壊れそうになっている男を、見つめる。
 彼の青い瞳は涙に濡れて色を失くし、指先は震え、声は掠れていた。
 金の髪は汗で汚れ、散々押さえつけた手首は赤く――――ここまでしても姿を消さない自分自身の欲望に驚きながら、彼の耳元に唇を近づけた。
「カイン」
 泣き腫れた瞼が、何度か瞬きを繰り返す。ペニスを挿入されたままなのが辛いのだろう。
 もう一度「カイン」と呼べば、「はい、ゴルベーザ……様……」と、呻くような声で彼は応えた。
「苦しいか?」
 もう、何度注ぎ込んだのかも憶えていない。どれくらいの時間、犯しているのかも分からない。

 カインは、私が頭の痛みに耐えていた時、この部屋にやって来た。ベッドに倒れ込んでいた私に驚いたのだろう、彼は急いで駆け寄ってきた。
 そんな彼を私は、躊躇うことなくベッドの中へ引きずり込んだのだった。

「あ、ああぁ……っ!」
 耳の中に舌を挿し入れると、後腔がきつく締まった。カインの中は、私のものを根元まで欲しがるかのようにひくひくと蠢いている。太股に指を滑らせて膝の裏を押さえつけ、腰を緩く振った。
「あぁ、あっ、あああぁ、んっ」
 彼の悦い場所は、既に知り尽くしている。その場所を責め立てれば、身も世もなく喘ぐ。普段の彼からは想像もできぬほど、淫らに歪んだ表情を見せる。
 どんな刺激にも敏感に反応する。いやいやをするように首を横に振り、シーツを握り締めて嗚咽する。そんなカインの姿を見ていると、もっと欲しくて堪らなくなってしまう。これ以上はいけないと分かっているはずなのに、彼の中を穢したくなってしまう。壊したくなってしまう。汚らしい願望が、鎌首をもたげてカインを犯し殺そうとする。『殺してしまえば自分だけのものになるのではないか』という考えが、頭の中で渦巻いて消えない。
 カインには、帰る場所がある。私の腕をすり抜け、セシル達の元へ帰ってしまう日が来る可能性は高い。どんなに洗脳の術をかけても侵入することができない場所が彼の中にはあって、その場所がある限り、カインの全てが私のものになることはないだろうと思われた。
 カーテンが揺れる度、カーテンの向こう側にある月も揺れる。いびつな形をした月が、私の心を狂わせる。そして、その月よりも私を狂わせるものが、私の手の中にあった。
「……ゴルベーザ、さま……も、ゆるし……あ、あぁ…………っ」
 私と同じ闇を抱えている男。決して私のものには成り得ない男。深い深い心の闇はこんなにも同じなのに、こんなにも遠いのは何故なのだろう。触れるほどに遠く感じてしまうのは、彼の中に一筋の光があるからなのか。
 唇を合わせ、舌を吸った。私が教えた通りの動きで応えながら、カインはぼろぼろと涙を零した。
 彼に口づけを教えたのは、私だった。ローザだけを一心に見つめてきた彼は、他の女性を見ようともしなかったのだろう。快楽の味を知らなかった彼の体は抗うこともできず、ひたすらその味を覚え込んでいった。覚えが良いなとわざとらしく褒めると、カインは羞恥と屈辱を綯い交ぜにした顔で震え、喘ぎ声を必死で堪えようとする。
 どんなに穢しても、壊そうとしても、カインは変わらない。今にも私の手の中に堕ちてきそうなのに、決して堕ちては来ない。焦燥感だけが積もり、胸の中がどろどろとしたもので充たされていく。
「……いやらしい奴だ」
 唇を離して言うと、カインは顔を両手で覆った。
「快楽で、気が狂いそうなのだろう?」
 そっと手を剥がせば、青い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。
 「はい」と呟き、彼は唇を引き結んだ。


***


 これほどまでに洗脳の術にかかりやすい人間を、私は知らない。
 洗脳の術を弱くかけるだけで、彼の心は陥落した。それは彼の心が闇を纏っていたからだった。闇を持つ者の心は弱く、縋りつくことができるものを常に求めているものだ。私は、カインの手を取った。カインは、それを拒まなかった。

 ミストが火に包まれたあの日、召喚士達が死んだかどうかを確かめるため、私はミストを訪れた。カイナッツォの作戦は成功したらしく、生き残りは殆ど存在しなかった。バロンにいた邪魔者を使者として送り込んだとカイナッツォは言っていたが、その話を聞いた時はその人物を知りたいとも思っていなかったので、私は『使者』の性別すら知らなかった。
 そうして、私は一人の竜騎士を見つけた。竜騎士はぐったりとしていて、致命傷を負っていることが見てとれた。

