「貴方は魔物ではありません」
 ルビカンテからそう告げられて、僕は首を横に振った。何度も何度も振った。
 僕は魔物だ。人間であるはずがない。
 魔物でないなら、どうして、この胸には憎しみが満ち溢れているのだろう。どうして、僕は魔物達と寝食を共にしているのだろう。
「貴方は人間です、ゴルベーザ様」
 嘘だ。僕は魔物だ。誰がなんと言おうと、魔物なのだ。
 ぼろぼろと涙が溢れる。嗚咽を隠せない。僕は魔物だ。人間じゃない。
 人間はきっと、もっと綺麗だ。母さんと父さんのように綺麗だ。人殺しなんかしない。誰かを憎んだりしない。
 ――――人間は、赤ん坊を見捨てたりしない。
 ――――人間は、弟に憎しみを抱いたりしない。


   黒魔道士の恋




 竜騎士の死体が転がっている。
 血を吸った土が、赤黒く変色していた。
 地面に広がる血を踏んで竜騎士に近付けば、じゃりじゃりと砂が鳴る。
 ミストの村は、予想以上に破壊し尽くされていた。ボムの指輪だけではこうはならない。幻獣の力によるものだろうか。
 はあ、と大きく息を吐く。暗い色をした血を見ていると目眩がするような、そんな気がした。
 割れた兜の隙間から、白い顔が見える。すぐ側には男のものと思われる槍が折れて落ちていた。その槍の柄に、小さな文字を見つけた。
「……カイン……ハイウインド……」
 そういえば、ボムの指輪を持ってバロン城を出た者は二人いる、とカイナッツォが何か言っていたように思う。
 暗黒騎士と竜騎士。そのうちの一人がこの男か。
 この男は竜騎士だ。暗黒騎士はどこにいるのだろう。辺りを見回しても、それらしい人物を見つけることはできなかった。
「――――置いて行かれたのか」
 ぽつりと呟いて、男の腕を掴んだ。生温かいぬめった感触にそれが血であることを知る。
 これを持ち帰りルゲイエに手渡せば、良い下僕――――良い魔物――――になるのだろうか。


 男を差し出すと、「お土産ですか!」と叫んで飛び跳ねて、ルゲイエはくるくると回った。
「死んでいるが、使えるか?」
「ええ、ええ! もちろんです! 余すことなく使わせて頂きますよ!」
 耳障りな金属音と共に、バルナバが研究室の奥から歩いてくる。太い腕で男の死体を乱暴に掴み、ピーガーとよく分からない電子音を鳴らし始めた。
 鮮血が、床を濡らしていく。
「ん……? あれ?」
 ルゲイエが首を傾げ、男の顔をじっと見る。ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返してから、再度「ん?」と不満気な声を漏らした。
「……ゴルベーザ様。これ、生きてますよ……」
 驚いた。生きているようには見えなかった。
「瀕死ですけど、生きてます」
 そう言って、人差し指と親指で男の瞼を抉じ開けて瞳をじっと見始めた。
 男の瞳は、澄んだ海のように青かった。
「…………やっぱり、生きてる」
 溜め息をつき、「スカルミリョーネに引っ付けてみようと思ったのに」と肩を落とした。
「ゴルベーザ様、これ、どうします? 殺しましょうか? それとも、生きたまま魔物に改造してしまいましょうか? まあ、放っておいても勝手に死ぬと思いますが……」
 ルゲイエはにこにこにやにやと頬を緩ませている。
 男を殺せば、スカルミリョーネの良い肥やしになるだろう。生きたまま改造すれば、強大な力を持つ魔物になるに違いない。だが、力を持つ魔物は四天王を筆頭に数多く居る。これ以上数を増やして何の役に立つというのだろう。
 人間の下僕を持つというのも、悪くないかもしれない。洗脳してしまえば思い通りに動くようになるだろう。
「――――治療しろ」
「へ、はっ?」
 素っ頓狂な声をあげて、ルゲイエはバルナバの腹に頭をぶつけた。
「治療しろと言っている」
「……ち、治療ですか? 改造もなしに?」
「そうだ」
「改造もなし……そんな……」
 ルゲイエの鋭い視線が、男を射抜く。恨みがましい色を隠そうともせずに、「人間のくせに」と唇を噛んでいる。そういうお前も半分人間だろうと言おうとしたが、面倒になってやめた。


 それから何日も、男は眠り続け瀕死の淵を彷徨っているらしい。自分の目で確かめたわけではないが、ルビカンテがそう言っていた。ルゲイエは治療を面倒くさがって、ルビカンテに「回復魔法をお願いします」と頼みに行ったらしかった。
 目覚めたらどんな洗脳をかけてやろうか。どこであの男を使えばいい?
「――――ゴルベーザ様」
 声は突然だった。ルビカンテの声だ。
「こんな時間に申し訳ありません」
「……構わん」
 扉が開き、ルビカンテが部屋に入ってきた。腕に何かを抱いている。それはあの男で――――ただ、「ああ、あの男が目覚めたのか」と思った。
 だが、男は瞼を閉じたままだ。
「目覚める前に術をかけておいた方が、色々と便利かもしれません。ルゲイエによると、もうじき目を覚ますそうです」
 確かに、目覚める直前に洗脳しておいた方が色々と都合が良い。目を覚ました瞬間暴れだす可能性があるからだ。
 男の体をベッドに横たえると、ルビカンテは足早に去っていった。月明りに照らされた男の金髪は淡く輝いていて、その光が酷く眩しく感じられた。
 よく晴れた夜だった。目の裏に焼きついてしまいそうなほど、月は光を溢れさせていた。
「……ん……」
 薄く開いた瞼の向こうに、透き通った青い瞳が見えた。ぼんやりと瞳を揺らしながら、こちらに手を伸ばしてくる。意識が混濁しているのだろうか。
 ルビカンテが言っていたように、今のうちに洗脳しておけば、楽に操ることができる。
 頭を鷲掴みにして、シーツに押さえつけた。
「ひ……っ!」
 男の瞳に意識が宿る。私の腕を掴み引き剥がそうと必死に力を込めている。虚しい抵抗だった。
 服が乱れ、シーツに皺が寄る。睨みつけてくる青い瞳と目が合った。男の力は見た目よりもずっと強くて、瞳の青さに目を奪われていたその隙に手を振り払われてしまった。
 ベッドを転げ落ち床を這って、男は扉を目指す。目覚めたばかりの体が自由に動くことはない。呻き声に似た音を喉から漏らしながら、男はただ扉を目指した。
 だが、男は扉を開けずにいる。ドアノブを見つけられず戸惑っているようだ。扉をよじ登るようにして立ち上がってもそれは同じで、この部屋から逃れる術を手に入れられない男の姿は酷く滑稽だった。
 ゾットの塔の構造は、人間達の住む建物とはまるで違う。特に鍵の開け方は、教わらなければ分からないだろう。
「う、ぐ……っ」
 今度は、扉にその頭を押さえつけた。金色の髪はやわらかかく、太陽のにおいがするような気がした。
 懐かしいにおい。気が散る。
 術を流し込もうとするのだけれど、上手くいかない。
「やめろ……!」
 男が呻く。
 面倒だった。何故か、心臓が高鳴った。
 殺してやろうかと思う気持ちと、支配し尽くしてやるという気持ちがせめぎ合う。太陽のにおいがする金の髪と澄んだ海のような青い瞳をもっと見てみたいと思う。懐かしくて酷く悲しい気持ちに襲われる。心が、魔物じみた感覚に囚われていく。
 嗤いながら、黒竜を呼んだ。
 紫色の光が凝り、空中で竜の形を成す。『あの男を逃がすな』と命じれば、男の上半身に巻き付いて――――それから、脅す意味を込めて首筋を噛んだ。
「あ、あ……っ! ひっ!」
 床に倒れ、こちらを仰ぐ。青い瞳が揺れている。武器も何もない状態では抵抗することもできないだろう。どうやら、この男は魔法を使うこともできないようだ。
「……黒い、竜……?」

