12. 殊更ゆっくり僕達は歩く。月日が経つのに反比例して速度は遅くなっていく。僕らの誰もがこの貴重な時間を出来るだけ長く感じていたくて、口には出さねどもそういう暗黙の了解とも言えるものが僕らの中にはあった。 僕の遅刻により下校ラッシュを過ぎた通学路には僕らの他に生徒の姿は見当たらない。風が緩く吹くたびに道路脇に寄せてある枯葉がガサガサと音を立てて散っていく。涼宮さんや朝比奈さんの楽しげな声がなかったら、僕はきっと静けさに耐え切れずに何か話題を探そうと柄にも無く躍起になっていただろう。二人のお陰で僕と彼の会話は実に普段通りの、沈黙混じりの穏やかなものだった。 「あ、そうだわ!古泉くん、ちょっと・・・」 朝比奈さんとの戯れを突如中断して振り返った彼女は僕を手招いた。 頷くより先に左を歩く彼を思わず見てしまって僕は許可を求めているように思われただろう。実際彼を後方で一人で歩かせる事になるのでそれが気になってはいた。 彼はくい、と顎をしゃくって「行って来い」と無言で示した。 「はい、なんでしょう」 小走りに近付くと朝比奈さんは自然な所作で一歩右にずれてくれて、僕は礼の意味を込めて軽く頭を下げてから涼宮さんの顔を見た。彼女は僕を真剣な眼差しで見上げて、それから後ろにいる彼には届かない程の小声で囁いた。 「ちゃんと言いたい事、言えたの?」 「・・・はい」 おかげさまで、と答えた僕に、彼女は大きな目を少し伏せた優しげな表情で、よかったわねと微笑んだ。 こんな慈母のような笑みを持つ人だとは知らなかった。この一週間がなければ見る事の出来ないものであったかもしれない。彼女と僕のひとつの大きな繋がりは消えたが、そうなったことで繋がっていた時よりも距離は確実に近くなったのだ。 「有り難う、ございました」 「別にお礼言われる事なんてしてないわよ。頑張ったのは古泉くんでしょ?」 歩を進めながらでも出来るギリギリの深さまで頭を下げると、彼女はからりとした笑顔で、でもどこか照れを含んだ声でそう言った。僕は首を振ってもう一度「ありがとうございます」と正面を向いてしまった彼女の横顔に伝えた。 涼宮さんは横目で僕を軽く睨むようにして、不服そうに唇を突き出した。吹き出しそうになってぐっと息を詰めて取り繕う。『どんな顔をしていいか分からない時にアイツは怒ったような顔をする』と言った彼の観察眼による素晴らしい結果を思い出してしまったせいだ。 「・・・っえ?」 口元に手を当ててにやけてしまう唇を隠していた僕は、突然の事態に一瞬思考が止まった。 膨れっ面のままの彼女の右手が僕の左手を力任せに掴んでいる。 力強く拳を作る掌は触れてみれば(それは当然なのだが)少女らしい柔らかなものだった。少し高めの体温がしっかりと握ってくるそれから伝わって、僕は一気に首周りが熱を発するのを自覚した。 「ほら!みくるちゃんは右手!」 「ふえ?!え?えっ?」 彼女は僕と繋いだ右手を朝比奈さんに見せながら、わざとらしい乱暴な声を出した。こんな状況を予想していたはずも無い僕は上手い逃げの言葉も見付からず、真っ赤な顔でおろおろしている朝比奈さんと見つめ合って一緒に戸惑うことしか出来なかった。 「いえ、あの・・・」 「ほらほら早く!」 「え、えと、あの・・・じゃ、失礼します」 まさか。僕は思わずにはいられなかった。 元々何事に対しても受動的な性格の彼女が、彼とならまだしも、嫌がること無く僕と手を繋ごうとするとは思いもしなかった。僕は喜ぶべき『両手に花』の状態にも混乱するばかりで、とにかく彼女に「すみません」と蚊が鳴くような小さな声で謝っておいた。朝比奈さんもまた消え入りそうな声で「いえ、私なんかですみません」と俯いた。 そこでふと僕はあることに思い至って、恐る恐る肩越しに振り返った。 案の定、眉間に深い皺を刻んだ彼がこっちを睨み付けている。『なぜお前が朝比奈さんと』という隠しもしない負のオーラが彼から立ち上っている。僕はそうっと視線を前に戻した。 「なにぼうっとしてんのよ!キョンもほら!」 嫉妬に険しい顔をしている彼を知らずに、彼女は空いた左手を彼にぶっきら棒に差し出した。 僕と彼は同時に同じような顔で涼宮さんを見た。さらに、完全に傍観者体勢になっていた彼の口から出た声は動揺しているのかかなり裏返ってしまっていた。 「はあ?!俺もなのか!」 「あったりまえでしょ!」 