「……セシル……」
 土埃の中、竜騎士の薄い唇が、見知らぬ誰かの名を呼んだ。『セシル』を心配しているのだろうということが分かった。
 誘われるようにして抱き起こせば、血塗れの指先がこちらに伸びてくる。握り返した男の手は、冷たかった。
 死んでいるのかと思ったが、青い瞳は光を失ってはいなかった。
 青い瞳だった。
 空の青に似ていると思ったが、深い海の青にも似ていた。白目の部分は青を映えさせるように白く、瞳はぞくりとするほど硬質だった。痛みから来るものなのか、金の睫毛は涙でうっすらと濡れていた。
 私は、彼を抱くようになってから彼の体温の低さを知った。
「セシ……ル……ッ」
 私を、その『セシル』と間違えているのだろう。
 こんなにも求められる『セシル』という存在を、羨ましく思った。私は、誰かの特別になったことがない。こんな風に求められたこともない。死の淵に居ながら、彼はただひたすら『セシル』のことを求め、心配している。酷く虚しい気持ちになった。自分の孤独な人生を見せつけられたような気がした。
 このまま放置しておけば、出血多量で勝手に死ぬだろう。周囲の土は、赤黒く濡れていた。死ななかったとしても、血の匂いを嗅ぎつけた魔物が男の体を喰い散らかすに違いない。
 傍に転がっている槍をちらりと見れば、その槍の柄には小さな紋章が描かれていた。バロンのものだ。これが使者か。
 ――――使えるかもしれない、と思う。この男を連れ帰る理由ができた、とも思った。
 男は気を失っている。マントに包んで胸に抱き、バブイルの塔へと向かった。