***

 俺の体に絡みついているのは、夜の闇よりももっとずっと暗い色をした黒い竜だった。
 俺は、どうしてこんな所にいるのだろう。何故、こんな目にあっているのだろう。竜と同じ位真っ黒な色をした兜が、こちらを見下ろしている。
 セシルは? あの少女は? ミストはどうなってしまったのだろう。
 視線を巡らせて気がついた。俺は、鎧を身に着けていない。見覚えのない異国の服を着ている。体が思うように動かない。息苦しくて堪らない。床と空気がやけに冷たくて、心臓が凍りついてしまいそうだ。
 せめてこの黒竜と会話したいと思うのに、黒竜の心は固く閉ざされていてどんな感情を持っているのかも分からない。
 血のような色をした赤い瞳が、俺を見つめている。
「……やめ……ろ……っ」
 息を吐くのも苦しい。聞きたいことが沢山あるのに、まともに話せない。
「セ……セシル、は……無事、なのか…………っ!?」
 黒い兜の奥で、誰かが笑った。男の声だ。男の手が、俺の頭に伸びてくる。俺は動けない。逃げなければいけないと思うのに、動けない。
 こめかみを潰すように頭を鷲掴みにされて、何事かを囁かれる。それは、何かの呪文だった。
 男の手から、紫の光が溢れ出す。どこか禍々しい色をしたそれは俺の頭の中に侵入し、思考や感覚を押し潰し覆い隠して、何もかもを塗り替えていく。
 ――――支配されてしまう。
 黒竜が体の上から退いた。それなのに、俺は身動き一つとれずにいる。怖い。視界がぼやけてしまう。
「は、入らない、で……入らないでくれ……」
 声が掠れる。
 俺の心の中にある、汚らしくて真っ黒い塊。その塊を抉じ開け中身を覗き奥の奥まで入り込もうとする男に、やめてくれと哀願する。
 お願いだ、俺の中を覗きこまないでくれ、俺の最も汚らしい部分を見ないでくれ。誰にも見られたくないんだ。汚くて醜くて堪らないから、だから。
「う、あ……っ!」
 額から手が離れたと思ったら、顎を持ち上げられた。今度は、顔を――――いや、顔だけでなく心の中をも覗きこまれている。兜の奥で、この男はどんな顔をして俺を見つめているのだろう。
「――――セシルとローザのことが恋しいのか?」
 声は、低く静かに響いた。彼らの名を耳にするだけで体が震えるのを感じた。
 『恋しい』。そんな言い方をされるとは思ってもみなかった。ああ何もかも見透かされていると思いながら、「違う」と呟いた。そう答えなければいけないような気がした。
「では何故、お前の心の中には嫉妬の炎が渦巻いているのだ」
「…………分からない……」
 分からなかった。
 俺はセシルとローザの『兄』であり、それ以上でもそれ以下でもないのだと思っていた。いや、思っていたはずだった。一体いつから? いつから、俺の心は変わってしまったのだろう。変化なんて欲しくなかったのに。欲しかったのは、あの頃と変わらぬ二人の笑顔だったのに。
 あの幸福な日々が永遠に続くのだと、そう思っていた。
 永遠なんてものが存在しないことは知っていたのに。
「……俺の心の中には、憎しみが溢れていて、汚くて……」
 男の魔法は、まるで自白剤のようだった。誰にも言えなかった言葉が、次々と溢れ零れていく。こんな見ず知らずの男に話す内容ではないと分かっていながら、それでも、俺の口は止まらない。
「俺は、これからどうすればいいんだ……」
 胸の奥がぐちゃぐちゃだった。何もかもが嫌だった。考えれば考えるほど深みに嵌って抜けられなくなっていく。何も考えたくない。歩む道は自分で作るものだと知っているのに、その『道』を自分で作るのが怖かった。
 男の顔が近づいてくる。顔といっても、それは単なる兜でしかなかったのだけれど。
 耳元で、低い声が響いた。
「行く場所がないのなら、私の元へ来るといい。私のことだけを考え、私の命令を聞いていればいい。お前は何も考えなくていい。セシルのこともローザのことも忘れて、何もかもを捨てて――――単なる人形になればいい」
 単なる人形。その言葉が、やけに甘く感じられた。
 考えることを放棄するのは、単なる逃げだ。
 だが俺は逃げだしたかった。この泥のような思考から、セシルとローザを陰で見つめ続けなければいけない現実から、そして、汚らしい嫉妬心を持つ自らの体から逃げ出してしまいたかった。
 だから、男に向かって頷いた。
 罠だと分かっていながら、頷いた。
 思考の端で、「セシルは無事なのだろうか」と考える。だがその思考も闇に飲み込まれてしまい、最後には何も分からなくなった。


