最初に感じたのはにおいだった。
 そのにおいは甘く魅力的で、だが同時に不快感を覚えるようなにおいだった。
「……エッジ?」
 ぱちりと目蓋を開いた瞬間、思わずその名を口にしていた。何故かは分からない。私は何故ここにいるのだろう。それすら分からなかった。そもそも今はいつで、ここがどこなのかも分からない。
 ただざあざあと雨の音がする森の中で、私は立ち尽くしていた。
 記憶を辿り、己が何をしていたのか思い出そうとする。記憶がないなんて、どこかで頭でも打ったのだろうか。……頭を打った? いつ? 何故? どこで? ずるりと脳から這い出てきた記憶をどうにかこうにか捕まえる。
 最期に見たのは、泣き出しそうな顔をしているエッジの姿だった。
 そうだ。私はエッジ達と戦い、そして敗北したのだ。何故そんな大きな出来事を忘れていたのか。私はあの時確かに死んだ。はずだった。
 雨に濡れるはずの私の体は、巨木の下にいるためなのかほとんど濡れていない。体のどこにも痛みはないし、以前と何ら変わりがなかった。私は途方に暮れる。私の意識を土の下から掘り返したのは誰だ。
 瞬間、最初に感じたあの「甘いにおい」がまた強く漂ってきた。においの元を探して辺りを見回せば、巨木の根本には大きな洞穴が開いている。
 誰かに呼ばれている。
 突き動かされるようにして、私は洞穴の奥へと進んだ。

