衝突と即興












 陽がのぞき星の瞬きが溶けてゆく。カーテンのない窓からは夜明けがすぐに知れて、イースト・トーキョー・ユナイテッドの達海の部屋であるところの元倉庫は目覚めた。
 ただしあるじである達海はあずかり知らぬとばかりに目蓋を閉じたままで、いつも広報の永田有里に蹴倒されながら起きるのだけれど、今日はそのベッドで身を起こしている男がいた。
 線の細い輪郭とは空気の違う堅い肩まわり、厚みのある胸はなにも身につけてはおらず、表情は白い。黒目の大きな目を大きく見開くが、写るものを理解できているのかどうか、果たして目に写っているのかもわからない様子でこわばっている。
 椿大介は自分の体に申し訳程度にかけられたガーゼケットのしわを見た。くしゃくしゃに汗を吸ったであろうそれの終点は隣の体に続いている。
 そしてわが身の左側は、あきらかに人が眠っているであろう体温がじんわりと肌を慣らし、すうすうと寝息がくすぐるのだ。
 椿は緊張に乾きはじめた口の中でごくりと喉を鳴らした。外の喧騒も物音もない部屋に響いた音に、椿は固まった頭を少し揺らし、部屋を見回す。
 見覚えのある乱雑さは寮の部屋を思い出させるが、さすがにロッカーまではない。整理されないまま放置されている段ボール箱に、無造作に重ねられた服やネクタイ。小さなテーブルの上はあちこちに角を向いた紙の束と飲みかけのドリンクがそのままにされており、ひょいとあるじがこの部屋に戻ってくるのではないかという風情だ。
 しかし、それはないことを椿は理解していた。ドリンクを開け、資料をいちまいいちまい目を通し読み返した者、散らかしたベッドのへりにひっかけられた、カーキ色のジャケットの持ち主こそが、自分の隣に眠っている達海猛なのだから。
 椿は細く息を吐き、おそるおそる左側をのぞき見ると達海は仰向けの体に小首をこちらに傾げて寝息をたてている。椿とそう変わらない身長だが、現役をはなれその役目を終えた組織は息を潜め、意志だけが背骨を伸ばさせた体は薄みで無駄がない。
 明るい色の髪は寝ぐせがあっちこっちについて、生え際には汗で張りついている。形のいい耳にかかる毛先がくすぐったそうで、椿はつい手がのびた。
 髪をひろい、耳の後ろによけると行儀よく揃えられた爪がふちに触れた。椿は慌てて手を引くが、達海はううん、と身じろぎをして頭を逆のほうへと傾けた。
 椿は緊張から汗が浮き出すが、裸の体はすぐに気化させる。その冷えは時計のない部屋でもいつかはしかるべき時間がきて達海も起きてしまうということを思い出させた。
 積載量を超えたベッドは静かに椿を解放できず、達海の様子をうかがいながら椿は床に足をつける。するとそこに見覚えのあるシャツとパンツが今脱いだというように落ちていて、椿は片手でまとめて掴んだ。まず部屋を出ることが先決だ。
 しずかにノブを回し、ドアを閉める。椿はベルトのバックルの音にもびくつきながら服を身につけ、裸足のままエントランスにあるスニーカーをつっかけてクラブハウスを出た。



 駐輪場へ行くと、椿の自転車が事務所のものや置きっぱなしのママチャリに混じってあった。夜の自主練習でしのびこむグラウンドへも自転車に乗ってくるから、椿は夜練のときになにかあったのか? と昨晩の記憶を掘り起こしだした。
 グラウンドでの自主練習が達海にばれたのはまだ長袖のジャージを着ているころで、達海がコーチやほかの誰にも言わなかったためになんとなくふたりだけの秘密のようになっていたのだ。
 達海は下調べや作戦を練ることに煮詰まると、グラウンドへ出てくることがある。するとそれまでのびのびとイメージトレーニングに励んでいた椿が途端にがちがちになり、達海が金網越しに渋い顔をする、というのがひとつの流れだった。
「それが、どうして部屋に」
 しかも、ハダカで。椿は朝早く交通量が少ないのをいいことにギアを上げスピードを出す。
 あ、でも。
 椿はマドラスチェックのプルオーバーにベージュのチノパンツといういでたちだ。これでは練習というわけにはいかない。どこかメシへでも?
 順序良くなりゆきを整えようという頭とは別に、胸の奥はべつの熱さがよみがえってくる。起きてから一度も水分を取らずに乾いたままの唇が触れた他人の温度、汗ばんだ肌とその汗の甘さ、文字どおり、身を絞られるような快感。覚えてはいないことの辻褄よりも、二人分の汗を吸った湿り気ののこる狭いベッドという現実味が椿を平静から戻せないでいるのだ。
「……っちゃった、いや、やった。断じて、した」
 夢のような温かさと痺れるような切迫。椿だってまるで想像もしたことがない、というわけではもちろんない。ただそれが、いわば自分の上司とかにあたる筋であろう達海に教えてもらうことになろうとは。
 細い首に張りでた喉仏、深く浮き出た鎖骨、薄い肩。それまでジャケットに、シャツのなかにあったそれらをひとつひとつ鮮明に思い出せるのは、この手が触れて、撫ぜまわしたからだ。もっと、もっとと汗に混じりあった肌に攣れて離れがたくなってゆくてのひら。掴んだ腕の息詰まる細さも。
 一時間ほどスピードにまかせてペダルを回し、椿は寮へ帰った。午後からの練習である今日はどの部屋も静かで、椿はほっとして部屋へ戻った。