 ルゲイエに男を任せてから、一週間が経過した。
 「もうじき目覚めますよ」とルゲイエは言い、銀色の寝台に寝かされている男の瞳を見たくて、私は彼の目覚めを待った。
「この男が、そんなに気になりますか」
 ルゲイエが、首を傾げながら呟いた。兜を外しながら聞く。
「コレは、単なる竜騎士ですよ。常人以上の身体能力はありますが、それだけです。ベイガンのように魔物に改造してしまえば使えるかもしれませんし、やはりここは魔物に――――」
「……言っただろう。魔物に改造する気はない。この男はバロンの人間だ。使いどころは、いくらでもある」
「はあ……」
 つまらなそうな顔をして、ルゲイエはがっくりと肩を落とした。ルゲイエは、人間を魔物に改造するのが好きなのだ。自らの体を機械仕掛けにするだけでは飽き足らず、拾ってきた人間を改造して楽しんでいる。
「あっ」と声をあげたルゲイエの視線の先を見ると、男が目を覚ますところだった。長い指がぴくりと動き、瞼の下で眼球が回るのが見えた。
 「席を外せ」と命じれば、ルゲイエはまたつまらなそうな表情をして部屋を出ていった。
 青い瞳が、金の睫毛の間から覗く。鮮やかな青だ。焼けつくように胸が痛くなり、息を吸うだけで息が苦しくなった。
「……こ、こ……は……?」
 金の髪が美しかった。白いシャツを身につけただけの姿は無防備で、土埃や血に塗れていない顔は整っている。
 困惑に揺れる瞳に吸い込まれそうな心持ちになり、これを自分だけのものにしたいと考え、得物を持たぬ手を拘束するために両手首を一纏めに掴んだ。息を飲む男の額に自らの額をあてる。吐息が触れ合う程の距離だ。
「や……やめろ……っ」
 顎を持ち上げ、唇に舌を這わせた。逃れようとする男の動きは緩慢だ。長い間眠っていたせいで、体を上手く動かすことができないのだろう。
 少し触れるだけで、洗脳は完了する。それなのに、もっともっと触れたくて堪らなくなった。抑えることのできない醜い感情が、渦巻いて離れない。
 無理矢理に唇を重ねると、鋭い痛みと共に血の味が広がる。噛まれたと感じた瞬間、お返しとばかりに噛み返していた。
「ひ……っう、ん……ん……っ」
 血が混じり合う。舌と血を絡めながら、じりじりと魔力を送り込む。暴れる足は徐々に力を失い、絶望を纏った男は首をゆっくりと横に振った。
「お前……は……誰だ……っ」
 息が荒くなっていく。頬が紅潮し、肌は汗ばみ、瞳が潤む。シャツ越しに胸を撫でると、甘い吐息が零れた。
 魔力を送り込んだ瞬間垣間見えた光景に、どきりとする。
 カインの心の中には、粘着質で真っ黒な闇が存在していた。
「……カイン」
 初めて、その名を呼んだ。バロンの竜騎士は、怯えた表情を隠さずにこちらを仰ぎ見た。
「ど、して……俺の名を……」
「調べさせたのだ。名前だけではなく、歳も家系も知っている。お前の心の中までは、調べられなかったが」
「俺の……こころ……」
 呂律が回っていない。術が行きわたったのか、抵抗らしい抵抗がなくなった。服の上からでも、乳首が尖っていることが分かる。指先で転がすと、背がびくりと仰け反った。必死で、声を押し殺している。
「感じているのか?」
 当たり前のように、答えはなかった。だが、感じていないはずはない。快楽に従順になるよう、術をかけているのだから。
「……ん……ん……」
 シャツの前を寛げて、胸を舐める。尖りきった乳首を舌の先でつつき、歯で挟み、ぷっくりと腫れてしまうほど愛撫し続けた。舌を離すころにはカインのペニスははち切れそうになっていて、軽く触れれば射精してしまいそうだった。
「い、嫌だ……俺に触るな……!」
「出したくて堪らないのだろう? 痩せ我慢せず、快楽に身を委ねろ。そうすれば楽になれる」
 訊くと、「うるさい」という答えが返ってきた。まだ意識を保っているとは。
 力をなくした両足を大きく開いて、ペニスに息を吹きかける。下着越しであるにも関わらず刺激が強かったのか、カインは悲鳴じみた声をあげた。
「達したいのなら、自分でやってみるといい。我慢できるものなら、我慢してみせろ」
 きつく睨みつけてくる彼を嘲笑いつつ、体を離す。離す直前に、術を重ねてかけてやる。ぶるぶると震えながら、カインは葛藤と戦い始めた。背を丸め、猫のように丸くなる。普通の人間なら狂ってしまってもおかしくないほど、きつくて荒い術だ。脳を圧迫するように、快楽を注ぎ込む。