***

 洞穴内は木の根が張り、見た目よりも深く入り組んでいる。だが私は迷うことなく奥へ奥へと進んだ。確信にも似た何かが、私の頭を支配していたからだ。
 甘いにおいに混じる、胸を裂くような芳しいにおい。私はこのにおいの正体を知っている。もう二度と出会うはずのない、懐かしいあの――――。
「……う……っ、あ」
 上ずった、蕩けるような声。脳の根を揺さぶるような声音。耳にした瞬間、視界がぶれたような気がした。
 地面に無造作に人間が転がっている。派手な外傷こそないものの、こちらに背を向けている人間の体は透明な粘液で所々濡れていた。はあはあと肩で息をして、時折苦し気に鼻にかかったような呻き声をあげている。甘いにおいの発生源はこの粘液だ。ぞくぞく、と背中に何かが走る。
「……エッジ」
 彼の意識がないであろうことは分かっていた。だが呼ばずにはいられなくて、その名を呼ぶ。彼に向かって手を伸ばしたい。恐ろしい。指先が震える。本能を押さえつけ、細心の注意を払ってエッジの肩に手を伸ばす。気を抜いたら、あっという間に焼き殺してしまいそうだと思った。
 肩を掴み、体をこちらに向けさせる。エッジの体は驚くほど熱かった。彼のはつらつとした性格を表すかのようにつんと上を向いているはずの銀色の髪は、汗と雨を含んで額に張り付いている。とろりと蕩けた瞳は私の姿を映しておらず、ちらちらと赤く光っていた。確か、彼は緑色の瞳を持っていたのではなかったか。
 甘いにおいが、思考の全てをさらっていきそうになる。目の前の獲物を蹂躙したくて堪らなくなる。細い喉にむしゃぶりついてその血を啜り、細くしなやかな足を開かせ、薄い腹の中に性器を捩じ込んで、何もかもを吐き出してしまいたい。
 強烈な劣情は、この粘液の催淫効果によるものだ。そしてこの粘液は『魔物の体に』卵を産み付ける植物のものだ。その植物は長い触手を使って雌雄を問わず魔物の体内に卵を産み付け宿主とし、粘液を使って他の魔物を誘い、交尾させ、受精卵を完成させる。受精した卵はすぐに『産んで』しまえば問題ないが、放っておくと宿主は触手に腹を食い破られてしまう。受精するまで、卵は宿主の腹の中を離れようとしない。それどころか宿主の栄養を喰らって腹の中で限界まで生き続け、最終的には宿主を殺してしまう。……つまり、選べる道はひとつしかなかった。
 エッジの胸元を撫でる。彼は以前とは違う服を見に着けていて、きっと私が死んでからそれなりの月日が流れているのだろうと思った。細いけれど、以前より少し体つきがしっかりとしている。王子ではなく王としての風格がところどころに見てとれる。しかし何故そんなエッジの体に、『魔物にだけ』卵を産み付けるはずの植物の卵が産み付けられているのだろう。さてはまた無茶な行いをしたのだろうか。城を飛び出し、王族らしからぬ破天荒さで辺りを駆け回ったのだろうか。想像するだけで、唇の端に笑みが浮いた。
 私は彼のそんな破天荒さが好きだった。型破りな部分を持ちながら筋を通そうとする真面目さ、周囲を巻き込むほどの明るさ。敵として出会わなければ、また違った結末もあっただろうと思わされる位、私は彼に惹かれていた。感情や想いが力を生み出すこともある、ということを教えてくれたのは彼だった。
「……あつ、い……」
 うわ言のように、小さな声が響く。「……気がついたのか?」と問いかけるが、返事はない。どうやら目も耳もろくに機能していないようだ。
 これほどまでに弱り果て、意識もほぼ無い者を抱くのか。
 私は卑怯な行いを好まない。カイナッツォから『くそのつく生真面目』と評されたこともある。非常時とはいえ気が進まない。だがそれに反して、甘いにおいに支配された本能は彼を執拗に犯したがる。
「……悪いが、少し耐えてくれ」
 ところどころ破れている彼の服を剥いでいく。私と比べればどこもかしこも細くて小さくて、力をこめて掴めば折れて潰れてしまうだろう。それが恐ろしかった。回復魔法では追い付かぬ状態まで痛め付けてしまうのではないかと思った。
 きっと、本当はもっと小さな体を持つ魔物に任せるべきなのだ。エッジをこのまま放っておけば、粘液のにおいに誘われた魔物がいくらでもやって来るに違いないのだから。
 だが、私はそうはしたくなかった。他の魔物に犯され孕まされるエッジを想像するだけで、身体中に憎悪が満ちるのだ。
 ……つくづく救えない。なんて愚かなのだろう。
「あ、あ……っ!」
 誘われ、喉元にそっと吸い付いた。胡座をかいて、エッジの体を横抱きにする。これも粘液の力なのか、エッジのその場所は透明な液体でしとどに濡れていた。指で触れてみれば、驚くほどやわらかい。解す必要はなさそうだった。
「あっ!」
 理性が焼ける。私の腰を跨がらせ、己のモノを取り出して押し当てる。『早く』と急くように、エッジが私のマントを掴んだ。破壊衝動と肉欲とが醜く入り乱れる。
 理性が消えてしまうことが嫌だった。獣となり果ててしまうのが嫌だった。理性的に振る舞いたいという想いがちりちりと焼け焦げて灰になっていくのを感じる。
「っ、あ、うぅ、ぐ、っう、あ!」
 尻たぶを掴み、割り開き、力任せに挿入していく。肉に押し入る感触は生々しい。
 丁寧に、慎重にしてやらねば。
 欲望のままに行動してはならない。
 分かっている。分かっているはずだった。それなのに。
 エッジが逃れようと身を捩るけれど、そんなものは意味を成さない。ばちゅん、と濡れた音が一際大きく響いた。口をはくはくとさせて、エッジは声を出すこともできずに全身を震わせている。一気に根元まで挿入ったのが分かった。内臓を押し潰すような感触。エッジのペニスはとろとろと精液を吐き出している。
「……う、う……っ」
 赤く染まった眦から、涙の雫が滴り落ちた。
 丁重に扱ってやらねばと思えば思うほど、欲望が膨れ上がっていく。
「んっ! ひ、っぐ!」
 腰を掴んで乱暴に引き抜き、再度深くまで挿入した。
 赤かった瞳がちかちかと瞬く。
「……だ、だれ……だ……?」
 意識が戻ってきたのかもしれない。夢の中をたゆたうような声音ではあったけれど、彼の声には微かな戸惑いがあった。けれどまだ目は見えていないようだ。
 腰を揺すり、エッジの理性を消そうとする。この状態で理性を取り戻して何になる。仇である、しかも過去に仕留めたはずの魔物に体をいいように犯されているだなんて悪夢もいいところだろう。
「う……っ! あぁ、あっ!」
 ぐったりと力なく私の胸に預けられていた体が先程までよりも意思と力を持ち始める。逃げようともがき、途切れ途切れに「だれだ」と幾度も繰り返す。
「だれだ」「へんになる」「いやだ」
 甘く舌ったらずな声音。

