よろめきながら、カインは親友の元へと近づく。
周りには土埃が舞い、がらがらと岩や小石が転がる音が響いていた。
頭が痛い。歩きながら兜を脱ぐと、べこりと一部が凹んで頭を傷つけていた。
どうりで痛いわけだと独りごちて、セシル、と続けて呟いた。
「……セシル」
呼ぶが、返事はない。
横たわった暗黒騎士は身動ぎもせずにじっとしている。
見たところ激しい怪我はないようだが、もしかしたら頭でも打ったのかもしれない。
(フェニックスの尾は、使いきってしまったし……気休めにしかならんが……)
仕方なくカインは所持していた回復薬を取り出すとセシルの口元へ流し込んだ。
こくりと嚥下した様子を見届けてから、今度は少女を探す。
ほどなくして見つかった少女は、やはりセシルと同じように気を失っていた。
『みんな、みんなだいっきらい!』
少女の叫び声を思い出し、カインは胸が痛むのを感じた。
可哀想なことをした。
自分達が、村を焼き付くし、少女の母を殺めてしまった。
知らなかったで済まされることではない。
(せめて、この子だけでも……)
その目尻に滲んだ涙を拭ってやり、回復薬を口に含ませる。
少女の顔色は青い。どこかで休ませてやらねばとカインは思考を巡らせた。
(……確か近くに町があったはずだ)
問題はどうやってそこまで二人を運ぶか。
考え始めたその時、何者かが近づいてくる気配を感じ、カインは体を強張らせた。
(モンスターか?)
槍を構え、振り返る。
視線の先に立っていたのは、黒い甲冑を身に纏った大柄な人物だった。
「……何者だ」
いつでも飛び掛かれるように、足に力を込める。
目前の人物はゆっくりとした足取りで、カインの方へと向かってきた。
「何者だと訊いている!」
槍を突きつけようと手を伸ばす。
瞬間、手に激しい痛みが走った。
「うああああっ!?」
音をたてて、氷のかけらが手元からぱらぱらと舞った。
(魔法か……っ)
躊躇っている暇はない。カインは地面を蹴り、高く跳躍した。
落下しながら槍の切っ先を謎の人物へと向ける。
兜を狙ったその攻撃は、しかし、男が繰り出した炎によって阻まれた。
「…………!」
熱くてたまらない。叫び声もあげられぬまま、カインは地面に転がる。
「愚かな」
焦げた指先を押さえて踞ったカインの耳に、低い声が響いてきた。
「な、にが目的だ……」
熱気を吸い込んで喉を痛めてしまったらしい。
声が上手く出せない。
「殺しに来たのだ。赤い翼の隊長と竜騎士団長、そして…………召喚士の生き残りをな」
男がセシルに近づく。
「やめろっ!セシルとその娘には手を出すな!」
カインは男の足首にすがり付いた。
なりふりなど構っていられない。この男は強い。
気を失ったセシルには男に抵抗する術もないのだ。自分が守ってやらなければならない!
「俺を殺したいなら殺すがいい!だが、二人には手を出すな。何でもする。だから、だから……!」
振り払おうとする男に、カインは更に食いつく。
腰に取り付き、指に追いすがる。
「頼む!セシルとその娘は……っ」
手が男の指先に触れた瞬間、カインの頭が真っ白になり、目の前に奇観が広がった。
暗闇を背に、少年が手を伸ばしている。
『お兄ちゃん、助けて!お兄ちゃんっ!』
叫び声が頭の中に直接流れ込んでくる。
『僕をここから出して!』
この映像は何なのか。
考えるより先に、体が地面へと叩きつけられ、痛む。
途端、カインを取り巻く景色はまた元のものへと戻っていた。
唇に着いた砂を袖で拭うと、カインは男を見上げる。
「私に触るなっ!!」
男は先程までにはない落ち着きのなさで吠えた。
「……まずは、その暗黒騎士からだ!!」
「……!」
呪文を詠唱している声が耳に届き、反射的にカインはセシルに覆い被さる。
その弛緩した体を強く抱き締めた。
胸が早鐘を打つ。息が苦しい。
「あああああぁーっ!!」
じゅう、と嫌な音がする。
背を駆け巡る激痛は、カインの意識を奪うには充分なものだった。
「セ、シル……ッ」
肉の焦げた臭いが鼻をついた。
辺りに暗い色をした煙が広がっていく。
(せめて……お前だけでも……)
静かに気絶しているセシルの頬を撫でる。
(生きてくれ……!)
ぐらり、と世界が傾いだ。
●
「……ヒャヒャヒャヒャ!こりゃあ素晴らしい!」
しわがれた男の声が、カインの意識を徐々に呼び覚ます。
鼻をつく薬品の臭いに、頭ががんがんと鳴った。
「ワシの最高傑作にするのに相応しい体だな!!」
背中はずくずくと痛みに疼き、これが夢ではないのだと知る。
そっと瞼を開くと、見たこともないような装置に覆われた壁が目に入ってきた。
(どこだ、ここは)
突然、ひんやりとした何かに肩を撫でられる。
「あああっ!!」
それが背に触れてきた瞬間、あまりの痛みにカインは掠れた悲鳴をあげていた。
俯せになっている体を持ち上げようとするが、全く動かない。
手首に妙な機械が取り付けられていて、それが拘束具の役目をしているのだと気付き、カインはちっと舌打ちをした。
「おお、目を覚ましたか!どうだ?気分は」
先程カインの背中に触れてきたのは、手だったらしい。
男の手はべっとりと血に濡れていた。
自分は何やら銀色の台に俯せにはりつけられているらしかった。
しかもこの頼りない感覚からすると――裸だ。
「……最悪だ……」
ここはあの世かとも思ったが、どうやら自分は生きているらしい。
男は笑いながらカインの顔を覗き込む。
ひどく痩せた老人の瞳は異様にぎらぎらと輝いていて、何だかその風貌とは不釣り合いに思えた。
「綺麗な瞳だ!!やはり瞳は観賞用にしておくか」
「お前は、一体……」
「ワシか?ワシはルゲイエだ」
聞き覚えのない名前だった。
それに、自分は殺されたのではなかったか。――あの謎の男に。
そうだ、セシルとあの娘は無事なのか。
「セシル!セシルッ!?」
「セシル?……ああ、あの暗黒騎士のことか」
「セシルをどこへやった!?」
「あいつは今、カイポにいるらしい。ゴルベーザ様にあいつも欲しいと頼んだんだがなあ」
セシルは無事にあそこを離れられたらしい。
(良かった……しかし……)
あの男は何故自分を助けたのだろう。
自分が『何でもする』と言って乞うたからなのか。
「それにしても、お前の体は実に美しい!なあに、火傷などちょちょいとすれば治る!」
ルゲイエは更にヒャヒャヒャと笑いながら続ける。
「さあて、お前はどんなモンスターなりたい?キマイラのように沢山の動物と合体してみるか?いやいや、ロボット系も捨てがたいな」
どうやらルゲイエは自分をモンスターにするつもりらしい。
カインはどうにか逃げなければ、と考える。
そもそもここはどこなんだろう。
謎が多すぎて、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「やはりここはキマイラか。いやいや、しかしなぁ」
ルゲイエはぶつぶつとおぞましいことを呟き続けている。
カインの周りを早足でぐるぐると歩き回るその姿は、さながら死肉を漁る獣のようだった。
「まあいい。とにかく四肢を切り落としてから考えよう」
