てえ」と低く言う。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、エッジの行動は優しかった。
「ありがとう、エッジ」
 セシルは毛布を手繰り寄せ、エッジに礼を言った。
「すまない、ありがとう」
 俺が素直に礼を言うと、エッジはばつが悪そうに視線を逸らした。
「……俺も入る」
 俺とセシルの間に体を割り込ませ、エッジは子どもじみた顔で笑った。あたたかいが、さすがに狭い。
「引っ付いて毛布の中に……なんて、まるでガキみてえだな」
「そうだね。子どもの頃はよくこうやってカインと遊んだ」
「懐かしいな。子どもの頃はともかく、大人の男同士で身を寄せ合うことなんて、普段はあまり――――」
――――大人の男同士で身を寄せ合うことなんて、普段はあまりない。
 言おうとした瞬間、ふと、何かが頭の中を過ぎって消えていった。
 一体何だ? 何かを忘れているような。
「……カイン、おめぇ顔色悪いぞ。早く休んだらどうだ?」
「本当だ。大丈夫? 真っ青だ」
 この感覚は何だ? 何か大切なものがあったはずなのに。
「セシル、エッジ、気を遣わせて悪かった。……多分疲れが出たんだろう。今日はもう眠る」
「見張りは俺がしっかりやっとくから、おめぇは安心してぐっすり寝とけ」
「おやすみ、カイン」
 二人に軽く手を振って、テントに向かった。

 それから、俺は色々な人と話をした。
 久方振りに会う人もいれば、初めて会う人もいる。皆、青き星の行末を憂いていた。不安で仕方がないのに、皆は前を向いている。諦めている者など、一人もいない。その姿勢に励まされ、自分も頑張らなければと改めて思う。
 だがいくら探しても、あの視線の主は未だ見つからないままだった。

 喉の渇きを覚え、深夜、目を覚ました。
 やや離れた所から、竪琴の音が聴こえてくる。水分を摂って、テントを抜け出した。誘われ、音の方へ向かう。
「――――カイン?」
 歌うような声。そうだ。今日の見張りはギルバートだった。竪琴を手に、ギルバートはすっと立ち上がる。
「どうしたんだい? こんな夜更けに」
「喉が渇いて……それで、目が覚めたんだ」
「……そう」
 静寂が、辺りを支配する。何か話さなければと思った瞬間、竪琴の音色が優しく響いた。
 それは、切ない旋律だった。ギルバートの手元をじっと見つめる。指先は繊細な動きで弦を弾き、音を放っていた。
「ん……?」
 ギルバートの指先に自分以外の人間の眼差しが向けられているような気がして、テントの方を見た。女性用のテントの中から、ひょっこりと誰かが顔を出している。
――――ハル?
 あんな中途半端な格好で、彼女は何をしているのだろう。正直――――顔だけ出したその姿は、酷く間抜けだった。彼女は俺の視線に気づくことなく、ギルバートを一生懸命見つめ続けている。
 演奏が終わり、俺は小さく拍手をした。
「あまり落ち着いて聴いたことがなかったんだが……竪琴の音色を聴いていると、何だか不思議な気分になるものなんだな。ふわふわとしてとても心地良い」
 まるで、水の中をたゆたうような。
 音色が響いている時に瞼を閉じたら、とろとろと眠りこけてしまいそうだった。
「ふふ、何だか照れるね。……ありがとう、嬉しいよ」
「こちらこそありがとう。素晴らしい演奏だった」
 照れくさそうに笑うギルバートを見て、ローザとリディアのことを思い出した。
「……カイン、何かあったの?」
 落胆が、顔に滲み出ていたらしい。
 未だ、食料らしい食料は見つかっていない。肉は魔物の肉でどうにかなるのだが、野菜や果物となると難しいのが現状だ。
 ローザとリディアの悩みを伝えると、ギルバートは俯き、うーんと唸った。
「何一つ全く生えていない、石や砂しかない、ということはないと思うんだ。暗くてじめじめした場所を探せば、きのこが生えているかもしれない」
「なるほど、きのこか。確かにそれならありそうだ」
「だが、きのこには危険なものもある。それを見分ける方法は、僕には…………いや、ハルなら分かるかもしれないな。早速、明日訊いてみるよ」
 俺は、ちらと女性用テントの方を盗み見た。相変わらず、ハルはテントからにょっきりと顔を出したままだ。それこそ、まるできのこのようだった。
「ギルバート。ハルならほら、そこに」
「えっ?」