「こんな奥まで挿れたこと、ない」

 瞬間、頭に血が昇るのを感じた。寒いのか暑いのか、それすら分からぬほどぞわぞわとしたものが全身を覆い尽くしていく。
 王族の身だ。エッジが女を抱くことは想定していたけれど、男に抱かれるなどということは想定していなかった。受け入れる場所がやわらかいのは粘液の作用なのだろうと勝手に思い込んでいたが、単に男に抱かれ慣れているだけだったのかもしれない。
「エッジ」
 他の男に、と思ったらもう駄目だった。
 声を出さぬようにしようと考えていたことなんて吹き飛んでしまった。
 私の声を聞いた次の瞬間、エッジの瞳がさあっと緑色に変化した。
 かちりと音が鳴りそうなほど、視線が噛み合う。
 咄嗟に押し倒し、片手で一纏めにして手首を掴み、彼の自由を完全に奪った。
「っ! ……ルビカンテ……ッ?!」
 上から眺めてみると、本当に無茶苦茶な状態だった。
 彼の腕ほどの太さを持つものが、その薄い腹の中に挿入されている。
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、エッジはこちらを見上げていた。
「なん、で……っ!」
 ひゅうひゅうと喉を鳴らし、エッジは力なく首を横に振る。「何でおめぇが」と漏らすその口元の布が苦しそうに思え、ゆっくりと引き下ろした。
 そうだ、彼に状況を説明してやらねばならない。
 なけなしの理性を総動員して、彼の腹の中に挿入していたものをそっと引き抜いていく。
「あっ! ぬ、抜くな、ばか、っあ、あ……!」
「…………抜かなくて良いのか?」
「そ、そうじゃねえよ……抜いてほしい、けど、でも」
 内壁を擦られることで起こる快楽に耐えきれないらしい。
「ならば挿れれば良いのか?」
と耳元で囁いて腰を進めると、
「ちがう、ちがうからっ!! 挿れんな、あぁっ! だめ、だめだって、深い、深い……っ」
 誰と比べているんだ、という言葉が喉まで出かかる。
 押しても引いても駄目と言うなら、もうこのまま話す他ない。
 挿れたもののことは一旦横に置いておいて「よく聞け」と銀の頭を撫でると、「俺の体、変だ」と今更なことを打ち明けられた。
「……エッジ。お前は、魔物を襲う植物の存在を知っているか?」
 ごつごつとした地面に触れている彼の背が痛そうなことに気付き、やはりさっきの体勢が良さそうだと考え彼の体を抱き上げる。
「そりゃ少しくらいは知ってる、け、ど……っ」
 息を詰めながら衝撃に耐えたエッジは、私のマントをすがるように握りしめた。
「何が原因かは分からぬが、その植物にお前は襲われたのだ。腹の中に卵を産み付けられている」
「はっ?!」
「その卵を取り出すには、魔物の雄と交尾して孕む必要がある」
「交尾……」
「……本来なら、植物に塗りつけられた粘液のにおいに誘われたどこの馬の骨かも分からぬ魔物が、お前を犯すことになっていたはずだ。何しろ、私はもうお前に殺されて死んでいるのだから」


