陰鬱な夜のおとぎ話
雪が降っていた。
後から後から、止むことなく、白い雪。
それが、人の悲しみだと。悲しい心だから、冷たいのだと。
そんなことを習った気もするのだけど・・・さて、あれは誰に教えられたのだったか
記憶の果て。
ずっと昔。
「はい、これはママからのクリスマスプレゼントよ・・・」
この時期になると、町では決まってこんな光景を目 にすることができる。
幸せそうな親子連れが連れ立っておもちゃ屋やゲーム屋から出てくる姿。
子供の手には綺麗にラッピングされたプレゼント。
きっとこの後で「サンタさん」からもプレゼントをもらうのだろう。
皆で豪華な食事ののったテーブルを囲い、ケーキをつつき・・・そして夜になれば、心の中に期待と欲望と一抹の不安を抱きながら眠るのだ。
今年はちゃんといい子に出来ただろうか?
色々怒られたりしたけど、サンタさんは来てくれるだろうか・・・と。
・・・なんて馬鹿馬鹿しい。
サンタなんかいない。
子供達はそれをわかった上で親にだまされる。
親達は子供がもうサンタなど信じていないと知りながらそれでもプレゼントを渡す。
なんて無益。
なんて、欺瞞。
「レナさん、何してるんですか?」
――そんな事を考えていると、後ろから声をかけられた。
声をかけてきたのはけばけばしい化粧と露出の多い真っ赤な衣装に身を包んだ20代の女性。
頭にかぶった白いボンボンのついた帽子がなければ、それがサンタの衣装だと気づくのも難しいだろう。
本来季節物のはずのサンタクロースの衣装も、これだけ露出が多いと季節感がまったくない。
ちなみにかく言う私も大差はなし。
年を食っている分私のほうがみすぼ らしく見えるぐらいなのだけれど傍から見たら実感以上に寒そうに感じられる。
……酷いものだ。
「……レナさん?」
「え? あ、ああ。何でもない。ミユちゃんこそどうしたの? もう交代の時間?」
少しぼ うっとしていたらしい。
それもこれもこの寒さの中立ちんぼ なんかやらせる店長のせいだ。
大して期待もせずに私は店の中から出てきたその女性に話し掛ける。
まだ外に出てから10分も立っていない。
せいぜい増援、下手をしたら冷やかしだろう。
「まっさか……店長がご立腹。クリスマスの掻き入れ時なのに客が入らないって……」
案の定……だ。
それは私のせいではない――と思う。
法改正が成されて客引きに目を光らせる警察がうろうろしている中、それでも道行くおじさま方に声をかけるのがどんなに難しいかわかっていないのだ。彼は。
「てかさ。そう言うならミユちゃんも少しは手伝ってよね。寒いんだからさ……」
「いやですよ〜。寒いならさっさと暖めてくれる男を探しちゃえばいいじゃないですか」
「いれば苦労しないわよ……」
「それもそうだとは思いますけど〜。けどま、私は伝えましたからね。しっかりしてくださいよ」
鬼め。
笑いながら去っていくミユの後姿に思いっきりガンをくれてやりながら手だけは体を温めるために必死で動かす。
せめて他店の娘みたくジャンパーでも着せてくれればいいのだけれど・・・。
そんなことを考えながら通りの方に目 をやる。
そもそも立地が悪すぎるだろう、ここは。
駅から程近いとはいえ歓楽街の中ではあまりに表通りに近い。
これじゃよほどの強者でも泣けりゃは行ってくるのも難しい……衆人環視の中な訳だし。
「あ、そこのおじさん。どう? みんな若い子ばっかりだけど入ってみない?」
目 に付く男に片っ端から声をかけていく。
けれど、もうすぐ三十路に突入しようかというおばさんが言っても虚しいから回りにしかならない。
その上彼らのほとんどはなじみの店や娘を持っている。
ほとんどの人間がコートの縁を手に持ち足早に歩き去っていくだけ。
「はあ……誰かいないかな……って……何?あれ?」
そんな中で一人の不思議な男を見つけた。
どぎついオレンジの服を着込んだ優男。
だが、寒そうにするでもないし立ちんぼ をしているわけでもない。
何より同業のもの特有の匂いがしない。
「どう? 入ってみない?」
こういうとき、職業病という物は怖い。
考えるより先に身体が動いていた。
客引きの基本はただ一つ、何度振られようとあたって砕けろの精神で男に声をかけてみること――なのだ。