 ――――ゴルベーザ。それが、あの男の名前だった。
 あの日から、俺の思考は頭の中にある檻の中に閉ざされたままだ。
 体は操り人形のようになりゴルベーザの命令に頷くだけで、自分の思い通りに動くことはない。視界はぼやけていて、俺の瞳が磨り硝子になってしまったのではと思ってしまうほどだった。
 これが、俺が望んだ世界なのだろうか。
 操られるようになってから、『セシルは無事だ』と聞かされた。操られている俺は、ただ「そうですか」と答えただけだったけれど、檻の中にいる俺は激しく動揺した。生きていてくれて良かったと心から思った。
 ゴルベーザは、『お前はセシルに置いて行かれたのだ』と言った。セシルが理由もなくそんなことをする筈はない。分かっている。なのに、心が擦り切れていくのを止められない。

***

 青い瞳は、磨り硝子のようだった。何の感情も表さず、ただゆらゆらと揺れている。
 兜を取り去り跪くその姿は下僕そのもので、何もかもが思い通りになっている筈なのに、何故か満足することができずにいた。
「カイン」
「……はい、ゴルベーザ様」
「飛空艇の準備は?」
「滞りなく行われております」
「そうか。……下がれ」
 そう命じれば、カインは一礼して立ち上がった。無駄のない身のこなし、ぴんと伸びた背筋。その姿を見ているだけでは、先日感じた闇を垣間見ることはできなかった。
 あの時カインの中に感じた闇は、私が抱えている闇とよく似ていた。幼馴染に対する嫉妬と悲しみが入り混じった闇は真っ黒で、カインはその闇の存在を恥だと思っているらしかった。
 行き場のない感情に身を焼かれ、築いてきた誇りと立場に挟まれ、身動き一つ取れない状況に陥っている男。それがカインだった。
 カインは、私と同じ闇の中にいる。それなのに、どうしてこんなにも清らかな存在に思えるのだろう。
 考えれば考えるほど、嫌な気分になった。人形になれとカインに命じ洗脳したのは自分自身なのに、無性に腹が立った。
「待て」
 カインは弾かれるようにしてこちらを振り向き、「何か、御用ですか?」と小さく言った。
 無表情な顔に埋め込まれた、硝子のようになっているその瞳を見つめてみる。だがどんなに見つめても感情の欠片すら見出すことはできなくて、やはり洗脳の術が効き過ぎているのだと判断し、視線で「傍まで来い」と促した。
 言われた通り、カインは私の傍に来た。跪こうとする動作を手だけで制し、カインの頬に触れる。
 私は椅子に腰掛けたままだから、カインの目線の方が高い。
「う……っ」
 嫌な刺激を感じたのか、術を弱めた瞬間カインは微かに震えた。竜を模した兜が、カインの手から落ちて床を転げていく。曇っていた瞳が、鮮やかな青色を纏った。
「……あ………? あれ、俺は……」
 どうやら、上手くいったらしい。瞬きを何度か繰り返し部屋の中を見渡した後、カインは訝しげに首を傾げてこちらを見上げた。
「ゴルベーザ様? 俺は一体何を……」
 さっきまでとは比べ物にならないほど、その声は人間らしかった。何もかもを信じ込んでいるその姿を見ているだけで、何故か笑みが込み上げてくる。
 洗脳され不安が取り除かれた状態になっているせいなのだろうか。カインの視線は痛いほど真っ直ぐだった。
 この視線を汚したいという欲望が渦巻く。もうどこにも帰れないようにしてやりたい。
 ――――私の中に巣食う闇の中に、引き摺り下ろしてしまいたい。
 もう一度カインの頬に触れ、親指でその薄めの唇をなぞった。この男を汚す言葉を、耳元でそっと囁く。
「お前は、いつものように私に抱かれに来たのだろう?」
 目の前にある耳が、みるみるうちに赤くなっていく。
「あ……! は、はい、そう、でしたね……」
 勿論、そんな事実はない。記憶を少し弄ってやっただけだ。
 カインは私から身を離しどうすれば良いのか分からないというような表情で佇んでいたが、やがて、ぎこちない動きで鎧を脱ぎ始めた。
 おそらく男に抱かれたこともないであろうカインがこの行為に戸惑うのは至極当たり前で、それでもその戸惑いの原因も分からぬまま、カインは下着以外のものを脱ぎ捨てた。
 沈黙が部屋を満たす。
「……ゴルベーザ様……」
 青い瞳が私を射抜く。指示が欲しい、という声だった。だが、私はあえて何も言わなかった。この男が次にどんな行動に出るのか、それを知りたかった。
 カインは「失礼します」と掠れた声で言い、ちらと自らの手を見て戸惑った後――――私の体を抱き締めた。
 優しい仕草だった。背中に得体のしれない感覚が走るのを感じた。鎧を着ているのにカインの体温を感じたような、そんな気がした。
 私は鎧を着ているから、口づけることもできない。愛撫することもできない。カインは悩んでいる。途方に暮れた子どものような顔をして、私の顔に視線を注いでいる。
 彼の手は、微かに震えていた。その震える手を私の下腹部に伸ばし、そこだけでも、と鎧の部品を外そうとする。長い指が、部品を外そうとして何度も何度も失敗する。外し方を知らないというわけではなく、震えて上手くできないらしい。金属音が、酷く耳障りだった。
 悪戦苦闘の末どうにか外すことはできたけれど、カインの額には汗が滲んでいた。
 私のものに触れ、勃ち上がってもいないそれを軽く握り、「痛くありませんか……?」と窺うように問いかけてくる。
 カインの指は、想像していたものとは違いひんやりとしていた。
「大丈夫だ」
 答えると、ほっとした表情で愛撫を再開した。カインの愛撫はかなり優しく、これをこのまま続けても達することはできないだろうと思った。
「気持ち良く、ないですか?」
 多少勃ち上がってはいるものの、私のものはあまり反応していなかった。それを見てこのままでは駄目だと思ったらしい。喉をごくりと鳴らして髪をかき上げてから、カインは私のものに唇を近づけた。
 先端に吐息が当たる。赤い舌がちろりと覗いた。その赤さに眩暈がした。唇が震えている。震えながら、先端を咥えた。
「ん、ぅ……っ!」
 濡れたいやらしい音がした。躊躇いがちに舌を蠢かせて、先端を啄くように舐めている。拙かったけれど、その動作は私を酷く煽った。
 金の髪に指を通すと、それはさらさらと零れ落ちる。手触りがいい。そのまま頭を撫で続けていると、カインは気持ち良さそうに目を細めた。
 自らの欲望が大きくなるのを感じた瞬間、カインはきつく瞼を閉じた。
「ん、んっ!」
 大きくなったものが口を支配し息苦しくなったのだろう。目尻に涙を滲ませ、それでも必死に愛撫を施そうとしている。その表情を見ているだけで更に欲望が滾っていくのを感じた。
 この男を汚そうと始めた行為なのに、いつの間にかこの男に飲まれそうになっている。何故なのかは分からない。
 欲望と苛立ちが同時にわき上がる。胸がずきずきと痛み、意味不明な焦燥感が全身に絡みつく。
 衝動に導かれるまま、金の頭を強く掴み、物のように動かした。
「んんんっ! うう、う……っ!」
 先端が喉のやわらかい場所に触れる。触れたらずるりと引き出して、舌の感触を堪能して、再度喉奥を突く。飲み込むことのできなかった唾液がカインの顎を伝い、私の鎧にぽたぽたと垂れる。それを気にすることなく、私は行為に没頭した。
 カインの眦から、涙が一筋伝った。舌が震える。
 誘われるまま、あたたかい喉の奥に放った。
「う…………っ!!」
 悲鳴に金属を引っ掻く音が重なった。私の鎧に爪を立て、カインは嗚咽を堪えている。
 口腔から引き抜いて、カインの髪を掴み、「飲め」と囁いた。口いっぱいに精液を頬張った状態では声を出せる筈もなく、カインはただ小さく頷いた。
 涙と唾液、それからほんの少し溢れ出した精液で、カインの顔はぐしゃぐしゃだった。
 ごくん、と喉仏が動く。
 どうにか嚥下してから、カインは「ゴルベーザ様……」と掠れた声で言った。
 髪を掴んでいた手を、やわらかい頬にそっと当てる。
「……ゴルベーザ、様」
 主人に懐く獣のように、カインは頬を擦り寄せた。実際それは黒竜がよくする動作だったから、黒竜とカインはよく似ているのかもしれないとも思った。
 こちらに来い、という意味を込めて腕を引くと、カインは立ち上がり、申し訳なさそうな表情をして私の上に跨った。
「……咥えているだけで興奮するのか?」
 彼のものは今にもはちきれてしまいそうになっている。下着を押し上げ、先走りの液を滲ませていた。
「もうこんなになっている」
「あ……」
 赤く染まっていた頬が更に赤くなる。
 下着越しに、カインのものを撫で摩った。
「ん、ん……あ……」
 直接触る気はなかった。焦れて訴えかけてくる視線を無視して、指先で裏筋を辿る。袋をそっと掌の上で転がすようにして揉むと、上擦った喘ぎ声が甘く零れた。
「ゴルベーザ……様……ぁ……っ」
 下着をずらし、今度は尻に触れた。びくりと震え、カインは唇を結んだ。
 その場所は解れてもいないし濡れてもいない。このまま挿入すれば、確実に傷ついてしまうだろう。
 だが、それでも構わなかった。この行為は、この男を汚して堕とすために行われている行為なのだから。
「ひっ!」
 私が何をしようとしているのか理解したのだろう。カインの顔がさっと青ざめた。