 しばらくの間は辛抱していたようだったが、我慢できなくなったらしい。ついには、躊躇いながらも自らのペニスを握った。
「あ……っ!」
 くちゅり。カインが下着の中に手を入れた瞬間、淫猥な音が鳴った。四つん這いになり、一心不乱にペニスを扱く。唇の端から唾液が零れ、銀色の寝台につうと垂れ、唾液で唇にはりついた髪が私の目により一層いやらしく映った。
「あっ、はぁ……あ、ああ……ぁ……っ」
 額を寝台に擦りつけながら、乳首とペニスを弄りだした。私が見ているということにかまっている余裕はないのだろう。
「……き、もちい、……あぁ、あ、あ、あっ!」
 絶頂を目指している彼の背後に立ち、少しだけ下着を下ろした。
 「やめろ」と口にしたカインだが、手を止めることはできないようだ。全く解れていない後腔に指を突き立て、無理矢理挿し入れた。
「ひ……っ!!」
 そこは酷く狭く、指が喰い千切られてしまうのではないかと思うほどだった。初めて経験する衝撃にがたがたと震えながら、カインはいやいやをするように首を横に振っている。
 狭い。このままでは、入りそうにない。何か潤滑油として使えるものはないかと辺りを見渡すと、寝台の傍にエーテルが置かれているのが目に入った。これを使うか、と思う。
 汗が浮いた白い首筋は眩しく、舌で舐めると人間の味がした。
「あぁ、あー……っ!!」
 指の腹で前立腺を撫でてやると、カインは悲鳴のような声をあげて達した。
「止まらな……ひ、ああぁ……っ!」
 白濁が寝台を汚し、更にきつく中が締まる。長い射精だった。
「……はぁ、はあ……あ……」
 カインは、荒い息を吐きながら寝台に突っ伏した。両足首を掴み、仰向かせ、エーテルを手に取る。瓶の蓋を歯で抜いた。
「い、いやだ……いや……だ……っ……」
 何をされるのか察したのだろう。だが、カインは逃れる術を持たない。私の体の下でもがき、わけも分からぬまま、快楽の底へと堕とされていく。私の掌中へと、沈んでいく。
 再度、カインの奥底にある暗い光景が私の中に侵入してきた。
 先程よりもはっきりとした映像のそれは、嫌というほど見続けてきた光景だった。この光景を、私は知っていた。薄暗く虚しく切ない光景。一人きりで眺め続けてきた光景だった。
 一人きりは嫌だ、一人にしないでと叫ぶ心が、そこにあった。
「……挿れるぞ」
 瓶の先端を後腔にあてると、カインは「ひっ」と小さな声をあげた。
 とぷん、と小さな水音が鳴る。
 口をぱくつかせながら、自らの中に液体が入り込んでいく様を見つめている。瞳を潤ませ睫毛を濡らし、怯えを隠さず息を飲んでいる。
 液体が全て入り終えたのを見届けてから瓶を引き抜くと、カインは「どうしてこんなことを」としゃくりあげながら呟いた。
 ――――どうして、こんなことを?
 それは、私自身にも分からないことだった。青い瞳を見ていると胸が苦しくて、感じたこともないような感情に襲われてしまう。少年であった頃に夢見た心象風景が、目の前にあった。
 自分の心を理解してくれる者が、傍にいてくれたら。私の心に大きく開いた穴を埋めてくれる存在が、腕の中にいてくれたなら。
 美しい生き物。私と同じ、孤独を纏う生き物。行き場のない――――。
「カイン……」
 声が震えた。私らしくもない。金の髪に触れ梳くように撫で、額に口づけた。人の温もりが、どうしようもないほど胸に突き刺さる。
 何を感じたのか、カインの体から力が抜けた。小さな声で「……お前は……」と呟き、切ない表情で私の頬に触れる。
 触れられた場所から痺れにも似た何かが伝わってきて言葉にせずにはいられなくなり、そんな自分に恐怖のようなものを覚えながら、丸い青をただ見つめた。
 私は、何を言おうとしている? 
「……お前なら、私の気持ちを分かってくれると……」
 驚いた顔をし、唇を震わせてから、カインは静かに微笑んだ。何もかもを許すようなその微笑みをもっと見ていたくて、けれど、彼を微笑ませる方法が分からなくて。
「おかしなことを言う奴だ……こんなことをしておいて。俺は、お前の名すら知らないのに……」
