八月の終わりに死んだ蝉

※エンドレスエイトネタ



夏の終わりはあっけなく訪れた。
(気温は明日も暑いだろうに、9月になった瞬間に夏が終わるのだと思うのはなぜなんだろうな)
俺は時間帯のせいかほぼ無人に近い車両を見回してから背凭れに深く寄りかかった。開くのも億劫だが閉じるほどでもない瞼の隙間、通常時よりほんの少しだけ狭い視界に、高速で走っていく線路脇のフェンスとゆっくりと移動していくビルが同時に存在している。空でどっしりと構えた入道雲が無駄に気温の高さを主張していた。

「疲れたな」

奥の釣り皮がゆらゆら揺れている。

「・・・そうですね」

椅子から滑り落ちそうになるほどぐったりとだらけた座り方をしている俺とは違い、背筋を伸ばして姿勢の良い古泉も声に出る疲れを隠そうともしていない。それほどまでに俺達は疲弊していたのだ。
何をどうして急に最高に労力を使う「拷問」を思い付いちまったんだろうね、アイツは。


8月31日朝10時。
何も説明されぬままいつもの公園に集合した俺達を待ち構えていたのは「犯人は現場に戻ってくるのよ!」と意味不明な事を叫ぶ、群集するひまわりよりも太陽の光を集めまくっているハルヒの眩しい笑顔であった。もう少しひまわりにも日光を分けてやればいいのにと俺は本気で同情しそうになったのだから、その威力は計り知れない。
しかしいくらハルヒの笑顔が絶好調であっても、いや絶好調であるからこそ、俺はその案を聞く前から断固拒否した。まあ反対者は俺一人であったが。(古泉は相変わらずイエスマンだし、朝比奈さんはぐりぐりハルヒにいじられているし、長門に至ってはこんな時にも小さな掌に文庫本を手にしていて我関せずといったオーラが出ている)
何かもうとんでもなく面倒な事を『やらされる』んじゃないかという嫌な予感がしていた。いや、予感じゃないな。『分かっていた』。こういう事に関しちゃ俺はこのメンバーの誰にも負けない自信がある。自慢にならんのは知ってるさ。

で、抗議の結果がどうだったかと言うと、俺達が今瀕死状態にあるというのがその答えだ。
俺一人で(夏休みのせいか)反則的なまでにパワーアップしまくった暴走娘を止められるはずもなかったのだ。

「まさかご近所全部を回る羽目になろうとは・・・」

俺は今日一日を思い返して大きな溜息をついた。
ハルヒの案と言うのは「今まで不思議探索をした地域を総浚いする」というものだった。
「あの時隠れていた奴らが気を抜いて出てくるかもしれないでしょ?!あとは逃げ出した奴らが戻ってきてるとかね!」とは団長のお言葉である。それで「犯人は現場に戻ってくる」ということらしい。そんな馬鹿な宇宙人や地底人がいるか!!と俺は叫びたかった。もしそんなヤツがいるなら、とっくに発見されてアメリカとかの研究所送りにされている。
けどまあ、ハルヒの初めての遠足にわくわくしている子供みたいな無邪気な顔を見たら、俺も何も言えなくなってしまったわけだが。

「夏休みの最後くらいゆっくりしたかったぞ、俺は」
「これほど密度の濃い夏休みを過ごした人間もそういないでしょうね」
「濃すぎだろ。俺の宿題はまだ終わってないってのに、これからヤル気にもならん」

31日の宿題地獄は全国津々浦々の学生の恒例行事だろう。例にも漏れず俺もその内の一人な訳だが、今年はもうお手上げだ。徹夜したところで終わる気がしない。

「実を言いますと、僕もまだ終わっていないんですよね」
「・・・・マジか」

ははと諦念の若干含まれた笑い声に、俺はなぜだか姿勢を正してしまった。
ハルヒ専用イエスマンは夏休みの宿題終わらなくて慌てるキャラじゃないと思うぞ。

「痛い所をつきますね」

そう眉を器用にハの字にした古泉だったが、すぐにいつものニヤケ面になって「ですが僕は徹夜をせずとも終わるぐらいの量しか残っていませんので」と嫌味ったらしく付けたした。悪かったな、俺はほとんど手付かずの状態だよ。