狂っているとしか思えない言葉を吐きながら、ルゲイエが歯を見せて笑う。
何やら手に握っていた機械を弄くると、ふうふうと息遣いを荒くしながらカインのふくらはぎを撫でた。
その嫌な感触に、カインは歯をくいしばる。
「まずは、この足から」
「ま、待ってくれ!」
思わず叫んでいた。
こんなわけの分からない状態で、自分はモンスターにされてしまうのか。
いや、きっとここから逃れる方法があるはずだ。
カインは焦りで白くなる頭を叱咤する。
とにかく時間を稼がなければ。
「お前の主人は、ゴルベーザという名前なのか」
「……そうだ」
「その主人が、俺を改造しろ、とお前に命じたのか?」
突然、ルゲイエの骨ばった肩が上下に激しく揺れた。
口元はひきつり、震えている。
「あ、当たり前じゃないか」
弱々しい声で呟きながら、彼は瞳を泳がせる。
「ゴルベーザ様も、お前がモンスターになることを望んで……っ!」
大袈裟に両手を広げながら話すルゲイエの顔が、歪んだ。
彼の目は一点を凝視している。
金属音をたてて、ルゲイエの手から機械が滑り落ちた。
「ほう、お前は私の心を読めるのか」
部屋の入り口らしき場所に、見覚えのある黒い甲冑の男が立っていた。
カインの背中の傷が、電流を流したかのように疼く。
「ゴルベーザ様、あの、これはですね、そのっ」
ルゲイエの顎から汗が滴る。
「私はその男の治療をしろと命じた筈だ。改造しろと言った覚えはない」
紫の明かりが閃いた、と同時にルゲイエの姿が視界から消えた。
呻き声が聞こえ、カインのいる位置からは見ることが出来ない部屋の隅まで、ルゲイエは飛ばされたらしかった。
黒い兜に包まれて表情の見えないゴルベーザを、カインは睨み付ける。
「セシル達を見逃したのは、俺がお前に何でもすると言ったからなのか」
ゆっくりとした歩調で近づいてくる男を、更に刺すような視線で見つめると、
「お前は、俺に何を望む」
強い口調で言い放つ。
「お前には、私の側近になってもらう」
「……それは」
「無理、と言うつもりか?」
まさかそんなことを言われるとは思いもよらなかった。
そもそも何故自分を配下にする必要があるんだ、とカインは疑問に思う。
それが顔に出ていたのだろう。ゴルベーザは話を続けた。
「セシルを油断させるのに、お前はうってつけの人間だ。お前には拒否という選択肢は残されていない」
男の鉄靴が金属音をたてて近づいてくる。
高圧的な態度でゴルベーザはカインを見下ろした。
「お前の拒否と同時に、私はセシルを殺しに行く」
カインは目を見開いた。
何かで殴られたかのように、頭の芯が痺れる。
「何を、言って……」
「その時はお前もこの手で殺してやる」
八方塞がりだ。
これでは自分が頷くしか、道はない。
(いや、まだだ、まだ……!)
そうだ、もしかしたらこの男の寝首をかくチャンスが来るかもしれない。
この男の下で反逆の機会を窺うのだ。
この男が寝ているときにでも、部屋に忍び込めばいい。
「分かった。お前の要求をのもう……」
カインの語尾に重ね、くつくつとゴルベーザが低い声で笑いだす。
「お前がこちらに寝返ったと知った時、セシルはどんな顔をするのか――楽しみだな」
視線で人を殺せたとしたら、カインはゴルベーザを殺すこともできただろう。
しかしカインは無力だった。
今は我慢して、その時を待つしかないのだ。
「ルゲイエ!早くカインの傷を治せ。ある程度でかまわん。使えればいい」
う、だとか、あ、だとかいう小さな声が部屋に響いた。
どうやらルゲイエはやっと立ち上がることが出来たらしい。
「しかしですね、ゴルベーザ様。これはまあその、結構な重症でして……」
上擦ったルゲイエの声は酷く耳障りに聞こえた。
「口答えはいらん。とにかく早く処置して、ゾットまで連れてこい」
「はっ、とにかく早く処置します」
よろよろとした足取りでルゲイエがカインに歩み寄る。
「――という訳だカイン。残念だが、フレイムドッグと合体するという計画はお流れになった」
最初からそんな計画はない。
にやにやしているルゲイエから、カインは目をそらした。
「ちょっと手荒な治療をするから、眠っていてくれ!」
ルゲイエが腕を振り上げる。
その手には注射器が握られていた。
「う……っ」
ちくりとした痛みが項に走り、カインは眠りへと誘われていった。
●
目を覚ますと、周り全てが闇だった。
ただただベッドに寝かされているらしく、拘束もされていない。
見張りらしき者も見当たらない。
(どういうことだ)
慣れてきた目で見渡せば、部屋は見たこともないような装置や機械に覆われていることが分かった。
そういえばルゲイエの居た部屋にも、何やら不思議な物が沢山あったように思う。
ルゲイエの治療とやらは成功したようで、背に走る筈の痛みはなくなっていた。
一体ここはどこなのか。
ゴルベーザと名乗る男に従うことを約束したものの、心から従う気があるわけではない。しかし抗うには謎が多すぎる。
まずは情報収集をしなければならない。
ゴルベーザは自分が従わないなら、セシルを殺すと言っていた。
セシルは強い男だ。しかし、ゴルベーザは更に強い。
セシルの命を危険に晒すような返事は出来なかった。
とにかく、今自分がすべきことは、情報収集だ。
従順なふりをして近づけば、ゴルベーザが何を企んでいるのか上手く聞き出すことも可能だろう。
ゴルベーザ本人より、ルゲイエの方が口を割りやすいかもしれない。
思考をめぐらせながらカインはベッドを抜け出す。
ひやり、と足元から寒気が駆け上った。
一応、簡素な白い服を着せられてはいるが、足は裸足だ。
心許ない格好に、カインは溜め息をつくと、扉を探す。
「うわっ!」
壁に手をついてしばらく歩くと、途端、壁の一角が消え失せた。
支えるものを失った体は、よろめいて地面に崩れてしまう。
カインは、今のが扉だったのかと舌打ちをしながら自分の居る場所を確かめた。
だだっ広い廊下が果てなく続いている。
まさにそれは迷路だった。
ふと、小さい頃に読んだ絵本の挿し絵がカインの脳裏を過る。
迷路の中にいる化け物を倒すために、一人の男が迷路に挑むというストーリーだったのだが、その迷路の挿し絵がこの風景によく似ていた、ような気がする。
セシルが気に入っていつも読んでいた絵本だった。
(どちらへ進もうか)
マッピングが必要になったときの為にいつも携帯している紙やペンも、今はない。
しかし何かあったときこの部屋に戻って来られるようにはしておきたい。
仕方なく、カインは自分の指に噛みついた。
(血で印をつけていこう)
一定の間隔をおいて、壁に傷付けた指を擦り付けながら進む。
この建物は一体何なのだろう。
ふと、ゴルベーザの言葉を思い出す。
『とにかく早く処置して、ゾットまで連れてこい』
聞き間違いでないとすれば、ここは『ゾット』という場所ということになる。
そうすると、もしかしたらルゲイエには会えないかもしれない。
奴はお喋りで単純そうだから情報を聞き出すのに便利かと思ったんだがな、と一人ごちながらカインは歩みを進めた。
(ん?)