 カインはもう、暴れようとはしなかった。切ない笑みを浮かべ、目を潤ませている。何かが通じ合ったような気がした。私がカインの心の光景を目にしたのと同じように、カインもまた、私の中を覗き見たのだろう。自分と同じものを、感じたのだろう。
 彼の中を覗けば、濃い闇の匂いに混じって、甘い孤独の匂いがした。
「んん、あ……っ! んう……っ」
 口づけながら、カインの中に自らのものを挿入していった。やわらかな体だった。一つになることができたという喜びがあった。なくしていた自らの片割れを見つけたような、そんな気がした。
 手放したくない。腕の中に閉じ込めて、自分だけのものにしてしまいたい。そんな野蛮な感情が、鎌首をもたげ始める。
「……ん、あぁっ! あっ、ひ……っ」
 擦られたエーテルが、くちゅくちゅと音を鳴らす。深く突く度カインのペニスは透明の液体を零して、とろりと垂れたそれは彼の腹を汚した。
「なま、え、を……」
 喘ぎの隙間にやっとそれだけを口にして、私の方に手を伸ばす。顔を近づけてきつく抱きしめると、縋りつくかのように抱きしめ返してきた。背に、爪を立てられている。私は、求められている。
「……私の名は、ゴルベーザだ」
 彼の中を抉る。甘い吐息が、耳を擽った。
「ゴルベーザ……ッ」
 もっと求められたい。必要とされたい。心が揺れ動く。制御することのできない感情が込み上げてくる。もっと、私の名を呼んで欲しい。
 途端、忌々しいと思っていたはずの名前が、とても素晴らしく美しいもののように思えてきた。カインは、呪われた私の名を何度も口にする。揺さぶる度に蕩けるような喘ぎが響き、彼のことだけしか考えられなくなる。背に立てられた爪の痛みすら甘く感じるほどだ。
「あああぁっ、ん……ひぁ、あ、ああ……っ!!」
 快楽だけではない何かが、互いを高めていく。カインの眦から涙が流れた。
 彼の心の中にあるのは闇だけではない。触れれば触れるほどそれが分かった。私のことだけを考えていて欲しいと思うその思考のあまりの身勝手さに、眩暈がした。
 どうすれば彼の全てを手に入れられるのだろう。殺せば手に入るのだろうか。
 背に回した手を彼の首にやる。喉仏に親指をあて、力を入れた。
「……ぐ、あぁ……う……っ」
 首を締めると同時に、彼の中が収縮した。腰を打ち付けて抽迭を繰り返し、自らの欲望でカインを歪めようと、彼の中に射精した。
「う、うぅ……ひ、…………っ」
 彼の喉が、笛のような音をたてる。ひゅうひゅうと苦しげに鳴るそれにはっとして手を放すと、カインは何度か咳を繰り返した。
 ――――違う、こんなことをしたいわけではない。
 殺したら、手に入れられなくなってしまうではないか。
「……殺し、………」
 カインの手が、私の両手を掴んだ。私の手を赤くなっている自らの喉元まで導き、首を締めさせようとする。慌てて手を振り払おうとした瞬間、目の前にある青に心を奪われてしまった。
 吸い込まれてしまいそうなほど近くにある、青い瞳。空模様が変わっていくかのように、それは別の色を纏い始める。操られている者特有の色が現れて、嘘をつくことができない体になっていく。
「……殺して…………くれ……」
「……カイン?」
「俺の、心を……殺し……っあ、ぁ……!」
 カインは、心を消したいと思っているようだ。触れた喉元から指先を伝い、薄暗い感情が流れ込んでくる。
 切ないまでの嫉妬心。自らを醜いと思う心。誰も憎みたくない、昔のままでいられたらと望む心。諦めと空虚に巣食う絶望が、彼の心を蝕んでいた。彼は洗脳されたがっている。私が術をかけることを止めようとしても、無駄らしかった。
「――――お前が私のものになると誓うのなら、その願いを叶えてやろう」
 喉元に残る赤い痕を撫でながら、
「永遠に私の傍にいる、と誓え」
 涙の雫が滴った。微笑み、彼は頷いた。
 これは取引だった。私は彼を手に入れるため、彼は心を消すために、お互いの条件を飲んだ。心を失った人形でも構わないと、この時の私は思っていたのだ。カインが「傍にいる」と約束してくれるのなら、それだけでいいと考えていたのだった。
「俺は……お前の傍にいる……」
 掠れた声だった。言葉が、呪文のように沁み込んでいく。
「……俺は、お前のものだ…………ゴルベーザ」