 ギルバートがテントの方を見た途端、ハルの顔がテントの奥に引っ込んだ。だが、ばれてしまっていることにすぐ気づいたらしい。気まずそうな顔で、ハルはテントから出てきた。
「申し訳ございません、陛下……。陛下が一人で見張りをなさると聞いて、心配になって居ても立ってもいられなくなって」
 乱れた髪を直しながら言うハルに、ギルバートは「相変わらず、ハルは心配症だな」と微笑みかけた。
 緑の瞳。穏やかな風の様に静かな瞳だ。視線の主は、彼でもなかった。おそらく、ハルでもない。
「ハル。きのこについて、どんなことでもいいから教えて欲しい」
 ギルバートの言葉に、ハルはこくりと頷いた。

 その後、ハルは手持ちの書物を調べ、きのこについて詳しく教えてくれた。どんなものが食べられてどんなものが食べられないのか、どういう場所に生えているのか。次の日の朝には、きのこの絵が描かれている紙まで渡してくれた。
 あとは、きのこを探すだけだ。

 昼は、月の最下層を目指し進んでいる。きのこ捜索なんてしている時間はない。だから、俺がきのこを探し始めたのはその日の夜中のことだった。
 夜中にテントを抜け出すと、ゴルベーザに出会った。今日の見張りはゴルベーザだ。ゴルベーザと少し話をしてから、急いできのこを探しに出かけた。
 ゴルベーザと話すのは久しぶりで――――そういえば、まともに会話らしい会話をしていなかったということに今初めて気がついた。何を話せば良いか分からなかったというのもあるかもしれない。ゴルベーザも同じなのか、俺と目を合わせようとはしなかった。
 しばらく探索していると洞窟のような奥まった場所に出て、ありがたいことに、その場所には食べられるきのこがたくさん生えていた。
「これくらいか? いや、もう少し……」
 見つけたきのこを袋に入れる。人数のことを考えると、もっと多くのきのこを見つけておきたかった。しかし、袋にはもうこれ以上入りそうもない。
 一度テントに戻り、別の袋を取ってこよう。
 立ち上がり、後ろを振り返る。
「な……っ!」
 巨大な魔物――――水晶竜――――が、音もなく入り口を塞いでいた。慌てて槍を構える。拾ったばかりのきのこがばらばらと散らばった。
 何故気づかなかったのだろう、と疑問に思ったが、その原因はすぐに分かった。水晶竜の気配は鉱物のそれで、魔物の気配とは似ても似つかなかった。
 もっと警戒するべきだった、と思ってももう遅い。今は、この竜を倒すことに専念しなければならない。
 地面を蹴った。水晶竜がこちらを向き、鳴く。と同時に、激しい閃光に見舞われた。
「う、ぐっ!」
 熱くつんざくような何かに体を焼かれ、地面に転がった。
 もう一度跳躍し、槍の切っ先を水晶竜の輝く体に突き立てる。美しい竜は痛みに激しく身を捩った。そのあまりの激しさに跳ね飛ばされ、岩に体をぶつけてしまう。
 背に激痛が走った。よろめきながら立ち上がる。水晶竜の顔を見上げた。
 本当に、美しい竜だった。別の形で出会えていたら、と竜と戦う度考えてしまう。光る鱗のその一つ一つがまるで宝石のようだと思った。乳白色の体から流れる血が、ぼたぼたと滴って地面に血溜まりを作っていく。
 諦めることなく、また跳んだ。攻撃は効いている。何度か繰り返していれば勝てるはずだ。
 途端、水晶竜の体がのたうった。
「な……っ!」
 長い体が、絡みつく。
「うっ!」
 そのまま、俺の体を絞め上げた。限界を訴え、骨が軋む。
「ひっ、う……っ」
 体のどこかがキチキチと鳴った。息ができない。肺を、何もかもを握り潰されている。浅く浅く呼吸してどうにか体に酸素を送り込もうとするのだけれど、締め上げる強さはどんどん強くなっていく。
 視界が霞んできた。血流が止まっているせいで、手足の先が痺れてくる。魔法を使おうにも、もうどうにもならない。
 目の前が白いような黒いような、それすらもう分からない。瞼が重かった。このまま死ぬなんてごめんだと思うのに、それなのに。
「あ……」
 意識が俺の中を抜け出て離れていこうとしたその瞬間、爆発音が耳に届いた。水晶竜の力が抜け、体が落下する。地面に叩きつけられる――――そう覚悟したのに、衝撃はいつまでたってもやってこなかった。
 誰かが、俺の名前を呼んでいる。あたたかい腕が、俺を強く抱きしめている。
 俺は、この腕を知っている――――?