***

 どうして、俺はこの男に抱かれているのだろう。
 ゴルベーザの術が微かに緩んだその瞬間、俺は意識の檻の外に放り出された。ゴルベーザは俺に『単なる人形になればいい』と言ったのに、術が緩められた途端感覚は鋭敏になり視界もはっきりとして、俺は単なる人形ではなくなってしまったのだった。
 けれどゴルベーザの――――ゴルベーザ様の命令に背くことはできず、『お前は、いつものように私に抱かれに来たのだ』などという嘘を追求することもできず、俺はただ、男の掌中に堕ちていくばかりだった。
 頭がぐらぐらする。目の前にいるこの男が俺の全てを握り締めているような、そんな感覚に溺れていく。
 この男に従いたい。
 偽りの主従関係に縋りついていたい。
 偽物でも構わなかった。
 この男には何もかもを曝け出すことができる。隠す必要などなかった。どうせ、もう何もかもを知られてしまっている。隠しようもない。
 ゴルベーザ様の鎧は冷たかった。まるで機械に抱かれているようだと思った。手も足も鎧に隠されているから、あたたかい場所といえば性器だけで。
 おかしな話だった。顔も分からない、年齢も素性も分からない。俺は、そんな男と抱き合っている。
 下着がずらされ、信じられないような場所に冷たい指が触れてくる。どきりとして腰を引いた。
 確かめるように指先が行き来して、慣らされることなく彼のものが触れてきた。
「ひっ!」
 思わず悲鳴が漏れ出た。準備も何もされていない状態で、そんなものがこんな場所に入るとは思えなかった。痛みも伴うだろう。暴力に近い。
 尻たぶを割り開かれ、そのままきつく掴まれた。恐ろしくなって彼の腕を掴んでみたけれど、逃れようがない。
 凶器が、俺の体を抉った。
「ひ…………ああぁっ!」
 腰に、背中に痺れが走り、頭に電流が流れ込んでくる。
「……痛いか?」
 当然のことを彼は問う。必死で頷いた。抜いてくれと懇願する。血のにおいがした。止まっていた涙が、また流れ出す。腹の中の異物感が酷い。上手く息ができなくて、短い呼吸を繰り返した。
「抜い、て……下さい……」
 懇願すればする程、それは深い場所へと突き立てられていく。血のにおいに眩暈がする。錆のにおいだ。嗅いでいると、古ぼけた武具を思い出すにおい。
 ゴルベーザ様が何かを口にし、俺の頬を撫でる。
 痛みからくるものではない痺れが、背中を走り抜けた。
「ああ、あ……っ」
 おかしい。痛いのに、辛いはずなのに――――気持ち良い。おかしな声が溢れてしまう。快楽に関する感覚を術で弄られたらしい。
「……これでもまだ痛いか?」
 男が意地悪く問うてくる。俺の腰を掴み、ゆっくりと揺さぶり始めた。
「あ、あぁ……あっ!」
 掴まる場所が欲しくて、ゴルベーザ様の鎧にしがみついた。
 冷たい。
 血が練られて音をたてる。いやらしい音にくらくらした。
「……は……っあ、ああ、あっ」
 無理矢理ずらされた下着が、大きく足を開いているせいで足の付根に食い込んでいる。触れられてもいないのに、俺のものは欲望を増していく。
 中を擦られる、その刺激だけで達してしまいそうだった。
「ゴルベーザ様……っ!」
 中に熱い液体が吐き出される。その液体の熱さに引き摺られ、瞼を閉じ、欲望を放った。


 それから、俺は毎晩のようにゴルベーザ様に抱かれるようになった。
『お前は、いつものように私に抱かれに来たのだ』という言葉も、もう嘘ではない。もう何度肌を重ねたのかも分からなくなっていた。
 いや、肌を重ねるという表現は正しくないのかもしれない。俺は、彼の素顔を見たこともないのだから。