***


 俺の記憶は、バロンでセオドアに3歳の誕生日祝いを渡し、もうすぐエブラーナに帰りつく――――といったところで途切れている。
 おそらくその時、ルビカンテの言う『植物』とやらに卵を産み付けられたのだろう。そういえば、上から何か植物の蔓が降ってきた記憶があった。そうか、あれがその植物だったのか。
 いつもの俺なら簡単に避けられたはずだ。だが、その時の俺はぼんやりと考え事をしていた。セオドアが産まれてもう3年か、時間の経つのは早いなあ、と。あの戦いが終わってからもう随分経つんだなあ、と。
「……俺が……俺が、おめぇを呼んじまったのかもな……。おめぇのことを考えて、ぼうっとしてたから」
 ルビカンテにとっては想定外の言葉だったのだろう。魔物は言葉を失ったまま俺の顔を見つめていた。
 腹の中の異物感がひどい。ぎゅう、とルビカンテのマントを握って大きく息を吐く。快楽でどうにかなりそうだ。
 本当は、この凶器じみたモノで思う存分突かれたくて堪らなかった。だがそんなことを言えるはずがない。
「……なあ、ルビカンテ」
 本当は孕むなんて真っ平ごめんだ。
 けれど。
 けれど見ず知らずの魔物に犯されるよりも、ルビカンテに抱かれる方がずっといい。
 確かにこの魔物は俺の両親の、エブラーナの民達の仇だ。だが同時に、俺はこの魔物を好ましく思っている。
「あんま抱き心地よくねえと思うんだけど……俺の体でよければ引き続き使ってくれ。ただの穴だと思ってくれりゃあいいから」
 ぐっ、とルビカンテの手に力が篭った。何故だか恐ろしい目をしている。俺は何か変なことを言っちまったんだろうか。戦っている最中とはまるで違う、けれど殺気にもよく似た眼差しが俺を射抜いていた。
「……そう言って、他の者にも体を許しているのか?」
「?! な、何言って」
「他の者にも、お前は……」
 魔物は悲しそうな、ともすれば泣き出しそうな顔をしていた。俺に殺された時には笑んでいたあのルビカンテが、だ。これは何かとんでもない勘違いをされてしまっているのでは、どんな勘違いをされているのかは分からないがとにかく早く間違いを訂正せねば、と思考をぐるぐる回していたら、頭を殴られたみたいな衝撃に見舞われてしまった。
「っう!!」
 腰を強く掴まれ腹の奥の奥を抉られる。電流がびりびりと走るような感覚が、頭のてっぺんまで走り抜けていく。みっともない声が漏れる。出したくなんかないのに、肺が押し上げられて涙が零れた。
「ルビカンテ、ルビ、カンテ……ッ!」
 名前を呼ぶと、腸を圧し拡げている性器がより一層大きく膨らむのを感じた。
 ああでも、勘違いされているのではなくルビカンテは怒っているのかもしれない。俺のことを情けなく思っているのかもしれない。そもそも、自分を殺した者を抱くなんていくら治療行為だとしても本当は嫌だろう。せめて、俺が男でなく人間でもなく、もっときれいな……そうだ、あのバルバリシアとかいうきれいな魔物みたいな姿形をしていたら、そうしたら。


