背中から、彼の熱が伝わってくる。
 素直になれない俺と彼の仮面が、この瞬間だけ外れるような気がする。
 仰ぎ見た空に、二つの月がある。指先にあるのは冷たい柵の感触だ。指先は冷たいけれど、背や肩は暖かい。彼に触れている場所から、甘い熱が伝わってきた。
「……お前は、温かいな」
 言いながら、ゴルベーザ様は俺を強く抱きしめてきた。
 夜になると、ゴルベーザ様は昼とは少し違った顔を見せる。
 少しだけ、寂しげな表情を見せるようになる。
 少しだけ、温もりを求めるようになる。
「ゴルベーザ様も、温かいですよ。こんな夜は――――」

 ――大切な人の温もりが恋しくなりますね。

 言おうとして、やめる。
 ゴルベーザ様が俺を抱きしめているのは、単に、俺が手近な人間だからだ。
 俺は、彼の“大切な人”ではない。
 胸が痛くなる。深く息を吸った。
 夜空に、無数の星が煌めいている。二つの月が、こちらを見下ろしていた。雲はその下方を流れ、ここが空の上なのだということを教えていた。
 一瞬、この世の中には俺と彼二人しかいないのではないか、という錯覚に陥りそうになる。
「カイン」
 耳元で囁く声。
「何を考えている?」
 低く優しい声が、俺の心を暴こうとする。体を返され、ゴルベーザ様と向き合う形になった。顎を掬い上げられる。触れるだけの口づけが降ってきた。
「……何故だろうな。こんな夜は、温もりが欲しくなる」
 彼は唇の端を上げ、もう一度俺の唇を食んだ。
 ぞくりとした何かが背に走る。顔が熱くなるのを感じた。
 幸せだ、と思う。恐ろしくなるほど幸せだ、と。
 これが彼の気まぐれからくる行動であったとしても、俺は幸せだった。
 ゴルベーザ様は空を見上げている。遥か彼方にある月を見、薄紫色の目を細めていた。その顔に、寂しげな色がはり付いている。唇の端を緩く上げた。微笑んでいるようにも見えたし、自嘲の笑みにも見えた。
 俺は、この人の“温もり”になれているのだろうか。この人を、温められているのだろうか。
 もしかしたら、この人が求めているのは体温などではなく。
 彼の背に、ゆっくりと手を回した。無性に、彼を抱きしめたい、と思った。
「どうした?」
 柔らかな声に、涙が溢れそうになる。
 彼の胸元に顔を埋める。寂しげな瞳を見ているのが、辛くて堪らなかった。
 この人の心を癒したいのに、その方法が見つからない。こうやって、抱きしめることしかできない。気の利いた言葉すら出てこない。
 突然、足が地面から離れた。
「ゴルベーザ様……っ!」
 俺は、ゴルベーザ様に抱き上げられていた。驚き、彼の首に縋りつく。
「……今夜は、一人で眠るつもりだったのだが」
 俺の背を、ぽんぽん、と二度叩いて、
「気が変わった。今夜は私の傍にいろ」
「……はい」
 涙が零れた。胸が痛かった。何故泣いているのか、自分でもよく分からなかった。ゴルベーザ様の優しさが、自分の無力さが、悔しくてならなかった。
 自分が小さな子どもに戻ってしまったような気がして、ならば、ゴルベーザ様が子どもに戻れる場所はあるのだろうかと考えた。
 バルコニーの扉が閉じられる。
 彼の肩越しに見る月は、ただただ、淡い光を零し続けていた。


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