***


 永遠などありえない。
 それを知りながら、俺はゴルベーザの言葉に頷いた。
 永遠があるのなら、セシルとローザと俺、三人の間にも存在していただろう。いつの間にか変わってしまった関係は、心を醜く歪めていくには十分すぎるほどだった。歪んだ姿を見られたくなくて、俺は二人と距離を置くようになった。だが、距離を置いても、歪になった心は戻らなかった。居場所を失った心はさ迷い出し、セシルの優しい笑顔を見る度、ほつれは酷くなっていった。
 永遠などありえなかった。
 夢見ていた俺が、馬鹿だったのだ。

『永遠に私の傍にいる、と誓え』

 悲しい瞳をした男は、夢見るようにそう言った。まるで子どものようだった。俺が「永遠など存在しない」と言ったら泣き出してしまうのではないかと思う位だった。一瞬「人間はいつか死ぬ、俺が死んだら永遠は成立しない」と言おうとしたが、どうしても言い出せず、言葉は胸の中に仕舞い込まれた。男は、俺と同じにおいを持っていた。永遠というものに憧れを抱いていた。その憧れを壊すことは、出来なかった。、
 俺は男の術にかかることを望み、男は俺の肌の温もりを望んだ。利害は一致しているはずなのに、触れ合う度に、心が軋んだ。割れて壊れてしまいそうになった。満たされることも、なかった。

『……泣いているのか』

 ゴルベーザの腕の中で、俺は何度も涙を流した。自分の意志と関係の無い場所で流す涙は本物で、俺はあの腕の中でだけ、素直になることができた。セシルの元へ戻らなければと考えない日はなかったが、ゴルベーザの傍を離れることなど出来ないという思いが、その考えを打ち消し続けていた。
 ゴルベーザは、俺に術をかけ続けた。術は媚薬のように俺の中に入り込んで、体を、心を暴いていった。
 ゴルベーザは、俺が離れていかぬようにと術で縛り付け、泣く俺を抱き締め、快楽の闇の中へと引きずり込んで、それでもまだ足りないとばかりにただ、俺を求め続けた。
 俺は、ゴルベーザを「ゴルベーザ様」と呼ぶ。洗脳されている者特有の硝子玉のような瞳で彼を見、彼に従い、彼に体を開く。けれど、俺の体が本心と別の方向へ動くことは一度もなかった。俺は、俺自身の意志でゴルベーザの傍に立っていた。彼に求められることが嬉しかったから、彼を拒む気など起こらなかった。
 ありのままの自分を見て欲しい。
 そう思うこともあったが、怖さが先に立った。操られているという事実は俺の心を軽くしていたから、術を解かれることが怖かったのだ。
 操り人形の立場であれば『操られていた』と言い訳することができる。
 俺の醜い心の内を知りながら、ゴルベーザは俺の手を離さなかった。