左に視線をやると、何か他の壁とは違う壁が目に入ってきた。
ぱっと見は不思議な壁にしか見えないが、これはこの建物の扉だ。さっき部屋から出た後に確かめたから、間違いない。
触れてみようか、と思う。
しかしもしモンスターが出てきたら?
罠がはってあったら?
(まあどちらにせよ、何か行動を起こしてみないと良いことも悪いことも起こらないしな……)
危険そうだったらとりあえず走ろう。そう心に決めて、カインは扉に触った。
しゅん、と風船から空気が抜けるような音がして、扉が開く。
どのような技術で動いているのかという興味がわいたが、調べている場合ではないとカインは壁に張り付いて部屋の中をそうっと覗き見た。
真っ暗な中に、黄緑と赤の光が点滅を繰り返しているのが見える。生き物の気配はない。
ちかりちかりと瞬く光に近づき、覗き込む。
(何だこれは)
よく分からない装置は、ただただ光を放ち続けている。
下手に触ってモンスターを引き寄せでもしたら危険だと判断したカインは、先へ進もうと踵を返した。
『……と…………』
背後から正体不明の音が聞こえてきて、カインは後ろを振り返った。
いつもの癖で咄嗟に武器を構えようとして、自分は丸腰だったと溜め息をつく。
『……と……て……』
音は先程見た、黄緑の光から発せられているようだ。
『……チ……スイッチを……』
これはルゲイエの声だ。
(スイッチ?)
もしかして赤い光のことを言っているのだろうか。
ルゲイエなら上手く誤魔化せると踏んだカインは、何秒か逡巡した後、赤い光に触れた。
目の前の四角いガラスにルゲイエが大きく映し出される。
『おおお、成功だ!』
興奮した調子の声が部屋に響き、
『お前は……カイン!もう目覚めたのか!ワシの技術はすごいだろう!』
「あ、ああ」
楽しげに話すルゲイエに、適当な相槌を打つ。
『この装置は苦労して作ったワシの傑作なんだ。バブイルとゾット間の通信に役立つ――と思って作ったんだが、ゴルベーザ様にはゴミ扱いされてしまった』
こんなにすごい装置なのに、とカインが小首を傾げる。
『ワシは失念していたんだ。ゴルベーザ様は思念でワシ達と直接会話することができるからな。思念はいつでもどこでも直接飛ばせて便利な代物だ。それと比べてしまえば、確かにこれは不必要なものだろう』
ルゲイエは一気に捲し立てると、大きく息を吐いた。
『……それでも何となく諦めきれなくてな、試しに使っていたというわけだ』
やっぱりルゲイエはお喋りだ。思念を飛ばせるという情報を得ることができた。
これならいけるかもしれない、とカインはルゲイエに笑顔で話しかけた。
「なあルゲイエ。実はゴルベーザ様に呼ばれているのだが、ちょっと迷ってしまってな。良かったら部屋までの道を教えてくれないか」
できるだけ自然な、それでいて優しい笑みを浮かべるよう意識する。
にたにたとルゲイエは笑い、
『……やっぱり、モンスターと合体してみる気はないのか』
と呟いた。眉を顰めながら、カインが首を横に振ってみせると、「冗談だ」と言ってルゲイエは一枚の紙を取り出して画面いっぱいに映し出し、大声で笑った。
『この、赤い丸で囲まれた部屋だ。……それにしても、勿体ない。その美しい瞳と唇を人型モンスターと合わせれば――――』
赤いスイッチを殴りつけ、カインは強引に通信を終了させた。四角いガラスを一瞥し、先ほど見せられた地図を頭の中で反芻する。殴った手がじんじんと痛み、幼稚な自分の行動を嘲笑った。
槍と鎧が、何よりも、あの竜騎士の兜がないせいかもしれない。あの兜がないと、全てをひん剥かれたような、そんな頼りない気持ちに襲われてしまう。
(せめて、髪を縛る紐があればいいのに)
鬱陶しそうに髪を後ろに撫でつけて、カインは部屋を後にした。
ここを右。
心の中で呟きながら、十字路を右に曲がる。だだっ広い建物は、どこまで行っても似たような風景で埋め尽くされていた。
ふと、セシルのことが頭を過る。
彼は無事だろうか。カイポに行き、その後はどうしたのだろう。怪我は大丈夫なのか。一人で、大丈夫なのか。
そこまで考えてから、はっとする。
(あいつはもう、子どもじゃないんだから)
そうだ、自分達は子どもではない。セシルもローザもそして自分も、一日中笑って過ごせていたあの日々には、戻れない。
ずきりと痛んだ胸元を押さえながら、カインは「セシル、ローザ」と祈るように口にした。
瞬間、何者かの気配を感じ、カインは後ろを振り返った。『何者か』が唸る。それは大きな犬のような形をしたモンスターだった。毛は氷でできていて白く、目だけが、赤く爛々と輝いていた。
カインは思わず後ずさり、自分の浅はかさを恥じた。
モンスターはカインの血の臭いに誘われて、ここまでやってきたに違いない。まずは、モンスターがいる場所なのかどうかを確かめてから、壁に印をつけるべきだった。
再度、モンスターが唸り声をあげる。噛みつこうと襲いかかってきた牙をすんでのところで避けてから、カインは高く跳躍した。
カインが飛び乗ったのは、壁の上方に在る出っ張りの上だ。ここまでは来られないだろう。そう思ってのことだった。
一人と一匹は睨み合う。