***

 頭を撫でて金の髪を掬う。さらさらと零れていくそれをもう一度掬ってもう一度零す。
 私のベッドで眠るカインの姿を見ていると、ルビカンテに言われた言葉が蘇ってくる。

『貴方は人間です、ゴルベーザ様』

 大昔に言われた言葉だ。どんな状況で言われたのか、何故そんなことを言われたのかはもう思い出せない。だが、その言葉の強さだけははっきりと思い出すことができた。
 私の記憶はこのゾットの塔から始まっている。子どもの頃はもう少し前の記憶もあったように思うのだが、それらは闇に埋もれてしまって見つからない。
 クリスタルを集め月へ行くことが、私の全てだった。
 ――――それなのに。
 寝息に合わせてシーツが上下している。朝の光がその横顔を優しく照らしていた。胸が痛くなる。痛みの原因はカインだ。この男を消せば、私の心に平穏が訪れるだろう。
 物のように扱えばよかった。術を弱めなければよかった。鎧に縋りつく指先が、『もうどこにも居場所なんてない』と泣く唇が、私の胸を鷲掴みにして放さなかった。
 抱けば抱くほど、深みに嵌っていく。『この男を貶める為に抱くのだ』と自分自身に言い訳すればするほど、心の中が虚しくなっていく。ゴルベーザ様、と私を呼ぶ声は切ないほど私を求めていて、それは術の力によるものだと分かっているのに、カインを手放すことはどうしてもできなかった。
 白黒だった私の心に色を与えたのはカインだ。青と金を一刷毛ずつ。微かな彩りが、私の心を蘇らせていく。
 蘇った心の一つ一つが、私の生き様を責め立てる。「お前の人生は間違っている」と。
 扉の向こうで、誰かの気配がした。
「――――ルビカンテか」
「はい」
「何の用だ」
「……報告の書類を――――と思ったのですが、後にした方が良さそうですね」
 ルビカンテは扉を開かなかった。扉の向こうで苦笑しているようでもあった。
「人間嫌いのゴルベーザ様が人間を傍に置くなんて、不思議な話ですね」
 そう言って、扉の前から立ち去って行く。
 私は、人間が嫌いだった。心の中にはいつも醜い何かが満ちていて、その憎しみの矛先は人間達へと向けられた。
 人間を嫌っている私自身もまた、人間だった。人間である事実から目を背け魔物に改造されることを望んだりもしたけれど、魔物の寿命の長さと体の丈夫さを知ってからはその望みも枯れてしまった。長く生きるつもりはなかった。生き長らえて何になる?
 頭の中に『疑問など不要だ。人間なんていなくなってしまえばいい』という声が響く。これは私の声なのだろうか。暗くて低い、地を這うような声だ。子供の頃からずっと聞き続けている声だった。
 そうだ、この声の言う通りに動いていればいい。人間なんていなくなってしまえばいい。一人残らずいなくなってしまえばいい。私を含め、一人残らず。
 ではカインは? 一人残らずということは、勿論その中にはカインも含まれている筈だ。
 私は、カインを殺せるのだろうか。
 カインの瞼が震えている。目覚める前の動きだった。
 金色の睫毛を見ているだけで、感傷が膨れ上がっていくのを感じた。
 どうしても。どうしても、クリスタルを集めなければいけないのだろうか。
 そっと目の下を撫でると、カインは弾かれたように瞼を開いた。
「ゴルベーザ様……っ」
 慌てて飛び起きようとして失敗する。私の腕に掴まって、「……申し訳ありません……」と頭を振った。カインは朝に弱かった。
「カイン」
「……はい」
 背に手を回すと、カインは慌てふためいた。鎧越しに行う抱擁は虚しくて、だからこそこの鎧を脱いではいけないとも思う。
 これ以上の執着は無用だ。戻れなくなってしまう。きっと、この男を殺せなくなってしまう。

『それなら、今この場所で殺してしまえば良いではないか』

 嫌な声がした。頭が割れてしまいそうになる。

『その男を、殺せばいい』

 カインを殺して、それからその先は――――?
 カインを殺したその先には、冷たい暗闇が広がっている。
「……ゴルベーザ様……?」
 カインの体を引き剥がし、ベッドに押さえつけた。仰け反った首筋に両手を当てる。強烈な殺意が込み上げてきて、歯を食いしばった。

『殺せ』

 驚愕に見開かれた目。青い瞳の中には、醜い私の姿が映り込んでいた。黒い甲冑は全てを拒み、光すら受け付けない。
 私の意志を無視して喉仏を潰そうとする指先に、必死で抵抗する。だが手を退けることはどうしてもできなくて、それならば、と掌に魔力を篭めた。
「う、ぐっ!」
 金属音が鳴った。カインの首に、魔力の塊でできた首輪がはまっている。魔力を開放したお陰なのか、強烈な衝動は少し治まったようだ。
 だが油断している暇はなかった。相変わらず続く頭痛に抵抗する方法は見つけられず、私ができることといえば、ベッドを退きカインから離れることだけだった。
「……逃げろ、カイン……」
「……ゴルベーザ様?」
「逃げろと言っているだろう!」
「で、ですが」
 首輪を気にしながら、私に近づこうとする。
 視界がぐらぐらと揺れた。後退りながら「来るな」と命じても、カインは私を追いかけてくる。