だからこのときはまだ大して深くは考えていなかった。
ただ男がいたから声をかけてみただけ。
理由としてはごくあたりまえで、私的には日常茶飯事。
けどきっと、これが奇跡が始まった瞬間。
「君を指名することもできるの?」
「え?……えぇ……」
近づいてみて驚いた。
若かった。
驚くほどに若かった。
高校生か……下手をすれば中学生かもしれない。
感触は良いが、法律に引っかかりかねない。
(どうしよう……)
手を取るべきか、嗜めるべきか、そこを迷う。
けれど、考えているうちに男のほうが勝手に答えを出した。
寒さでかじかんでいる私の手を取って、ずんずんとお店のほうへと近づいていく。
「良いね、入ってみるよ。どこの店?」
「ちょっと待っ……」
待って、と言おうとして口をつぐんだ。
よく見れば、30代のようにも見える。
と言うより、年齢がつかめない。
何歳だと言われても信じてしまいそうだ。
さっきあまりにも幼く見えたあれは……見間違い……だったのだろうか?
煮え切らないものを残したまま、私は男の前に立って店へと案内していく。
「君、名前は?」
男は頭の後ろで手を組んだままぶらぶらと歩いている。
その様子は遊びなれた男のようにも見えるし、これまで遊びというものを知らなかったおのぼ りさんのようにも見える。
「レナ」
「レナちゃんか〜。歳は?」
「24歳です」
嘘だ。
歳は28。
この職業を続けるうちに年をごまかすのに疲れなくなってきた。
「ふ〜ん」
男は信じたのか信じていないのか、あいまいな答えを返しただけだった。
細い階段を上り、店へと男を入れる。
お金を払ってもらい、客引きをミユと変わり、そのまま部屋の一つへと連れていく。
「お客さん、普段は何してるの?」
部屋へ入り、服を脱がせながらたずねる。
それは、私なりのいつものスキンシップだった。
別に応えてもらわなくてもいい。
嫌々するのではなく、あなたのために尽くすのだ、と。
その意思を示すためだけの行動。
「悪魔」
けれど、男はまるでなんでもないことでも告げるように、真顔で、そう言った。
「ぷっ……何? その仕事……儲かるの?」
つい噴き出しそうになりながら、男の次の言葉を促す。
「まあまあかな? 実入りは悪いけど、ニーズは結構あるからね」
至極真面目 なまま、男の話は続いた。
イメージプレイだろうか?とも考えたが、どこか様子がおかしい。
もしかしたら精神に障害があるのかもしれないと思ったけれど、それも違いそうだった。
それでも、必死で男の知識に合わせていく。
男が語る悪魔業――例えば母を助けるために自らを売った少女の話や、逆に親から逃げ出すために自らの消滅を望んだ少年の話。
そんな話が男の口から語られるたびに、相槌を打ったり、いかにも感動した風に見せかけてみたり。
一向に行為に移 る様子のない男を不思議に思いながらも、ひとまず会話をあわせていく。
時間も気になったけれど、これだけで終わるとは思っていない。
何より、女性とのこういうたわいもない会話だけを求めてお店に来る人がいるってことも、私は知っている。
「どう? 君も一つ。簡単なものでよければ今すぐにでも契約できるけど……」
けれど、男がこんなことを言い出したときは本 当に困ってしまった。
勿論そんな話は信じてはいなかったのだけれど、男の話を聞いているうちにそんな事があってもいいのではないか……ぐらいには考え始めていたのだ。
その話は、悪魔の所業というにはあまりに美しすぎた。
美しくて、そして、悲しすぎた。
「面白そうね。けど、契約の証って何なの?」
出来るだけ平静を装いながら、私は悪魔の言葉の先を促す。
すると男は何処からとも無く、それこそまるで手品のように、空中から一枚の紙を取り出した。
「簡単さ、この契約書にサインしてくれれば、それで契約は完了する」
まるで時代錯誤な羊皮紙と、羽ペン。
けれど、大事な所はそこではない。
こんなことは奇術師なら誰だって出来る。
羊皮紙や羽ペンだって、その気になれば誰だって用意できる。
だから、大事なところはそんな物じゃなくて……ああ、そんな物じゃなくて、なんだというのだ。
「契約書……あんた、変な金貸しや何かじゃないでしょうね? 嫌よ、私。お金持ってないもの」
