カインさんは、僕を子ども扱いする。
頭を撫でて、守って、抱きしめる。
僕は子どもなんかじゃない――――そう思っていたのに。
自分の心に宿る想いの欠片を見つけたのは、カインさんがまだ聖竜騎士になる前のことだった。
あの頃のカインさんは『名はとうに捨てた』と言っていて、僕にその名を教えてはくれなかった。
僕達は何度も同じテントの中で眠って、何度も朝を迎えた。テントの中は城のベッドとは違い寒くて固くて、城で過ごしていたあの平穏な日々は当たり前のものではなかったのだ、と痛感した。
「……寒いのか?」
眠る直前、カインさんは少しだけ優しくなる。
いつもは少し冷たくて物静かなカインさん。そんな彼のもう一つの顔が見られる瞬間だった。
起き上がり、自分の毛布を捲って「ここへ来い」と微かに微笑んでくれる。自分でも子どもっぽいと思うのだけれど、ぬくもりを求めている僕はふらふらとカインさんの方へ向かって行ってしまうのだ。
カインさんの毛布からは、カインさんのにおいがした。ぎゅっと抱きついても、カインさんは怒らない。それどころか、嬉しそうに笑っていた。
「お前は体温が高いんだな」
子どもは体温が高いんだ、と言ってカインさんはまた笑う。その微笑みを見る度、胸の辺りがぎゅっと痛くなった。甘い痛みに胸を押さえ、それでもカインさんの顔から目を離せなくて。
僕は、あの頃からカインさんに惹かれていたのだ。胸の痛みの正体も分からぬまま、共に旅を続けていた。
カインさんが父さんや母さんから聞いていたあの『カインさん』なのだと知っても、聖竜騎士となって見た目が少し変わっても、僕の心は変わらなかった。いや、変わるどころか、僕はどんどんカインさんに惹かれていった。
気持ちを抑えられないくらい、心が熱くなっていくのを感じていた。
皆が寝静まった後、僕はテントを抜けだした。
ここ数日行なっている、秘密の修行をするためだ。
父さんやカインさんに追いつきたい。足手まといになりたくない。早く肩を並べられるようになりたかった。
テントの外は冷えていた。
剣を取り出し、一振りする。薄暗闇が広がる中、剣がきらきらと煌めいた。
風を切る音に耳を澄ませてみる。音一つとってみても、父さんやカインさんのそれとは全く違っていた。風の音に「まだまだ未熟だ」と言われているような気がして、夢中で剣を振るった。
どこをどうやったら、カインさんのように跳躍することができるんだろう。ふとそんなことが頭を過ぎり、見様見真似で跳んでみた。
「う……」
当たり前なのだけれど、数十センチしか跳ぶことはできなくて。何度跳んでもそれは同じだった。
僕は竜騎士じゃない。そもそも、竜騎士になるための訓練を受けたこともない。そんな僕がうまく跳べるはずなんてないのに、それでも、僕は何故か衝撃を受けてしまっていた。
父さんのように剣を扱えるわけでもなければ、カインさんのように高く跳躍できるわけでもない。やっぱり僕は未熟なのだ、とこんなところでも実感させられてしまう。
とても敵わない。気ばかり焦ってうまくいかない。
力任せに思い切り跳躍する。瞬間、思い切り足が滑った。
「う、うわああっ!」
前つんのめりになる。
このままでは剣が顔面に直撃してしまう。慌てて剣を放り投げた。剣の代わりに、地面に顔が直撃した。
「ぎゃっ!」
砂を擦る音と、鼻に走る痛み。あまりの情けなさに立ち上がれないでいると、上から声が降ってきた。
「……セオドア。それは、今バロンで流行っている遊びか何かなのか?」
カインさんの声だった。いつもの、低くて優しい声だ。呆れているかどうかは分からない。
余計に顔を上げられなくなってしまった。地面に顔をくっつけたまま「違います、流行ってなんかいません」と言うのが僕の精一杯だった。
「じゃあそれは一体何なんだ……?」
「……僕にも分かりません……一体何なんでしょう……」
「とにかく顔を上げろ、セオドア」
「は、はい……」
顔が痛い。じんじん響くような痛みが走り、頭がくらくらと揺れた。
僕が顔を上げて座り込んだ途端、カインさんの目が大きくなった。目が点になっている。
「セオドア、お前」
「はい、カインさん何ですか?」
「胸元を見てみろ」
「……え?」
言われた通り、自分の胸元を見た。僕の胸元は、絵の具をぶちまけたみたいに真っ赤だった。
「え、えっ? 鼻を擦り剥いただけなのに何で……!」
「鼻血だ。……ほら、早く拭け」
僕の頭を抱き寄せて、やわらかい布で鼻血を拭ってくれる。
口の中に血の味とにおいが充満して気持ち悪い――――はずなのに、カインさんの傍に居るだけでその気持ち悪さが吹き飛んでいくような気がした。