(諦めて、早くどこかへ行ってくれ)
足場は酷く頼りない。裸足のままの足元は冷え、感覚を失いかけていた。
べろりと舌なめずりをして、モンスターが大きく咆え――――赤い瞳が宝石のように光る。
危険だ、と思う暇もなく、強烈な吹雪が巻き起こった。
「…………っ!」
足場が凍りつく。あまりの冷たさに足を浮かせたその直後、体は宙を舞っていた。体勢を立て直すことも叶わぬまま、カインは地面に落下した。
地面に叩きつけられた四肢が強烈に痛む。顔を上げると、獣の瞳がこちらを見ていた。
「く、そ……っ」
緩慢な動作で体を起こし、立ち上がる。もう一度ジャンプしようとして、足がまともに動かないことに気がついた。
モンスターがカインに近づく。だらだらと涎を垂らしながら、鋭い牙を剥いた。
(一か八かだ)
動かない足でも、少しくらいなら飛べるかもしれない。痛みからくる吐き気を堪えながら、カインは足に力を込めた。
「…………何やら、楽しそうだな」
途端、背後で低い声が響く。
振り向かなくても分かる。それは、紛れもないゴルベーザの声だった。
ゴルベーザの姿を認めたモンスターは、尻尾を巻いて逃げて行った。
「もう少し眺めていてもよかったんだが……まあ、お前に死なれても困るからな」
言いながら、ゴルベーザはエクスポーションの瓶を懐から取り出し、カインの方に放り投げる。硬い音をたてて転がったそれは振り向いたカインの爪先に当たり、瞬間、気が抜けてしまった彼は、地面にへたり込んだ。
瓶を持ち上げ、まじまじと見つめる。本当にエクスポーションなのだろうかと怪しんでいたことに気づいたのだろう、ゴルベーザは笑いながら、「毒ではない」と言った。
逡巡しつつ栓を抜いて一気に飲み干してから、カインは小さく溜息をつき、目の前の男を見上げた。
「……助かったよ。礼を言う」
あのままだったら、確実に命を落としていた。ゴルベーザは自分達を襲った男だが――それはそれ、これはこれだ。
助けられたことは事実なのだから、今は礼を言わなければ。カインはそう思った。
「お前は、面白い男だな。私に礼を言うだなんて、思ってもみなかった」
「……言いたいから言った。それだけだ」
「そうか」
妙な間があった。視線を落として足を一撫でして、カインは立ち上がる。と同時に、大きな音で彼の腹が鳴った。
「…………う……」
顔が熱い。そういえば、長いこと物を口に入れていない気がする。思えば思うほど、腹はきゅうきゅうと空腹を訴える。
「食事を用意させてある。来い」
翻るマントを見つめながら、カインはエクスポーションの瓶を強く握りしめた。
食事を終えて自室――最初寝かされていた部屋だ――に戻ると、鎧、兜、槍等の装備一式が用意されていた。
一目で質が良いと分かるそれらに戸惑いながら、カインは背後に立っているゴルベーザに視線をやる。ゴルベーザの表情は兜の奥に隠されていて分からなかったが、この人は笑っているのではないか、とカインは思った。
「いいのか?こんなに良い物を、俺に与えて」
槍を手に取り、光に翳した。持ち手に施された金の細工がきらりと輝き、填められた青い宝石がカインの瞳を射抜いた。
「……綺麗だ」
思わず口にしたカインに、
「思った通りだ。お前の瞳によく合う」
とゴルベーザは答えた。
「お前、おかしいぞ。俺を脅しておいて、何故そんなことを言うんだ」
男の喉元にこの槍を突き付けてやろうか、と思う。しかしとても敵いそうもないと判断したカインは、一度上げかけた槍の切っ先を、地面に向けた。
「何故だろうな。お前を見ていると、放っておけない気分になる。自分でも、よくは分からんのだが…………っ」
突然、辺りに暗い空気が満ちる。
ゴルベーザが膝をつき、彼の周りに紫の光が爆ぜた。
「……ゴルベーザ……!?」
「う、う……っ」
立ち上がろうとするゴルベーザを、紫の光が阻む。よろめいた彼の手の先に在ったのは机上に載せられていた大量の書類で、それらはぶちまけられ、床を覆い尽くした。
カインは焦り、ゴルベーザに触れようとする。わけの分からない焦燥感に駆られ、ゴルベーザの兜を持ち上げようとした。
「やめろ……私、に、触るな…………っ」
「今は非常時だろう!!苦しんでいる奴を放っておけるか!!」
諦めたのか力尽きたのか、ゴルベーザの抵抗が弱まる。その隙をついて、カインは兜を取り去った。
薄紫色をした瞳が見上げてくる。汗が浮いた額にはり付いた髪は癖を持った銀色で、整った鼻梁と唇の形に、カインは既視感を覚えずにはいられなかった。
「…………お前」
思わず、色を失った頬に触れる。
ゴルベーザの目が見開かれ、瞬間、カインの視界は暗転していた。
辺りは暗く、やけに靄がかっていた。黒い霧が、足元を撫でていた。
「――――ここは……」
呟きは、闇に吸い込まれて消えてしまう。
この空間は何なのか。それが知りたくて、カインは歩き始めた。
「誰か、いないのか」
夢かもしれない、と思う。これは悪夢で、本当の自分は地面に倒れているのではないか、と。
けれど、やけにはっきりした思考が、これは夢ではないと告げていた。
ふと、遠くで何かが聞こえたような気がして、カインは耳を澄ませた。
(動物の鳴き声?)