ぐずぐずしないの!といっぱいに開いた手を身体を捻って彼に伸ばし、彼はその白い指先をじっと見詰める。逡巡するのが表情からも動きからも読み取れてなんだか微笑ましかった。数秒して涼宮さんの強い視線と目を合わせてしまったらしい彼は、渋々彼女の手を握り。彼女はそれはそれは満足そうに頷いた。 「ほれ長門。お前も来い」 「・・・・そう」 彼女と手を繋いだ彼は、開き直ったのか迷い無く空いた手を長門さんへと向け、彼女は真っ直ぐ見上げた彼が無言で頷くのを確認してからそっと指先を絡ませた。 「この年のやつがやるもんじゃないぞこれ・・・」 横に並んで道を塞いでいるのを咎める人影はないようだったが、それにしたってこれはさすがに恥ずかしい。 機嫌よくぶんぶんと腕を振っている彼女は気にも留めていないようだったが、僕と彼は周りを落ち着き無く確認していて、朝比奈さんは小さな身体をさらに縮込ませていた。 「どこまでこのままでいるつもりだ」 「どこって、駅まで」 「ちょっ、おいおいマジか?!それはさすがに御近所を歩けなくなる!」 「うっさいわねえ。じゃあ坂が終わるとこまでね」 有難い彼の反対に、涼宮さんも本気ではなかったのだろう、承諾してくれた。 けれどこの坂の終着点はまだまだ先で、それまでにはきっと誰かにこの光景を目撃されてしまうんだろう。この際だから彼女を見習ってこの状況を楽しんでしまおうか。 夕日が橙色を坂一面に塗って、長く濃い影が僕らについて来る。涼やかな風に彼女の鼻歌が混じって、共に坂を下っていく。繋いだ両手を大きく振って歩く姿はまるで小さな子供のようだ。 あと何回この坂を下るんだろう、そんなことを思って少し感傷的になる。 「なんか良いですね、こういうの」 先ほどまで赤面していた彼女の嬉しそうに変化した微笑みに大きく首を縦に動かした。確かに、悪くない。 いつの間にか彼も眉間の皺を解いていた。諦めと同時に感覚も麻痺してきたに違いない。知り合いに見付からなければそれでいい、くらいの軽い気持ちにはなっているだろう。 「決めたわ!!」 「・・・っと、」 「こらハルヒ、突然止まるなッ」 中心の涼宮さんに急ブレーキを掛けられて、僕らは歩く勢いを殺せず前につんのめってしまった。咄嗟に出来た事と言えばぐっと足を踏み締めて耐えることぐらいであったが、朝比奈さんまで巻き込まなくて済んだのだから良かった。彼女に転ばれても両手が塞がっているこの状況では対処のしようがない。 そして彼の声など耳に届いていない様子の彼女は、晴れやかな表情で夕暮れの空気を吸い込むと高らかにこう、叫んだ。 「今日をSOS団記念日にします!!」 声はどこにも吸い込まれずに僕らの耳に響いた。 胸を張って立つ彼女の双眸は真っ直ぐ正面、マンションや木々の間から覗く赤い空、それよりもっと先までを見据えていた。 彼女には僕が目を凝らしても見えないその先が見えるのだ。 「毎年この日に集まるの。どんなに忙しくてもこの日だけは絶対空けときなさい。団長命令!」 ふん、と鼻息も荒く言い切った彼女は「でもあたしが召集掛けた時はいつでも来るのが当然だけどね!」と普段の彼女らしい物言いをした。 「いいかもな、それ」 「あらキョン。珍しく聞き分けが良いじゃないの」 SOS団において団長を止める係にある彼は、今日ばかりは僕よりも早く彼女に賛同した。 僕にも反対する理由が見当たらない。彼女の機嫌を取る役割など関係無く僕自身の正直な気持ちで頷いた。 「ええ。とても良い案かと」 「・・・・いい」 続くように長門さんまでもが小さく頷いて、涼宮さんはでしょ?!と身を乗り出して長門さんを覗きこんだ。 嬉しさに跳ね回ってしまいそうな勢いに僕の手首が蔑ろにされている。少し痛かったのだが指摘するのは止めておいた。 だが反対側、つまり僕の側に頭を捻った彼女は、何かを見て、終わりかけの電球のように瞳の光を弱らせていった。眉を軽く寄せて首を傾けてそっと声を掛ける。 「みくるちゃん?」 「えと、あ、あたし・・・あの・・・」 彼女が見たのは俯いたまま今にも涙を零しそうな朝比奈さんで、その心中を知らない涼宮さんはそれ以上言葉が出てこないらしかった。 朝比奈みくるは涼宮ハルヒの卒業と同時に未来に帰る。それは規定事項であろうし、今更何をしても変わる事は無い。 彼によれば数年先の彼女は時間遡行を行いこの時間平面にやって来るとのことだが、今の彼女はそれを知らない。