***


「……どうした?」
 エッジの両手が、隠すように彼の顔を覆っている。動くことをやめて、思わずエッジの手の甲に己の手を重ねた。
「粘液の効果でなんとか勃ってるけど……萎えちまうかもしれない、だろ……俺の顔を見たら」
 少々強引にエッジの手を引いた。手と手の隙間から覗き見えた彼の顔は、彼らしくもなく切なく歪んでいる。
 一体どんな勘違いをして、何を思い込んでいるのか。
 いつだって自信に満ちている彼の珍しい姿に、私の胸が喧しく鳴る。
「いらぬ心配だ」
 そう告げると、彼は『よく分からない』といった表情を浮かべてこちらを見上げてくる。
「……お前はお前自身が私を呼んでしまったのかもしれないと考えているようだが、そうではないかもしれんぞ」
 頬に口づけを落とせば、怯えるように彼は体を震わせた。
「私も、またお前に会いたいと考えていたからだ。……まさかこうして体を重ねることになるとは思わなかったが」
「……それって、あの世で『俺に会いたい』って考えてたってことか?」
「ああ」
「どうして?」
「……それは……」
 思わず想いを告げそうになり、寸でのところで思い止まる。そんなものを告げて何になる。
 叩きつけるように腰を揺らすと、エッジは小さな獣のように声も無く啼いた。
 深く、浅く、出し挿れを繰り返す度に快感が下腹を襲った。彼の体はやわらかく、私のモノを根元までぐぷりと受け入れる。
「腹が、壊れ……っ壊れちまう、だろ……!」
 言葉とは裏腹に、エッジの瞳がとろりと蕩け始める。先走りがひっきりなしに垂れ、互いの腹を汚していく。
『彼を孕ませたい』という感情は魔物の本性から来るものなのか、己の浅ましい想いからくるものなのか、もう見分けもつかない。
「っ、うぅ、ひっ、いく、いくっ、からあ、ルビカンテッ、抜い、て……っ!!」
 答えるべき言葉が思い付かず、私はただただ首を横に振った。
 ささやかな抵抗もできぬよう、両腕で彼の体を抱き込む。
「やだ、や、やだ、あ……ッん……っ、孕むの、や、いやだ、やだ……っ」
 嫌だというのは本心――――人間としての本能だろう。
 きつく引き絞られて、彼が果てたことを知った。がくがくと震えのけぞっている痩躯の腹の中に、薄汚い欲望を吐き出す。「あつい」と逃げをうつ腰を痕が残るほど掴み、彼に全てを注ぎ込んでいく。
 ちかちかと目の前が瞬くほどの快感だった。



 彼が無事受精卵を『産んだ』後、水の匂いを辿り、私はエッジの体を洞穴内にあった泉まで運んだ。泉の水はひんやりとしていて、驚くほど澄んでいた。
 光るきのこや光る鉱物、それと光る花などが泉を囲んでいるため、洞穴内は神秘的な光に満ちている。

 水に浸した布で体を拭いてやるとエッジは徐々に元気を取り戻し、呆れたことに泉の中に飛び込んで泳ぎ始めてしまった。
 ばしゃりと水がはねる。どこか現実味のない泉で泳ぐ彼はまるで子供のようだ。泉の畔で、私は彼の姿をぼんやりと眺めていた。
 そんな私を不思議に思ったのか、彼はこちらに近づいてくる。
 泉の畔に立つ私の足首を、いたずらっぽく微笑みながらぐっと掴んだ。
「水のそばにいると、時々、死人に足を引っ張られて連れて行かれちまうことがあるんだってさ。爺が言ってた」
「……しびとに?」
 しゃがみ込み、エッジの顔を覗き込む。頬に触れればそこはひどく冷えていて、まるで本当に死人のようだと思った。
「体が冷えている。いい加減上がったほうが良いと思うが」
「……そうだな……。冷えもそうだけど、もうそろそろ城に帰らねえと」
 泉から上がり私の隣に腰掛けて、エッジは瞳をさまよわせた。無表情を貼り付けたような、そんな顔をしている。
 いつも素直に心の内を顔に出す――――そんな印象持っていた私は、彼の思惑が分からずうろたえるばかりだ。
 当たり前のことだが、彼は生きている。生きていれば成長もする。変わってゆく。彼の成長は『忍の成長』『王の成長』としては喜ぶべき類のものだろう。
 だが身勝手な私の心は、彼の変化を喜べずにいる。