「・・・あ、着きますね」

俺の恨みの篭った視線を軽く受け流した古泉が車内アナウンスに顔を上げる。冷房の効き過ぎた車内で冷えた腕を擦りながら窓の向こうに目を遣れば、見慣れた最寄り駅のホーム。
ああ、懐かしの故郷。・・・とまではさすがにいかないが、歩き疲れて痛む足に実にご苦労だったと労いの言葉を掛けてやりたくなるくらいには俺はこの事実に感動していた・・・

が。

「おわッ、?!・・・っぶ、!」
「っと、大丈夫ですか?」

俺の長閑な思考は一瞬にして吹っ飛んだ。
速度を落としながらの停車でなく、ほとんど急停車の状態で電車がブレーキを掛けやがったのだ。乱暴な止まり方に俺は重力のなすがままに古泉の肩に頬骨をぶつける派目になり。さらに停車の反動でも上手く姿勢を戻せなかった俺は古泉の膝にダイブまでしてしまった。頭の上からくつくつと喉の奥で笑う嫌な声が降り注ぐ。くそ、運転士の腕はどうなってんだ。

「悪い・・・」
「いえいえ」

ええい、まだ笑うか!俺だって好きで男の膝に凭れ掛かったわけじゃない。膝枕なら朝比奈さんのような可愛らしい女性にされたいに決まってる。って、だから笑うんじゃない古泉!

「これは申し訳ありません。その心中お察ししますよ」

古泉は普段よりもさらに腹立たしい笑みを浮かべている。本当コイツはハルヒの前以外では最高に性格が悪い。
救いは車内に人気が無かったことだろうか。こんな間抜けな事件は数年後の同窓会のネタにすらなりやしない。(古泉の位置が俺で、俺の位置が朝比奈さんであったなら美しい青春の1ページとして俺の心に刻まれただろうに)


――心臓が妙にばくばくと変な音を立てているが、俺はそこまで驚いていたのだろうか。まったく軟弱な心臓だ。


俺は古泉の今だ小刻みに上下する背中に込み上げる殺意をぶつけてやりながら、ホームへと降り立った。俺と古泉の最寄り駅は同じなわけで、ここでハイさようならと別れられないのが辛いところだ。
降りた瞬間に噎せ返るような熱気に包まれて、俺は音を立てて閉まるドアを名残惜しげに振り返った。閉じきる瞬間、情けの冷気がシャツを揺らす。古泉が外はやはり暑いですね、と暑さの欠片もない声で呟く。

「帰るまでにまた汗だくになりそうだな」
「せっかくの冷房で冷えた体も気休めにしかなりませんしね」

俺達はなんだか粘度があるような気さえする空気を掻き分けつつ歩く。ホームで佇む人々の顔にも生気が無い。元気なのはびっしょりと汗を掻きながらも走り回る子供くらいなものだ。同じ気温の中にいるというのに実に羨ましい。
口を開くのも苦痛なのは誰しも同じらしく、ざわめきは驚くほどに少ない。代わりに蝉の声が聴覚を支配している。鳴いているのはアブラゼミか。他にも別の声がするが混じり合い過ぎて分からなかった。SOS団で行った蝉採りで散々蝉と戯れてきたわけだが、大して親近感は生まれていなかったらしい。やっぱり五月蝿いだけだ。

「そういやセミって鳴くのオスだけなんだよな」
「ええ、メスを交尾に誘導するためのいわば求愛行動ですからね」
「迷惑なこった。あんな大勢で一気に鳴いたらメスもどれだか分からなくなるだろうに」
「その目的もあるらしいですよ、交尾誘導を阻害するという」
「・・・つまりほとんどが恋路の邪魔をしてるっつーことか」
「そうなりますね」

