彼と出会ったのは偶然だった。
 海岸で頼りなげな背中が揺れていた。
 もう深夜だというのに、少年は一人そこにいた。
「……おい、どうした」
 声をかける気はなかった――筈だった。なのに、気がつけば声をかけていた。
 怯えた顔が目に入る。緑色の瞳が光っていた。
「モ、モンスター……ッ!」
 少年は波に足を突っ込み、後じさりする。ごそごそと胸の辺りを探りながら、彼は光る何かを取り出した。
 それは、見たことのない形をした武器だった。
 貧弱な腕をちらりと見る。どういう風に使用する武器なのかは分からないが、大した威力なさそうだった。
「何で、こんな時に……!」
 彼が地面を蹴る。瞬間、薄紫色のマントがふわりと翻り、しなやかな足が視界を横切った。
 彼はとてつもなく身軽だった。咄嗟にかわす。私の頬を、彼の武器が掠めていった。
 ぱしゃん、という音がする。元の位置に着地し、彼はこちらを睨み据えた。
「やるじゃねえか」
 緑の瞳が燃え立つような殺気を放っている。わざと纏っているのか、それとも自然に纏っているのか、それは分からない。
 私が攻撃を仕掛ければ、少年は更に攻撃の手を強めるだろう。鏡のように跳ね返してくるに違いない。
 それならば。
 肩の力を抜き、構えを解く。しゃがみ込み、彼の目線と高さを合わせた。
 びくり、と彼の体が震えた。
「……何だよ」
「泣いていたんだろう」
「な……っ」
 みるみるうちに、彼の顔が真っ赤に染まった。
「違うか?」
「ち、ちが……」
 違わねえ、と。彼は俯いた。




「ケーキ?」
「そう、ケーキ」
 母の誕生日にケーキをプレゼントしたいのだ、と彼は言った。そして、その誕生日は明日なのだと。
「でもよ……ケーキの作り方が分からねえんだよな。本物を見たこともねえし」
 言いながら、彼は懐を探った。掌より一回り大きな本を取り出し、それを月光に照らし、頁を繰る。
「これを、作りたくて」
 小ぶりの絵本の中に描かれているケーキは、塔のように大きかった。
 白い生クリームがこれでもかというほど塗られ、大きな苺がぽんぽんぽんと三つ載っている。見かけ自体はシンプルなものなのだが、三段に積まれたそれはとても大きく迫力があった。
 料理に疎い私でも、これを明日までに一人で作るのは無理だろうということが分かった。
「……諦めて他のプレゼントを考えようとするんだけどよ、ケーキのことが頭から離れなくて。作り方も……分からねえってのに……」
 瞬間、私は一つのことを思い出した。ゾットの塔の中に、古書を集めた部屋があったはずだ。あそこには無数の本があるから、もしかしたらケーキの作り方が載っている本が見つかるかもしれない。
「完成するかは分からないが――とりあえず、私と一緒に作ってみるか?」
 彼に向って、そっと手を差し伸べた。少年はしばらく迷うように視線を泳がせていたが、本をしまって、私の手を強く握りしめてきた。
「殺気も敵意も感じられねえしな……。俺はエッジだ、よろしくな!」
 あどけなさの残る少年の口から漏れ出た『殺気』『敵意』という物騒な言葉に面食らってしまう。
 格好から察するに、彼はエブラーナの者なのだろう。あの国には独特の文化があると聞く。
「おめぇは?もしかして、モンスターには名前がねえとか……?」
 眉根を寄せて呟く彼の顔はやけに可愛らしく見えた。
「私の名前はルビカンテだ。よろしくな、エッジ」
「おう!」


 私の体のどこでもいい、しっかり掴まっていろ。私がそう言うと、彼は素直に頷いた。
 まずはゾットに戻り、本を探す必要があった。それから、材料を揃えなくては。私の人差し指を握りしめ、エッジは「へへっ」と笑ってみせた。口元は隠れているのに、目元だけでそうと分かるほど、彼は満面の笑みを湛えていた。
 意識を集中し、テレポを唱える。私の指を握っている手が、力を増した。
 そうしてゾットに辿り着いた途端、彼は床にへたりこんでしまった。
「……エッジ、どうした」
「い、今の……何だ……?」
「単なる白魔法だ」
 腰が抜けてしまったらしい。脇の下に手を差し込み、私の目線の高さまで抱き上げる。エッジは顔面蒼白だった。
「しろ、まほう?」
「知らんのか?白魔法と黒魔法と――」
「……まほう……」
「移動の他に、傷を癒すこともできるし、炎や氷を発生させることもできる」
「それは、忍術とは違うのか」
「……少し違うな。忍術はエブラーナ独特のものだろう?おそらく、根本は同じなのだろうが」
 見ていろ、と言い、今度は彼を片腕で抱いた。空いている手を前にかざし、ファイガを放った。ああっ、とエッジが声をあげる。
「これ、見たことあるぞ!モンスターが使うやつだ。そうか、これ、まほうって名前だったんだな。そういや爺が何か言ってたなあ」
 私もモンスターなんだぞ、と呟く。
 燃え上がる橙色の炎が、緑色の瞳に映り込んでいる。きらきらと輝くそれは美しく、子ども独特の色で煌めいていた。
 肩まで抱き上げる。「らくちんだ!」と言いながら、エッジは私の首に手を回した。
「たっけえなあ!木の上みてえ」
 もう少し警戒心を持ってもいいのではないか、と苦笑しながら、書庫へと向かった。


