窓際で揺れる花を、ただぼんやりと眺めていた。カーテンが風をはらんで大きく膨らんでいる。朝日が眩しかった。
「……はあ」
 出したくないのに、溜め息が溢れ出てしまう。
 戦いの日々が終わってバロンに戻っても、僕はカインさんに自分の気持ちを伝えられないでいた。
 落ち着いてゆっくり考えれば考えるほど、僕の恋に未来はないのだと思い知らされる。
 僕とカインさんは男同士なのだ。その上僕はカインさんよりもずっと年下で、カインさんの幼馴染の子どもで。そんな僕にカインさんが振り向いてくれる日が来るとは思えなかった。
「はあ……」
 幸せが口から飛び出して逃げていく、そんな気がした。
 頭の中がカインさんのことでいっぱいで、苦しい。それなのに、カインさんのことを考えずにはいられない。
 カインさんの名を呼べば、少しは気が楽になるのではないか。ふとそう思った。
 そっと、その名を呼んでみる。
「カインさん……」
「何だ? セオドア」
「え……え、ええっ!?」
 声に驚き扉の方を見ると、カインさんは「やっと気づいたか」と笑った。
「五度、溜め息をついていたな」
「き、聞いていたんですか?! いつからそこに……?」
 慌てて立ち上がると、カインさんは指を二本立ててみせた。
「二本……? 二分ですか?」
「時計を見てみろ」
「えっ、時計? あっ!」
 壁掛け時計が指している数字を見た瞬間、背中がぞわりと冷たくなった。
 午前六時二十分。朝稽古の時間は、とうに過ぎてしまっている。
 カインさんは、何も言わずに二十分間も僕のことを待ってくれていたのだ。
「二十分も……」
「……寝坊でもしたのだろうと思って、お前の部屋まで来てみたんだ。だが扉を開いてみれば、お前は椅子に腰掛け何度も大きな溜め息をついていて……何だか、声をかけてはいけないような気がしてな」
「すみません、カインさん……本当にごめんなさい……」
 思い切り頭を下げた。そもそも、朝稽古を一緒にして下さいと言い出したのは僕なのだ。
 カインさんは嫌そうな顔ひとつせず、僕に稽古をつけてくれる。優しく時に厳しく、僕のことを導いてくれていた。
 そんなカインさんとの朝稽古をすっぽかすなんて、自分で自分が信じられなかった。
 正面の椅子に、カインさんが座った。
「……何か悩みがあるのだろう? あんな大きな溜め息をつくくらいなのだから」
――――悩み。
 悩みの根っこにいる人が、目の前で困ったように微笑んでいる。
「悩みなら……あります」
「それは一体どんな悩みなんだ? 話してみるといい。俺は、お前の力になりたいんだ」
 優しい笑顔を向けられるその度、僕の心はぎちぎちと痛んだ。彼の顔を真っ直ぐに見ることができない。
 朝陽に照らされているカインさんは、眩しくて綺麗だった。
 見れば見るほど、共に過ごす時が長くなればなるほど、好きという感情が増していく。胸が苦しい。カインさんに触れたい。
 僕の薄汚い感情でカインさんを汚してしまうような、そんな気がした。
「…………せん」
「え?」
「カインさんにだけは、言いたくありません……」
 しまった、と思った。他にも言い方はたくさんあったはずなのに。
 カインさんは、胸に刃物を突き立てられたみたいな、辛くて悲しい顔をしていた。
「そうか」
「カ、カインさ……っ」
「すまなかった。お前にはお前の事情があるのだろう? 無理に話を聞き出そうとした俺が悪かったんだ」
「ち、ちが……」
「朝の鍛錬は、暫くの間休みにしよう。お前の心が落ち着いたら、また再開すればいい」
「カイン、さん……」
 言葉が上手く出てこない。舌が絡まって、次の言葉を紡げなくなる。カインさんは、叱り飛ばすこともなく僕の部屋を後にしようとしていた。
 行かせちゃ駄目だ。