俺と古泉の下らない雑談は暑さを紛らわすことは出来やしなかったが黙っているよりずっと良かった。蝉の大合唱よりは暑さを感じさせない分、古泉の声の方が大分マシだ。
改札の機械も熱を帯びていそうで、俺は周りに手が触れないよう意識しながら切符を差し込んだ。
駅の向こう側に陽炎が揺らめいていたが、俺は灼熱地獄に怒りさえ溶けだしてしまっていて恨み言ひとつ出てこない。夏も終わりなのにどうしてこんなに暑いままなんだ。地球温暖化が着実に進んでいるせいだとしたら、今日から俺も多少気を遣うことにしよう。ただしクーラーの温度を上げるつもりは無い。それだけは出来ない。

「あちぃな・・・」

俺はじりじりと旋毛を焼く太陽光に成す術も無く、とにかくこの状況を口に出して何かを発散しようと試みる。勿論暑さが和らぐなんて事ありはしない。

「暑いですね・・・」

ぼんやりとした今にも倒れちまうんじゃないかと思うようなひ弱な声に俺はなんとなく隣を見た。なんとなく、だ。
古泉は掌で目元に傘を作り青と橙色の交じり合った空を見上げていた。
まだ電車を降りてから10分も経っていない。それでも俺は額を拭っていたし、古泉もそうだった。
前髪が日焼けしていない真白い額に張り付いて、同じように白いこめかみを小さな雫がゆっくりと滑り落ちていく。髪の生え際を辿って行く雫を見て、ああ髪後ろにやってんのかとぼんやり思う。長くて鬱陶しそうな顔の脇にあった髪が耳に掛けられている。濡れて濃さの増した髪の一束が、汗ばんだ首筋にぴたりと張り付いていた。
横顔が、よく見える。

「・・・・っ!」

なに してるんだ俺は。

自覚した現実に俺は愕然とした。
古泉なんぞの横顔を見たまま逸らすのを忘れていただなんて、一体どうしちまったんだ俺の体は。

「?何か?」
「あ・・・あ、いや、なんでもない。お前も暑そうだと思ってな」
「それはそうですよ、同じ気温の場所にいるんです。僕だけ暑くないはずがないでしょう」

僕をなんだと思っているんですか、と古泉はなぜか嬉しそうな顔で笑う。
俺は今度はその少し和らいだ目元に目がいって・・・ああ参った。眼球の動かし方を忘れている。
古泉は馬鹿みたいに見ている俺に居心地悪そうに視線を逸らし、俺はそれでも古泉を追いかけていた。

「あの、どうしたんです?先程から可笑しいですよ貴方」
「そうかも、な。暑さで・・・ちょっとオカシクなってんだ」

俺は焼けたコンクリートまで目を動かす事に成功した。靴底を通って足の裏まで達している熱から逃げようとこっそり足踏みをする。今までこの火傷を起こしそうな場所で立ち尽くしていられたのが不思議で仕方ない。
古泉の家と俺の家は駅からは逆の方向にある。だからここで別れの挨拶を済ませたら、俺はこの茹だる様な暑さの中を自転車で掛け抜け、北極のように冷えた家に駆け込む。そうだ、それがいい。どうして俺は古泉の横顔なんか見てたんだ。何も楽しくないじゃないか。得もない。不毛だ。

「じゃあ、な。日射病で倒れんなよ」
「ええ。貴方の方こそぼんやりしていますが大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」

俺は早口でそう言って靴をコンクリートから引き剥がした。そこから先の俺の行動は速く、すぐさま踵を返した。
一歩、二歩。
古泉は「お気をつけて」と俺の背に声を掛ける。靴音が微かにしたからアイツも背を向けたんだろう。
一歩、二歩・・・

俺は振り返った。

古泉の伸びた背中が見える。じりじりと焦げ付くどろどろに溶けそうな世界に、古泉の後姿がある。

俺は暑さで可笑しくなってる。
頭がイカレてしまっている。

「古泉・・・!」

だから呼び止めてしまったんだ。呼んだそいつが振り返った事に心臓の辺りが痛くなっただなんてこれは日射病か熱中症か、とにかくそういう暑さのせいで身体が狂っているだけなんだ。

――そうじゃなかったなら、俺はどうしたらいいんだろう。

「どうかしましたか?」
「・・・・・」

古泉が暑さに少し呼吸を荒くしながら俺を見ている。
見るな、と俺は念じた。振り返らせたのは俺なのに、そうされたら苦しくなった。頭がぐらぐらして、けれど妙に神経は冴えていて俺はやっぱり「見るな」と思っていた。

