燦々と照りつける太陽の中、ただただ、その煌めく蜂蜜色から目を逸らせずにいた。
乾いた風に撫でられているというのに、それは柔らかく靡き、視界を支配していく。
バルコニーに立つその生き物は、今まで見てきたどんなものより綺麗なものに思えた。
「この国のお世継ぎには、代々体が弱い方が多くて」
隣に居る着飾った女が、口元に手を添えながら男に囁いている。
「ほら、見て、あの細い腕、白い肌」
「…可哀想に、どうにか七歳まで生きられたとはいえ、きっとあの子も…」
「あの子がいなくなれば…うちの息子が……」
遠く高いバルコニーに居る、蜂蜜色の頭がふるりと揺れる。
緊張しているのだ。自分には痛いほどよく分かる。
こんなに多くの瞳に見つめられ、恐怖を感じない筈がない。
蜂蜜色が広場を見下ろしながら、小さな声で何かを話し始める。
でも、小さすぎて聞こえない。
隣にいるお付きの者が蜂蜜色に何事かを囁くが、やっぱり声は大きくならない。
おめぇ、何日も前から練習してたんじゃないのか。
少なくとも自分はそうだった。
頑張れ、練習通りにすればいいんだ。
しかし、いつまでたってもまともに話せない蜂蜜色に焦れたのか、周りの人々がざわつきだす。
「まあ、本当に駄目な子ね」
隣に居る女が、笑った。
頭がかあと熱くなる。
おめぇにあいつの何が分かる。
体が勝手に動き、甲高い悲鳴が辺りに響く。
気付いたときには、女はドレスのスカート部分を失った格好で立ちすくんでいた。
真っ赤な顔で狼狽えて、下半身を必死で隠そうとしている。
しばらくその格好でいるといい。口元に笑みが浮かぶのを抑えることが出来ない。
盗み取ったスカートを遠くへと放り投げ、一点目掛けて走り出す。
背後で爺の叫び声が聞こえたが、気にしていられない。
たんたんたん、とリズミカルに、自分の靴が石段を叩く音がする。
「待ちなされ、若!」
うわ、もう追って来やがった。この前習った術を使うときが来たらしい。
「けむりだまっ!」
周囲に白煙が立ち込めたところで、再び一点目掛けて走り出す。
爺がむせている。ごめん、爺。
石段を上りきった場所には、兵士が二人立っていた。
武器を構える彼らの足の間をするりと潜り抜ける。
あともう少し。あともう少し。
扉を開くと、陽射しが強く体を照らした。
思いの外大きな音をたてて開いた扉に、バルコニーに居る人々の視線が集中する。
蜂蜜色も、驚いた顔でこちらを見ている。
突然の侵入者を取り押さえようと、兵士が腕を掴みにきた。渾身の力を込めてそれに抵抗する。
「蜂蜜色!」
よく考えてみたら、蜂蜜色の名前を自分は知らない。爺から聞いた気がするんだが…忘れた。
「俺の名前はエッジだ!おめぇの名前は!?」
『エッジ』という名前を聞き、兵士が強く掴んでいた手を離す。
蜂蜜色は忙しなく瞬きすると、僕の名前?と呟いた。
「僕の名前は、ギルバート・クリス・フォン・ミューアだよ」
小さな声だった。だが、その声に心乱される。優しくて高い、女の子みたいな声だと思った。
細い肩、低い背。
そっと、その小さな手を握り締める。
ギルバートは掴んだ手を振り払おうとする。
だが更に強く両手で包み込んでやると、困り顔で微笑した。
「怖いんだろ?」
「……うん」
「でかい声で挨拶しないと、永遠に終わんねえぞ」
「……分かってる」
じわりとギルバートの目尻に涙が浮かんだ。
「怖いなら、挨拶の間、俺がこうやって手を繋いでいてやる」
「エッジ…」
「嫌なことを言うやつがいるなら、俺がぶちのめしてきてやる」
蜂蜜色の髪が揺れた。
「だからこんなのさっさと終わらせて、一緒に遊ぼうぜ!」
切れ長の目が一旦見開かれ、すうと細められる。そうして、ギルバートは満面の笑みを浮かべた。
心臓が煩く鳴る。胸が痛くて堪らなくなった。
「ありがとう、エッジ」
身体中が痺れた。
「僕、頑張るよ!」
細い体躯を引き寄せて、抱き締める。
ふふ、とギルバートは耳元で笑った。
●