「……これだ!見つけたぞ、あった、あった!」
 私の肩に立ち、一冊の本を掲げ、彼は大声で叫んだ。
 書庫には本が溢れている。目当てのものを見つけられたことは、本当に幸運だった。
 身を翻し、エッジは地面に降り立つ。その鮮やかさに感嘆しながら、私は彼の手元を覗き込んだ。
 クッキーやパイに混じって、ケーキの作り方が事細かに書かれている。「よし、作るぞ!」と呟いて、エッジは私の方を見上げた。
「……で、この『あわだてき』とか『なまくりーむ』ってやつは、ここにあんのか?」
「最悪、泡だて器はなくても何とかなるかもしれんが、生クリームか……そうだな……」
 正直、私もそんなに詳しく知っているわけではない。二人して頭を抱えていると、どこからともなく風が吹き始めた。
「お困りのようね!」
 すらりとした足が、細い腰が、揺れる胸が、長く美しい金髪が、空中に現れる。
「綺麗な姉ちゃんだなあ……」
 頬を染め、思わず、といった調子で口にしたエッジにウインクを投げかけてから、彼女――バルバリシアは高笑いを風に乗せた。
「ケーキを作る道具や材料……譲ってあげましょうか?」
 見る者を虜にする――けれど私には通用しない――妖艶な笑みを浮かべながら、彼女は「ただし、条件付きで」と嬉しそうに言った。
「作りたいお菓子があって、そのお菓子を作るには火の魔法が必要なんだけど、ラグのファイラじゃ弱すぎるのよねえ」
 嫌な予感がした。というか、一体それはどんな菓子なんだ。訊こうとした唇を人差し指でちょいと塞がれ、私は押し黙った。
「だから道具一式と材料を譲る代わりに、火燕流を三時間ほど連続でお願いしたいのよ」
「…………真っ黒焦げになるんじゃないか?」
「大丈夫大丈夫」
 大丈夫と繰り返し続けるバルバリシアに一抹の不安を覚えながらも、「是非貸してくれ」と言葉を返した。


 それから私達は、苦労しつつも、少しづつケーキを作り上げていった。
 はっきり言って、写真とは似ても似つかない。絵本のもののように大きくもないし、書庫にあった本に載っていたケーキのような豪勢さもない。
 それでも、頬や鼻の頭に生クリームをつけながら微笑む彼を見ていると、これで良い、と思うことができた。
 震える指先が、最後の苺をケーキの真ん中に運ぶ。
「できた……!」
 瞳を輝かせて、こちらを見上げる。頑張ったなと声をかけると、くすぐったそうに微笑み返してきた。
 あとは、適当な容器に入れて運ぶだけだ。時計を見ると、もう朝日が昇る時間だった。
「ルビカンテ」
 鼻の頭を袖で拭い、
「ありがとな!!」
「……エッジ」
「一人じゃ、ぜってえ無理だった」
 彼の目蓋が、震える。
「本当に、感謝してる。……おめぇみてえな…………モンスターも、いるんだな……って……」
「エッジ!!」
 エッジが、倒れ込んできた。血の気が引く。もしかして、何か持病でもあったのかもしれない。無理をさせてしまったのか。早く治療してやらなければ。
 しかし、そんな考えは彼の寝息に掻き消された。
 安堵の溜息をつき、私は彼を抱き上げた。
「……部屋まで、送ろう」
 ケーキを作っている最中に、彼の家はエブラーナ城にあるのだと聞いた。部屋がある場所も話していた。あまりの警戒心のなさに恐ろしさを感じながら、私はテレポでそこへ行くことにした。
 ケーキを入れた四角い硝子容器を片手に、そしてエッジをもう片手に抱き、私はテレポを唱えた。
 目の前に現れる、朝日に照らされた大きな部屋。
 ケーキを机の上に置き、エッジをベッドに運ぶ。少年一人には大きすぎるであろうベッドに横たえ、「お前は、もう少し警戒心を持つべきだ」と口にした。
 大きな部屋、高価な調度品、それらが、彼の身分を物語っている。
「……生クリームが」
 朝日に照らされている彼の頬についたそれを指先で拭い、ぺろりと舐める。
 甘い。甘いが。
「……悪くは、ない」
 銀の髪を優しく撫で、シーツを胸元までかける。
 離れ難い気持ちになりながらも、おやすみ、と呟いて、そっと部屋を後にした。



 End


Story

ルビエジ