 閉じようとする瞼を叱咤して、エスナを唱えた。
 指先に力が戻ってくる。視界に入ってきた黒い布をきつく掴む。よくよく見てみれば掴んだそれはマントで、更に見上げるとマントの主の顔が目に飛び込んできた。
「……ゴル、ベーザ……」
 ゴルベーザは俺の体を抱いたまま、水晶竜に魔法攻撃を繰り返している。俺も加勢しなければ。
「すまない、ありがとう……」
 よろよろしながら、ゴルベーザの腕を離れた。
 回復魔法で傷を癒し、そのまま跳ぶ。水晶竜の背に槍が突き刺さった。それを引き抜き、攻撃を避ける。巻きつかれるのはもうこりごりだった。
 水晶竜の尾が、ゴルベーザを襲う。回復魔法を唱えようとした俺に向かって、ゴルベーザが「回復は後だ!」と大きく叫んだ。
「回復は後にして、先に倒すことを考えるんだ!」
 確かに、水晶竜の方もかなり疲弊してきているはずだ。頷き、攻撃を繰り返す。
 もう少し、というところで、水晶竜が何かを噴いた。
 吹雪だ。
 体力のない魔物の吹雪なんてたかが知れている。そう思っていたのに、現実は違っていた。水晶竜は、最後の力を振り絞ったらしい。跳ぼうと構えていた俺の体は、水晶竜の真近くにある。
 冷たい痛みが、肌を刺した。
「カイン!!」
 声と共に抱きしめられた。何も見えない。俺は、ゴルベーザに守られていた。ゴルベーザは、背で吹雪を受け続ける。
「……っ! ゴルベーザ、駄目だ、離れ……っ」
 ゴルベーザの体が徐々に冷たくなっていく。押しのけようとするのに、上手くいかない。
 何かが倒れる音がして、それと同時に水晶竜の攻撃が止んだ。力を使い果たしたのだ。良かった、これで終わる。
「ゴルベーザ! 早く手当て……を……」
 俺を守っていた大きな体が、だらりと力を失っている。

 水晶竜を倒すことはできたが、ゴルベーザは目を閉じたままだ。その上、洞窟の入り口が閉まってしまってはどうしようもない。
 ゴルベーザが倒れた後、突然、扉のような動きで岩が入り口を塞ぎ始めたのだ。ゴルベーザを抱えて出ようとした時にはもう遅く、岩で完全に塞がれた後だった。
 倒れてしまったゴルベーザに、そっと触れる。「すまない」と声をかけつつ頬に指を這わせると、そこはまるで氷の彫刻のように冷えきっていた。
 エスナと回復魔法を唱える。それでも体は冷えたままだ。
 どうすればいいのだろう。
 少しでも熱を伝えたくて、ゴルベーザの体を抱きしめた。鎧は冷たいかもしれないと思い、胸当てや篭手を外す。氷を抱きしめているような気分だった。
「ゴルベーザ、目を覚ましてくれ……」
 まるで死人のようだ。
 ここには、火を起こす道具もない。俺にあるのはこの身一つだけだった。
「ゴルベーザ……」
 抱きしめながら、辺りを見渡した。他に出口はないだろうか、何か逃げる術はないだろうか、と。だが、洞窟内は静寂を保ったままだ。テレポも効かない。岩を無理やり壊せば、とも思ったが、こちらに向かって崩れてこないとも限らない。黒魔法があればまた違うのだろうが、俺は白魔法しか使えなかった。
 必死でゴルベーザの肌を擦り、声をかける。目覚めて欲しいという気持ちを込めて、祈るようにその背を抱く。
 そのうち、頭の端から眠気に襲われ始めた。眠い。まるで魔法をかけられているかのようだ。
 以前もこんなことがあったような気がする。
 瞼を閉じると、極彩色が広がった。
 茶色い髪の少年が、寂しそうに微笑んでいた。
 パズルが完成するかのように、欠けていた記憶達が戻り始める。ミストで――――ゾットの塔で――――それから、ゴルベーザの部屋で。一体何があったのか、俺が何を思っていたのか何を感じていたのか。何を見て、何を望んで――――何を忘れてしまったのか。