 今行かせたら、カインさんとの距離が思い切り遠ざかってしまうに違いなかった。
「行かないで下さい! 行っちゃ駄目ですっ!」
 無我夢中で、カインさんの背中にしがみついた。冷たい鎧に触れた瞬間『僕はなんてことをしてしまったんだろう』と思ったが、もう後には引けなかった。
「カインさん……行かないで下さい……! ごめんなさい……。僕が悪いんです。全部、僕が……」
 カインさんは、僕の力になりたいと言ってくれたのに。その気持ちと言葉を粉々に砕いたのは、僕自身だった。
 互いの鎧が邪魔だった。本当は、この人の温もりを直に感じたかった。
「全部話します。だから、これからも朝の稽古に付き合って下さい……お願いします」
「セオドア……」
 僕の体をそっと引き剥がし、カインさんは僕の頭をぐりぐりと掻き回した。
「分かった。ゆっくりでいい、聞かせてくれ」


 席につき、お互い見つめ合うかたちになる。あたたかい紅茶を淹れてみたのだけれど、それはテーブルの上に放置されたまま今にも冷めてしまいそうだった。
 どこから話せばいいのか、どこまで話せばいいのか。話すとは言ったものの、何もかもを告白するにはかなりの勇気が必要だった。
 だからまず、言いやすいことから言い始めてみることにした。
「――――僕は、昔からカインさんに憧れていました。魔物に助けられた時よりもずっと前から、カインさんは僕の……理想の人だったんです」
 小さく頷いて、カインさんは照れくさそうに目を細めた。
「カインさんと出会った時、僕はカインさんのことをカインさんだと知りませんでした。カインさんは名乗らなかったし、竜騎士であるということも公にしていなかった。それでも、僕はカインさんに惹かれました。名もない旅人だったカインさんに、憧れを抱いたんです」
 カインさんの眦が、心なしか赤くなったような気がした。
「カインさんに憧れて……僕は、カインさんに認められたいと思うようになりました。カインさんの傍に並んで共に戦える、対等の存在になりたいと思ったんです。一刻も早く対等な存在に――――大人になりたいと思った僕は、夜の修行を始めることにしました。僕が鼻血を出したあの夜も、僕は修行を行なっていたんです。カインさんの真似をしているところを見られてしまって、恥ずかしい思いをしましたが……」
 思い出すだけで、顔がかあっと熱くなった。
「あの時の僕は、今以上に子どもでした。跳んでいるところをカインさんに見られたことが恥ずかしくて、逃げ出して、それから魔物に捕らえられて、結局、もっと恥ずかしいことになってしまいました。大切なハンカチも血で汚してしまって……自分がどれだけ子どもで愚かだったか、その時になって初めて痛感しました。痛感しただけじゃありません。僕がカインさんへ抱いている感情を、再確認することができました」
「俺に抱いている感情……? 憧れ、ではなかったのか?」
 紅茶を飲んで、カインさんは瞼を瞬かせた。
「僕が抱いていたのは、憧れだけじゃありませんでした」
「憧れだけじゃ、ない?」
 ついにこの時が来てしまった。
 心臓が鳴る。体中が心臓になってしまったみたいに鳴る。体の中を、血が駆け抜けていく。口の中がからからだ。
 いてもたってもいられなくなって立ち上がった。カインさんの傍へ行く。
「カ、カインさん!!」
「な、何だ? 改まって」
「す!」
「す?」
「す、好きです! 好きです、カインさん!」
 言葉とともに、頭を大きく下げた。勢い良く下げすぎたせいなのか、微かに目眩がした。
 言ってしまった。とうとう言ってしまった。
「……お前の言う『好き』は、俺が想像しているものでいいのだろうか……?」
 掠れた声に驚いて顔を上げると、カインさんは笑みとも泣き顔ともつかない複雑な表情でこちらを見つめていた。
