ルビカンテのことが『見える』ようになってから、半年ほどが経過した。

 老眼鏡をかけている間だけ、俺はルビカンテの姿を見ることができる。
 互いに触れ合うことはできないし、ルビカンテが回復魔法を使っても何の効果も得られない。
 ――――ルビカンテは俺を、ただ見つめているだけだ。

「……なあ、おめぇ、そんなヒマなの? 俺のこと見てて、楽しい?」
 ベッドに腰掛け、仕舞ってあった老眼鏡をかけてそう問うと、ルビカンテは面食らった顔を俺に向けた。
 魔物のくせに人間くさい変なやつ、というのが、俺がルビカンテに対して抱いている感想だった。
「そもそも、何で俺の傍にいるんだ? もっとこう……おっぱいの大きいねえちゃんの傍とかに行けばいいのに。俺ならそうするけど」
「……お前と一緒にするな」
「それとも何だ、おめぇは胸より尻が好きなのか」
「…………全く、お前は」
 顔を片手で覆うと、ルビカンテははあと大きな溜め息をついた。
「俺のこと見てて、楽しい?」
 再度問うと、ルビカンテは困ったような顔をして俺の顔をじっと見つめた。


***


 楽しいか楽しくないかと問われれば、答えは『楽しい』だった。
 くるくる変わる表情は見ていて飽きないし、鳥の羽根のように軽い身のこなしを見ていると心が晴れやかになった。多少の危なっかしさを伴うエッジの生活は、優しい自由と眩しい光に満ちていた。
 例え触れることができなくても、眺めているだけで満足できる筈だった。
 ――――彼が独りでいる最中に、大怪我を負うその時までは。
 怪我の痛みを堪え、彼は体を震わせていた。私の回復魔法が彼に届けばと何度も思った。私は無力で、彼を抱きしめてやることすらできなかった。実体を伴わない我が身を呪った。
「……楽しいし見ていて飽きない。だが……」
「だが?」
 エッジは興味津々という瞳で、私の目を覗き込む。眼鏡の向こうで、緑色の瞳がきらきらと光っていた。
「お前は危なっかしくていけない。この前の崖の時も……」
「ま、あれはちょっと危なかったな」
 にっ、と歯を見せて笑ってみせる。少年じみた笑顔だった。明るい笑顔なのに、胸の奥がぎゅっと軋む。進んではいけない道を進んでいるような、そんな気がした。
「おめぇはいつから俺の傍にいたんだ?」
「……はっきりとは覚えていないが……おそらく、お前に倒されてしばらく経ってからだ。炎のマフラーをお前に手渡して、それから」
「それから?」
「気づいたら、お前の傍にいた」
「ふうん……あっ、おめぇも座れば?」
 言いながら、エッジは床を指差した。実体を伴っていないせいか疲れを感じることはまるでないのだが、勧められれば断る理由もない。
「へへっ、やっぱりぴったりだった」
 私が床に座ると、エッジは嬉しそうに笑った。
「これで、同じくらいの目線でしかもお互い座って話せる。首も痛くねえ」
「……そうだな」
 今まで口にしたことはなかったが、エッジは私を見上げているのが辛かったらしい。「この身長差では当たり前か」と頷いてみせると、彼もまた、「早くこうすりゃ良かったなあ」と呟いてうんうんと頷いてみせた。
「それにしても、この前のはほんと……ちょっと危なかったよな。おめぇがいなかったらどうなってたか」
 あの時、私は傷を負った彼を魔法陣のある方へと案内したのだった。魔法陣の上にいれば魔物はこない。傷も、僅かながら回復する。昔エブラーナを侵略するために調べたことがこんなところで役に立つなんて、思ってもみなかった。皮肉なものだ。
「あの時は肝が冷えた。いくら身軽なお前でも、もう生きていないのではないかと思った。……危ないことはもうするな」
「危ないことって?」
 悪戯っぽく目を細めて、
「詳しく言ってくれなきゃ分かんねえんだけど」
「……危険な場所へ出かけたり、供もつけずに遊び歩いたり……そういうことだ」
「おめぇ、爺みたいなことを言うんだな」
 肩を震わせながら、エッジは小さく笑った。
「お前の家老が言っていることは正しい」
「へえ」
 ベッドから飛び降りて、座っている私の方へと近づいてくる。
「爺の言うことが正しいって言うなら――――おめぇも、俺が早く結婚して子供をもうけた方がいいって思ってるってことか」
『そうだ』と言おうとしたのに、何故か息が詰まってしまった。エブラーナの王であるエッジが誰かと結婚し子をもうけるのは至極当然のこと、自然の流れであるはずなのに。
「……ルビカンテ?」
 宝石のような、緑色の瞳。
 胸の中に発生した嫌な炎が、ちりちりと音をたてた。
 私は何を考えているのだろう。酷く馬鹿げている。
「何でもない」
「何でもないって顔じゃあねえだろ」
 眉根を寄せたその表情が新鮮だった。
 思わず触れたくなってしまう。手を伸ばしても無駄だと知りながら、頬をつつきたくなってしまう。
「おめぇ、もしかして俺が結婚するのは嫌なのか」
「王としては、結婚すべきだ。結婚して跡継ぎを……」
「そういうことを訊いてるわけじゃない。俺が訊きてえのは」
 彼の手が、私の頬に伸びてくる。触れられないと知っていながら、彼は私の頬を撫でる真似をした。
「……ひでえ顔してる。いつものポーカーフェイスはどうしたよ」
 触れられない、ということは、触れてもらえない、ということでもある。
 仕方がないことだとは分かっているのに、歯痒さが心の器を満たしていく。
 私は、彼に触れたくて触れられたくて仕方がないのだ。
「――――お前が誰かと結ばれるのは嫌だ」
 正直に口にすると、エッジは面食らった顔をした。しかし静止していたのは少しの間だけで、今度は腹を抱えて笑い出した。
「……相変わらずおもしれえ奴だなあ! ぶっ、くく……っ!」
「何が面白い?」
「馬鹿真面目なとこ! そういうところ、俺は嫌いじゃねえけど……にしても……っくく」
「……笑い過ぎだ」
「だってよう……だって、おめぇ……おめぇ、ほんとに俺のこと大好きなんだなあって思って」
「な……っ!」
 目尻に浮いた涙を拭いながら、エッジはまた小さく笑う。自意識過剰だと言おうと思うのに、唇がついてこない。嘘は言えない。これは、エッジの自意識過剰などではないのだ。
「否定しねえの?」
 絶句している私を置き去りにして、彼は笑う。満面の笑みは彼が見せるどの表情よりも魅力的で、もっとずっと見ていたいと思ってしまうくらいに愛おしかった。
「そんなに俺のことが好きなら、やっぱ一度くらい風呂を覗いても」
「必要ない!!」
 思い切り否定した私を見て、エッジはまた、盛大にふき出した。



 End