***


 氷の柱が立ち並んでいる。それは一本や二本ではなく、洞窟の奥の奥、遥か果てまで続いていた。
 きらきらと輝く眩い氷柱に見惚れながら「この奥にあるのですね」と、俺はゴルベーザを見上げた。ゴルベーザは兜を身につけていて、表情を読み取ることはできない。頷いた彼の後ろに付き従いながら、俺は歩みを進めた。
 地底のクリスタル――闇のクリスタル――の、四つのうちの一つがこの洞窟にあると知り、俺達はこの洞窟にやってきた。
 クリスタルがある場所なのだから、結界や手強い魔物がクリスタルを守っているに違いない。そう考えていた俺は、洞窟に入って拍子抜けしてしまった。魔物の影はなく、扉には鍵すらかけられていない。侵入する者を拒むものは、何もなかった。まるで、忘れ去られた遺跡のようだ。
「無用心ですね」
 言った俺を振り返ることもなく、ゴルベーザは先へと進んで行った。足元も壁も凍っていて、思わず転んでしまいそうになる。触れた壁は冷たく、何故溶岩だらけの地底にこんな所が、と思わずにはいられない。カツカツと二つの鉄靴の音だけが響く中、彼の背中を見つめ続けていた。
 あのマントの向こう、漆黒の鎧の中。俺が昨日つけた傷が、あの中に隠されている。昨晩、俺が彼の背中にしがみついて引っ掻いた傷だ。揺すぶられる度、新たな傷を増やしていったように思う。
 かあっと耳まで熱くなり、ふるりと首を横に振った。
「ここだ」
「……う、ぐ……っ!」
 彼が急に止まるものだから、背中に思い切りぶつかってしまった。竜を模した兜の鼻先が鎧に当たり、頭にびりびりと衝撃が走る。
「も、申し訳ありません」
 彼が笑ったように思えたが、確かめる術もない。
 『彼の鎧が丈夫でよかった』と胸を撫で下ろしながら、彼の視線の先を見た。
「これが、地底のクリスタル……」
 氷の台座に置かれたクリスタルは、氷柱よりもさらに美しい光を放ちながら、静かに光り輝いていた。
「――――お前が取ってくるのだ、カイン」
「俺が、ですか……?」
 戸惑う俺を無視して、彼は待つ体勢をとり始めてしまった。罠が仕掛けられているのではないかと考えながら、恐る恐る台座に近づく。槍を握りしめている手は、痛いほどだ。奥に行けば行くほど洞窟内は寒く、吐く息が白くなる。吸い込んだ空気のあまりの冷たさに震え、早く目的を済ませてゴルベーザの元に戻ろうと考えた。
 指先で触れたクリスタルは、酷く冷えていた。冷たい、と叫んでしまいそうになり、歯を噛み締めながら手に取った。滑らかで、それでいて硬質な感触だ。
 「綺麗だ」と声が漏れた。薄い空の色をしたクリスタルは、この世のものとは思えぬほど眩く、けれど静かに、じわりと内側から溢れ出す光を湛えている。光に透かしてみると、美しさが更に引き立つような気がした。
「ゴルベーザ様!」
 掲げ、主の名を呼ぶ。彼はまた一つ頷いて、待つ体勢に入ってしまった。手が赤くなっている。こんなことなら、手袋でもしてくればよかった。
 彼の元に戻り、クリスタルを差し出す。受け取るであろうと思われた彼の左手は、項垂れたように力を失ってしまった。
「……お前が持っていろ」
 じんじんと冷たさを訴える手と彼の顔とを、交互に見た。
「何故です? 俺が持っていたって、何の意味も、」
 項垂れていた左手を持ち上げて、彼はクリスタルに――――触れようとした。途端青い光が走り、ぱちりと電流に似た音が響く。呆然とその光景を見やっていた俺の顎を持ち上げ、ゴルベーザは自嘲気味に言った。
「私は、クリスタルに触ることができんのだ。本当は、ここに入ることもできない……はずだった」
 彼の親指が、俺の唇をなぞる。それだけのことで、頭の奥が痺れた。彼の感情が流れ込んでくるような気がして、感覚が唇に集中してしまう。
「私はクリスタルに触れることができぬ。それは、闇の力が強すぎるからだ。お前は気づかなかったかもしれないが、この洞窟内には結界が張られている。ここは、心が穢れている者や、魔物には入ることができない場所なのだ。お前と出会う少し前、私はこの洞窟に入り、クリスタルを手に入れようとした。だが、洞窟の中に入ることすらできなかった。それは、私の心が穢れているからだ」