 あの時のゴルベーザが、何を夢見ていたのか。
「あ、あ……あ……っ!」
 堰を切ったように、記憶が溢れ出してくる。溢れて溢れて止まらない。
 どうして忘れていたんだろう。
 ゴルベーザの顔を見た。青白い顔が心を刺す。
「俺、は……」
 十数年前の俺は、ゴルベーザの腕を嫌だと思っていなかった。不器用に抱きしめてくる男に口づけられることも、抱かれることでさえ、嫌ではなかった。
 だが、ゴルベーザ自身は俺を疎ましく思っていたのかもしれない。部下らしくない態度で勝手に彼の私室を片づけ、彼自身も知らない彼の過去を勝手に知り、彼の心を不必要に掻き乱したのだから。
 ゴルベーザは、俺を『幸せの象徴』だと言った。彼の言葉を、一つ一つ辿って思い出す。

『おそらく私は、お前の笑顔をどこかで見たことがあるのだろう。だから、お前の中に見える『幸せ』を欲しいと思ってしまう。お前の笑顔を欲しいと思ってしまう。クリスタルを集めるという願いは、一人でも叶えることができる。だがこの願いは……』

 ゴルベーザが俺の中に見た『幸せ』は、俺の中にある過去の風景だった。今の俺は、何も持っていない。ゴルベーザが俺の中に夢見たあたたかい家庭も、家族も、今の俺には到底手に入れられないものなのだ。ゴルベーザに分けてあげられるような幸せなんて、持ち合わせていない。
俺は、ゴルベーザに幸せを分けてやりたかったんだろうか。『笑顔を見せてくれ』と祈るように言うこの男に、何を望んでいたんだろう。
「……う……」
 視界が滲んだ。何もかもが遅すぎたのではないかと思った。分け与えるもののない俺を、ゴルベーザは必要としないだろう。何より、今のゴルベーザは幸せなはずだ。セシルと――――家族と和解し、その関係と絆は以前のものよりもずっと強固なものになった。
 そう、ゴルベーザの願いはもう叶っているのだ。彼はもう一人きりなんかじゃない。俺のことなど必要ない。
 必要、ない。
 涙が溢れた。きつく瞼を閉じると、更にぼろぼろと溢れてくる。俺はゴルベーザに必要とされたかったのだ、と思った。今まで思い出しもしなかったくせに、何を都合の良いことを考えているのだろう。
 縋りついていた身を離し、ゴルベーザの顔を覗き込んだ。鼻先から涙が滴る。ゴルベーザの瞼に、雫が落ちた。
「………………カイン…………?」
 瞼の向こうにある薄紫の瞳を見たら、もう駄目だった。目覚めてくれて良かったという気持ちと胸の疼きが綯い交ぜになって、溢れてしまう。
「カイン、どうしたんだ……どこか痛むのか……?」
 幼い頃からゼムスに支配されクリスタルだけを求めていた彼が、ようやっと幸せを手に入れたというのに。彼自身が望み、焦れ、叶えたいと言っていた夢が、実現したというのに。どうして涙が溢れるんだろう。何故、心から「良かった」と思ってやれないのだろう。
 俺の心に渦巻いているのは、憎しみや嫉妬などではなかった。洗脳されていた時に自覚した、あの黒い感情とはまるで違う。
 俺は、寂しいのだ。切なくて堪らない。悲しい。胸の辺りが痛み、心臓が高鳴り悲鳴をあげる。
 これは失恋だ。
 馬鹿な話だ。恋を自覚した直後に失恋するだなんて。
 ゴルベーザの指先が、涙を拭った。その優しさに思わず勘違いしてしまいそうになる。愛されているような心持ちになる。ゴルベーザがあの頃と同じ気持ちでいてくれているのではないかと、夢を見そうになってしまう。
「カイン……?」
 痛いのは胸だ、なんて言えなかった。だから、涙を拭って笑ってみせる。
「お前が目覚めて……ほっとしたんだ」