ギルバートが生きている。
エッジはセシルの言葉を、信じられない気持ちで聞いていた。
ダムシアンが赤い翼に襲われ壊滅状態に陥った、と知ったのはエブラーナの民を洞窟に避難させていた時だった。
助けに行きたいと思いはしたが、あの時は自分の国ことで精一杯だった為、それもかなわなかった。
自分に出来たのは、ギルバートが逃れていてくれるようただ祈ることだけだった。
記憶の中のギルバートは痩せぎすな少女のように薄っぺらい体で、運動も出来ない少年のまま、何一つ変わっていない。
小さな声で話し、困ったような微笑を浮かべる癖があったことを思い出す。
最後に会ったのは自分が十代の頃だった。もう随分会っていない。
「…聞いてる?エッジ」
肩を揺すぶられ、現実に引き戻される。
セシルが困り顔でこちらを見つめていた。
「あー…わりい、ぼうっとしてた」
他に視線をやれば、辺りには空が広がっている。
ここが飛空艇の上だということを思い出し、エッジはセシルの方を再度見やった。
悲痛な面持ちで、彼は話す。
「ギルバートはね、家族も恋人も失ってしまって…辛いだろうに、それでも僕達と一緒に戦ってくれたんだ」
「…そうか」
ギルバートも自分と同じように家族を失ったのか。
その上、恋人まで。
民への被害だって、エブラーナの比ではないだろう。
「でも、海でリヴァイアサンに出会って、行方知れずになってしまって。トロイアで見つけた時には、酷く体調を崩していたんだ」
彼の体の弱さを思えば、当たり前のことかもしれない。
生きていてくれた。今はそれだけで充分だ。
体はこれから治していけばいい。
「サンキュ、セシル。急いでるってのに、トロイアへ寄ってくれて」
「幼なじみなら、心配になるのは当然だよ。僕もカインに何かあったら、やっぱり気になるだろうし」
その言葉に頷くと、エッジは遠くに見えるトロイアをじっと見つめた。
何年かぶりに目にしたギルバートの姿は、以前と変わらず儚げな雰囲気を纏ったままだった。
中性的な容姿に、蜂蜜色の髪。
しかし、何かが違う。
その何かを確かめたくて、エッジはベッドに腰掛けているギルバートの髪に手を伸ばした。
「エ、エッジッ」
驚いた表情のまま、ギルバートが身を硬くする。
セシル達も見てるってば、と今度は顔を赤らめた。
「ぼ、僕はもう大人だよ?そんな、子供の頃みたいに……!」
赤く染まった頬が昔の面影を色濃く残していて、堪らない気持ちになり、ギルバートを抱き寄せる。
「生きていてくれて、良かった」
「…エッジ」
抱く腕に力を込める。
ここにいる。幻じゃない。
「……大丈夫だよ、僕はこうして生きてる」
「…ああ」
首筋まで伸びたギルバートの髪に、エッジは鼻を擦り付けた。
「おめぇの、匂いだ…」
懐かしさに襲われ、涙が出そうになる。鼻の奥がつんと痛くなる感覚に、エッジはぎゅうと目を閉じた。
泣いてはいけないと自分に言い聞かせる。いい歳をした大人が泣くなんて情けない。
「エッジ、ねえ、エッジ」
躊躇うように、そっと背に手が回される。
扉の閉まる音が耳の端に入ってきた。
「ちゃんと泣きなよ」
手が、背中を撫でていく。
「皆、気を遣って僕らを二人きりにしてくれたよ?ここには僕しかいないし、僕、見た事も聞いた事も全部忘れるから」
だから、ちゃんと泣いてよ。我慢しないで。
ぎりぎりのところで溢れずにいた涙が、頬を伝う。一旦流れ出した涙を止める術など知らないエッジは、次々と新たな涙をギルバートの肩に落とした。
体を支えていられないほどの感情の波に揉まれ、ギルバートと共にベッドへと沈み込む。
「…親父と、お袋、が…っ」
「…うん」
「モンスターに変えられちまって…助けることができなくて……俺、俺……っ」
ギルバートは聞き取りにくいであろう自分の言葉を、優しく頷いて聞いていてくれた。
ああ、これではまるで昔と逆の立場だ。
「エッジ、僕もね、家族やアンナを守ることができなかった。多くの民も失って…ちっぽけで弱い僕なんて死んでしまえばいい、そう思ったこともあった」