僕の鼻に布をあてたまま、カインさんはすうっと目を細めた。
「……で、お前はここで何をしていたんだ? 何度も飛び跳ねていたようだが、あれはバロンで流行っている遊びではなかったのか」
「ち、違います……」
唾を飲み込むと、血の味が濃くなった。
「もしかして、俺の真似をしていたのか?」
頬が熱くなった。早くこの場から逃げなければいけない、そんな衝動に駆られた。まさか、あの姿を見られていただなんて。
「ち、ちがい……違います……!」
慌てて否定してももう遅い。
顔が熱くて堪らない。きっと、耳まで真っ赤だろう。視界だって潤んでいる。心臓が馬鹿になってしまったみたいだった。全身が脈打って、血がおさまらない。
「……図星なのか。……どうした、耳まで真っ赤だぞ。お前、まさか熱が――――」
「あ……!」
カインさんが僕の耳に触れた。そんな些細なことで、体中がびりりと痺れる。カインさんの手は冷たくて、その指の形を意識するだけで体がまた熱くなった。
視界がぐるぐると回る。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「ご、ごめんなさい……っ!」
鼻にあてられていた布ごと、カインさんの体を押しやった。カインさんの胸元には僕の鼻血がべったりと着いてしまっていて、申し訳なさが酷くなる。
この場から逃げたい。
カインさんの顔を見ていると、何かおかしなことを叫んでしまいそうだった。
剣を拾い上げ、カインさんの顔から目を背けて走りだす。
「セオドア!」
名を呼ばれるだけで、胸の奥が痛くなって甘く痺れて、僕が僕でなくなってしまう。
これは、この感情は、単なる憧れなんかじゃない。
この感情の正体なら知っている。何年か前に読んだ本に、この感情の正体が書かれていた。僕とは無縁の感情なのだと思っていた。おとぎ話の中だけに存在する感情なのだと思っていた、それなのに。
僕は、カインさんに恋をしてしまっている。
***
セオドアを追いかけようと思った。だが、体が全く動かなかった。血がこびりついている布を握り締め、セオドアの後ろ姿を見つめることしかできなかった。
「セオドア……」
セオドアは、真っ赤な顔をしていた。熱があるのかもしれない。早く追いかけなければ。
鼻血自体は大したことではない。だが、血は血だ。においを嗅ぎつけ、魔物が襲ってくるかもしれなかった。
「セオドア!」
セオドアの姿を探し、名を呼んだ。だが返事はない。
洞窟内に、自らの声が虚しく響いた。
セオドアは、俺の真似をして跳んでいたのだ。その微笑ましい姿を思い出すだけで、胸の辺りが微かに温かくなった。
馬鹿にしたつもりも、馬鹿にするつもりもなかった。
俺も、幼い頃はああやって小さな跳躍を繰り返していた。父や他の竜騎士の姿を見て、どうすればあれほどまでに高く跳べるのだろうと悩むこともあった。一人で鍛錬し一人で落ち込んで、周りを心配させたりもした。遠い記憶の中にある、懐かしい思い出だった。
俺は、一刻も早く大人になりたかったのだ。
あの頃の俺と同じように、セオドアも、一刻も早く大人になりたいと思っているのかもしれなかった。
俺はセオドアのプライドを傷付けてしまったのだろうか。だとしたら、謝らなければならない。
「セオドア!」
彼はどこまで駆けて行ってしまったのだろう。魔物に襲われる可能性を考えると、セシル達を起こして一緒に探した方が良さそうだった。
がらん、と何かが落ちる音がした。
「……セオドア?」
驚いて振り返ると、少し離れた場所にセオドアの剣が落ちていた。剣はべっとりと濡れている。
拾い上げると、植物と動物のにおいが混ざり合ったような、おかしなにおいがした。どこかで嗅いだことのあるにおい。記憶を辿り、答えに行きつきぞっとした。
これは、モルボルのにおいだ。
モルボルの粘液が、這うようなかたちで地面に染み込んでいた。
粘液を辿り、走る。武器を失ったセオドアが今どうしているかなんて、考えたくもなかった。
「セオドア! 返事をしろ、セオドア!」
「…………カイン、さん…………っ!」
***
何て情けないんだろう。
魔物に捕まってしまった、それだけでも最悪なのに、剣を落としてしまった。体中、魔物の粘液まみれでぐちゃぐちゃだ。頭の中も体も、何もかもがぐちゃぐちゃだった。
「セオドア……!」
魔物に――――モルボルに捕らえられている僕を見た瞬間、カインさんは泣き出しそうな顔をした。カインさんのそんな顔を見るのは初めてで、僕も泣いてしまいそうになる。
僕を見ないで欲しい。情けないにも程がある。
槍を構え、カインさんが高く跳んだ。モルボルの目に槍が突き刺さる。
こんな時なのに、見とれてしまいそうになった。