 嘘じゃない。それは本当のことだった。
「ありがとう、ゴルベーザ」
 俺の声は震えていないだろうか。きちんと笑顔を作れているか? 『仲間』として振る舞うことができているだろうか。
「ああ、気にするな。お前が無事で良かった」
 言って、ゴルベーザは俺から目を逸らした。

◆◆◆

 夜中に一人で出掛けたカインのことが気になって、エッジに見張りを代わってもらい、彼の後を追いかけた。水晶竜の姿を見た瞬間、すぐに追いかければ良かったと後悔した。少しでも遅れていたら、彼は死んでしまっていただろう。
 彼の腕の中で目覚めた時は驚いた。泣く彼にも驚いたが、彼に涙を流してもらえる程度には『仲間』になれているのだと考えると、素直に嬉しかった。
 もっと触れたくて、その瞳に映りたくて、その笑顔を見ていたくて。けれどそんなことを告げても、彼はただ戸惑うだけだろう。
 カインはあのことを覚えていない。私が忘れさせたからだ。
 ゼムスに洗脳されていた私が、洗脳されるがままカインを駒として洗脳し、操った――――少なくとも、カインはそう考えているはずだ。彼は何も知らない。私の気持ちも、あの時何があったのかも。 
 困らせたくなくて、青く綺麗な瞳から目を逸らした。
 胸を襲うのは、諦めにも似た切ない何かだ。

 その後、私達はエッジの力で洞窟から出ることができた。私達を心配して追いかけてきてくれたらしい。
「いい年して一人で無茶すんのはやめろ」と言うエッジに、カインは「すまない」と頭を下げる。すっかり肩を落とした姿にエッジは慌て、喧嘩に発展することなく二人の会話は終了してしまった。
 俯いていたカインが顔を上げ、私の方を見ようとする。
 その視線からまた目を逸らし、「戻るぞ」と踵を返した。

 カインが採ってきたきのこは甘みがあって美味しかった。ローザとリディアは「嬉しいけど、無茶はしないで」とカインを気遣って彼に寄り添う。
 カインの周りにはきらきらとした空気が舞っていた。これが彼本来の色なのだ、と再確認する。
 彼には陽の光がよく似合っていた。十数年前からそうだ。彼に闇は似合わない。
 私の身は闇そのものだ。私は、彼に相応しくない。隣にいることですら申し訳なくなってしまう。
 いや、相応しいも何も、私は月に帰るのだから。そんな私が彼に一方的な気持ちをぶちまけて、一体何になるというのだろう。
 そうして私達は深層部を進み、目的を達成した。世界は平和を取り戻し、カインもまた、あたたかい日常を取り戻すことだろう。
 青き星は美しく輝いている。私はこれら全てを消そうとしていたのだ。操られていたとはいえ、何ということをしようとしていたのだろう。
 あの日から、私とカインは殆ど言葉を交わしていない。
 そうだ、これでいい。このまま私は月へ帰り、今までと同じように思い出だけを抱えて生きていけば、それで。
「ゴルベーザさん!」
 セオドアが駆けて来て、微笑んだ。
「食事の用意ができました。冷めないうちに行きましょう!」
 ここはバロン城の一室だ。
 明日月へ向けて出発すると言った私に、セシルが用意してくれた部屋だった。
 本当はすぐに月へ向かうつもりだったのだが、「そんな疲れきった体では駄目です」とセシルに咎められ、一晩だけ留まることにしたのだった。
 廊下に出て歩いていると、
「ゴルベーザさん、今夜の晩ご飯は特別なんですよ」
 歌うようにセオドアが言った。
「なんと、今日の晩ご飯はカインさんが作ってくれたんです! 正確には、カインさんと母さんが、ですが」
 驚いた。食事を作るカイン、というものが今ひとつ上手く想像できない。そんな考えが顔に出ていたのだろう。セオドアは、「僕も不思議なんです」と首を傾げた。