現在の彼女にとって未来に帰ることは今生の別れと同じだ。だから彼女は頷けない。嘘の付けない口下手な彼女は唇を噛んで首を振る覚悟をしようとしている。 彼女は重要な役目を持つにしてはどこか抜けていて、仕事をこなすにはあまりにも優しい。彼女にもこの場所への執着は生まれているはずで、だがそれは生まれてはならないものだったのだ。僕と同じように。 「大丈夫ですよ。一年に一回です。それぐらいなら「仕事」が忙しくても「都合」付けられますよ」 「・・・古泉くん」 『それぐらい』でないことぐらいは重々承知だ。些細な干渉が未来に大きな影響を齎すのならば、彼女は役目以外の理由で過去に戻ることなど許されはしないだろう。それでも、気休めぐらいは言ったところでバチは当たらないはずだ。励ますことくらい、ほんの小さな可能性を信じる事ぐらい許されるはずだ。 「そうよ!なんだったらみくるちゃんの上司に掛けあってやってもいいわ!!」 「そうですよ。無理でもなんとかしますって。な?長門」 「・・・・・・可能」 誰か一人でも欠けたらならないのだと僕らは信じている。 甘い考えだと分かっているし、子供じみた我侭だとも僕らは感じている。 それでもいつだってこの場所に帰ってくるのだと、確信もしているのだ。 「はいっ・・・はい・・・っ頑張りますっあたし・・・っ」 ついに零れ落ちた涙を拭いながら、何度も何度も彼女は頷く。いつかちゃんと帰ってきます、としゃくり上げる。 涼宮さんが始めに手を離して朝比奈さんに掛け寄った。いつものように抱きしめても彼女は抵抗せず、頭を撫でる掌を甘受して泣き続ける。僕らは無意識に繋いでいた手を離していた。 坂は、終わっていた。 「不思議ですよね」 僕達はすっかり定位置に戻って、目の前の三人を視界に入れて歩いている。 彼は相槌さえ打たなかったが、聴いてくれているのは分かっていたので気にせず続けた。 「いま、心からこの世界を愛しいと思っています」 「必死に守り続けていたときよりも、ずっと」 目を真っ赤に腫らした朝比奈さんが恥ずかしそうに笑っていて、涼宮さんがその頭をぽんぽんと撫でてやっている。 珍しくも長門さんが朝比奈さんの右手に回り、中心は涼宮さんではない。 僕は立ち止まる。彼が不審そうに少し前で振り返る。 「僕は、この景色を守りたい。ずっと、見ていたい」 世界を崩壊から守る力はもう僕にはなく、どこにでもいる無力な人間でしかない。 それでも超能力を使えた時よりも強い気持ちで、僕はここにいる。 涼宮さんがいて、長門さんがいて、朝比奈さんがいて、彼がいるこの場所に。 「お前、腕出せ」 「は?」 「だから前に、こう」 割って入るような彼の言葉に従うまま、僕は右手を持ち上げて正面に向ける。自分の指の隙間から彼女達がちらちらと見え隠れしている。一体彼は何をどうしたいのか。 「お前、さっきの景色に自分が入ってなかったろ」 「・・・・・あ」 ちゃんと自分も入れとけ、と上げた腕を叩き落とされて「確かにそうだ」と僕は笑った。 歩き出した彼を追い掛けて横に並ぶと、いつも以上に気色悪いぞ、と顔を顰められた。おそらくは僕が緩んだ顔をしているせいだろう。自分でもよく分かっている。 「神さまがいなくなったら、残った世界はどうなるんでしょうね」 「別に変わらんだろう。思い通りにならないのも、奇跡が起こらんのも、今までと同じだ」 彼は躊躇うこと無くそう言ってのけた。そういう彼の強さはいつだって眩しい。 「神さまのいない世界も、ちゃんと美しいままならいい」 あのとき、触れ合って、キスをして、セックスをして、それでも彼の事は嫌いではなかった。 もう、触れ合うことも、キスをすることも、セックスをすることもないけれど、それでも彼の事を愛しいと思っている。 どっちだって構わないのだ。結局は同じ事で、彼が隣にいて満足している自分がいるだけの事だ。 遠い先の事なんて見えやしないのに、少し先が明るいから僕は不安を忘れてしまう。 「大学に入ったら敬語やめようかと思うんですけど」 「好きにしろ。今更でキモイような気もするが別に止めないぜ、俺は」 ひどいなぁ、と笑ったら、彼は冗談だ、とくしゃりと笑った。 反則、だ。 END 最終話です。こんな風にみんなずっと一緒にいられればいい。ここまでお付き合いくださって有り難う御座いました。 (07/09/10) |