それは、破れかぶれの返事だった。
心のどこかが、拒否していた。
もしかしたらそれは、神を信じる物の、残された数少ない良識だったのかも知れない。
「?……あはは、面白い人だね、レナちゃんは」
だっていうのに、顔をしかめて見せた私を悪魔を名乗る男は笑い飛ばした。
軽快に、さも面白くてたまらないというように――まるで、本物の悪魔のように。
「今日は何も取らないよ……いや、そもそも悪魔は人からは何も取り上げないものさ。代償を求めるのは天使だの神だのと呼ばれる連中の所業であって、我々の仕事じゃない。・・・僕達は相手が望んだときだけ、代償物を受け取るんだ」
ほら、といいながら、男は取り出した紙を手渡してくる。
「何も書かれてないだろ? ここはこれから書き込んでいくんだ。君が何を望み、何を願うのか、をね。けど、それには君の名前がいる」
男は饒舌だった。
そのせいで、私もその気になる。
その気にさせられる。
「そして、血がいる。だから、ほんの一滴でいいから血をもらえないかな? 契約に必要なんだ」
血の契約、ということなのだろう。
男は酷くすまなさそうにそのことを告げた。
けど、血の契約だなんて。
なんて意向をこらした……いや、これが当たり前なのだろうか。
「いいけど、針か何か持ってる?」
「こんなものでよければ。」
男はまた空中から待ち針のようなものを取り出した。
「用意がいいのね。」
私の言葉に、男は何も返さなかった。
ただ少し笑みを見せただけ。
そのまま押し付けるように針を突き出してくる。
痛いだろうか?
・・・まあ、ちょっとした余興と思えばこういうのも楽しいのかもしれない。
渡された針を左手の親指の腹に押し付ける。
一瞬鋭い痛みが走り、うすく血がにじみ出てきた。
これをどうすればいいの?
私がそう口にするより早く、男に右手を紙に押し付けられた。
血がにじみ、粗野なつくりの羊皮紙の上に赤いしみを作る。
「ちょ、何を・・。」
後の言葉が続かなかった。
羊皮紙の上で赤い血が踊るように形を変えていく。
『橘 美香』
まごう事なき自分の名前がそこに写し出される。
予想はしていた。
こんな展開になれば次に来るものはこれだ。
だが、私はこの男に私の名前を告げていない。
告げているはずがない。
ここは……そういうお店だ。
いつの間にか私の個人情報はどこかから外へ漏れていたのだろうか?
それとも……。
「その名をなぜ、何処で知ったの?」
少し寒気がした。
こいつは本 物かもしれない。
そんな直感で、契約が成立した今頃になって恐怖が体を捕らえ始める。
「橘美香。うん、いい名前だ。」
なのに、男はしきりに頷くばかりだった。
羊皮紙の上に踊る血文字を上から下からと眺め、安心したかのようにベッドの横に据え付けられた簡易テーブルの上にそれを広げる。
何らかの魔法のようなものが働いたのか、指先の血はすでに止まっていた。
「これで契約は成立。後はあなたが望む事だけれど、それはもう分かってる。いや、さっきまでは分からなかったのだけれど、もう分かった」
男は可笑しな事を口走る。
そして、私の知らない文字を羊皮紙の上に書き込んでいく。
「三度だけ、君は時を越えることが出来る。呪文はフェイラー。唱えた後に何年前のいつの何処かを指定するんだ。与えられる時間は1分間。好きに使うといい」
「何それ? そんな事まで出来ちゃうわけ?」
「もちろん。ただし、かなり正確に言わないとそこへ跳ぶ事は出来ない。一生涯契約だけど、その点だけは気をつけて。大切な時間は……忘れてはならない」
言いながら、男は私の体を抱きかかえる。
男のものとも女のものとも違う不思議な香りのする身体だった。
その手の中で、突然襲ってくる眠気に身を委ねていく。
「お休み、美香。・・・願わくば、汝が破滅を呼び込まずに済むように」
最後の一瞬、そんな声が聞こえた気がした。
「ん・・・」
気がつけば男は消え、部屋には私だけが残されていた。
体がだるい。
ベッドのシーツに包まったまま、さっきまでに起こっていたことの記憶の断片を拾い集めてくる。
だが、考えれば考えるほどに自分が馬鹿のように思えてくるばかりだった。
フェイラー・・・?
