紫陽花の色は、彼の色だった。
 雨がざあざあと降る頃になると、思い出したかのように、ぽつりぽつりとあの花が開き始める。


***


 私が『エブラーナを落とせ』と命じられてから、三年の月日が経過している。
 落とせと言われた国を、殺せと言われた人間を、私は毎日のように観察し続けていた。
 エブラーナという国は少し変わっている。独自の文化を築いてきたからなのか、そこに生息している植物も、エブラーナの文化と同じように少し変わっているように私には見えた。
 季節が巡ると、この国では『桜』という美しい花が咲く。
 薄紅色をした花は、風が吹く度その身を揺らし、辺りを花弁と同じ色に染め上げる。
 雨が降る頃になると、今度は紫色をした花が咲いた。濃紫の花もあったが、ほとんどが薄い紫色をしていた。
 『紫陽花』という名のその薄紫色の花は、雨のしずくがぽつりと落ちる度、美しさを増していった。
 ――――薄紅色の『桜』も美しかったが、私は薄紫色の『紫陽花』が好きだった。
 雨に降られ濡れるさまが綺麗だった。
 時折晴れ間が覗くと、青い葉に乗った露がきらきらと光った。
 輝く紫陽花の姿を見る度、手折ってしまいたいような見守っていたいような、表現しがたい感情に襲われた。
 自分が触れてはいけないような、けれど手に入れてしまいたいような、自分自身にもよく分からない感情だった。

 それは、私が『エブラーナを落とせ』と命じられてすぐのこと。紫陽花が咲きこぼれるある月夜のことだった。
 森の中、薄紫色の紫陽花の隙間を縫うように、紫陽花と同じ色をした布が風をはらんで揺れていた。
 深夜、それも森の中ということもあって、この時間のこの場所で人間を見るのは、初めてのことだった。
「誰だ……?」
 人間が、小さく呟く。
 瞬間――――マントの主が、振り向いた。
 途端、私は息ができなくなってしまった。
 雨と同じ色をした銀の髪、葉と同じ色をした緑色の瞳、紫陽花の花弁と同じ色をした服を纏う青年が、私の顔を仰ぎ見ていた。
 青年が跳躍する。驚くような高さまで飛び上がり、くるりと回って木の上に降り立った。
 刀が、月光を反射して光る。
「魔物……だよな?」
「……ああ」
 木の枝に腰掛けて、青年は首を傾げた。
「俺を殺しにこねえの?」
 青年の口元は、薄紫色の布で隠されていた。
「……ああ」
 何も言うことができず、先ほどと同じ言葉を返す。
 青年は目を何度かぱちぱちと瞬かせてから、刀を懐に戻した。魔物の目の前で得物を仕舞うなんて、何と不用心な男だろう。
「なあ。もしかしておめぇ、『ああ』しか言えねえの?」
「……いや、そういうわけでは…………」
 慌てて返した私を見て、青年は小さくふき出した。
 綻んだ表情はまるで少年のようで、そのまま大きな声で笑い始めた彼を、私はただただ見つめているしかない。
 目元に涙を滲ませながら、彼は楽しげな声で問いかけてきた。
「……おめぇの名は? 何ていうんだ?」
「…………魔物の名を訊いても仕方がないだろう?」
「いいから、おめぇの名は?」
 好奇心を纏った瞳が、朝露に濡れた紫陽花の葉のように、きらきらと光っている。
 手折ってしまいたいような見守っていたいような、表現しがたい感情に襲われた。
 自分が触れてはいけないような、けれど手に入れてしまいたいような、自分自身にもよく分からない感情だった。



 End