暗い視界の中で、薄ぼんやりと何かが見えてくる。目を凝らした先にいたのは、突っ伏して泣いている、一人の子どもだった。
「ひっ……く……」
幼い少年は、肩を揺らしてしゃくりあげていた。カインは少年に近付き、少年と目線を合わせるために座った。
「どうして泣いているんだ?何があった」
少年が顔を上げる。濡れた瞳は薄紫色で、カインの心臓はどくりと鳴った。
「……お兄ちゃん……助けに、来てくれたの」
彼はにっこりと笑った。そうして赤くなった鼻をすすり、カインに抱きついた。
「僕、待ってたんだよ。僕に初めて触ってくれたお兄ちゃんが来てくれるのを、ずっと待ってたんだ」
『お兄ちゃん、助けて!お兄ちゃんっ!』
『僕をここから出して!』
以前ゴルベーザに触れたときに見た少年を思い出した。そうか、この少年は、あの少年と同一人物なのだ。
「ここは、一体どこなんだ」
「……僕にも分からない。僕は独りでここにいて、誰の声も聞こえなくて……。お兄ちゃんが、初めてだったんだ。僕に触ってくれたのは、お兄ちゃんだけだったんだ」
「そう、か……」
この世界の果てのような空間に独りでいることの辛さを思い、カインはそっと目を伏せた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何だ?」
縋りついてくる少年の体を、カインは優しく抱きしめた。とにかく、ここを出よう。彼を助けよう。カインの頭の中は、そのことで一杯になった。
「お兄ちゃんは、僕と一緒にいてくれるの?僕を好きでいてくれるの?僕を――」
早口でまくしたてられ驚き、少年から体を離し、その薄紫の瞳を覗き込んだ。乱れた茶髪の隙間から見えるそれは、光もないこの場所で、美しく輝いていた。
「――僕を、抱きしめていてくれる?」
あまりにも彼が不憫で、それ以上に他人事とは思えず、カインは少年を抱きしめた。
身寄りのない子どもなら、自分が引き取って育てよう。彼は一人なのだ。自分と同じ、一人ぼっちの人間なのだ。
「俺が、傍にいる。だからもう泣くな」
「お兄ちゃん……」
突然、胸元に痺れが走り、カインは息を飲んだ。目の前がぼやけ、酷い頭痛が頭を覆った。
息ができなかった。ひゅうひゅうと喉が鳴り、脂汗が滲み出た。
「お兄ちゃん。ずっと、僕の傍にいてね」
歯の根を合わせることもできずに倒れ込んだカインの手を握りしめながら、少年は微笑んだ。
「絶対だよ。約束だよ」
意識が剥がれ落ちていく。世界が回り、何もかもが真っ黒になって消えてしまう。
あの少年は何者で、ここはどこなのか。
そして、自分はどうなってしまうのか。
そんな考えは闇に消えた。
●
天井だ。
コードが張り巡らされた天井。銀色の天井。――これは、ゾットの塔の天井だ。
「カイン」
男の声が、静寂を破った。霞みがかった視界の中には、苦渋に満ちた男の顔があった。
「カイン……」
セシルかと思ったが、そうではなかった。男は、ゴルベーザだった。カインは起き上がろうと体を捻る。けれど金属音が響いただけで、どうにもならなかった。
上に視線をやる。手首に手錠がはめられていた。手錠には鎖が取り付けられており、その鎖はベッドの脚に繋がれていた。「何のつもりだ」と叫ぼうとして、絶句する。自分が丸裸なことに気がついた。
「……何の、つもりだ」
叫べなかった。声が震えた。
辺りには、甘い香りが満ちていた。それは花のような菓子のような、どこか懐かしい香りだった。嗅いでいるだけで、頭の芯がぼうっと揺らぐのが分かった。
「私の傍にいてくれるんだろう?」
男の声には、寂しげな色があった。ぞくりとした。その声はあまりにも暗かった。
胸を撫でる手つきに、自分の運命を知った。
「や、やめろ」
内腿を撫で上げる動きは、酷く淫らだ。甘い香りがきつくなった。香りに色が付いていたとしたらそれはピンクがかった薄紫に違いない、などという馬鹿なことを考えた。そんなことを考えている間に、足を持ち上げられていた。
「俺は男だぞっ!馬鹿なことはやめろ!」
わあんわあんと反響した声は、部屋に反響したのか、頭の中に反響したのか。鎖が耳障りな音を放ち、カインは自分の無力さを呪った。
「あ、ああ、あ、あ……!」
圧迫感が、カインを苛む。カインの瞳に映っているのは、憂いに満ちた男の顔だった。
(俺を拘束しているのはお前だろう。強姦しているのもお前だろう!)
おかしな話だった。犯している人間の方が、辛そうな顔をしている。甘さの中に、血の臭いが微かに混じった。当たり前だ、とカインは思った。カインは男と寝たことなどなかった。
男は無理矢理腰を進める。カインの体が限界を訴えているにも関わらず、その行動はひたすら性急だ。この香りのせいなのだろうか。圧迫感はあったが、痛みは殆ど感じなかった。
『私の傍にいてくれるんだろう?』
男の言葉を思い出す。そんな約束をした覚えはない。
いや、違う。約束はした。どこでだ。一体どこで。
『お兄ちゃんは、僕と一緒にいてくれるの?僕を好きでいてくれるの?僕を――』
少年の声だ。そうだ、あの夢の中で会った少年だ。しかし、あれは単なる夢で、あの孤独な少年は現実には存在しないのではなかったか。
『――僕を、抱きしめていてくれる?』
瞬間、壊れ物を扱うかのような優しさで、ゴルベーザがカインを抱きしめた。
「……ゴルベー……ザ…………?」
『僕、待ってたんだよ。僕に初めて触ってくれたお兄ちゃんが来てくれるのを、ずっと待ってたんだ』
何かが流れ込んでくる。頭の奥に沁み込んでいく。
(これは、ゴルベーザの感情か?)