ばかげている。
そんな呪文があってたまるか。
私の母は・・・・・・・もう・・・。
布団から起き出てきながら、私は軽く頭を振る。
少し、熱があるようだった。
「ええ、ごめんなさい、どうしても体調が優れないようで・・・」
その日、私は店長に断りを入れ、早帰りをした。
ロッカールームには向かわず、店の最上階にあるこじんまりとした居住スペースの中の自分の部屋へと帰っていく。
付き合いきれない。
あの変な男のせいで・・・過去を思い出してしまった。
捨て去れない・・・最悪の過去を・・・。
「・・・・・・」
家に帰るなり、着替える事すらせぬままベッドにもぐりこんだ。
暗い闇があたりを包む。
眠らない町の中でもこうすれば簡単に闇はできる。
光に意味などない。
闇の中でも私はここにいる。
見えないからといって消えてしまったりしない。
目 で見るのではない。
抱きしめ、体を温める。
母がそうしてくれたように・・・。
体を売り、人目 を気にし、上辺だけの愛の中で生きる。
だからこそ・・・時にはこうして闇に逃げたくもなる・・・。
夢を、見た。
長い時間、私は泣き続けていた。
思い出した過去。
思い出してしまった母の死。
忘れかけていた、憎むべき父の顔。
冷たい布団の中で暖を取るために、何度も体を抱きしめる。
聞こえる外のざわめきとあまりにもギャップのある静かな部屋。
体を動かし毛布に包まろうとしても、まるであざ笑うように熱は私の体から離れていった。
冷たい、悲しい夜。
思えば、忙しさから忘れていたけれど、今日は母の命日なのだ。
1988年12月24日午後6時35分
忘れもしない母が死んだ時間だ。
私と同じ、風俗嬢をしていた母はあの日、エイズに体を蝕まれながら死んだ。
父親を頼ってくれと、それが母の遺言だった。
何も残すことなく、多額の借金にまみれ、美しさなど欠片も残していなかった母は死んだ。
父は、まるでゴミでも見るかのように母を見ていた。
それでも口先だけで、「まかせろ」とか何とか、そんなことを言っていた。
そのとき見せた母の安堵しきった顔を私は一生忘れない。
父の見せた氷のような笑みを、未来永劫忘れたりはしない。
そして、タバコを吸うといって外へ出て行った父が我が家を再び訪れることはなかった。
すでに家庭を勘当されていた母は葬儀を送ることすらできず、仕方なく親類に頼りささやかな見送りの儀だけを開いてもらった。
だが、その親類たちも私を引き取ることまではしてくれなかった。
名義上の親にはなってくれたが、それ以上の干渉はしようとはしなかった。
そして、私もそんなことは望んでいなかった。
母が死ぬ前に身を寄せていたお店のオーナーが私の身体を引き取ってくれた。
もちろんただではない。
身を置く場所を世話してくれたかわりに次の日からおさわりパブでの生活が始まった。
警察のがさ入れなどのアクシデントも遭ったがどうにかこうにか、すべて逃げ切ってきた。
15歳になってからは本 サロに店がえし、今日までずっと裏街道を生き続けている。
それでも、私だって表での生活を夢見なかったわけではない。
いつからか常に持ち歩いていた大きなクマの人形――今も部屋の隅で座っている――を抱いて泣いた日も、妄想にふけった日も、たくさんあった。
日本 の遺産相続法のおかげでよくある借金漬けという状態でもなかったのだから、やめようと思えばいつでもやめられたはずだったのに、それでもやめられずにいるのはこの仕事に対しての未練なのだろうか?