弾かれたようにギルバートの顔を見る。緑色をした瞳は落ち着いた様子でこちらを見つめ返してきた。
「でもね、アンナが教えてくれたんだ…僕は僕が思っているほど弱くないって」
「ギルバート…」
「ずっと、アンナの言ってくれた、その言葉の意味を考えてた。僕はこうして体が弱くて力もない。リディアみたいに特別な魔法を使えるわけでもない。でも、僕にもできることがあるって気づいたんだ」
ふわりとギルバートが微笑んだ。
「君をこうして抱きしめて、話を聞くことくらいはできる」
いつの間にかエッジの涙は止んでいた。優しい笑顔に、今度は動悸が止まらなくなる。
「エッジはよく僕を慰めてくれたよね。泣いてばっかりの僕といっぱい遊んでくれた。今度は僕が返す番だ」
口元を覆う布を取り去る。引き寄せられるように、ギルバートの唇に、自らの唇を寄せた。
そうして今まさに唇が重なろうとした時。コンコン、とノックの音が部屋に響いた。
「…エッジ」
ドアの外から声が聞こえてくる。…リディアだ。
「あのね、晩御飯、持ってきたの。ギルバートの分も。私達、先に宿に行ってるから」
立ち上がろうとするギルバートを制して、扉に近づく。
「リディア」
扉を開くと、夕飯の載ったトレーを持ったリディアが微笑みを湛えて立っていた。
自分の目は真っ赤だろう。きっと、情けない顔をしている。それでも、彼女にならそれを見せてもいいような気がした。
「悪いな、わざわざ持ってこさせちまって」
「いいの。私が持って行きたいって言ったのよ」
言葉と共にトレーを受け取る。大きな目がエッジをじっと見つめた。
「エッジ」
「ん?」
「…ギルバートの前でなら、きちんと泣けるのね?」
花のように可愛らしい唇が、きゅっとつり上がった。
「ちゃんと泣いて、明日からまた頑張ろうね」
「リディア…」
敵わないな、と思う。リディアに見透かされていただなんて思いもしなかった。
「じゃあ、ギルバートにもよろしくね」
「…おう」
小さく手を振ってリディアが扉を閉める。
リディアにも分かってしまうほど、自分は酷い顔をしていたのだろうか。
考えながら部屋の奥に戻ると、ギルバートが椅子に腰掛けているところだった。
「ご飯、食べようか」
彼が、微笑みながら手招きをして言う。それに頷きながらテーブルにトレーを並べた。
席に着き、いただきます、と食べ始める。
正面の席では、ギルバートが同じようにスープに手をつけ始めたところだった。
スプーンが唇に当てられる様を見て、胸がどきりと高鳴る。
(どうして、俺はギルバートに…)
口付けようとしたんだろう。
「エッジ、冷めちゃうよ?」
「あ、ああ」
ギルバートの声に、現実に引き戻される。
考えても、頭が混乱するばかりで答えははっきりしなかった。
水の都というだけあって、水が澄んでいるのだろう。とても美味しい食事だった。
「エッジ、これからどうする?宿に行くのかい?」
「いや…それなんだけどさ。俺、もう少しお前と話がしたいなあと…思って。駄目か?」
グラスを口に運んでいたギルバートの手が止まる。
「僕は構わないよ。寧ろ大歓迎だ」
水を一口嚥下しながら、
「どういう意味があるのか知りたい」
「…え?」
「どうして君は僕に口付けようとしたの?その理由が、知りたい」
ギルバートが椅子から立ち上がる。
怪しまれて当然だ。自分が口付けようとしたことに、ギルバートが気が付かない筈がない。
懐かしい心持になって、いつの間にか心があの頃に戻っていた、と言ったら。ただただ、口付けたくなったのだと言ったら。
彼はどう思うだろうか。
真剣な眼差しがこちらを射抜き、蜂蜜色の髪が徐々に近づいてくる。
蜂蜜色の睫毛に縁取られた切れ長の目が閉じられ…
瞬間、唇を重ねられていた。
柔らかい感触に頭がかあっと熱くなる。
我慢がきかなくなって、頭を抱き寄せ、更に深く口腔を弄った。
「…ん、ぅ……っ」