「・・・・・・・古泉」


    蝉の声が、三秒、止んだ。


何かがそれで『開始』されたらしかった。
脳がぐつぐつ煮えるような夏の終わり。それは認めたくは無かったが既に始まってしまって、忌々しい事に止める術が見当たらない。見当たらないけれど止めようとも思っていなさそうな自分も感じていて、俺は「終わり」に答えを出せなくて「始まり」に任せようと決めた。

「明日」
「え?」
「明日話す。だから明日ちゃんと学校に来い。日射病とかになってやがったら許さん」

珍しくぽかん、と目も口も丸くしている古泉に「なんて間抜け面だ」と笑ってやる。
だが古泉は「ひどいですね」と微笑んだ。

「勿論行きます。明日、必ず」
「ああ」

俺は古泉が頷くのを確認して、すっきりとした気分で家の方角へ足を戻した。
何を言おうとしているかは俺にも分からなかったが、きっとこれでいい。明日になって、古泉の顔を見て、それから決めたらいい。

「・・・あの・・・っ!」

少し張り上げた古泉の声が蝉の声に負けそうになりながら俺の耳に届く。
肩越しに振り返ると古泉はさっきの場所から動かずに直立不動、とも言える状態で俺を見ていた。
古泉は俺を見てどこか柔らかい、胡散臭いスマイルとは程遠いそれを向けてくる。

「僕も明日。お話したい事があります」

聴いていただけますか?と控えめに付け足す。俺は「気が向いたらな」と言おうとして「分かった。聴いてやる」と間違って言ってしまった。しまった、と思ったところで口から出た言葉が戻ることはないから仕方ない。どうせ聴くつもりだったんだ。

ありがとうございます。
古泉が笑い、
では明日。
と小さく会釈をする。

「おう、また明日な」

俺はひらひらと手を振った。
宿題はまだ山のようにあって、徹夜したところでそれは終わりそうにもなくて、けど俺は学校には行ってやろうと思っていた。なに、家に忘れてきましたとでも言えばどうにでもなる話さ。宿題なんて。
俺もアイツに話すことがあってどうやらアイツもそうであるらしい。今の俺は大層気分が良くて、古泉の長ったらしい遠回しで小難しい薀蓄にさえ喜んで耳を傾けてやろうという気になっているんだ。そう思えば、今日の疲労も暑さもあながち無駄ではなかったんだろう。今回ばかりはハルヒに感謝してやってもいい。


――ブブッ


「ッ!」

耳元で発生した大音量に俺は身を竦ませた。反射で耳を押さえたまま音を追い掛ければ、コンクリートの上に降り立つ蝉が一匹。音をキャッチした右耳の周りだけまだ鳥肌が立っていた。

『止まれ』の「れ」の部分に着地した蝉は、ブブ、と地面で羽を震わせる。けれど数センチずれただけで飛び立つ気配はなかった。もう一度、小刻みに羽を動かす。

そしてざらついた声で鳴き始めた。

木の幹でも電柱でもなく、道路にへばり付いて鳴き喚いている。蝉が鳴くのはメスを呼ぶためで、生殖活動を行うためで、本能だ。こんな場所で、上手く飛べもしない蝉が声を上げている。必死に本能に従っている。
段々と声は細くなる。
羽を震わせて音を出す彼らは飛べなくなったら鳴く事が出来ない。
声は小さくなる。

「・・・」

その後はもう、抜け殻のようなものがそこにいるだけになった。


――― では『明日』


俺は奇妙な焦燥感に振り返る。古泉は角を曲がったらしく姿はもうない。
背筋を汗が伝った。

――― おう、また『明日』な

蝉が鳴いている。八月の終わりに死んだ一匹を知らぬまま、鳴き続けている。


「夏が・・・終わる」


灼熱のコンクリートの上、九月に辿り付けなかった蝉が静かに身を横たえていた。




fin.




気付かなかった夏。来なかった明日。たった一度のシークエンス。
(07/09/08)