それとも、いつか・・・。
いつかあの男が店にきてくれる日を期待してのことだろうか?
あの男が私を抱きに来るなんていう天文学的な確率を信じているからだろうか?
フェイラー。
今日やってきた自称悪魔の教えてくれた言葉。
これは・・・チャンスなのかもしれない。
徐々に温まってきた布団の中で私はぼ うっとそんなことを考えていた。
あの男を、殺人者となることなく殺せる。
いや、正確には自分の中に殺したという事実は残るだろうがそこには私は存在しない。
どうなっても必ず逃げられる。
ダメもとで・・・そう、ダメもとで試してみるのも良いかもしれない。
どうせ何も起こり得ないのだけれど。
どうせ自分が馬鹿を見るだけで終わるのだけれど。
聖夜なのだから、もしかしたら。
もしかしたら、本 当に奇跡が起こるかもしれないではないか。
「・・・フェイラー」
あの日のことならば、分単位で何があったのかはすべて覚えている。
眠気のせいだろうか?
普段なら絶対考えないような短絡的な思考に私は走っていた。
「・・・19年前、12月24日午後6時36分、埼玉県草加市○○町○○コーポ○○○8ー○○」
目 を刺すような光だった。
さっきまで暗闇の中にいただけに余計にその光は強く感じられる。
目 を薄めながら周囲を見回してみれば光源は廊下に取り付けられた無駄に明るい白色灯だった。
慌てて目 をそらす。
理解ができない。
服は帰ってきたときの服、つまり業務用衣装のままだ。
だが、ここはどこだ?
露出した肌に冷たい空気が突き刺さる。
知っている。
いや、知りすぎている世界。
幼少時代をすごした・・・今はないマンションだ。
「な、何だね、君は」
後ろから声が聞こえた。
成金風の服に身を包んだ父が立っていた。
驚愕に目 を見開き、肩が震えている。
出てくる瞬間でも見てしまったのだろうか?
「あ・・・」
だが、そんなことは些細なことだった。
心の奥にふつふつと怒 りが込み上げてくる。
この男だ。
私の父。
私が世界で一番憎む人。
私が・・・殺すべき人。
「麗奈・・・そんな・・・なぜ・・・」
麗奈。
それは母の名だ。
この男は私を母と間違えている。
自分を世界で一番愛した女性と自分を一番憎む女性を間違えるなんて。
なんて馬鹿な男だろう。
それは、ライオンと兎を見間違えることにも匹敵する。
だが・・・そうか。
私は母に似ていたのか。
母が若いころの写真は残っていないので分からないのだが、それならそれで良い。
私は男の首に手を伸ばした。
強く、力の限り締め上げる。
グエッ
男の口から蛙のような声が噴き出した。
まだだ。
貴様は母に殺されるのだ。
貴様を世界で一番愛した女性に・・・。
ふっと手から何もかもが消えた。
気がつけば私はまた自宅のベッドに横たわっていた。
首を閉める形で手を固定したまま・・・。
その手に生々しい感触が残っている。
生暖かい肉の感触。
だが・・・・・。
殺しきれなかった・・・・。
あの男は死ななかった。
確信できるそんな思いがあった。
殺さねばならない。
確実に。
一分以内に。
可能ならば誰か、まったく別の人間に殺されたように見せかけるか・・・もしくは事故として。
少なくとも後の私が何かに巻き込まれないような形で・・・。
どうすれば良い?