哀しい、寂しい、辛い、誰か、誰か。誰か誰か誰か誰か。
吐き気をもよおすほどの感情の嵐だ。まるで自分のことのように思えて、カインは一筋の涙を流した。
戻れないあの頃を思う。セシルとローザと、無邪気に笑い合えた穏やかな日々を心に描く。もう、あの頃には戻れない。前に進まなくてはならないことは分かっていた。それでも、寂しくて堪らなかった。
哀しくて、寂しくて、辛くて、でも、傍には誰もいなかった。
「ゴルベーザ……」
すすり泣く声が、カインの耳に届いた。
体の自由が利かなくなっていく。操り人形の如く絡めとられ、一本一本の糸で繋がれていく。体が木製になったような気がした。瞳の代わりに青い硝子をはめられて、誰かに操られる。
最後の力を振り絞って体を捩った。ゴルベーザと目が合い、薄紫の瞳の切なさに、全てを理解する。
口づけが降ってきて、カインは拒めず目蓋を閉じた。
僕の心に触って。少年の慟哭が聴こえてきて、それが最後だった。
●
抗おうと思えば抗えるのではないか。操られながら、そんなことをカインは考えていた。
「カイン!」
手首を拘束された格好で、ローザがカインの名を呼んだ。
「どうして、こんなことを」
見る角度によって色が変わる彼女の瞳が、涙でちらちらと揺れている。
「どうして、こんな……っ」
ファブールでセシルと対峙し、ローザを捕えた。
操られているから仕方がない、という言い訳は通用しない。頭のどこかで、この事実を喜んでいる自分がいた。
「貴方とセシルは……私は、幼馴染でしょう?親友でしょう?……違ったの?私とセシルが勝手に思っていただけだったの?」
目にいっぱい涙を溜めながら、けれど、彼女は泣かなかった。必死で堪えるその姿に、カインはローザらしさを感じた。
自分の行動の意味が分からないわけではなかった。
セシルとローザが恋仲になれば、三人の中にあった心地よい均衡が崩れてしまうということを、カインは知っていた。
幼い日には戻れない。セシルはローザのものに、ローザはセシルのものになり、そして。
(俺は独りになってしまう)
似合いの二人じゃないか。少し気の弱いセシルを、ローザは支えていくだろう。少し頑張りすぎる傾向にあるローザを、セシルは優しく包み込むだろう。
「ねえ、カイン。私達のことを嫌いになったの?どうしたら、元の貴方に戻ってくれるの?」
違う。好きだから、こんな感情を抱いてしまうんだ。
質問に口を閉ざし、槍を握り締め、俯いた。
こうなれば、後は雁字搦めに陥っていくだけだった。
蜘蛛の糸のように、それはありとあらゆる場所に張り巡らされ、カインの体を縛りつけていった。
死んでしまう、とカインは言った。
こんなことを続けていたら、死んでしまう。ゴルベーザの胸に縋りつき、熱い吐息を漏らしながら呟く。仰け反った首筋に与えられる口づけは甘く、淫らだった。
カインはゴルベーザに縋りつき、ゴルベーザもカインに縋りつく。似た何かを持つ二人は互いが出す糸に絡めとられ、身動きが取れなくなっていった。
これは愛なのか、同情なのか。カインは自問する。ゴルベーザに揺さぶられながら、彼の腰に足を絡ませ、目を閉じる。
ああ、これは愛でも同情でもない。この感情に名前をつけることなどできない。
「…………ゴルベーザ……様……」
言えば、総てを捨てた笑顔でゴルベーザが笑う。眉を歪ませ、不自然に、苦しげに。
月光が、彼の顔を淡く照らしていた。
「ずっと、俺の傍に……いてくれますか」
それは、彼が言った言葉だった。カインはあの言葉をなぞり、口にしていた。
「俺を、抱きしめていてくれますか」
ゴルベーザは目を見開いて驚きの表情を見せた後、またあの顔で微笑み、カインを強く抱いた。
「……愛しています、ゴルベーザ様」
「ああ」
「ずっと……永遠に」
「……ああ」
「永遠に、貴方と……」
口づけ合った。快感だけでなく、感情を交わらせるために。全てを分け与え、苦しみを軽くするために。
(死んでしまう、こんなことを続けていたら、死んでしまう……)
胸が痛くて、涙が溢れそうになって、息もできずに。
束になった蜘蛛の糸が、ゆるゆるとカインの喉を締めつけ、彼を縊り殺そうとしていた。
寂しくて抱きしめ合うのに、抱きしめ合えば合うほど寂しくなっていく。
「もう、クリスタルはいらない」
ゴルベーザが言った。苦しげで、悲しい声だった。
「お前以外、もう、何もいらない……」
●
世界は閉ざされていた。
カインの耳に、低く冷たい声が届いた。
――貴様は用済みだ。
(ゴルベーザ……)
カインの胸に痛みが走る。
確かに、二人の間にあるものは愛ではなかったのかもしれない。ただただ、寂しさを埋めるために抱き合っていただけなのかもしれない。
けれど、そう思うには、カインとゴルベーザは近づきすぎていた。
(どうして、そんな事を言うんだ)
互いに満たされていたはずだったのに、ゴルベーザは変わってしまった。
いつのまにか氷の瞳でカインを射抜くようになり、最後には兜を被って素顔すら見せなくなってしまった。
決定打は、あの言葉だった。ゴルベーザは、カインを一つの駒としか認識しなくなっていた。
(……用済み)
言葉が、杭のように胸に突き刺さる。
窓から身をのり出し、空を見上げた。
久しぶりに帰ってきたバロンの自室は、依然と何ら変わってはいなかった。
なのに、ただただ、とても懐かしい。そう、ここを出発してから、長い年月が経ったかのような錯覚を覚えるほどに。
自分は操られていたのだ。操られていたから、ゴルベーザに対しておかしな錯覚を覚えてしまっているんだ。カインはそう思おうとした。
ならば、この感情はなんだ。どうして、ゴルベーザのことばかり考えてしまうんだ。
二つの美しい月。
ゾットの塔から見える月を、カインは思い出していた。ゴルベーザが、切なげな眼差しであの月を眺めていたことも。
薄紫の瞳に映る月は淡く、ゴルベーザの瞳を彩っていた。そんな時、カインはゴルベーザを抱きしめずにはいられなかった。
二人だけでいられる場所があれば良かったのに、とカインは思い、自らの少女趣味な発想に自嘲の笑みを浮かべた。
悩みのない、二人だけの世界へ行けたらどんなにか幸せだったろう。
――お前以外、もう、何もいらない。
叶わぬ夢だからこそ、焦がれ、望んでしまう。
「…………ゴルベーザ……俺は……」
涙で滲んだ月が、ぐにゃぐにゃと揺れる。
会いたい。ゴルベーザに会いたい。
自分の足首に透明な枷がついているのではないか、とカインは思う。見えない重い鎖が、あの男のところまでのび、繋がっている。
冷たい鎧の感触が、カインの指先を捕え続けていた。
●
地底を訪れたカイン達を待ち受けていたのは、赤い翼の襲撃だった。
墜ちていく飛空艇の上、カインはゴルベーザの声を聞いた。
優しく、悲しげな声だった。
その声はカインの耳の奥底で響き、小さな塊になり、彼の思考に何かを残した。
人形が踊っている。虚ろな瞳で人形が回るその度に、丸い関節が軋んでがりがりと嫌な音をたてる。
磨き上げられたクリスタルルームの床の上で、人形は口角を上げていた。
カインは、人形の瞳の中に、自らの心を見た。
人形の瞳は、自らの虚ろな心そのものだった。
セシルの剣が人形――カルコブリーナ――の首を落とした瞬間、人形の瞳がぐるり、と一回転した。
その異様な動きにカインは寒気を覚え、身を震わせた。他の者も同じだったらしく、ローザは、ひっ、と小さな悲鳴をあげている。
人形が元通りにばらばらになる。それぞれ地面に突っ伏し、ぶつぶつと何かを呟き始め、名前を放つ。
「――――ゴルベーザさま!!」
その名を聞いた瞬間、カインは胸痛みを覚えた。人形が沈黙する。息を詰めた。
「ゴル、ベーザ……」
カインの足首に枷をつけた男が、そこに居た。
言い表すことのできない感情が、カインの中を駆けていく。
漆黒の甲冑を見つめていると、胸の痛みが酷くなっていく気がした。
ゴルベーザとセシルが何かを話している。すぐ近くにいるはずなのに、カインには彼らの声が聞こえない。
必死で槍を振るい、跳躍する。けれど、何かがおかしい、とカインは思う。
ゴルベーザは、ただの一度もカインを狙ってこない。
(……ゴルベーザ、どうして)
――カイン……
ゾットの一件以来聞こえなくなっていた思念波が、カインの頭の中に響き渡った。
槍を握りしめたまま、カインは静止する。
――私のところへ、戻って来い……
叫び出したくなるほど、切なげな声だ。
――私の傍にいるのではなかったのか。
お前が“いらない”と言ったんだろう。カインは答える。
――私を助けてくれ……カイン
(助ける?)