***

 放っておくことなんてできなかった。
 鎧に隠されていても、顔色すら窺うことができなくても、ゴルベーザ様の体調の変化は明らかだった。
 ゴルベーザ様にとって、俺は単なる駒だ。それ以上でもそれ以下でもない。けれど俺は、ゴルベーザ様の傍を離れられなかった。
 いつだって、ゴルベーザ様は俺を手酷く扱うふりをした。手酷く扱わなければならないと思っている風でもあった。
 彼の本心が知りたくて、眠ったふりをしたこともあった。俺が眠った後彼はどんな行動をしているのだろう、と。
 思い出すだけで、胸の奥が痛くなる。
 眠ったふりをした俺の頭を撫で、ゴルベーザ様はただ一言『もう眠ってしまったのか』と、切ない声で呟いたのだ。
 俺は、あの切ない声音に心を縛られてしまったのだと思う。
 彼の声音の中には、俺と同じ嫉妬と孤独に満ちた薄暗い闇の色があった。
 俺から逃げようと後退りする彼を追いかけ、その名を呼ぶ。
「ゴルベーザ様っ!」
 ゴルベーザ様が膝をつく。
 呻き声も出さぬまま、床へ倒れ込んでしまう――――その直前に、何とか抱きとめることができた。
「……どう、して…………」
「え?」
「…………どうして、逃げなかった……?」
 冷たい、鎧の感触。ゴルベーザ様の黒い鎧の隙間から、黒い何かが溢れ出す。闇の塊が、辺りを覆い隠していく。
「な……っ!」
 とてつもない量の闇だった。
 先程までそこに存在していたはずのベッドやテーブルが、真っ黒に塗り潰され消えてなくなっていく。天井もない、床もない。音もない世界へ放り出されてしまった。
 自分の心臓の音だけが、やけに煩く耳元で鳴り響いている。
 落ち着け、と自分に言い聞かせた。
 暗闇の中に閉じ込められてしまった今、信じられるのは腕の中にいるゴルベーザ様の感触だけだ。
 目を凝らしてよくよく見てみると、周囲の闇はぐにゃぐにゃと奇妙に蠢いていた。
 ゴルベーザ様から発せられたものなのだから、この闇は魔力の塊なのかもしれない。魔法を使うことのできない俺には、そんな想像をすることしかできなかった。
「ゴルベーザ様……起きて、下さい」
 もっと気の利いた言葉を言うべきなのだろうが、こんな状況ではそう口にするのが精一杯で。
 ゴルベーザ様は、ぴくりとも動かない。鎧の冷たさが死を思い起こさせる。
「ゴルベーザ様!!」
 大声で叫んでも、彼の耳には届かなかった。
 ああそうだ、兜を外さなければ。
 呼吸を確認したくてゴルベーザ様を闇の中に横たわらせ、兜に手をかけた。近くで見れば見るほど、ゴルベーザ様の兜は周囲の暗闇に同化してしまいそうな位に真っ黒だった。
 兜を外そうとした瞬間、後ろから首を引っ張られた。
「ぐ……っ!」
 慌てて首輪を掴んだ。ゴルベーザ様の魔力でできているらしい首輪に、触手のように伸びた闇が巻き付いている。闇は鎖の形を成し、俺の首輪と繋がった。
 周囲から、闇が伸びてくる。何本もあるそれらは俺の体を掴み、拘束していく。
 闇に取り込まれてしまう。
 ひんやりとした無数の触手に喰われそうになりながら、ゴルベーザ様に向かって手を伸ばした。
 届くはずもないのに、それでも、手を伸ばさずにはいられない。
 口の中に、触手が侵入してきた。恐ろしくて首を横に振ると、夜着の隙間から入り込んできたそれらに、胸や腰を撫でられる。「嫌だ」「やめろ」と叫んでも、叫び声は呻き声になり全ての音は闇の中に吸い込まれていくだけだった。蹴って逃れようとしても無駄で、触手達は全く怯まない。
 触手は、嫌な動きで俺の体の上を這い回る。
「うあ、ぁ……っ」
 それは、感じさせようとする動きだった。
 ゴルベーザ様を起こせば、この闇は消えてくれるのかもしれない。だが、起こす方法が見つからない。
 闇に拘束されたまま、時間だけが過ぎていった。


 時間が経てば経つ程、状況は酷くなっていくばかりだった。
 足の間から、白い液体が滴り落ちる。
「んん……っ!」
 闇は嘲笑うかのように、俺の体を舐めしゃぶる。何度達したか分からない。口に突っ込まれた触手がゴルベーザ様の性器に見えてきて、意識の混濁を知った。
 太い触手に貫かれ揺すぶられ、思考が曖昧になっていく。
「あ、あ、あっ、あ」
 四つん這いになり、獣じみた声で喘いだ。気持ち良ければ良い程、心が空っぽになってしまう。
「……ゴルベーザ、さま……っ」
 触手に、荒々しく放り投げられた。捨てられたといった方が正しいのかもしれない。全身の震えが止まらなかった。だが、今意識を失うわけにはいかない。
 こんなところで死ぬわけにはいかない。
 もう一度、ゴルベーザ様に向かって手を伸ばした。さっきまでよりもずっと近い。あと少しで手が届きそうだ。
 ああ、やっと届く。
 ようやく触れられた兜を、思い切り持ち上げた。
 銀の髪が見える。その銀髪は、月の光によく似ていた。
 周囲を覆い尽くしていた闇が、嘘のように晴れていく。

***

 目を覚ますと、泣いているカインの顔が見えた。カインは、私の頭を太腿に乗せて泣いていた。
 頬に、涙の雫が降ってくる。
「……ゴルベーザ様……」
 目覚めた私を見た瞬間、カインの涙が増えた。
 あの触手のような闇は、私の心の一部だった。私の中の闇はカインを欲しがっていたから、あのまま出られずにいたら、カインは闇に喰われて確実に死んでしまっていただろう。
 あの闇の中からは決して抜け出せないのだと思っていた。
だが、カインはあの場所からどうにか抜け出てみせた。
 そうだ。この男は、私とは違う生き物なのだ。よく似た闇を抱えていても――――この男は、私とは違う。
「……カイン」
 名を呼んで、頬に触れた。手袋のせいで、彼の体温を感じることはできなかった。
 カインを殺すのは簡単だ。このまま私の傍に置いておくことも可能だろう。人形同然の状態に戻して性処理の道具に使うことだってできる。
 だが、私の心がそれを許さない。
 どうやら情が移ってしまったようだ。いや、それどころか。
「ゴルベーザ様の瞳は……」
「……何だ?」
「……ゴルベーザ様の瞳は、薄い紫色をしているのですね」
 そう言って、彼は優しく笑う。
 カインのそんな表情を見るのは初めてのことで、何故か涙が溢れそうになってしまった。
 頭の中で、いつもの声が響く。
『その男を殺せ』という声がする。声は何度も繰り返され私の脳を支配し、意識が今にも途切れてしまいそうになる。
 どうにか抵抗し響く声を無視して、カインの頭を引き寄せた。
「ん……っ!?」
 やわらかい唇だった。ずっと前から、口づけたいと思っていた。
 目の前に暗転が迫ってくる。私が私でなくなってしまう。
 噛みつくように口づけながら、自分の体に洗脳の術をかける。「どんなことがあってもカインを殺すな」と、自分自身にひたすら命じる。意識を失っても彼を殺しませんように、と祈り続ける。
 それが、頭の中へ響く声に対する最後の抵抗だった。