私の頭は回転を早めていた。
そして、もう一つ。
どうしてもしなければならないことがある。
そのためにも飛べるのは後一度だけだ。
そう、後一度だけで確実にしとめなければならない。
私は決意した。
「フェイラー・・・19年前、12月24日午後6時36分、埼玉県草加市○○町○○コーポ○○○8ー○○」
目 を刺すような光。
だが、今度はすぐに振り返る。
「何所へ行くの?」
驚愕に目 を開き、肩を震わせる男。
「私が・・・気づいていないとでも思った?」
男の股間部に手を這わせ、商売用の媚びるような笑みを見せる。
嫌悪感。
憎悪。
それら総てが相まってこれまでに体験したことのないような熱を身体に与える。
「麗奈・・・なぜだ? 今君はそこで・・・」
「死んだはず?」
馬鹿な男。
「私はね、あなたを殺すために帰ってきたの・・・」
小柄な体の足を持ち、相手が抵抗するよりも早くベランダから突き落とす。
母の命をすった分、男の身体は重かった。
けれど今は、私の思いのほうが、強い。
必死にすがり付こうと縁にかけられる手。
だが、それとてそう長くは持たないだろう。
足をベランダの縁にかけ、超ミニのスカートの中が見えることも気にすることなく手を踏みつける。
ブーツの踵で踏まれる激痛で、男の顔が歪むが、男が落ちないように支えてやっているのだ。
感謝される理由こそあれ、怨まれるような事は無い。
ただ、できる事ならずっとこうしていたいところなのだが、時間が近い。
一分とはあまりにも短いのに、この男に、死ぬ前に必ず聞かせなければならない言葉がある。
「死ぬ前に、覚えておきなさい」
ギリギリと、踵で男の掌を押しつぶす。
「私は・・・橘 麗奈は・・・あなたを世界で一番愛していた」
――絶叫が、響き渡った。
「ん・・・。」
気がつけば、布団の中に戻っていた。
男の手を踏み潰した感触は残っているし、まだ舌の根も乾いていない。
なのに、男は――私の父は死んでしまったはずなのに、私はそれでもこの部屋にいる。
過去は清算されたはずなのに、私の今という未来は変わっていない。
おかしい・・・のだろうか?
思考回路が上手く働かない。
けれど、夢でもいいと感じている自分がいる事には気付いていた。
これまで彼に対し抱いていた恨みが、嘘のように消えている。
暗い闇も、少しだけ明るく感じられた。
(そう・・・か・・・。)
大事なのは、彼が死んだかどうか、では無く、私が殺したという認識。
夢かどうかではなく、その実感。
私を縛り付けていたものの把握と、そこからの解放。
「私は・・・」
まどろみの中で、呟く。
おもえばずっと、こんな生活は終わりにしたかった。
喘ぎ声を上げるたびどこかで感じつつ、それでも父を殺したいという言葉で押さえつけてきた違和感が、形を持っていた。
こんな、身体を切り売りするような職業は、私のしたいことではないのだ。
(明日、退職届を出そう。)
思いを言葉にする事はしない。
けれど、私はもう、そのことを確定事項のように受け入れていた。
どうなるかは、分からない。
良くなるのかもしれないし、悪くなるのかもしれない。
けれどその日、私は初めて安心できる眠りについた。
そして、時は過ぎる。
結局、あの後私は元同僚の娘たちと人材派遣会社を立ち上げ、結婚し、・・・母とは違う生活を送ることに成功した。
今では頭には白髪が混じり、肌の張りも無く、目 の周りにはたくさんの小じわが寄っている。
けれど、どれだけの時が過ぎようと、私は何十年も前のクリスマスと、その呪文の事を覚えていた。
「あらあらまあまあ・・・・・・」
クリスマスムード一色の駅前の大通りで立ち止まり、おもちゃ屋さんのショウウインドウを覗き込む。
いつかどこかで見た可愛らしいクマのお人形が、こちらを見返していた。
「そういう・・・こと」
すぐさま購入し、綺麗なラップをかけてもらう。
するべき事は、一つしか思いつかなかった。
家に帰るなり純正ののサンタクロースの衣装に身を包み、プレゼントを片手に最後の呪文を唱える。
「フェイラー・・・57年前、12月24日午後6時37分、埼玉県草加市○○町○○コーポ○○○8ー○○」
奇跡は、すぐに顕現した。
怖かったから、ベランダの下は見なかった。
開いたままの扉から部屋の中へと入ると、亡骸を前に泣きじゃくる少女がそこに座っていた。
小さな体。
汚れを知らぬ肢体。
こうして見ると、我が身でありながらなんと小さいのだろう。
いたたまれないような思いになりながらも、少女の隣にプレゼントをそっと置いてやる。
その瞬間、はっとしたように少女が振り向いた。
その小さな身体を、正面からぎゅっと抱きしめる。
「つらかったね・・・」
労るように声をかけると、腕の中で少女の体が震えた。
「さんた・・・さん・・・」
消え入りそうな、少女の声。
親が死んだからといって、子供の幸せを奪って良い訳がない。
クリスマスの喜びは万人に送られるべきものの筈だ。
「メリー・・・クリスマス」
言葉に、どんな意味があるだろうか?