「カインさんは……あまり料理をするのが好きではないと思うんです。僕と二人で旅をしていた時も、何かの丸焼きとか何かの天日干しとか、そういうのばっかりでしたから……」
 そんなカインさんが何故、とセオドアは思い悩んでいる。
「カインさんはどこかから古いメモを持ってきて、母さんに手伝ってもらいながら、何かを一生懸命作っていました。実は、僕もまだ何の料理なのか――――あっ、着きました、ここです!」
 セオドアが足を止めたのは、セシルとローザとセオドア、三人の部屋の前だった。
「ええと……昼食べた場所は、兵士の皆さんが居て少し堅苦しかったので。もっと楽しく食べられたらいいなと思って、この部屋で食べようって僕が父さんに提案しました」
 確かに、兵に見つめられながらする食事は少し息が苦しかった。セオドアの気遣いを嬉しく思い、そのふわふわとした頭を優しく撫でる。照れ笑いするセオドアの顔が、セシルによく似ていると思った。
 扉を開く。
 思いがけない匂いが鼻に届き、胸を焼いた。
「わあ、シチューだ!」
 破顔したセオドアが、私の横をすり抜けて慌ただしく席についた。他の三人も皆、席についている。
 懐かしい香りだった。
 部屋を照らしているのは、橙色の優しい灯りだ。漂っているのは甘く懐かしいシチューの香り。それから、バターとミルクのいいにおいがした。
 幼い頃。まだゾットの塔に来て間もなかったあの頃。
 町に降りてきた私は、このにおいに引き寄せられて一つの窓を覗き込んだのだった。虚しくなるだけだと知っていたのに、カーテンから漏れ出ていた橙色の灯りに抗うことができなかった。
 幸せそうに笑い合う家族。その中に、このにおいがあった。この灯りがあった。自分は決してこの灯りの中には入れない、そう思っていた。
「ゴルベーザさん!」
 セオドアが笑いながら、私に向けて手を振った。大きな青い目が、私を呼ぶ。
「早く食べましょう。僕、お腹ペコペコです」
「ほら、兄さん早く! 冷めます!」
 呆然としている私に焦れたのか、セシルが駆けて来て私の背をぐいぐいと押した。半ば強引に、椅子に座らされる。
 テーブルの正面には、セシル、セオドア、ローザが並んでいる。隣がカインだった。胸が高鳴って、隣を見ることができない。
 早く食べたくて堪らずそわそわしているセオドアを見ながら、ローザはくすくすと嬉しそうに言った。
「さあ早く食べましょう。今日はカインが一緒に作ってくれたのよ」 
 まるで夢のようだった。
 あの橙色とあのにおいの中に、自分がいられるだなんて。
 シチューやパンは美味しくてあたたかかった。思い出すだけで、胸が切なく軋む。
 食事を終え客室に戻ろうとした私の腕を、誰かがきつく掴んだ。
「……ゴルベーザ」
「カイン?」
 俯きながら、絞りだすように言う。
「突然掴んだりして、すまない。あの……今から俺の部屋に来てくれないか」
 カインは何かに怯えている。私の腕から離れたその手は、何故か微かに震えていた。
「ああ、別に構わんが……」
「良かった」
 カインの手がぱっと離れる。掴まれていたその場所が痺れているように思えた。
「じゃあ、ついて来てくれ」
 自室へと案内しようとする彼の後を追う。
 真っ直ぐな背中だった。いつまでも見ていたくなるほど凛としていて、それなのに、ずっと見つめていると胸が抉られるように痛むのだ。
 もう会えなくなる。この背を陰から見つめていることも叶わなくなる。さっき見たあの光景、共にしたあの夕食が、まるでまぼろしのように感じられた。
「ゴルベーザ」