***


 カインの瞳が好きだった。だが、瞳を隠してこの兜を身につけている彼の姿も好きだった。彼はきっと、切ない眼差しをこちらに向けていることだろう。
 ゆるゆると首を横に振り、私の手から逃れて顔を背けた。クリスタルを持つ手が赤く凍えそうになっている。
 そういえば彼は素手だったかと今頃になって気付き、震えている彼の右手を、自らの左手で覆った。
「あっ」
 氷のように冷たい手だ。槍が落ち、金属音が甲高く響いた。
 これだけは落とさぬように、と両手でクリスタルを持ち始めた彼の手を追いかけるようにして、私もまた、彼の両手を自らの両手で包み込んだ。
 時間が止まってしまったかのような静寂が訪れる。耳がきいんとするほど静かで、カインの白い吐息だけが自らの瞳に映った。
「ゴルベーザ、様」
 クリスタルには触れていない。だから、痺れが走ることもない。代わりに走ったのは切ないまでの胸の痛みで、息が苦しくて、喘ぐように息を吸った。
「お前の体に触れるようになってから、この洞窟に入ることが出来るようになった。私は、お前の体から光を奪い取っているらしい。そのうち、クリスタルを持つことが出来るようになるかもしれぬ」
「俺、の?」
「ああ」
 しばらく考えた後、意味を理解したのだろう。カインの顔が真っ赤になった。
「お前の中には、光がある。私一人では到底手に入れることのできない光だ」
 背を抱き寄せ、抱きしめる。カインは私にクリスタルが当たらぬようにとクリスタルを胸元に抱え、そっと瞼を閉じた。
 こうして抱きしめている間も、私は彼の中にある『光』を奪い、吸い取っている。彼の中に生息している光を食べて、自らの命を繋いでいる。
「……俺は、ゴルベーザ様の『光』になることができているのでしょうか?」
 カインの声しか聞こえない。耳が痛くなるほどの静寂の中、穏やかな声だけが耳に届いた。
「ゴルベーザ様はご存知でしょうが……俺の中には、汚らしい闇があります」
「……ああ、知っている」
「ゴルベーザ様と俺以外は知らない、俺がずっと隠してきた、闇です」
「ああ」
「俺の中は闇で充たされています。今ある光も、いつしか闇に姿を変えてしまうことでしょう。……それでも、ゴルベーザ様は俺が傍にいることをお望みなのですか?」
 寒いのだろう、カインの体がぶるりと震えた。マントを持ち、それでそっと彼の体を包み込む。「もうここを出るぞ」と私が言うより早く、「ここで話させて下さい」とカインはこちらを見上げて言った。
「ここは静かで、誰もいなくて――――まるで、この世界に二人きりのような気がするんです」
 片方の手で彼の体を抱いたまま、竜の兜をゆっくりと外した。
 軽く乱れた金の髪と、憂いに満ちた青い瞳が現れる。
「……二人きり、か……」
 私が自嘲を混ぜて呟くと、「はい」と応え、カインは唇の端を上げた。
「『二人きりの世界』なんてものは、どこにもありません。永遠も存在しません。それでも、俺は時々夢を見てしまいます。傷つくのは自分だということを知りながら、あたたかいものに手を伸ばしたくなってしまうんです。この幸せが永遠に続くのではないかと、錯覚してしまいそうになるんです」
「カイン……」
 永遠など存在しないと口にする彼の姿は、あまりにも悲しかった。
「俺は、ゴルベーザ様を信じていません。ゴルベーザ様は、きっと俺の傍を去っていってしまう。俺に『傍にいろ』と命じながら、どこか遠くへ行ってしまう。俺以外の誰かを見つけて、俺のことを忘れてしまう日が来ます。ゴルベーザ様にとっても、その方が良いはずです」
「…………私は、お前を手放さない」
「俺達二人は、一緒にいると駄目になります。闇の底へと落ちていってしまい、這い上がれなくなってしまうように思えて」
「それでも構わぬ、私は――――」
 腕の中でカインが身動ぎ、背伸びをした。兜が外される。
 右手にクリスタル、左手に私の兜を持ち、切なげに微笑んだ。
 唇に、やわらかいものが触れる。吸い込まれてしまいそうなほど青い瞳が、すぐ近くにある。彼はゆっくりと瞼を閉じ、より深く唇を重ねてきた。
「ふ、……っ」
 歯列をなぞり、舌をきつく吸う。カインの体から力が抜けていく。私の言葉を奪うためにと口づけをしたつもりだったようだが、仕掛けた後のことは考えていなかったらしい。
 腰を抱けば、私の手からカインの兜が落ちる。力の抜けた彼の手からも兜とクリスタルが落下し、瞬間、カインは目を丸くしてクリスタルを拾おうとする。そんな彼の腰をがっちりと掴んだまま、私は彼の口腔を舌で撫で続けた。
「んん……っん……!」
 クリスタルが、と呻く口を塞ぎ、カインの体が蕩けるのを待つ。
 クリスタルは、何よりも大切な物だったはずだ。だが今は、目の前の痩身を放したくないと思う。何もかもを諦めて自分から身を引いてしまおうとする彼の体を、今放すわけにはいかない。見失うわけにはいかなかった。
 私の体を引き剥がそうとしていた手が、しがみつく仕草を見せ始めた。陥落寸前の体は、甘く震えている。
 心の奥、体の奥まで貪りたくなってくる。
 すがりつく腕に口づけを落とし、しなやかな足を開かせたい。心を暴いて泣かせて、私のことしか考えられぬ体にしてしまいたい。
 けれど、私の名を呼ぶ人形を手に入れたいわけではない。
「……ゴルベーザさま……っ!」
 自分で立っていられなくなった彼の体を抱き上げる。
 切なくて、胸が締め付けられてしまう声。何度でも呼んで欲しい、私の名を口にして欲しい。刹那の約束であっても構わない。カインの言葉が欲しかった。
 しばらくの間は恥ずかしそうに俯いていた彼だったが、やがてはっとした顔をして、辺りを見渡し始めた。
「クリスタルは……!?」
「無事だ。だから、心配するな」
「そ、そうはいきません!!」
 暴れ、落ちる。
 兜と同じような格好で私の手から落下した彼は、竜騎士らしからぬ格好で着地し、クリスタルを拾い上げた。
「良かった……」
「……クリスタルは丈夫だ。それくらいで割れるはずがなかろう」
 ゆっくりとした動作で立ち上がろうとした彼だったが、結局立ち上がれずに地面に座り込むこととなってしまった。
「腰が抜けてしまったようです」と苦笑する。「兜は私が拾う」と言うと、「お願いします」と小さな声で彼はまた俯いた。
 竜の兜を拾って、カインの頭に被せる。
 こちらを見上げてきた彼の顔は先程までの竜騎士の顔に戻っていて、兜は表情を隠すのに便利なのだなと頭のどこかで思った。
 ああ、そうか。
 自らの兜を拾い装着してから、私が真っ黒な兜を身につけている、その理由を思い出した。
「行きましょう、ゴルベーザ様。このままこの場所にいたら、凍って朽ち果ててしまいそうです」
「ああ、そうだな」
「……だ、だから、あの、ゴルベーザ様」
「ん? 何だ?」
 意地悪く笑ってやれば、カインは狼狽え、辺りを見回す。自分達以外の人間がいるはずもないのに、それでも確かめずにはいられなかったのだろう。
「ゴルベーザ、様」
 左手でクリスタルを胸に抱え、こちらに右手を伸ばし、
「申し訳ありません……あの、だからつまり」
 こんな姿のカインは、見たいと思っても滅多に見られるものではない。
「何だ、言ってみろ」
 甘え下手な姿が、私の心を惑わせる。
 視界に飛び込んできたのは、赤い指先――――凍えている指先。
 からかうのはまた今度にするか、と冷えた体を抱き上げた。震える声で「申し訳ありません」と小さく呟く彼の震える肩をマントで覆い、出口を目指し歩き出す。と、カインの視線が一点に注がれている事に気づき、視線の先を追った。
 その先にあったのは、彼が愛用していた槍だった。柄に刻まれたバロンの紋章を目にした瞬間、彼の視線の意味を理解する。さ迷う、青い瞳。「槍を拾って欲しい」と懇願するかと思われた唇が、その言葉を口にすることはなかった。
 その代わり、彼が口にしたのは。
「……ゴルベーザ様。俺は、永遠に貴方の傍にいます」
 未練の滲む瞳を私に向け、嘘つきな唇を歪め、そっと微笑む。
 この男を手放してなるものかときつく抱き、束の間の幸福を噛み締めた。


End


Story

ゴルカイ