艶を含んだその声に、頭の奥が痺れる。
名残惜しげに下唇を食んで唇を離すと、ギルバートの膝ががくりと崩れた。
「エッ……ジ…」
抱き止め、耳元に唇を寄せる。
「おめぇを初めて見たとき、俺はまだ九歳だった」
「……僕の七歳の誕生日だったね。覚えてるよ」
「おめぇは頑張って挨拶をしようとしててさ。でも、声が小さすぎて周りにさっぱり届かなくて」
「うん」
「俺が、おめぇの手をずっと握って……」
あの小さな手を、握って。
ギルバートの手をとり、そっと握り締めた。
そうして初めて、小さかった手が、自分とそう変わらなくなっていることに気づく。
「おめぇを見ていると胸が痛くて、ドキドキしてさ。…あの頃はあれが何なのかなんて分からなかったけど」
「…僕も、エッジを見ていると顔が熱くなって、ずっと、君と一緒に居たいなって…そればかり考えてた」
そうだ、あれは恋だった。
自分は確かに、ギルバートに恋をしていたんだ。
お互い、何も言わずにベッドの上に転がった。
何かに急かされるように口付け合う。息苦しさが襲ってきたが、それさえも心地いい、とエッジは思う。
体中を弄ると、ギルバートは甘い声をあげて反応する。衣服を脱がせていくと、白い裸体が暗闇に浮いた。
いつの間にか日が沈み、外は暗くなっていた。
ぎいぎいとベッドが軋み、服を脱ぐ衣擦れの音と熱い息だけが部屋に響く。
その中に、濡れた音が混じりだした。
ギルバートが下腹部に手を伸ばしてくる。エッジもほぼ同時に彼のものに触れていた。
「エ…ッジ……ッ」
上下に擦りあげる。それに応えてなのか、拙い動きでギルバートもゆるゆると手を動かし始めた。
「…エッジ…お願…いっ……キス…して……」
拒む理由などないエッジは、ギルバートの唇に喰らい付く。そうして淫靡な悲鳴を封じ込めると、彼と自らの猛りを片手に纏めて、欲望のままに愛撫した。
「ん、んんっ…う…っ」
口付けを解く瞬間、濡れた緑の瞳と視線が絡んだ。
彼の眦から涙が一筋流れ、零れ落ちていく。
(これは、恋愛感情なんだろうか?)
行為とは裏腹に、酷く穏やかな気持ちだった。
それはギルバートも同じなようで、唾液で濡れた彼の唇の端が、薄く笑んでいるのが分かる。
愛撫を再開すると、大好きだよ、というギルバートの声が耳に優しく響いてきた。
恋愛感情ではないかもしれない。
彼は、兄弟であり、友人であり、幼馴染であり、仲間であり…
どうしても一言では表せない、とても大切な存在だ。
(…例え、これが恋愛感情じゃなくても)
自分達には、この慰めの時間が必要だった。
(全く違うように見えて、よく似ている自分達には、必要不可欠な時間だった)
悲しい思い出を昇華して、前に進む。その為に。
体を支配する心地良い疲労感に、軽い眠気が襲ってくる。
それでもすぐ眠ってしまうのは何だか勿体無いことに思えて、なかなか瞼を閉じることができなかった。
シーツに包まり、うつ伏せた彼の髪を指でそっと梳く。
彼は気持ち良さそうに頭をこちらに傾けながら、
「どうしたの?」
とこちらに問いかけてきた。
「いや、お前の髪って美味そうな色してるよなあと思って」
「…蜂蜜色?」
「そう、蜂蜜色」
「そういう風に呼ばれたのは初めてだったから、驚いたよ」
出会ったときに「蜂蜜色」と呼んだことを憶えていたらしく、ギルバートは枕を抱きしめながらくすくすと笑う。
それにつられて微笑むと、彼は更に笑みを強くしてこちらの手に手を重ねにきた。
「やっと、ちゃんと笑ったね。エッジ」
「…ああ、そうだな」
そういえばここ最近は、きちんと笑うこともできなくなっていたかもしれない。
そうだ、もう今日は泣くだけ泣き尽くした。明日からは笑って、敵の元へと赴こう。
重ねられた手を引き、甲に口付けを落とす。
「ギルバート、ありがとな」
「…ううん、こちらこそ。エッジ、ありがとう」
瞼が、重い。
ギルバートの穏やかな表情が、最後に目に入ってくる。
おやすみと呟いて、その頭を抱き寄せた。
End