「はい。おそらく、カインさんが想像しているものであっていると思います」
「俺は男だぞ?」
「知ってます」
「お前の父親よりも年上だ」
「知ってます」
「……お前は、馬鹿だ」
「知ってます。報われない恋をしている僕は馬鹿です。最低最悪の大馬鹿者です」
 金色の髪に触れた。カインさんは怒らなかった。
「でも、止められないんです。傍にいる時間が増えれば増えるほど、どんどんカインさんのことを好きになっていくんです。触れたくて堪らなくなる。早く大人になりたくなってしまう。早くカインさんの傍に立ちたくって堪らなくなって、気だけが焦ってしまうんです……」
 自らの指先が震えているのを感じる。そんな僕の手をぎゅっと握り、カインさんは立ち上がった。
「セオドア、お前に渡したいものがある。取りに行ってくるから、少しだけ待っていて欲しい」
 そう言って部屋を後にしたカインさんは、小さな袋を持ってすぐに戻ってきた。小さな袋の色は水色で、表面には青いリボンが貼られていた。よくよく見てみれば、袋全体が色褪せているのが分かった。
「これを受け取って欲しい。今のお前には必要のないものだろうが……」
 受け取ると、袋の中で何かががらんと鳴った。
「……楽器……ですか?」
 響いたのは鈴の音だった。「開けても良いですか?」と問うと、カインさんは静かに頷いた。
 何が入っているんだろう。カインさんが僕にくれるものって? 気になって仕方がない。
 袋を開けて、中身を取り出した。
 がらん。それが、さっきよりも大きな音をたてた。
「……赤ちゃんの、オモチャ……?」
「……ガラガラだ」
 袋に入れっぱなしだったらしいそれは、袋とは対照的に全く色褪せていなかった。
「どうして僕にこれを?」
 わけが分からなかった。確かに僕は子どもだ。だけど、赤ちゃんじゃない。
 カインさんにからかわれているのかもしれないとも考えたけれど、彼はそんなことをするタイプの人間ではないだろう。
 じゃあ、これは一体何なのだろう。
 申し訳ないという表情を顔に貼りつけたまま、カインさんはぎこちなく唇の端を上げた。
「……そのオモチャは、お前が生まれたと聞かされた時に購入したものだ。バロンに戻るかどうか悩んで、何度も悩んで……結局戻れず、そのオモチャだけが手元に残った」
 このオモチャには、僕への想いが篭められている。十数年前のカインさんの思い出がぎっしりと詰まっているんだ。
「……俺は、お前の告白を嬉しいと思った。でも、お前に対する俺の心は十数年前で止まったまま動けていないような気がするんだ。だから、あの時渡せなかったそのオモチャを、今のお前に渡そうと考えた」
 オモチャを握り、カインさんの言葉を頭の中で噛み砕く。
 カインさんは、僕のことを考えてくれているのだ。僕と真剣に向き合おうとしてくれている。僕の告白を嬉しいって言ってくれている。
「受け取ってくれるか?」
 向けられた真剣な眼差しに、大きく大きく頷いた。
「……ありがとう、セオドア」
「あ、あの!」
「何だ?」
「カインさんが僕の恋人になってくれる可能性は、今のところ、ほんのこれっぽっちもないんでしょうか……? 少しの希望もありませんか?」
 見上げた先にある青い瞳が綺麗だった。驚いた顔が珍しくて魅力的で、ずっと眺めていたくなってしまう。
「僕、本当にカインさんのことが好きなんです。早く大人になります。剣の修行も槍の修行も怠りません。絶対、カインさんを幸せにしてみせます! だから……!」
 肩を震わせて、カインさんがふき出した。
 笑うなんてひどいですと言おうとした唇を、やわらかい何かで塞がれて――――僕の思考が、ぴたりと止まった。



End


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