激しい金属音が、部屋全体に響き渡った。
跳躍体勢を止め、顔を上げる。
(ゴルベーザ……ッ!)
セシルの剣が、ゴルベーザの甲冑の隙間を縫い、喉元を貫いていた。
カインの喉元に、痛みが走る。まるで、自らの喉元を貫かれたようだ。半身を裂かれる痛みに呻く。
ゴルベーザがよろめき、黒竜を呼ぶ。これくらいで、ゴルベーザが死ぬはずがない。それは分かっていた。
ならば、この痛みは何なのだろう。
どうして、自分は痛みを感じている。
セシルが剣を引き抜いた瞬間、ぼたぼたと血が滴った。床にできた血溜まりはみるみるうちに広がり、けれどゴルベーザは何でもないことのように立ち上がる。
「……呪縛の冷気」
“助けて”という言葉とは対照的なゴルベーザの行動に、カインは釘づけになる。動かない足、凍りついた手。それでも、ゴルベーザから視線を逸らすことはない。
黒竜が吐き出した真っ黒い闇が、皆の体を覆い尽くした。
●
細かい火が、ぱちぱちと光っている。薪が爆ぜ、空気が揺らぐ。
封印の洞窟の中で、火の番を買って出たのはカイン自身だった。
火の前で、槍を握り締める。敵の気配を探り、神経を尖らせる。
この洞窟に入ってから、頭痛が酷くなったような気がする。乱れた髪をかき上げながら、カインは溜息をついた。
(いっそのこと、切ってやろうか)
髪を束ねなおそう、そう思い、紐を解く。だいぶ伸びたな、と毛先を見つめた。
見た途端、「お前の髪が好きだ」というゴルベーザの声が蘇ってきて、カインは乾いた笑いを漏らした。槍を振りかぶる。地面を突き刺した。
何故、忘れようとしない。あの男は、自分を殺そうとしたんだぞ。
(……だが、『助けて』と言っていた…………)
瞬間、殺気が辺りを満たし、カインは槍を手に立ち上がった。背後から、何かが飛んでくる。跳躍し、ぎりぎりのところで避けた。
壁には、手裏剣が突き刺さっている。
「やるじゃねえか」
「……エッジ」
エッジは悪戯っぽく笑っていた。
「眠ったんじゃなかったのか、王子様」
暗い顔をしていたところを見られただろうか。思いつつ、カインは明るい調子で声をかけた。
手裏剣を壁から取り、エッジはカインの傍に腰かける。口元の布を下げ、こちらを覗きこんできた。
「迷ってんのか?」
「……え?」
「おめぇ、まるで迷ってるみてえな目をしてるぞ」
自分は、迷っているのだろうか。
それすら分からない。
分かるのは、ゴルベーザを想うときに頭が痛む、ということだけだ。
「俺が、何を迷っているというんだ?」
「……さあ。自分で考えな」
「俺に迷いなどない」
「どうだか」
言いつつエッジは抜刀し、その切っ先をカインの首筋に突きつけた。
カインの首筋に、微かな痛みが走る。
鋭い殺気に包まれて、エッジは本気だ、とカインは悟る。よく手入れされたエッジの刀は、カインの首を簡単に落としてしまうだろう。
(迷い……)
首を落とそうとしている刀のことも忘れて、カインは自らの心の奥を探った。
“俺の居場所はここなのだろうか”という考えが、頭を過る。
殺されかけたという事実があって、それでもなお、自分はあの男の元へ戻りたいのではないか。
カインは、ゴルベーザに想いを馳せた。
「カイン。迷いの末にあるのは後悔だ。さっさと決めちまった方がいいと俺は思うぜ」
離れていく刀身には、微かに血が付いていた。
張詰めた糸がぷつりと切れる音。
手の中にあったのは、セシルが持っているはずの、闇のクリスタルだった。
「どうして」と口にして、カインは辺りを見回した。
周囲には誰もいない。
真っ暗闇の中、カイン一人が立ち尽くしていた。
糸を引くような闇だけが、この世界の全てだ。
「…………あ……」
(また、俺はセシル達を)
均衡を崩すことを恐れて彼らを傷つけ、殺そうとした自分を、セシル達は優しく受け止めてくれたのに。
(ああ、そうだ。あの時、ゴルベーザの声が聞こえて――)
立っていることも辛くなり、カインは座り込んでしまった。
闇に捕らわれそうになる。粘ついたそれは、沼に似ていた。
自分は、セシルを、ローザを望んだのではなかったのか。“俺の居場所はここだ”、と、心に決めたのではなかったのか。
『おめぇ、まるで迷ってるみてえな目をしてるぞ』
(俺は、セシル達とゴルベーザの間で彷徨っていたのか)
闇の中から、突然、黒い手が伸びてきた。身を強張らせる。
「カイン……ッ」
闇の塊のような者が、カインを抱きしめた。
「ゴル……ベーザ……?」
どろどろの液体の中から現われたのは、ゴルベーザだった。兜を被っておらず、鎧は闇にまみれている。
「ゴルベーザ、お前」
男は泣いていた。
静かに泣きながら、「どこにも行くな」と口にする。
カインはゴルベーザから身を離し、その薄紫の瞳を見上げた。潤んだ瞳には、以前のような人間らしさがあった。
兜を脱ぐ。闇で黒く濡れた髪を抱き寄せ、カインはそっと口づけた。
それは、カインからゴルベーザへ与えられる、初めての口づけだった。
唇を食み、男の存在を確かめるように息を交わす。クリスタルは落下し、闇の中に浮かんでいた。
「……お前がいなければ……私の心は、闇にまみれたままだった。一筋の光も射さず、暗闇の中でたった独りで」
「ゴルベーザ……」
「光を見なければ、こんな気持ちにはならなかった。お前と出会わなければ、私は以前の私のままでいられたのに……っ」
押し倒され、手首を固定される。カインはゴルベーザに組み敷かれながら、泣き笑いのような表情を浮かべた。
今から何をされるのかは分かっている。
複雑な気分のまま、カインはただ拘束されていた。
荒々しく下半身の衣服を剥がれ、カインは目を閉じた。
(俺はお前の“光”なのか……?)
