今思えば、痛々しいあの人の瞳は、いつだって遠い空を見つめていた。
空と同じ色をした瞳がこちらを見ないことにもどかしさを感じ始めたのは、一体いつのことだったろう。
彼の背中を追いかける一日は、彼の部屋の前で待ち伏せすることから始まる。
そわそわと足を動かしながら、昨晩ぴかぴかに磨いた剣を撫で、今か今かと彼を待つ。
「カインさん!」
待ちきれず、僕は口を開く。ほぼ同時に扉が開いた。開いたのは、三十センチだけだったんだけれど。
歯を磨いていたらしい彼は、口の周りを泡だらけにして眉根を寄せている。無言で、室内の時計を指差した。
「……えーと……出発の一時間前です!」
分かっているじゃないか、と言いたげな目をしている彼に、
「カインさんは出発の三十分前に飛空艇の点検をしていますよね。だから、僕は一時間前なんです」
彼は目を丸くし、それからちょっとだけ微笑んだ。踵を返し、室内に戻ってしまう。
かつん、靴の音。口を濯ぐ音。部屋の中をそうっと覗き込むと、彼は手招きをしてこちらを見ていた。
「……朝食は済んだのか?」
「は、はい」
「そこにオレンジジュースがあるから、俺が着替えている間に飲むといい。良い機会だから、一緒に点検をするか」
「……はいっ!」
点検といっても技術的なことは飛空艇技師が行う。
カインさんが何をしているのかと興味津々で尋ねてみれば、
「点検とは名ばかりの掃除だ」
にっ、と珍しく歯を見せ、彼は嬉しそうに笑った。
やわらかそうな布とバケツを手にし、「掃除だ掃除」と、僕にも布とバケツを手渡してくる。
目を白黒させている僕の頭をぽんぽんと叩き、彼は、飛空艇の壁を拭き始めた。
慌てて布を濡らして絞り、彼の真似をし、木目にそうようにして拭き始める。
きゅっ、きゅっ、と汚れを落とす音が響く中、彼は囁くように言った。
「俺は、この飛空艇が好きだ。だから、精一杯の愛情を注ぎたいと思う。自分ができることといえばこれくらいのものだが、できることをしてやりたいと思うから、こうやって磨いているんだ」
真面目な彼の、真摯な横顔をじっと見る。どきりと胸が鳴り、指先が震えた。
初めて出会った時の彼とはまるで違う、感情に満ちた笑みだった。名乗ろうともしなかったあの頃の彼も好きだったけれど、今の彼の方が、もっとずっと魅力的だった。
「部隊長」
「……今はカインでいい」
「…………カイン、さん」
「どうした?」
自分が持っている感情の正体が、今ひとつ分からなかった。
彼を見ていると胸がうずうずぐるぐるして、締めつけられて息が苦しくて、どうしようもなくなってしまう。
彼の瞳はいつも空を見ていて、僕だけを見つめていることなんてまるでなくて、だから僕は、余計にうずうずぐるぐるしてしまって。
彼が過去の自分を責めていた時――二人で旅していたあの時――も、過去の自分と対峙して聖竜騎士になった今も、彼は空を見続けている。空に焦がれ、空を愛している。そんな彼を見ているのが、とても苦しい。
飛竜を愛していたカインさん。最後の飛竜がいなくなってしまってからも、空を愛し続けたカインさん。
竜騎士であるということに誇りを持つのと同じように、彼は、空を翔ける飛空艇を愛し始めた。
飛竜や飛空艇、更に空にまで嫉妬心を持ち始めた僕は、まるで子どもだった。悔しい。こみ上げる悔しさに、唇を噛んだ。
「セオドア……?」
優しい声。彼の手が止まった。子どもを見る瞳。そんな目で、僕を見ないで欲しい。僕が欲しい眼差しは、もっと――――。
「カインさんは、僕と空、どちらが好きですか?」
馬鹿げた質問。しまったと思っても、もう遅い。
手に持っていた布が、床に落下する。怖くなり、踵を返す。全速力で走り出す。
「セオドア!!」
振り向くことができぬまま、その場から逃げ出した。
望んで、望んで、望んで――――望めば望むほど、自分が小さな生き物のように思えてくる。
最初は知ることができなかった名前を知ることができ、彼に槍の扱いを教えてもらえて、毎日のように話すことができる日々。こんなにも満たされているというのに、これ以上何を望むというんだろう。
カインさんが、他の人を、物を見ていることがつらい。
こんな感情に支配されるのは初めてのことで、どうしたら良いのか分からない。
バルコニーまで駆けて来て、空を見上げた。雲ひとつない、一面の青空だ。
軽い金属音が、背後から近づいてくる。振り向くと、カインさんが少し困ったような顔で微笑んでいた。
「……セオドア」
こちらに伸ばされたのは、白くて長い指先だった。
「ぼ、僕は」
唇から、言葉が零れ出始めた。
「…………僕は、青い空が嫌いになってしまいそうなんです」
喉の奥がひくつき、目の深い場所が熱くなる。手すりに背を預け、両手をぎゅっと握りしめた。
「比べること自体がおかしいと、頭では分かっているんです。でも、僕は空に嫉妬している。空に勝てるはずがないっていうことくらい、知っているのに」
彼の顔が、ぼやけてしまう。
「僕は、カインさんが好きです」
温い液体が頬を濡らし、
「こんなことを言ったら、軽蔑されるって分かってます。だけど」
だけど、カインさんが好きなんです。
その言葉は涙に埋もれ、最後まで言う事はできなかった。
父さんの、母さんの幼馴染で、僕の命の恩人で、赤い翼の部隊長で、ずっとずっと年上で、男の人で。だから、僕の望む展開になるはずがない。
「……ごめ、んなさい……カインさん、ごめんなさい……っ!」
こんなことを言ってしまったら、もう取り返しがつかない。
もう、今までのようにはいられない。
壊れてしまった関係は、元通りにはならない。
顔を覆う手のひらに、涙がはりつく。隙間から流れ、手首を濡らした。
何も告げず、貴方の背中を追いかけていればよかった。そうすれば、失わずに済んだのに。
「泣くな……」
頭上から声が降ってきて、僕の手のひらを頬からそっと剥がした。痛い笑顔の彼がいる。包み込むようにして、濡れた頬を撫でる。
「驚きはしているが、軽蔑なんてしていない。だから、泣くな」
背の高い彼が、屈んで僕と目線を合わせる。僕はいつの間にか座り込んでしまっていたらしい。
温かい手が背に回され、優しい声が耳元で響いた。
「つらかっただろう?誰にも言えず、悩んでいたんじゃないのか?」
こくりと頷いた。
おそるおそる、彼の背中に手を回してみる。彼は何も言わない。
「……人に言えぬ想いのつらさなら、俺も知っている。その想いには嫉妬がつきまとうということも、知っている。俺もお前とよく似た恋をしていたよ。人に言えぬ恋をしていた」
「カインさん……」
「もうずっと昔のことだがな」
僕を抱きしめる腕の強さが、少し増したような気がした。
「俺は、お前を軽蔑しない。謝らなくたっていい。……だって、お前は何も悪くないじゃないか」
「……はい……」
「お前は諦めてしまっているようだが――――諦める必要はない。何しろ、時間はたっぷりあるんだから」
もう一度、両手のひらが頬を包んだ。
青い瞳が、逸らされることなく僕を見る。
「俺の視線が欲しいなら、俺を振り向かせればいい。そう思わないか、セオドア」
やわらかい感触が、唇に触れる。
それがキスだと気づいた瞬間、僕の心臓は壊れてしまいそうなほど早鐘を打ち始めた。
End