モルボルの力が抜け、僕は地面に落下した。カインさんのように着地しようとしたのだけれどやっぱりうまくいかなくて、顔から落下してしまった。
「う、ぐっ!」
擦り剥いた鼻を再度擦り剥いてしまった。だが、痛がっている暇はない。カインさんに加勢しなければ。
「セオドア!」
声とともに、僕の剣が降ってきた。
夢中で剣を振り、魔物の体に突き立てる。それを幾度も繰り返していると、魔物が大きな悲鳴をあげた。
勝ったのだ、と認識するまでしばらくかかった。
辺りがしん、と静まり返る。響いているのは、僕の荒い呼吸音だけだった。
「……大丈夫か? セオドア」
カインさんの呼吸は全く乱れていない。差し出された手が大きく見えて、カインさんという存在がとても遠いものに思えて、心の中にある真っ黒な液体が溢れそうになってしまう。
「セオドア?」
心の中を満たした真っ黒い液体が、喉元までせり上がってくる。口、鼻、目。
鼻の奥がつんとした。
ああ、駄目だ。溢れてしまう。
「……ご、ごめんな、さい……ごめ、なさい、カインさん……ごべんなさい、い……っ」
駄目だと思ったら、もっと駄目になってしまった。止めようと思うのに、涙が溢れて止まらない。俯いたら涙に赤い液体が混じっているのが見えた。ああもう本当に駄目だ、鼻血まで出てきた。
カインさんが遠い。こんなに近くにいるのに、どうやっても届かないような気がした。
幼い頃から、この人に憧れていた。父さんや母さん、それから街の人達の口から語られる『カイン』という存在に、一度でいいから会ってみたいと思っていた。名を捨てていた時のカインさんも、聖竜騎士となったカインさんも、見れば見るほど、接すれば接するほど大好きになっていった。
戦い方、仕草。
どれをとっても、カインさんは僕の憧れだった。
そう、この前までは、ただの憧れだと思っていた。憧れは、切なさで胸を埋め尽くしたりなんかしないのに。
「セオドア、せっかくの男前が台無しだぞ」
さっきと同じように、やわらかい布が鼻を撫でていく。布は、二度の鼻血で真っ赤になってしまっていた。
「あ……!」
背中を嫌な汗が流れていった。
どうして気づかなかったんだろう。
その布は、カインさんが大切に使っていたハンカチだった。大切なハンカチを、カインさんは惜しげも無く僕の鼻に押し当ててくれる。
「……ど、して……このハンカチ、は、大事な……っ」
「……構わん。気にしなくていい」
カインさんは微笑んでいる。
少し色褪せた水色のハンカチは、いつも、カインさんの懐にしまわれていた。『これは大切なハンカチだ』とカインさんが自分で言ったわけじゃない。だけど、カインさんはこのハンカチをとても大切にしていた。丁寧に洗って、干して、時々目を細めて見つめていた。
誰かに貰ったものなのかもしれない。
このハンカチを見る度に、僕は見えない『誰か』に嫉妬していた。
「カインさんは……このハンカチを大切にしていたじゃないですか……いつだって、懐かしいものを見る目で、このハンカチを――――」
「……そうか、見られていたのか」
「はい」
「俺がこのハンカチを大切にしていた理由は、これだ」
言いながら、カインさんは真っ赤になったハンカチの端を指差した。
あっ、と思った。金色の糸で刺繍された文字。驚いて、何度も読み返す。
「父さんと母さんの名前……!」
「このハンカチは、試練の山に篭ると言った俺を気遣って、セシルとローザがくれたものだ」
頭を殴られたみたいな気分だった。ハンカチを掴み、立ち上がる。
「セオドア!」
「ぼ、僕、洗ってきます!」
近くには川も泉もない。水の在り処も分からないのに、僕は必死でそう叫んでいた。
父さんと母さんとカインさん。三人の思い出を僕が汚してしまうなんて、そんなのは駄目だ。
駆けようとした瞬間、腕をぐっと掴まれた。背後から抱きつかれ、包み込むように抱きしめられる。
心臓が跳ねた。
「……セオドア。もう……もういいんだ。本当に」
ハンカチはざらざらとしていた。血が固まり始めている。早く洗わなくちゃいけないのに、足を動かさなくちゃ駄目なのに、カインさんに抱きしめられただけで、僕の体は動かなくなってしまった。
「このハンカチは、もう捨てるつもりだった。かなり傷んでくたびれているし、それに……」
カインさんの吐息が、耳に触れる。
「今はこのハンカチの思い出に頼らなくても、セシルとローザに会うことができるからな。ハンカチも、セシルとローザの息子であるお前に使って貰えて本望だろう」
カインさんの優しい言葉が痛い。
僕も、カインさんのような優しくて強い大人になりたい。
ただ、心からそう思った。
End