服を破く音が、カインの耳に届く。
体でしか物事を伝えることができない男。
(ああ、それは、俺も同じか)
闇に沈む体、全てを受け入れる為に足を開く。
太腿をなぞる指に、思考をもっていかれそうだ。
繋がっていないと、不安になってしまう。自分達は別々の存在なのだと、思い知らされてしまうから。
「ゴルベーザ……ッ」
悲しくて、惨めで、どうしようもなくて、誰にも話せず、独りぼっちだった。
出会わなければ、孤独を知ることもなかった。触れ合ってしまったから、互いの世界は変わってしまった。
幸せには、終わりが来る。人は死ぬ。人は変わる。未来は変えられない。永遠など、存在しない。
カインは知っていた。幸せな日々は続かない、ということを。
父と母がいる『永遠』は存在しなかった。二人が居た過去は遠く、懐かしい声すら思い出すことも困難になっている。
セシルとローザとの関係も変わり、バロン王は死んだ。
世界は変わり続けている。それが、怖くて堪らなかった。まるで自分一人が置いていかれてしまうような錯覚に陥り、歩を進めるのが難しくなってしまった。
(ゴルベーザ。お前は、俺の“光”なんかじゃなかった)
ゴルベーザはカインの“光”ではなかった。ゴルベーザはカインの“闇”だった。
だからこそ、カインはゴルベーザに惹かれたのだ。眩い光の中に突如現れたゴルベーザという“闇”は、カインの心を惹きつけてやまなかった。
自分の中に棲む闇を認め、カインはやっと息をすることができるようになった。ゴルベーザの腕の中でだけ、大きく深呼吸をすることができたのだ。
「ゴルベーザ」
カインにとって、ゴルベーザは、眩く輝く“闇”だった。
闇に犯され、カインは幸せだった。
(皆が言うほど、俺はお綺麗な人間じゃなかったんだ……)
やっと、本当の自分に出会えたような気がしていた。ゴルベーザだけが、カインの中の“闇”を愛してくれた。
堕ちる。
這い上がれない。
まるで、共倒れだ。
「……だめ、だ…………」
このままでは、いけない。そんなことは分かっている。
愛しく、優しく、ゴルベーザはカインの暗い心を愛撫する。「お前の闇が愛おしい」と、深い場所を抉って舐める。
押し入られてはいけない場所にまで侵入されることを許し、カインはゴルベーザに口づける。「お前を独りにはしない」と、震える背を抱きしめる。
「駄目、だ……ゴルベーザ……ッ」
ゴルベーザに、光り輝く世界を見て欲しかった。
あの果てのない暗闇で、幼いセオドールはまだ膝を抱えて泣いている。あの少年を、助け出したい。本当の太陽を見せてやりたい。
あの少年の心に触りたい。
触れた肌、汗の浮いた胸に手のひらを押し当てる。どくり、どくり、心臓が鳴っているその先に触れたくて、力を籠めた。
心臓の先、もっと先、この先に、ゴルベーザの“光”がある筈だ。お前の光はどこだ。お前の本当の心はどこにある。
カインの指先が、ゴルベーザの肌を破る。胸に穴が開き、どろりと闇が溢れ出す。驚愕に見開かれた瞳を見つめ、これだと思ったものをむんずと掴んだ。
途端、流れ込んできた情景が、カインの頭を覆い尽くし始めた。
真っ暗闇の中、セオドールが、赤ん坊を抱いて佇んでいる。
嫉妬に塗れた幼い感情が、そこにはあった。
「お兄、ちゃん……」
寂しげな表情に、諦めが浮いている。
走り寄り、赤ん坊ごと抱きしめた。
「……行くぞ。お前がいるべき場所は、ここじゃないんだ」
「行けないよ。僕には……いるべき場所なんて……」
ゆっくりと首を横に振る少年の顔を見つめ、
「……俺がいるだろう?俺の傍にいろ。俺の隣が、お前の場所だ。お前は独りじゃない。……俺も、独りじゃない」
少年の姿が霞み、ぶれ、青年の姿になる。茶色の髪は身を潜め、耳にかかる程度の銀の髪が微かに揺れていた。カインと同じような歳に見えた。
彼の腕の中に、赤ん坊は見当たらない。
(お前は、どれほど長い間この場所で)
「カイン……」
セオドール――――ゴルベーザは、泣き笑いのような顔で顔を歪める。
カインは、ゴルベーザの長い孤独を想った。
自分が家族と、友人と微笑み会っている時も、ゴルベーザはこの場所に佇んでいたのだ。
おそらく何十年も独りきりで、膝を抱えて泣いていた。
「ゴルベーザ、幸せになろう」
言葉は自然に零れ出た。
大切な時間を取り戻そう。二人で幸せになればいい。共に、光の下で生きよう。
(永遠など存在しない。けれどそれを知っているから、だから、俺は今を大切にすることができる)
眩い光が瞬き、カインは目蓋を開いた。背を壁に預けたまま、気を失っていたようだ。
腕の中にいる存在を認め、あの暗闇から抜け出ることができたことに安堵する。
小さな寝息が聞こえてきた。
まるで子どものようだ。膝枕で眠っている男の姿に、思わず、笑みが零れる。
涙で濡れた頬に指を這わせて「お前のことが好きだ」と呟くと、閉じられていた目蓋がゆっくりと開き、唇が微かな笑みを刻んだ。
End