 扉の前に立ったカインが、泣き笑いのような表情を浮かべている。何故そんな顔をしているのだろうと不思議に思っていると、手を引いて部屋の中へ引き摺り込まれた。
「カイン……!?」
 扉が閉じられる。私の手を握ったまま、カインは黙りこくってしまった。
 彼が生成り色の私服を着ているということに、真正面から眺めて初めて気がついた。髪を纏めている青いリボンが、青い瞳とよく合っている。項垂れたその頭に本当は触れたくて堪らない。
 私は、金の髪の手触りをよく覚えていた。
「……ゴルベーザ……俺は……」
 私を見上げるその瞳が、潤んでいる。潤んだ瞳には、私の顔が映っていた。目を逸らそうと思うのに、心をがんじがらめにされて動けない。
「俺、は……っ」
 彼の声は微かだ。それなのに、刃物のように尖って私の胸をちくりちくりと突き刺し、傷めつける。
「俺は、お前を許さない……!」
 眦を、涙が伝う。
 カインは私を恨んでいたのか。恨まれて当然だ。恨まれぬはずがない。私は彼に酷いことをしてきたのだから。
 当然だとは分かっている。だが、目の前が真っ暗になった。カインに恨まれる――――それは、想像していた以上に衝撃的なことだったようだ。
「……すまない」
 ようやく、それだけ口にする。
「すまない、じゃないっ! どうして俺の記憶を消したりしたんだ! どうして! どうして何も言わないんだ! どうし、て……っ!」
 私の胸元に縋りつき、
「どうして、お前は俺をあんな目で見るんだ……」
 怒涛のように告げられた言葉たちが、頭の中で意味を成さずにぐるぐると回った。
 あんな目? それより、どうしてカインは記憶の事を知っているのだろう。まさか、全て思い出しているということなのか。何もかもを思い出していながら、カインは私に食事を振舞ってくれたのか。私の身を案じ、私の為に涙を流してくれたのか。
 申し訳なくて、消え失せてしまいたくなった。彼は、私がしでかしたことを全て知っているのだ。そう、彼を手酷く抱いたことも、余すこと無く知っている。
「カイ、ン……」
 カインの体を引き剥がそうと思うのに、体がうまく動かない。私の胸に顔を埋めたまま、カインは「思い出したんだ」と呻きに似た声で言った。
「俺は、俺は覚えているんだ。ルビカンテとともにお前の部屋を掃除したことも、お前がどんな気持ちで俺を洗脳したのかも、お前の過去も……。お前が、俺を抱いたことも」
「私の、過去……?」
「……ああ。俺は、お前と眠る度夢を見た。泣き喚く赤ん坊を抱いて呆然としているお前を、ただ見つめ続けるだけの夢。頭が痛い、と泣くお前を、ただ見つめ続けるだけの夢。父と母の間に立って幸せそうに微笑むお前を、ただ見つめ続けるだけの夢。……全部夢だ。だがお前にとって、これは単なる夢ではないはずなんだ」
 体が震えた。そして、カインがあのシチューを作ってくれた、その意味を知った。あれは――――あの家族は、カインの家族だったのか。
「あのシチューは、俺の母が作っていたものだ。レシピが残っていたから、ローザの手を借りて再現した。俺がお前にしてやれるのは、これくらいのことだと思ったから……俺がお前にやれるものなんて、何一つないと思ったから」
「カイン……?」
「お前は、お前は何も言ってくれない。俺の記憶を消して、仲間として振舞って。俺は覚えていたかったのに。お前の全てを、俺が見たこと聞いたこと感じたことを、忘れたくなんてなかったのに」
 何故だ。カインは何故、あの『悪夢のような日々』を覚えていたいだなんて言うのだろう。彼は私に開放されたくなかった、ということなのか。
 カインは、全ての記憶を抱えて私の傍にいたかった、ということなのか――――?