これから19年間、一人の男を怨みつづけることになるであろう少女を、どれだけ救えるだろうか?
老人になった今でも、答えは出ていない。
けれど、少なくとも今だけは。
今だけはこの少女を抱いていてあげたいと――そう思っていた。
体が――ゆっくりと――消える。
町の街灯の下に、一人の男が立っていた。
身を包むものはどぎついオレンジのジャンパーコートと蓬色のジーンズ。
真っ赤なニット坊の下には、大きく曲がった鼻と、とがった耳が見える。
男の手には小さなタバコが握られ、その煙がゆらゆらと冬空へと消えていた。
「やれやれ・・・。」
街灯にもたれかかったまま、呟く。
男の姿は異常なのに、誰一人として立ち止まるものはいなかった。
皆忙しそうに自分の目 的地へと向かっていく。
何処が目 的地なのかさえ分からないくせに、足を動かしていなければ不安になる。
けれど、そもそも男にした所で、ここで何かをしているというわけではなかった。
喪に服していた・・・そう言えば、少しは真実に近づくだろうか?
自らにとっての制服で、男は一人の女性の喪に服していた。
(結局、人は何にもなれない。)
自らの持つ奇跡の力。
その弱さを噛み締める。
如何なる奇跡を起こそうと、人は人のままに生き――そして、死ぬ。
運命は変えられず、無理に変えようとすれば、そこにはほころびが出来てしまう。
だから、男は奇跡を起こすのではない。
起こされるべき奇跡は、既に定められているのだ。
今回の女も、その一例。
運命に抗わず、運命に逆らわず。
ただ流れに流れ、そして、死んだ。
傍目 には、彼女が奇跡によって運命を切り開いたと見えたかもしれない。
けれど、男にしてみればそれは違う。
この女の未来は、男が手を貸すまでも無く、幸せなものだった。
結局は鶏 が先か、卵が先か・・・そんな話。
「それでもまあ・・・」
男は、笑う
自己満足に過ぎないといわれようと、無意味だといわれようと。
――結局、神にだけはならずに済んだのだ――
と。
THE END
あとがき
はい、暗いです。重いです。それでも自分なりのハッピーエンドにたどり着いたはずです。
言いたいことなんて無い、と言うかこれ自体他に送った物に少々手を加えただけなのですが・・・まあ、自分的には最高傑作の一つですね。
天使や神と悪魔の違い・・・人が世界をも変えてしまえるほどの力を得てしまったときどう動くのか・・・そんなことを感じていただければいいなぁ、と。
もしかするとただの夢かも知れないし、この女が執念の果てに見いだした妄想だったのかも知れない。ただ、それでも少女が見た奇跡は嘘ではなかったのだろうと思います。・・・まあ、自分ではこれを書いたときに何を考えていたかなんて覚えてもいないんですがね><b
蒼來の感想(?)
ダークパラサイトさんからダークぽい(?)クリスマスSS頂きましたー
あの馬「今回はハッピーエンドのようだね」
うん、というか非常に怪しいサンタさんなのだが・・・(−−;
悪魔だし。
あの馬「未来を変えたはずなのに過去に縛られる」
でその過去にある意味納得して消されるのはねえ
あの馬「ダークパラサイトさんのSSらしいというか。」
まあそうだね。しかし改装中思ったのだが・・・
あの馬「何?」
・・・このHP名と可也かけ離れてるなあとw
あの馬「何を今更」
今回から通常掲示板の他に感想掲示板を新設しましたので感想をそちらにお願いします。
あの馬「場所はBBSから行けます。」
よろしくお願いします。<(_ _)>