   竜騎士の恋




 夜空が遠い。
 青き星の空気は月とはまるで違う。草木のにおいと夜暗のにおいがひどく懐かしくて、胸が痛くなった。
 本当は、すぐにバロンを訪れるべきだったのかもしれない。だが、小さな引っ掛かりが私の足を止めていた。
 後ろを振り返り、『たった今降りたばかりの船に戻ろうか』とも考えたけれど、それも何だかおかしい気がした。
 寒い、と思い、肩にかけた布をそっと手繰り寄せる。
 この布は、カインがくれたものだった。
 「餞別に」と手渡された布は濃い灰色をしていて、彼が私の格好に合わせて買ってきてくれたのだと分かった。
 同時に、「そんな格好をしていたらそのうち風邪をひくぞ。ついでに、目立ち過ぎる」と注意されたその言葉が、私達が交わした最後の会話となった。
 二度目の別れを思い出しながら、未練がましい自分自身を嘲笑う。
 あれから、どれだけの時が流れたのか。時間の感覚が曖昧で、はっきりとは分からなかった。

 とりあえず、宿を確保しなければならない。近くにあった町――――トロイア――――へ行き、宿へと向かった。
 町では何かの祭りが行われているらしく、楽しそうに踊ったり酒を飲んだりしている人々が大勢いる。
 町並みの中で揺れる橙色の灯りが、感傷を運んでくる。憎しみも黒い感情も消え失せたはずなのに、心の底には切なく悲しい気持ちだけがはっきりと残っていた。
 人とすれ違う度、自らの罪を再確認させられる。この人々を殺そうとしたのだ、この未来を消そうとしていたのだと。
 周りの人が笑顔であればあるほど、罪悪感が酷くなる。
 宿の中は、人でごった返していた。もう満室かもしれないと思いつつ宿の店主に尋ねてみれば、予想していた通り、空いている部屋はもうないと告げられた。
 やはり、バロンに行くべきなのだろうか。けれどまだ早いような気もする。どんな顔をして戻ればいいのか、あの門をくぐれば良いのだろう、と思い悩んでしまう。
 踵を返し宿を出ようとした私に、店主が話しかけてくる。
「パブの上ならまだ空いているかもしれない。空いていなくても、料理と酒を出してくれる筈だよ」


 パブの扉を開けると、わあん、と大きな音が響き渡った。
 それは楽器の音であったり、人々の歓声であったり、乾杯の音であったりした。
 その音に圧倒され入るのを止めようかとも思ったけれど、以前カインに言われた「お前は食事に興味がなさすぎる」という言葉を思い出し、空いている奥の席に座った。
 カインの言うとおり、私は食に興味がなかった。生きていければそれでいいと考えていた。魔導船にあるポッドの中で眠れば、空腹を感じることもなかった。
「ご注文は?」と店員に尋ねられたけれど、どんな料理があるのかもよく分からない。しばらく悩んでから、「隣の人と同じものでいい」と答えた。
 隣には、黒い髪の男が居た。男の隣には酒瓶が二本転がっている。テーブルに突っ伏している上に垂れた長めの黒い髪が顔を隠していて、男の顔は分からなかった。酔い潰れているのか、全く動かない。
 そうこうしているうちに、食事が運ばれてきた。小さなフルーツの盛り合わせと、酒瓶一本だった。
 食事を運び終えて私から離れようとした店員の服を、隣の男が掴んだ。
「……もう、これ以上は駄目ですよ!」
 ぴしゃりと言い放ち、店員は去っていった。やはり、隣の男は酷く酔っ払っているらしい。
「もう、やめておいた方がいい」
 声をかけてみたが、返事はない。
 男の手がするりと伸びて、一粒の苺を摘み上げる。
 男は私の方を見ることなく、苺を咀嚼し始めた。髪のせいで、顔は見えない。
 ぶかぶかのシャツから伸びた手はどこか無骨で、男が『戦う人間』なのだということを私に教えていた。うっすらと血管が浮いている手の甲は薄紅色に染まっていて、どこからどう見ても呑み過ぎだった。
 グラスを取ろうとする男の手を制止した。
「もう、酒はやめておけ」
 私の声を聞き、男が身動ぎする。
「――――のませて、くれ……」
 男の声は、掠れてがらがらだった。酒やけかと思ったがそうではなさそうだ。鼻をすする音が聞こえてきて、この男が泣きながら酒を呑んでいたのだということに今更ながら気がついた。
「…………話を聞く位のことなら私にもできる。だから、もう呑むのはやめておけ」
 男の肩が震えている。嗚咽に、陽気な楽器の音色が重なって奇妙な和音を作り出していた。
 几帳面に切り揃えられた爪に視線をやってから、「話してくれないか」と小さく言った。
「…………失恋……失恋、したんだ……」
 失恋。
 馴染みのない単語である筈なのに、それを聞いた途端、心が嫌な音をたてるのを感じた。
「俺は、あいつのことが好きで……でも、好きだと気付くのが遅すぎたんだ。会えなくなった後に気付いても、もうどうしようもないのに……」
 胸が締め付けられる。どういう言葉をかければ良いのかわからず、ただ耳を傾けていることしかできない。
「……あいつは俺と同じで……同じだから、だから俺はあいつの傍を離れられなかった。傷の舐め合いをするような関係でも、それでも構わないとあの時はそう思っていた。突然の別離にも納得したつもりだった。あいつは、俺の顔を見る時いつも悲しそうな顔をしたから……俺があいつの目の前にいたら、あいつはずっと悲しい顔をしたままなんだろうって、そう思っていたから。再会した時も、『もう以前のことは忘れた』という態度で接した。それが最良の選択なのだと考えていた。もう一度離れることになったとしても、平気な顔をしていられるだろう、とも。……それが、今になってこんなにも苦しくなるだなんて……」
 思わず、男の頭を撫でてしまいそうになった。彼の名を呼んでしまいそうになった。
「……お前の声は、あいつの声によく似ているんだ」
 声も髪の色も違う。そもそも、彼がこの時間にこんな場所にいるはずがない。それに、彼は酒に溺れてしまうような人間でもないだろう。私のことを想っているという確証もないし、理由もない。
 それなのに、甘く馬鹿馬鹿しい期待に胸を貫かれそうになってしまう。バロンに居るはずの彼の顔が、何度も何度も頭を過ぎった。
 彼を洗脳していた頃のことを思い出す。ゼムスに支配されていた私は、『彼のことを殺さぬように』と自分自身に術をかけた。それが、私にできる精一杯の抵抗だったのだ。
 男の手が酒瓶に伸びた。すんでのところで酒を遠ざけ、「これは私がもらっておく」と告げる。
 目的を失った男の左手が、テーブルの上に投げ出された。
「呑ませてくれと言っているのに」
「……体に障る」
 男の掌を軽くぴしゃりと叩こうとして、失敗した。おそらく私の手を止めようとしたのであろう、男の手が私の手を捕らえたのだ。
 その感触にぞくりとした。男の手は、まるで既視感のかたまりのようだった。覚えのある感触――――焦がれて手に入れられなかった感触だった。
 男も、私と同じ感覚を覚えたのかもしれない。震え、弾かれたように私の手を離そうとする。今度は私が男の手を捕まえる番だった。
「……離せ……」
 男が、窺うようにゆっくりと顔を上げる。ほんの少し、本当に少しだけだったけれど、澄んだ海のように青い瞳が髪の隙間で光っているのが見え、瞬間、私の唇は動いていた。
「カイン」
 男が立ち上がり、椅子が倒れた。酔いの回った足でまともに歩けるはずもないのに、男は私の手から逃れようとする。
「は、はな、離し……っ!」
 この手を離してなるものかと渾身の力で握る。よろよろと揺れる男の体を引きずるようにして、店員の元へ向かった。
「すまない、部屋は開いているか?」
「……部屋ですか? ああ! そういえばさっきキャンセルされてしまった部屋が一部屋あるんですよ。お客さん、幸運ですね」
 言いながら、鍵を差し出した。
「そっちの酔い潰れた方とお知り合いだったんですね。酔いが覚めるまで介抱してあげて下さい。お代は明日の朝でいいですから!」
「ああ。ありがとう」
 酔っぱらいの手を強く引き、階段を登っていく。