 ことあるごとにころころと表情を変え、怒りによって己の力を目覚めさせる。無茶と死を承知で敵に挑み、決して諦めない。……それでは、いつか本当に命を落としてしまう。
 エブラーナの民の期待に応えるため、彼らを守るため、彼は変わったのだ。直情的になってしまわぬよう、王らしくあるよう努力している。
 けれど私のこの予想が当たっているとしたら、エッジの言動の中で一つだけ辻褄の合わない事柄があった。
「……お前はいつもああ言って、不特定多数と体を重ねているのか」
 私の言葉に弾かれるようにしてエッジはこちらを見た。
「た、多分おめぇは何か重大な勘違いをしてる! と思う! それに『ああ言って』って、一体俺がどう言ったっていうんだよ!」
「『ただの穴だと思えばいい』と言っていただろう。それに、私の体を誰かの体と比べているように見えた」
 はくはく、と唇を動かす彼はもう無表情を装えていない。
 濡れ鼠になってしまっている彼の体を温めるため、手のひらの上でふわりと火を起こした。
「温まって体が乾いたら、早く城へ帰るといい。少し破れてしまっているが、服も乾かしてある」
「うう」だとか「ああ」だとか曖昧な呻きを微かに漏らしながら、エッジは頭を抱えてしまった。仇である私に己の淫蕩さを指摘されたことが嫌だったのだろうか。
「だ、誰にも言うなよ……?」
 と言う彼の声はとても小さい。いやそもそもここには私達しかいないのだから小声になる必要はないだろう、それに私が誰に告げ口をするというのだろう、と考えて可笑しくなりつつも軽く頷いた。
「ほら、あの、あるだろ、ああいう――――」
 エッジは俯き、胡座を組み直す。
「一人で……こう……一人のときに使う張り型…………それを尻にいれたことが、あって、だからほら、そういうことだよ……っ」
 今度は私が言葉を失う番だった。エッジの顔が真っ赤なのは火に照らされているから、というだけではないだろう。
「だって気持ちいいって本に書いてあったから!」
 と訊いてもいないことまで告白してくる。
「……それで、一人でして気持ち良かったのか……?」
「えっ?! い、いや、そんなには…………だからおめぇのであんなになっちまうなんて思ってもなくて、その……っあ〜もう!! 何言ってんだ俺は! とにかく俺はおめぇ以外の男と寝た経験なんてこれっぽっちもねえからな!」
 胸のどこか、心のどこかで何かが音をたてたような気がした。身体的な快楽とは違う、だが強烈な衝撃。様々な感情が襲い来て、沢山の言葉が喉まで出かかる。
 火を消し、まだ濡れている銀の髪に触れる。「な、なんだよ」と言う彼の声は恥ずかしさからか震えていた。
「頭を撫でてもいいか?」
「……まあいいけど、なんで」
「私の体温は高いからな。そうした方が早く乾く」
「……なるほど」
 形の良い頭だ。指先を滑らせると、彼はくすぐったそうに目を細めた。
「『ただの穴だと思えばいい』ってのは、その方がおめぇもやりやすいだろうなと思って言っただけだ。……けど、おめぇに頭撫でられてたら、そんなこと言わなくてもよかったんだなって、そんな気が……し、て…………」
 かくん、とエッジが頭を垂れた。そのまま前つんのめりに倒れそうになる体を抱きとめる。
「な、なに……、ルビカンテ……?」
 私のマントを掴む指先が、力なくだらりと垂れ下がった。
 エッジの寝息が穏やかに響いてくる。「スリプルをかけただけだ」と囁くけれど、当然のように返事はない。
 立ち上がって抱き直した体は細く、『本当にきちんと三食食べているのだろうか』などと余計なことを思う。

 乾かして傍に置いてあった服を着せ、洞穴の外に出た。
 雨はすっかり上がっている。木々の緑が、陽をうけて雨露を美しく煌めかせていた。
 巨木に凭れさせるようにして座らせて、彼の周りに結界を張った。こうしておけば、眠っている間もエッジが魔物に襲われることはない。といってももう二、三分で目が覚めるだろうから、それほど心配することもないだろう。
「……限界だな」
 己の指先が透けていることに気づく。
 結局何の力が働いたのかも分からずじまいのまま、私はまた死にゆくらしい。
「何だ夢か、今日のことはただの悪い夢だったんだな、とお前が笑って忘れてくれれば良いのだが」
 せめて逃げ場を、という思いで彼にスリプルをかけたのだ。
 私に抱かれた記憶なんて酷い悪夢でしかないだろうから。

――――だがせめて、完全に消え逝くまでは彼の寝顔を眺めさせて欲しい。

「つくづく愚かだ」と呟いて、透けた指先の向こうにいる彼の顔を見つめていた。



End


Story

ルビエジ