「俺はお前の視線に気づいて、それからその視線を探していたんだ。最初はお前じゃないと思った。でも、記憶を取り戻して――――それからさっき食事を共にして、確信した。あの視線を俺に向けていたのはお前だ。やわらかくて切なくて、どこかが痛むような……何かを、諦めているかのような」
 私から離れ一歩下がると、カインは自らの胸元に手をかけた。小さなボタンが、一つ一つ外されていく。
「……好きなんだ。ゴルベーザ、俺はお前のことが好きだ。だから、お前が諦める必要なんてない。……お前は? お前は、俺のことが嫌いなのか?」
「な……っ! 嫌いだなんて、思うわけがないだろう!」
「……思っても思わなくても、口にしなければ伝わらないだろう? だから俺は言う。お前が好きだ。お前と共にいたい。お前の傍で眠り、共に食事をして、お前と幸せになりたい」
 シャツが、床に落ちた。
「お前は? お前の気持ちを聞かせて欲しい」
 言って、カインはベッドに向かう。慌てて後を追うと、カインは私の体にのしかかってきた。
 バランスを崩してベッドに倒れ込んだ私の上に、シャツを脱ぎ捨てたカインの姿があった。強気な行動とは裏腹に、カインの瞳は弱気そのものだった。
 彼の流れるような金糸を眺めながら、考える。
 私は明日、月に戻る。戻った時何が起こるのか、月がどうなっているのか。私が無事でいられる保証などどこにもない。カインの夢を叶えられない可能性の方が高いだろう。
 それでも、カインの真っ直ぐな瞳に正直に答えねばならないと思った。
「私も、お前のことが好きだ。お前のことをいとおしいと思っているから……だから、私はお前の記憶を消した。私の腕から開放されることこそが、お前の幸せなのだと思っていた。だがそれは間違いだったのだな。私はお前の気持ちを聞こうとしなかった。お前の気持ちを、心を、勝手に決めつけて、本当のお前を探そうともしなかった。お前に再会できただけで満足なのだと、自分の気持ちすら偽っていた……」
「ゴルベーザ……」
 カインの手が、私の頬を撫でた。
「俺はお前を許さない。勝手に何もかもを決めつけたお前を、許してなんかやらない」
 冷たい指先。
 カインは微笑んでいる。
「……月へ行って、フースーヤ達を救って、それからまた、この青き星に帰って来てくれ。申し訳ない、償いたいと思うなら、俺の傍に戻ってきて欲しい。俺はお前を諦めたくない。今日で終わりだなんて……もう二度と会えないだなんて、そんなのは嫌なんだ。『好きです、はいさようなら』なんて、そんなのは、そんなの、は………」
 カインは本気で『許さない』と口にしているわけではなさそうだった。彼は、必死で口実を探しているのだ。私が戻ってくる言葉を、必死で探している。
 思わず笑みが零れた。彼にこんな一面があるなんて。
 笑った顔もいとおしかったが、泣き顔もいとおしい。怒った顔も魅力的で、私を引きとめようと必死になっているその思い悩んだ表情もいとおしかった。
 意地でも帰って来なければ、と思う。
 帰って来て、彼の新たな表情を発見したい。
 思い出と共に生きるのではなく、未来の彼と共に生きて、幸福を得たいと思った。
「分かった。この星に帰ってこよう。お前に詫びねばならないし、それに――――」
 唇を撫でると、カインの体がびくりと硬直した。
「――――今夜一度抱いたくらいでは、とてもおさまりそうにないからな」
「えっ、な、な……っ!」
 逃れようとする体を、きつく抱きしめる。「私は幸せ者だ」と囁いて、唇に唇を重ねた。




End


Story

ゴルカイ