 扉が閉まった。同時に、その体を引き寄せる。
 よろけながら、男が私の腕の中に収まる。きつく抱き締めると、彼はただ静かに首を横に振った。
「…………はなして……くれ……」
 黒く長い髪に触れてみれば、それはよくできた偽物だった。
「酔っ払った足でどこへ行くつもりだ」
 声はやけに冷静だった。だが、胸は恐ろしいくらいに高鳴っていた。
 きっと、これは夢なのだ。本当の私は今も魔導船で眠っているのかもしれない。
 金の髪を見たくて、黒い偽物の髪を引いた。偽物は地面に滑り落ち、金の髪があらわになる。髪をかき上げ耳元に口付けると、腕の中に閉じ込めた体はびくりと震えた。
「……ゴルベーザ……」
 掠れていた声は、泣き止んだからなのか幾らかましになっている。覚悟を決めたかのようにゆっくりと顔を上げ、カインは私の顔を見つめた。
「……ゴルベーザ、何故お前がここに?」
 カインの瞼は、涙で赤くなっていた。
「バロンに立ち寄ってからここに来たのか? フースーヤ達はどうなったんだ? お前は、一人でこの星に来たのか? 乗ってきたのは、魔導船か?」
「……質問攻めだな」
 苦笑を返すと、カインは「すまない」と目を逸らした。彼の頬が赤いのは、酒のせいだけではないだろう。
 とりあえず、質問の一つ一つに答えていくことにする。
「まだ、バロンには立ち寄っていない。フースーヤ達は無事だ。私が月へ帰った時には、戦いを終えていた。私は魔導船に乗り、一人でこの星に帰ってきた」
 カインが、私の頬を撫でた。存在を確かめるかのような手つきだった。
「……一人で、か?」
「ああ、一人だ」
「それは……心細かっただろうな」
「確かに、少し殺風景だった」
「それだけか?」
 カインは魔導船から見える景色を知っている。魔導船の窓から見えるのは、果てしなく広がる宇宙だけだ。それ以外のものは存在しない。船内はしんと静まり返っていて、明るい光景でないことは確かだった。
「心細さには慣れている」
 正直に答えると、カインは唇をきゅっと結んだ。
「カイン。お前は何故この国に?」
「……買い出しと休暇を兼ねて、この国に来た。知り合いがいない場所で、思い切り呑んで酔い潰れたかったんだ。バロンではさせてもらえないからな」
「酔い潰れる前に酒を回収されてしまうだろうな」
 酔い潰れるまでセシルとローザとセオドアがカインを放っておくとは思えなかった。
「……結局、今日はお前に酒を回収されてしまったが」
「ああ、そうだな」
 力を込めて抱きしめようとすると、カインは腕をすり抜けて私から離れてしまった。
「――――さっき話した内容は忘れてくれ。あれは、酒の席での冗談だ。本心じゃない」
 胸に痛みが走る。さっき聞いた言葉が全て冗談だなんて、信じたくなかった。
「全て冗談だったのか?」
「……全てだ。だからもう、忘れてほしい」
 逃げようとする手を捕まえた。
 何故、彼は忘れてほしいと言うのだろう。『傷を舐め合うような関係』だからだろうか。確かに、私は彼の中に私と同じ闇を見ていた。だが、それはもう過去のことだ。私は、闇や傷だけでは言い表せない想いを彼に抱いている。
「私は、お前との関係を『傷を舐め合うような関係』で終わらせたくない」
「ゴルベーザ……」
「お前の言葉を忘れるつもりもない」
 カインは、『失恋した』と言っていた。彼の心は、私の方を向いている。この好機を逃してはならない。今カインの手を離してしまったら、もう彼は何も語ってはくれないだろう。きっと、『もう以前のことは忘れた』という態度を取られてしまうに違いなかった。
「お前の顔が見たくて堪らなくて、私はこの星に帰ってきた。お前の顔を見れば諦めがつくだろうとそう思っていたからだ。……だが、お前の心が少しでも私の方を向いているというのなら、話は別だ。私はお前を諦めない」
 想いの全てを込めて口にした。
 カインは拳をきつく握りしめながら私の話を聞いている。
「お前は失恋なんかしていない。告白もしていない。……私だってそうだ。私達は、何一つ始められていない」
 したことといえば、体を繋げたことだけで。
「私は、お前の傍にいたい。お前が嫌だと言うなら、せめて、友人としてお前の傍にいさせて欲しい」
 カインは、ゆるゆると首を横に振った。泣き止んだばかりだというのに、また泣きだしそうに目を細めている。
 私は、カインを泣かせてばかりいるような気がする。
「俺は、お前を友人とは思えない」
 カインの言葉に絶望へ叩き落されそうになる。そんな私の顔を見つめながら、彼は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「――――恋人として……家族として、俺の傍にいて欲しい。もう二度と、お前に心細い思いはさせないから」




End


Story

ゴルカイ